***
「澤村先生、スケッチブック持ってきてくれた?」
六時間目の授業が終わると、美術部の一年生に尋ねられた。授業の片づけをしていた私は手を止めて答えた。
「うん、ちゃんと持ってきましたよ。参考になるかは分からないけれど」
その美術部員は真面目で、やる気があり、美大に興味があるらしい。部活中に雑談交じりに指導をしていたら、私が普段どんなスケッチをしているか見てみたいというので、家からスケッチブックを持って来たのだ。
「やった!澤村先生、ありがとう!今日の部活で見ていいですか⁉」
「もちろん。そんな大層なものじゃないですけどね」
「早く見たいなー!掃除当番、すぐ終わらせてきます!」
快活な笑顔を見せ、彼女はセーラー服を靡かせて走って教室から飛び出していった。ついこの間まで中学生だっただけあって、一年生の可愛さと元気さは格別だ。
授業終わりの生徒たちが美術室から捌けて、代わりに掃除当番の生徒たちが数人、教室に入ってくる。生徒たちと話しながら一緒に清掃をした。
空気の入れ替えをしようと窓を開くと、真上の音楽室で一ノ瀬がピアノを弾きながら生徒たちと歌い、賑やかに掃除する声が聞こえてくる。一ノ瀬の演奏は初めて聞いたけれど、音大生というだけあって素人が聞いても分かるくらい上手だった。そのうち音楽の先生の「遊んでないでちゃんと掃除しろ!」と怒る声がして一ノ瀬のピアノは変な音を立てて止んだ。おかしくて笑いそうになったけれど、堪えて私は窓の汚れを拭いた。
真面目な生徒ばかりだったので清掃はあっという間に終わった。私は教室内をチェックして「帰っていいですよ」と言うと、早く部活に飛んで行きたくて仕方ない野球部の男子たちは、言い終わる前に重そうなリュックを担いで「さようなら!」と元気に挨拶をしてグラウンドへと走っていった。帰宅部らしい女子達はおしゃべりしながらゆっくりと帰り支度をしている。私はその子たちに気を付けてね、と声をかけ、教卓に広げたままの授業のプリント類を片づけていた。
「澤村先生」
名前を呼ばれて顔を上げると、掃除当番の女子生徒が目の前に立っていた。美術室に残っているのはこの女の子だけだった。
「どうしたの?えーと……」
「一ノ瀬です」
「そうだった、一ノ瀬さんだね」
言いながら、真上で騒いでいた実習生と同じ名字だったなと思い出していた。目の前にいるショートボブの女の子はじっとこちらを見つめている。どことなく顔も一ノ瀬と似ているような気がしてきた。それで何か用かな、と改めて尋ねると、彼女は悪戯っぽく笑って言った。
「私、一ノ瀬凜といいます。一ノ瀬律の妹なんです」
「え……妹さん?あ、そうなんだ⁉」
不意打ち過ぎて驚いて、私の喉から素っ頓狂な声が出た。
「一ノ瀬くん、妹さんがいたんだね。えっと、お兄さんにはお世話になってます……」
「ふふふ、お兄ちゃん、家で澤村先生の話ばかりするから先生と話してみたくて」
「一ノ瀬くんが私の話を?」
「一緒に帰ったとか、一緒にお昼食べたとか。お兄ちゃんと仲良くしてくれてありがとうございます」
「いや、どちらかと言うと陰気な私が仲良くしてもらってるんだけどね」
「お兄ちゃんって気に入った相手には犬みたいに懐いちゃう人で。うるさいと思いますけど、すみません」
「確かに犬っぽい。仲良いんだね、お兄さんと」
はい、と一ノ瀬の妹は朗らかに笑った。照れたり、否定したりもせず、嬉しそうに肯定する。一ノ瀬に似て、素直そうな子だと思った。
「ねえ、澤村先生。学校って好きですか?」
唐突に問いかけられて私は驚いてしまう。少し考えてから、私は口を開いた。
「そういう質問をするってことは、一ノ瀬さんは学校が嫌いなのかな?」
彼女は少しバツが悪そうにして黙って頷いた。
「そう……それなら、私も取り繕わないで答えるね。今まで学校を好きだったことはないです」
一ノ瀬が妹に私のことをどの程度話しているのかは分からないけれど、彼女からは自分と似たような、同類と思しき雰囲気があった。彼女もそれを感じ取って、私に尋ねているのかもしれない。
「澤村先生も学校が嫌いだった?」
「嫌い、というより苦手かな。あんまりいい思い出無くて。でも、実習生として学校に来たら、生徒の時よりは学校が楽……いや、苦しくなくて、びっくりした」
「どうして?」
「んー……生徒の時より、自由だからかな。立場が違うだけで、同じ学校なのに別の場所みたいに過ごしやすいよ。それと、あなたのお兄さんのおかげかな」
「お兄ちゃんが?」
「うん、たくさん助けてもらったの。私、一ノ瀬さんのお兄さんとは高校時代に面識はなくて、この教育実習で初めて知り合ったの。でも、もし高校生の時に一ノ瀬くんとクラスメイトだったら、友達だったら、きっと私は高校生活がもっと楽しかったんだろうなって思った。味方なんていないっていじめられてた高校生の時は思ってたけど。一ノ瀬くんみたいな優しい人が同級生にいたんだって分かって、今になって高校生の私が少しだけ救われたような気持ちになれたの」
私が微笑むと、一ノ瀬凜は少し間を置いてから微笑み返して言った。
「確かに……お兄ちゃんが同級生だったら、きっと学校楽しいだろうな。世話焼きすぎてちょっと鬱陶しいかもしれないけど」
想像してふっと笑みが零れた。そうだね、と私が言うと彼女もにこにこと頷く。
「一ノ瀬さん、学校は辛い?」
彼女は伏し目がちに首を横に振った。
「今はまだ……辛くはないです。でも、少し怖い。また、嫌なことが起きたらどうしようって。不安になっても仕方ないのに」
歯切れの悪い言い方だった。いじめを嫌悪していた一ノ瀬を思い出して、私は丁寧に言葉を選ぶ。
「一度、学校で嫌な思いをすると忘れられないよね。でもね、大丈夫だよ。私も高校生の時、嫌なことがいっぱいあったけれど、大学は嘘みたいに楽しかった。あなたはこれから大人になっていく。子供の時と違って、自分で自分の生きやすい場所を選んで、進んでいくことができる。だから、大丈夫だよ」
「自分で、自分の生きやすい場所を……私にも見つかるかな」
私は「見つかるよ」と力強く言って、彼女の手を包み込むように握った。
「好きなことや、興味があることを探していけばいい。私は絵を描くのが好きだから美大に進んで、友人もそんな人たちばかりになった。すごく生きやすくなったよ。一ノ瀬さんも、これからあなたが生きやすいと思える場所を自分で選んで、大人になっていけばいいと思う」
私はどうか伝わってくれと願いを込めながら、真っすぐに彼女を見つめた。
「私……自分で選んでいいんだ」
強張っていた彼女の手からふっと力が抜ける。私は「それにね」と言葉を付け足した。徐に天井を指差して、一ノ瀬凜に優しく微笑む。
「あんなに素敵なお兄さんがいるんだから、何にも心配いらないよ」
私がそう言うと、一ノ瀬凜はほっとしたような顔で笑って「そうですね」と頷く。
「でも、お兄ちゃんってすごく泣き虫だからちょっと頼りないんですよ」
一ノ瀬凜は照れ隠しするようにおどけて言った。ちょうど、美術部の生徒が教室に入って来たので、彼女は一礼して帰った。私はその後姿をしばらく見守っていた。
美術部の指導を終えて廊下を歩いていると、夕陽で照らされた廊下の窓に自分の姿が映っていた。その姿を見てあっと声が出た。
「スケッチブック持ってきちゃった」
いつもの癖で小脇に抱えたスケッチブック。美術部の生徒が参考にと見たがったので持って行ったら、もっとじっくり見たいと言うのでしばらく美術室に置いておくことになったのだ。それをうっかり持ってきてしまった。
「まあ、いいや。もう高岡先生が施錠しちゃったし……小会議室に置いておこう」
スケッチブックを持ち直して、再度歩き出す。歩きながら、手に持っていた手帳を開いた。手帳には一枚の紙が挟んである。今まで、スケッチブックの表紙裏に張り付けてあった私のお守りだ。生徒に見られるのはさすがに恥ずかしくて、昨日の夜にスケッチブックから剥がして手帳に挟んでおいた。無くさないか心配でつい何度も確認してしまう。
誰からもらったかもわからない手紙なのに、後生大事にしている。
小会議室の前まで来て手帳を閉じた。声も物音もしない。今日はもう皆帰ってしまったのか。扉を開けると、ブラインドの隙間から西日が差し込んで、白い壁はペンキを塗ったみたいにオレンジ色に染まっていた。眩しさに目を細める。少しして目が慣れると、窓際の机に突っ伏している一ノ瀬がいることに気づいた。何の反応もないので、不思議に思って近づくと彼はすうすうと寝息を立てていた。荷物はまとまっていて、後は帰るだけといった様子に見える。
もしかして、待っててくれたのかな。
そんなことを考えて、少し嬉しくなってしまう自分がいる。
突っ伏している彼の向かい側に静に腰掛けた。疲れているのか、よく眠っている。閉校までまだ時間はある。起こそうか悩みながら、幸せそうな寝顔をまじまじと見つめた。寝ているからと遠慮もなく、不躾に彼を観察した。
子犬みたいにふわふわな少し癖のある髪の毛。羨ましいくらい生えそろった長い睫毛。男の人なのに、どこか少年のように見える幼さの残る顔立ち。男性らしい骨ばっている手、すっと伸びる長い指。ささくれ一つない、丁寧に手入れされた指先。
見れば見るほど、彼は綺麗だった。
彼を形作る造形一つ一つがどれも美しく見えて、目が離せない。気づけば心を奪われてしまう。
自然と私はスケッチブックを開いて、鉛筆を紙上に走らせた。
久しぶりに感じる、何とも言えない感覚がある。心の底が湧き立つような高揚感に似た創作欲。
この人を描いてみたい。私の手で描きたい。
卒制を前に描きたいものがずっと分からなくなっていた。何を描いてもピンと来なかった。私の絵に足りなかったものが今、目の前にある。そんな思いがした。
それからどれくらい時間が経ったのか、閉校五分前を知らせる放送が鳴った。一ノ瀬の身体がびくりと跳ね上がる。
「やばっ、寝てた!」
寝ぼけ眼の彼と目が合って、私は誤魔化すようにぎこちなく笑った。
「え……澤村さん⁉何してるの?」
「これは、その……!ごめんなさい!勝手にスケッチしてました……」
「状況が全然つかめないんだけど⁉ってもう、こんな時間⁉閉校しちゃうじゃん⁉早く帰らなきゃ!澤村さん、荷物持って!電気消すよ!」
「は、はい!」
急かされるまま、荷物をまとめて大急ぎで戸締りをして部屋を出た。職員玄関に走って行くと、学校の鍵を持った教頭先生が怖い顔をして「急ぎなさい!」と大声で言う。私たちは平謝りしながら靴を履き替えて、学校から飛び出した。校門を出る時は二人とも息切れしていた。校門の前でぜえぜえ言いながら、足を止めて呼吸を整えていた。
「あー、疲れた……ちょっと、澤村さん。一体どういうこと?」
「えっと、うん、本当にすいません。なんか、こう、気付いたらスケッチしてて、閉校時間になってたと言いますか、不徳の致すところでございます」
「政治家かよ。バスの時間は大丈夫なの?」
私は時計を見て数秒考えてから「大丈夫」と言うと、一ノ瀬は携帯でさっと時刻表を調べて「大丈夫じゃない!」と怒った。
「もー、直近のバス行っちゃってるじゃん!次のバスまで三十分もあるよ⁉」
「三十分くらいぼーっとしてたらすぐだよ」
「暗がりのバス停でぼーっとしてたら危ないでしょうが。女の子なんだからもう少し気を付けてよ」
一ノ瀬はぷりぷり怒りながらもバス停まで一緒に歩いてくれる。そしていつも通りバス停のベンチに並んで座った。妹が言うだけあって本当に世話焼きである。
「で、さっきの何?何でスケッチ?」
「無性に描きたくなって……良い寝顔だったから」
私はしゅんとしながら「勝手に描いてごめんね」と謝った。
「別にそれはいいけど、閉校前に起こしてよ。焦るじゃん」
「ごめん……久しぶりにぐわーって描きたい気持ちが爆発して、時間のこと忘れて夢中になってた。一ノ瀬くん、寝顔がすごく綺麗で、髪の毛ふわふわで描いてて楽しいし、睫毛も長くて、手とか指先まで全部美しくて、どうしても描きたくて……見惚れてたの」
「わ、わかったから、もういいよ。なんか恥ずかしい!」
一ノ瀬は真っ赤になって、手で顔を隠していた。どうして恥ずかしがっているのか理解できなかったけれど、やっぱり彼を描きたいと思った。
「何で照れてるの?」
「美しいとか言われたら、誰だって普通に照れるよ……」
ぶつぶつ言っている一ノ瀬の横顔を見ながら、私はどの角度で描くといいだろうと、そんな事ばかり考えていた。
「そう言えばあのスケッチブック、朝から持ってたよね?澤村さんの私物だったんだ」
「ああ、うん。大切なスケッチブックなの。お気に入りのものだけ描くのに使ってるんだ」
「ふーん……じゃあ、俺って澤村さんのお気に入りなんだ?」
彼は悪戯っ子みたいに笑って、私の顔を覗き込む。私は急に恥ずかしくなって「たまたまだよ!」と誤魔化した。一ノ瀬はつまらなそうに口を尖らせる。
「でも大事なスケッチブックなんだね。さっき、帰る時に急いでても丁寧に扱ってたから」
「ああ、まあ……あのスケッチブック、離婚したお父さんが最後に買ってくれたんだ。だから、何となく大事にしちゃってて。だから、あれにはお気に入りばっかり描いちゃうの」
「澤村さんって親、離婚してるんだ?」
「高三の時にね。そんな歳に母の旧姓に変わったから、まだ澤村香ってちょっと他人みたいな感じがしちゃう」
私が自嘲気味に笑うと、一ノ瀬はそっかと言いながらしゅんと眉を下げる。
「そんな顔しないで。四年も前のことなんだから。それに進学で上京したから、離婚した実感もなく親と離れたし、そんなに悲しい思いしなかったよ」
少しだけ強がって言った。でも本心でもあった。離婚当時はもちろん哀しかったけれど、実際進学で上京すると親と接する機会はほとんどなくなった。入学してからは課題が山のようにあって悲しむ暇はあまりなかった。
「それに、実習に来てから一ノ瀬くんが澤村さんっていっぱい呼んでくれるから慣れたよ。あ!そう言えば今日、会ったよ!」
「誰に?」
「一ノ瀬くんの妹さん!」
「え⁉凛と話したの⁉」
一ノ瀬は驚いて、普段から大きな目をさらにまん丸にして見開いていた。
「うん。妹さん、美術室の清掃当番だったの。一ノ瀬律の妹ですって挨拶されたよ。在校生に妹さんがいたんだね」
「あいつ、目立ちたくないから兄妹だって秘密にしてって俺に言ってたのに。澤村さんには話したのか」
「お兄ちゃんが家で私の話をするから、話してみたかったんだって」
「そんなこと言ってたの⁉そんなに話してるつもりないんだけど……えー?そんなに話してたのかな、俺。待って、恥ずかしい……他に何言われたの⁉変なこと言ってなかった⁉家で携帯を手に持ちながら携帯探してたとか、そういうの!」
「結構おっちょこちょいなんだね、一ノ瀬くん。普通の話しかしてないよ」
でも、と私は迷いながら言葉を続けた。彼女の暗い顔が頭に過った。
「妹さん、ちょっと不安があるみたい。学校が少し怖いって」
「そう……凜が、そう言ってたんだ」
一ノ瀬の表情が翳る。一ノ瀬は急に静かになった。視線を落として、彼は少し考えこむように口元に手を当てる。そして、彼は静かに話し始めた。
「妹は……凛は小学生の頃いじめに遭って、不登校になったんだ。いじめられた理由もなんだそれってくらい曖昧で中身が無くて、今思い出しても腹が立つよ」
吐き捨てるように、一ノ瀬は冷たく言う。いつもの明るくて、人懐こくて、優しい彼とは別人みたいに見えた。
「学校に近づくだけで吐いてしまうくらいトラウマになってさ。中学はフリースクールや家庭教師で、本人も頑張ってたけど学校には行けなかった。でも高校から普通に学校に行きたいって言ってね。頑張って勉強して、今年の春から久しぶりに学校に通ってるんだ」
一ノ瀬はふーっと深く息を吐いて、視線を落としたまま話し続ける。
「友達もできて楽しいって言ってた。だけど、やっぱり不安だよな。俺、本当にいつも心配くらいしかできなくて……何もしてやれない。卒業まで、何事もなく、ただ楽しく過ごしてほしいだけなんだ」
一ノ瀬が妹を想う気持ちが痛いくらい伝わってきて、私は何と声をかけていいか分からなかった。
「……何でいじめなんてするんだろうね」
絞り出すように言った彼の言葉は悲しみの色が滲んでいた。
「だから一ノ瀬くんは、私のいじめを知った時にあんなに怒ってくれたんだね……」
初対面の時からずっと、どうして彼がここまで親身になってくれるのか、不思議でならなかった。でも、今やっと腑に落ちた。彼は、私に妹の姿を重ねていたのだ。彼があまりに優しくて、油断すると勘違いしてしまいそうになるけれど。彼はただ、私に妹を重ねて優しくしてくれていただけだったのだ。
勘違いしてはいけない。ただただ、彼は優しいだけ。私を救ってくれたその優しさに少しでも報いたい。
「妹さん、過去のこともあって不安なだけで学校は辛くはないって言ってたよ。もしこれから学校で何かあっても、こんなに優しい家族がいるなら困ったときはきっと相談してくれるんじゃないかな」
だから大丈夫だよ、と彼の肩にそっと手を置いた。一ノ瀬はそうだよね、と少しだけ明るい声に戻った。
「ごめん、妹のことになると、当時を思い出してちょっと心配になっちゃって……まだ何かあったわけでもないのに。情けないな」
「そんなことないよ。あ、でも、妹さんが言ってた。お兄ちゃんってすごく泣き虫だって」
「え⁉そんなことも言ってたの?もう、凛のやつ、余計なこと言って……」
一ノ瀬はむっとして顔をしかめる。私はからかうように「泣き虫なの?」と尋ねると、彼は目を逸らした。
「ちょっと涙腺が弱いだけだよ」
恥ずかしがっている彼はどうしようもなく可愛く見えた。私より背もずっと高くて、手だってこんなに大きいのに可愛いだなんて不思議だ。可愛いなんて言ったら彼は怒るだろうか。
夜風でふわふわの髪が揺れていた。見通しの良いバス通りは遮蔽物もないので、吹き込む風はいっそう強く感じる。
「少し冷えてきたね、寒くない?」
「平気だよ」
そう言うのに、彼は上着を脱いで「どうぞ」と私の足にかけてくれる。こういう優しさをもらう度に、何故だか胸の内がぎゅっと痛む。このままバスが来なかったらいいのに。彼とバスを待つとき、いつしかそう思うようになっていた。
他愛のない話ばかりした。実習のこと、彼の曲のことや、私の卒制のこと。長いはずの待ち時間はすぐに過ぎていく。
「あ、そろそろバスが来るみたい」
バス停の屋根を見上げると、頭上に設置された機械のランプが光っている。二つ前のバス停にバスが来たことを知らせるランプだ。
「いつも一緒に待っててくれてありがとう」
「心配だから勝手に一緒にいただけだよ」
膝にかけていた上着を彼に返すと、彼はそれをさっと羽織った。バス停のランプは一つ前のバス停まで来ていることを知らせていた。バスが来る方向に目を凝らすと、遠くにバスらしき影が見える。
「ていうか、俺ね、今日は澤村さんを待ってる間に寝ちゃってたんだよね」
「私のこと、待ってたの?」
「うん、一緒に帰りたかったから待ってた」
一ノ瀬は恥ずかしげもなくさらりと言って、爽やかに笑った。
こんなの、勘違いしてしまう。
騒ぎ立てる心を静めながら、彼の無邪気な笑顔を恨めしく思った。
電灯に照らされた彼の笑顔は優しくて、綺麗で、美しかった。眉毛が少し下がって、くしゃっと目尻に皺が寄り、幼く見えるのは顔立ちと笑窪のせいだろうか。その一瞬の造形のどれもが私には心惹かれて目が離せない。
「澤村さん?どうかした?」
「あ、ごめん。今の顔すごくいいなって……」
言いながら、不躾にも彼の顔をじっと見つめた。やっぱり描きたい。こんなに誰かを描きたいと思ったのは初めてかもしれない。
「ねえ、一ノ瀬くん。また、描かせてくれない?」
「へ?俺を描くの?」
「うん。実習が終わったら、あなたのことじっくり描きたいの」
「別にいいけど。同じ東京に住んでるんだしね」
「本当⁉ありがとう!ちゃんとモデル代払うからね!」
彼の手を両手で握って深々と感謝すると、彼はぽかんとした顔で「え、モデル代?」と不思議そうに呟いていた。困惑する彼の向こうから、時刻通りにバスがやって来た。
***
実習が始まって二週目の金曜日。
その日は同じ芸術科の実習生である黒川の最後の授業日だった。高校の免許だけを取得する彼女は中高両方の免許を取る実習生より早く実習が終わる。彼女の他にも二人ほど高校の免許だけを取得するという実習生がいて、彼らは今日が実習最終日なのだ。
この日は黒川の研究授業があった。教育実習での研究授業は、実習生の授業の内容や成果を指導担当教員や学校長など管理職、他教科の教員に見てもらう授業のことだ。そして先生方から指導や批評、助言を受け、指導内容の反省、授業の改善につなげていくのだ。実習の総仕上げともいえる。
「それでは授業を始めます。後ろに見学の先生方がいますが、みなさん気にせずにいつも通り書いていきましょう」
授業の始めに、黒川はちらちらと後ろを振り返る生徒たちを窘めた。
書道教室の後方には、書道のおじいちゃん先生をはじめ、管理職や他教科の先生方、私のような実習生の姿もちらほらあった。一ノ瀬はこの時間、担当しているクラスの授業があり来られなかった。私はたまたま担当クラスではなかったので、彼女の授業を見学に来たのだ。
学生時代、書道の授業は受けたことがなかったので、なかなか新鮮だった。同じ楷書体でも、書家によって筆遣いや線質が少しずつ違うことなど興味深かかった。そして実際に黒川がお手本を書くところも見ることができた。黒川は簡単そうにさらさらと筆を動かし、筆先から美しい字が次々と生まれていく。筆を使うことは同じなのに私とはまるで違う世界だと驚きと共に実感した。
「では、今書いて見せたように筆遣いに気を付けて作品を書いていきましょう」
生徒たちは作品の制作時間に入ると、和気あいあいとしがちな美術の授業と違って、私語もなく教室は静まり返っていた。隣の美術室の声が聞こえるくらい、静かだった。終始、緊張していた黒川だったが、問題なく授業は終わった。
この後は教科指導教員、管理職、そして授業の無い先生方は教室に残り、研究授業の検討会が行われる。私も来週は我が身なので参考にしたくて検討会に参加させてもらった。
時間管理や、板書の使い方、机間巡視の声掛けなど想像以上に細かい点での指導や厳しい意見もあった。自分もこうなると考えると、身震いした。一時間経ってチャイムと同時に検討会は終了した。研究授業と検討会に出席していた飯森と一緒に教室を出た。
「検討会って結構厳しいこと言われるんだね……怖かった」
周りに人がいないのを確認してから小さな声で飯森に言うと、彼女も大きく頷いていた。
「ねー……あたし、ちょっと来週が憂鬱だわ」
「今から緊張するね。はー……でも、今日で黒川さんとお別れかあ」
「寂しくなるねぇ」
私も寂しいね、と飯森の言葉を繰り返した。
飯森と別れて、私は美術室で高岡先生の手伝いをし、その後は高岡先生に頼まれた書類を提出しに職員室に向かった。書類を管理職に渡して、職員室を出ると、近くの階段から上って来た黒川に遭遇した。たくさんの古雑誌を抱えた黒川に思わず私は駆け寄った。
「黒川さん、すごい荷物だね。大丈夫?私も持つよ」
「あ、澤村さんありがとうございます」
黒川の腕から古雑誌を半分、奪い取るように抱えた。
「研究授業、お疲れ様。それでこれはどうしたの?」
書道の専門誌らしいそれは、随分年季の入った雑誌ばかりだった。
「それがですね、もう聞いてくださいよ!」
黒川は珍しく怒っている様子だった。
「昨日、書道の先生に頼まれて、古雑誌をまとめて一階の資源ごみ置き場に出したんですけどね?そしたら、先生が捨てたらいけない本を間違えて出してしまったかもっていうんで、取り返しに来たんです!」
「あらら……それは災難だったね。今日で最終日なのに。これ書道室に持って行くの?」
「いえ、そこの大会議室に持って行こうかと。この雑誌の山の中から先生が探している本を一冊見つけないといけないんですが、あとは捨てる予定なので」
「それなら私も一緒に探すよ」
「一人だと大会議室に入りにくかったので、ありがたいです」
黒川と共に大会議室に入ると、他の実習生たちが授業の準備などをしていた。彼らの視線が一斉に私達に集まる。佐々木が私の悪評を広めているおかげで、他の実習生からの視線がどうにも冷たい。実害はないので構わないが。運よく佐々木の姿はなかったので、私は安心して大会議室の中に入った。隅の空いたテーブルに雑誌の山を置いた。
「緑色の表紙で大きく行書と書いてある本だったと思うんですが……」
「わかったよ。じゃあ、私はこっちの山から探すね」
私たちはてきぱきと雑誌の山を崩し始める。最初は周囲からチラチラと視線を感じていたが、実習生も暇ではないのですぐに彼らも自分の作業に意識を戻していた。五分くらいして、黒川が「ありました!」と目当ての本を見つけた。
「よかった、じゃあ……」
行こうか、と言いかけた時、私の声に被さって近くに座っていた実習生の男子が「あれ」と声を上げた。
「こんなところにCD落ちてたけど、誰の?」
彼は机の下からCDを拾い上げて、周囲の実習生に尋ねる。確か、国語の実習生で佐々木の取り巻きの一人だった女子が答える。
「あ、それ佐々木ちゃんのだよ。授業で使ってたと思う」
佐々木の名前が出て、私は反射的にびくびくしてしまう。しかも噂をすれば、とでも言うようにちょうど佐々木が大会議室に入って来た。
「ねえねえ、ここにエミーのCDなかった⁉」
入って来るなり、佐々木は大きな声で誰にと言うわけでもなく尋ねる。視線が合うと、私がいることに気づいて一瞬、彼女の顔は険しくなった。
「テーブルの下に落ちてたよ」
先ほどCDを拾った男子が佐々木に手渡した。佐々木は猫撫で声でお礼を言いながら受け取る。佐々木が手に持ったCDを見て、黒川がはっとして嬉しそうな顔で私を見た。黒川が何を言いたいか分かっていたけれど、私はどんなリアクションをしていいかわからなくて、曖昧に頷いた。
「これだよー!探してたの!ここにあってよかったぁ!英語科準備室に返そうと思ったらないから焦っちゃったよー。飯田君、ほんとありがとね!ALTのマイクの授業で使ってて、歌詞の英訳してるんだよ。有名な曲だし、生徒も食いつき良くてさあ」
佐々木が話し出すと、あっという間に周りに人が集まって賑やかになった。私と黒川はさっさとこの部屋から去ろうと、広げた古雑誌を急いで紐で縛り直していた。
「この歌手、エミーだっけ?最近よく聞くわ」
「去年、洋楽で一番売れた曲とか言われてたよね」
「日本でもCMとかで使われて、すごいダウンロード数らしいよ」
実習生たちは歌手の話題で盛り上がっていた。
「へえー、そうなんだぁ。マイク先生が言ってたんだけどぉ、このジャケットの絵がニューヨークで展示された時ファンが殺到して警察沙汰になって大変だったんだってー」
佐々木はちら、と私を見て、わざとらしくこちらに声をかけてきた。
「絵と言えばぁ、そこに美術の先生がいるじゃん?めずらしいねー、こっちの部屋に来るの。最近忙しくてかまってあげられなかったけど、香ちゃん元気にしてたぁ?」
会話するのも嫌で黙って会釈した。最近続いていた私の平和はやはり、彼女が実習の忙しさでいじめどころではなかったかららしい。
「いいねえ、大変な実習もお絵描きして遊んでればいいんだしー。美術の先生、羨ましいなー。あ、でもぉ、先生になりたくても美術は採用数少ないから非常勤か臨時かな?かわいそぉ」
馬鹿にした笑いが声に滲み出ている。私は黙ったままだった。彼女の言葉は止まらない。
「どうせ、しょぼい絵しか描いてないんでしょ?お金にもならないお絵描きするのに大学まで行っちゃって、就職とかどうするのぉ?仲良しの一ノ瀬くんも音大だっけー?ゲージュツ系の人達ってぇ、働き口なさそうでかわいそうだねー」
「佐々木ちゃん、いくら事実だからってそんなの言ってやるなよ。一ノ瀬だって可哀想じゃん」
ハハハ、と笑い交じりに同調したのは以前、この部屋で一ノ瀬を馬鹿にしていた男の一人だった。可哀想という言葉を、この人たちはどういう意味で使うのか。彼女たちの心無い言葉を静かに聞いていた。黙っていれば、そのうち終わる。言い返さずに私は耐えていた。
「私の友人たちを馬鹿にするの、やめてください」
怒りに満ちた声で、黒川が言った。私はびっくりして黒川を見る。佐々木も面食らった顔をしていた。
「私は画家としての澤村さんのファンでもあります。澤村さんの絵は素敵です、馬鹿にされるようなものじゃない。澤村さんがどんな絵を描くか、知りもしないで勝手なこと言わないで下さい」
「うざ。そんなん、知りたくもないし、興味もないっての」
佐々木は黒川に言い返されて、あからさまに不機嫌になった。
「興味がない?おかしいですね、ついさっき佐々木さんは澤村さんの絵の話をしていたじゃないですか」
「はあ?意味わかんないんだけど!いつあたしがそんな話したわけ⁉」
黒川は佐々木を指差した。正確には、彼女が手に持っているCDを。
「そのCDのジャケット、誰が描いたか知らないんですか?」
黒川はにやりと笑って言った。
「澤村さんですよ」
黒川の言葉に室内が一気にざわめいた。私はどうしていいか分からず、横であたふたしていた。
「はあ⁉そんなわけないでしょ!こんな有名な歌手のジャケットをなんであいつが描くのよ⁉あり得ないし!」
佐々木は黒川を怒鳴りつけた。黒川は負けじと言い返す。
「私はその歌手のファンを何年もやってるんです!ちゃんと調べてから否定してくださいよ!」
すると、実習生の一人がすぐさま携帯で検索し始めた。そしてすぐに「えっ」と悲鳴みたいな声を出して、検索画面を佐々木に向かって見せた。
「本当だ……調べたら、澤村香って名前出てくる」
「そん、な……嘘でしょ」
画面を見て、佐々木は信じられない様子で呆然としていた。
「金輪際、澤村さんの絵を馬鹿にしないで下さいね。行きましょう、澤村さん」
黒川に腕を引かれ、私は慌てて古雑誌を抱えて大会議室を出た。ドアを閉めようとしたとき、はっとして私は振り返る。佐々木と、そして一ノ瀬を馬鹿にした男達を見据えて言った。
「一ノ瀬くんだって、すでにプロの作曲家として活動してます!彼の曲のファンだってたくさんいる。彼のことも、もう馬鹿にしないで!」
それだけ言い残して、ばたんとドアを閉めた。黒川と逃げるように古雑誌を抱えて、階段を降りた。事務棟一階の、資源ごみ置き場の前で私達は立ち止まって顔を見合わせる。そして「怖かったぁ」と互いの声が重なった。
「ごめんなさい、勝手に……」
「いいよ、黒川さん。言い返してくれてありがとう」
「私、エミーの大ファンだからもうあの状況が許せなくて」
「偶然とはいえ、私の絵が描いてあるCD持って馬鹿にしてくるなんてよく考えたら笑えるね」
「確かに、よく考えたら笑えますね。私はエミーと澤村さんのファンだから、怒りが先に来ちゃったけど」
エミーというのは、さっき話題になっていたCDの歌手の愛称だ。
彼女はエマという名前で活動している米国の女性シンガーだ。世界的に有名な歌手だが、何故か一昨年、私のSNSに突然彼女から英文のメールが届いたのだ。
作品と作業工程を淡々と載せるだけのSNSに有名歌手の名前でメールが届き、その内容は「偶然あなたの絵を見てファンになった、私の絵を描いてほしい」とあった。どう考えても詐欺だと思った。無視していたらしつこくメールがきて、さらに無視していたらついには大学に彼女の代理人がきてしまう事態になった。
それからあれよあれよと話が進み、気付いたら私は米国に連れて行かれ、彼女と会い、彼女を描いていた。そうして出来上がったのが件のCDのジャケットだった。
歌のタイトルが未完成だというので、彼女と相談して、彼女の顔の半分は下書きの状態で、もう半分は忠実に、繊細に、そのままの彼女を描いた。
強く、気高い歌手の仮面を被った、本当はナイーブな彼女を。
その絵を彼女はたいそう気に入って、とんでもない金額で絵を買い取ってくれた。税金の申告が大変だったことが一番の苦労だったと思い返していた。
「あのお姉さんって、そんなに人気者だったんだね。私、あんまり音楽聞かないから実感が無くて。強引だったけど、優しくて気のいいお姉さんだった。ごはんいっぱい奢ってくれたし」
「私生活のエミー……!私生活でも姉御肌で優しいんですね!」
黒川は歌手の大ファンらしく、私のSNSもその歌手がフォローしていたから知ったらしい。
古雑誌を捨てて、実技棟に戻るのに大会議室を避けて、遠回りしながら歩いた。小会議室に入ろうとしたとき、黒川がそう言えば、と思い出したように口を開く。
「さっき一ノ瀬くんのことも言ってたましたけど……一ノ瀬くんってプロの作曲家なんですか?」
「あ……!そうだ、腹が立って一ノ瀬くんのこと勝手に言っちゃった!どうしよう」
「俺がどうかした?」
背後から唐突に声がして、私は肩を跳ね上げた。振り返ると、やはり目の前にネクタイがある。背の高い彼を私はいつも見上げなくてはならない。
「一ノ瀬くん!」
一ノ瀬はにこにこと人の良い笑みを浮かべて「どうしたの?」と尋ねる。私は慌てて事の次第を伝える。
「そんなわけで、勝手に一ノ瀬くんのこと話しちゃった。ごめんなさい」
「深刻な顔するからどんな大ごとかと思ったら、そんなことか。構わないよ。普通に本名で活動してるし、隠してるわけでもない。実習中だから、生徒に変に騒がれると面倒だから生徒には言わないでほしいけど」
「良かった……ごめんね、ついムキになって」
「俺の為に怒ってくれたんでしょ?」
「だって、ね、黒川さん!あの人たち酷いかったよね⁉」
黒川は首が取れそうなくらい大きく頷いた。
「芸術に恨みでもあるのかってくらい酷い言い様でしたよ。佐々木さんが澤村さんにあまりに酷いこと言うんで、私も我慢できなくて怒ってしまいました」
「黒川さんを怒らせるなんて、相当だな……」
「今日で最後なのに私のせいで嫌な思いさせてごめんね、黒川さん」
「澤村さんのせいじゃありません。謝らないで下さい。それより、私、一ノ瀬くんの作った曲聞いてみたいです!」
「へ?いいけど、ちょっと待って、どの曲が良いかな……」
一ノ瀬がポケットから携帯を取り出して、音楽アプリを起動して何やら操作している。そうこうしている内に飯森も小会議室に戻ってきて、四人でわいわい話した。来週から黒川がいないのかと思うと、急激に寂しくなって彼女が帰る前にたくさん、たくさんお礼を言った。黒川の通っている大学は関東にあるので、互いの卒展を見に行こうと約束をした。
高校時代に友達がいなかった私に、教えてあげたい。
教育実習で高校に戻ったら、私の為に怒ってくれる友達ができたよ、と。
***
週が明けて、いよいよ教育実習も大詰め。最終週に入った。
先週から止まっていたはずの佐々木の嫌がらせは復活していた。おそらく金曜日のことでまた怒りに火をつけたらしい。月曜の朝、ロッカーを開けると、生ごみが入れられていた。それを皮切りに地味な嫌がらせが続いた。
今週は木曜日に研究授業があるため、それどころではなく、私は気が気ではなかった。美術はもちろん他教科の授業見学に、自分の授業など、とにかくやることが多すぎて、月曜、火曜と信じられないくらい早く時間が過ぎていく。嫌がらせに構っている暇はなかった。
念のため、一ノ瀬の助言に従って、嫌がらせの記録だけは残していたけれど、もはや軽度の嫌がらせに心を痛める暇すらなかった。
そして水曜日。
翌日の研究授業に向けて私はプリントの準備や、授業で使うスライドの微調整などになどに追われていた。研究授業の後に待つ、あの恐ろしい検討会。そこで突かれる部分をできるだけ減らしたくて必死だった。
それに、私にとって研究授業はおそらく人生で最後の授業になる。生徒たちに少しでも多く絵を描くことの楽しさを伝えたい。そのために出来ることはしておきたかった。
水曜日も慌ただしく一日が過ぎて、ホームルームの後、疲れた顔で廊下を歩いていると、美術部の生徒たちに話しかけられた。
「澤村先生、今週で実習終わりでしょ?」
「金曜でお別れですね」
「やだあ、寂しい。先生にもっと部活で教えて欲しかったな」
「ありがとう、そう言ってくれて嬉しいな。今日は水曜だから部活はお休みだけど、明日の部活は行くからね」
「じゃあ、明日の部活でいっぱい話そうね!そうだ、先生のスケッチブック、また見てもいいですか?」
「うん、いいよ。美術室の棚に置いたままにしてあるから、自由に見てね。でも、すごく大切なスケッチブックだから、扱いは丁寧にお願いしますね。本当に大切なものだから」
「はーい!」
その生徒は手を挙げて元気に返事をする。その時、ちょうど後ろに通りかかったスーツの女性に生徒の手が当たった。
「あ、すいません!」
反射的に私は謝った。けれど、その相手は佐々木美希だった。私はぞっとして息をのむ。
「あ、佐々木先生、ごめんなさい。手が当たっちゃった」
生徒が頭を下げて謝ると、佐々木は可愛らしい顔でさらに可愛らしく微笑む。
「大丈夫だよー。でも、危ないから気を付けてねぇ」
にこやかに手を振って、彼女は去った。立ち去る寸前、意味深な視線を私に向けたように見えた。彼女がいなくなって、息をするのを忘れていた私は深く息を吐いた。
生徒たちとしばらくお喋りして、私は小会議室に戻り、研究授業の最終確認をしていた。印刷物のチェック、授業でスクリーンに映す予定の資料など、確認しても確認しても不安は拭いきれない。早く明日が終わってほしいと思うくらい、今から緊張してしまう。一通り準備を終えたら、美術準備室で高岡先生に最終チェックをしてもらった。
「そんなに緊張しなくても、最後の授業を楽しめばいいんですよ」
そんな優しい言葉をかけて、高岡先生は帰っていった。今日は部活もなく、先生も早々に帰宅した。私は無人の美術室で明日の授業の練習をする。言い回しは変えた方が分かりやすいかな、この質問の時は誰を当てようか。そんなことを考えながら何度か練習をした。日が落ち始めて、そろそろ帰ろうかと美術室を片づけていると、扉をノックする音がした。
「澤村さん、今大丈夫?」
扉を開けて飯森が顔を覗かせる。リュックを背負っていて、すでに帰り支度を済ませた様子だった。
「飯森さん、どうしたの?」
「あたし、今から帰るところなんだけど、家庭室の前で落とし物拾っちゃってさ。たぶん、生徒の自転車の鍵だと思うんだよね」
彼女はキーホルダーのついた小さなカギを手に持っていた。
「悪いんだけれど、代わりに生徒指導室に届けてくれないかな?どうしても次のバスに乗りたいの!今日、姪っ子の幼稚園のお迎え頼まれててさ」
「全然かまわないよ。任せて」
「ありがと、澤村さん!助かる!」
「バスに遅れたら大変だから行って、行って!じゃあね!」
飯森はバイバイと手を振って急ぎ足で階段を降りていった。落とし主のためにも早く届けようと、私は美術室の片づけは途中にして鍵を持って生徒指導室に向かった。生徒指導室は遅刻した時に世話になった場所だが、忘れ物や落とし物も管理していることを実習中に知った。
生徒指導室を訪ねると、まだ残っていた先生に無事に忘れ物を受け渡すことができた。再び廊下を歩いていると、実技棟からこちらへ歩いてくる人影があった。それが誰だか気づいて、私はすぐに廊下の端に寄って、目を伏せながら歩く速度を速めた。
向こうから歩いてきたのは佐々木美希だった。
佐々木は逃げようとする私の目の前にわざと立ち塞がった。
「……何?」
行く手を阻まれた私は、目を伏せたままそう問うしかなかった
「楽しそうだねぇ、香ちゃん」
佐々木は感情の無い声で言う。
「なんであんたみたいなのが実習に来てるわけ?得意なお絵描きしてればいいのに。絵が上手いでーすって自慢しに来たの?プロのくせに冷やかしで教育実習来てんじゃねえよ。どうせ、あたしみたいな教育学部の平凡な人間を馬鹿にしてんでしょ?」
「そんなこと思ってない……いきなり、何なの。意味が分からない」
「そうよだね、どうせお前にあたしの気持ちが分かるわけない」
見間違いかもしれないけれど、佐々木はほんの一瞬、切なそうな、苦しそうな顔をした。そして、すぐにその顔は恐ろしい形相に変わり、私に顔を近づけて睨みつける。
「お前を許さない。大切なもの、全部壊してやる。無事に実習を終えられると思うなよ」
佐々木は愉快そうに顔を歪めて笑う。
「あんたなんか大嫌い」
私の髪を引っ張り、彼女は耳元で囁く。そして突き飛ばすように私を押しのけて、彼女は荒れた足取りで去っていく。私はバランスを崩してその場に倒れる。身に覚えのない怒りと悪意を向けられて、恐怖しかなかった。震える足で、なんとか立ち上がるけれど、震えは一向に止まらなかった。
どうして、あの子は私をここまで憎むのだろう。何の接点もなかった、私を。
嫌な予感がした。私はすぐに美術室へ走った。教室の前まで来ると立ち止まって、私は乱れた息を整える。
半開きのドア。誰かが、美術室に入ったんだ。私のいない隙に、誰かが。水曜日で部活は休みだから実技棟に生徒の姿はない。こんな時間に、私が少し席を外した隙に美術室に忍び込む人間なんて一人しか思いつかない。
この予感が当たっていませんように。願いながら、震える手で美術室の扉を開けた。飛び込んできた目の前の光景に、息が出来なかった。
「そんな……」
床に散らばるのは無残に破り捨てられたスケッチ。父から最後に買ってもらったスケッチブックの表紙は真っ二つに割かれ、投げ捨てられている。描き溜めたスケッチの数々はご丁寧に一枚ずつ破かれ、踏みにじられ、そのどれもが原型をとどめていなかった。大切な私のスケッチブックは、もうどこにもない。
噛みしめた唇から、声にならない声が漏れる。
「何で……何で、私が何したって言うんだよ」
しんどい。苦しい、腹が立つ。何より哀しい。
心が負の方向へと急激に引っ張られる。あの、辛くて思い出したくもない高校時代に一瞬で引き戻される。あの頃の自分に戻ってしまうみたいで怖い。一瞬だって、戻りたくないのに。
泣きたくないのに鼻がツンとして、涙で視界が歪み始める。目の前にある引き裂かれたスケッチブックに恐る恐る手を伸ばして、縋るように抱きしめた。
宝物だったのに。この中に描いたすべて、私の宝物だった。
殴られるより、絵を汚されることのほうが比べようも無いくらい辛い。
許せない。殺したいくらい憎らしい。どうしてこんな目に遭うのだろう。
「私が悪いの……?」
もう全部自分のせいにして、終わりにしたい。消えてしまいたい。短絡的にそう思ってしまう一方で、心の奥底でもう一人の私がいやだと叫んでいる。あの頃になんかもう戻りたくない。苦しい、助けて。そう叫んでいる。
不意に視線を窓に向けた。
ああ、あの時も。この窓から飛び降りようとしたあの時もこんなふうに胸が苦しかった。
あの雨の日、私を助けてくれた音楽はもう響かない。
もう一度あの音色が聞けたら、私はまた頑張れるのに。
「やっぱり、あの時……」
死んでいればよかったのかな。
声に出して言ったら何かが途切れて、壊れてしまいそうだった。私は徐に窓を開けて、下を覗く。もし、あの日ここから飛び降りていたらどうなっていただろう。死んでいたのだろうか。あの日きちんと死ねていたら、今の苦しみはなかった。これからも、あの女は私を害し続けると言う。この恐怖は、苦しみは、いつまで続くのだろう。
いつの間にか、吸い寄せられるように身を乗り出した。高校時代の私に呼ばれているような気がした。今、ここから落ちたらどうなるだろう。落ちたっていいのかもしれない。自暴自棄になっていた。この体を支えている手から一瞬力を抜くだけで、解放される。
「もう、いやだ。逃げたい」
涙の混じった声で、嗚咽するように弱音を吐露した。溢れる涙を堪えた。あと一歩踏み出せば終わる、そう思った。
その時、美しいピアノの旋律が頭上から降り注いだ。
「なんで……」
空を見上げて、私はひゅっと息をのんだ。この旋律を私は知っている。
死にたかった私を助けてくれた、あの美しくて、泣きたくなるくらい優しい音色。
「そうだ、今日……水曜日だ」
はっとして、窓から降りた。床に両足が着くと、馬鹿みたいに私の足は震えていた。その間もピアノの音色は流れ続けている。
水曜日の放課後、いつも聴いていたピアノ。これは願望が、死にたがり私の耳に響かせる幻聴なのだろうか。けれど、幻聴とは思えないくらいしっかりとこの耳に音は届いている。幻聴なんかじゃ、ない。
私はこの優しい音楽に何度救われたのだろう。
身体は勝手に教室を飛び出していた。あの時も、今日も。私を救ってくれた美しくて、とびきり優しい音楽。一体、誰がこの優しい音色を奏でてくれているのだろう。
転びそうになりながら、階段を駆け上がり、三階の音楽室の前で立ち止まる。荒い息で胸は忙しなく上下する。開いている扉から中を覗いた。沈みかけた色濃い夕陽は、音楽室を深紅に染めている。
黄昏時、ピアノを響かせるその人の容貌は、夕陽の影になってはっきりとは見えない。最後の一音がそっと響いて、音楽室は静まり返る。
演者は立ち上がると、私に気づいたように顔をこちらに向けた。風で揺れたカーテンが一瞬、眩い夕陽を遮り、やっとその人の顔をこの目に映すことができた。
子犬みたいにふわふわの髪に白い肌、くりっとした目にすっと通った鼻筋。何より印象的なのはまっすぐな強い瞳。少年のようにあどけない顔立ちはよく知っているものだった。
「一ノ瀬くん……」
私を救ってくれたのは、優しい音楽を奏でていたのは、一ノ瀬律だった。やはり彼だった。彼であれと、彼が良いと、そう思いながらここまで走った。
違う、もっと前から本当は何度も思っていた。ピアノの彼があなただったらいいのに、と。それは、願いにも似た予感だった。
「どうしたの、澤村さん。何かあったの?」
彼はびっくりしたようにこちらを見て尋ねる。
「あ……あの、えっと……」
何から言えばいいんだろう。彼に何を伝えれば良いだろう。そんな気持ちと裏腹に言葉が勝手に口から溢れてくる。
「あのね、水曜日に……」
「水曜日?」
「水曜日の放課後、ここで、ピアノを弾いていた?」
「え?あ……高校の時?うん、弾いてたよ。何で知ってるの?部活が水曜日休みで、音楽室空いてたからピアノ借りて……って、えっ、澤村さん⁉」
一ノ瀬はぎょっとして私を見る。さっき我慢したはずの涙が止めどなく溢れて、頬を伝う。熱を帯びた涙は真下にぽろぽろと零れ落ちていく。
私が会いたくて、堪らなかった人。
「一ノ瀬くんだったんだね……」
熱い塊のようなものが喉につっかえてうまく息ができない。
「私、いつも救われてた……あなたの演奏に。こんなこと、急に言われても困ると思うけど、ごめんね。でも、本当に救われてたの。ずっとあなたに直接、お礼が言いたかった。だから、ありがとう」
絞り出した声は掠れていた。瞬きする度に、大粒の涙が頬を伝い落ちる。
きっとこの涙は、高校生の私の涙だ。あの時救われた私が、彼に会えて今、歓喜して泣いているんだ。
「あの時、私を救ってくれてありがとう」
涙声でそう言うと、私は泣き崩れるようにその場にへたり込んだ。困惑する一ノ瀬が駆け寄ってきて、私の涙を拭ってくれるのに、涙は次から次へと溢れて止まらなかった。
泣きながらやっと私は自覚して、認めた。
私は、この人が好きだ。
***
ひとしきり泣いたあと、私は一ノ瀬に高校生時代の話をした。
水曜日の放課後、いつも彼のピアノをこっそり聞いていたこと。死にたいくらい辛かった時、そのピアノに救われたこと。彼のピアノがどれほど私の心の支えになっていたか。そんな私のとりとめのない話を、彼は優しい笑みを浮かべながら聞いた。時折泣いてしまう私の背中を擦って、彼は最後まで静かに聞いてくれた。
話し終える頃には落ち着いて、私の涙はようやく止まっていた。
「目が赤くなっちゃったね。帰ったら冷やした方がいいよ」
一ノ瀬は私を椅子に座らせて、顔を近づけて赤く腫れた瞼にそっと触れる。涙で濡れたまま頬をハンカチで拭った。私は恥ずかしくなって「自分で拭くから」と彼を押しのけた。
「急に泣いてごめん……こんな話されて、びっくりしたよね」
目元を拭いながら言うと、彼は首を横に振る。
「びっくりしたけど、嬉しかったよ」
一ノ瀬は私の前に椅子を置いて座ると、私と向かい合って視線を合わせて穏やかに微笑んだ。
「俺の音楽が、誰かを助けていたってことがたまらなく嬉しい」
あのピアノの音色が、優しい理由が分かった気がした。私はずっと聞きたかったことを彼に尋ねた。
「さっき弾いていたあの曲、なんて言う名前なの?ずっと知りたくて……前にも言ったけど、調べても全然分からなかったの」
一ノ瀬は目をぱちくりさせて、少し考えると思い出したように口を開いた。
「……ああ!前に学食で言っていた曲って、あれのことだったのか!え、待って、あの鼻歌は違い過ぎない⁉リズムしかあってない!」
「音痴だから仕方ないでしょ」
一ノ瀬は私の下手くそな鼻歌を思い出して、肩を震わせている。失礼過ぎて、私の涙は完全に引っ込んだ。どうにか笑いを収めて、一ノ瀬はやっと質問に答える。
「あの曲は、ちゃんとした名前がないんだ。俺が作った曲だから」
「えっ、そうなの⁉一ノ瀬くんが作った曲なの」
「うん。高校生の時に作ったオリジナル」
「だから、探しても見つからなかったんだ……」
「どこにも発表してないしね。あの曲は、高校生の時、進路をずっと悩んでて、きっかけがあって音大を受験するって決めた時に作った曲なんだ」
「きっかけ?」
「澤村さんが俺のピアノに救われたって言ってくれたみたいに、俺もたった一枚の絵なんだけど、その絵に救われることがあったんだ。それで、音大に行こうって決心できた。俺もあの絵みたいに、誰かを救ってくれるようなものを創りたいって思って、この曲を作ったんだ。だから、澤村さんの助けになれて、本当に嬉しい」
窓から見える夕陽は、今にも沈みそう。落ちていく夕陽が彼の優しい笑顔を朱く、温かな色に染めている。
「音楽やってて良かった」
彼は立ち上がると、譜面台に置いた楽譜を愛おしそうに撫でる。彼が音楽を愛していることが、その指先から示していた。楽譜が羨ましくなるくらい、愛が伝わってくる。
「澤村さんの話を聞いてて思ったんだけど」
一ノ瀬は楽譜の束が閉じてあるファイルを手に持つと、私を振り返った。そして、そのファイルから一枚の紙を取り出して見せる。つらつら、と文字が書き連ねてある白い便箋だった。
それは、とても見覚えのあるものだった。
「そ、それ……!」
息が止まりそうだった。恥ずかしさで死ねるなら、私はきっと今、即死していただろう。
彼が手に持っていたのは私の黒歴史の象徴、名無しのラブレターだった。
「やっぱり!この手紙、澤村さんが書いてくれたんだね」
にっこり笑う一ノ瀬とは対照的に私は慌てふためいて立ち上がる。
「やだ!仕舞って、そんなもの!何で持ってるの⁉」
「何でって、澤村さんが俺にくれたんでしょ?」
「四年も前のものを何で持ってるの!返して!」
「やだよ、俺のだもん」
私が奪い取ろうと手を伸ばすと、一ノ瀬は長身を活かしてひょいと天高く手紙を掲げる。私は猫じゃらしで遊んでいる猫みたいにぴょんぴょん飛んで取り返そうとするが、届くはずもなく、無駄に疲れて息を荒げるだけだった。
「はあっ……はあっ……あと身長が二十センチあればっ……!」
「なんでさっき、高校時代の話をしてる時に手紙のことだけ言わなかったの?」
「恥ずかしいからだよ!とりあえず、その危険物を仕舞ってください!お願いだから!」
耐えきれなくなって半ば怒りながら懇願すると、一ノ瀬は「はいはい」と呆れたように笑って私が書いた古の手紙をファイルのもとあった場所に戻した。便箋が視界から消えて、私はようやく落ち着きを取り戻した。
「お願い、捨ててください、アレ……」
「そんなに恥ずかしがらなくても。俺はあの手紙、すごく嬉しかったよ。何回も、何回も読んで、力をもらったんだ。今もこうして大事に楽譜に挟んでるくらい大事にしてるよ」
「あ、有り難いような、有り難くないような……いや、有り難くない」
大事そうに私の手紙を扱う彼の姿を見て、私はずっとスケッチブックに挟んでいた手紙を思い出した。生徒に見られるのは恥ずかしいと思い、あの手紙は今、手帳に挟んである。そのおかげで、スケッチブックは破損したが、手紙だけは無事だった。私にとってあの手紙が宝物のように大事なように、一ノ瀬にとっても私の手紙は大切なものらしい。
嬉しいけれど、少しこそばゆい。
「ねえ、この手紙ってさ、ファンレター?俺はラブレターだったらいいなと思っていつも読んでたんだけど。何で名前書いてくれなかったの?」
無邪気な問いに私はまた息が止まりそうだった。黙っていると、ねえねえと一ノ瀬はしつこく私をつつく。ぷい、と顔を逸らして一言だけ答えた。
「……秘密」
それ以上は恥ずかしくて死にそうで、何も答えられなかった。一ノ瀬はまだ何か言おうとしていたけれど、ちょうど下校時刻を知らせるチャイムが鳴った。
「もうこんな時間!美術室、片づけに行かなきゃ」
「え、今日は水曜だから部活ないでしょ?」
「それが、実はね……」
私は困ったように眉を下げた。一ノ瀬と美術室に向かいながらついさっき起きたことの顛末を話して、美術室の有様を見せると彼は言葉を失っていた。床に散乱したままの汚されたスケッチの数々。改めて見ると、明確な悪意がそこには満ちていた。
「……酷すぎる」
一ノ瀬は屈んで、散らばったスケッチを拾い上げる。
「どうして、こんな酷いことができるんだろう」
彼は自分のことみたいに怒って、そして悲しんでいた。彼は散らばっている紙を一緒に集めてくれた。汚れは払って、曲がっているところがあれば丁寧に皺を伸ばして、一枚一枚を大切に扱ってくれた。すべて集め終えて、私は汚れた紙の束をぎゅっと抱きしめる。こんな有様になっても、私にとって大切なスケッチブックであることに変わりはない。
「ありがとう、手伝ってくれて」
私は一ノ瀬を見上げて、笑顔を作る。
「大丈夫だよ。全然、大丈夫。絵なんて、またいくらでも描けばいいから」
笑顔で言ったけれど、私はうまく笑えていただろうか。頬は引き攣っていたかもしれない。本当は言い様がないほど腹立たしい。怒りで頭がおかしくなりそうだ。絵は私の何にも代えがたいもの。暴力も、暴言も耐えた。でも、絵だけは耐えられない。
絵を汚されることだけは、許せなかった。
「このくらい、大丈夫」
そう言うと、何故だか彼が泣きそうな顔した。彼の顔を見ていると、目頭が熱くなって、声が震えそうになる。それを必死で隠しながら大丈夫、と繰り返した。
「本当に大丈夫だよ。心配しないで」
一ノ瀬はじっと私を見つめて、すっと一筋の涙を零す。そして私をぎゅっと抱きしめた。
「澤村さんの大丈夫は、いつだって大丈夫に聞こえないよ」
彼の涙声を聞きながら、彼の妹の言葉を思い出す。瞬きをするとさっき引っ込んだはずの涙が数滴零れて、彼のスーツの胸元を濡らした。彼の泣き虫がきっと私にうつってしまったに違いない。
ほんの数秒だけ彼と抱き合って、すぐに離れた。
「ごめん、つい」
彼は短く謝罪すると、目元を軽く拭った。帰ろうか、とどちらともなく言った。すっかり夕陽が沈んで暗くなった廊下を二人並んで歩いた。何か話したいのに、何を話していいか分からなくて、結局何も言えなかった。
明日は研究授業がある。そして明後日で長かった教育実習も終わる。あと二日ですべてが終わる。
浮ついた気持ちは、それまで胸の奥にしまっておくことにした。
***
木曜日、ついに研究授業当日になった。
緊張して、いつもより早く登校した。そのおかげか、ロッカーにゴミは入っていなかった。昨日も、一昨日も室内履きはゴミまみれになっていた。昨日の嫌がらせで、佐々木も満足したのだろうか。そうだといいのだけれど。
いつも通り一年生の教室に行った。朝のホームルームをして美術室に向かった。研究授業は二時間目にあるので、授業の無い一時間目のうちに準備をする。生徒に配るプリントを教卓の上に用意し、パソコンとプロジェクターを起動してスクリーンに授業用のスライドを投影する。準備は万端だ。コンコン、と音がして振り返ると、教室の扉を律儀に一ノ瀬がノックしていた。
「澤村さん、おはよう」
一ノ瀬は美術室に入って来ると、教室を見回す。
「おはよう、一ノ瀬くん。どうしたの?」
「いや、今日は澤村さんが研究授業だからちょっと心配で見に来た。昨日、あんなことがあったしね」
「今朝は珍しく何もなかったから、もう大丈夫かも。佐々木さんだって明日、研究授業のはずだし、私に嫌がらせしてる暇はもうないはずだよ」
「そうだといいんだけどね。俺も明日、研究授業だなあ」
「一ノ瀬くんは、二年生のクラスで研究授業するんだよね?」
「うん、作曲の授業してるんだ。明日はその演奏会。結構、おおっと思う曲とかあってすごい楽しい。授業なのに、俺が多分一番楽しんでる自信ある」
「楽しそう、見に行くね。一ノ瀬くんは私と違って、先生に向いてそうだよね」
「そう?澤村さんも向いてると思うけど。真面目だし」
「真面目って言うか、要領が悪いだけだよ。ああ、どうしよう、緊張してきちゃった。私、大きい声出すの苦手だし、教室の後ろに立つ先生まで声届くかな⁉」
「じゃあ、俺後ろまで行くから試しに話してみれば?」
一ノ瀬は言いながら教室の後ろまで下がった。私は適当に教科書の文章を読んでみせる。
「どう?聞こえる?」
「んー、生徒がいるとざわつくから、もう少し大きい声が良いかな。あ、動画撮ったら分かるかも」
一ノ瀬は携帯のカメラを起動して、教室後方の棚の上に置いた。私はもう一度、先ほどより声を貼って教科書を読んでみる。一ノ瀬のもとに駆け寄って、録画した動画を見せてもらった。
「あ、思ったより声が小さい……ていうか、私こんな声なの?なんか変……」
「自分の声を録音すると必ず思うよね」
「緊張で無意識に髪の毛触っちゃってるのも気になるな。結んでおこうっと」
私はヘアゴムで長い黒髪をさっと一つにまとめた。その様子を一ノ瀬がじっと見つめている。
「見過ぎだよ」
「綺麗な髪に目が無くて」
「髪フェチだからってそんなまじまじと見ないで下さい」
「おろしてるのもいいけど、結んでもいいね。俺、もっとこう高い位置で結ぶやつ、ポニーテール?好きだな!」
「あなたの好みは一切聞いてないです」
一ノ瀬と下らないやり取りをしていると、緊張が少しほぐれた。もう一回撮影しようか、と一ノ瀬が携帯のカメラを録画モードにして棚にセットしていると、準備室から高岡先生が顔を覗かせる。
「澤村先生、準備どう?おや、一ノ瀬先生もいたのかい」
一ノ瀬は高岡先生にお邪魔してます、と会釈する。
「さっき、音楽の静先生が君を探していたよ?」
「え、本当ですか!やばい、すぐ行かないとまたしばかれる!あー、何だろう?誤記でもあったかなー⁉それじゃ、澤村さん、頑張って!」
一ノ瀬は大騒ぎしながら、廊下へ駆けて行った。高岡先生は「騒がしい子だね」と苦笑していた。
「それで、研究授業の準備はどう。問題ないかい?」
「はい、後は私がちゃんと授業するだけです。それが一番、難題なんですけど」
「ははは、緊張しているね、澤村先生。失敗も成功も、今後の糧となりますよ。気負い過ぎずにね」
「……頑張ります」
「君の授業で描いている生徒たちの作品を見ましたが、良い作品が多かったですよ。自信を持って。ああ、そうだ。研究授業で先生方に配る指導案をコピーしないといけないんでした。印刷したものはあるかな?」
「あっ、忘れてました、すいません!修正前のものしか、出力したものは手元になくて……」
「データは学内サーバーにあるんだね?じゃあ、職員室の共用パソコンで出力して、人数分コピーすればいい」
「分かりました。共用パソコンって、職員室のどのあたりにありますか?」
「ああ、ちょっとわかりにくい場所にあるからね、僕も職員室に用事があるから一緒に行こうか」
「すみません、ありがとうございます」
一時間目が終わるまであと三十分しかない。高岡先生と美術室を離れ、職員室へ移動して指導案を印刷し、コピーした。高岡先生は管理職に呼ばれて話し込んでいたので、私は先に指導案の束を抱えて職員室を出た。腕時計を見ると、あと十分ほどで一時間目の授業が終わる時間になっていた。私は急ぎ足で美術室に戻った。
教室に入った瞬間、何かを踏んでじゃり、と不快な音がした。ぞっと、肌が粟立つ。下を見るのが怖い、でも見ないと。恐る恐る視線をゆっくりと足元に落とす。小さな硝子の破片のようなものが散らばっている。視線を横に動かして、すぐに悟った。
ああ、私は油断していたんだ。
教卓のすぐ横に、ノートパソコンが落ちていた。ちゃんと、教卓の上に置いてあったはずだ。学校の備品でもあるそのパソコンは床の上でひっくり返っていた。画面が割れて、飛び散っている。落ちただけで、こんな壊れた方をするとは思えない。そもそも、落ちるようなところに置いていない。
絶望と怒りが綯い交ぜになって、私の思考も体も動きを止めていた。数秒して、時計を見あげた。もう数分でチャイムが鳴る。休み時間は十分間。あと十数分で、授業ができるようにしないといけない。私の授業は、基本的に板書は補助程度で主にスクリーンを使って授業をする。それなしで今から板書と口頭で授業をするには内容を授業大幅に変更しなければならない。その前に備品のパソコンを壊したことを報告しないといけない。
一体、何から手を付けたらいい。焦りで頭が回らない。その場に座り込んでぐるぐると考えていたら一時間目の終了を告げるチャイムが鳴った。
ああ、時間が無い。どうしよう、どうしよう。
「澤村さん!」
後ろから声がして、振り返った。私にとって今、一番安心する声がした。声を聞いただけで、涙が込み上げてくる。