「澤村さん……?」
びっくりした顔の一ノ瀬が私を支えてくれていた。彼もこれから上の階にある音楽室に向かうところなのだろう。手には教科書を持っている。
「廊下走ったら危ないよ。何かあったの?」
「ご、ごめん!急いでて!本当にごめん!」
謝罪もそこそこに、今にも走り出そうとしていた私の手を彼は掴んだ。
「待って!どうしたの?」
「あ、あの、プリントが破かれてて、もう時間が無くて……」
彼は私の手に持っていたビリビリのプリントを見て、全てを察したようだった。腕時計を見て「事務棟まで行ってたら間に合わない」と言い、私の手を引いて早足で歩きだした。
「ちょ、一ノ瀬くん⁉」
「音楽準備室にコピー機があるから事情を話して使わせてもらおう。それなら間に合う」
「え、コピー機あるの⁉」
「吹奏楽部と合唱部が部員多くて楽譜とか何枚も要るから色んな予算でコピー機が設置してあるらしいよ」
「一ノ瀬くん、神!」
「神はコピー機の発明者だよ。ほら、急ごう!」
駆け足で音楽準備室に入ると、音楽の静先生は驚いた顔で私たちを見て「どうした?」と尋ねた。一ノ瀬と二人で手短に事情を話すと、静先生は快くコピー機を貸してくれた。私はほっとして、急いで生徒分プリントをコピーした。心配そうに私を見ていた一ノ瀬は静先生に「さっさと教室に行け!」と追い出されていた。
コピーを終えて静先生に何度も頭を下げると先生は私の手にあったぐちゃぐちゃのプリントを見て心配そうに言った。
「時間がないから今は聞かないけど、困ったことがあるなら私や高岡先生に話しなさいね」
私は熱くなるものを飲み込んで「はい」とだけ答え、さらに深く頭を下げて音楽準備室を後にした。美術室に戻ると、多くの生徒がすでに教室に入っていた。
「澤村さん!良かった、姿が見えないから心配しましたよ」
美術準備室から高岡先生が出て来て、安堵した顔をした。
「先生、すいませんでした。ちょっと、プリントをだめにしちゃって……」
話ながら、涙が込み上げそうになってぐっと堪えた。いろんな思いが溢れそうだった。焦りと緊張と、怒りでどうにかなりそうだった。弱音を吐いている時間はない。私はぎゅっと拳を握りしめる。
「間に合ったなら良かったですよ。さあ、息を整えて」
高岡先生は私を安心させるように「焦らなくて大丈夫」と優しい声で言った。
「顔が強張っていますよ。君は今からこの子たちに美術の楽しさを教えるんですから、もっと楽しそうな顔をしないと」
ね、と念押しされて、やっと力が抜けた。
教師に向いてないと思いながらも、一生懸命に授業を準備したのは、美術に携わる者としてその素晴らしさを伝えたいからだ。私がいじめられているとか、そんなことは生徒には関係ないのだから。
チャイムが鳴って、生徒たちが着席する。私は一度深く息を吐いた。緊張も想定外のトラブルで吹っ飛んでいた。教科書を広げて、笑顔を作って教卓に立った。
私は先生だから、今は授業のことだけ考えよう。
当番の女の子が「起立、礼!」と号令をかけ、生徒と向かい合って礼をした。生徒たちが座ると、始業の挨拶をして、出欠を取り始める。クラスも担当している一年六組の生徒たち。毎日見ているので知った顔ばかり。実習生の授業だからと物珍しさで楽しみそうにしている者もいれば、隠れて小テストの勉強をしている者、居眠りしている者と様々だった。
「これから私の授業では自画像を描いていきます」
授業内容を告げると「げー」だとか「やだ」だとか否定的な声が上がって初っ端から顔が引きつってしまう。指導案通りに行きたいところだが、このリアクションを無視して強引に進めたら、ただの念仏授業になりかねない。私は未だに生徒側でもあるので、興味もなく教師が話すだけの授業程退屈なものはないと知っている。
「今、嫌だなって声が聞こえたけど、どうして自画像がいやなのかな?」
「だって自分の顔なんかみたくなくない?」
「ブス過ぎて辛くなる!」
そうした声が続々と上がってきた。思春期の高校生らしい言い分が並んでいた。
「あー……なるほど、気持ちはわかります。私も、もうちょっと鼻がスッとしていたらなとか鏡を見てよく思いますよ」
そう言うと、お調子者の生徒たちが「先生可愛いよ」「自信もって!」などと茶々を入れてくる。さすがおしゃべり好きな担任の受け持ちクラスだ。おかげで授業はすこぶるやりやすい。私はどうもありがとう、と軽く受け流して話を続けた。
「鏡を見たくないなって時は誰にでもありますよね。でも、この授業ではそれこそ嫌になるくらい鏡で自分をじっくりと、しっかりと見て、とことん自分の顔を観察してもらいます。最初は嫌かもしれないけど、そのうち慣れます。そして、今まで気づかなかった自分の顔を知ってください」
あからさまに嫌そうな顔をしている生徒が数名見えた。その中の一人、元気で素直な性格の女子がぼそっと言った。
「自分の顔なんて鏡見ればわかるのに絵に描く必要なくない?」
そして隣の女子も同調して言葉を続けた。
「わかる、そもそもカメラあるのに絵って描く必要ある?」
ないない、と言い合って二人はケラケラと笑っていた。
「清水さん、池端さん、一番前の席で美術の授業の存在意義を否定しないで下さいよ」
冗談ぽく言うと、くすくすと笑いが起こった。
「でも、良い意見ですよね。何で絵を描くのか。写真撮ればいいじゃん、と思う人も多いですかね。特に空想のものではなく、モチーフが実在の風景や人であれば、余計にそう考える人もいるでしょう。私も絵を描いているとよく言われますよ、写真でいいじゃんって」
私は手元でパソコンを操作しながら話を続けた。
「私は、よく人を描いてまして……私が描いているのはこういう写実画と呼ばれる類のものなんですが、えーと……あ、あった。これは以前に描いた自画像です」
スクリーンに私が過去に描いた自画像が映し出される。わっと生徒たちから驚きの声が上がる。無表情でこちらをじっと見つめる数年前の私。見たまま、ありのままの自分を描いたその絵はスクリーン越しの画像だと写真と区別がつかないくらい緻密だった。そのためか、生徒たちからは「これ、本当に絵なの?写真じゃないの?」と疑いの声が上がっていた。
「勿論、絵ですよ。こうして絵具を重ねて数カ月くらいかけて丁寧に描いています」
 私は画面を製作途中の画像に切り替えると、「おおっ」とさらに生徒たちから驚きの声が上がった。心の中では使う時があるかもと、画像データをパソコンに入れておいて良かったと安堵していた。
「こういう絵を描いていると、ここまでリアルに描くなら写真でもいいんじゃないの?と言われることがあります。みなさんも長期間かけて絵を描くことを不思議に思いますか?」
教室を見回すと、生徒の大半が頷いていた。
「この絵に描かれている私、無表情なんですが、どんな気持ちに見えますか?嬉しい?楽しい?哀しい?怒ってる?苦しい?」
挙手を求めると、手を挙げない者もいたが「哀しい」の時に最も多くの手が上がった。
「絵を鑑賞することに正解は無いけれど……この絵は、大好きだった祖父が亡くなった時期に描きました。だから、そういう気持ちで描いています」
生徒たちの顔色が少し変わった。向けられる視線の強さ、濃度がぐっと高まった気がした。
「今、多くの人がこの絵から負の感情を感じ取ってくれましたよね。これは私の個人的な考えではありますが、絵だからこそ表現できることがあると思うんです。絵にして初めて分かることがある。だから、私は絵を描いています」
生徒たちの真剣な眼差しに、私は必死で言葉を紡いだ。