「ていうかこれ、購買で売ってるやつじゃん!やばい、こんなの買う人いるんだ!前のペンケースのほうが良かったんじゃない?」
どの口が言うのか。そう言いたかったけれど、反応したら負けだとぐっと堪えた。あと三十枚、二十枚……と心の中で残数を数えながらコピーが終わるのをひたすら待った。たった二、三分程度の時間がとても長く感じた。
「一ノ瀬律だっけ?あの爽やかくん。泣きついて同情してもらえたの?よかったねえ、男だけでも味方に出来るようになって」
良かったね、と言いながら馬鹿にするように嘲笑う。佐々木は私の耳元で「身体でも使った?」と下卑た笑みで囁いた。これには流石に耐えきれなくなって私はコピーが終わったプリントの束を抱えて、彼女を睨んだ。
「あらら、怒っちゃったー?」
「私に関わらないでって言ったよね。過去のことを言うつもりはないのに、どうして絡んでくるの?」
「だって香ちゃんのこと大嫌いなんだもん」
「痛っ……」
佐々木は周囲から見えないようにヒールの先で私の足を踏んだ。痛みで私の顔は歪む。容赦なく、ぐりぐりとヒールをねじ込むように彼女は体重をかけた。
「本当に反抗的になったよね?男を味方につけて調子乗っちゃった感じ?自分の立場思い出せるように教育し直さないといけないかな」
「やめてよ!」
私は佐々木を押しのけた。ズキズキと痛む足を庇いながら、彼女を睨む。
「二度と話しかけないで」
私は言い捨てて、彼女の横を通り過ぎた。佐々木はこわーい、と薄ら笑いを浮かべていたが、佐々木を無視して私は会議室を出た。扉を閉めようとした時、佐々木が他の実習生たちに「突き飛ばされて怖かったあ」と甘えた声で早くも嘘を吹聴しているのが聞こえてきた。腹が立ったけれど、構わず扉を閉めた。
歩きながら、呼吸が、鼓動が早くなって動悸がする。歩く度に、足の痛みが気になった。怖くて、逃げたくて、歩調はどんどん速くなる。
佐々木はただのいじめっ子で本当は怖くなんかないと頭では理解している。それでも、身体に染みついた痛みと恐怖はまだ取れないらしい。大人になった今でも、私は彼女が怖い。彼女を見ると心より先に、いつも身体が強張る。それでも理性のおかげで彼女に立ち向かえる。けれど、こうして対峙した後は暫く動悸がするから嫌になる。
どれほど時間が経てば、身も心も過去から解放されるだろう。
「おーい!澤村せんせー!」
不意に遠くで私の名前を呼ぶ声がして私は立ち止まる。きょろきょろと辺りを見回した。校舎の真ん中は大きな吹き抜けになっていて、廊下と教室で吹き抜けを囲む構造になっている。吹き抜けの中央を通る渡り廊下から一ノ瀬が生徒たちと一緒になって手を振っていた。彼と一緒にいたのは私が担当する一年六組の生徒たちだった。音楽選択の生徒たちのようだ。そのあっけらかんとした明るい笑顔を見たら、つられて私も笑っていた。手を振り返すと、彼は生徒と一緒になって嬉しそうに笑っていた。
気が付いたら動悸は収まっていて、息も整っていた。
また、助けられてしまった。
実習が始まって数日のうちに、何度思っただろう。彼の存在がなかったら、私はとうの昔に実習をリタイヤしていたに違いない。
ほんの少し軽くなった足取りで私は美術室へ向かった。印刷したプリントを教卓に置いて、パソコンやプロジェクターの準備をした。指導案を見返して、授業の流れを一通り復習した。実際に授業をすれば、指導案通りに行かないことばかりだろう。大学の教職課程では大学生同士、生徒役と教師役になって模擬授業を行ったが、それですら指導案通りにはいかない時があった。恐れても仕方がないが、やはり緊張する。朝のホームルームで何十もの視線が数分間集まるだけで緊張するのに、それが一時間近く続くのだ。
「ふう……」
しなびた風船から空気が漏れるように息を吐いた。ぐったりと教卓に突っ伏した。よく考えなくても、私は教師に向いていない。人前で話すのは勿論苦手だ。何より学校も大嫌いときた。将来の保険として教員免許欲しさに実習に来たけれど、なんと場違いな。飯森のような教職への熱い思いや、使命感をもって実習に来ているわけではない。どうしても後ろめたさがある。それで余計に緊張しているのかもしれない。
「澤村さん、ちょっといいですか?」
ひょこっと、美術室の扉を開けて黒川が顔を覗かせた。私は慌てて身体を起こした。
「どうしたの、黒川さん?」
「今って時間あります?書道室の机を動かすのを手伝って欲しくて」
「いいよ、手伝う」
黒川と一緒に隣の書道室に移動した。高校時代は美術を選択していたので、書道室に入るのは初めてだった。
「うわあ、墨の匂いがすごいね!」
入った瞬間、墨の香りが部屋中に広がっていた。他の教室と違って大きな長方形の下敷きが敷かれた長机が何台も並んでいて、洗い場は墨でところどころ黒く汚れていた。教室の後ろには生徒の作品や、漢字のお手本のようなものがずらりと貼ってある。美術室に馴染みのある私には新鮮な光景だった。
「墨の匂いですか?ずっと嗅いでいるから鼻が馬鹿になってるのかな。全然わからないですね。言われてみると、美術室も絵具の匂いがしましたね」
「え、本当?私も絵具の匂いわかんないや」
「毎日嗅いでるから鼻が麻痺するんですかね。あ、この机です。そっち側持ってもらえますか?」
「はーい……えっ、重!」
言わるまま、机の端に手をかけると、想像より重くて変な声が出た。
「年代物なので重いんですよ」
「木製かあ、重いはずだね」
「次の授業、人数多いから机足りなくて。でも一人で運ぶには重すぎるんですよねぇ。隣が美術室で良かったです」
壁際に寄せられていた長机や椅子を黒川と一緒に運び、座席を増やした。黒川も次の芸術で初授業らしい。彼女もまた緊張していた。お互いに励まし合って、私は美術室に戻った。授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、十分の休み時間が始まる。大体、五分前くらいになると生徒がわらわらと教室に入って来る。いよいよか、とさらに緊張を募らせて教卓に立つ。しかし、教卓に置いておいたはずの授業で使うプリントが無くなっていた。
「え、なんで……」
まさか、と思った。反射的にゴミ箱を振り返ったが、何もなかった。視線を教卓の下に落とすと、プリントが落ちているのが見えてほっとした。風で落ちたのかな、と屈んで手を伸ばすと、ぐちゃぐちゃに破かれたプリントの塊があった。
それを見て、頭が真っ白になりそうだった。
数秒、呆然として、はっとしてすぐに時計を見た。あと七分。廊下から生徒たちの声が聞こえてくる。
もう時間がない。
焦りながら、だめになったプリントを抱え、慌ててコピー機のある事務棟へ向かって走った。きっと授業には間に合わない。それでも急いで往復するしかない。大慌てで廊下を走った。そのせいで階段のある曲がり角で向こうからやって来る人影に気づかなかった。どんっと固い胸板にぶつかった。
「危ないっ!」
あ、転ぶ。そう思った時、男の声がして太い腕が伸びてきた。傾いた身体をすっと伸びた長い腕が支えてくれた。
どの口が言うのか。そう言いたかったけれど、反応したら負けだとぐっと堪えた。あと三十枚、二十枚……と心の中で残数を数えながらコピーが終わるのをひたすら待った。たった二、三分程度の時間がとても長く感じた。
「一ノ瀬律だっけ?あの爽やかくん。泣きついて同情してもらえたの?よかったねえ、男だけでも味方に出来るようになって」
良かったね、と言いながら馬鹿にするように嘲笑う。佐々木は私の耳元で「身体でも使った?」と下卑た笑みで囁いた。これには流石に耐えきれなくなって私はコピーが終わったプリントの束を抱えて、彼女を睨んだ。
「あらら、怒っちゃったー?」
「私に関わらないでって言ったよね。過去のことを言うつもりはないのに、どうして絡んでくるの?」
「だって香ちゃんのこと大嫌いなんだもん」
「痛っ……」
佐々木は周囲から見えないようにヒールの先で私の足を踏んだ。痛みで私の顔は歪む。容赦なく、ぐりぐりとヒールをねじ込むように彼女は体重をかけた。
「本当に反抗的になったよね?男を味方につけて調子乗っちゃった感じ?自分の立場思い出せるように教育し直さないといけないかな」
「やめてよ!」
私は佐々木を押しのけた。ズキズキと痛む足を庇いながら、彼女を睨む。
「二度と話しかけないで」
私は言い捨てて、彼女の横を通り過ぎた。佐々木はこわーい、と薄ら笑いを浮かべていたが、佐々木を無視して私は会議室を出た。扉を閉めようとした時、佐々木が他の実習生たちに「突き飛ばされて怖かったあ」と甘えた声で早くも嘘を吹聴しているのが聞こえてきた。腹が立ったけれど、構わず扉を閉めた。
歩きながら、呼吸が、鼓動が早くなって動悸がする。歩く度に、足の痛みが気になった。怖くて、逃げたくて、歩調はどんどん速くなる。
佐々木はただのいじめっ子で本当は怖くなんかないと頭では理解している。それでも、身体に染みついた痛みと恐怖はまだ取れないらしい。大人になった今でも、私は彼女が怖い。彼女を見ると心より先に、いつも身体が強張る。それでも理性のおかげで彼女に立ち向かえる。けれど、こうして対峙した後は暫く動悸がするから嫌になる。
どれほど時間が経てば、身も心も過去から解放されるだろう。
「おーい!澤村せんせー!」
不意に遠くで私の名前を呼ぶ声がして私は立ち止まる。きょろきょろと辺りを見回した。校舎の真ん中は大きな吹き抜けになっていて、廊下と教室で吹き抜けを囲む構造になっている。吹き抜けの中央を通る渡り廊下から一ノ瀬が生徒たちと一緒になって手を振っていた。彼と一緒にいたのは私が担当する一年六組の生徒たちだった。音楽選択の生徒たちのようだ。そのあっけらかんとした明るい笑顔を見たら、つられて私も笑っていた。手を振り返すと、彼は生徒と一緒になって嬉しそうに笑っていた。
気が付いたら動悸は収まっていて、息も整っていた。
また、助けられてしまった。
実習が始まって数日のうちに、何度思っただろう。彼の存在がなかったら、私はとうの昔に実習をリタイヤしていたに違いない。
ほんの少し軽くなった足取りで私は美術室へ向かった。印刷したプリントを教卓に置いて、パソコンやプロジェクターの準備をした。指導案を見返して、授業の流れを一通り復習した。実際に授業をすれば、指導案通りに行かないことばかりだろう。大学の教職課程では大学生同士、生徒役と教師役になって模擬授業を行ったが、それですら指導案通りにはいかない時があった。恐れても仕方がないが、やはり緊張する。朝のホームルームで何十もの視線が数分間集まるだけで緊張するのに、それが一時間近く続くのだ。
「ふう……」
しなびた風船から空気が漏れるように息を吐いた。ぐったりと教卓に突っ伏した。よく考えなくても、私は教師に向いていない。人前で話すのは勿論苦手だ。何より学校も大嫌いときた。将来の保険として教員免許欲しさに実習に来たけれど、なんと場違いな。飯森のような教職への熱い思いや、使命感をもって実習に来ているわけではない。どうしても後ろめたさがある。それで余計に緊張しているのかもしれない。
「澤村さん、ちょっといいですか?」
ひょこっと、美術室の扉を開けて黒川が顔を覗かせた。私は慌てて身体を起こした。
「どうしたの、黒川さん?」
「今って時間あります?書道室の机を動かすのを手伝って欲しくて」
「いいよ、手伝う」
黒川と一緒に隣の書道室に移動した。高校時代は美術を選択していたので、書道室に入るのは初めてだった。
「うわあ、墨の匂いがすごいね!」
入った瞬間、墨の香りが部屋中に広がっていた。他の教室と違って大きな長方形の下敷きが敷かれた長机が何台も並んでいて、洗い場は墨でところどころ黒く汚れていた。教室の後ろには生徒の作品や、漢字のお手本のようなものがずらりと貼ってある。美術室に馴染みのある私には新鮮な光景だった。
「墨の匂いですか?ずっと嗅いでいるから鼻が馬鹿になってるのかな。全然わからないですね。言われてみると、美術室も絵具の匂いがしましたね」
「え、本当?私も絵具の匂いわかんないや」
「毎日嗅いでるから鼻が麻痺するんですかね。あ、この机です。そっち側持ってもらえますか?」
「はーい……えっ、重!」
言わるまま、机の端に手をかけると、想像より重くて変な声が出た。
「年代物なので重いんですよ」
「木製かあ、重いはずだね」
「次の授業、人数多いから机足りなくて。でも一人で運ぶには重すぎるんですよねぇ。隣が美術室で良かったです」
壁際に寄せられていた長机や椅子を黒川と一緒に運び、座席を増やした。黒川も次の芸術で初授業らしい。彼女もまた緊張していた。お互いに励まし合って、私は美術室に戻った。授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、十分の休み時間が始まる。大体、五分前くらいになると生徒がわらわらと教室に入って来る。いよいよか、とさらに緊張を募らせて教卓に立つ。しかし、教卓に置いておいたはずの授業で使うプリントが無くなっていた。
「え、なんで……」
まさか、と思った。反射的にゴミ箱を振り返ったが、何もなかった。視線を教卓の下に落とすと、プリントが落ちているのが見えてほっとした。風で落ちたのかな、と屈んで手を伸ばすと、ぐちゃぐちゃに破かれたプリントの塊があった。
それを見て、頭が真っ白になりそうだった。
数秒、呆然として、はっとしてすぐに時計を見た。あと七分。廊下から生徒たちの声が聞こえてくる。
もう時間がない。
焦りながら、だめになったプリントを抱え、慌ててコピー機のある事務棟へ向かって走った。きっと授業には間に合わない。それでも急いで往復するしかない。大慌てで廊下を走った。そのせいで階段のある曲がり角で向こうからやって来る人影に気づかなかった。どんっと固い胸板にぶつかった。
「危ないっ!」
あ、転ぶ。そう思った時、男の声がして太い腕が伸びてきた。傾いた身体をすっと伸びた長い腕が支えてくれた。