あれから九ヶ月経ち、大学に通う小雪は、バイトに授業、そしてレポートをこなす日々を送りながらも、トニーとほぼ毎日連絡を取っている。彼が別れ際に小雪のズボンのポケットに入れた連絡先のメモに気づいた小雪は、連絡を取ったら想い人のいる彼に迷惑かと逡巡したが、どんな理由でも繋がっていたいと思った小雪はすぐに連絡先を登録してメッセージを送った。時差が大きいため、一日に一度のみの交換日記になっている。別れ際のあのキスのことには一切触れず、相変わらずアニメと推しの話で盛りあがっていた。トニーもキスの話題には触れなかったので、小雪としてはありがたかったが。
(トニーは友達、だもん……あのキスは事故よ、事故……だってファーストキスって事故みたいなものって言うじゃない)
小雪はトニーから電話やビデオ通話をしたいという提案だけは受験勉強も本格化してきたことを理由に断っていた。声を聞くと淡い恋心が絶対に小雪の勉強の邪魔をすることは想像に難くなかったからだ。
そんな彼女の努力のかいもあり、志望大学に合格できた彼女は、第二外国語にフランス語を学ぶことにした。トニーから教わったフランス語の意味を知りたかったのと、いつか彼と簡単でも良いのでフランス語でやり取りし、彼を驚かせたかったからだった。そんな彼女は今現在、フランス語担当の紺野の研究室におり、発音や文法で分からないことを質問攻めにしている最中である。
「霜野さんみたいに熱心な学生さんはあまりいないから嬉しいな。霜野さんは何のきっかけでフランス語を選んだの?」
熱心な自覚のない小雪は首をひねったが、何だかこそばゆくて、頬をポリポリとかきながら告げる。
「私はうちにホームステイしてた留学生の友達がフランス語を少しだけ教えてくれたので興味を持っただけですよ。彼はイギリス人ですがフランス人のクオーターでもあるので」
「ええ! 霜野さんホームステイの生徒さんを受け入れた経験があるのね! もしよかったら詳しく聞かせてくれる?」
小雪は次の時間には授業を入れてないので、トニーと過ごした日々を掘り起こして、アニメや推しの話で盛り上がったことも包み隠さずに話し始めた。紺野はホームステイをした経験はあるものの、受け入れた経験は無かったので、小雪が分からない文法を質問する熱心さに負けず劣らずに耳を傾けていた。
「何だか楽しそうね。ちなみにフランス語はどんな言葉を教わったの?」
「えっと、テュ、ム、フェ、クゥラケ……です。またねって言う意味だと彼が教えてくれました」
トニーと二人で何度もその発音を練習していたことを思い出し、表情を緩めた小雪と対照的に、紺野は眉を顰める。
「霜野さん、本当に彼にまたねって意味で教わったの?」
「ええ……そうですが……? もしかして私の発音がめちゃくちゃでした?」
何かまずいことを言ったのかと不安になる小雪に、紺野は首を横に振った。
「違うのよ、貴方の発音のせいじゃない。彼が違う意味で霜野さんに教えたからよ。またねは『ア、ビアントゥ』なのに。多分来週辺りで教科書に出てくると思うけど」
「そ、んな……じゃああの時彼は何を……何を私に……?」
小雪はぴしりと音がしそうなくらい全身が固まってしまった。トニーは嘘をつくタイプには全く見えなかったからである。むしろ感情もその表現もオープンなのに、何故彼はあの時嘘をついたのだろうか。反射的に彼から教わった言葉の意味を紺野に聞いてしまったが、彼女の口が開き、そこから言葉が発せられる僅かな時間が、まるで永劫の時のように感じられた。
「霜野さん、そんなに固くならないでもいいのよ。彼はね、愛してるって霜野さんに教えてたの」
全身が彫像よろしくなっている小雪に、紺野は思わず吹き出した。そして嘘を教えたトニーの気持ちを何となく察して、その彼の様子を目に浮かべて口元を思わず緩める。
「可愛いわね、トニーって子は。結構な照れ屋さんに霜野さんは愛されてるのね。ヨーロッパの人は割とオープンに好きな人に愛情表現するって聞いたけど、いざ伝えるとなると緊張するのかしら。まあ愛を多く語るフランス人ですら、愛してるって言うのは勇気がいるって聞いたこともあるし。ジュテームだと日本ではそこそこ有名だから、敢えて選ばなかったのね。それにしてもテュ、ム、フェ、クゥラケなんて、これまた遠回しな言い方なんかして。うふふふ」
トニーの嘘の理由をあっけらかんと明かす紺野の言葉をゆっくりと咀嚼していた小雪だったが、理解できた途端、頭の中で小さな爆発音が聞こえた気がして、間髪入れずに赤面する。
「そんな……トニーの好きって、本当に……? 私を恋人として好きだったってことなの……? トニーはクラスメイトにも好きって言ってたから、私への好きも皆と同列だとばかり……」
「あー……ちゃんとトニーは霜野さんに好意を伝えていたのね。でも霜野さんは違うって思ってたのか。そりゃ皆に言ってたら信じられないよね。なるほど、好意伝えても相手にされてなかったから、わざわざ嘘までついてトニーは霜野さんに愛してるって言って欲しかったんだね。しかも発音しにくい文章をわざわざ選んで練習させたら何回も愛してるって聞けるし。可愛いもんだよ、本当に」
紺野は顔を赤くして、目を白黒とさせている小雪に生暖かい目を向けたのだった。
小雪は昼からの授業に参加したものの、トニーの嘘の真相のことに気を取られて内容が全く頭に入らなかった。バイトが今日たまたま休みなのが僥倖だ。こんな状態でバイトなんてしたら、散々ポカをやらかして怖い先輩が目くじら立ててしまうこと必須だっだだろう。偶然の幸運に感謝しながら、大学から帰ってきて実家のベッドにダイブした小雪はすぐさまスマホをポケットから取り出し、トニーとのトークルームを開いた。小雪は彼にどうメッセージを送るかしばし悩んでいたが、結局ストレートに電話かビデオ通話で話したいとだけメッセージを送る。既読がつかないため、先に夕食や入浴を終わらせてレポートをやっていると、スマホが震えたので間髪入れずにメッセージアプリを開く。
『コユキ、大丈夫なの? もう忙しくない? 大学にはもう慣れたの? 心配だったんだよ?』
『うん、ごめんね。今まで電話もしないって言っちゃって。やっと落ち着いたところなの』
小雪は自身の揺れる心を封印したいがために、忙しさを言い訳にしてトニーを心配させたことを今になって悔やんだ。そんな素振りは今までのメッセージからは読み取れず、トニーの気遣いだと理解できたからというのもある。小雪よりも余程日本人らしい気遣いができるトニーに対しての申し訳なさが、頭の中でぐるぐると回った。
『そっか! やっとコユキの声が聞けるんだね! やべ、めっちゃ嬉しい……!』
久々にトニーから今時の言葉が出て、小雪は思わずくすりと笑う。心の奥底に沈めていた淡い恋心も浮かび上がり、それを抑圧しないでいられることがどれだけ楽なのかを小雪は思い知った。しかし抑圧していた反動なのか、温かなその想いは小雪をこそばゆい気分にさせて、何なら全身がムズムズするような、そんな感覚も覚える。
『私もトニーと話ができるの楽しみにしてる! いつがいいかな』
『明後日の日曜日はどうかな? 日本時間で18時くらいがいいと思うけど、コユキはどう?』
『うん、日曜日はバイト入れてないから大丈夫。それじゃあ18時に決まりってことで。楽しみにしてるね』
トニーから了解の返事が来たことを確認した小雪はうきうきとしてスマホを抱き締め、座っている椅子ごとくるくると回った。
そして一日千秋の思いで日曜日を迎えた。自分の机にあるパソコンを、トニーとメッセージのやり取りをしながら操作していると、パッと彼の顔が映って小雪は慌ててマイク付きのヘッドホンをつけた。
(うわ、髪とかボサボサになってなかったらいいんだけど!)
自身の髪をペタペタと触る小雪の様子を見て、トニーは画面の奥で笑う。
『コユキ、久しぶり! 元気そうだね!』
『うん。おかげさまで。トニーも元気そうで良かった。離れても顔が見れるって嬉しいけど、いきなり映るのは恥ずかしい!』
慌てていた動作が彼に伝わってたことが少し恥ずかしくて小雪はやや口を尖らせたが、トニーの爽やかな笑みは消えることがない。そのまま例によって例のごとく、アニメや推しの話で盛り上がった後に、お互いの簡単な近況報告をする。そしてトニーは何かを思い出したようにポンと手を打った。
『そうだ。コユキにビックニュースがあるんだ。6月にボクは日本に来る予定になってるんだよ。もし良かったら……』
『え! ほんと?! また来てくれるの? 私、空港まで迎えに行くよ! わ、どうしよう……! 今までで一番嬉しいかも!』
小雪は思わず幸運の女神に全裸で土下座したくなった。去年はお互いの気持ちがすれ違っていたのに、つい今日に勘違いが判明したばかりである。それなのに今になって彼と再会できる機会が出てきたとなれば、何かに引き寄せられていると考えても何らおかしくはなかった。
『ボクも同じ気持ちだよ! だって九ヶ月振りの生のコユキと話ができるなんて! 明日から何も手がつきそうにないや。あと二週間だけど待ち遠しいよ!』
『私もレポートとかバイトとか全部投げ出したい。ううっ、二週間は長すぎる! 明日が二週間後だといいのに……!』
その後もひとしきり盛り上がった二人だったが、小雪があくびをしたことでトニーが切り上げる提案をして、名残惜しそうに二人はビデオ通話を終了した。
(トニーに会えたら……あの時の嘘の答え合わせをしよう。それから、私は今度こそちゃんとトニーに気持ちを伝えるんだ……!)
小雪はその日は胸がいっぱいになって中々寝付けず、それなのに翌日からは内心るんるんで大学の授業を受けたりバイトをそつなくこなしていたため、普段それほど感情を表現しない彼女は、大学の友人やバイト仲間から何があったのかとしょっちゅう突かれる羽目になった。
「コユキ!」
小雪が自分の両親を伴って空港の到着ロビーでキョロキョロしていると、懐かしい彼の声が聞こえて思わず駆け寄って彼の胸に飛び込んだ。鳶色の巻き毛も、灰青の瞳も、低く心地よい声も、小雪を抱き寄せる逞しい腕も、全てが以前と同じだった。
「トニー! 久しぶり! 来てくれてありがとう!」
「コユキ……! 見ないうちに美しくなったね! コユキが迎えに来てくれるなんて夢みたいだ……!」
トニーはひとしきり彼女を抱き締めていたが、生暖かい二つの視線を感じ取って一度彼女を離す。そして小雪の両親とも抱擁を交わし、感謝の言葉を述べていた。この後はトニーが持っていたスーツケースを明日の宿泊先に届ける手配をしてから、小雪の家に一泊する手筈になっている。小雪の家までの道中でトニーは両親からの質問攻めに笑顔で応え、着いてからは一緒に皆で昼食を食べ、イギリスでの話に花を咲かせていた。その後は小雪の両親は二人で外出してしまい、リビングには小雪とトニーだけが残されている。
「ねえ、トニー。聞きたいことがあるの」
トニーの淹れてくれた紅茶を一口飲んでから、小雪は意を決して宣言する。只事に見えずにトニーはやや緊張して顔が強張ったが、彼女の言葉をひたすら待った。
「トニー、帰る前の夜に教えてくれた言葉、覚えてる?」
「もちろん。またねを意味するフランス語でしょ?」
ニコニコしながら告げる彼に、小雪はぶんぶんと首を横に振る。
「トニー、それならまたねって言わないと」
トニーの表情が明らかに強張った。目を左右にせわしなく動かしていた彼は、ようやく言葉を絞り出す。
「……驚いた。コユキ、いつの間にフランス語が分かるようになったの」
「大学は英語以外に他の言語が学べるの。私は迷わずフランス語にしたわ。フランス語はトニーのルーツの一つだから、私も学んでみたかったの。まだRの発音もうまくできない初心者だけどね」
「……っ!」
盲点だった。フランス語が英語ほどメジャーではない日本において、フランス語を独学で学ぼうとするのは困難だと思い込んで伝えたのが裏目に出てしまい、トニーは激しく狼狽してしまう。初心者とはいえ、あの時に告げた言葉を理解しているのなら、嘘をついたのではないかと彼女から糾弾されるのは目に見えていた。
「トニー、ごめん! 私、トニーがずっと好きだったのに、トニーの好きが信じられなかったの! だから……だから帰り際にあんなこと言っちゃった……! それに、私がトニーを信じられないからトニーに嘘をつかせちゃった……! 本当にごめんなさい!」
小雪は勢い良く彼に頭を下げる。彼女から糾弾されるとばかり思っていた彼は灰青をぱちくりさせた。
「コユキ……怒ってないの?」
「違うよ! むしろトニーに申し訳ないわ。私がトニーの好きを信じられてたなら、トニーが遠回しに愛してるなんて言わなかったと思うもん! フランス語の先生に、またねじゃなくて愛してるって意味だって聞いてから後悔したわ! そりゃ最初は何で違う意味教えたのかって思ったけど! でも……嬉しかった。愛してるって教えてくれたことそのものが私には嬉しかったの!」
思いがけない彼女の告白を彼は呆然として聞いていたが、彼は小雪を抱き締めて思わず涙ぐんだ。
「コユキ、ボクもごめん……ちゃんと正直に教えたら良かったのに、変な意地を張って嘘を教えてしまったから……それでもフランス語を知って、ボクの教えた言葉を分かってくれて、ボクの思いも分かってくれて……嬉しい以外に言葉が見つからないよ。嘘でも愛してるって言葉をコユキから聞くのは嬉しかったけど、コユキの気持ちを考えてなかったなって後悔したんだ……コユキ、ボクが気持ち悪くないの?」
「そんなことないよ! 私はあの言葉の意味を知れてむしろ嬉しかったのに! 私は自分の気持ちに蓋をしなくてもいいって思えたのよ!」
「……ありがとう、コユキ。ボクも君が好きなんだ……! あんな形で伝えることになってごめん……! でもコユキ、ボクは君を誰よりも愛しているんだ!」
小雪の視界が瞬時にぼやけたが、彼女は力強く首肯した。
「ありがとう、トニー……! 本当に嬉しい……! 夢みたい……! 私も愛してるの!」
「コユキ……ッ!」
トニーは彼女を引き寄せ、抱き留める腕に力を込めた。彼女が涙したのは驚いたが、それ以上に彼女が自分の想いを受け止めてくれたことに対しての喜びが勝り、心の底から歓喜で震え、彼女の温もりを離したくない一心で、すすり泣く彼女の背中を何度も何度も擦った。
「あり、がと……トニー……」
小雪は体を離し、しばらく鼻をぐずぐずと言わせていたが、トニーがリビングのテーブルから取ってくれたティッシュで鼻をかむ。彼のシャツは彼女の鼻水や涙で見事にぐしゃぐしゃになっており、小雪は小さく謝罪する。
「コユキが気にすることないよ……って言ってもコユキは真面目だもんね。それならボクがふっ飛ばしてあげようか。あのね、コユキ、ボクは来月から日本で働くことになったんだ」
小雪は赤い黒目をぱちぱちとさせていたが、素っ頓狂な声を上げる。彼の目論見通り、小雪の涙はものの見事に吹っ飛んだ。
「ほんと?! ほんとに?! 嘘じゃないの?!」
「うん。今日来たのは来月に向けての家探しの下見なんだ。数件候補出されてたから好きなのを選ぶだけなんだけどね。今いる会社が日本で事業やるってことで、日本語がある程度話せるボクが選ばれたって訳さ」
おちゃらけて片目を瞑るトニーに、小雪は口をわななかせていたが、まるで天にも登るような歓喜が一気に自分に押し寄せ、まるで囁くように告げる。
「じゃあ……来月からはトニーとずっと一緒なの……?! それならデートもできるじゃないの! アニメグッズあるお店とかにも一緒に行けるってことじゃない……!」
「もちろん。コユキがボクのスケジュールに合わせる形になるのが申し訳ないけど、それでも良かったらボクと一緒に出かけてくれる? ボクはコユキの見たいものを一緒に見たいんだ」
「私も……! ほんとに嬉しい! トニーとは今日と明日しか一緒じゃないって思ってたのに、こんなに素敵なことなんて他にないよ! ありがとう、トニー!」
灰青の目と黒目が合った。そしてどちらともなく顔が近づき、その唇同士が触れる。お互いがお互いの体温を離すまいと、二人は長い口づけの後も笑い合い、小雪の両親が玄関のドアを開けるその時まで、ずっと寄り添って九ヶ月分を取り戻していた。