***
木曜日、ついに研究授業当日になった。
緊張して、いつもより早く登校した。そのおかげか、ロッカーにゴミは入っていなかった。昨日も、一昨日も室内履きはゴミまみれになっていた。昨日の嫌がらせで、佐々木も満足したのだろうか。そうだといいのだけれど。
いつも通り一年生の教室に行った。朝のホームルームをして美術室に向かった。研究授業は二時間目にあるので、授業の無い一時間目のうちに準備をする。生徒に配るプリントを教卓の上に用意し、パソコンとプロジェクターを起動してスクリーンに授業用のスライドを投影する。準備は万端だ。コンコン、と音がして振り返ると、教室の扉を律儀に一ノ瀬がノックしていた。
「澤村さん、おはよう」
一ノ瀬は美術室に入って来ると、教室を見回す。
「おはよう、一ノ瀬くん。どうしたの?」
「いや、今日は澤村さんが研究授業だからちょっと心配で見に来た。昨日、あんなことがあったしね」
「今朝は珍しく何もなかったから、もう大丈夫かも。佐々木さんだって明日、研究授業のはずだし、私に嫌がらせしてる暇はもうないはずだよ」
「そうだといいんだけどね。俺も明日、研究授業だなあ」
「一ノ瀬くんは、二年生のクラスで研究授業するんだよね?」
「うん、作曲の授業してるんだ。明日はその演奏会。結構、おおっと思う曲とかあってすごい楽しい。授業なのに、俺が多分一番楽しんでる自信ある」
「楽しそう、見に行くね。一ノ瀬くんは私と違って、先生に向いてそうだよね」
「そう?澤村さんも向いてると思うけど。真面目だし」
「真面目って言うか、要領が悪いだけだよ。ああ、どうしよう、緊張してきちゃった。私、大きい声出すの苦手だし、教室の後ろに立つ先生まで声届くかな⁉」
「じゃあ、俺後ろまで行くから試しに話してみれば?」
一ノ瀬は言いながら教室の後ろまで下がった。私は適当に教科書の文章を読んでみせる。
「どう?聞こえる?」
「んー、生徒がいるとざわつくから、もう少し大きい声が良いかな。あ、動画撮ったら分かるかも」
一ノ瀬は携帯のカメラを起動して、教室後方の棚の上に置いた。私はもう一度、先ほどより声を貼って教科書を読んでみる。一ノ瀬のもとに駆け寄って、録画した動画を見せてもらった。
「あ、思ったより声が小さい……ていうか、私こんな声なの?なんか変……」
「自分の声を録音すると必ず思うよね」
「緊張で無意識に髪の毛触っちゃってるのも気になるな。結んでおこうっと」
私はヘアゴムで長い黒髪をさっと一つにまとめた。その様子を一ノ瀬がじっと見つめている。
「見過ぎだよ」
「綺麗な髪に目が無くて」
「髪フェチだからってそんなまじまじと見ないで下さい」
「おろしてるのもいいけど、結んでもいいね。俺、もっとこう高い位置で結ぶやつ、ポニーテール?好きだな!」
「あなたの好みは一切聞いてないです」
一ノ瀬と下らないやり取りをしていると、緊張が少しほぐれた。もう一回撮影しようか、と一ノ瀬が携帯のカメラを録画モードにして棚にセットしていると、準備室から高岡先生が顔を覗かせる。
「澤村先生、準備どう?おや、一ノ瀬先生もいたのかい」
一ノ瀬は高岡先生にお邪魔してます、と会釈する。
「さっき、音楽の静先生が君を探していたよ?」
「え、本当ですか!やばい、すぐ行かないとまたしばかれる!あー、何だろう?誤記でもあったかなー⁉それじゃ、澤村さん、頑張って!」
一ノ瀬は大騒ぎしながら、廊下へ駆けて行った。高岡先生は「騒がしい子だね」と苦笑していた。
「それで、研究授業の準備はどう。問題ないかい?」
「はい、後は私がちゃんと授業するだけです。それが一番、難題なんですけど」
「ははは、緊張しているね、澤村先生。失敗も成功も、今後の糧となりますよ。気負い過ぎずにね」
「……頑張ります」
「君の授業で描いている生徒たちの作品を見ましたが、良い作品が多かったですよ。自信を持って。ああ、そうだ。研究授業で先生方に配る指導案をコピーしないといけないんでした。印刷したものはあるかな?」
「あっ、忘れてました、すいません!修正前のものしか、出力したものは手元になくて……」
「データは学内サーバーにあるんだね?じゃあ、職員室の共用パソコンで出力して、人数分コピーすればいい」
「分かりました。共用パソコンって、職員室のどのあたりにありますか?」
「ああ、ちょっとわかりにくい場所にあるからね、僕も職員室に用事があるから一緒に行こうか」
「すみません、ありがとうございます」
一時間目が終わるまであと三十分しかない。高岡先生と美術室を離れ、職員室へ移動して指導案を印刷し、コピーした。高岡先生は管理職に呼ばれて話し込んでいたので、私は先に指導案の束を抱えて職員室を出た。腕時計を見ると、あと十分ほどで一時間目の授業が終わる時間になっていた。私は急ぎ足で美術室に戻った。
教室に入った瞬間、何かを踏んでじゃり、と不快な音がした。ぞっと、肌が粟立つ。下を見るのが怖い、でも見ないと。恐る恐る視線をゆっくりと足元に落とす。小さな硝子の破片のようなものが散らばっている。視線を横に動かして、すぐに悟った。
ああ、私は油断していたんだ。
教卓のすぐ横に、ノートパソコンが落ちていた。ちゃんと、教卓の上に置いてあったはずだ。学校の備品でもあるそのパソコンは床の上でひっくり返っていた。画面が割れて、飛び散っている。落ちただけで、こんな壊れた方をするとは思えない。そもそも、落ちるようなところに置いていない。
絶望と怒りが綯い交ぜになって、私の思考も体も動きを止めていた。数秒して、時計を見あげた。もう数分でチャイムが鳴る。休み時間は十分間。あと十数分で、授業ができるようにしないといけない。私の授業は、基本的に板書は補助程度で主にスクリーンを使って授業をする。それなしで今から板書と口頭で授業をするには内容を授業大幅に変更しなければならない。その前に備品のパソコンを壊したことを報告しないといけない。
一体、何から手を付けたらいい。焦りで頭が回らない。その場に座り込んでぐるぐると考えていたら一時間目の終了を告げるチャイムが鳴った。
ああ、時間が無い。どうしよう、どうしよう。
「澤村さん!」
後ろから声がして、振り返った。私にとって今、一番安心する声がした。声を聞いただけで、涙が込み上げてくる。
「……一ノ瀬くん」
涙目で振り返ると、一ノ瀬は美術室に駆け込んできた。私の真横にしゃがんで、壊れたノートパソコンを見てわずかな時間、絶句した。すぐに時計を確認して、座り込んでいた私の手を取り、引っ張り上げる。
「しっかりして!あと十分しかないんだから、座ってる暇も泣いてる暇もないよ!」
半泣きの私の肩をパンパンと叩いて、彼は私に喝を入れた。
「うん……ごめん、ありがとう!」
目じりに溜まった涙を拭って、私は気持ちを切り替える。一ノ瀬は「ちょっと待って、誰か他にいないかな」と廊下を覗くと大声で叫んだ。
「あっ、飯森!ダッシュでこっちに来て!早く早く!緊急事態!」
一ノ瀬が呼ぶと、タタタタと軽やかに走る足音がした。飯森が「どうしたの⁉」と美術室に飛び込んできた。
「ぎゃっ!何これ、何があったの⁉まさか……」
「確証はないけど、そのまさかだと思う。ちょっと不在にして戻ってきたら、こうなってたの」
「ここまでするなんて……!」
憤慨する飯森の横で一ノ瀬は「やっぱりか……」と呟いていた。
「とりあえず、授業できるようにするのが先決だ。飯森はここ片づけるの手伝ってあげて。澤村さんは高岡先生が来たら状況説明してね。俺は、情報室に行って代わりのパソコン借りてくるから!」
一ノ瀬は言うや否や、教室を飛び出して走って消えていった。飯森に手伝ってもらって、壊れたパソコンの破片を片づけていると、高岡先生が戻って来たので急ぎ事態を報告した。先生はパソコンの無残な姿を見ると驚いて目を丸くする。
「どうしてこんなことに……いや、もう時間が無い。詳しい話は後にしましょう。今は授業が大事です」
そのうち、副校長や教頭など管理職の先生がやって来て、高岡先生と共にパソコンのことを報告すると、教頭は言葉を無くし、副校長は怒り心頭で大声で「どういうことだ!」と怒鳴った。高岡先生が私を庇って「詳細は授業の後にしましょう」と宥めてくれるが、副校長の怒りは収まらない。お叱りを受けている間に、見学に来た実習生たちが教室に入って来る。叱られている私を見て、皆一様に驚いていた。ただ一人、佐々木を覗いて。
佐々木はひどく愉快そうに、叱られる私を見て悦に浸った笑みを浮かべていた。
休み時間が終わりに近づいて、生徒たちが教室に入ってくると副校長は仕方なく後ろへ下がった。
ああ、もうすぐチャイムが鳴ってしまう。
その時、廊下からノートパソコンを抱えた一ノ瀬が教室に戻って来た。ありがとう、と言いながらすぐに受け取って、パソコンを起動した。機器への接続などを一ノ瀬が手伝ってくれる。私は学内サーバーにアクセスして、念のため保存しておいたバックアップのデータを開いた。ようやく、スクリーンに授業用のスライドが映し出される。それと同時に始業を知らせるチャイムが鳴った。一ノ瀬は小声で「がんばれ」と囁くと教室の後方へ下がった。
焦りと緊張で鼓動がうるさいくらい響いている。その早まる心臓の音は聞こえないふりをして、私は教卓に立った。深くすっと息を吸い込んだ。
「それでは、授業を始めます」
何事も無かったかのように、穏やかな笑みを浮かべて言った。それが今の私に唯一できる佐々木美希への小さな反抗だった。
授業が始まると、時間はあっという間に流れていった。
出席を取り、前回の授業を振り返る。そのあとは、陰影のつけ方や、線のぼかし方など作品の仕上げ作業についてスクリーンで画像を見せながら、そして実際に実演もして見せて説明した。製作途中の作品を生徒に返却し、しばらく時間をとって作品を描き上げてもらう。その間、私は机間巡視をして、生徒の作品をチェックしながら、助言して回る。作品が仕上がると、座席の近い者同士で互いの作品を鑑賞する時間をとった。
必死で授業をしている内に、時間はもう残り十分もなくなっていた。
「皆さんの自画像を見て回りながら、特に良いなと思ったものをカメラで撮影しました。恥ずかしいかもしれないけれど、勉強になるのでスクリーンに投影しますね」
スクリーンに作品が映し出されると、作者の生徒は「俺のじゃん!」と照れ笑いする。
「吉田君の作品です。力強くていい線で描けていますね。絵の中の君は変顔してるけど、これはどうして?」
「んー……澤村先生が絵だから伝わることがあるって、最初の授業で言っていたから。自分らしさ、的な?そういうのを出そうかなって思って。描いてるとき、変顔キープしなきゃいけなくて、顔が筋肉痛になりました!」
お調子者の吉田らしいコメントに生徒たちからどっと笑いが起こる。
「素晴らしい発想ですね。絵を描く過程も含めて吉田君のサービス精神旺盛なキャラクターが現れていていいと思います」
次の画像を映し出すと、前方に座っていた女子が恥ずかしそうに「やだ、あたしだ……」と迷惑そうに呟いて俯いた。映し出された作品は女子生徒が怒った顔で描かれていた。
「清水さんの作品です。ごめんね、恥ずかしいかな?でも、すごくいいなと思ったので、紹介させてください。清水さんの作品はすごく丁寧に描かれています。まつ毛の一本一本まで、よく観察して描いたのが近くで見ると分かりました。清水さんに質問なのだけれど、どうして怒っているのかな?」
清水は恥ずかしそうに両手で顔を押さえていたが、躊躇いながら小さな声で答えてくれた。
「自分の顔が……嫌いだからです。ブスだから。絵だと加工できないし?」
「そっかあ……清水さんは最初の授業でも、鏡を見たくない、自画像嫌だなって言ってましたよね。でも、ここまで丁寧に描くにはきちんと鏡を見て、自分の顔を観察したと思います。描いて見て、心境の変化はありましたか?」
「ブスだなって実感が深まりました」
「え⁉う、うーん、そっかあ……」
清水は本人が言うような醜い容姿ではない。けれど、彼女には容姿に並々ならぬコンプレックスがあるようだった。なんとコメントを返せばいいか、迷っていると「でも」と彼女は自分から言葉を続けた。
「先生、最初に言ってたじゃん?嫌になるくらい、鏡で自分を見てって。それで鏡で自分の顔をじっくり見てたら、色々気付いたんだよね。あたしの鼻は母親に似てるな、とか。目は父親に似てるんだな、とか。口元なんかよく見たら、死んだばーちゃんにすごい似てるって初めて思って。自分ってこんな顔なんだ……ってなった」
ぶっきらぼうに話していたけれど、彼女の表情が徐々に柔らかくなった。
「自分の顔、あんまり好きじゃなかったけど、ずっと見てたらちょっとだけ自分の顔好きになれそうな気がした。ほんの少しだけど」
彼女の話を聞いていると、嬉しくて頬が緩んだ。清水は私をまっすぐ見つめて、問いかける。
「澤村先生が言ってた、絵にして初めて分かることってこういうこと?」
私は満面の笑みで「大正解です」と頷いた。
辛かった今日の出来事が、この子の導き出したたった一つの正解で報われるような思いだった。
最後に軽く授業の内容をまとめて、チャイムと同時に時間ぴったりで授業は終わった。休み時間になって生徒の作品を集め、生徒が教室から出て行くとすぐに管理職の先生たちが私のところへ詰め寄って来た。
「壊れたパソコンの経緯、しっかり説明してもらおうか!学校の備品はタダではない!それもパソコンなんて高額の備品を実習生が壊すなど……前代未聞だ!」
「ま、待ってください。私は壊してません!きちんと教卓の上にパソコンを置いていました。戻って来たらパソコンが壊されていたんです!」
「言い訳は結構!パソコンが勝手に床に落ちて壊れたとでも言うのかね⁉もちろん弁償してもらうが、こんなことをして実習の単位をもらえるとは思わないでくれ!」
「そんな……」
「副校長、待ってください!僕は直前まで澤村先生とこの教室にいて、パソコンの状態も見ていますが、確かに彼女の言う通り、しっかり教卓の上に置いてありました」
「高岡先生!教え子だからと庇われては困ります!」
困り果てる私の横から高岡先生が援護するが、副校長は聞く耳を持たない。教頭は黙って考え込んでいる。口論している様子を遠巻きに見学していた実習生たちがひそひそ話ながら見ていた。佐々木は私が責められるほど、愉悦を感じた表情を浮かべていた。飯森は心配そうに私に視線を送っている。心細くて一ノ瀬の姿を探している自分がいた。長身で目立つはずなのに一ノ瀬の姿が見えない。ちら、と視線を動かすと一ノ瀬は教室後方の棚の近くで隠れるように何かしていた。
「聞いているのか!」
副校長の怒鳴り声に私はびくりと肩を震わせて、反射的に頭を下げる。
「すいません、でも、本当に私じゃないんです……」
見えないけれど、きっと佐々木はこの姿を見てせせら笑っているのだろう。悔しくて、唇を噛みしめる。
十分の休み時間が終わって、再びチャイムが鳴る。すると、高岡先生が私と副校長の間に割って入った。
「副校長、とりあえずその話はここまでにしましょう。検討会の時間です」
高岡先生に何度も促されて、副校長は渋々、身を引いた。教室の机をロの字に並べ替えて、教員とその後ろに実習生が座り、検討会が始まった。
パソコンのこともあって、殺伐とした空気で検討会は進んでいく。まずはそれぞれの教員から授業の感想や気になった点が述べられる。その後、質問や改善点の指摘がなされる。
「仕上げ作業の説明のスライドで気になるところがあったのですが、表示してもらえますか?」
「はい、今表示しました。」
「そうそう、このスライドの画像の部分なんですが……」
授業についてたくさんの質疑応答があり、その度に四苦八苦しながら応答した。想像通り、ダメ出しの嵐だった。けれど褒められた部分もあった。最後の作品紹介だった。
「最後の吉田君と清水さんの作品にスポットを当てたのは素晴らしかったですね。彼らの話を聞いて、自分の作品を改めて見返した生徒もいたんじゃないかと思います。彼らからあの素敵な感想を引き出せたのは、澤村先生が初回から丁寧に生徒の気持ちに寄り添って授業をしていたからだと私は感じましたよ」
家庭科の見るからに優しそうな中年の女性教員は私を励ますように優しい口調で言った。高岡先生もその言葉を聞きながら頷いていた。
「もうすぐ終了時間ですね。最後に質問や意見はある方は挙手を」
高岡先生が時計を見ながら言うと、すっと手が挙がった。手を挙げていたのは、佐々木美希だった。誰もが驚いた顔をする。何故なら、検討会では基本的に実習生はオーディエンスで発言をしないからだ。
「えーと……佐々木先生、だったかな?」
「はい、質問があるんですけど、いいですかぁ?」
佐々木は私を見て、嘘くさくて愛らしい笑みを浮かべる。
「澤村さんが授業前にパソコン壊しちゃったってきいたんですけどぉ、なんで壊しちゃったんですかー?」
私は怒りで机の下で握った拳は震えていた。言葉が出てこなかった。
「その件について、発言させてください」
唐突に一ノ瀬が挙手した。場はさらにざわついた。私は一体何をする気だろう、と不安でいっぱいの顔で一ノ瀬を見つめる。一ノ瀬は立ち上がり、話し始める。
「本当は検討会が終わってから、管理職の先生方に相談したかったんですが、佐々木さんが質問したので、この場で話をさせてください」
「ちょっと、待ちたまえ、君!実習生が勝手に発言をするなど」
「すぐに終わります、だから聞いてください!」
一ノ瀬は副校長の言葉を遮って強引に話を続けた。
「研究授業の前、私は澤村さんとこの教室で授業の練習をしていて、練習のために教卓を撮影していました。撮影途中で、私は急用で教室を出て、うっかりあの棚に置きっぱなしになっていたこの携帯電話は録画モードのままでした。動画を確認したら、パソコンが壊れた瞬間が映っていました」
会場が騒めく。一ノ瀬はプロジェクターに携帯電話を接続するとスクリーンに動画が投影された。動画を早送りすると、私と高岡先生が美術室を出て無人になり、しばらくすると人影が教室前方の扉から入って来るのが映し出された。一ノ瀬は早送りを止めて、通常再生に戻した。その人物は、美術室に侵入して教卓に近づくと、ノートパソコンを持ち上げて迷いなく床に叩き落とした。一度落としたくらいでは壊れ方が軽微だったのか、その人物は美術室の備品から木槌をとってノートパソコンを叩き壊した。そして、木槌を戻すと教室からそそくさと去っていた。
その動画を見ていた人たち全員が息をのむのが分かるくらい、教室は静まり返っていた。全員の視線が、たった一人に集まる。
「これは……どういうことですか、佐々木先生」
副校長に名指しされた佐々木美希は、顔面蒼白で固まっていた。血の気を失った顔で、唇をカタカタと振るわせて「ちがう」と呟く。
「ちがいます、ちがうんです……私じゃない。こんなの、合成です。ねえ、違うよねえ⁉」
彼女は隣に座っていた実習生たちに同意を求めるが、誰も彼女と目を合わせようとはしなかった。一ノ瀬は畳みかけるように言った。
「佐々木さんは実習中、澤村さんにずっと嫌がらせをしていました。記録も残しています」
「ちがう!そんなことしてません!黙れよ、一ノ瀬!勝手なこと言ってんじゃねえよ!」
佐々木は取り乱して怒鳴り散らすが、一ノ瀬は退かない。
「俺は説明会の日に澤村さんに一方的に暴力を振るう佐々木さんをこの目で見ています。穏便に実習を終わらせたいと言う澤村さんの意志を尊重して今まで黙っていましたが、こんなことになった以上、黙っている訳にはいきません」
「だーかーらぁ!そんなことしてないわよ!こんなの全部嘘です!一ノ瀬くんは澤村さんに誘惑されて、嘘ついてるんです!証拠もないでしょ⁉黙っててよ!」
「偶然撮影したものですが、証拠ならあります」
一ノ瀬は毅然とした態度で、きっぱり言い切ると携帯の画面を操作して新たな動画を表示した。日付は教育実習が始まる前、説明会の日になっていた。
初めは実技棟の廊下の窓から撮影しているらしい夕日が映っている。小さな声で「あれ、写真じゃなくて動画になってる」と呟く一ノ瀬の声が入っていた。そのすぐあと、「いい加減にしてよ!」と怒鳴る私の声が録音されていた。画面が揺れて、足元が映る。なんだ、と呟きながら一ノ瀬は階段を降りていく。そしてまた画面は揺れて、怒鳴り合う私と佐々木の姿が映った。
言い合いの末、私は髪を捕まれ、佐々木に突き飛ばされて、蹲ったところを蹴られている姿が克明に映っていた。佐々木が私を殴ろうと手を振り上げた瞬間、一ノ瀬が「だめだ」と焦ったように言って走り出し、画面は真っ暗になり音声だけが続いていた。一ノ瀬は動画を停止した。
「先生方、見て頂いた通りです」
先ほどまで私に怒鳴り散らしていた副校長は顔を引き攣らせて黙り、教頭は頭を抱えて唸っている。佐々木美希は決定的な動画を流されて、呆然自失で椅子に凭れかかっていた。
私も驚いてぽかんとスクリーンを見上げていたが、教頭先生に「澤村さん」と名前を呼ばれて姿勢を正して返事をした。
「今の動画と、一ノ瀬先生の言ったことはすべて事実なんですね?」
問いかけられて、私は自分のことなのに自分が何もしていないことにようやく気が付いた。ちゃんと、私の口で言わなければ。一ノ瀬にすべて押し付けてはだめだ。
この状況は、いじめから逃げ続けた私が招いたのだから。
「事実です。私は、高校生の時から佐々木さんにいじめを受けていました。教育実習の説明会で再会して、暴力を受け、その後も嫌がらせをされていました。今まで報告せず、一ノ瀬先生や他の先生にも口止めをして黙っていました。その結果、こんな事態になり……ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
立ち上がって、深々と頭を下げた。下を向いていると、涙が溢れそうだった。安堵か、恐怖か、恥ずかしさか、怒りか、悲しみか。どの感情も違うような、説明のつかない涙が込み上げてくる。頭を下げたままの私に、いつも厳しい顔の教頭先生は静かな声で言った。
「教育に携わる者として覚えておきなさい。いじめはいじめる側が百パーセント悪い。あなたが謝ることは何もありません。顔を上げなさい」
涙をぐっと堪えて、私は顔を上げた。泣かないように噛みしめた唇から、今にも嗚咽が漏れそうだった。静寂に包まれた教室にチャイムの音が鳴り響く。
佐々木美希による下らない茶番は、終わりを告げた。
その後、私と一ノ瀬、そして佐々木はそれぞれ教頭先生から事情聴取に呼ばれた。職員室で事情聴取されたあと、廊下をとぼとぼ歩いていると、憔悴しきった佐々木とすれ違った。私は黙って通り過ぎようとしたが、堪らず立ち止まり、彼女に尋ねた。
「ねえ、どうしてこんなことしたの?」
佐々木は足を止めたが、背中を向けたままだった。
「私、あなたにこれほど恨まれるようなこと、何かした?」
重ねて尋ねると彼女はがっと勢いよく私を振り返り、憎しみと怒りに染まった瞳で、私を睨みつけた。
「あんたが……浜木綿香《はまゆうかおり》が、あたしを誰か知らないからこうなったのよ」
捨て台詞のように吐いて、彼女は目の前から走り去った。
浜木綿香。
高校三年生までの私の名前。何故、彼女が最後に私を敢えて「浜木綿香」と呼んだのか、彼女の言葉の真意を知るのは少し先だった。
その日のうちに、佐々木は学校から消えた。あと一日で教育実習が終わる、その寸前で彼女は実習中止となったのだ。
彼女から一度も謝罪はなかった。
数か月後の話だが、佐々木が退学したことを知った。卒業ができなくなり、辞めざるを得なかったらしい。騒動の少し後に彼女の両親から謝罪の手紙を受け取った。それを読んで私は初めていじめの理由を知ることになった。
***
浜木綿香《はまゆうかおり》が大嫌いだった。
出会うずっと前から、大嫌いだった。
「美希ちゃんは、本当に絵が上手ねえ」
私の絵を見ると、大人は必ず褒めてくれた。小学校から絵を描くのが大好きだった。自分は誰より絵が上手いと思っていた。長くなった鼻っ柱が折れたのは中学で美術部に入った時だった。
もちろん、部内で私よりうまい人はいなかった。
このレベルなら、県どころか、全国のコンクールだってきっと私が一番になれる。本気でそう思っていた。
結果は散々だった。
県のコンクールでは二番だった。最優秀賞は、他校の浜木綿香という子だった。しかも同じ一年生。けれど、その子は中学生レベルの画力ではなかった。審査員は絶賛だった。私の絵は二番だけれど、一番との差は歴然だった。全国の絵画コンクールでは、私は入賞すらできなかったのに彼女はそこでも最優秀賞を取っていた。
悔しくて、悔しくて、仕方なかった。
それからはなりふり構わず、絵に没頭した。二年生になっても県のコンクールは浜木綿香が一番で、私は二番。全国のコンクールで入賞しても、やはり浜木綿香は当然と言わんばかりに最優秀賞をとっていた。
表彰式で浜木綿香の隣に座ることが数度あった。浜木綿香は地味だけれど、美人で髪の綺麗な子だった。絵にかまけてぼさぼさの髪をした自分が急に恥ずかしくなった。表彰式の間、彼女は嬉しそうにするでもなく、興味なさそうにぼうっと座っていた。彼女の容姿と態度にますます腹立たしさと悔しさ、劣等感が募った。勉強もおれしゃもせずに絵を練習した。ダサい、暗いとクラスの男子たちから馬鹿にされながら、私は中学生活を絵に捧げた。
その努力も虚しく、三年間で浜木綿香に勝てたことは一度もなかった。中学最後のコンクールの表彰式で、隣に座った浜木綿香に「いつも一番だね」と嫌味っぽく言うと、彼女は困ったように「たまたまだよ」と言った。そんなわけないのに。その返答で彼女を余計に嫌いになった。
嘆く私に、絵画教室の先生や両親は「芸術は勝ち負けじゃない。あなただけの素晴らしい絵を描けばいい」と慰めた。
でも、それは慰めにはならなかった。
だって、浜木綿香の絵は美しい。私の絵など、ゴミに見えてしまうくらい。
いつしか絵を描くのが嫌いになった。絵を描くのをやめた。そして今までしてこなかった勉強をして、ギリギリの成績だったけれど、県内有数の進学校に合格した。
絵のことを忘れたくて春休みは今まで絵に費やしていた時間をおしゃれに使った。髪型や眉毛を整え、動画を見ながら化粧やヘアメイクを勉強した。SNSを参考にしながら流行の服も買い揃えた。鏡を見て、自分でも感心するくらい可愛くなった。
そうして高校に入学すると、中学の頃とは別世界になった。いつも私を馬鹿にしていた男子たちは「可愛いね」と私をちやほやして、私など眼中になかったおしゃれな女子たちは「どこのコスメ使ってるの?」と向こうから話しかけてくる。
気付いたら、私はクラスの中心にいた。昔の私のように暗くて地味なクラスメイトを見て嗤う。見下す側はすこぶる気持ちが良かった。
絵に関わりたくなくて、授業は音楽を選んだ。
音楽の授業後、実技棟から教室棟へ戻る時、友達と合流するためにたまたま美術室の前を通った。廊下に掲示された授業で制作された作品たち。流し見て、通り過ぎるはずだった。
一枚の絵の前で足が止まった。
布の上に置かれた林檎。静物画の鉛筆デッサン。一枚だけ、レベルが違う。他の生徒も何人も足を止めてその絵を見ている。絵の隅に描かれた名前は何度も見た、憎い名前だった。
浜木綿香。
同じ高校に進学していた。彼女と同じ中学出身の友人に話を聞くと、彼女は頭も良かったらしい。私が絵をやめて必死に勉強して合格できたこの進学校にも彼女は余裕で入学していた。馬鹿にされているようで、あの女の何もかも気に食わなかった。
私はあの子のせいで大好きだった絵をやめたのに。私が必死で手に入れたこの場所でも彼女は変わらず絵を描いている。憎かった。
彼女は幾度も全校集会で表彰された。全校生徒の前で称えられる彼女を見るのは苦痛だった。
校内で彼女の作品を見かける度に、嫌な気持ちになった。見たくもないのに、見てしまう。嫉妬と羨望でどうにかなりそだった。唯一の救いは一年、二年と離れたクラスで、顔を見ずに済んだことだった。
けれど、三年生になった春。
クラス替えで浜木綿香と同じクラスになった。最悪だ、と思った。
三年生の初日、教室に入ると顔見知りは何人もいた。スクールカースト上位の友人が私の周りに集まり、私はクラスの中心にいた。遅れて教室に入ってきた浜木綿香は誰とも話さず、静かに席についていた。化粧っ気もなく、暗くて、地味な子。髪だって、ただ結んでいるだけ。静かだから目立ちはしないけれど、浜木綿香は相変わらず美人だった。私と違って、何のメイクもしてない。髪だって巻いてもないのに。
何の努力もせず、美しい容姿を持って、勉強もできて、その上、絵まで描ける。
そんなの、狡すぎる。
友人と大声で話してクラス内に存在をアピールする私と逆で、一人でも平気そうにしている彼女。中学時代、コンクールで競い合った私にどうして気づかないのか。
始業式の後、クラスで自己紹介が行われた。そう言えば、中学の時と私は見た目が大分違う。だから彼女は私に気づいていないのだ。今、私の名前を聞いて、浜木綿香も気づいただろう。そう思い、彼女の席を振り返るが、彼女はぼうっと自己紹介を聞いているだけだった。
担任の号令で解散となり、私は帰ろうとしている浜木綿香の席に近づいた。
「ねえ、浜木綿さん」
「何ですか?」
突然、話しかけられて彼女はきょとんとして私を見上げた。
「香ちゃんって呼んでいい?」
にっこり笑って言うと、浜木綿香は戸惑いながら「あ、うん、どうぞ」と答える。反応が鈍すぎてよく分からない。苛々しながら仕方なく、私は名乗った。
「私、佐々木美希だよ」
目の前で名乗れば、この鈍い女もきっと「ああ、中学の時の」と思い出すに違いない。そうしたら、私はあんたのせいで絵を描くのをやめたと詰るつもりだった。
それなのに。
「佐々木さんって言うんだね。初めまして、これからよろしく」
笑顔を張り付けたまま、黙った。浜木綿香は「部活があるから」とさっさと帰って言った。怒りで頭の中が沸騰しそうだった。
絵を描くのが大好きだった。この子のせいで描けなくなったのに。
私はずっと浜木綿香を憎んで、恨んできたのに。
浜木綿香は私のことを、覚えてすらいなかった。
「どうしたの、美希?帰りどっか寄って行かない?」
呆然と立ち尽くしている私の肩を友人たちが叩いた。込み上げてくる憎しみと怒りはもう溢れてしまって、どうしようもできなかった。今まで抑えていた加虐心が一気に膨れ上がった。
あの子も絵が描けなくなればいい。
「いいね、行こ行こ!」
友人たちに笑顔で答える。中でも、特に噂好きでいじめっ子気質の友人の隣に言って囁く。
「ねえねえ、浜木綿香ちゃんってさ……」
友人たちは興味津々で浜木綿香に関するガセネタを聞いてくれた。その日のうちに内輪のグループチャットでは浜木綿香は性格最悪で、男好きで、嘘つきの最低女になっていた。いじめに誘導するのは簡単だった。私だけじゃない、みんなも誰かをいじめてストレス発散させたかった。だって、誰かをいじめるのは愉しいから。
次の日から浜木綿香の地獄は始まった。
毎日、いじめられて涙を見せる浜木綿香を見ては留飲を下げた。明日は何をしてやろう。学校にばれないようにいじめを企てるのは愉しくて仕方なかった。暫くして彼女は学校に来なくなった。いい気味だと思った。そのまま、学校も絵もやめてしまえと思った。
けれど、浜木綿香は絵を描くのは辞めなかった。
休んでいる間に凄まじい作品を仕上げて、国際的な学生コンクールで入賞までしていた。玄関前に掲げられた作品を見て、あまりの出来に言葉を失った。私がどれだけ練習しても、時間をかけても、到底描けそうもない精密で緻密な大作。それをいじめられながらあの子は描き上げた。
絶対に勝てないという絶望、こんな絵が描ける羨望。それは激しい憎悪に変わった。腹いせに描きかけの作品を一つ壊してやった。本当は玄関前の作品を壊したかったがリスクが高すぎる。
卒業までずっと飾られたあの作品は、目障りでしょうがなかった。
そのうち受験勉強が本格化して、成績の悪い私は浜木綿香に構っていられなくなった。クラスの皆も、浜木綿香が不登校になってからは最初ほどいじめを愉しまなくなった。彼女は学校に来ても、保健室に逃げてあまり姿を見せなくなった。
まあ、いい。卒業すればあの女の絵を見なくて済むのだから。
それからは、いじめは遊び程度に、受験勉強に集中した。けれど、第一志望も、第二志望も、滑り止めも何校か落ち、偏差値のそんなに高くない大学に何とか合格した。学歴に傷がつくと浪人を希望したが、親が浪人を許さなかった。仕方なくそのまま進学して大学生になると浜木綿香のことはすっかり忘れていた。
教育実習の説明会で母校に行くと、澤村香になった彼女と再会した。驚きながら、実習生名簿に描かれた担当科目と出身大学を見て、高校の頃の憎しみが一瞬で蘇えった。
浜木綿香の担当は美術、誰でも知っているような東京の有名美大に進んでいた。
あの女はまだ絵を描き続けていた。しかもこんなに良い大学に入って。
どうして、この女は私のコンプレックスばかり刺激してくるのだろう。
「香ちゃん」
放課後の廊下、澤村香を呼び止めた。綺麗な黒髪を靡かせ、細身にスーツを纏い、化粧をして高校生の頃より美しくなった澤村香。彼女は今にも泣きそうな、怯えた顔で私を見つめる。恐怖に染まった顔は懐かしくて愉快だった。
教育実習の間、愉しみが出来て良かった。心の底からそう思ってほくそ笑んだ。
邪魔が入って、最後の最後に失敗したけれど、彼女をいじめたことを私は何も後悔していない。
私と浜木綿香のこれまでの話をしたら、なぜか両親は泣き崩れてしまった。
***
ついに金曜日を迎えた。教育実習の最終日だ。
昨日の騒動が嘘みたいに平和だった。いつも通りの業務を一通りこなして、一ノ瀬の研究授業を見学した。明るい一ノ瀬らしい、笑顔の絶えない授業。生徒たちの作曲は想像よりレベルが高く、驚かされた。例にもれず、授業後の検討会はダメだしの嵐だったけれど、特に音楽の静先生が容赦なく質問して一ノ瀬はたじたじだった。静先生の愛の鞭を乗り越えて、一ノ瀬の研究授業は検討会を含めて無事に終了した。
六限目が終わって、最後のホームルームではクラス委員が色紙の寄せ書きをプレゼントしてくれた。そのあとの部活動に行くと、昨日は急遽部活が休みになったことで、事情を知らない部員たちに色々質問された。適当にはぐらかして、最後の部活を楽しんだ。活動後、美術部の有志で描いたというイラスト入りの色紙や手紙を贈られた。別れが寂しいと泣いてくれた生徒もいて、胸がじんわりと熱くなった。教員の労働環境の悪さが取りざたされている昨今だけれど、先生たちが頑張れるのはこういう喜びの積み重ねがあるからなのかなと思った。
実習生全員で先生方にお礼のあいさつをして教育実習の全日程が無事に終了した。
「教育実習お疲れー!」
飯森が元気いっぱいの声で解放感たっぷりに叫ぶ。帰り支度するために小会議室に戻ってから、飯森と一ノ瀬と三人で教育実習の終了を喜び合った。
「いや、本当にお疲れだよね、特に澤村さんと一ノ瀬くんは。あんなことがあってさ……」
あはは、と私と一ノ瀬は苦笑いして頭を掻いた。
「まあ、何はともあれ、無事に単位もゲットしたし、これで卒業時に教育委員会に書類を出せば教員免許取得だよ!卒業できる、嬉しいー!」
教育学部の飯森は教員免許取得が卒業要件なので、ほっと一安心していた。卒制がまだ終わっていない美大生の私は安心どころかこれからが地獄が待っている。恐ろしいのでこれ以上は考えないように思考に蓋をした。
「二人はすぐに東京戻っちゃうんでしょ?」
「うん、大学があるからね」
「私も卒制がやばいからすぐ帰らなきゃ……」
「寂しいなあ。でも二人と一緒に実習できて本当に良かったよ。地元に帰って来る時があれば飲みに行こうよ。いつでも連絡してね!」
飯森は私の手をぎゅっと握って「絶対だよ」と念押した。
「うん、もちろん。飯森さん、色々助けてくれてありがとう」
私は感謝を込めて深々と頭を下げた。飯森も同じように頭を下げて笑う。
「こちらこそありがとうだよ!じゃあ、あたしは先に帰るね。今日も姪っ子のお迎え頼まれてて、あ!時間やばい!じゃあね!」
飯森は腕時計を見て、大騒ぎしながらバス停に走っていった。彼女は最後まで元気で賑やかだった。
「俺達も帰ろうか」
「うん」
一ノ瀬と一緒に戸締りをして、鞄を持って小会議室を出た。長いことお世話になった部屋だけれど、誰もいなくなると広々として見えた。誰もいない部屋に一礼して、そっと扉を閉めた。
玄関に向かって一ノ瀬と校舎を歩きながら、私は彼に思い出したように尋ねた。
「聞きそびれていたんだけど、説明会の日のこと動画に撮っていたんだね?」
私に問われると、一ノ瀬は途端に顔色が暗くなった。
「……ごめん。もっと早くあの動画のことを言えば良かった。あの動画だけでも、佐々木を実習中止に追い込むには十分だっただろうし」
「私が大事にしたくないって言ったからでしょう?多分、動画の存在を聞いても、私はやっぱり隠したと思うから」
多分、と言うよりは絶対そうした。もしくは、動画を消していたかもしれない。自分がいじめられているなんて証を、残したくはないから。
「でも動画の存在は言っておくべきだった、それは本当にごめん。もし、あまりに酷い嫌がらせが起こったら、澤村さんには秘密であの動画を出して管理職の先生に裏で報告するか、佐々木に警告しようかと思ってたんだよ。そうしたら想像以上の事態が起きて、俺も頭に血が上ってみんなの前で動画を……嫌だったよね。自分が殴られているところを他人に見られるなんて」
「まあ……愉快なことではないけど。でも、私も立場が逆ならあの場でああしたかもしれない。だから、謝らないで。私のことを想ってしてくれたってちゃんとわかってる。本当に感謝してるんだ」
「……澤村さん」
「あの時、すごくかっこよかったよ」
背の高い彼を見上げて、私は心からの笑顔を向ける。この感謝がちゃんと伝わるように。一ノ瀬は私をじっと見つめて、徐にこちらに手を伸ばす。その指先は吸い寄せられるようにそっと私の髪に触れた。ピアノを弾くために手入れされた綺麗な指先は私の髪を弄ぶように掬い上げる。ただ、その仕草を見ているだけなのに、心臓が痛いくらい高鳴った。彼は何か言おうと口を開きかけた。けれど、その時、私のポケットの中で携帯電話がぶるぶると震えた。
「あ……で、電話だ!」
上擦った声が出て、私は一歩下がる。ポケットから振動している携帯電話を取り出す。画面を見ると、高岡先生の名前が表示されていた。私は慌てて電話に出る。
「はい、澤村です!高岡先生、どうしたんですか⁉」
「香さん、まだ学校にいるかい?準備室を掃除していたら君の作品を見つけてねえ……」
「え⁉私の?分かりました。まだ校内なので、すぐに伺います」
電話を切ると、私は急いで美術準備室に向かった。一ノ瀬も絵が見たいと言って一緒にくっついてきた。美術準備室の前まで来て、ドアをノックすると高岡先生の「どうぞ、どうぞ」という声がした。
「失礼します」
扉を開けると、高岡先生の姿は見えないが、部屋の奥からガサゴソと何かを探るような音がした。
「香さん、呼びつけてすまないね。今持って行くから少し待ってくださいよ」
段ボールの山の向こうから高岡先生の声が聞こえた。しばらくすると小さなキャンバスを持って先生は現れた。
「これ、香さんの絵でしょう?」
長方形の小さなキャンバスには飼い猫のとろろが描かれていた。
「ああ、そうです、私のです。うわ、懐かしい……三年生の文化祭の時に描いた絵です。四年前だから、猫も少し若いですね」
笑ながら絵を受け取った。一ノ瀬は私の隣で絵を何度も覗き込むように見て、なんだか不思議そうな顔をしている。
「どれ、持ち帰りやすいように梱包してあげましょう」
先生は準備室の備品を使って、手際よくさっと絵を梱包してくれた。先生はさらに段ボールの山から何かを取って来た。
「そうそう、文化祭で使った、キャプションもあったんですよ。それも一緒にどうぞ、浜木綿さん」
高岡先生は言いながら、日焼けして色あせたキャプションを差し出した。
「ハマユーさん?」
一ノ瀬が疑問符をつけて首を傾げると、先生は「あ!」と叫んで額に手を当てた。
「すみません、今は澤村香さんでしたね。キャプションの文字に釣られてうっかり。教育実習が終わったら気が抜けてしまいましたね。申し訳ない」
「いえ、気にしてません。キャプションもありがとうございます。実習ではご迷惑をたくさんおかけしましたが、色々とありがとうございました」
私が改めて先生に感謝を述べると、先生は高校時代から変わらない優しい笑顔で応えてくれた。
「これからも元気で頑張って。機会があれば教育現場にまた来てくださいね。そして、どんな形でも、絵を描き続けてください」
「はい……本当にありがとうございました!」
深く一礼をして、美術準備室を後にした。懐かしいこの部屋とも、先生とも今日で本当にお別れだ。切ないけれど、どこか晴れやかな気持ちになる。辛くて、苦しくて、大嫌いだったこの母校で、こんな清々しい気分になれる日が来るなんて思ってもみなかった。
高校時代の忘れ物を、心残りを、大人になってようやく持って帰ることができたみたいだ。
「ねえ、ハマユーって前の名字?」
再び玄関に向かって歩きながら、一ノ瀬が私に尋ねた。
「うん、そうだよ。高三の二学期までは浜木綿香だったんだよ」
「ハマユウカオリさんか……澤村香さんからスタートした俺には新鮮な響きだな。別人みたいだ。珍しい名字だよね。どんな字を書くの?」
「えーっとねサンズイの浜に、次は普通のキで」
「キ?ユウはどこ行ったの?」
「いや、だから三文字の名字で、えーと……説明すごく下手だ。あ、そうだ!」
説明に苦慮している内に生徒玄関の前まで来ていた。私はそこで思いついて立ち止まると、もらったばかりの古びたキャプションを取り出した。そして、それを一ノ瀬の前に掲げよるように見せた。
「漢字三文字で浜木綿って書くんだよ」
浜木綿香。
キャプションには私の昔馴染んだ名前が印刷されている。
「え……」
キャプションを見せると一ノ瀬は、石みたいに固まった。動揺した様子で、キャプションの名前を何度も確認する。
「嘘、本当に……?これ、ハマユウって読むの⁉」
「うん、植物の名前なんだって。ていうか、そんなに驚く?」
「だって……だって、俺はずっと、ずっと……浜木綿香を、ハマキメンカって読んでたんだ」
「ハマキ……?え、何の話?」
「ここに飾ってあったでしょ⁉」
一ノ瀬は生徒玄関前の広々とした壁を指差す。そこには今年県の美術展で受賞した美術部員の作品が掲げられている。この壁には毎年、美術部の絵の中でもコンクールなどで賞を獲った絵が飾られるのだ。高校生の時、私の絵もここによく飾られていた。
「ハマキメンカ……いや、浜木綿香の絵が飾ってあった。俺は君の絵に救われて、ずっと浜木綿香に会いたかったんだ!」
私は事態を飲み込めずに、目をぱちぱちさせて瞬きを繰り返す。
「ほら……俺の携帯の壁紙見てよ!卒業してからずっとこれだよ⁉」
一ノ瀬は携帯電話の画面を私の目の前に突きつける。端末のロックを解除していない、時刻が表示された状態だ。その壁紙は、私のよく知っている画像だった。
「これ、私の……どうして?」
困惑した顔で私は一ノ瀬を見つめ返す。彼の携帯電話の壁紙は、私が高校三年生の時に描いた絵だった。タイトルは、幸せな記億。
今、立っているこの場所に四年前、その絵は飾られていた。
***
妹の凛が不登校になったのは、十歳の時だった。
俺が高校生になったばかりの春だった。それは突然のことで、最初は理由も分からず、部屋に閉じこもる妹を家族は心配した。しばらくして、妹の不登校の原因はいじめだと分かった。原因が分かったところで、学校にいけるようになるわけではなく、いじめっ子たちが親と共に形だけの謝罪をしに来て、それで終わりだった。妹は学校に行けることはなく、一日中ベッドに潜っていた。そうして、部屋から出てこないまま、妹は六年生になった。
何かできればいいのに、学校に行けなくなった妹に俺は何もしてやれなかった。歯がゆい気持ちを抱えながら、笑顔が無くなった妹を心配するだけの日々が過ぎていく。
進展もないまま、俺は高校三年生になっていた。
「本当に進路はこれでいいのか?」
三年生になって最初に配られた進路希望の用紙。俺が書き込んだ志望校を眺めて、父は俺に何度もそう尋ねた。進路希望の欄には地元や隣県の大学の名前を書き連ねた。俺はこれでいい、と繰り返した。
「律、あなた……音大に行きたいんじゃなかったの?あなたは、あなたのやりたいことをしていいのよ」
母は哀しい顔をして言ったけれど、気付かないふりをした。子供のころからお世話になっていたピアノの先生にはがっかりされた。ピアノ教室には高三になっても通い続けていた。
幼少、俺は身体が弱かった。運動ができない代わりにピアノを習った。ピアノ教室の先生が教え上手で、ピアノが好きになった。身体が健康になってもピアノは習い続けた。妹の凛が生まれ、一緒に習えるようになると、凛と連弾したり、ピアノがいっそう楽しくなった。
自分で曲を作るのも好きだった。初めは練習の息抜きに曲を作るだけだったが、いつしか空いた時間を見つけては作曲ばかりしていた。年の離れた妹は、俺が作る曲を楽しみにしてくれて、部屋は下手くそな楽譜だらけになった。生活の中に音楽があるのは当たり前になっていた。
中学生になってもピアノを続けた。最初は妹にすごいと言って欲しくて、ただ尊敬されたくて練習していた。思いの外、ピアノにのめり込んでいった。ピアノはただの習い事ではなくなった。コンクールにも出場し、それなりの成績を取れるくらいには実力があった。ピアノ講師にも音大進学を薦められ、ぼんやりとそんな未来を見始めていた。
そこそこに勉強もできたので、周囲の薦めで高校は進学校に入学したが、音大という進路はずっと頭の中にあった。
けれど、妹が不登校になってからは、その思いは徐々に薄れていった。
県内に四年制の音大はない。進学するとしたら家を出ることになる。あんな状態の妹を置いて、一人だけ遠くに行って、大学生活を楽しむのは狡い気がした。音大に行きたいと思っていた。でも、音大に行って俺は何になりたいのだろう。何をしたいのだろう。自分よりピアノが上手い人はごまんといる。金だって普通の大学より高いかもしれない。ピアニストになる自分の姿を想像しても、現実味がなかった。
そもそも、俺はピアニストになりたいのだろうか。
音大に行くことが悪いことみたいに思えた。行かないほうが良い理由を探した。高三になる頃には音大に行くことは諦めていた。それでも、ピアノは辞められなくて、教室に通い続けた。家でもふと気が付くと新しい曲を考えている自分がいる。もやもやしながら、これ以上音楽のことを考えないように勉強した。地元の国立大の過去問、解けても解けなくても何も思わない。これでいいのかな、と思いながら学校で言われるがまま、ただ勉強していた。
梅雨を迎えた頃、学校から家に帰ると玄関に妹の靴があった。靴は雨で少し濡れていた。驚いて、俺は慌てて靴を脱いで台所に急ぐ。夕飯の支度をしていた母の「おかえり」という声に被せて言った。
「凛、今日出かけたの?病院?」
母は玄関の靴に視線を向けて「ああ……あれね」と困ったように笑った。母の浮かない顔が気になった。
「学校に行ったのよ、少しだけ」
「え、本当に?」
思わず聞き返してしまった。凛は不登校になってから、病院以外で外出することはなかった。部屋から出ることさえも嫌がり、まともに顔を見せるのは母親にだけだった。
「本当よ。さ、手を洗って」
洗面所を指差され、俺ははいはいと言って手を洗ってまた台所に戻る。
「どうして急に学校に行けたの?」
「担任の先生、熱心な方でね、家に何度も来てくださってたのよ。凛も最初はドア越しで、最近は顔を見せて話せるくらいに心を開いてくれてね」
大根の皮を包丁でさっさと剥きながら、母親は話し始めた。俺は台所の椅子に座って母親の手さばきを眺めながら話を聞いていた。
「それで、学校に来てみませんかって先生が。初めは保健室や相談室で一時間過ごしてみるところからやってみませんかって提案してくれてね。凛も本心では学校に行きたかったみたい。先生の話を聞いて、じゃあ、行ってみようかなって」
大根の皮をむき終わると、母は次に人参を手に取って、今後は人参の皮をむき始めた。俺は嬉しくなって「そうなんだ」と弾んだ声で言って、人参の横に控えていた玉ねぎを取って皮をむき始める。母はすっと生ゴミを入れる袋を俺の前に置いた。
「律に言うと心配しそうだから黙ってたのよ。凛もだめだった時、がっかりされたくないから律やお父さんには言わないでって言うし。今日はうっかり靴を片づけ忘れたわ」
「がっかりなんてしないのに。で、どうだったの?」
「先々週は家を出て数歩でダメだった。先週は校門まで行けたんだけど、学校を見たら震えてしまってそのまま帰ったの」
母は皮を剥き終えた大根や人参をトントンと軽快なリズムで切っていく。
「……そっか。それでも今日も行こうとしたんだ。偉いな、凛。で、今日はどうだったの?」
「今日はね……すごく頑張ってた。でも、やっぱり、だめだった」
母は手を止めて、小さな声で言った。
「学校の中に初めて入れたの。凄い進歩よ。保健室で、十分くらいかな。でも、近くの教室から女の子の笑い声が聞こえたの。何年生かもわからない。きっと、知らない子。でも、凛は女の子たちの声を聞いたら、真っ青になって、思い出しちゃったみたい」
母は包丁を置いた。震える手をぎゅっと握りしめていた。
「それで、保健室で吐いてしまって……そのまま、帰って来たの。今は部屋で休んでるわ」
聞いているだけで胸が痛くなって、何も言えなかった。母は言葉を続けた。
「帰りの車で、凛のこといっぱい褒めたわ。だって、頑張って、学校まで行けたんだから。でも凛はね、泣いてたの。悔しいって。お母さんも悔しかった。凛は何も悪いことしてないのに、どうしてこんなに苦しまないといけないのかな」
台所に向かっている母の顔は見えないけれど、泣くのを堪えているのは声を聞けばわかった。俺も泣きたい気持ちだった。
「お母さんがこんなこと、言ったらだめだけど。六年生の、凜をいじめたあの子たちのいるクラスに行って顔を引っ叩いてやりたかった。お母さん、絶対……一生、あの子たちを許せない」
俺は小さい声で「俺だって許せないよ……」と呟いた。母は暫く黙って、大きく息を吐くとまたいつも通り夕飯を作っていた。俺も黙って玉ねぎの皮を剥いた。
四角いお盆に夕飯の豚汁と、野菜炒め、白米を乗せて二階に上がった。妹の部屋の前に夕食を置いてノックする。
「凛、起きてる?夕飯、ドアの前に置いとくよ。食べられそうなら食べて」
数秒間を置いて、内側からコン、とドアを一回小突く音がした。凜は起きているようだ。
「玄関に靴があってびっくりしたよ。今日、学校行ったんだってな。偉かったな」
俺は無機質なドアに向かって話かけた。返事はなかった。
「昨日、ピアノの先生がお土産のクッキーくれたんだ。凜の分もどうぞって、凜の好きなチョコ味だよ。夕飯と一緒に置いとくぞ……じゃあ、兄ちゃん下に行くからな」
立ち上がって、部屋の前を離れようとしたとき、小さな声がした。ありがとう、と本当に小さなか細い声がした。妹の声を聞いたのは久しぶりだった。何もできない自分が歯がゆくて、惨めで、悔しかった。