美術の授業を見学した後、私は荷物を持って実技棟の一階にある小会議室に移動した。教頭先生が実習生は実技棟の小会議室も使用して良いと話していたからだ。美術室のある実技棟から事務棟の大会議室は正反対の場所にあり、歩くと数分かかるほどの距離がある。恐らく、その不便を思って小会議室を使えるようにしてくれたのだろう。
小会議室に入ると、既に三人の実習生がいた。
「あれ、澤村さん?お疲れ様」
そのうちの一人、一ノ瀬が相変わらず人の良さそうな笑みで私を出迎えた。
「あ、そっか、一ノ瀬くんも芸術だから実技棟にいるんだね」
「そうだけど、澤村さんも芸術科なの?そう言えば、科目聞いてなかった!」
「言ってなかったけ?私、美術だよ」
「え!美術⁉じゃあ、美術部だったの?」
「そりゃあ、まあ」
なんでそんな当たり前のことを聞くのか疑問に思った。
「今でも美術部員の人と繋がりってある?」
「え?いや、誰も分かんないな。私、人付き合い悪くて」
そもそも、高校にいい思い出がないので高校の知り合いとはほとんど連絡をとらくなっていた。
「そうなんだ……そっか」
何故だか、一ノ瀬は残念そうにしていた。ますます疑問は深まるばかりだった。
「えーと、澤村さん?私、飯森雪穂だよ。家庭科ね」
残り二人のうち、ショートヘアの女子が会話に入ってきた。見たことがある顔だなと思ったら飯森は続けて言った。
「二年の時、隣のクラスだったよね?体育と美術で一緒になったことあると思う」
「え……あー、そうかも。ああ、走るのが速かった飯森さんだ?」
「あはは、照れるな。陸上部だったから」
飯森は照れながら笑った。高校の頃もショートヘアだったので、ぼんやりと見覚えがあった。
最後の一人と目が合うと、彼女はにこりと静かに微笑んだ。黒髪のボブヘアで、大人しそうな子だった。
「黒川いつきです。同じ芸術科の書道です、よろしくね」
よろしく、と私は軽く会釈した。書道室は美術室の隣だったので、彼女のことは放課後、何度か見かけたことがあった。たしか、書道部の部長でいつも大きな作品を黙々と書いている子だった。
美術、音楽、書道は同じ芸術科で、生徒たちはこの中から選択して一科目を履修する。学校の規模によっては一教科しかなく選択の余地がなかったり、二教科しかない、あるいは工芸など別の芸術科目があったりするらしい。多くの学校はこの三科目から選ぶ。
「そう言えば、みんなは教免って高校だけ?中学は?」
一ノ瀬の問いに最初に応えたのは飯森だった。
「私は小中高、全部取るよ」
「小学校も?すごいね。私は中高かな。高校だけより実習長くなるけど、中学も取れるならあった方がいいかなって」
「俺も、澤村さんと同じ理由で中高の予定だよ」
教員免許は小中高に別れ、取る免許の種類によって、実習期間は変わる。特に小、中は高校に比べると実習期間が長い。
「私は高校だけ。そもそも、書道って高校しかない教科なので」
黒川以外の三人の声が「えっ!」と被さり、黒川に視線が集まる。
「そうなの?高校だけなの?」
「でも小学校とか書写で書初めしたよ?俺、字汚くて先生にめっちゃしごかれたもん」
「中学でも書初めあったよ、あたしの学校!」
黒川は一気に詰め寄られて「えっと」と困ったように笑って話し出す。
「たぶん、みんなが言っているのは国語科書写のことだと思います。書写は国語の仲間なの。書道は芸術科だから別物なんです」
「へえ、俺は音楽選択だったから知らなかったな」
「あたし、よく分かんないんだけど書写と書道って何が違うの?」
「うーん、すごく簡単に言うなら……書写は正しく書く、書道は美しく書くって感じですかね?」
「……なるほど!」
「なるほどなー!」
私と一ノ瀬がすぐに納得して頷くと飯森だけ不可解そうな顔をしていた。
「え、今の説明ですぐ分かったの?分かってないの、あたしだけ?芸術科の理解、早すぎない?」
「私は黒川さんの言いたいことすごく分かったよ」
「うん、俺も!分かりやすかった!」
「同じ実技科目だけど、やっぱり芸術って違う人種って感じするわー……そう言えば、実技って言うと他に体育の実習生もいなかったけ?」
「体育の人達は体育館遠いから、体育準備室で作業するって言ってたよ。ここは使わないってさ」
「そうなんだ。体育館って遠いもんね。てか、一ノ瀬って本当に顔広いよね。こうして女ばっかりの空間にいても違和感ないっていうか、馴染み過ぎっていうか」
「たしかに、一ノ瀬くんってスクールカーストの頂点って感じしますね」
黒川の言葉に私も横でうんうんと頷いていた。
「なんかチャラチャラしてそうです」
「え⁉そんなことないよ!理系クラスだったから女子少なかったし」
「嘘だね。あたしは文理選択前の一年生の時、一ノ瀬と同じクラスだったけどいっつも一軍の女子と男子に囲まれてたよ。その頃より今の方が女慣れしてる感じがする」
「ちょっと、飯森さん⁉やめてよ、イメージ悪くするの!大学が女子多いのと妹いるから、女子ばっかりの空間に慣れているだけで、普通だよ!」
「あはは、冗談だよ。分かってるって!てか、一ノ瀬って、音大なんだね。澤村さんは美大?黒川さんもそういう系?」
「県外の美大だよ」
「私は教育学部の書道専攻です。小中高の免許取るってことは、飯森さんも教育学部とか、教育大でしょう?」
「うん、そうそう!あたしも教育学部!一緒だね」
「そうですね。でも私は所謂、ゼロ免課程の学生なので、飯森さんと少し違うかも」
「ゼロ免課程?」
私と一ノ瀬の声が重なった。
「ゼロ免課程って言うのは、教育学部の中でも教員免許を取らなくても卒業できる課程のことです」
へー、と私と一ノ瀬の声がまた重なる。教育実習に来ているものの、私は教育学部の学生とはかなり異なる存在なのだと再認識させられた。
「あたしの通ってる大学はゼロ免ないけどさ、ゼロ免の人って教免取る人多いの?」
「少数派ですね。卒業要件じゃないし、教免って授業も多くて実習もあるし大変じゃないですか。教員志望も少ないです。私も免許は一応取るけど、教採も受けるつもりないんです。言っちゃだめだけど」
「あー……私も似たような感じ」
「右に同じく」
私と一ノ瀬が横でうんうんと黒川に同調して頷いた。その様子を見て、飯森は苦笑いしながら言った。
「うーん、芸術は採用枠少ないもんね。教育学部じゃなかったら、なおさらだよね。あたしは、家庭の先生になりたくて教育学部に入ったから、もちろん教採も受けるつもり。でも、普通の教育学部でも、実習で嫌になって先生にならない人もいるし。教員の労働環境が劣悪って言うイメージもあって、普通の企業から内定もらえたら就職選んでた先輩も結構いるよ」
「へー、そういうもんなんだ。俺、教育学部ってみんなが先生になるのかと思ってたよ」
「もうそういう時代じゃないんだよ。教員の仕事って最近はイメージ悪いしね。教師のバトンってハッシュタグ知ってる?SNSで検索すると、体感だけどポジティブ一割、教育現場の闇が九割くらい感じられるよ」
「うわ……感じたくない」
一ノ瀬が渋い顔をすると、飯森はくすっと笑って言葉を続けた。
「でも小学校で実習した時、本当に大変だったけど、やりがいもすごくあったよ。人によるだろうけど、みんなも実習で教師っていいなって思えるといいよね。折角、実習に来たんだから、ね!」
飯森の言葉でネガティブだった空気が少し明るくなった気がした。
「やる気出た!俺も頑張る!」
「飯森さんっていい先生になりそうですね」
「すごい、先生って感じした。ありがとう」
「え、何この空気⁉なんか恥ずかしいんだけど!やめてよー!」
芸術科の三人からキラキラした目で見つめられて、飯森は照れ笑いしていた。
それからは指導案を作成したり、それぞれ授業の見学などをして過ごした。緊張したが、担当クラスの終礼と清掃監督も問題なく終えて、一日目は特に何事も起こることなく終了した。
佐々木美希と再会した時は、実習が不安で憂鬱でしかなかったが、実技棟にいる分には他の実習生も優しい人ばかりで、不安は杞憂に感じられるくらい過ごしやすかった。あんなに苦しかった高校生活も先生側だとそんなに苦しくないものだな、と不思議な心地がした。同じ場所なのに、立場が違うだけで全く別の場所のように感じる。
学校にいる時、あんなに死にたくなるくらい辛かったのに。
今は、スーツを着て、普通に、大人みたいな顔をして学校の中を歩いている。
高校生の頃の私が、今の私を見たらどんな顔をするのかな。
暗い帰り道で学校を振り返った。まだ学校はちらほらと明かりが付いていた。暗がりに浮かぶ白い校舎を見上げても、何も感じなかった。
もう学校を見ても、息は苦しくはならなかった。
***
教育実習が始まって、早数日。
未だに朝と帰りのホームルームは緊張するけれど、先生モドキとしてどうにか過ごしていた。先生と呼ばれても、最初は違和感しかなかったが、何度も呼ばれ続けると不思議と馴染んでくるものだった。
実習は想像以上に忙しくて、佐々木美希と接触することもほとんどなく、指導案を作っている時以外はほとんど走り回っていた。
指導案は授業の設計図だ。どんなテーマで、どんなめあてや目標を持って授業を行うのか、評価基準や授業の時間配分などを事細かに計画して、授業を円滑に進めるためのものである。
教育実習生は素人同然なので、まずは指導案を作って教員にチェックしてもらう。指導案がなくては実習生は授業ができないのだ。
そして、肝心の指導案の作成はなかなかに難航していた。
「導入が弱いかな。最初の五分、だらだら説明するんじゃなくて、導入でいかに生徒の興味を引くかがその後の授業に関わってくる。生徒っていい意味でも悪い意味でも正直だからさ。つまらない授業って本当に聞いてくれないわけだよ。澤村さん」
「はい……」
「人物画の歴史話なんてね、君みたいな美大生は大好物かもしれないけれど、高校の授業でやったらものの数分で何人かは夢の世界行きだよ。もうちょっと素人でも興味を引く簡単な内容で話し始めないとねえ。ましてや、実技科目は舐められがちというか、生徒も休憩気分で来ちゃうから余計にね」
「はい……」
「時間配分だけど準備と片づけに五分ずつ取ってね。休み時間まで押しちゃうと次の授業の先生に迷惑かけちゃうから。やりたいことや伝えたいことがたくさんあるのは結構だけど、時間配分は余裕を持つべきだ。我々、実技は特に。まあ、授業の内容は悪くないから、もう少し修正してきなさい。以上です」
「はい、ありがとうございました……」
がっくりしながら、赤ペンが幾つも入った指導案を抱えて私は美術準備室を出た。大学の授業で指導案作りや模擬授業をしたこともあったが、やはり実際に学校で授業するとなると全く別物だ。高岡先生に指摘されることはその通りのことばかりで、もしこの指導案のとおりに授業をしていたら大惨事になっただろうな、と真っ赤になった指導案を見ながら思った。
指導案を抱えて小会議室に戻ると、一ノ瀬と黒川も同じように指導案で頭を悩ませていた。
「二人ともお疲れ様」
二人は疲れた顔で「お疲れ様」と言いながら顔を上げた。
「高校生の頃とか、授業の一時間がすごく長く感じたのに、指導案作ってると時間足りねー⁉ってなんない?」
「なる!」
「なりますね!」
私と黒川は首が取れそうなくらい大いに頷いた。
「何気なく授業受けてたけど、一時間でしっかり内容を収めて教えてくれていた先生たちに、俺は今猛烈に感謝してる。先生たち、すごいわ。あー、疲れた!」
一ノ瀬はぐっと背中を反らして、伸びをした。私は空いている椅子に座った。
「そう言えば、二人はどんなテーマで授業するの?」
「私は古典臨書を……えーと、美術で言うところのデッサンみたいなことをします」
黒川の広げていた教科書の字を見て私は思わず「難しそう」と呟いた。
「書いてみると楽しいものですよ。一ノ瀬くんは授業で何を?」
「俺は作曲の授業をする予定だよ。俺、音大って言っても作曲科なんだよね」
「一ノ瀬くん、曲とか作るの?すごい!」
「理論を学べば、誰でもできるよ。良し悪しは別としてだけど。澤村さんは授業で何するの?」
「私は人物画……っていうか、自画像を描かせる予定なの。なかなか指導案、うまく書けないけど」
「それは俺も同じ」
「私もです」
三人とも添削で赤だらけになった指導案を見せ合って笑った。
「黒川さんと澤村さんは放課後、部活も出てるんでしょ?大変だね」
「書道部はもともとゆったりした部なのでそうでもないですよ」
「私も美術部は先生が忙しい時に少しアドバイスするくらいしかやってないよ。一ノ瀬くんは部活やってなかったの?」
「俺、放課後は受験対策でピアノ教室に通ってたから部活してないんだ。でも昨日の放課後、教頭が暇でしょって言って俺とか部活やってなかった奴らを集めて、倉庫片づけたりちょっとした雑用の手伝いしたよ」
「それはそれで大変そうですね」
「今後もたまに呼ぶからさっさと指導案を終わらせろって言われたんだけど、全然終わりそうにない。音楽の静先生って高校の時も普通に怖かったけど、実習生の立場だと倍怖い。いや……百倍?」
「ハキハキした感じのかっこいい女性の先生だよね?」
「歩いている姿もきりっとしてて格好いいですよね、あの先生」
「そう!指示的確だし、超いい先生なんだよ!でも怖い」
「一ノ瀬くんみたいなちゃらついた感じの男子に容赦なさそうだもんね」
「だからそれ誤解だって!」
「じゃあ、実習前の髪色は?」
「うっ、ちょっと明るい色だった時はありました……」
「普通にチャラチャラしてますね」
「黒川さんまで!でも、静先生にも初見でお前チャラチャラしてるなって言われた。実習に向けてちゃんと黒髪にしたのに」
「普通に見抜かれてるじゃん」
一ノ瀬がぐうの音も出なくなったところで校内放送が鳴った。手隙の実習生は全校集会の準備のため、講堂に集まるようにとの指示だった。
三人揃って講堂に向かうと、実技棟が一番近いためか、他の実習生はいなかった。しばらくすると、学年主任の年配の先生が来て指示を出した。
「お、早いね。じゃあ、椅子出して、床の目印見ながら椅子並べてって。あと、舞台袖から演台出してね。って、卒業生だから言わんでも分かるか、ハハハ」
学年主任は笑いながら、できたら声かけてね、と後ろの方の椅子に座った。しばらくすると、力のあり余っていそうな体育の実習生や男性ばかりの理数系の実習生が来たおかげで、準備はあっという間に終わった。
「あれー、もう準備終わっちゃったんですかあ?」
全てが終わった頃に、耳障りな声が講堂に響いた。佐々木美希や他の女性陣が入ってきた。佐々木は教育実習でも高校の延長のように取り巻きを作って幅を利かせているようだ。
「せっかくわざわざ講堂まで来たのにねー」
「本棟から講堂遠かったのに」
遅れてやってきた彼女らは作業を手伝ってもいないのに、なぜか文句を言っていて私は口があんぐり開きそうな思いだった。黒川も驚きながらも冷めた目で見ていたので、私と思いは同じだったようだ。他の男性陣は「今、終わったところだよ!」と明るく声をかけていたので、人間ができているなと感心してしまった。
「一ノ瀬、なんか久々に見たわ!初日以外全然見かけないけど、どこにいんの?」
ノリの良さそうな数学の実習生に一ノ瀬が絡まれていた。
「いや、普通に実技棟にいるけど」
「そういやお前、担当音楽だっけ?楽器とかできんの?そこのピアノで何か弾いてくれよ!」
「講堂のピアノ勝手に触ったらだめだから無理。それに俺は作曲専攻だから」
「音大なのにピアノ弾けねーの⁉」
「いや、普通に弾けるけど、専攻が違うんだって」
「ねー、一ノ瀬くん、たまにはこっちの会議室にも来てよー。こいつらうるさ過ぎなの!一ノ瀬くんの爽やか笑顔で癒されたーい」
「あたしもー」
「スマイルくださーい」
「ちょっと、面倒な絡み方しないでよ。俺、まだ指導案が……」
一ノ瀬の周りにわらわらと男子が集まり、そして女子もその輪に入り始めた。その中には佐々木もいた。私は逃げるようにそそくさと講堂を出た。
「待って、澤村さん」
講堂前の廊下を歩いていると、後ろから黒川が追いかけてきた。彼女もさっさとあの場から退散したらしい。
「小会議室に戻るんでしょう?私も戻るから一緒に行きましょう」
黒川は講堂を振り返って苦笑しながら言った。
「出てくるとき、一ノ瀬くんの視線を感じたような気がするけど置いてきちゃいました」
「懸命な判断だね」
「一ノ瀬くんって相変わらず人気者ですね」
「高校の時から知ってるの?」
「一年の時、隣のクラスだったので。体育祭とか文化祭とかいつも目立ってましたよ」
「へー、そんな感じする。彼、話しやすいもんね。私みたいな絵しか興味ない根暗とも気さくに話してくれるし」
「それを言うなら私も書道ばかりしている根暗ですよ」
似た者同士だね、と黒川と顔を見合わせて笑い合った。
「私ね、澤村さんと二人になったら、聞きたかったことあったんですよ」
「え、何だろう?」
「澤村さんってSNSやってます?絵のアカウントとか」
「あるよ。ほぼ自分用に進捗とか作業工程を写真撮って載せてるだけの味気ないアカウントだけど」
「やっぱり!このアカウント、澤村さんですよね⁉」
いつも物静かな黒川が興奮気味に携帯電話の画面を見せてきた。そこには私のアカウントの画面があった。
「ああ、これ、そうそう、私。フォローしてくれてるんだ、ありがとう。でも何で?」
「何でって去年の澤村さんの絵を見てファンになってフォローしたに決まってるじゃないですか!あの時、フォロワー一気に増えたんじゃないですか?」
「去年……ああ、あれか。そうなんだ、ありがとう。いや、私、SNSあんまり慣れてなくてよく分かってなくて」
「最初は同姓同名かなって思ってたんですけど、もしかしてって思って。すごいですね、澤村さん!あの絵も最高でした!」
「いや、凄いのは私じゃなくて、依頼主の……」
「澤村さーん、黒川さーん!」
名前を呼ばれて、私たちは会話を止めて声の方を見ると、飯森が廊下の反対側から歩きながら手を振っていた。
「飯森さん、授業見学だったの?なんかいい匂いするね」
飯森のスーツから甘い香りが漂っていた。
「そうそう、さっきまで調理実習でね。補助もしてたの。ほら、お土産のカップケーキ!」
「え、いいの?やったー!」
「嬉しいです」
「講堂で全校集会の準備してたんでしょ?二人ともお疲れ様。あれ、一ノ瀬は?あいつの分も持ってきたのに」
「講堂で元スクールカースト上位の方々と戯れてたよ」
「じゃ、これはあたしが食べるか」
そこからは三人で話しながら小会議室に戻った。
「もうさ、カップケーキ焼くだけなのになぜかカップケーキがオーブンの中で燃えかけてて、大変だったんだよ。そしたら家庭の先生が、毎年一人は燃やすのよねって呟いてて笑いそうだったけど、教師の立場だと笑えないわって真顔になったわ」
「確かに生徒側だと笑えるけど、先生側じゃ笑えないよね」
「調理実習って準備とか片付けも大変そうですね」
飯森の調理実習の話を聞いていたらすぐに小会議室に着いた。指導案の続きに取りかかろうとして、私は異変に気付いた。
「あれ……ない」
私が作業していたはずの机の上が真っ新になっていたのだ。放送で呼び出されて、筆記具すら仕舞わずに出て行ったのに、書きかけの指導案もペンケースすらなかった。高校の時の記憶が蘇って、嫌な予感がした。飯森と黒川に気づかれないように、部屋の隅にあるゴミ箱に近づいて中を覗いたら案の定だった。
ああ、何度も見たことがある光景だ。懐かしさすら感じる。
破かれた指導案。壊された筆記具やペンケース。既視感があるのは、高校生の時に数えきれないくらい同じ光景を目にしたからだ。怒りよりも諦めに近いようなあの懐かしい感覚がして、私はゴミ箱の前で立ち尽くした。
思い出したくない過去が、あの苦しい日々が、脳内に鮮明に蘇える。
***
高校三年生の春、それは唐突に始まった。
あの日のことは今でも鮮明に覚えている。新学期が始まってまだ二日目だった。クラス替えで半分は名前も顔も知らない面子になっていた。もともと友人が多いほうではない。グループワークがあったらどうしようか。朝から憂鬱になりつつも、通り教室に入った。
その一歩からすべてが変わった。
教室に足を踏み入れた途端、みんなが話すのをやめた。数秒、痛々しいくらいの沈黙が続いて、くすくすと笑う声が聞こえた。異様な空気に違和感を覚えながら、自分の机の前まで行って、声を失った。
机の上にゴミ箱が逆さまに立てて置かれ、机上や周囲にゴミが散乱していた。机の中のノートや教科書は汚され、引き裂かれていた。目の前の光景が信じられなくて、固まることしかできなかった。
「何これ……」
震える声で呟く。
それまでの短い人生で、幸運にもいじめられたことはなかった。小中学校で大なり小なりの諍いはあった。それでも、軽い無視や仲間外れ程度で何事もなかったように無くなる程度のものだった。
だから、ここまで明確に悪意を持って、目に見えて危害を加えられたのは初めての経験だった。
どうして。誰が。私が何かしたの。
わからない、わからない……。
疑問ばかり浮かんだけれど、恐怖で言葉にはならなかった。突然向けられた悪意は足が震えるほど恐ろしかった。
呆けていると「ねえねえ、香ちゃん」と後ろから愉快そうな声がした。恐怖に包まれながら振り返ると、そこには佐々木美希がいた。
佐々木美希はクラスで一番可愛らしく、お洒落で、目立つ生徒だった。これまで同じクラスになったことはなかったけれど、パッと見てスクールカーストの上位の人だろうと思った。私が知らないだけで学年では有名な人のようだった。ほとんど面識のない彼女がフレンドリーに下の名前で呼んで来ることも、この状況で話しかけてくる意味もすべて理解できなかった。
「机、汚れてるよ?先生来ちゃうから、早く片付けてね」
彼女はにっこり笑ってそう言った。すると、彼女を取り巻くクラスの上位グループの男女が大声で笑った。その時、私は状況を急激に理解した。
これから私、いじめられるんだ。
そう思った。
その日以降、佐々木美希によって私を標的にしたいじめが始まった。無視は当然で、グループワークは誰も私と組まない。毎日ノートや筆記具、鞄や靴など私物に悪戯をされる。教員がいない時は佐々木美希を中心に暴力、暴言が浴びせられた。教員がいる時は、これ見よがしに携帯でメッセージをやりとりしてくすくす笑う。いじめは学校だけで終わらずに、SNS上でも続き、新学期の初日に作られたクラスのグループチャットでは悪口は当たり前で、盗撮した私の写真や動画を加工してクラスメイト達は楽しんでいた。嫌になって私はグループチャットから抜けた。
高校三年生というタイミングも悪かった。もともと進学校で勉強は大変だったが、受験を意識してテストや課題は以前よりも目に見えて増えた。そのストレスの捌け口にするように、佐々木が先導するいじめを他のクラスメイトも楽しむようになっていった。日に日にいじめは酷くなっていった。二週間もすると、いじめはすっかりクラスの日常になっていた。
「どうして、私なの。どうして、こんなことするの」
佐々木美希に酷いことをされる度に問うた。彼女は決まって愉しそうに嘲って「あんたが大嫌いだからだよ」と言った。
最初から疑問しかなかった。佐々木美希とは高校三年生で初めて同じクラスになった。彼女のことはそれまで名前すら知らず、勿論話したこともなかった。新学期の初日に「はじめまして、よろしく」と軽く挨拶したような気がする。ただ、それだけ。他になんの接触もなかった。
どれだけ考えても、彼女が執拗に私をいじめ、私を嫌う理由は分からなかった。
毎日、いじめられるために学校へ行っているようだった。佐々木美希は狡猾で学校にばれないようにいじめをした。担任に相談しても、証拠もなく、信じてもらえなかった。佐々木美希も言いがかりだと反論した。担任は人気者の佐々木美希を信じた。その上、告げ口したことでいじめはさらに悪化した。
教室にいると息が詰まって、度々保健室に逃げ込んだ。放課後、美術室で絵を描いている時間だけ、学校で息が出来た。苦しみながらも学校に通ったのは、高校最後の美術展に出品する絵を仕上げたかったからだ。けれど、いじめが始まって一カ月くらい経った頃、突然ぷつりと糸が切れた。
「足が……動かない」
今日は何をされるだろう、そう思うと足が竦んで校門から先に進めずに逃げ帰った。親に本当のことは言えなかった。体調不良を理由にしばらく学校を休んだ。自室に籠って、私は隠れながら絵を描いた。
ずっと、ずっと、ひたすらに絵を描いていた。
家にいるからと言って心が安らぐわけではなかった。両親はその頃、不仲のピークで毎夜毎夜、喧嘩する声が漏れ聞こえていた。私の不登校も不仲に拍車をかけていたのだろう。怒鳴り声がする夜は眠れず、やはり絵を描いた。
絵を描いている間は他のことを考えなくて済む。何も考えたくなくて、ひたすらに絵を描き続けた。
そうして絵を一枚描き上げた。
「今日も学校を休むの?学校で何かあったわけじゃないんでしょう?ただのずる休みでいつまで休むつもりなの!」
毎朝、母親は怒ったように言って仕事に出かけた。もともと口煩い人だったが、心配と不安が綯い交ぜになってそんな言い方をしていることは子供の私にも分かっていた。それでも、辛かった。学校に行ってほしい、うちの子がいじめられるわけがない、普通でいてほしい。そんな願いの滲んだ母の言葉を聞くのも辛かった。家はずっと居られる逃げ場所ではなかった。
梅雨が始まる頃、私は結局、どこにも逃げ切れずにまた学校に通った。
いじめは当たり前のように続いた。それでも、私には絵があった。絵だけが心の支えだった。授業が終わった後は、部活へ、その後は美大受験のために画塾へ通った。学校以外の時間は絵を描くために使った。学校でどんな辛いことがあっても、絵を描き続けた。
いつの間にか、私の描く絵は暗く哀しいものになっていった。
「澤村さん、おめでとう。美術展の最優秀賞に選ばれましたよ!」
長い梅雨も終わりそうな頃、美術部顧問だった高岡先生が嬉しそうに報告してくれた。有名な美術展で一番の賞を受賞した。その絵は、不登校になった後も、家でもがき苦しみながら仕上げた絵だった。
素直に嬉しくて、涙が滲んだ。
その絵は学校で最も目立つ場所、生徒玄関前の壁に飾られた。学校長など学校の偉い人たちも大喜びするくらいには素晴らしい賞だったらしい。わざわざ美術展で受賞したことを記載したキャプションまで添えられていた。その絵は私が卒業するまでずっとその場所に飾られた。
絵が飾られてから数日後、その日は高校生活で最低な一日だった。
「お父さんとお母さんね、離婚することになったから」
家を出ようと靴を履いている時に、母は言った。父は興味なさげにダイニングで新聞を読んでいた。
「……え、本当に?」
毎夜聞いていた両親の言い争う声。薄々そんな予感はしていた。それでも、動揺しているまだ子供な自分がいた。
「来年は香も進学で家を出るだろうし、良いタイミングだと思ってね。離婚することにしたのよ」
「……そう」
「あなたの卒業前に離婚するわ。三学期ならほとんど自由登校だし、離婚して名前が変わってもそんなに目立たないでしょう?手続きは来年の初めにするからそう思っておいて頂戴ね」
無言で頷いて家を出た。相談でもなく、決定事項。頷く以外、私にできることはなかった。
憂鬱な朝だった。降りしきる雨の中、重い足取りで登校すると、玄関ホールに飾られた自分の絵が視界に飛び込んできた。絵に描かれた女の子と目が合う。
絵の中では、小さな女の子が嬉しそうにクレヨンを持って、画用紙に絵を描いている。母親の膝の上に座って、白い歯を覗かせて幸せでたまらないといった表情だ。鑑賞者を描こうとでも言うように、その瞳はこちらを向いていて、クレヨンを持つては小さな椛のよう。
その少女は、幼い頃の私自身だった。
母に抱っこされ、嬉しそうに目の前に座る父を描いている。お絵描きが大好きで、父母もまだ仲睦まじく、私の最も幸福だった頃の記憶。まるで、アルバムから思い出の一枚を取り出したような絵だった。屈託なく笑う絵の中の幼い自分が羨ましく見えた。こんなに幸福そうな絵なのに、どこか切なく見える。
ぼんやりと絵を見つめていると、視線を感じてふと横を向いた。少し離れた所から、佐々木美希が私を睨んでいた。それはもう、凄まじい怒りの形相だった。ぞっとした。心当たりはないが、何か怒らせたのだろうか。きっと今日も手酷くいじめられる。諦めた気持ちで、私は佐々木を見ないふりをして下を向いて教室に向かった。
予想通り、その日は普段よりも酷いいじめに遭った。
佐々木美希は機嫌が悪く、何かというと私を後ろから蹴った。いじめやすいようにか、休んでいる間に私の座席は佐々木の前になっていた。クラスメートが集めて提出した課題は、私のプリントだけ捨てられていた。体育のバスケットボールはただ私にボールを当てるゲームに変わっていた。そんな小さな嫌がらせが積み重なっていく。私はただ静かに時間が過ぎるのを待った。
放課後、押し付けられた教室の清掃当番を一人で終えて、やっと一息ついた。
水曜日は、基本的にすべての部活動が休みなので、放課後の学校も静かだった。画塾まで少し時間があったので、私は美術室に向かった。三年生は受験勉強のため、六月で退部する決まりなので私はもう美術部員ではない。けれど、高岡先生は私が何かに悩んでいることは察していて、好きな時に美術室を使ってよいと言ってくれていた。その好意に甘え、画塾が休みの日は美術室を使っていた。
美術室に入ると案の定、誰もいなかった。
画塾では受験対策でデッサンや試験用の油絵ばかりやっているので、学校では息抜きにちまちまと好きな絵を描いていた。完成したら、文化祭で行う美術部の作品展で展示してくれるという。画塾までの短い時間、少しずつ絵を進めていた。
静かな美術室で、黙々と作業をしていると高岡先生が準備室からひょっこり顔を出す。
「香さん、今日も来ていたんですね」
先生は私に飴玉を一つくれた。私はお礼を言って受け取った。
「顔色、少し悪いですよ。この後、画塾もあるのでしょう?無理しないように」
不登校を経て、高岡先生は今まで以上に私を気にかけてくれるようになった。
「何か悩みがあれば、僕でも周りの大人に頼りなさい」
「……大丈夫です」
不器用に笑って頷いた。いじめられていると親にすら言えないのに、先生にはもっと言えなかった。恥ずかしかった。いじめられていると誰にも知られたくなかった。
高岡先生は何か言いたげな顔をしていた。
「それじゃあ、僕はこれから職員会議なので。ほどほどにね」
先生が去った後、休憩がてらお茶を飲もうとして水筒を教室に忘れたことに気が付いた。絵筆を置いて一旦、美術室を出た。教室へ行くと、受験勉強をしている人たちがちらほらいた。佐々木美希がいないことにほっとしながら水筒を取ってまた美術室に戻る。人気のない廊下をとぼとぼと歩いていると向こうから歩いてくる人影をぼんやり視界の端に映していた。かなり近づいてからはっと立ち止まる。こちらに歩いてきたのは、あの佐々木美希だった。
「あれぇ?香ちゃん、まだ学校いたんだねー」
佐々木の馬鹿にしたような甘ったるい声を無視して、私は目を伏せた。そして、そのまま彼女の横を急いで通り過ぎようとした。
「お絵描きは楽しい?」
佐々木は立ち止まって意味ありげに美術室を振り返った。私はどきっとして足を止める。
「あたしたちが受験勉強してる時に、香ちゃんはお絵描きして遊んでるんだよね。気楽でいいなあ」
いいな、なんて微塵も思っていない顔で彼女は言う。
「でもさぁ、必死に勉強してるのに横でお絵描きして遊んでる奴いるとさ、目障りだよね、普通に」
「……何が言いたいの」
「受験勉強で疲れている人が、香ちゃんの絵を見たら何すると思う?」
佐々木は可愛らしい顔で悪魔のように嗤って言った。
「きっとイライラして壊しちゃうよね」
私は走った。きっと慌てて走り出した私の姿を佐々木美希は嗤って見ているに違いない。それでも、走って、走って、美術室に飛び込んだ。肩で息をしながら、目の前の光景を見てその場にへたり込んだ。
「私の絵が……」
どうして、こんなに酷いことができるの。
廊下にいるだろう佐々木美希に聞かれたくなくて、滲む涙を必死で堪えた。嗚咽が漏れないように口を押えて声を殺した。イーゼルに立ててあった絵は床に落ちていた。少しずつ描き進めていた絵。それは見るも無残に切り裂かれ、ボロボロになっていた。ノートや教科書を壊されるのとはわけが違った。時間をかけて色を重ねてきた作品を壊される、それは私にとって身を捥がれるような痛みと哀しみがあった。
理由もなくいじめられる。親は離婚する。心の拠り所だった絵は壊される。
家にも学校にも、どこにも逃げ場はないと思った。世界は広いと言われても、現状、高校生の私には家と学校が世界の全てだった。ただでさえ、狭い世界は袋小路のように行き止まりばかり。
絵を描きたい。その一心で耐えてきた。けれど、その絵すらも壊されたなら、もう終わりだ。
「もういい、疲れた」
セーラー服の袖で滲んだ涙を拭って、窓に向かって歩き始める。窓を開けると、はらはらと小雨が降っていた。窓の下には雨に濡れた中庭の銅像が見えた。中庭には木々や花壇があって、真下は舗装された地面だった。二階からだと確実に死ぬのは難しいか。舗装されたコンクリートの地面なら頭から落ちれば死ねるだろうか。
何の解決にもならない。ただの逃げ。親に迷惑をかけるだけで、加害者たちを喜ばせるだけの愚行。頭の中に次々と警告めいた言葉が浮かんでくる。けれど、その警告を受け入れて明日からも頑張るだけの力がない。正しいことを考えるだけの、ほんの少しの力も、私にはもう無かった。
死ぬのは怖い。それ以上に、明日も学校に行くのはもっと怖かった。
死ぬより、これからも生きなければいけないことのほうが余程辛いと思った。
「ちゃんと死ねますように」
独り言のように呟いて願った。窓から身を乗り出すと、しとしとと降る小雨が顔を濡らす。柵を掴んでいるこの手を離せば落ちる。落ちて楽になればいい、と自分に言い聞かせるように目を閉じた。力を抜いて、そっと手を離そうとしたその時だった。
頭上から、優しい音色が降ってきた。
それは真上にある音楽室から漏れ聞こえるピアノの音色だった。初めて聞くその旋律は、泣きたくなるくらい優しかった。ゆっくりと目を開けて、ため息を吐く。教室の床に足を下ろした。
床に足が着くと、力が抜けてその場に座り込んだ。開けたままの窓から吹き込む雨に濡れながら、その美しいピアノに耳を傾けていた。気が付けば、最後までその曲を聴いていた。
演奏が終わると、ぽろぽろと涙が止めどなく溢れ出た。ずっと泣くのを我慢していた。一度泣いたら止まらなくなると思った。それなのに、あまりに優しいピアノの音色に、うっかり泣いてしまった。そして、やっと自覚する。
多分、私はずっと、泣きたかったのだ。
「……死にたくない」
泣きながら、本心が口からこぼれ出た。死にたいわけがない。
ひとりぼっちの美術室。雨に打たれながら、たくさん、たくさん泣いた。怖い、辛い、苦しい、痛い、哀しい。この数カ月ため込んだ負の感情が涙となって止めどなく流れた。震える自分の身体をぎゅっと両腕で抱きしめて、ひたすら生きたいと願った。
長い時間大泣きして、気持ちが落ち着くと自然と冷静になれた。本当は死にたくなんかない。普通に毎日を過ごして、絵を描きたい。
私はただ、絵を描き続けたいだけ。
自分の本当に望むことは、はっきりしていた。いじめが始まった春から、初めてやっと前向きな気持ちになれた。
「……また、あのピアノが聞きたいな」
座ったまま、窓の外を見上げる。
不思議だった。絵を描くことばかりしてきた。音楽に触れない暮らしだった。それでも今日の私を救ってくれたのは、音楽だった。音楽も美術も、芸術は暮らしに役立つことはそうないけれど、きっとこうして思いがけず誰かを救うことがある。
あのピアノがなかったら、きっと私は飛び降りていた。間違いなく、あのピアノが奏でる音楽が私を救った。私の絵も、いつか誰かを救うことはあるだろうか。
そんな作品を私も創りたい、と強く思った。
見上げた空は暗い雲で覆われたままだったけれど、いつの間にか雨は止んでいた。
***
私は、ゴミ箱の前で硬直していた。
ゴミの中に散乱する壊れたペンケース、真っ二つに折れたシャープペンシル、破かれた指導案。それらを見下ろして、思考は停止していた。感情が高校生の自分に引き戻されそうで、じっと立っているのがやっとだった。
ああ、またあのピアノが聞けたらいいのに。現実逃避する脳内でそんなことを願っていた。
「どうしたんです?」
急に横から黒川が覗き込んできた。私は慌てて「何でもない!」とゴミ箱を隠すように振り返ったが、遅かった。
「なんですか、これ……」
ゴミ箱の惨状を見て、黒川が言葉を失う。どうしたの、と飯森までやって来て、同じくそれを見て絶句した。私は何を言っていいか分からないまま、言い訳めいた言葉が頭の中をぐるぐるしていた。その時、部屋のドアが勢いよく開いて、一ノ瀬が元気に部屋に入ってきた。
「ただいま!なんか良い匂いするね!」
いつもの調子で明るく入ってきた一ノ瀬だったが、私たちを見ると雰囲気がおかしいことに気づいて、訝しげな顔をした。
「集まって何してんの?」
誰も何も言えなかった。一ノ瀬はすたすたと歩いて私の前まで来ると、ゴミ箱を覗いて同じように一瞬固まる。そして、ぐっと拳を握りしめ、深いため息を吐いた。
深くて、長くて、重いため息だった。
「大丈夫?」
至極優しい口調で、彼は私に言った。眉をハの字に下げて、私の顔を覗き込む。そして、何も言えないでいた私の手を取った。
「澤村さん、職員室行こう。報告して、相談しないと」
そう言われて、初めて焦りが生まれた。慌てて首を横に振る。停止していた思考は急に回り始めた。
「いや、大丈夫だよ、このくらい」
「前に言ったよね、次に何かあったら俺は動くって」
「でも、誰がやったかなんて証拠はないんだから」
「誰がやったかなんて分かりきってるじゃん!」
一ノ瀬の語調が俄かに強くなった。
「ちょっと、一ノ瀬くん。大きな声はやめてください!澤村さんに怒鳴ってどうするんですか!」
黒川が一ノ瀬を止めに入ると、一ノ瀬は小さな声で「ごめん」と謝った。一瞬の静寂の後、飯森が困惑した顔で呟くように言った。
「もしかして……佐々木美希?」
私は驚いて飯森の顔を見る。
「何で知ってるの?」
「やっぱりそうなんだ」
飯森は驚き、そして困惑した顔を見せた。
「澤村さん、三年生の時はあんまり学校来てなかったから知らないかもだけど、私たち、三年の時もクラスが隣だったんだよ」
「……私が高三の時、休みがちだったことを知ってるんだね」
「隣のクラスだったから、噂が流れて来てさ。佐々木さんが澤村さんをいじめて澤村さんが学校に来なくなったって。あの時は、いじめの現場も見たわけでもなかったし、結局は他人事だったから聞き流してた。でも……本当だったんだ。今、これを見てぞっとしてる」
飯森はゴミ箱の惨状に視線を落として申し訳なさそうに言った。
「ごめんね……私、ただの噂だと思って信じてなかった」
「飯森さんが謝るようなことじゃないよ、クラスも違ったんだし」
「高校生の私は同じクラスでも、見て見ぬふりをしたかもしれない。でも、私はもう大人だからちゃんとしたい。澤村さんが大事にしたくない気持ちはわかるけど、ちゃんと報告した方が良いと思う」
飯森は真剣な顔で私を見つめた。
「私は教員になりたくてここにいるから、正直、実習に来てまでこんなことをする佐々木さんのことが理解できないし、怖い。こんな人が実習生として今、教育に携わっていることも恐怖しかない。生徒のためにも報告すべきだと思うよ」
「俺もそう思うよ、澤村さん。説明会の日のことだってあるし。証拠って言うならあの日、実は俺」
「一ノ瀬くん、余計なことは言わないで!あの日のことは……話さなくていい」
私が言葉を被せると一ノ瀬は口を噤んだ。飯森や黒川に、これ以上いじめのことを知られたくなくて隠したかった。
「飯森さんや一ノ瀬くんが言っているのは正論だと思う。私も彼女が実習にいると知った時、憤る気持ちがあったから。でも、今日のことはただ、私の私物が壊されて捨てられていただけで、彼女がやったという確証は何もない。まあ、彼女以外に心当たりはないし、十中八九、彼女の仕業だろうけれど」
「それなら……!」
話し出そうとする一ノ瀬を私は再び制した。
「私もね、高三の時にいじめが始まってすぐ、担任や副担の先生に相談したの。でも、佐々木美希は絶対に認めなかったし、本当に口が上手かった。そのうち証拠がないからって私が彼女を陥れようとしていることにすらされた。だから、多分、今回も同じ。この状況で私が動いたとしてもあの時と同じか、もっと酷いことになりかねない。何の罪もない生徒には悪いけど、私は自分がかわいい。だから、事を荒立てたくない……ごめんなさい」
私が深々と頭を下げると、黒川が横から震える声で言った。
「何の罪もないのは澤村さんも同じじゃないですか……?澤村さんが謝ることなんかないです、ここにいる誰も悪くないです」
黒川の言葉で、三人の熱くなっていた空気がすっと静かに波が引いて落ち着いていくのが感じられた。飯森はいつもの優しい表情に戻って、優しく私の手を取った。
「ごめん、澤村さん。そうだよね、今、いたずらに騒いでも澤村さんの立場を悪くする可能性もあったのに考えなしだった!」
「俺も、突っ走ってごめん……」
私は慌てて首を横に振った。
「高校生の時はクラスの誰も助けてくれなかったけど、今こうしてみんなが怒ってくれて力になろうとしてくれたことがすごく嬉しい……なんか、ちょっと救われたよ」
助けてくれなかった傍観者たちを恨んだこともあった。高校生の頃、私は子どもで、周りも子どもだった。だから仕方なかったんだ。恨むのは、恨み続けるのは疲れるし辛い。それに状況が違えば、私だってきっと傍観者になり得た。
「あの頃は……誰も助けてくれなかったから、いじめられる私が悪いのかなって思ってたの」
「どんな理由があったって、いじめられた側が悪いわけない!」
一ノ瀬が力強く言い切った。その言葉で、心の中に澱のように残っていた高校生の私がすっと消えていく気がした。
「みんな、時間はまだ大丈夫だよね⁉とりあえず、全員座ってマフィン食べて、落ち着こう!それで余力あったら続きを話そう!」
飯森は「はい、マフィン」とポケットから最後の一個を取り出して一ノ瀬の手に乗せた。一ノ瀬は驚いて、「何で⁉」と言いながらもすぐに「やったー!」と子供みたいに喜ぶので、私はつい笑ってしまった。笑ったら、肩からふっと力が抜けた。
みんなでマフィンをむしゃむしゃと食べて、一息ついてから説明会の日にあったことを簡単に飯森と黒川に話した。一ノ瀬は何か言いたげだったが、ひとまず、私の意を汲んで静観してくれることになった。小会議室は閉校時間まで施錠しないので、なるべく小会議室を無人にしないようにしようと決めて、話は終わった。
チャイムが鳴って、次の時間に予定がある黒川と飯森は小会議室を出て、一ノ瀬と二人になった。私はゴミ箱から捨てられた私物を拾おうとしたら、一ノ瀬が待ったをかけた。
「嫌かもしれないけど、念のために写真を撮っておこう」
「別にいいけど、そんなの撮って意味ある?」
「意味がないといいけど、必要になることがあるかもしれない。ついでに、このノートに今日あったことと、説明会の日のことも記録しよう。俺も一緒に書くから」
一ノ瀬はゴミ箱の写真を携帯で何枚か撮ると、鞄から新品のノートを出した。
「証拠づくり?私、本当にどうこうするつもりはないからいいよ」
「何があるかわからないから、記録しておこう」
「慣れてるね。いじめられたことあるの?ってあるわけないか、一ノ瀬くんは」
「俺はないけど、身内がね」
「え?」
「ほら、飴あげるから書いて書いて。その間に俺がゴミ箱からペンケース救い出しとくよ」
「飴って……子供じゃないんだから」
ぶつぶつ言いながら、好きな味だったので私は飴をちゃっかり受け取った。
「よしっ、ペン一本残らず救出するぞ!」
腕まくりをする一ノ瀬に「汚れるからいいよ」と言うと、彼は「じゃあ尚更、俺がやったほうがいいじゃん」と爽やかな笑顔で言った。私は胸がぎゅっとなって「ありがとう」と小さな声で言うのがやっとだった。彼の周りに人が集まる理由がよく分かった。
なんて優しい人だろう。彼はきっと、みんなに優しい。
それが少しだけ切ないのは何故だろう。
放課後になって掃除、部活動の補助、授業のプリント作成など慌ただしく全て作業を終えると、外はどっぷり暗くなっていた。薄暗い廊下を急ぎ足で歩いて小会議室に戻ると、一ノ瀬が荷物を片づけているところだった。
「澤村さん、部活終わったの?今日は長かったんだね」
「県の美術展前だからね。部員よりも高岡先生の方が気合入ってるけど。そう言えば、飯森さんと黒川さんってもう帰ったの?」
「澤村さんと入れ違いで、ついさっき二人とも帰ったとこだよ。黒川さんも部活が長引いて、飯森さんは授業のプリントがやっと完成して、二人で帰って行ったよ」
「そうなんだ。一ノ瀬くんは何してたの、こんな時間まで。授業準備?部活やってないでしょ?」
「俺はまた教頭先生に雑用頼まれて肉体労働だよ。講堂の倉庫、片づけていたんだ」
「教頭先生、実習生がいる間に学校中の倉庫を綺麗にするつもりかな」
「そうだとしたら、俺は高校時代に部活をやってなかったことを悔やむよ」
笑っていると、閉校時間を知らせる放送が鳴った。生徒は下校時間までに、教員は閉校時間までに学校を出なければならない。私は慌てて自分の荷物を鞄に詰め込んだ。一ノ瀬と急ぎ足で玄関まで行くと、私たちが実習生の中では最後だったらしく、教頭先生に「まだいたの⁉早く帰りなさい!」と急かされ、追い出されるように学校を出た。
「教頭先生、戸締りの仕事まであるんだ。大変だなあ、管理職」
「なー。倉庫の片づけ真面目に頑張ろうかな、次があればだけど」
「他の倉庫は片付いてるといいね」
話ながら校門を出ると一ノ瀬が当然のように「もう暗いからバス停まで送るよ」と言うので私は首を横に振った。バス停は学校から大通りの方へ五分ほど歩いたところにある。
「えっ、いいよ!大丈夫!すぐそこだし!」
「やだよ、何かあったら後悔するの俺だもん。さ、行こ!」
私は迷いながら何も言えなかった。何か気の利いたことが言えればいいのに。
「次のバスまで二十分くらいだって。この時間になるとやっぱり本数少ないね」
彼は時刻表を確認するとバス停のベンチに座って、一緒に待ってくれる。私はその横に遠慮がちに座った。バス停は私たちだけで他には誰もいなかった。二人だけのバス停は静かでそわそわした。
「一ノ瀬くんって本当に優しくていい人だね」
「何、急に。そこのコンビニでアイスでも買って来て欲しいってこと?」
「普通に思ったこと言ってるだけだよ」
「何だよそれー、照れるじゃん。別に俺、優しくないし、いい人でもないよ。佐々木とか大嫌いだし、顔見るだけで腹立つもん。優しいのは俺じゃなくて、澤村さんのほうなんじゃない?」
「え、何で?」
「だって、佐々木のこと黙っていたいって頑なに言うじゃん。それって報復が怖いって理由だけじゃなくて、あいつが教育学部だから教免取れずに卒業できなくなるのを心配してるんじゃないの?」
私は内心驚嘆しながら、少し考えて、口を開いた。
「心配っていうのとは少し違うけど……私の言動で彼女の人生が台無しになるっていうか……何て言うんだろう、取り返しのつかないことになったら怖いなって。自分の為に人の人生を壊すだけの勇気がないの」
「澤村さんの高校時代は壊されたのに?」
「……まあ、そうだけど。でも、今、私は普通に幸せだから」
私がへへへ、と笑うと、一ノ瀬は「そっか」と複雑そうな顔をして頷いた。
「俺は、正直、佐々木なんかどうにでもなれって思うけど」
「一ノ瀬くんは意外と厳しいね」
「殴られるところ、目の前で見たら余計そう思う」
「初日から飛んでもないものをお見せして申し訳ない……」
「知らないままのほうが嫌だよ。今日みたいに何かあったら、ちゃんと言って」
「もうないよ、多分。心配しすぎだよ」
それからバスが来るまで、他愛ない話をした。高校の時のことや、大学のことなど。彼と話していたらあっという間に時間は過ぎていく。バスが来なかったらいいのに、と思ってしまうくらい、心地の良い時間だった。
「あ、そうだ!ペンケース、これ良かったら使って」
一ノ瀬が鞄から黒いペンケースを取り出した。袋に入っていて、新品だった。
「勝手に購買で買っといた!黒しか無くてごめんね」
「そんな、悪いよ!」
「でも、今日帰ってから裸の消しゴムやシャーペン見たら悲しくならない?新しいペンケースを貢いだ男がいたなって少しは心が晴れるかとって思って。だから貰ってくれると嬉しい」
「ふふ、何それ。一ノ瀬くん、私に貢いでくれるの?」
「澤村さんになら貢ぎますよ。購買で五百円のペンケースだけど。ほら、貰っといて損はないから!」
半ば無理矢理、押し付けられるように手渡された。お礼を言って受け取ると、一ノ瀬は静かに微笑み返した。
「一ノ瀬くんってどうしてそこまで親身になってくれるの?」
彼に初めて出会った日から疑問だった。普通なら、面倒事は避けたい。しかも教員免許のために必須である教育実習中なら尚更、面倒事は避けたいはずなのに。一ノ瀬は我が事のように私のことを気にして世話を焼いてくれる。
出会ってたった数日の私に、どうして。
「高校時代から友人だったわけでもないし、一ノ瀬くんはどうしてここまで色々してくれるのかなって思ってね」
「つい放っておけなくて。やり過ぎかなって思う時もあるんだけど、うざかったらごめんね」
「うざいなんて思うわけないよ。ただ、いじめを知られた時、こんなに良くしてもらったことなかったから。先生にも、クラスメイトにも……みんな、見て見ぬふりだった。だから不思議で」
「その人たちはもしかしたら、何もしなかったこと、できなかったことを今になって後悔してるかもね」
「一ノ瀬くんも後悔してることがあるの?」
一ノ瀬は少し考えてから曖昧に、ちょっとだけ悲しそうに笑った。
「長くなるから、その話はまた今度ね」
一ノ瀬が指差す方を見ると、バスのライトがこちらを照らしていて、私は眩しさに目を細めた。そこで会話は終わった。
短く別れの挨拶をして、バスに乗り込む。窓際の座席に座ると、バス停から一ノ瀬が座席の窓を見上げて、元気よく手を振っていた。いつも通りの笑顔なのに、あの曖昧で少し悲しそうな笑顔が頭を過った。
祖母の家に着いて早々、口煩い母親に捕まった。マシンガンのように放たれる小言と世間話の弾幕に圧倒されながら、適当に相槌をしてどうにか食事と風呂を済ませた。そして仏間へ逃げ込んだ。
仏間の布団の上で明日の準備をして、新しいペンケースに筆記用具を入れ替えていると絵が描きたくなった。スケッチ用の鉛筆とお気に入りのスケッチブックを持って居間に行くと、祖母が猫を膝に載せてテレビを眺めていた。明日の朝は早いのか、母親は寝室へ行くところだった。
「今から絵を描くの?ほどほどにしなさいよ」
「はーい」
これ以上、小言が飛んでこないようにそそくさと母の横を通り過ぎようとした。母は私の手元に視線を落として、独り言のように言った。
「……そのスケッチブックまだ持ってたのね」
私はスケッチブックを身体の後ろに隠して気まずそうにした。すると、母は間を置いてから苦笑して「懐かしかっただけよ、おやすみ」と言い、真っ暗な廊下に消えていった。
母がいなくなってから、手に持っていたスケッチブックをぎゅっと抱きしめる。これは離婚する前、父が最後に買ってくれたものだった。父は寡黙で、私にも母にも関心のなさそうな人だった。いつも無表情で、何を考えているか分からなかった。思い付きだったのだろう、出先で珍しく「学校で必要なものがあれば買ってやる」と言われ、私はこれを選んだ。何となく使い切るのが惜しくて、気に入ったものを書く時だけ、ちまちまと使っていた。
お気に入りだけが詰まった、大事なスケッチブックになっていた。
「おばあちゃん、絵を描いてもいい?」
祖母の近くの座布団に腰を下ろしながら尋ねた。祖母は、和室用の椅子に座ってテレビを見ていた。
「ええよ、別嬪に描いて頂戴な」
「はいはい」
いつも同じ注文をしてくる祖母に生返事を返しながら、手はもう動いていた。祖母と年寄り猫のとろろは全然動かないので描きやすい。デッサンするには持って来いのモデルで、私は祖母の家に来ると必ず祖母と猫を描く。
「香ちゃんは絵を描くのが好きやねえ。じいちゃんもいつも、褒めとったよ」
「好きっていうか、精神安定剤みたいな。最近、うまく描けないけど」
「そうなん?上手に描いてると思うけどなあ」
「私の絵はちょっと暗いんだって。暗いばかりで、明るい絵が描けないの」
絵の評価自体は悪くない。構図や色彩も問題はない。ただ、私の絵はいつも暗い、負の感情を感じると言われる。短所ではないけれど、それしか描けないのかと問われた。
理由は分かっている。私は嫌なことや辛いことがあればあるほど、筆がよく乗る。逆に言えば嫌なことがあると絵を描くのだ。何も考えたくない時ほに私は絵を描く。だって絵を描いていれば、そのことだけ考えていられるから。それがきっと絵に現れてしまうのだろう。講評で先生に言われた言葉が頭の中にずっと残っている。
「本当にあなたは暗い絵しか描けないのかな。自分のこと、決めつけていませんか」
それから、意識的に明るい雰囲気の絵を描いてみようと取り組んだ。しかし、たとえ笑顔の絵だとしても描き上げてみるとどこか哀しい。影のある笑顔になってしまう。絵として悪いわけではない。けれど、一度でいい。心から明るくなれる絵を描けたなら、何か変わるのではないか。そんな気がして、私は足掻いていた。そのうち、何を描いても納得いかなくなって、書きかけていた卒制の絵も見直して、制作は完全に止まってしまっていた。
「よく分からんけど、難しいことしとるんやねえ」
「難しくないよ、絵を描いてるだけ」
「子供の頃みたいに楽しく描けたらいいが、香ちゃんはプロやからそうもいかんね」
「ただの美大生で、プロってわけじゃ……でも、そうだね、子供の頃か。いっつも絵を描いていたな」
絵を描くのが好きだった。いつからそうだったのか覚えていないくらい、小さなころから絵を描いていた。自分の世界を創るのが楽しかった。お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、猫のとろろ。大好きな人たちを描くのが楽しくて堪らなかった。
クレヨンもお絵描きノートもすぐに使い切って、親によく叱られた。それでも描き続けた。描いて、描いて、描いて。これまでずっと描き続けてきた。
それなのに、いつからだろう。絵が好き、楽しいと純粋に、素直に思えなくなったのは。いつの間にか嫌なことから逃げるために、絵を描くようになっていた。
「おばあちゃんのこと、今まで何枚描いたかな」
「何枚だろうねえ。香ちゃんがくれた絵はそこの壁に全部貼ってあるよ」
祖母に言われて、後ろを振り返る。居間の壁一面に、私が幼い頃から描き続けてきた祖父母の絵が綺麗に並べて飾ってある。隅の方は、貼る場所が無くなって何枚か重なっていた。
幼い頃の絵はクレヨンで紙面からはみ出るくらい元気いっぱいに描かれている。色使いも自由で、見ていて楽しい。少し成長すると、クレヨンが色鉛筆に。そのうち鉛筆デッサンに代わっていく。初期のクレヨンの絵はどれもにこにこ笑顔で描かれていて、祖父母が大好きなことが見てとれる。当然、と言うように祖父母の間には自分自身を描いている。祖父母と手を繋いでいる絵、一緒に遊んでいる絵。愛されていると自覚もせず、それを描いているのが伝わって来る。
愛や幸せみたいなものを描いたらきっとこんな絵になるのだろう。それをいとも簡単に幼い手で描いていた。
「おじいちゃん、香ちゃんが東京に行った後も、香ちゃんの絵を見ていつも嬉しそうやったよ。特にその、最後に鉛筆で描いてくれた絵、いつも見とったわ」
上京する前、最後に祖父を描いた鉛筆デッサン。祖父が何度もこの絵を見ていたことは、絵に着いた指の跡ですぐに分かった。
まだ高校生の頃の、稚拙なデッサン。それでも、在りし日の祖父は穏やかな表情をこちらに向けていた。美大に行くことを反対する両親を説得してくれたのは祖父だった。私は祖父が大好きだった。
「ねえ、おばあちゃん」
「なあに?」
猫のごろごろと喉を鳴らす音と鉛筆が紙の上を走る音が重なる。静かな茶の間にその二つの音はやけに大きく響いていた。
「おじいちゃんがいないと、寂しいね」
「ばあちゃんはもう慣れたよ」
祖母はそれだけ言って黙った。私は、余計に寂しくなった。
しばらくして描き上げた絵を見て、祖母は褒めてくれたけれど、やはり求めている絵とは何かが違った。祖母と猫はゆったりした表情なのに、どこかもの哀しい。祖父がいない寂しさが滲み出てしまった気がした。描いたばかりの絵と壁に貼られた昔の絵を見比べた。
子供の私がクレヨンで力いっぱい描いた絵は、今よりずっと上手に見えた。
私はこんな絵が私は描きたかったんだ。今の私に描けるだろうか。自問しても、描ける気はしなかった。
溜息交じりにスケッチブックの表紙を開いた。表紙の裏に張り付けてある “宝物”に視線を落とした。
「大丈夫、きっと描ける」
自分を励ますように言った。
猫のとろろが膝の上に乗ってきた。寝床に行った祖母の代わりに、椅子にされている。徐に猫の長い毛並みを撫でた。猫の温かな体温が冷えた指先を温めてくれた。