天保九年。西暦に置き換えると1838年。江戸が明治に変わる、武士の世が終わる三十年前のことである。
この頃になると、長く続いた幕藩体制も疲弊の色を濃くし、諸藩の財政も厳しいものとなっていた。中には、やむを得ず召し抱える家臣の数を削減する藩もあった。人減らし、今で言うリストラである。
月山真悟郎もまた、一年前、仕えていた藩から馘首を言い渡されていた。二年前には藩の江戸屋敷への勤務を命じられていた。栄転、ではなかった。思えばその頃からすでに人員整理の候補であったのかもしれない。
まだ二十代の若さである。自分の何が悪かったのか。真悟郎に心当たりはなかった。考えても致し方ないことである。
真悟郎はいわゆる「浪人」となった。真悟郎には妻がいた。子宝には恵まれていなかった。真悟郎は妻とともにそのまま江戸の町に留まり、本所の長屋で二人きりの生活を始めることになった。しかし真悟郎は再士官の道を諦めきれず、決まった職に就くことを由としなかった。家計は徐々に困窮の道をたどった。
三月前、妻を病で亡くした。医者に診てもらうことも、滋養となるものを食べさせてやることもできなかった。真悟郎は、一人きりの身となった。
三日前、手元の銭が底を着いた。そして昨日、ついに買い置いてあった古米も。
霜月、晩秋である。寒い。ひもじい。いっそ死んでしまおうか。そんな思いも胸を過った。それでも……生への執着はあった。
手元に残った物は……武士の魂、武士の矜持である、二本差しの刀。これだけである。生きて行くためには、もはやこれに頼るしかない。真悟郎はそう思った。士官の話があるわけではない。誰かに剣術を指南しようというわけでもない。そうではない、刀の使い方……
真悟郎は、亡き妻の位牌を裏返した。
夜、五つ半。今の時刻にすると午後九時。真悟郎は本所の長屋を出て両国橋の方へ向かった。そのあたりに行けばきっと、料亭や居酒屋で飲み食いして、ほろ酔い加減に歩いて帰る日本橋あたりの問屋の旦那衆がいるだろう。そう思った。そして人気のない夜道でそんな輩に出会ったら、持ち金を脅し取ってやろう。真悟郎はそう考えていた。
命まで取ろうとは思わない。刀を抜いてのど元に突き付けてやれば、おとなしく持ち金を差し出すだろう。どうせ遊興に使う金である。何が悪いことがあるものか。真悟郎は心の中で、自分自身にそう言い聞かせた。
しばらく歩いていると、夜道に灯りが見えた。提灯のようである。近づいてみると、一台の屋台が見えた。灯りは屋台に吊るされた提灯であった。
蕎麦屋。屋台を引いて蕎麦を売る、夜泣き蕎麦屋である。
「蕎麦屋か……」
真悟郎は呟いた。蕎麦屋であれば何がしかの銭は持っているだろう。まずはこの蕎麦屋の売り上げを頂戴することにしよう。そう思い、真悟郎はその屋台に向かった。
屋台の前まで来ると、屋台の向こう側に初老の小柄な男が立っているのが見えた。真悟郎は腰に差していた刀の柄に手を掛けた。刀を抜いて、屋台のこちら側から男に突き付けてやろう。そう思った。そして一言、こう言えばよい。「金を出せ」それだけのことである。
その時。鼻孔に芳ばしい香りが流れ込んできた。鰹節の香りである。腹が鳴った。
屋台の向こう側にいた男が顔を上げた。真悟郎に気が付いたようである。
「いらっしゃいませ」
男が言った。白髪交じりの髷。目を細め、頬に皺を寄せて口角を上げている。微笑んでいるのだ。真悟郎に向かって。真悟郎はなぜか懐かしさを感じた。刀の柄を握りしめていた手の力が緩んだ。真悟郎は考え直した。まずは……まずは蕎麦を一杯、食すこととしよう。金を脅し取るのはその後でもよい。
「うむ……かけ蕎麦を、一杯」
そう言って、真悟郎は屋台の前に置かれた木箱に腰を下ろした。
男が屋台の向こうに置かれた鍋で蕎麦を茹でているのが見えた。男は茹で上がった蕎麦を右手に持った竹製の湯切りで手際よく鍋からすくい上げ、左手に持った丼ぶりに入れた。そして湯切りを杓子に持ち替え、別の鍋から汁をすくって蕎麦の入った丼ぶりに注いだ。
真悟郎の目の前に一杯の丼ぶりが置かれた。溢れんばかりの温かな汁と、その中に細打ちの蕎麦があった。芳ばしい香りがした。
瞬く間に真悟郎は丼ぶりの蕎麦を平らげた。汁の一滴も残さずに。
美味かった。温かかった。一時的にではあろうが、昨日から空腹は癒された。
一息ついたところで、空になった丼ぶりを見下ろしながら真悟郎は考えた。
さて……この後、どうしたものか。空腹が癒され、身体が温まったせいか、先ほどまでの張りつめた思いが消えてしまった。もちろん蕎麦代を払う銭はない。最初から考えていた通り、刀を抜いて、この屋台の主から金を脅し取る。それ以外にすべきことはない。しかしながら……
その時。屋台の主、初老の男が声を上げた。
「しまった、あっしとしたことが……」
真悟郎は顔を上げた。男が続けた。
「いえね、釣銭用に小銭を入れておいた巾着を、うっかり家に忘れて来てしまいました」
何を言っているのか、真悟郎はすぐに理解できなかった。
「蕎麦代は十六文でございますが……お侍様のことですから、小銭などお持ちじゃございませんよね。申し訳ありませんが、釣銭がございません」
そういうことか……しかし、釣銭も何も、まだ蕎麦代など払ってもいない。いや、今の自分は十六文の銭も持っていないし、そもそも払う気もなかった……
「そうだ、こういたしましょう。たいへんご無礼ではございますが、今日の蕎麦代は貸し、ていうことにして下さいまし。あっしは毎晩、このあたりに屋台を出しております。今日のお代は明日、いや、いつでもかまいません。この次、お侍様がここを通りかかった時に、てことにして下さいまし。お願いいたします」
そうか……それならば。正直なところ、真悟郎は安堵していた。取りあえず今日、刀を抜く必要はなくなった。
「うむ、そういうことであれば致し方ない。では明日まで、十六文、借りておくことにしよう」
そう言って真悟郎は立ち上がった。
「ありがとうございます」
男が言った。礼を言われる筋合いはない。しかし……
真悟郎は屋台を後にした。一度緩んでしまった気持ちは戻らなかった。真悟郎はそのまま長屋に帰ることにした。真悟郎は夜道を歩きながら思った。一時の空腹は凌ぐことができた。しかし現状は何も変わっていない。明日は、明日こそは。真悟郎は改めて腰に差した刀に目を遣った。
次の夜。時刻はやはり五つ半。真悟郎は本所の長屋を出た。
一日経てば、腹もまた減る。今夜こそは、裕福な問屋の旦那衆を見つけて金を脅し取る。しかし……その前に、あの屋台だ。屋台の主の初老の男だ。十六文の銭を借りたことになっている。そんなことを気にする必要はない。このままあそこに近寄らなければよい。二度と顔を合わせなければよいのだ。しかし……夜道を歩いていても、旦那衆に出くわすとは限らない。あそこに行けば、あの屋台に行けば、何がしかの銭を持った男がいる。間違いない。で、あれば……
いつの間にか真悟郎は、前の夜、屋台のあった場所を目指していた。
灯りが見えた。屋台の提灯の灯りだ。前の夜、男が言っていた通り、同じ場所に屋台はあった。真悟郎は屋台の前に立った。腰に差した刀の柄を握りしめて。蕎麦を食べてしまえばまた気が緩む。その前に。
屋台の向こう側にいた男が顔を上げた。
「いらっしゃ……あら、昨夜のお侍様」
真悟郎は刀の柄を握る手に力を込めた。
その時。男が言った。
「お願いがございます」
柄を握る手の力が緩んだ。
「実は、お侍様に新しい蕎麦の汁の味見をしていただきたいのですが」
男が続ける。
「いえね、江戸の蕎麦の汁っていいますと、醤油と酒を煮詰めて作るのが当たり前でございます。ですから味はかなり濃い口になります。もちろん蕎麦の香りに負けないように、それはそれでいいのですがね。ところが、上方や京の方には、鰹節からしっかりと出汁を取って、その旨味で食わせる、薄口の汁があるって聞きまして。でね、あっしもその味を試してみようと思いまして」
男には刀の柄を握る真悟郎の様子が目に入らないようだ。
「今日は、そんな汁を作ってみたのですが。自分ではまずまずの味だと思うのですが、人様に出せるような代物なのかどうか……どなたかに味見をしていただきたい、そう思っていたところでございます」
男の言っていることは理解できた。真悟郎は刀の柄から手を離した。
気が変わった。まずはその新しい蕎麦の汁とやらを食してみよう。金を奪うのはそれからでも……そう思った。
男が続けた。
「もちろんお代はいただきません。あっしの、いわば道楽のお相手をしていただくのですから……こちらからお礼を差し上げなければいけないぐらいで……そうだ、昨晩の蕎麦代、あの分ということで、お願いできませんでしょうか」
昨日の蕎麦代もいらぬ、そういうことのようである。
「うむ、そう言うなら……」
真悟郎は屋台の前の木箱に腰を下ろした。
前の夜と同じように、男は蕎麦を茹で始めた。茹で上がった蕎麦を湯切りで丼ぶりに入れると、別の鍋からすくった汁を丼ぶりに注いだ。
真悟郎の前に丼ぶりが置かれた。前の夜と同じように、芳ばしい香りがした。そして前の夜と同じように、真悟郎は瞬く間に丼ぶりの蕎麦を平らげていた。美味かった。温かかった。前の夜と同じように。
「いかがでございましょう、お口に合いましたでしょうか」
男がそう訊いてきた。当然だろう。味見をするために食べさせたのだから。
「いや、美味であった」
真悟郎はそう答えた。
「昨日の汁と、どちらの方がお口に合いますでしょうか」
続けて男が訊いてきた。
蕎麦は確かに美味かった。それは間違いない。しかし前の夜もこの夜も、真悟郎は空腹に突き動かされて夢中で蕎麦を食べてしまった。正直なところ、その微妙な味の違いまで吟味している余裕などなかった。
「うむ……」
真悟郎は考え込んだ。いや、考えているふりをした。男は黙って真悟郎の回答を待っている。目を細めて、あの笑顔で。
「さよう……今日の方が……」
やむなく真悟郎はそう答えた。
「ありがとうございます。舌の肥えたお侍様にそう言っていただけますと、あっしも作った甲斐があります」
そもそも、武士といっても下級武士であった真悟郎は、藩に仕えていた頃からそうそう上等な物を食していたわけではなかった。舌が肥えていた、わけではなかった。仮に昨夜や今夜のような空腹の状態でなかったとしても、はたしてその味の違いがわかったかどうか。
「味のお分かりになるお侍様と見込んで、もう一つ、お願いがございます」
「……なんだ」
「今夜、お侍様にはお褒めいただいた味ではございますが……」
褒めた覚えなどなかった。
「まだまだだということは、あっしも十分承知しております。きっと心お優しいお侍様が、年寄りに気を遣って、お世辞を言ってくださったのだと」
心優しい……真悟郎は心の中で反芻した。
「それで……明日もここに、蕎麦の汁のお味見に来ていただけませんでしょうか。明日は、もうちょっとましなものをお侍様に味わっていただきたいと思っております。どうか、お願いいたします」
真悟郎に、男の頼みを断る理由はなかった。
「そうか……さようであれば……」
真悟郎は答えていた。
「では明晩また、ここでお待ちしております」
「うむ」
真悟郎は立ち上がり、屋台に背を向けた。刀を抜いて男から金を脅し取る、その考えは、いつの間のかすっかり消えていた。
その次の夜。この夜も真悟郎は男の屋台を訪れた。やはり、前の夜以来何も食べていなかった。
「お侍様、お待ちしておりました」
この夜も、真悟郎の姿を見つけて男は目を細めた。
「うむ」
真悟郎は屋台の前の木箱に腰を下ろした。
この夜も男は手際よく蕎麦を作り、丼ぶりを真悟郎の前に差し出した。
「今日は昨夜よりも鰹節の量を多くして、醤油を減らしてみました」
芳ばしい香りがした。今夜で三回目。何度目でも、この香りは良い。しかし前の夜と、そしてその前の夜との違いはわからない。
真悟郎は蕎麦を食べ始めた。きちんと説明できるよう、味わいながら、そう思っていた。しかしやはり空腹にはかなわない。一度食べ始めると箸を止めることができない。ゆっくり味合うことなどできない。瞬く間に丼ぶりの中の蕎麦は無くなった。真悟郎は丼ぶりを両手で持ち上げ、残っていた最後の汁を啜った。
「いかがでございましょう」
真悟郎が食べ終わるのを待っていた男が訊いてきた。
「美味だった」
真悟郎は答えた。嘘ではない。しかし……しかし昨夜の蕎麦と比べてどうだったかと言われると……
「お侍様、今夜もまた、この年寄りの頼みを聞いていただけませんでしょうか」
汁の味についての意見を訊かれると思って考え込んでいた真悟郎に向かって、男はそう言ってきた。目を細めて。
「これからしばらくの間、あっしにお付き合いいただけませんでしょうか」
真悟郎は顔を上げた。
「今夜は、昨夜とは少し違った味を試してみましたが、もちろん、お武家様に十分に満足していただけるような味じゃございません。ですから、こらからも毎日、汁を作り直して行きたいと思っております。その味を毎夜、ここで、お侍様に味見していただきたいのです。もちろんただで、とは申し上げません。それなりのお礼はさせていただきます」
真悟郎に、断る理由は……なかった。
「いかがでございましょうか」
「うむ……わかった」
真悟郎は答えた。
「ありがとうございます」
男が頭を下げた。真悟郎は立ち上がり、屋台に背を向けた。
長屋に帰った真悟郎は、一昨夜からのことを思い返した。
あの、屋台の主の初老の男……最初の夜、あの男は釣銭の小銭を忘れたからと言って、蕎麦代を受け取らなかった。次の夜は、新しい汁の味見をして欲しいと言って、前夜の蕎麦代まで無かったことにした。そしてに今夜は、今夜だけでなく、しばらくの間、汁の味見をしに来てほしいと。蕎麦代を取らないどころか、礼まですると言う。
真悟郎も馬鹿ではない。屋台の男が何を考えているか、気が付いていた。
自分はあの男に施されている。憐れみをかけられている。武士の自分が、町人に。
真悟郎は涙を流した。侮辱。屈辱。そう感じてしかるべきである。以前の真悟郎であればそう感じていたかもしれない。しかし今、真悟郎が流している涙は悔し涙ではなかった。
ありがたかった。うれしかった。あの男の心持ちが、真悟郎に対する思い遣りが、たまらなくうれしかった。
真悟郎は裏返したままになっていた亡き妻の位牌を表に向け直した。そして話しかけた。
「自分はなんということをしようとしていたのだろう。あんな男から、金を脅し取ろうとしていた……いや、誰であれ、人様から金を脅し取ろうとしていた……人の道からはずれたことをしようとしていた……お前に……お前に合わす顔がない。いや、あの世にいるお前に、恥をかかせるところであった」
そしてこう続けた。
「お前にも……あんな蕎麦を、いや、あの男の蕎麦を、食べさせてあげたかった……」
次の夜も、真悟郎は男の屋台に姿を現した。
「お待ちしておりました」
真悟郎の姿を見ると、男はまた目を細めた。真悟郎は屋台に駆け寄った。そして屋台の前に置かれた木箱を脇にどけると、その場に跪いた。
「すまない。すまなかった」
真悟郎は地面に手を突き、屋台の向こう側に立つ男に向かって頭を下げた。真悟郎の額が地面に付いた。
「お……おやめください。お侍様」
驚いた男は屋台の脇を回りこんで土下座する真悟郎に駆け寄った。
「正直に話す」
真悟郎は額を地面に付けたまま続けた。
「一年前、仕えていた藩から罷免された。銭も使い果たした。拙者は一文無しだ。空腹に耐えきれず、拙者はお主から金を脅し取ろうとしていたのだ」
真悟郎は一度顔を上げ、脇にいた男に向き直って再び額を地面に付けた。
「すまなかった。本当にすまなかった」
男は真悟郎の背に手を置いた。
「まずは……お顔を上げてくださいまし」
男が言った。しかし真悟郎はそのまま顔を上げない。
「そんな拙者に、お主は……」
泣いていた。真悟郎は泣いていた。
男は一旦屋台の裏に回り、木箱を一つ抱えて戻って来た。そしてその木箱を真悟郎の脇に置くと、そこに腰を下ろした。
「お侍様もそこにお掛け下さいな。そんな格好じゃ、お話もできません」
男は真悟郎が先ほど脇にどけた木箱を示した。男にそう言われ、ようやく真悟郎は立ち上がった。真悟郎は俯いたまま木箱に腰を下ろし、男と向き合った。
「……存じておりましたよ」
男が静かに話し始めた。
「初めてここにいらっしゃった時のお侍様といったら、そりゃあもう、殺気、ていうんですか、あっしに刀を突き付けてやろうっていう気が、満々に見て取れましたからね」
最初からわかっていたのか……そう思い、真悟郎は男の顔を見た。男は相変わらず目を細めて微笑んでいる。
男が続けた。
「あっしにも、女房と、娘が一人、おりました。それが大火事で、二人ともあの世に行っちまいましてね……七年前のことでございす。その時あっしだけ、こうやって蕎麦を売りに出ていて、生き残っちまいました……」
男は話を切って空を見上げた。
「あっしも後を追って死んじまおう……そう思ったことも、一度や二度じゃありません」
男が真悟郎に顔を向け直した。
「ですから、お侍様にお会いした時も……こう言っては失礼にあたるかもしれませんが……少しも怖くありませんでした。このお方に切られて死ぬなら、それはそれでかまわない、そう思いました」
真悟郎は男の顔から目を反らしてまた下を向いた。恥ずかしかった。
「でもね……」
男が続けた。
「それが、あっしがおめおめと今日まで生き延びてきた理由でもあるんですが……蕎麦を……蕎麦を作っている時だけは、辛いこと、悲しいことを忘れていられるんです。そして、そうやってあっしが作った蕎麦を、誰かに食べてもらいたくて……」
男がまた、真悟郎を見ながら微笑んだ。
「あっしの蕎麦を食べた人が、美味そうな、幸せそうな顔をしてくれるのがうれしくてね……」
真悟郎は顔を上げた。男は本当にうれしそうな顔をしていた。
「あの時のお侍様もそうでした。あっしが作った蕎麦を食べて下さった後は、殺気が消えて、優しい顔をしていらっしゃいました……あっしは、それがうれしくて……」
微笑む男の顔が滲んで見えなくなった。真悟郎の目から涙が零れた。
「あっしの方からお礼を言わせていただきます。ありがとうございました」
真悟郎は目を擦った。
「拙者こそ……礼を……礼をさせてくれ」
かろうじて声が出た。
「新しい汁を作っている、というのは本当のことでございます。どなたかにその味見をしてもらいたかったのも。ですから、お礼なんて必要ありません」
男が言った。
「いや、それでは拙者の気が済まぬ……拙者にも、何か、何かできぬか」
持ち金もない。仕事もない。そんな自分に何ができるというのだろう。しかし、それでも。
「そうでございますね……実はあっしも、歳のせいか、最近足腰が弱ってしまいまして……今夜はもう、店仕舞いにいたします。この屋台、家まで後ろから押して来てもらえませんか」
「お安い御用だ。是非、そうさせてくれ」
うれしかった。男の手伝いができることが、真悟郎にはたまらなくうれしかった。真悟郎は立ち上がって、男ととともに屋台の片づけを始めた。
その次の日の昼。男は家で蕎麦の準備を始めていた。そこへ。
「どんどん」
家の木戸を叩く音がする。
「頼もう、頼もう」
声がする。前夜、屋台を家まで一緒に送り届けてくれた侍、真悟郎の声である。
引き戸を開けると、そこに真悟郎が立っていた。小さな木箱を抱えている。
「これはこれは、お侍様」
驚く男にかまわず真悟郎は抱えていた箱の蓋を開けた。
「これを見てくれ」
中にあるのは、鰹節、である。十本、いや、二十本はあるだろうか。
「これはいったい……」
真悟郎が中の一本を手に取って、男の顔の前に突き出した。
「日本橋の乾物屋へ行って求めて参った。上等の物だ」
男は真悟郎が付き出した鰹節を受け取ってその香りを嗅いでみた。
「確かに上等の鰹節です。でも、どうやってこれを……」
「刀を売った」
間髪入れずに真悟郎が答えた。見ると真悟郎の腰に二本差しがない。
「頼みがある」
真悟郎が続けた。
「これで蕎麦の汁を作って欲しい。そしてその作り方を、拙者に教えて欲しい」
「それは願ってもないお話ですが……汁は、まだまだ試みを重ねているところで……作り方をお教えするなんて……」
真悟郎は箱を抱えたまま男の家の中に入り、それを土間の上がりに置いた。
「ならば、拙者もお主と一緒に汁を作ろう。拙者を……拙者を蕎麦屋にしてくれ。お主と一緒に屋台を引かせてくれ」
真悟郎は土間に膝を着いた。
「しかし……蕎麦屋は町人の仕事……お侍様が、そんな……」
「侍が何だというのか。そんなものが何になろう。頼む。この通りだ」
真悟郎は土間に額を付けた。
「おやめください」
男が真悟郎の前にしゃがみ込んだ。
「ありがたいお話ですが……本当に、本当によろしいんですか……こんな年寄りと、一緒に……」
「いや、頼む。お願いだ」
「……ありがたい……ありがとう……ございます」
男は、涙を流していた。真悟郎もまた、男とともに涙を流した。
四十年の月日が流れた。徳川幕府は倒れ、新政府が生まれた。武士の世は終わった。
明治十年。この頃、両国に一軒の蕎麦屋があった。
関東の蕎麦屋の多くが醤油を使った濃い口の汁で蕎麦を食べさせる中、その蕎麦屋は、鰹節からしっかりと出汁を取った、風味と旨味のある薄口の汁で蕎麦を食べさせると評判だった。客足が途絶えることはなく、大層繁盛していたそうである。
その蕎麦屋の主は、いつも店の奥の厨房で蕎麦作りに専念していたため、人前に顔を見せることは滅多になかった。
しかしこの店で働いたことがあるという者の話では、厨房の奥には仏壇があり、主は毎朝欠かさず出来たての温かい蕎麦をその仏壇に供えていたそうである。
供えていたのは四杯の丼ぶり。一杯は主に蕎麦作りを伝授した先代のために。一杯はその先代の妻のために。一杯は先代の娘のために。そして一杯は、主自身の妻のためであったという。
(完)
この頃になると、長く続いた幕藩体制も疲弊の色を濃くし、諸藩の財政も厳しいものとなっていた。中には、やむを得ず召し抱える家臣の数を削減する藩もあった。人減らし、今で言うリストラである。
月山真悟郎もまた、一年前、仕えていた藩から馘首を言い渡されていた。二年前には藩の江戸屋敷への勤務を命じられていた。栄転、ではなかった。思えばその頃からすでに人員整理の候補であったのかもしれない。
まだ二十代の若さである。自分の何が悪かったのか。真悟郎に心当たりはなかった。考えても致し方ないことである。
真悟郎はいわゆる「浪人」となった。真悟郎には妻がいた。子宝には恵まれていなかった。真悟郎は妻とともにそのまま江戸の町に留まり、本所の長屋で二人きりの生活を始めることになった。しかし真悟郎は再士官の道を諦めきれず、決まった職に就くことを由としなかった。家計は徐々に困窮の道をたどった。
三月前、妻を病で亡くした。医者に診てもらうことも、滋養となるものを食べさせてやることもできなかった。真悟郎は、一人きりの身となった。
三日前、手元の銭が底を着いた。そして昨日、ついに買い置いてあった古米も。
霜月、晩秋である。寒い。ひもじい。いっそ死んでしまおうか。そんな思いも胸を過った。それでも……生への執着はあった。
手元に残った物は……武士の魂、武士の矜持である、二本差しの刀。これだけである。生きて行くためには、もはやこれに頼るしかない。真悟郎はそう思った。士官の話があるわけではない。誰かに剣術を指南しようというわけでもない。そうではない、刀の使い方……
真悟郎は、亡き妻の位牌を裏返した。
夜、五つ半。今の時刻にすると午後九時。真悟郎は本所の長屋を出て両国橋の方へ向かった。そのあたりに行けばきっと、料亭や居酒屋で飲み食いして、ほろ酔い加減に歩いて帰る日本橋あたりの問屋の旦那衆がいるだろう。そう思った。そして人気のない夜道でそんな輩に出会ったら、持ち金を脅し取ってやろう。真悟郎はそう考えていた。
命まで取ろうとは思わない。刀を抜いてのど元に突き付けてやれば、おとなしく持ち金を差し出すだろう。どうせ遊興に使う金である。何が悪いことがあるものか。真悟郎は心の中で、自分自身にそう言い聞かせた。
しばらく歩いていると、夜道に灯りが見えた。提灯のようである。近づいてみると、一台の屋台が見えた。灯りは屋台に吊るされた提灯であった。
蕎麦屋。屋台を引いて蕎麦を売る、夜泣き蕎麦屋である。
「蕎麦屋か……」
真悟郎は呟いた。蕎麦屋であれば何がしかの銭は持っているだろう。まずはこの蕎麦屋の売り上げを頂戴することにしよう。そう思い、真悟郎はその屋台に向かった。
屋台の前まで来ると、屋台の向こう側に初老の小柄な男が立っているのが見えた。真悟郎は腰に差していた刀の柄に手を掛けた。刀を抜いて、屋台のこちら側から男に突き付けてやろう。そう思った。そして一言、こう言えばよい。「金を出せ」それだけのことである。
その時。鼻孔に芳ばしい香りが流れ込んできた。鰹節の香りである。腹が鳴った。
屋台の向こう側にいた男が顔を上げた。真悟郎に気が付いたようである。
「いらっしゃいませ」
男が言った。白髪交じりの髷。目を細め、頬に皺を寄せて口角を上げている。微笑んでいるのだ。真悟郎に向かって。真悟郎はなぜか懐かしさを感じた。刀の柄を握りしめていた手の力が緩んだ。真悟郎は考え直した。まずは……まずは蕎麦を一杯、食すこととしよう。金を脅し取るのはその後でもよい。
「うむ……かけ蕎麦を、一杯」
そう言って、真悟郎は屋台の前に置かれた木箱に腰を下ろした。
男が屋台の向こうに置かれた鍋で蕎麦を茹でているのが見えた。男は茹で上がった蕎麦を右手に持った竹製の湯切りで手際よく鍋からすくい上げ、左手に持った丼ぶりに入れた。そして湯切りを杓子に持ち替え、別の鍋から汁をすくって蕎麦の入った丼ぶりに注いだ。
真悟郎の目の前に一杯の丼ぶりが置かれた。溢れんばかりの温かな汁と、その中に細打ちの蕎麦があった。芳ばしい香りがした。
瞬く間に真悟郎は丼ぶりの蕎麦を平らげた。汁の一滴も残さずに。
美味かった。温かかった。一時的にではあろうが、昨日から空腹は癒された。
一息ついたところで、空になった丼ぶりを見下ろしながら真悟郎は考えた。
さて……この後、どうしたものか。空腹が癒され、身体が温まったせいか、先ほどまでの張りつめた思いが消えてしまった。もちろん蕎麦代を払う銭はない。最初から考えていた通り、刀を抜いて、この屋台の主から金を脅し取る。それ以外にすべきことはない。しかしながら……
その時。屋台の主、初老の男が声を上げた。
「しまった、あっしとしたことが……」
真悟郎は顔を上げた。男が続けた。
「いえね、釣銭用に小銭を入れておいた巾着を、うっかり家に忘れて来てしまいました」
何を言っているのか、真悟郎はすぐに理解できなかった。
「蕎麦代は十六文でございますが……お侍様のことですから、小銭などお持ちじゃございませんよね。申し訳ありませんが、釣銭がございません」
そういうことか……しかし、釣銭も何も、まだ蕎麦代など払ってもいない。いや、今の自分は十六文の銭も持っていないし、そもそも払う気もなかった……
「そうだ、こういたしましょう。たいへんご無礼ではございますが、今日の蕎麦代は貸し、ていうことにして下さいまし。あっしは毎晩、このあたりに屋台を出しております。今日のお代は明日、いや、いつでもかまいません。この次、お侍様がここを通りかかった時に、てことにして下さいまし。お願いいたします」
そうか……それならば。正直なところ、真悟郎は安堵していた。取りあえず今日、刀を抜く必要はなくなった。
「うむ、そういうことであれば致し方ない。では明日まで、十六文、借りておくことにしよう」
そう言って真悟郎は立ち上がった。
「ありがとうございます」
男が言った。礼を言われる筋合いはない。しかし……
真悟郎は屋台を後にした。一度緩んでしまった気持ちは戻らなかった。真悟郎はそのまま長屋に帰ることにした。真悟郎は夜道を歩きながら思った。一時の空腹は凌ぐことができた。しかし現状は何も変わっていない。明日は、明日こそは。真悟郎は改めて腰に差した刀に目を遣った。
次の夜。時刻はやはり五つ半。真悟郎は本所の長屋を出た。
一日経てば、腹もまた減る。今夜こそは、裕福な問屋の旦那衆を見つけて金を脅し取る。しかし……その前に、あの屋台だ。屋台の主の初老の男だ。十六文の銭を借りたことになっている。そんなことを気にする必要はない。このままあそこに近寄らなければよい。二度と顔を合わせなければよいのだ。しかし……夜道を歩いていても、旦那衆に出くわすとは限らない。あそこに行けば、あの屋台に行けば、何がしかの銭を持った男がいる。間違いない。で、あれば……
いつの間にか真悟郎は、前の夜、屋台のあった場所を目指していた。
灯りが見えた。屋台の提灯の灯りだ。前の夜、男が言っていた通り、同じ場所に屋台はあった。真悟郎は屋台の前に立った。腰に差した刀の柄を握りしめて。蕎麦を食べてしまえばまた気が緩む。その前に。
屋台の向こう側にいた男が顔を上げた。
「いらっしゃ……あら、昨夜のお侍様」
真悟郎は刀の柄を握る手に力を込めた。
その時。男が言った。
「お願いがございます」
柄を握る手の力が緩んだ。
「実は、お侍様に新しい蕎麦の汁の味見をしていただきたいのですが」
男が続ける。
「いえね、江戸の蕎麦の汁っていいますと、醤油と酒を煮詰めて作るのが当たり前でございます。ですから味はかなり濃い口になります。もちろん蕎麦の香りに負けないように、それはそれでいいのですがね。ところが、上方や京の方には、鰹節からしっかりと出汁を取って、その旨味で食わせる、薄口の汁があるって聞きまして。でね、あっしもその味を試してみようと思いまして」
男には刀の柄を握る真悟郎の様子が目に入らないようだ。
「今日は、そんな汁を作ってみたのですが。自分ではまずまずの味だと思うのですが、人様に出せるような代物なのかどうか……どなたかに味見をしていただきたい、そう思っていたところでございます」
男の言っていることは理解できた。真悟郎は刀の柄から手を離した。
気が変わった。まずはその新しい蕎麦の汁とやらを食してみよう。金を奪うのはそれからでも……そう思った。
男が続けた。
「もちろんお代はいただきません。あっしの、いわば道楽のお相手をしていただくのですから……こちらからお礼を差し上げなければいけないぐらいで……そうだ、昨晩の蕎麦代、あの分ということで、お願いできませんでしょうか」
昨日の蕎麦代もいらぬ、そういうことのようである。
「うむ、そう言うなら……」
真悟郎は屋台の前の木箱に腰を下ろした。
前の夜と同じように、男は蕎麦を茹で始めた。茹で上がった蕎麦を湯切りで丼ぶりに入れると、別の鍋からすくった汁を丼ぶりに注いだ。
真悟郎の前に丼ぶりが置かれた。前の夜と同じように、芳ばしい香りがした。そして前の夜と同じように、真悟郎は瞬く間に丼ぶりの蕎麦を平らげていた。美味かった。温かかった。前の夜と同じように。
「いかがでございましょう、お口に合いましたでしょうか」
男がそう訊いてきた。当然だろう。味見をするために食べさせたのだから。
「いや、美味であった」
真悟郎はそう答えた。
「昨日の汁と、どちらの方がお口に合いますでしょうか」
続けて男が訊いてきた。
蕎麦は確かに美味かった。それは間違いない。しかし前の夜もこの夜も、真悟郎は空腹に突き動かされて夢中で蕎麦を食べてしまった。正直なところ、その微妙な味の違いまで吟味している余裕などなかった。
「うむ……」
真悟郎は考え込んだ。いや、考えているふりをした。男は黙って真悟郎の回答を待っている。目を細めて、あの笑顔で。
「さよう……今日の方が……」
やむなく真悟郎はそう答えた。
「ありがとうございます。舌の肥えたお侍様にそう言っていただけますと、あっしも作った甲斐があります」
そもそも、武士といっても下級武士であった真悟郎は、藩に仕えていた頃からそうそう上等な物を食していたわけではなかった。舌が肥えていた、わけではなかった。仮に昨夜や今夜のような空腹の状態でなかったとしても、はたしてその味の違いがわかったかどうか。
「味のお分かりになるお侍様と見込んで、もう一つ、お願いがございます」
「……なんだ」
「今夜、お侍様にはお褒めいただいた味ではございますが……」
褒めた覚えなどなかった。
「まだまだだということは、あっしも十分承知しております。きっと心お優しいお侍様が、年寄りに気を遣って、お世辞を言ってくださったのだと」
心優しい……真悟郎は心の中で反芻した。
「それで……明日もここに、蕎麦の汁のお味見に来ていただけませんでしょうか。明日は、もうちょっとましなものをお侍様に味わっていただきたいと思っております。どうか、お願いいたします」
真悟郎に、男の頼みを断る理由はなかった。
「そうか……さようであれば……」
真悟郎は答えていた。
「では明晩また、ここでお待ちしております」
「うむ」
真悟郎は立ち上がり、屋台に背を向けた。刀を抜いて男から金を脅し取る、その考えは、いつの間のかすっかり消えていた。
その次の夜。この夜も真悟郎は男の屋台を訪れた。やはり、前の夜以来何も食べていなかった。
「お侍様、お待ちしておりました」
この夜も、真悟郎の姿を見つけて男は目を細めた。
「うむ」
真悟郎は屋台の前の木箱に腰を下ろした。
この夜も男は手際よく蕎麦を作り、丼ぶりを真悟郎の前に差し出した。
「今日は昨夜よりも鰹節の量を多くして、醤油を減らしてみました」
芳ばしい香りがした。今夜で三回目。何度目でも、この香りは良い。しかし前の夜と、そしてその前の夜との違いはわからない。
真悟郎は蕎麦を食べ始めた。きちんと説明できるよう、味わいながら、そう思っていた。しかしやはり空腹にはかなわない。一度食べ始めると箸を止めることができない。ゆっくり味合うことなどできない。瞬く間に丼ぶりの中の蕎麦は無くなった。真悟郎は丼ぶりを両手で持ち上げ、残っていた最後の汁を啜った。
「いかがでございましょう」
真悟郎が食べ終わるのを待っていた男が訊いてきた。
「美味だった」
真悟郎は答えた。嘘ではない。しかし……しかし昨夜の蕎麦と比べてどうだったかと言われると……
「お侍様、今夜もまた、この年寄りの頼みを聞いていただけませんでしょうか」
汁の味についての意見を訊かれると思って考え込んでいた真悟郎に向かって、男はそう言ってきた。目を細めて。
「これからしばらくの間、あっしにお付き合いいただけませんでしょうか」
真悟郎は顔を上げた。
「今夜は、昨夜とは少し違った味を試してみましたが、もちろん、お武家様に十分に満足していただけるような味じゃございません。ですから、こらからも毎日、汁を作り直して行きたいと思っております。その味を毎夜、ここで、お侍様に味見していただきたいのです。もちろんただで、とは申し上げません。それなりのお礼はさせていただきます」
真悟郎に、断る理由は……なかった。
「いかがでございましょうか」
「うむ……わかった」
真悟郎は答えた。
「ありがとうございます」
男が頭を下げた。真悟郎は立ち上がり、屋台に背を向けた。
長屋に帰った真悟郎は、一昨夜からのことを思い返した。
あの、屋台の主の初老の男……最初の夜、あの男は釣銭の小銭を忘れたからと言って、蕎麦代を受け取らなかった。次の夜は、新しい汁の味見をして欲しいと言って、前夜の蕎麦代まで無かったことにした。そしてに今夜は、今夜だけでなく、しばらくの間、汁の味見をしに来てほしいと。蕎麦代を取らないどころか、礼まですると言う。
真悟郎も馬鹿ではない。屋台の男が何を考えているか、気が付いていた。
自分はあの男に施されている。憐れみをかけられている。武士の自分が、町人に。
真悟郎は涙を流した。侮辱。屈辱。そう感じてしかるべきである。以前の真悟郎であればそう感じていたかもしれない。しかし今、真悟郎が流している涙は悔し涙ではなかった。
ありがたかった。うれしかった。あの男の心持ちが、真悟郎に対する思い遣りが、たまらなくうれしかった。
真悟郎は裏返したままになっていた亡き妻の位牌を表に向け直した。そして話しかけた。
「自分はなんということをしようとしていたのだろう。あんな男から、金を脅し取ろうとしていた……いや、誰であれ、人様から金を脅し取ろうとしていた……人の道からはずれたことをしようとしていた……お前に……お前に合わす顔がない。いや、あの世にいるお前に、恥をかかせるところであった」
そしてこう続けた。
「お前にも……あんな蕎麦を、いや、あの男の蕎麦を、食べさせてあげたかった……」
次の夜も、真悟郎は男の屋台に姿を現した。
「お待ちしておりました」
真悟郎の姿を見ると、男はまた目を細めた。真悟郎は屋台に駆け寄った。そして屋台の前に置かれた木箱を脇にどけると、その場に跪いた。
「すまない。すまなかった」
真悟郎は地面に手を突き、屋台の向こう側に立つ男に向かって頭を下げた。真悟郎の額が地面に付いた。
「お……おやめください。お侍様」
驚いた男は屋台の脇を回りこんで土下座する真悟郎に駆け寄った。
「正直に話す」
真悟郎は額を地面に付けたまま続けた。
「一年前、仕えていた藩から罷免された。銭も使い果たした。拙者は一文無しだ。空腹に耐えきれず、拙者はお主から金を脅し取ろうとしていたのだ」
真悟郎は一度顔を上げ、脇にいた男に向き直って再び額を地面に付けた。
「すまなかった。本当にすまなかった」
男は真悟郎の背に手を置いた。
「まずは……お顔を上げてくださいまし」
男が言った。しかし真悟郎はそのまま顔を上げない。
「そんな拙者に、お主は……」
泣いていた。真悟郎は泣いていた。
男は一旦屋台の裏に回り、木箱を一つ抱えて戻って来た。そしてその木箱を真悟郎の脇に置くと、そこに腰を下ろした。
「お侍様もそこにお掛け下さいな。そんな格好じゃ、お話もできません」
男は真悟郎が先ほど脇にどけた木箱を示した。男にそう言われ、ようやく真悟郎は立ち上がった。真悟郎は俯いたまま木箱に腰を下ろし、男と向き合った。
「……存じておりましたよ」
男が静かに話し始めた。
「初めてここにいらっしゃった時のお侍様といったら、そりゃあもう、殺気、ていうんですか、あっしに刀を突き付けてやろうっていう気が、満々に見て取れましたからね」
最初からわかっていたのか……そう思い、真悟郎は男の顔を見た。男は相変わらず目を細めて微笑んでいる。
男が続けた。
「あっしにも、女房と、娘が一人、おりました。それが大火事で、二人ともあの世に行っちまいましてね……七年前のことでございす。その時あっしだけ、こうやって蕎麦を売りに出ていて、生き残っちまいました……」
男は話を切って空を見上げた。
「あっしも後を追って死んじまおう……そう思ったことも、一度や二度じゃありません」
男が真悟郎に顔を向け直した。
「ですから、お侍様にお会いした時も……こう言っては失礼にあたるかもしれませんが……少しも怖くありませんでした。このお方に切られて死ぬなら、それはそれでかまわない、そう思いました」
真悟郎は男の顔から目を反らしてまた下を向いた。恥ずかしかった。
「でもね……」
男が続けた。
「それが、あっしがおめおめと今日まで生き延びてきた理由でもあるんですが……蕎麦を……蕎麦を作っている時だけは、辛いこと、悲しいことを忘れていられるんです。そして、そうやってあっしが作った蕎麦を、誰かに食べてもらいたくて……」
男がまた、真悟郎を見ながら微笑んだ。
「あっしの蕎麦を食べた人が、美味そうな、幸せそうな顔をしてくれるのがうれしくてね……」
真悟郎は顔を上げた。男は本当にうれしそうな顔をしていた。
「あの時のお侍様もそうでした。あっしが作った蕎麦を食べて下さった後は、殺気が消えて、優しい顔をしていらっしゃいました……あっしは、それがうれしくて……」
微笑む男の顔が滲んで見えなくなった。真悟郎の目から涙が零れた。
「あっしの方からお礼を言わせていただきます。ありがとうございました」
真悟郎は目を擦った。
「拙者こそ……礼を……礼をさせてくれ」
かろうじて声が出た。
「新しい汁を作っている、というのは本当のことでございます。どなたかにその味見をしてもらいたかったのも。ですから、お礼なんて必要ありません」
男が言った。
「いや、それでは拙者の気が済まぬ……拙者にも、何か、何かできぬか」
持ち金もない。仕事もない。そんな自分に何ができるというのだろう。しかし、それでも。
「そうでございますね……実はあっしも、歳のせいか、最近足腰が弱ってしまいまして……今夜はもう、店仕舞いにいたします。この屋台、家まで後ろから押して来てもらえませんか」
「お安い御用だ。是非、そうさせてくれ」
うれしかった。男の手伝いができることが、真悟郎にはたまらなくうれしかった。真悟郎は立ち上がって、男ととともに屋台の片づけを始めた。
その次の日の昼。男は家で蕎麦の準備を始めていた。そこへ。
「どんどん」
家の木戸を叩く音がする。
「頼もう、頼もう」
声がする。前夜、屋台を家まで一緒に送り届けてくれた侍、真悟郎の声である。
引き戸を開けると、そこに真悟郎が立っていた。小さな木箱を抱えている。
「これはこれは、お侍様」
驚く男にかまわず真悟郎は抱えていた箱の蓋を開けた。
「これを見てくれ」
中にあるのは、鰹節、である。十本、いや、二十本はあるだろうか。
「これはいったい……」
真悟郎が中の一本を手に取って、男の顔の前に突き出した。
「日本橋の乾物屋へ行って求めて参った。上等の物だ」
男は真悟郎が付き出した鰹節を受け取ってその香りを嗅いでみた。
「確かに上等の鰹節です。でも、どうやってこれを……」
「刀を売った」
間髪入れずに真悟郎が答えた。見ると真悟郎の腰に二本差しがない。
「頼みがある」
真悟郎が続けた。
「これで蕎麦の汁を作って欲しい。そしてその作り方を、拙者に教えて欲しい」
「それは願ってもないお話ですが……汁は、まだまだ試みを重ねているところで……作り方をお教えするなんて……」
真悟郎は箱を抱えたまま男の家の中に入り、それを土間の上がりに置いた。
「ならば、拙者もお主と一緒に汁を作ろう。拙者を……拙者を蕎麦屋にしてくれ。お主と一緒に屋台を引かせてくれ」
真悟郎は土間に膝を着いた。
「しかし……蕎麦屋は町人の仕事……お侍様が、そんな……」
「侍が何だというのか。そんなものが何になろう。頼む。この通りだ」
真悟郎は土間に額を付けた。
「おやめください」
男が真悟郎の前にしゃがみ込んだ。
「ありがたいお話ですが……本当に、本当によろしいんですか……こんな年寄りと、一緒に……」
「いや、頼む。お願いだ」
「……ありがたい……ありがとう……ございます」
男は、涙を流していた。真悟郎もまた、男とともに涙を流した。
四十年の月日が流れた。徳川幕府は倒れ、新政府が生まれた。武士の世は終わった。
明治十年。この頃、両国に一軒の蕎麦屋があった。
関東の蕎麦屋の多くが醤油を使った濃い口の汁で蕎麦を食べさせる中、その蕎麦屋は、鰹節からしっかりと出汁を取った、風味と旨味のある薄口の汁で蕎麦を食べさせると評判だった。客足が途絶えることはなく、大層繁盛していたそうである。
その蕎麦屋の主は、いつも店の奥の厨房で蕎麦作りに専念していたため、人前に顔を見せることは滅多になかった。
しかしこの店で働いたことがあるという者の話では、厨房の奥には仏壇があり、主は毎朝欠かさず出来たての温かい蕎麦をその仏壇に供えていたそうである。
供えていたのは四杯の丼ぶり。一杯は主に蕎麦作りを伝授した先代のために。一杯はその先代の妻のために。一杯は先代の娘のために。そして一杯は、主自身の妻のためであったという。
(完)