かすれがちな街灯が、私の影とブランコの影の境界を曖昧にしている。
 日中なら小さな子供たちの歓声で溢れかえるこの公園も、今は私一人のものだ。静かな夜だった。
 錆びたブランコに座って、いたずらに大地を蹴る。規則正しく体を揺らしながら、私はスマホの向こうにいる友人に語り掛けた。
「うん……聞いてるよ、ミユ。でもさ、彼氏だってさ……ほんとはミユが悪くないってわかってるよ。仲直りしたいって思ってるって、……うん……」
 ミユが恋人と喧嘩したといって泣きながら電話をしてくるのは初めてのことじゃない。私は彼女の言葉に耳を傾け、相槌をうち、同意を繰りかえした。ようやく落ち着いてきた友人は、幾分か晴れやかになった声で言った。
「ありがとう、つぐみ。いっつも話聞いて貰っちゃってごめんね」
「いいよ」
 私はほっとした。求められていた役割を果たせた、という達成感が胸に満ちる。
 話題がひと段落して、私の関心はどうやってこの通話を終わらせるかに移った。ミユは友達だけれども、こういう宙ぶらりんな時間は私を困らせる。目的を失った会話というのは行きつく先が見えなくて、簡単に言えば持て余してしまうのだった。勿論、相手を不快にさせたくないけれど。私は愛想笑いを浮かべながら、
「ミユのこと、いつでも応援してるよ」
 という嘘ではない言葉で沈黙を埋めた。
 さて、ここで、そろそろ眠くない? と聞くのは早すぎるだろうか。もう電話切っていい? なんて直球を投げかけるには私は臆病すぎる。たまたま私が寝付けず、公園に抜け出して着ているのもあって、相手だけ寝かしつけるのは難易度を一つ上げていた。
 私が次の一手に迷った時、ミユが気楽な声で言った。
「あのさあ、つぐみって好きな人とかいないの?」
「え?」
 私は間抜けな声をあげた。
「どうして?」
「いや、いつも私ばっかり話聞いてもらってるから」
「そんなことないよ」
「本当に? なんでも相談してね。聞いて欲しいってことがあったら、私、いつでも話聞くから!」
「うん、ありがとう。好きな人が出来たらミユに相談するよ」
「うん」
 ミユは電話の向こうで笑った。彼女は顔のパーツを中央に寄せるみたいにきゅっと縮めて笑うのだけれど、今まさにそういう風に笑っているのが電話越しでも伝わってきて、思わず和んでしまう。おしゃべりで、感情豊かで、ミユは良い友人だ。
 そう思った次の瞬間、ふぁ、というあくびの気配した。私はすかさず言った。
「ミユ、眠いよね。そろそろ寝ない?」
「うん、……そうだよね。わ、もうこんな時間。いつもごめんね、ありがと」
「ううん、いいよ。おやすみ、ミユ」
 急ぎ過ぎないように、ゆっくりたっぷり空気を含ませた声で言う。するとミユは、「うん、おやすみ」と言ってくれて、電話が切れた。
「…………」
 真っ暗になったスマホの画面にうつる自分を見つめながら、私は夜空を見上げた。こっちも同じくらい真っ暗だけど、私の顔がうつらない分、空のほうがいい。あるはずの星は住宅街の光に紛れて見えなくて、それで構わなかった。
 綺麗なものをみたい気分じゃない。
 何も見たくないだけ。
(………誰かに、……聞いて欲しいこと)
 あるかないかでいえば、ある。
 自分で自分を抱きしめるみたいにギュッと縮こまりながら、私は前のめりで真正面を睨みつけた。
 まばらにパンジーが咲いている花壇の向こう、ひび割れたアスファルトとコンクリートの境目。
 そう、ちょうどあのあたりだ。
 三か月前の今日、……男の子がバイクに轢かれたのを見たのは。

 その日、私は学校から帰る途中だった。
 残暑の厳しい日で、夕方だというのに滲む汗が不愉快だったのを覚えている。
 私は急いでいなかった。大したことは何も考えず、惰性でのろのろと歩いていた。
 公園の横を通り過ぎるなんていつものことだったし、意識するようなことじゃなかった。
 そんな私の目の前を、ランドセルも背負えないくらいの幼い少年が横切っていったのだ。
 楽しそうに、両腕を大きく振り回しながら。
 その時も私は、なんかちょっと邪魔だな、とか、そういうことをぼんやり考えていただけだった。
 次の瞬間、今まで聞いたこともない暗い甲高いブレーキ音と、ドンッッという鈍い音が、日常ののどかな空気を壊すまでは。
 私は振り返った。そして見た。
 コンクリートの車道に、さっき飛び出してきた男の子がうつぶせに倒れていた。
 公園から、大人の女性が何人か走ってきた。
 彼女は何かを叫んでいるけれど、悲鳴混じりになってしまっていてとても聞き取れない。
 それからバイク。大きな鉄の馬は無様に横倒しになって、運転していた人がゆらりと立ち上がっている。
 その時、誰かが「救急車!」と叫んだ。あっという間に人が集まってきて、私は人垣の周縁にいた。
 誰も私を顧みなかった。私は部外者だった。
 喉がからからに乾いていた。心臓がばくばく震えていて、泣きたい気持ちを抱えたまま家に帰った。いつも通りに。

 あの日、私は事故を目撃した。
 でも、何もできなかった。その必要がなかった。
 あの場所には他にも大勢人がいて、女子中学生に求められる仕事なんて、なにも残っていなかった。
 だから家に帰るしかなかった。他にやることがなかったからだ。
 それなのに、……未だに、頭から離れない。
 タイヤとコンクリートが擦れる嫌な音、狼狽した大人の叫び声、騒然とした空気の中で端に追いやられる疎外感。
 全部がないまぜになって、残響がまだ体の内側で響き続けている。私を責め立てている。例えばこんな風だ。あの時、何もしなかったくせに。
 ああ、今日でちょうど三か月だ、……そう気づいてしまったら眠れなくて、家族も寝静まった深夜、こっそり家を出て、……この公園に戻ってきてしまうくらいに。
(あの時、……私がもしも、あの子を止められてたら)
 楽しそうに駆けていく男の子に、「ちょっと」と声をかけて、「危ないよ、車とかバイクとか来るよ」って注意して。
 きっと、本人やお母さんには煙たがられるだろう。おせっかいな子ね、なんて言われてしまうかもしれない。
 でも、そうしていたら事故は起きなかった。
 私がとっさの優しさを出せてさえいたら、誰も傷つかないでいられた。
 そんな妄想ばかりしてしまうのだ。
「………はぁ」
 ため息をついて、私はブランコの鎖に両腕を縋らせたまま俯いた。
 こんなこと、ミユには言えない。言ったって困らせてしまうだけだってわかってる。
 名前も知らない男の子が、生きているかどうかすらもわからなくて、ずっともやもやしている。何もできなかったっていう無力感が心の内側に消えない引っかき傷を作っていて、いまでも耐えられないくらい痛む、……そんな苦痛を、彼女にも背負わせるわけにはいかなかった。
 それにもしも、「たかがそんなことで」なんて言われたら、きっと立ち直れない。欲しいのはそんな正論じゃない。正論はいつでも私の中にあって、それでは解決できないから彷徨っているのに。
「…………」
 うすらぼんやりと光る街灯に焦点を合わせて、何か見えないかと目を凝らしてみる。でも、夜は何も答えてくれなかった。
(………あれ)
 どれくらいそうしていただろう。
 ふと、道の向こうから、黄色の蛍光ジャケットを着た誰かが近づいてくるのが見えた。
 ジョギングをしているのだ。こんな深夜に、……という驚きは、その誰かが知っている顔だった時、さらに高まった。
 同級生の、有島くんだ。
 一年生の時は同じクラスだったけれど、委員会や班が重なったことはない。二年になったらクラスも別れてしまって、それきりだ。ろくに会話したこともないから、本当に顔と名前しか知らない。挨拶くらいはもしかしたらしたことがあるだろうか。
 でも、確か、ミユの彼氏と同じサッカー部だったような気がする。彼と一緒に部活に行っているのを何度か目撃したような、そんなおぼろげな記憶があった。
 記憶の引き出しを底まで漁って、知っている情報を並べても、声を掛けるほどの親しさにはならない。
 ましてここは深夜の公園で、なんでお前はここにいるのかなんて問われても困る。
 思わず顔を背けて、どうか私に気づきませんように、なんて祈りながらやり過ごそうとした時だった。
(……あっ)
 彼がさしかかろうとする交差点、ちょうど彼から見えないだろう角の奥から、自転車が向かってくるのが私には見えた。あの時男の子を轢いたバイクが来た道と、全く同じルートを辿って。
 このまま行ったら、ぶつかるかもしれない。
 そう思った瞬間、思わず立ち上がって、お腹の底から叫んでいた。
「た……有島くんっ!」
「………」
 彼は立ち止まった。彼が立ち止まったのがまさに事故のあったその場所の真上で、私は眩暈を感じた。自転車は私たち二人をちらっと見ただけで去っていき、後には私たちだけが残される。
「あ………」
「………」
 勢いよく立ち上がったせいで不規則に揺れたブランコが、私の膝裏に当たる。それに押し出されるみたいに、私は有島くんの近くまで歩み寄った。
「ごめん、急に声掛けちゃって、びっくりさせたよね、……あの……」
「久野、なにしてんの。こんなとこで」
 有島くんの指摘はもっともだ。私はうう、と唸って、曖昧に笑った。
「家、近所だから……」
 語尾をぼやかして、なんとか誤魔化そうとする。自分でも苦しいな、と思ったから有島くんの顔を見ることは出来ず、俯いてしまった時、男の子が倒れていた辺りがどうしても気になった。目に見える血のあとなんかが残っていればむしろあの事故を忘れられないのは自分だけじゃないんだと思えたし、恐ろしさだって簡単に伝えられたのに、世界はそんなにわかりやすく出来ていない。
 それでも、有島くんにじっと見つめられていると何かを言わなきゃいけない気がして、つい、口から言葉が転び出た。
「あの……変な話なんだけど、三か月前に、ここで交通事故があったんだよね」
「交通事故?」
「そう、……ちっちゃい男の子が、バイクに轢かれたの。私、それを見て、……さっき自転車が通り過ぎたでしょ、だからまた事故が起きるんじゃないかって思って……」
「………」
 そばに立つと、有島くんは意外なほど背が高かった。ナイロン製のジャケットから伸びる首は私よりごつごつしていて、意志が強そうな眉と瞳は微動だにせず、私の話を聞いている。沈黙に耐えられなくて、一度零れた言葉の勢いは止められなくて、私は早口で話し続けた。
「ひき逃げとかじゃないよ、だったら看板とか出るけど出てないし、なによりあの時は周りに大人もたくさんいたから、……だから私、何もできなくて、あの事故にあった子が今どうしてるかもわかんないし、だから何がどうってわけじゃないんだけど、でも、どうなったんだろう、って気になって、私が止められたらよかったのにな、なんて思っちゃったりしてたから、だからつい……大声出しちゃって、ごめん」
 ぺこりと頭を下げる。有島くんの反応はなくて、いたたまれない。もう今日はここまでにして帰ろう、と後ずさった時、ぽつりと彼が言った。
「あのさ、久野」
「え?」
「その男の子って、赤と黒のスニーカー履いてなかったか? 戦隊ものの」
「え? ……いや、わかんない。細かいとこ、……覚えてなくて。そうだったかも……」
「母さんと一緒だっただろ。すごい取りみだして叫びなくってさ」
「それは……それはそうだよ」
 私はこくりと頷いた。すると有島くんは、驚くべきことを言った。
「じゃあ、それ、俺の弟だよ」
「えっ!」
 私は目を丸くした。有島くんは首に下げていたタオルで自分の汗を拭きながら、ぽつぽつと喋った。
「三か月前だろ。……バイクにぶつかりそうになって、弟がこけたって聞いた。バイクは弟をぎりぎり避けて、弟はこけたときの擦り傷だけだったし、バイク運転してたやつのほうが重症なくらいだったから、結構大変だった」
「そ、……そう、なんだ」
 私は相槌を打ったけれど、それは言葉ではなく、安堵の深いため息に近かった。
「そうだったんだ、……」
 声が震えた。冬の寒い日、厚い雲の層が薄れて温かな日差しが差し込んでくる時のように、胸がぼんやりと温まってくる。
 かぼちゃみたいに鈍重だった頭が一気に澄み切っていくのと反対に、視界がぼやけた。唇が震えて、言葉が出ない。風船から少しずつ空気が抜けるように、身体中の力が抜けていった。その時はじめて、私は自分がずっと緊張していたことに気づいた。有島くんの穏やかな言葉が、私を包み込む。
「……だからさ、久野。お前もう、家帰って、寝たほうがいいよ。暗いしさ、夜だから」
「うん、………うん。ごめん」
「俺に謝ることないよ」
 いつだって私を飲みこもうと足元で大きな口を開いていた黒い波が、彼の言葉の中に吸い込まれて消えて行ってしまうのを感じた時、夜空で月が青白く輝いているのに気づいた。さっきまでもあの月はあったんだろうか、気づいていなかったのが不思議なくらいに、目映く。
 月と私の間には有島くんが立っていた。月と一緒に、私を見ていた。
「……有島くんは、なにしてたの?」
 私ばかりが話していた、という引け目からだけでなく、私は小さな声で尋ねた。
「俺? 俺は、……今度、試合に出させてもらえることになったから、……試合出るの、中学になってから初めてでさ。だから」
「特訓?」
「まあ、そんな感じ」
 彼は照れ隠しに笑った。硬い輪郭に似合うような歯を見せる笑みなのに、野卑たところがまるでなくて、私はそれにも驚いた。






 次の日、学校に行くと、ミユが駆け寄って来てくれた。
「おはよ!」
「おはよ、ミユ」
「昨日はありがと、遅くまで」
「いいよ、どうせ起きてたし」
 私たちの会話は自然に続いた。
「ミユ、彼氏と仲直りできたの?」
「うん。今朝起きたら、朝イチでラインはいってた。ごめんねだって。放課後デートするんだ。今日は部活ないから」
「そっか。良かったじゃん」
 うん、と幸せそうに笑うミユを見て、私は彼女の言葉の中に一つ聞き逃せない言葉があったことに気づいた。
「……ミユの彼氏、サッカー部だよね?」
「え? うん」
「今度、試合あるんでしょ?」
「そうだけど、……何で知ってるの?」
 きょとんとした顔で聞き返されて、私はどこから説明しようか迷ったが、細かいことは省き、彼女の疑問にだけ短く答えることを選んだ。
「有島くんから聞いたんだ」
「有島くん? 仲良かったっけ?」
「いや、……なんていうか、彼の弟さんとちょっと……」
 事故を目撃したことを言えば話がズレそうだ。そう思いながら言葉を選んでいると、
「弟? 有島くんって一人っ子のはずだけど?」
 と、ミユが言った。
「え?」
「確かそうだよ、うちの学年のサッカー部って、有島くんとうちの彼氏以外は全員兄弟でサッカーやってたやつらばっかりだから、一人っ子でサッカー好きな仲間がいて嬉しい、って言ってたもん」
「…………」
 私は沈黙した。有島くんの言葉を思い出す。

……それ、俺の弟だよ。
……だからさ、久野。お前もう、家帰って、寝たほうがいいよ。暗いしさ、夜だから。

 事故を目撃した時、私は、自分がどれだけの衝撃をうけたのかよくわかっていなかった。体の怪我と違って、こういうことは後になってからじゃないとわからない。そして容易には消えない。病院に行くことも出来ないから、治し方もわからない。
 途方にくれている私を見て、あの時有島くんは、……多分、とっさに。
 とっさに、あの時の私ではできなかったことをしたのだ。
「あは……あははっ」
 思わずちょっと笑ってしまった。ミユが驚いているのをみて、「なんでもない」と首を横に振る。
「どうしたの? つぐみ。なんか今日変じゃない?」
「変かな。いや、……そうなのかも。ちょっといい事があった……っていうか、……」
 ミユの純朴な目を見ながら、私は話題を切り替えた。
「今度のサッカー部の試合って、ミユは見に行くの?」
「え? うん。二年生が主体らしいんだよね、彼氏も出してもらえるかもって」
「そっか。私もついて行っていい?」
 昨日までの私を満たし、苦しめていた怯えはどこかに行ってしまっていた。今ではもっと奇妙で、素晴らしいものに満ちていた。それをミユに伝えたら、もっと別の名前をつけてくれたのかもしれない。でもそれはまだ未来にとっておいて、私は自分でも驚くような、明るい声で言った。

「応援したい人が出来たんだ」