扉を開けると、高岡先生の姿は見えないが、部屋の奥からガサゴソと何かを探るような音がした。
「香さん、呼びつけてすまないね。今持って行くから少し待ってくださいよ」
段ボールの山の向こうから高岡先生の声が聞こえた。しばらくすると小さなキャンバスを持って先生は現れた。
「これ、香さんの絵でしょう?」
長方形の小さなキャンバスには飼い猫のとろろが描かれていた。
「ああ、そうです、私のです。うわ、懐かしい……三年生の文化祭の時に描いた絵です。四年前だから、猫も少し若いですね」
笑ながら絵を受け取った。一ノ瀬は私の隣で絵を何度も覗き込むように見て、なんだか不思議そうな顔をしている。
「どれ、持ち帰りやすいように梱包してあげましょう」
先生は準備室の備品を使って、手際よくさっと絵を梱包してくれた。先生はさらに段ボールの山から何かを取って来た。
「そうそう、文化祭で使った、キャプションもあったんですよ。それも一緒にどうぞ、浜木綿さん」
高岡先生は言いながら、日焼けして色あせたキャプションを差し出した。
「ハマユーさん?」
一ノ瀬が疑問符をつけて首を傾げると、先生は「あ!」と叫んで額に手を当てた。
「すみません、今は澤村香さんでしたね。キャプションの文字に釣られてうっかり。教育実習が終わったら気が抜けてしまいましたね。申し訳ない」
「いえ、気にしてません。キャプションもありがとうございます。実習ではご迷惑をたくさんおかけしましたが、色々とありがとうございました」
私が改めて先生に感謝を述べると、先生は高校時代から変わらない優しい笑顔で応えてくれた。
「これからも元気で頑張って。機会があれば教育現場にまた来てくださいね。そして、どんな形でも、絵を描き続けてください」
「はい……本当にありがとうございました!」
深く一礼をして、美術準備室を後にした。懐かしいこの部屋とも、先生とも今日で本当にお別れだ。切ないけれど、どこか晴れやかな気持ちになる。辛くて、苦しくて、大嫌いだったこの母校で、こんな清々しい気分になれる日が来るなんて思ってもみなかった。
高校時代の忘れ物を、心残りを、大人になってようやく持って帰ることができたみたいだ。
「ねえ、ハマユーって前の名字?」
再び玄関に向かって歩きながら、一ノ瀬が私に尋ねた。
「うん、そうだよ。高三の二学期までは浜木綿香だったんだよ」
「ハマユウカオリさんか……澤村香さんからスタートした俺には新鮮な響きだな。別人みたいだ。珍しい名字だよね。どんな字を書くの?」
「えーっとねサンズイの浜に、次は普通のキで」
「キ?ユウはどこ行ったの?」
「いや、だから三文字の名字で、えーと……説明すごく下手だ。あ、そうだ!」
説明に苦慮している内に生徒玄関の前まで来ていた。私はそこで思いついて立ち止まると、もらったばかりの古びたキャプションを取り出した。そして、それを一ノ瀬の前に掲げよるように見せた。
「漢字三文字で浜木綿って書くんだよ」
浜木綿香。
キャプションには私の昔馴染んだ名前が印刷されている。
「え……」
キャプションを見せると一ノ瀬は、石みたいに固まった。動揺した様子で、キャプションの名前を何度も確認する。
「嘘、本当に……?これ、ハマユウって読むの⁉」
「うん、植物の名前なんだって。ていうか、そんなに驚く?」
「だって……だって、俺はずっと、ずっと……浜木綿香を、ハマキメンカって読んでたんだ」
「ハマキ……?え、何の話?」
「ここに飾ってあったでしょ⁉」
一ノ瀬は生徒玄関前の広々とした壁を指差す。そこには今年県の美術展で受賞した美術部員の作品が掲げられている。この壁には毎年、美術部の絵の中でもコンクールなどで賞を獲った絵が飾られるのだ。高校生の時、私の絵もここによく飾られていた。
「ハマキメンカ……いや、浜木綿香の絵が飾ってあった。俺は君の絵に救われて、ずっと浜木綿香に会いたかったんだ!」
私は事態を飲み込めずに、目をぱちぱちさせて瞬きを繰り返す。
「ほら……俺の携帯の壁紙見てよ!卒業してからずっとこれだよ⁉」
一ノ瀬は携帯電話の画面を私の目の前に突きつける。端末のロックを解除していない、時刻が表示された状態だ。その壁紙は、私のよく知っている画像だった。
「これ、私の……どうして?」
困惑した顔で私は一ノ瀬を見つめ返す。彼の携帯電話の壁紙は、私が高校三年生の時に描いた絵だった。タイトルは、幸せな記億。
今、立っているこの場所に四年前、その絵は飾られていた。