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実習が始まって二週目の金曜日。
その日は同じ芸術科の実習生である黒川の最後の授業日だった。高校の免許だけを取得する彼女は中高両方の免許を取る実習生より早く実習が終わる。彼女の他にも二人ほど高校の免許だけを取得するという実習生がいて、彼らは今日が実習最終日なのだ。
この日は黒川の研究授業があった。教育実習での研究授業は、実習生の授業の内容や成果を指導担当教員や学校長など管理職、他教科の教員に見てもらう授業のことだ。そして先生方から指導や批評、助言を受け、指導内容の反省、授業の改善につなげていくのだ。実習の総仕上げともいえる。
「それでは授業を始めます。後ろに見学の先生方がいますが、みなさん気にせずにいつも通り書いていきましょう」
授業の始めに、黒川はちらちらと後ろを振り返る生徒たちを窘めた。
書道教室の後方には、書道のおじいちゃん先生をはじめ、管理職や他教科の先生方、私のような実習生の姿もちらほらあった。一ノ瀬はこの時間、担当しているクラスの授業があり来られなかった。私はたまたま担当クラスではなかったので、彼女の授業を見学に来たのだ。
学生時代、書道の授業は受けたことがなかったので、なかなか新鮮だった。同じ楷書体でも、書家によって筆遣いや線質が少しずつ違うことなど興味深かかった。そして実際に黒川がお手本を書くところも見ることができた。黒川は簡単そうにさらさらと筆を動かし、筆先から美しい字が次々と生まれていく。筆を使うことは同じなのに私とはまるで違う世界だと驚きと共に実感した。
「では、今書いて見せたように筆遣いに気を付けて作品を書いていきましょう」
生徒たちは作品の制作時間に入ると、和気あいあいとしがちな美術の授業と違って、私語もなく教室は静まり返っていた。隣の美術室の声が聞こえるくらい、静かだった。終始、緊張していた黒川だったが、問題なく授業は終わった。
この後は教科指導教員、管理職、そして授業の無い先生方は教室に残り、研究授業の検討会が行われる。私も来週は我が身なので参考にしたくて検討会に参加させてもらった。
時間管理や、板書の使い方、机間巡視の声掛けなど想像以上に細かい点での指導や厳しい意見もあった。自分もこうなると考えると、身震いした。一時間経ってチャイムと同時に検討会は終了した。研究授業と検討会に出席していた飯森と一緒に教室を出た。
「検討会って結構厳しいこと言われるんだね……怖かった」
周りに人がいないのを確認してから小さな声で飯森に言うと、彼女も大きく頷いていた。
「ねー……あたし、ちょっと来週が憂鬱だわ」
「今から緊張するね。はー……でも、今日で黒川さんとお別れかあ」
「寂しくなるねぇ」
私も寂しいね、と飯森の言葉を繰り返した。
飯森と別れて、私は美術室で高岡先生の手伝いをし、その後は高岡先生に頼まれた書類を提出しに職員室に向かった。書類を管理職に渡して、職員室を出ると、近くの階段から上って来た黒川に遭遇した。たくさんの古雑誌を抱えた黒川に思わず私は駆け寄った。
「黒川さん、すごい荷物だね。大丈夫?私も持つよ」
「あ、澤村さんありがとうございます」
黒川の腕から古雑誌を半分、奪い取るように抱えた。
「研究授業、お疲れ様。それでこれはどうしたの?」
書道の専門誌らしいそれは、随分年季の入った雑誌ばかりだった。
「それがですね、もう聞いてくださいよ!」
黒川は珍しく怒っている様子だった。
「昨日、書道の先生に頼まれて、古雑誌をまとめて一階の資源ごみ置き場に出したんですけどね?そしたら、先生が捨てたらいけない本を間違えて出してしまったかもっていうんで、取り返しに来たんです!」
「あらら……それは災難だったね。今日で最終日なのに。これ書道室に持って行くの?」
「いえ、そこの大会議室に持って行こうかと。この雑誌の山の中から先生が探している本を一冊見つけないといけないんですが、あとは捨てる予定なので」
「それなら私も一緒に探すよ」
「一人だと大会議室に入りにくかったので、ありがたいです」
黒川と共に大会議室に入ると、他の実習生たちが授業の準備などをしていた。彼らの視線が一斉に私達に集まる。佐々木が私の悪評を広めているおかげで、他の実習生からの視線がどうにも冷たい。実害はないので構わないが。運よく佐々木の姿はなかったので、私は安心して大会議室の中に入った。隅の空いたテーブルに雑誌の山を置いた。
「緑色の表紙で大きく行書と書いてある本だったと思うんですが……」
「わかったよ。じゃあ、私はこっちの山から探すね」
私たちはてきぱきと雑誌の山を崩し始める。最初は周囲からチラチラと視線を感じていたが、実習生も暇ではないのですぐに彼らも自分の作業に意識を戻していた。五分くらいして、黒川が「ありました!」と目当ての本を見つけた。
「よかった、じゃあ……」
行こうか、と言いかけた時、私の声に被さって近くに座っていた実習生の男子が「あれ」と声を上げた。
「こんなところにCD落ちてたけど、誰の?」
彼は机の下からCDを拾い上げて、周囲の実習生に尋ねる。確か、国語の実習生で佐々木の取り巻きの一人だった女子が答える。
「あ、それ佐々木ちゃんのだよ。授業で使ってたと思う」
佐々木の名前が出て、私は反射的にびくびくしてしまう。しかも噂をすれば、とでも言うようにちょうど佐々木が大会議室に入って来た。
「ねえねえ、ここにエミーのCDなかった⁉」
入って来るなり、佐々木は大きな声で誰にと言うわけでもなく尋ねる。視線が合うと、私がいることに気づいて一瞬、彼女の顔は険しくなった。
「テーブルの下に落ちてたよ」
先ほどCDを拾った男子が佐々木に手渡した。佐々木は猫撫で声でお礼を言いながら受け取る。佐々木が手に持ったCDを見て、黒川がはっとして嬉しそうな顔で私を見た。黒川が何を言いたいか分かっていたけれど、私はどんなリアクションをしていいかわからなくて、曖昧に頷いた。
「これだよー!探してたの!ここにあってよかったぁ!英語科準備室に返そうと思ったらないから焦っちゃったよー。飯田君、ほんとありがとね!ALTのマイクの授業で使ってて、歌詞の英訳してるんだよ。有名な曲だし、生徒も食いつき良くてさあ」
佐々木が話し出すと、あっという間に周りに人が集まって賑やかになった。私と黒川はさっさとこの部屋から去ろうと、広げた古雑誌を急いで紐で縛り直していた。
「この歌手、エミーだっけ?最近よく聞くわ」
「去年、洋楽で一番売れた曲とか言われてたよね」
「日本でもCMとかで使われて、すごいダウンロード数らしいよ」
実習生たちは歌手の話題で盛り上がっていた。
「へえー、そうなんだぁ。マイク先生が言ってたんだけどぉ、このジャケットの絵がニューヨークで展示された時ファンが殺到して警察沙汰になって大変だったんだってー」
佐々木はちら、と私を見て、わざとらしくこちらに声をかけてきた。
「絵と言えばぁ、そこに美術の先生がいるじゃん?めずらしいねー、こっちの部屋に来るの。最近忙しくてかまってあげられなかったけど、香ちゃん元気にしてたぁ?」
会話するのも嫌で黙って会釈した。最近続いていた私の平和はやはり、彼女が実習の忙しさでいじめどころではなかったかららしい。
「いいねえ、大変な実習もお絵描きして遊んでればいいんだしー。美術の先生、羨ましいなー。あ、でもぉ、先生になりたくても美術は採用数少ないから非常勤か臨時かな?かわいそぉ」
馬鹿にした笑いが声に滲み出ている。私は黙ったままだった。彼女の言葉は止まらない。
「どうせ、しょぼい絵しか描いてないんでしょ?お金にもならないお絵描きするのに大学まで行っちゃって、就職とかどうするのぉ?仲良しの一ノ瀬くんも音大だっけー?ゲージュツ系の人達ってぇ、働き口なさそうでかわいそうだねー」
「佐々木ちゃん、いくら事実だからってそんなの言ってやるなよ。一ノ瀬だって可哀想じゃん」
ハハハ、と笑い交じりに同調したのは以前、この部屋で一ノ瀬を馬鹿にしていた男の一人だった。可哀想という言葉を、この人たちはどういう意味で使うのか。彼女たちの心無い言葉を静かに聞いていた。黙っていれば、そのうち終わる。言い返さずに私は耐えていた。
「私の友人たちを馬鹿にするの、やめてください」
実習が始まって二週目の金曜日。
その日は同じ芸術科の実習生である黒川の最後の授業日だった。高校の免許だけを取得する彼女は中高両方の免許を取る実習生より早く実習が終わる。彼女の他にも二人ほど高校の免許だけを取得するという実習生がいて、彼らは今日が実習最終日なのだ。
この日は黒川の研究授業があった。教育実習での研究授業は、実習生の授業の内容や成果を指導担当教員や学校長など管理職、他教科の教員に見てもらう授業のことだ。そして先生方から指導や批評、助言を受け、指導内容の反省、授業の改善につなげていくのだ。実習の総仕上げともいえる。
「それでは授業を始めます。後ろに見学の先生方がいますが、みなさん気にせずにいつも通り書いていきましょう」
授業の始めに、黒川はちらちらと後ろを振り返る生徒たちを窘めた。
書道教室の後方には、書道のおじいちゃん先生をはじめ、管理職や他教科の先生方、私のような実習生の姿もちらほらあった。一ノ瀬はこの時間、担当しているクラスの授業があり来られなかった。私はたまたま担当クラスではなかったので、彼女の授業を見学に来たのだ。
学生時代、書道の授業は受けたことがなかったので、なかなか新鮮だった。同じ楷書体でも、書家によって筆遣いや線質が少しずつ違うことなど興味深かかった。そして実際に黒川がお手本を書くところも見ることができた。黒川は簡単そうにさらさらと筆を動かし、筆先から美しい字が次々と生まれていく。筆を使うことは同じなのに私とはまるで違う世界だと驚きと共に実感した。
「では、今書いて見せたように筆遣いに気を付けて作品を書いていきましょう」
生徒たちは作品の制作時間に入ると、和気あいあいとしがちな美術の授業と違って、私語もなく教室は静まり返っていた。隣の美術室の声が聞こえるくらい、静かだった。終始、緊張していた黒川だったが、問題なく授業は終わった。
この後は教科指導教員、管理職、そして授業の無い先生方は教室に残り、研究授業の検討会が行われる。私も来週は我が身なので参考にしたくて検討会に参加させてもらった。
時間管理や、板書の使い方、机間巡視の声掛けなど想像以上に細かい点での指導や厳しい意見もあった。自分もこうなると考えると、身震いした。一時間経ってチャイムと同時に検討会は終了した。研究授業と検討会に出席していた飯森と一緒に教室を出た。
「検討会って結構厳しいこと言われるんだね……怖かった」
周りに人がいないのを確認してから小さな声で飯森に言うと、彼女も大きく頷いていた。
「ねー……あたし、ちょっと来週が憂鬱だわ」
「今から緊張するね。はー……でも、今日で黒川さんとお別れかあ」
「寂しくなるねぇ」
私も寂しいね、と飯森の言葉を繰り返した。
飯森と別れて、私は美術室で高岡先生の手伝いをし、その後は高岡先生に頼まれた書類を提出しに職員室に向かった。書類を管理職に渡して、職員室を出ると、近くの階段から上って来た黒川に遭遇した。たくさんの古雑誌を抱えた黒川に思わず私は駆け寄った。
「黒川さん、すごい荷物だね。大丈夫?私も持つよ」
「あ、澤村さんありがとうございます」
黒川の腕から古雑誌を半分、奪い取るように抱えた。
「研究授業、お疲れ様。それでこれはどうしたの?」
書道の専門誌らしいそれは、随分年季の入った雑誌ばかりだった。
「それがですね、もう聞いてくださいよ!」
黒川は珍しく怒っている様子だった。
「昨日、書道の先生に頼まれて、古雑誌をまとめて一階の資源ごみ置き場に出したんですけどね?そしたら、先生が捨てたらいけない本を間違えて出してしまったかもっていうんで、取り返しに来たんです!」
「あらら……それは災難だったね。今日で最終日なのに。これ書道室に持って行くの?」
「いえ、そこの大会議室に持って行こうかと。この雑誌の山の中から先生が探している本を一冊見つけないといけないんですが、あとは捨てる予定なので」
「それなら私も一緒に探すよ」
「一人だと大会議室に入りにくかったので、ありがたいです」
黒川と共に大会議室に入ると、他の実習生たちが授業の準備などをしていた。彼らの視線が一斉に私達に集まる。佐々木が私の悪評を広めているおかげで、他の実習生からの視線がどうにも冷たい。実害はないので構わないが。運よく佐々木の姿はなかったので、私は安心して大会議室の中に入った。隅の空いたテーブルに雑誌の山を置いた。
「緑色の表紙で大きく行書と書いてある本だったと思うんですが……」
「わかったよ。じゃあ、私はこっちの山から探すね」
私たちはてきぱきと雑誌の山を崩し始める。最初は周囲からチラチラと視線を感じていたが、実習生も暇ではないのですぐに彼らも自分の作業に意識を戻していた。五分くらいして、黒川が「ありました!」と目当ての本を見つけた。
「よかった、じゃあ……」
行こうか、と言いかけた時、私の声に被さって近くに座っていた実習生の男子が「あれ」と声を上げた。
「こんなところにCD落ちてたけど、誰の?」
彼は机の下からCDを拾い上げて、周囲の実習生に尋ねる。確か、国語の実習生で佐々木の取り巻きの一人だった女子が答える。
「あ、それ佐々木ちゃんのだよ。授業で使ってたと思う」
佐々木の名前が出て、私は反射的にびくびくしてしまう。しかも噂をすれば、とでも言うようにちょうど佐々木が大会議室に入って来た。
「ねえねえ、ここにエミーのCDなかった⁉」
入って来るなり、佐々木は大きな声で誰にと言うわけでもなく尋ねる。視線が合うと、私がいることに気づいて一瞬、彼女の顔は険しくなった。
「テーブルの下に落ちてたよ」
先ほどCDを拾った男子が佐々木に手渡した。佐々木は猫撫で声でお礼を言いながら受け取る。佐々木が手に持ったCDを見て、黒川がはっとして嬉しそうな顔で私を見た。黒川が何を言いたいか分かっていたけれど、私はどんなリアクションをしていいかわからなくて、曖昧に頷いた。
「これだよー!探してたの!ここにあってよかったぁ!英語科準備室に返そうと思ったらないから焦っちゃったよー。飯田君、ほんとありがとね!ALTのマイクの授業で使ってて、歌詞の英訳してるんだよ。有名な曲だし、生徒も食いつき良くてさあ」
佐々木が話し出すと、あっという間に周りに人が集まって賑やかになった。私と黒川はさっさとこの部屋から去ろうと、広げた古雑誌を急いで紐で縛り直していた。
「この歌手、エミーだっけ?最近よく聞くわ」
「去年、洋楽で一番売れた曲とか言われてたよね」
「日本でもCMとかで使われて、すごいダウンロード数らしいよ」
実習生たちは歌手の話題で盛り上がっていた。
「へえー、そうなんだぁ。マイク先生が言ってたんだけどぉ、このジャケットの絵がニューヨークで展示された時ファンが殺到して警察沙汰になって大変だったんだってー」
佐々木はちら、と私を見て、わざとらしくこちらに声をかけてきた。
「絵と言えばぁ、そこに美術の先生がいるじゃん?めずらしいねー、こっちの部屋に来るの。最近忙しくてかまってあげられなかったけど、香ちゃん元気にしてたぁ?」
会話するのも嫌で黙って会釈した。最近続いていた私の平和はやはり、彼女が実習の忙しさでいじめどころではなかったかららしい。
「いいねえ、大変な実習もお絵描きして遊んでればいいんだしー。美術の先生、羨ましいなー。あ、でもぉ、先生になりたくても美術は採用数少ないから非常勤か臨時かな?かわいそぉ」
馬鹿にした笑いが声に滲み出ている。私は黙ったままだった。彼女の言葉は止まらない。
「どうせ、しょぼい絵しか描いてないんでしょ?お金にもならないお絵描きするのに大学まで行っちゃって、就職とかどうするのぉ?仲良しの一ノ瀬くんも音大だっけー?ゲージュツ系の人達ってぇ、働き口なさそうでかわいそうだねー」
「佐々木ちゃん、いくら事実だからってそんなの言ってやるなよ。一ノ瀬だって可哀想じゃん」
ハハハ、と笑い交じりに同調したのは以前、この部屋で一ノ瀬を馬鹿にしていた男の一人だった。可哀想という言葉を、この人たちはどういう意味で使うのか。彼女たちの心無い言葉を静かに聞いていた。黙っていれば、そのうち終わる。言い返さずに私は耐えていた。
「私の友人たちを馬鹿にするの、やめてください」