放課後になって掃除、部活動の補助、授業のプリント作成など慌ただしく全て作業を終えると、外はどっぷり暗くなっていた。薄暗い廊下を急ぎ足で歩いて小会議室に戻ると、一ノ瀬が荷物を片づけているところだった。
「澤村さん、部活終わったの?今日は長かったんだね」
「県の美術展前だからね。部員よりも高岡先生の方が気合入ってるけど。そう言えば、飯森さんと黒川さんってもう帰ったの?」
「澤村さんと入れ違いで、ついさっき二人とも帰ったとこだよ。黒川さんも部活が長引いて、飯森さんは授業のプリントがやっと完成して、二人で帰って行ったよ」
「そうなんだ。一ノ瀬くんは何してたの、こんな時間まで。授業準備?部活やってないでしょ?」
「俺はまた教頭先生に雑用頼まれて肉体労働だよ。講堂の倉庫、片づけていたんだ」
「教頭先生、実習生がいる間に学校中の倉庫を綺麗にするつもりかな」
「そうだとしたら、俺は高校時代に部活をやってなかったことを悔やむよ」
笑っていると、閉校時間を知らせる放送が鳴った。生徒は下校時間までに、教員は閉校時間までに学校を出なければならない。私は慌てて自分の荷物を鞄に詰め込んだ。一ノ瀬と急ぎ足で玄関まで行くと、私たちが実習生の中では最後だったらしく、教頭先生に「まだいたの⁉早く帰りなさい!」と急かされ、追い出されるように学校を出た。
「教頭先生、戸締りの仕事まであるんだ。大変だなあ、管理職」
「なー。倉庫の片づけ真面目に頑張ろうかな、次があればだけど」
「他の倉庫は片付いてるといいね」
話ながら校門を出ると一ノ瀬が当然のように「もう暗いからバス停まで送るよ」と言うので私は首を横に振った。バス停は学校から大通りの方へ五分ほど歩いたところにある。
「えっ、いいよ!大丈夫!すぐそこだし!」
「やだよ、何かあったら後悔するの俺だもん。さ、行こ!」
私は迷いながら何も言えなかった。何か気の利いたことが言えればいいのに。
「次のバスまで二十分くらいだって。この時間になるとやっぱり本数少ないね」
彼は時刻表を確認するとバス停のベンチに座って、一緒に待ってくれる。私はその横に遠慮がちに座った。バス停は私たちだけで他には誰もいなかった。二人だけのバス停は静かでそわそわした。
「一ノ瀬くんって本当に優しくていい人だね」
「何、急に。そこのコンビニでアイスでも買って来て欲しいってこと?」
「普通に思ったこと言ってるだけだよ」
「何だよそれー、照れるじゃん。別に俺、優しくないし、いい人でもないよ。佐々木とか大嫌いだし、顔見るだけで腹立つもん。優しいのは俺じゃなくて、澤村さんのほうなんじゃない?」
「え、何で?」
「だって、佐々木のこと黙っていたいって頑なに言うじゃん。それって報復が怖いって理由だけじゃなくて、あいつが教育学部だから教免取れずに卒業できなくなるのを心配してるんじゃないの?」
私は内心驚嘆しながら、少し考えて、口を開いた。
「心配っていうのとは少し違うけど……私の言動で彼女の人生が台無しになるっていうか……何て言うんだろう、取り返しのつかないことになったら怖いなって。自分の為に人の人生を壊すだけの勇気がないの」
「澤村さんの高校時代は壊されたのに?」
「……まあ、そうだけど。でも、今、私は普通に幸せだから」
私がへへへ、と笑うと、一ノ瀬は「そっか」と複雑そうな顔をして頷いた。
「俺は、正直、佐々木なんかどうにでもなれって思うけど」
「一ノ瀬くんは意外と厳しいね」
「殴られるところ、目の前で見たら余計そう思う」
「初日から飛んでもないものをお見せして申し訳ない……」
「知らないままのほうが嫌だよ。今日みたいに何かあったら、ちゃんと言って」
「もうないよ、多分。心配しすぎだよ」
それからバスが来るまで、他愛ない話をした。高校の時のことや、大学のことなど。彼と話していたらあっという間に時間は過ぎていく。バスが来なかったらいいのに、と思ってしまうくらい、心地の良い時間だった。
「あ、そうだ!ペンケース、これ良かったら使って」
一ノ瀬が鞄から黒いペンケースを取り出した。袋に入っていて、新品だった。
「勝手に購買で買っといた!黒しか無くてごめんね」
「そんな、悪いよ!」
「でも、今日帰ってから裸の消しゴムやシャーペン見たら悲しくならない?新しいペンケースを貢いだ男がいたなって少しは心が晴れるかとって思って。だから貰ってくれると嬉しい」
「ふふ、何それ。一ノ瀬くん、私に貢いでくれるの?」
「澤村さんになら貢ぎますよ。購買で五百円のペンケースだけど。ほら、貰っといて損はないから!」
半ば無理矢理、押し付けられるように手渡された。お礼を言って受け取ると、一ノ瀬は静かに微笑み返した。
「一ノ瀬くんってどうしてそこまで親身になってくれるの?」
彼に初めて出会った日から疑問だった。普通なら、面倒事は避けたい。しかも教員免許のために必須である教育実習中なら尚更、面倒事は避けたいはずなのに。一ノ瀬は我が事のように私のことを気にして世話を焼いてくれる。
出会ってたった数日の私に、どうして。
「高校時代から友人だったわけでもないし、一ノ瀬くんはどうしてここまで色々してくれるのかなって思ってね」
「つい放っておけなくて。やり過ぎかなって思う時もあるんだけど、うざかったらごめんね」
「うざいなんて思うわけないよ。ただ、いじめを知られた時、こんなに良くしてもらったことなかったから。先生にも、クラスメイトにも……みんな、見て見ぬふりだった。だから不思議で」
「その人たちはもしかしたら、何もしなかったこと、できなかったことを今になって後悔してるかもね」
「一ノ瀬くんも後悔してることがあるの?」
一ノ瀬は少し考えてから曖昧に、ちょっとだけ悲しそうに笑った。
「長くなるから、その話はまた今度ね」
一ノ瀬が指差す方を見ると、バスのライトがこちらを照らしていて、私は眩しさに目を細めた。そこで会話は終わった。
短く別れの挨拶をして、バスに乗り込む。窓際の座席に座ると、バス停から一ノ瀬が座席の窓を見上げて、元気よく手を振っていた。いつも通りの笑顔なのに、あの曖昧で少し悲しそうな笑顔が頭を過った。
祖母の家に着いて早々、口煩い母親に捕まった。マシンガンのように放たれる小言と世間話の弾幕に圧倒されながら、適当に相槌をしてどうにか食事と風呂を済ませた。そして仏間へ逃げ込んだ。
仏間の布団の上で明日の準備をして、新しいペンケースに筆記用具を入れ替えていると絵が描きたくなった。スケッチ用の鉛筆とお気に入りのスケッチブックを持って居間に行くと、祖母が猫を膝に載せてテレビを眺めていた。明日の朝は早いのか、母親は寝室へ行くところだった。
「今から絵を描くの?ほどほどにしなさいよ」
「はーい」
これ以上、小言が飛んでこないようにそそくさと母の横を通り過ぎようとした。母は私の手元に視線を落として、独り言のように言った。
「……そのスケッチブックまだ持ってたのね」
私はスケッチブックを身体の後ろに隠して気まずそうにした。すると、母は間を置いてから苦笑して「懐かしかっただけよ、おやすみ」と言い、真っ暗な廊下に消えていった。
母がいなくなってから、手に持っていたスケッチブックをぎゅっと抱きしめる。これは離婚する前、父が最後に買ってくれたものだった。父は寡黙で、私にも母にも関心のなさそうな人だった。いつも無表情で、何を考えているか分からなかった。思い付きだったのだろう、出先で珍しく「学校で必要なものがあれば買ってやる」と言われ、私はこれを選んだ。何となく使い切るのが惜しくて、気に入ったものを書く時だけ、ちまちまと使っていた。
お気に入りだけが詰まった、大事なスケッチブックになっていた。
「おばあちゃん、絵を描いてもいい?」
祖母の近くの座布団に腰を下ろしながら尋ねた。祖母は、和室用の椅子に座ってテレビを見ていた。
「ええよ、別嬪に描いて頂戴な」
「はいはい」
いつも同じ注文をしてくる祖母に生返事を返しながら、手はもう動いていた。祖母と年寄り猫のとろろは全然動かないので描きやすい。デッサンするには持って来いのモデルで、私は祖母の家に来ると必ず祖母と猫を描く。
「香ちゃんは絵を描くのが好きやねえ。じいちゃんもいつも、褒めとったよ」
「好きっていうか、精神安定剤みたいな。最近、うまく描けないけど」
「そうなん?上手に描いてると思うけどなあ」
「私の絵はちょっと暗いんだって。暗いばかりで、明るい絵が描けないの」
絵の評価自体は悪くない。構図や色彩も問題はない。ただ、私の絵はいつも暗い、負の感情を感じると言われる。短所ではないけれど、それしか描けないのかと問われた。
理由は分かっている。私は嫌なことや辛いことがあればあるほど、筆がよく乗る。逆に言えば嫌なことがあると絵を描くのだ。何も考えたくない時ほに私は絵を描く。だって絵を描いていれば、そのことだけ考えていられるから。それがきっと絵に現れてしまうのだろう。講評で先生に言われた言葉が頭の中にずっと残っている。
「本当にあなたは暗い絵しか描けないのかな。自分のこと、決めつけていませんか」
それから、意識的に明るい雰囲気の絵を描いてみようと取り組んだ。しかし、たとえ笑顔の絵だとしても描き上げてみるとどこか哀しい。影のある笑顔になってしまう。絵として悪いわけではない。けれど、一度でいい。心から明るくなれる絵を描けたなら、何か変わるのではないか。そんな気がして、私は足掻いていた。そのうち、何を描いても納得いかなくなって、書きかけていた卒制の絵も見直して、制作は完全に止まってしまっていた。
「よく分からんけど、難しいことしとるんやねえ」
「難しくないよ、絵を描いてるだけ」
「子供の頃みたいに楽しく描けたらいいが、香ちゃんはプロやからそうもいかんね」
「ただの美大生で、プロってわけじゃ……でも、そうだね、子供の頃か。いっつも絵を描いていたな」
絵を描くのが好きだった。いつからそうだったのか覚えていないくらい、小さなころから絵を描いていた。自分の世界を創るのが楽しかった。お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、猫のとろろ。大好きな人たちを描くのが楽しくて堪らなかった。
クレヨンもお絵描きノートもすぐに使い切って、親によく叱られた。それでも描き続けた。描いて、描いて、描いて。これまでずっと描き続けてきた。
それなのに、いつからだろう。絵が好き、楽しいと純粋に、素直に思えなくなったのは。いつの間にか嫌なことから逃げるために、絵を描くようになっていた。
「おばあちゃんのこと、今まで何枚描いたかな」
「何枚だろうねえ。香ちゃんがくれた絵はそこの壁に全部貼ってあるよ」
祖母に言われて、後ろを振り返る。居間の壁一面に、私が幼い頃から描き続けてきた祖父母の絵が綺麗に並べて飾ってある。隅の方は、貼る場所が無くなって何枚か重なっていた。
幼い頃の絵はクレヨンで紙面からはみ出るくらい元気いっぱいに描かれている。色使いも自由で、見ていて楽しい。少し成長すると、クレヨンが色鉛筆に。そのうち鉛筆デッサンに代わっていく。初期のクレヨンの絵はどれもにこにこ笑顔で描かれていて、祖父母が大好きなことが見てとれる。当然、と言うように祖父母の間には自分自身を描いている。祖父母と手を繋いでいる絵、一緒に遊んでいる絵。愛されていると自覚もせず、それを描いているのが伝わって来る。
愛や幸せみたいなものを描いたらきっとこんな絵になるのだろう。それをいとも簡単に幼い手で描いていた。
「おじいちゃん、香ちゃんが東京に行った後も、香ちゃんの絵を見ていつも嬉しそうやったよ。特にその、最後に鉛筆で描いてくれた絵、いつも見とったわ」
上京する前、最後に祖父を描いた鉛筆デッサン。祖父が何度もこの絵を見ていたことは、絵に着いた指の跡ですぐに分かった。
まだ高校生の頃の、稚拙なデッサン。それでも、在りし日の祖父は穏やかな表情をこちらに向けていた。美大に行くことを反対する両親を説得してくれたのは祖父だった。私は祖父が大好きだった。
「ねえ、おばあちゃん」
「なあに?」
猫のごろごろと喉を鳴らす音と鉛筆が紙の上を走る音が重なる。静かな茶の間にその二つの音はやけに大きく響いていた。
「おじいちゃんがいないと、寂しいね」
「ばあちゃんはもう慣れたよ」
祖母はそれだけ言って黙った。私は、余計に寂しくなった。
しばらくして描き上げた絵を見て、祖母は褒めてくれたけれど、やはり求めている絵とは何かが違った。祖母と猫はゆったりした表情なのに、どこかもの哀しい。祖父がいない寂しさが滲み出てしまった気がした。描いたばかりの絵と壁に貼られた昔の絵を見比べた。
子供の私がクレヨンで力いっぱい描いた絵は、今よりずっと上手に見えた。
私はこんな絵が私は描きたかったんだ。今の私に描けるだろうか。自問しても、描ける気はしなかった。
溜息交じりにスケッチブックの表紙を開いた。表紙の裏に張り付けてある “宝物”に視線を落とした。
「大丈夫、きっと描ける」
自分を励ますように言った。
猫のとろろが膝の上に乗ってきた。寝床に行った祖母の代わりに、椅子にされている。徐に猫の長い毛並みを撫でた。猫の温かな体温が冷えた指先を温めてくれた。
***
高校を卒業してから何度も、繰り返し見る夢がある。
夢の中で朝、目が覚めると私は高校生まで住んでいた駅前のマンションの子供部屋、そのベッドの上にいた。見慣れた天井の丸い照明。水色の壁紙。上京するときに捨てたはずのキャラクターシールがペタペタ張られた学習机やお気に入りのぬいぐるみたち。もう存在しないはずの、子供のころから過ごした私の部屋の中で、ベッドの上から姿見を見ると、高校生の私が映っている。壁に掛けられたカレンダーは高三の四月になっている。
ああ、私、高校生に戻ったんだ。
いじめられたことも、両親が離婚したことも、大学生になったことも全部夢だったんだ。
そう思ったところでいつも夢から醒める。
祖母の家の、古い天井。顔のような怖い木目が私を見下ろして、現実に戻ったことを私に教えてくれる。気怠く、ゆっくりとした動きで枕元に置いていた携帯を取ると、暗い画面に反射して、寝ぼけた顔をした大学生の私が映っている。アラームが鳴る前に目が覚めたようだ。頭はまだぼーっとしていた。頬に触れると涙で濡れていた。
ああ、またこの夢だ。実習が始まってからこの夢ばかり見て、嫌気がさす。
あの夢を見るといつも泣いてしまう。何故、涙が出るのか、自分でもよく分からない。高校生に戻ってやり直したくて泣いているのか。それとも、辛い高校時代を終えて美大で楽しく過ごしている今が夢だったらどうしようと恐怖で泣いているのか。
この涙はどっちだろう。
過去の後悔か、今を失う恐怖か。その両方なのかもしれない。
しばらくして、泣き止むと私は仏間を出た。廊下を曲がると縁側で祖母が猫を膝に載せて新聞を読んでいた。
「おばあちゃん、おはよう。とろろもおはよう」
祖母の膝で寛いでいる猫の頭を撫でた。キジトラ模様がとろろ昆布に似ているのでとろろと亡き祖父が名付けた。
「おはようさん。香ちゃん、もう起きたん?早いねえ。いい天気やよ」
「そうだね、珍しくちゃんと晴れてる」
空を見上げると真っ青で、雲が数えるほどしかなかった。あまりにも曇りの日が多い所為で、北陸人は多少曇っていても雨さえ降っていなければ晴れだと思ってしまう傾向があると個人的に思う。関東に言ってから、雨が降っていない曇りの日に晴れだと言って笑われてしまったことをふと思い出した。
「お母さんってもう仕事に行ったの?」
「さっきおにぎり作って出て行ったよ。早番とか何とか言ってたねえ。香ちゃんは今日も学校かい?」
「そうだよ、絵の先生。さ、準備して行かなきゃ」
「頑張ってねえ。おばあちゃんもおじいちゃんも、香ちゃんの絵が大好きだよ」
「ありがとう。またモデルになってね」
美人に描いてや、と祖母はいつも通り冗談めかして言った。
私は母が作ってくれたおにぎりをつまんで、身支度を整えると急いで始発のバスに飛び乗った。晴れているおかげでいつもより空いていた。
椅子に座って一息つく。 
車窓から覗く犀川の水面は、朝陽を反射してきらきらと光の粒が揺らめいていた。雨と雪ばかりの冬と違って、春の犀川は明るく穏やかだ。河川敷の木々が途切れ途切れに影を作って、朝日の眩しさを気まぐれに遮ってくれる。バスの揺れに身を任せ、うとうとしながら煌めく水面を眺めていた。
苦戦していた指導案も何とか合格をもらえた。授業の準備も何とか間に合って、今日から私はついに授業をする。緊張していると自分でも分かる。ポケットの携帯電話がぶるっと震えて、取り出して画面を見ると大学の友人、七緒からメッセージが届いていた。
『実習どう?あたし、今日は本命の最終面接!がんばる!』
元気な文面が七緒らしい。指をさっさと動かして『私も、初授業だよ。がんばる。またね!』と送り返した。東京が少し恋しくなった。
学校に着いてからはいつも通りホームルームをして、慌ただしい朝の時間を何とかやり過ごした。他の実習生も皆一様に授業準備などで慌ただしそうに見えた。小会議室を使う実技科目の実習生も、それぞれ授業があるので顔を合わせても一瞬だった。
私は昨日の夜、家で最後まで作り直していた授業用のプリントを印刷機から出力して最終確認をすると、事務棟の大会議室に向かった。コピー機が並ぶ印刷室も別にあるのだが、他の先生方の邪魔にならないようにと実習生は大会議室のコピー機を使うことになっていた。佐々木と顔を合わせたくはないが、こればかりは仕方ない。
恐る恐る会議室の扉を開けると、運の悪いことに佐々木の姿があった。他に彼女を取り巻く連中もいる。私の姿を目に留めると、彼らの会話が一瞬止まる。高校時代に散々味わった嫌な沈黙だ。そして会話が再開した後も嫌な視線がじっとりと纏わりついてきた。私は一刻も早くここから抜け出したくて、足早にコピー機へ向かった。
彼らとほぼ面識もないのに、無遠慮に背中に向けられるこの嫌な視線と空気。その原因は分かっている。大方、佐々木美希が高校時代のように嘘を吹聴したのだろう。私は気付かないふりをして、さっさとコピーを始めた。
無心でコピーしていると、横に人の気配を感じた。視線だけ動かすと、横にいたのは佐々木美希だった。ひゅっと息を飲み込んだ。
「香ちゃん、こっちに来るなんて珍しいね?プリントのコピー?わざわざ実技棟からご苦労様だねぇ」
俄かに手が汗ばんだ。必死に平静を装った。
「話しかけないで」
私は手元に視線を落としたまま、彼女を見ずに低い声で言い捨てた。
あの日以降も地味な嫌がらせは幾度かあった。鞄の中にゴミが入れられていた、ロッカーの靴を汚されていた、すれ違いざまにわざとぶつかられる、など下らないことばかり。一緒に被害を記録してくれる一ノ瀬は「二十歳も越えて、こんな子供じみた嫌がらせする馬鹿がいることに戦慄する」と吐き捨てていた。
確かに毎日想像以上に忙しい実習中、どうして私に子供じみた嫌がらせする余裕があるのか。大人になった今、彼女のやっていることはほとほと理解できなかった。
「ひどーい、折角話しかけてあげたのに」
彼女は言いながら、私の持ち物を嘗め回すように物色した。
「あれー?ペンケース新しくしたの?」
彼女はわざとらしく言って、くすくすと笑った。
「ていうかこれ、購買で売ってるやつじゃん!やばい、こんなの買う人いるんだ!前のペンケースのほうが良かったんじゃない?」
どの口が言うのか。そう言いたかったけれど、反応したら負けだとぐっと堪えた。あと三十枚、二十枚……と心の中で残数を数えながらコピーが終わるのをひたすら待った。たった二、三分程度の時間がとても長く感じた。
「一ノ瀬律だっけ?あの爽やかくん。泣きついて同情してもらえたの?よかったねえ、男だけでも味方に出来るようになって」
良かったね、と言いながら馬鹿にするように嘲笑う。佐々木は私の耳元で「身体でも使った?」と下卑た笑みで囁いた。これには流石に耐えきれなくなって私はコピーが終わったプリントの束を抱えて、彼女を睨んだ。
「あらら、怒っちゃったー?」
「私に関わらないでって言ったよね。過去のことを言うつもりはないのに、どうして絡んでくるの?」
「だって香ちゃんのこと大嫌いなんだもん」
「痛っ……」
佐々木は周囲から見えないようにヒールの先で私の足を踏んだ。痛みで私の顔は歪む。容赦なく、ぐりぐりとヒールをねじ込むように彼女は体重をかけた。
「本当に反抗的になったよね?男を味方につけて調子乗っちゃった感じ?自分の立場思い出せるように教育し直さないといけないかな」
「やめてよ!」
私は佐々木を押しのけた。ズキズキと痛む足を庇いながら、彼女を睨む。
「二度と話しかけないで」
私は言い捨てて、彼女の横を通り過ぎた。佐々木はこわーい、と薄ら笑いを浮かべていたが、佐々木を無視して私は会議室を出た。扉を閉めようとした時、佐々木が他の実習生たちに「突き飛ばされて怖かったあ」と甘えた声で早くも嘘を吹聴しているのが聞こえてきた。腹が立ったけれど、構わず扉を閉めた。
歩きながら、呼吸が、鼓動が早くなって動悸がする。歩く度に、足の痛みが気になった。怖くて、逃げたくて、歩調はどんどん速くなる。
佐々木はただのいじめっ子で本当は怖くなんかないと頭では理解している。それでも、身体に染みついた痛みと恐怖はまだ取れないらしい。大人になった今でも、私は彼女が怖い。彼女を見ると心より先に、いつも身体が強張る。それでも理性のおかげで彼女に立ち向かえる。けれど、こうして対峙した後は暫く動悸がするから嫌になる。
どれほど時間が経てば、身も心も過去から解放されるだろう。
「おーい!澤村せんせー!」
不意に遠くで私の名前を呼ぶ声がして私は立ち止まる。きょろきょろと辺りを見回した。校舎の真ん中は大きな吹き抜けになっていて、廊下と教室で吹き抜けを囲む構造になっている。吹き抜けの中央を通る渡り廊下から一ノ瀬が生徒たちと一緒になって手を振っていた。彼と一緒にいたのは私が担当する一年六組の生徒たちだった。音楽選択の生徒たちのようだ。そのあっけらかんとした明るい笑顔を見たら、つられて私も笑っていた。手を振り返すと、彼は生徒と一緒になって嬉しそうに笑っていた。
気が付いたら動悸は収まっていて、息も整っていた。
また、助けられてしまった。
実習が始まって数日のうちに、何度思っただろう。彼の存在がなかったら、私はとうの昔に実習をリタイヤしていたに違いない。
ほんの少し軽くなった足取りで私は美術室へ向かった。印刷したプリントを教卓に置いて、パソコンやプロジェクターの準備をした。指導案を見返して、授業の流れを一通り復習した。実際に授業をすれば、指導案通りに行かないことばかりだろう。大学の教職課程では大学生同士、生徒役と教師役になって模擬授業を行ったが、それですら指導案通りにはいかない時があった。恐れても仕方がないが、やはり緊張する。朝のホームルームで何十もの視線が数分間集まるだけで緊張するのに、それが一時間近く続くのだ。
「ふう……」
しなびた風船から空気が漏れるように息を吐いた。ぐったりと教卓に突っ伏した。よく考えなくても、私は教師に向いていない。人前で話すのは勿論苦手だ。何より学校も大嫌いときた。将来の保険として教員免許欲しさに実習に来たけれど、なんと場違いな。飯森のような教職への熱い思いや、使命感をもって実習に来ているわけではない。どうしても後ろめたさがある。それで余計に緊張しているのかもしれない。
「澤村さん、ちょっといいですか?」
ひょこっと、美術室の扉を開けて黒川が顔を覗かせた。私は慌てて身体を起こした。
「どうしたの、黒川さん?」
「今って時間あります?書道室の机を動かすのを手伝って欲しくて」
「いいよ、手伝う」
黒川と一緒に隣の書道室に移動した。高校時代は美術を選択していたので、書道室に入るのは初めてだった。
「うわあ、墨の匂いがすごいね!」
入った瞬間、墨の香りが部屋中に広がっていた。他の教室と違って大きな長方形の下敷きが敷かれた長机が何台も並んでいて、洗い場は墨でところどころ黒く汚れていた。教室の後ろには生徒の作品や、漢字のお手本のようなものがずらりと貼ってある。美術室に馴染みのある私には新鮮な光景だった。
「墨の匂いですか?ずっと嗅いでいるから鼻が馬鹿になってるのかな。全然わからないですね。言われてみると、美術室も絵具の匂いがしましたね」
「え、本当?私も絵具の匂いわかんないや」
「毎日嗅いでるから鼻が麻痺するんですかね。あ、この机です。そっち側持ってもらえますか?」
「はーい……えっ、重!」
言わるまま、机の端に手をかけると、想像より重くて変な声が出た。
「年代物なので重いんですよ」
「木製かあ、重いはずだね」
「次の授業、人数多いから机足りなくて。でも一人で運ぶには重すぎるんですよねぇ。隣が美術室で良かったです」
壁際に寄せられていた長机や椅子を黒川と一緒に運び、座席を増やした。黒川も次の芸術で初授業らしい。彼女もまた緊張していた。お互いに励まし合って、私は美術室に戻った。授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、十分の休み時間が始まる。大体、五分前くらいになると生徒がわらわらと教室に入って来る。いよいよか、とさらに緊張を募らせて教卓に立つ。しかし、教卓に置いておいたはずの授業で使うプリントが無くなっていた。
「え、なんで……」
まさか、と思った。反射的にゴミ箱を振り返ったが、何もなかった。視線を教卓の下に落とすと、プリントが落ちているのが見えてほっとした。風で落ちたのかな、と屈んで手を伸ばすと、ぐちゃぐちゃに破かれたプリントの塊があった。
それを見て、頭が真っ白になりそうだった。
数秒、呆然として、はっとしてすぐに時計を見た。あと七分。廊下から生徒たちの声が聞こえてくる。
もう時間がない。
焦りながら、だめになったプリントを抱え、慌ててコピー機のある事務棟へ向かって走った。きっと授業には間に合わない。それでも急いで往復するしかない。大慌てで廊下を走った。そのせいで階段のある曲がり角で向こうからやって来る人影に気づかなかった。どんっと固い胸板にぶつかった。
「危ないっ!」
あ、転ぶ。そう思った時、男の声がして太い腕が伸びてきた。傾いた身体をすっと伸びた長い腕が支えてくれた。
「澤村さん……?」
びっくりした顔の一ノ瀬が私を支えてくれていた。彼もこれから上の階にある音楽室に向かうところなのだろう。手には教科書を持っている。
「廊下走ったら危ないよ。何かあったの?」
「ご、ごめん!急いでて!本当にごめん!」
謝罪もそこそこに、今にも走り出そうとしていた私の手を彼は掴んだ。
「待って!どうしたの?」
「あ、あの、プリントが破かれてて、もう時間が無くて……」
彼は私の手に持っていたビリビリのプリントを見て、全てを察したようだった。腕時計を見て「事務棟まで行ってたら間に合わない」と言い、私の手を引いて早足で歩きだした。
「ちょ、一ノ瀬くん⁉」
「音楽準備室にコピー機があるから事情を話して使わせてもらおう。それなら間に合う」
「え、コピー機あるの⁉」
「吹奏楽部と合唱部が部員多くて楽譜とか何枚も要るから色んな予算でコピー機が設置してあるらしいよ」
「一ノ瀬くん、神!」
「神はコピー機の発明者だよ。ほら、急ごう!」
駆け足で音楽準備室に入ると、音楽の静先生は驚いた顔で私たちを見て「どうした?」と尋ねた。一ノ瀬と二人で手短に事情を話すと、静先生は快くコピー機を貸してくれた。私はほっとして、急いで生徒分プリントをコピーした。心配そうに私を見ていた一ノ瀬は静先生に「さっさと教室に行け!」と追い出されていた。
コピーを終えて静先生に何度も頭を下げると先生は私の手にあったぐちゃぐちゃのプリントを見て心配そうに言った。
「時間がないから今は聞かないけど、困ったことがあるなら私や高岡先生に話しなさいね」
私は熱くなるものを飲み込んで「はい」とだけ答え、さらに深く頭を下げて音楽準備室を後にした。美術室に戻ると、多くの生徒がすでに教室に入っていた。
「澤村さん!良かった、姿が見えないから心配しましたよ」
美術準備室から高岡先生が出て来て、安堵した顔をした。
「先生、すいませんでした。ちょっと、プリントをだめにしちゃって……」
話ながら、涙が込み上げそうになってぐっと堪えた。いろんな思いが溢れそうだった。焦りと緊張と、怒りでどうにかなりそうだった。弱音を吐いている時間はない。私はぎゅっと拳を握りしめる。
「間に合ったなら良かったですよ。さあ、息を整えて」
高岡先生は私を安心させるように「焦らなくて大丈夫」と優しい声で言った。
「顔が強張っていますよ。君は今からこの子たちに美術の楽しさを教えるんですから、もっと楽しそうな顔をしないと」
ね、と念押しされて、やっと力が抜けた。
教師に向いてないと思いながらも、一生懸命に授業を準備したのは、美術に携わる者としてその素晴らしさを伝えたいからだ。私がいじめられているとか、そんなことは生徒には関係ないのだから。
チャイムが鳴って、生徒たちが着席する。私は一度深く息を吐いた。緊張も想定外のトラブルで吹っ飛んでいた。教科書を広げて、笑顔を作って教卓に立った。
私は先生だから、今は授業のことだけ考えよう。
当番の女の子が「起立、礼!」と号令をかけ、生徒と向かい合って礼をした。生徒たちが座ると、始業の挨拶をして、出欠を取り始める。クラスも担当している一年六組の生徒たち。毎日見ているので知った顔ばかり。実習生の授業だからと物珍しさで楽しみそうにしている者もいれば、隠れて小テストの勉強をしている者、居眠りしている者と様々だった。
「これから私の授業では自画像を描いていきます」
授業内容を告げると「げー」だとか「やだ」だとか否定的な声が上がって初っ端から顔が引きつってしまう。指導案通りに行きたいところだが、このリアクションを無視して強引に進めたら、ただの念仏授業になりかねない。私は未だに生徒側でもあるので、興味もなく教師が話すだけの授業程退屈なものはないと知っている。
「今、嫌だなって声が聞こえたけど、どうして自画像がいやなのかな?」
「だって自分の顔なんかみたくなくない?」
「ブス過ぎて辛くなる!」
そうした声が続々と上がってきた。思春期の高校生らしい言い分が並んでいた。
「あー……なるほど、気持ちはわかります。私も、もうちょっと鼻がスッとしていたらなとか鏡を見てよく思いますよ」
そう言うと、お調子者の生徒たちが「先生可愛いよ」「自信もって!」などと茶々を入れてくる。さすがおしゃべり好きな担任の受け持ちクラスだ。おかげで授業はすこぶるやりやすい。私はどうもありがとう、と軽く受け流して話を続けた。
「鏡を見たくないなって時は誰にでもありますよね。でも、この授業ではそれこそ嫌になるくらい鏡で自分をじっくりと、しっかりと見て、とことん自分の顔を観察してもらいます。最初は嫌かもしれないけど、そのうち慣れます。そして、今まで気づかなかった自分の顔を知ってください」
あからさまに嫌そうな顔をしている生徒が数名見えた。その中の一人、元気で素直な性格の女子がぼそっと言った。
「自分の顔なんて鏡見ればわかるのに絵に描く必要なくない?」
そして隣の女子も同調して言葉を続けた。
「わかる、そもそもカメラあるのに絵って描く必要ある?」
ないない、と言い合って二人はケラケラと笑っていた。
「清水さん、池端さん、一番前の席で美術の授業の存在意義を否定しないで下さいよ」
冗談ぽく言うと、くすくすと笑いが起こった。
「でも、良い意見ですよね。何で絵を描くのか。写真撮ればいいじゃん、と思う人も多いですかね。特に空想のものではなく、モチーフが実在の風景や人であれば、余計にそう考える人もいるでしょう。私も絵を描いているとよく言われますよ、写真でいいじゃんって」
私は手元でパソコンを操作しながら話を続けた。
「私は、よく人を描いてまして……私が描いているのはこういう写実画と呼ばれる類のものなんですが、えーと……あ、あった。これは以前に描いた自画像です」
スクリーンに私が過去に描いた自画像が映し出される。わっと生徒たちから驚きの声が上がる。無表情でこちらをじっと見つめる数年前の私。見たまま、ありのままの自分を描いたその絵はスクリーン越しの画像だと写真と区別がつかないくらい緻密だった。そのためか、生徒たちからは「これ、本当に絵なの?写真じゃないの?」と疑いの声が上がっていた。
「勿論、絵ですよ。こうして絵具を重ねて数カ月くらいかけて丁寧に描いています」
 私は画面を製作途中の画像に切り替えると、「おおっ」とさらに生徒たちから驚きの声が上がった。心の中では使う時があるかもと、画像データをパソコンに入れておいて良かったと安堵していた。
「こういう絵を描いていると、ここまでリアルに描くなら写真でもいいんじゃないの?と言われることがあります。みなさんも長期間かけて絵を描くことを不思議に思いますか?」
教室を見回すと、生徒の大半が頷いていた。
「この絵に描かれている私、無表情なんですが、どんな気持ちに見えますか?嬉しい?楽しい?哀しい?怒ってる?苦しい?」
挙手を求めると、手を挙げない者もいたが「哀しい」の時に最も多くの手が上がった。
「絵を鑑賞することに正解は無いけれど……この絵は、大好きだった祖父が亡くなった時期に描きました。だから、そういう気持ちで描いています」
生徒たちの顔色が少し変わった。向けられる視線の強さ、濃度がぐっと高まった気がした。
「今、多くの人がこの絵から負の感情を感じ取ってくれましたよね。これは私の個人的な考えではありますが、絵だからこそ表現できることがあると思うんです。絵にして初めて分かることがある。だから、私は絵を描いています」
生徒たちの真剣な眼差しに、私は必死で言葉を紡いだ。
「口で説明するより、実際に皆さんが絵を描いたほうが私の言っていることは分かるでしょう。みなさんにも、自画像を通して知らない自分、気付かなかった自分に出会って欲しい。描き上げた後で、私が今お話した意味が少しでも伝わるように授業を進めていきますね」
私はマウスを動かして、画像を本来予定していたゴッホの自画像に切り替えた。
「さて、本題に戻ります。皆さん、この画家の名前はわかりますか?」
誰かがピカソとふざけて大きな声で答えた。
「答えてくれてありがとう。でもこれ、ゴッホだよ」
小さく笑いが起きる。苦笑しながらゴッホの自画像を年代別に並べたスライドを表示する。内心では答えが返って来るだけ有り難いと感じていた。高校生ともなると、小中学校と比べ発言する生徒は少ない。大人しい生徒の多いクラスだと最初から最後まで無言だったりする。授業する側からすれば、無言はかなりきつい。
「ゴッホは多くの自画像を残しています。初期の自画像は暗い色で描かれ、時代とともに色彩が変わっていきます。服装や持ち物に変化もあって……」
ゴッホの自画像から彼の心情や変化、そして自画像を描く意味などを話していった。その後はプリントを使って各自で自画像のテーマなどを考えさせ、初回の授業は進んでいった。
チャイムが鳴るまであっという間だった。
時間はぎりぎりになったが予定していた内容まで何とか進み、チャイムが鳴って授業は終わった。休み時間になって数名の生徒たちが教卓に集まって、私の絵について嬉しい感想を言っては去っていった。
そうして生徒が全員いなくなると、高岡先生と二人で反省会が始まった。
「導入で予定外の話をしたのもあって、序盤に時間が取られて、最後駆け足になったのは少し勿体なかったですね。ちょっと詰め込み過ぎだったかな」
「はい……すいません、最初から脱線しちゃって」
「時間管理は上手くなかったですが、生徒の意見を拾い上げていて内容自体は良かったと思いますよ。まあ、君でなければ、あの導入は成立しなかったでしょうけれどね」
「それって、どういう意味ですか?」
「あの自画像、大学に入ってから描いたものだね?良く描けていた。高校の頃から君の才能は抜きんでていましたが、大学に入ってさらに磨きがかかっているようだ。普通、素人には言葉で説明しない限り、そうそう作品の意図や込められた想いなんてものは伝わりません。絵を見慣れている人間にすら伝わらないことだってよくある。君だってよく分からない作品と出会うことはあるでしょう?伝わるから良い悪いって話でもないですが、伝えようとしてうまく伝わるものでもない。でも、君の絵は伝わった。それも普段絵を見ることもない、高校生の子どもたちに」
「まあ、あの絵は分かりやすく描いてありましたから……」
「いいえ、それは普通のことではないですよ。君の絵は特別です。絵を解らない人間にすら伝える力が君の絵にはある。今日の授業を見てよく分かりました。君はやはり尋常ではない画家だ。そんな君の授業で、生徒たちがどんな絵を描くのかますます楽しみになりましたよ」
「私の絵なんて……買いかぶり過ぎですよ、先生」
「君の絵の価値を一番知らないのは君自身かもしれないね」
先生は愉快そうに言って、目を細めた。
その後は板書の書き方、スクリーンの使い方など細かい部分で指摘を受けて反省会は終わった。
たった一回授業をしただけで疲弊した。私はぐったりしながら、美術室を後にして、のろのろと廊下を歩いた。何だか身体がひどく重かった。
先生は私の絵を恐縮するくらい評価してくれていた。それなのに評価を素直に受け取れなかった。ずっと思うように絵を描けていないせいだろうか。
生徒には偉そうに話しておきながら、私は今、絵を描けないでいる。絵を描くのは好きだけれど、好きだからこそ、不意に訪れる自信喪失の期間。どうにも自分の描く絵が無価値に感じられてしまう。高価な絵の具をキャンバスに塗りたくって、ただただ無駄にしている。画材からゴミを生み出しているような気持ちにすらなる。絵具のままのほうが価値があったんじゃないか、なんて虚しさすら感じるのだ。
そんな時期が定期的に訪れる。今はその真っ最中。挙句、今日の授業妨害と来た。心が沈み込むには十分だった。
佐々木美希のことを思い出すと、さらに気が重くなる。絵も書けない。いじめっ子にまたいじめられる。一体、私が何をしたって言うんだろう。前向きに、と思っていても不意に足を引っ張られる。絵が上手く描けないのも、いじめられるのも、きっと私に悪いところがあるから。楽になりたくて、考えたくなくて、そうやってすぐに自分を責めてしまう。
このままだと自分も、自分の絵も大嫌いになりそう。
「澤村さん」
背後から肩を叩かれて、立ち止まって振り返る。心配そうな顔をした飯森がプリントを手に持っていた。
「あ、飯森さん。お疲れ様です」
「お疲れ。プリント一枚、落としてたよ。ていうか、大丈夫?顔色すごく悪いよ」
「あはは……ちょっと、授業で失敗しちゃって落ち込んでたの。拾ってくれてありがとう」
飯森と話しながら小会議室に入ると、部屋には誰もいなかった。私は破かれたプリントをさっさと鞄の中に突っ込んで、他の荷物を片づける。飯森も手にいっぱいもっていた教科書やプリントの束を下ろして、話しながら書類を整理していた。
「飯森さんも授業だったの?」
「そうだよ、何とか終わった。寝そうな生徒も多くてちょっと心折れそうだったわ」
「実技科目だからって最初から寝る姿勢の子とか宿題の内職してる子とかいるもんね。あれは傷つく」
「だよね。って言っても、授業中、寝たことないわけじゃないから文句言いにくいけど」
「罪のない者だけ石を投げよ、みたいな?確かに私も落書きしてる子に注意するとき罪悪感半端ないよ」
飯森と話していると気が紛れて良かった。しばらく授業の愚痴を言い合っていたら、外から足音と話し声がして一ノ瀬と黒川が部屋の中へ入ってきた。私は「美術室に忘れ物しちゃった」と言って席を立った。
「ちょっと美術室行って来る」
黒川と一ノ瀬の横を挨拶がてら通り過ぎた。外へ出ようとドアノブに手をかけた私の背中に一ノ瀬が声をかける。
「澤村さん、授業は大丈夫だった?」
「うん、大丈夫。さっきはありがとう」
振り返らずに言って、そそくさと小会議室を出た。何も急いでいないのに、逃げるみたいに廊下を早歩きした。負の感情でいっぱいの今、どうしてか一ノ瀬の顔を見られなかった。彼には感謝しているのに。今、彼に優しくされると、必死で堪えているものが駄目になってしまいそうで怖い。
美術室の前まで来ると、高岡先生がちょうど準備室から出てくるところだった。先生は私の姿を見ると、どうしたのと優しく声をかけてくれる。
「ちょっと忘れ物しちゃって……」
「そうかい。僕はしばらく職員室で教務課の仕事をするから、何か用があれば職員室へ。この学校の教務は忙しいから、来年は総務課がいんだけれどねえ」
高岡先生はぶつぶつ言いながら職員室へ向かった。
担任を持っていない教員は総務課や教務課、進路指導課など校内での教科以外の仕事が割り振られる。その学校によって違いがあるが、総務なら式典や会議の準備など、教務なら時間割や試験の管理など、教科に関係なく様々な業務がある。授業をするだけでも大変なのに、先生たちは他の業務もしながら夜遅くまで残って教材研究、つまりは授業の準備などをしている。先生たちがこんなに忙しくしていただなんて、生徒側の時は思いもしなかった。正直、実習に来るまでは授業だけしていればいい仕事だと思っていた。無知な自分が恥ずかしい。
「はあ……」
自己嫌悪のため息ばかりが漏れる。
美術室の窓際、一番前の席に座った。生徒用の椅子は固くて、座り心地が悪くて、やはり懐かしい。教室の後ろに視線をやると、授業で制作した生徒たちの作品が数枚掲示されている。高岡先生が提出課題の作品からいくつか選んで定期的に展示替えをしているのだ。あどけなくて、拙い。けれど素直な作品たちが眩しい。この教室で絵を描いていた頃の私に戻って、あんな瑞々しい作品を創れたらいいのに。
思考はずっとネガティブで、そんな自分がますます嫌になる。
「……元気出さなきゃ」
ポケットから携帯電話を取り出して、アルバムを開く。お気に入りのフォルダを開いて遡る。四年も前の古い写真。日付は高校生最後の文化祭の日だった。映っているのは一枚の紙。現物は父から貰ったあのスケッチブックに、表紙の裏に張り付けてある。
元気がない時、絵が描けない時、自分が嫌いになりそうな時。そんな時々に私はいつもこれを見る。
それはとても優しい言葉で綴られた、ラブレターみたいな手紙だった。
誰が書いてくれたのかは、知らないけれど。
***
私がその手紙をもらったのは、高校三年の秋のことだった。
相変わらず、私へのいじめは続いていたけれど学校を休むことはもう無かった。決していじめられることに慣れたわけではない。
ただ、あのピアノがもう一度聞きたかった。
梅雨の終わり、私は優しいピアノに救われた。あの日から、私はこれまで以上に絵に打ち込んだ。それでもいじめで苦しくなる時はあったけれど、あのピアノを聞くと踏みとどまって、何とか耐えることができた。
私を救ってくれたピアノは、いつも水曜日の放課後になると聞こえてきた。いろんな曲を弾いていたが、時折気まぐれにあの優しい曲を弾いてくれる。そうして、いつの間にか水曜日の放課後は真上の音楽室から漏れ聞こえるピアノを美術室で盗み聴くのが私の習慣になった。
毎週、毎週、楽しみにしている自分がいた。学校に通う唯一の楽しみになった。
ピアノのおかげで私は辛い一学期をどうにか乗り越え、夏休みはほとんどを画塾で過ごした。そうして、恐る恐る迎えた二学期は、一学期に比べると、無視や仲間外れ、軽い暴言程度で、率先していじめに加わる人数も大幅に減っていた。夏休みから受験勉強が本格化したのが大きな要因のようだった。二学期は模試や、授業も増え、いじめどころではなくなったのだろう。学校は一学期より格段に過ごしやすくなり、たまに佐々木美希とその取り巻きに嫌がらせを受ける程度にまで改善していた。
秋になって、中庭の木々の葉は色づき始め、日は短くなった。放課後はすぐに夕日が落ちて暗くなる。私は夕暮れの中、相変わらず美術室で絵を描いて画塾までの時間を潰していた。
水曜日はいつものように、夕日を眺めながら三階の音楽室から漏れ聞こえるピアノに耳を澄ませていた。一学期から幾度かピアノを聴きながら考えていた。
「どんな人が弾いてるんだろう……」
この優しくて美しいピアノを奏でているのは、どんな人だろう。
女の子かな。何年生だろう。吹奏楽部か合唱部の部員かもしれない。友達になれたらいいのに。まだ見ぬ頭上のピアニストのことを色々と想像して、仲良くなりたいと願った。けれど、こっそり盗み聞きしている手前、そんなことは無理だと思った。
でも、せめて。話しかけられないとしても、せめて、顔だけでも知りたい。
そんな思いに背中を押され、ある日、私はついに思い切って美術室を出た。いつも美術室でこっそり聞いているだけだった。夕陽でオレンジ色になった階段を、音をたてないように静かに上っていく。ピアノの音がどんどん近くなる。音楽室前の廊下まで来ると、心臓がどきどきした。扉は少しだけ開いていた。ピアノの演奏が続く中、そっと歩み寄ってドアの隙間から中を覗いた。
夕日に照らされた室内は薄暗かった。ピアノの前に座っている人影の背後から夕陽が覗いている。私は眩しくて目を細めた。優しく譜面を捲る指先は絵画のように美しかった。しばらくして演奏が終わると、演者は楽譜を持って立ち上がった。そのシルエットを見て私はびっくりして息を呑んだ。
どう見ても、男子だった。その人は学ランを着ていた。
勝手なイメージで、てっきり女の子が弾いていると思い込んでいた私には、衝撃的だった。息を顰めて彼の顔を見つめたが、夕陽が逆光になって、顔はよく見えなかった。すらっと高い背丈が印象的で、それ以外は何も分からなかった。諦めて美術室に戻った後も、その男子のことばかり考えていた。
泣きたくなるくらい優しいピアノを、あの彼が弾いていたんだ。
彼のことが気になって仕方なかった。彼のことばかり考えた。けれど、声をかける勇気もなく、ただ彼の弾くピアノに耳を傾けるだけの日々が続いた。
転機が訪れたのは、文化祭だった。
二学期最初の行事である文化祭は、三年生にとって最後の楽しい学校行事でもある。この学校では一、二年生が劇やダンス、アトラクション系の出し物をして、三年生は食べ物の屋台をやるのが恒例だった。
「香ちゃんはお絵描き得意だし、それ系全部やってくれるよねぇ?」
佐々木美希の一言で、私に多くの仕事が押し付けられた。佐々木を筆頭にクラスの一軍メンバーはメニューを考えたり、当日の調理担当などやりたい仕事だけを選び取っていた。私には屋台の看板や飾りつけなど、地味で時間のかかる仕事が大量に降ってきた。受験勉強に専念したいクラスメイトたちも、さっさと私に仕事を押し付けて帰って行った。到底一人でできる量ではなかったが、誰も助けてくれないことは分かっていた。担任も見て見ぬふりだった。抵抗しても時間の無駄だと悟り、家に持ち帰って寝る時間を削って作業を終わらせた。私が一人で作った看板を見て佐々木は「ださい、センスない」とクラスメイトたちと嗤っていた。
どうでもよかった。あと数カ月で卒業するのだから。
文化祭当日は盛り上がるクラスに私の居場所があるわけもなく、美術室で部員の作品展をしていたので、そこで受付や留守番をしながら静かに過ごした。保護者や在校生が作品を流し見ては去っていくのを見ているだけで最後の文化祭は終わった。
文化祭の後、美術室で片づけをしていると高岡先生が準備室から「香さん」と嬉しそうな顔でこちらに手招きしていた。準備室に入ると、先生は二つ折りになった紙を私に手渡した。
「なんですか、これ?」
「作品展の出口に、感想を書いてもらう用紙を置いておいたんですよ。何枚か入っていたんですがね、これはどう見てもあなた宛てだ。あなたが持っているといい」
受け取った用紙を開くと、綺麗な字で感想が認めてあった。
その文章は「幸せな記憶を描いた人へ」という一文から始まっていた。幸せな記憶、というのは生徒玄関前に飾られている私の絵の題名だった。
「あなたの絵に救われました。あの絵を見て大切なことを思い出しました」
手紙の最初にそう書かれていた。そして沢山の言葉で、私の絵を好ましく思ってくれていることが綴られていた。読み進めていくうち、ある一文を見て私は静かに息をのんだ。
「あの絵を描いてくれてありがとう」
その一言がどうしようもなく嬉しくて、胸が熱くなった。喉の奥がぐっと熱くなって、何かが込み上げてくる。油断したらきっとそれは瞳から零れてしまう。忘れていた呼吸を思い出して、私は息を深く吸う。そして続きを読み進めた。優しい言葉が並んだ後、最後の一行は何故か黒く塗り潰されて「あなたの絵が大好きです」と書き直されていた。そう言えば、感想コーナーには消しゴムが置いてなかったなと思い返した。
気になって、紙を裏返して天に翳した。その様子を先生は笑って見ていた。きっと先生も裏返したのだろう。透かして見ると塗り潰した下に「あなたが好きです」と書いてあるのが分かった。それを見て、くすっと笑ってしまった。書き間違えて慌てて消したのを想像すると可笑しかった。
「まるでラブレターみたいな感想だ」
そういうと高岡先生は頷いて自分のことのように喜んで言った。
「絵を描いていてこんなうれしい感想を貰えることはそう多くない。大事にとっておきなさい」
「はい、そうします」
私は初めてもらった作品の感想を写真に撮って、大事に仕舞った。
その手紙は、その後も落ち込むたびに読んでは元気を取り戻す薬のような存在になった。
何度も何度も感想を読み返した。感想をもらえることがこんなに嬉しいことだと思わなかった。読み返すたびに嬉しい気持ちが蘇り、また絵を描こうと思える。こんな嬉しいものを貰えるなんて、自分はなんと幸運なのだろうと感動した。その瞬間、ふと思いついた。私も手紙を書こう、と。
顔も名前も知らないピアニストの彼に、私も伝えたくなった。感謝の気持ちを、彼のピアノが好きという気持ちを。
家に帰ると、すぐに手紙を書き始めた。書き出しから苦戦した。名前も知らないから宛名すら書けないのだ。
「宛名はどうしようか……」
悩みに悩んで「水曜日のピアニストさんへ」と書いた。何を書こうと悩んで、何日もかけて手紙を書いた。言葉を連ねながら思った。
私は多分、彼が好きだ。
顔も、名前も知らない。彼の奏でるピアノしか知らない。それなのに、彼が好きになってしまった。どんな人だろう。どうして水曜だけピアノを弾いているんだろう。受験シーズンにピアノを弾いているんだからきっと年下かな。そんなことを考えるだけで楽しかった。
三年生になってから初めて心が弾んだ。
彼のピアノに救われたこと、彼のピアノが本当に好きなこと。それをどんな言葉で綴るか、幾度も悩みながら言葉を書き連ねた。推敲を重ね、ひと月以上かけてやっと手紙を書き終えた。いつの間にかファンレターはラブレターになっていた。書き上げて読み返すと恥ずかしくなったけれど、どうしても渡したかった。その段階にやっと気づく。
「どうやって渡そう……」
声すらかけられないのに、直接渡せるはずがない。けれど、彼の名前も、学年も、クラスも知らない私には直接渡す以外の方法なんてない。頭を抱えて、とりあえず手紙を通学鞄に仕舞った。
それからは水曜日の放課後にピアノが聞こえる度、手紙を携えて音楽室の前まで行った。結局、何もできずに帰ることが続いた。
勇気が、なかった。
時間は過ぎ去って、二学期は終わりを迎えようとしていた。三学期になると、三年生は年明け暫くして自由登校になる。私も受験の為に卒業式まではほとんど学校には来なくなる。二学期最後の水曜日、きっと今日がピアノを聴ける最後の日になるだろう。
今日しかない。勇気を振り絞って、階段を駆け上がった。いつもピアノが聞こえてくる時間だった。まだピアノの音はしないけれど、きっと音楽室に彼はいるはずだ。音楽室の扉の少し手前で息を整えて、ぎゅっと目を瞑る。緊張で、おかしくなりそうだった。でも、今日しかない。自分を奮い立たせて、勢いに任せて音楽室の中に入った。
「失礼します!」
恐る恐る目を開けると、そこには誰もいなかった。
「……あれ」
拍子抜けした。私は手紙を握りしめたまま、泥棒みたいにこそこそと音楽室の中に入った。名前は分からないけれど、ピアノの鍵盤を蓋う蓋みたいなものは開いていて、譜面台には楽譜は開かれたままだった。きっと彼のものだろう。廊下から顔を出して辺りを見回しても、人の気配はなかった。私は迷いながらラブレターを楽譜の横に置いた。そして、逃げるように音楽室から走り去った。美術室に戻って、窓の下に隠れるように座り込む。走ったのと、緊張とで、ぜえぜえと息は乱れていた。やっぱり手紙を取りに戻ろうか。でも、鉢合わせたらどうしよう。手紙を先生だとか、彼ではない人に見られたらどうしよう。いろんな考えが頭の中を巡った。
どのくらいの時間、悩んでいただろうか。いつもより少し遅れて、ピアノの音色が響いてきた。
彼だ。彼が来たのだ。
顔に体中の血液が集まる。鼓動は心臓が壊れたかと思うくらいにうるさかった。彼は私の手紙を読んだのだろうか。彼のいつもと変わらないピアノの演奏を聴きながら、すっと一筋の涙が零れた。
きっと彼は手紙を読んでくれたと思った。
そう思えたのは、彼が弾いている曲が私の命を救ってくれた優しい曲だったから。
「この曲の名前が知りたいな」
いつか彼と話せたら、聞いてみたい。なんて、彼の名前すら知らないのに。自分で自分を嗤った。壁に背を預けて、噛みしめるように彼のピアノを聴いていた。
二学期が終わり、三学期は親の離婚や受験で多忙を極め、あっという間に時間は過ぎていた。結局、彼と顔を合わせることすらないまま、私は高校を卒業した。それも致し方ないことだった。
勇気のない私が書いたのは、名無しのラブレターだったから。
***
美術室の椅子に座って、携帯電話の画面に映った写真をぼうっと眺めていた。優しい言葉が並ぶ手紙。こうして写真に撮っておいたおかげで、いつでも見ることができる。知らない誰かのくれた手紙は、未だに私の心の薬になっている。
自分のことが嫌いになりそうな時、この手紙が思い出させてくれる。私の絵を好きだと言ってくれた人がいた、と。
たったそれだけで、自分を好きになれる。
「澤村さん?」
名前を呼ばれて、はっとして携帯の画面から顔を上げる。美術室の扉から一ノ瀬がこちらを覗いて「今、大丈夫?」と声をかけてきた。私が頷くと彼は不安そうな顔で美術室に入ってきた。私は携帯を仕舞って椅子から立ち上がった。
「どうしたの?何か用事だった?」
「いや……お節介かなと思ったんだけど、なかなか戻って来ないから心配で見に来た。大丈夫?あの後、授業大変だったんじゃない?」
「心配かけてごめんね。もう戻ろうと思ってたの。授業も何とか大丈夫だったよ。さっきは本当にありがとうね」
「そっか、それなら良かった」
一ノ瀬は眉を下げて、自分のことみたいに安堵したように言った。そして矢継ぎ早に言葉を続けた。
「もう俺、すっごい心配で!すぐに話聞きたかったんだけど、飯森さんや黒川さんの前で話したくないかと思ってさ。しかも、澤村さん元気なさそうだったし。佐々木にプリント以外で何かされてない?ていうかもう、完全な授業妨害だし、一緒に教頭先生のところ相談に行く⁉」
早送りしたみたいに捲し立てるように言われ、私は「だ、大丈夫」と返事をするのが精いっぱいだった。すると一ノ瀬は我が事のように怒った顔で言った。
「大丈夫そうに見えない!」
「大丈夫だって。元気なく見えたのは、授業妨害のこともあるけど、絵のことでも悩んでてそのせいだよ。今はもう大丈夫」
「澤村さんがそう言うなら……まあ、今回のことも佐々木の仕業だって証拠もないしな。あいつ、本当に何の為に教育実習に来てるんだろうね」
「私たちも教職に就く予定ないし、人のこと言えないけどね」
「佐々木よりマシだよ。本当はあんなやつに教員免許取ってほしくないよ。生徒の為に一生懸命準備した授業を妨害して、生徒のことなんか頭にない証拠だ。澤村さんの気持ちは汲みたいけど、俺はこのままでいいのかなって正直思うよ」
一ノ瀬の言葉に私は困ったように俯いた。
最初は自分の保身のことしか考えてなかった。実習が始まって数日、生徒と過ごすと考えは変わってきた。生徒の名前を憶え、彼らの顔がはっきり見えてくると、途端に申し訳なくなったのだ。私の保身で、将来もしも佐々木が教員になった時、彼らのような子たちに被害があったらどうしよう。
それでも報復や、失敗した時、彼女の人生を取り返しのつかないものにしてしまった時までを考えると怖くて何もできない。私はいじめられっ子のまま。こんな私こそ、本当は教壇に立つべきではないのかもしれない。
「私もそれは思うけど、証拠があっても正直今までのこともどれだって悪戯レベルだもん。大事にならない程度で、私が嫌がること、困ることを彼女は狙ってやってる。反応したって無駄だよ。昔からそうなの。この状況で相談しても管理職の先生を困らせるだけだもん」
「確かに、下手に騒いで澤村さんだけが嫌な思いするのは俺も避けたい。佐々木をどうにかするより、何もされないように、されてもいいように対策を練るしかないのか、悔しいけど。俺もできそうなこと考えてみるよ」
「そこまでしなくていいよ。一ノ瀬くんだって教育実習で大変なんだから!授業妨害は困るけど、今日だって実際、紙が破かれて捨てられただけ。さすがに授業直前にプリントがなかったときは焦ったけど……でも一ノ瀬くんのおかげで助かったし。本当に大丈夫だから!」
「また大丈夫って言う……いいじゃん。友達なんだし、もっと頼ってよ!」
卑屈な自分が恥ずかしくなるくらい、彼は爽やかな笑顔で言った。彼の真っ直ぐさは眩しいくらい羨ましかった。
「そう言えば、俺、美術室って初めて入ったよ。選択音楽だったし、実技棟の掃除当番もなかったし。当たり前だけど音楽室と全然違うな」
一ノ瀬は美術室を見回して、石膏像などを覗き込みながら興味深そうにしていた。
「私もこの間、書道室入って黒川さんと同じこと話したよ」
「じゃあ、澤村さんも音楽室入ったことないの?」
「音楽室は……一回だけある、かな」
「へえ、なんで一回だけ?」
「え、あ……高校の時、好きな人が音楽室にいて……結局会えなかったし、その人とも何もなかったんだけど」
「高校生特有の甘酸っぱい感じだ!」
一ノ瀬は目を輝かせて、目に見えてワクワクした顔をする。
「はいはい、そろそろ戻ろう。お昼休みまでに、授業の振り返りとか色々やらなきゃ。一ノ瀬くんもでしょ?」
にやにやする一ノ瀬を引っ張って廊下に出た。一ノ瀬は何故か興味津々で廊下を歩きながらも話を続ける。
「音楽室ってことは澤村さんの好きな人って吹部か合唱部だったの?」
「し、知らないよ。てか、もうその話はいいから」
「告白したの?」
「もういいって言ってるのに」
「だって、さっきすごく含みを持った感じだったから気になって。すごく好きな人だったんじゃないの?」
私は少し考えて、ぽつりと呟くように言った。
「うまく言えないけど……忘れられないの。好きだっただけで、付き合ったわけでもないのにね」
それどころか、話したことすらない。名前も、顔も知らない。そんなことを言ったら、きっと一ノ瀬は根掘り葉掘り聞きそうだから、言葉をそこで止めた。
「忘れられない好きな人か……俺にもあったなあ、そういうの」
「そうなの⁉一ノ瀬くんの高校時代の話してよ!」
「俺に怒った割にめちゃくちゃ食いつくな」
「他人の話だと気になるものだね。告白しなかったの?」
「いや……高校時代はちょっと家がごたついてたから、彼女どころじゃなくて。だから、ただの片想いだよ」
「へえ!どんな人?同じクラスだったの?」
一ノ瀬は笑いながら、首を横に振った。
「一目惚れで、遠目に見てただけだから。その人のことも名前くらいしか知らなくて。すごく髪の綺麗な子だったんだよね。未だに何となくその子のことだけ忘れられなくて」
「へぇ……私と同じだね」
懐かしそうに遠くを見つめる彼の横顔を見て、胸が少しもやもやした。私と同じで、彼にも忘れられない好きな人がいる。水に絵の具を落としたように胸にじわりと滲んで広がる重苦しい何か。この気持ちを追及してはいけない気がして、私は冗談めかして言った。
「一ノ瀬くんって髪の綺麗な子が好きなんだ?髪フェチ?」
「え、どうだろ?言われてみれば、髪の綺麗な子がいるとつい見ちゃうな」
俺って髪フェチだったのか、と一ノ瀬が神妙な顔で呟くので私は笑ってしまった。くすくす笑うのに合わせて揺れる私の長い黒髪をじっと見つめて、一ノ瀬はそういえば、と言葉を続けた。
「澤村さんも髪が綺麗だよね。初めて会った時、校門で髪の綺麗な子が蹲ってたから、思わず声かけたんだよ」
「助ける判断基準、髪なの?ちょっと変……何でもない」
「今、変態って言おうとした?」
「いえ、別に。その節は助けてくれてありがとう」
「どういたしまして」
にっこり笑って言いながら、一ノ瀬は小会議室のドアを開けた。下らない話をしている間に目的地に着いていた。部屋に入ると、課題のチェックをしていたらしい飯森が「楽しそうに何の話をしてたの?」と尋ねる。私がすぐさま「髪フェチの変態が……」と言いかけると一ノ瀬が慌てて話を遮った。
「高校時代の思い出の話だよ!」
飯森が不思議な顔をしていて、私はこっそり笑いを堪えていた。