辺境への転属命令から一週間後。
旅の準備を終えた僕は、いよいよ王都を離れてマクリア地方へ向かうことにした。
移動手段は定番の水路だ。
王国中に張り巡らされた運河や天然の川を使えば、陸路よりもずっと速く目的地に到着することができる。
トラブルがなければ一日半くらいだろうか。
陸路ならその倍は軽く掛かってしまうはずだ。
「さて、そろそろ出発するか」
一人乗りの船の上で気合を入れ直す。
王都から一番近い運河には、大小様々な種類の船が集まっていた。
僕が乗っている小船みたいな小型船もあれば、まるで城が水に浮かんでいるかのような大型船もある。
そして、ここにある舶の大部分の動力源は、自然のエネルギーではなく魔法だ。
「風を受けて走れ」
簡単な手振りを交えて呪文を唱えると、小船の周りにちょうどいい強さの風が吹き、帆を膨らませて小船を前進させ始めた。
「んー……左へ向かえ……」
小船が運河の岸を離れて左へ進み――
「これくらいで、右へ向かえ……」
適度に岸から距離を取ったところで、今度は右に船先を傾け――
「よし、直進せよ!」
――魔法の風を満帆に受けながら、船でごった返す運河をまっすぐ進んでいく。
下っ端の下等魔導師とはいえ、小船一つ動かすくらいの魔法はお手の物だ。
まぁ、これが一流の航海魔導師なら、僕みたいに細かな呪文をあれこれ唱えなくても、たった一言で巧みに船を操ったりするのだけれど、それはそれ。
帆のある大型船は僕の船と同じように魔法の風で動き、帆のない大型船は魔法で操られた水流に乗って進む。
周囲を見渡せば、他にも魔法が社会を支えている様子が目に映る。
例えば、石材を操って橋を直す魔法使い。
例えば、植物を操って畑の作物を収穫する魔法使い。
空を仰げば、郵便鞄を肩に掛けた魔法使いが、杖にまたがって低空を飛んでいる姿も見えた。
これまでの歴史上、色々な道具や機械が造られてきたけれど、魔法の便利さに敵うものはない。現代社会の常識だ。
しかしそれは、言い換えれば『魔法の恩恵に預かれない人々は、とてつもない不便を強いられる』ということでもあって――
「さて……とりあえず、今日のところはここで一泊、と……」
運河沿いの宿で夜を越し、マクリア地方への船旅の後半に突入する。
今までは都会とその近郊だったけど、ここから先は田舎の風景。
運河に掛かる橋は魔法で作られた石橋ではなく、修理も手作業の木製の橋。
畑では大勢の人々が働いていて、収穫も耕作も魔法ではなく全て人力。
川沿いの水車は小麦を粉にするためのもの。
もちろんこれも、魔法があればこんなに大袈裟な設備は必要ない。
空を飛ぶ魔導師の姿はなく、王宮の紋章がペイントされた古びた郵便馬車が、運河沿いのでこぼこ道をゆっくり走っている。
王都近郊で活躍していた魔法の数々は、ここでは全くと言っていいほど見られない。
田舎育ちの僕にとっては、ある意味で懐かしさすら感じる光景だった。
「やっぱり、好き好んで田舎に来る魔法使いなんか、そうそういないよな。だから魔導師を増やすべきだって言ってるのに……うちのお偉方ときたら……」
船旅が暇すぎて、ついつい益体もない思考に耽ってしまう。
この国で魔法を習得するためには、大枚を叩いて家庭教師を雇わない限り、魔法省管轄の王立魔導アカデミーに入学しなければならない。
だが、こいつがまた問題だらけ。
入学も卒業も難しく、僕が卒業できたのは奇跡も同然だった。
トベラ大臣が言っていた通り、魔法の習得には『生まれ持った才能』が必要不可欠。
しかし才能さえあれば入学できるわけではなく、希望者の半数以上は入学すらできずに足切りされてしまう。
この時点で相当に厳しい条件なのだが、アカデミーは在学中にも容赦なく厳しい選別を課してくる。
能力不足を理由に退学させられる生徒は数知れず。
入学した生徒のうち、卒業できたのが一割にも満たない世代すらあったという。
無事に卒業できた一握りの生徒は魔導師に。
途中で脱落してしまった退学者が民間の魔法使いに。
アイオニア王国の魔法使いの大部分は、この二つのどちらかに該当する。
……問題は、民間の魔法使いが都会に集中してしまう、ということだ。
理由はいたって単純明快。都会の方がたくさん仕事にありつけて、儲かる。
あと娯楽が多くて生活も快適。以上。
アカデミーが入学基準を厳しくしすぎているせいで、魔法の需要の割に魔法使いがまるで足りていない。
そして限られた人材の争奪戦になってしまえば、田舎よりも都会の方が圧倒的に有利。
魔導師の地方派遣はこの格差を補うためなのだが、肝心の魔導師が少なすぎる。
正直なところ焼け石に水である。
「さて、そろそろ船着き場だと思うんだけど……」
時刻は昼過ぎ頃。
目的地も近くなってきたはずなので、無意味な思考を打ち切って周囲を見渡す。
「おいおい……まさか、アレがそうだって言うんじゃないよな……?」
地図に船着き場と記載されている場所にあったのは、朽ち果てた残骸の山だった。
無造作に放置されたあの廃墟は、もしかして水車小屋なのだろうか。
あんなに大事な設備が壊れたままにされているなんて。
何とか岸辺に船を寄せ、小船をロープで係留させてから、草の生い茂る土手を登る。
全く手入れがされていないのが丸分かりで、登るだけでも一苦労だ。
「ふぅ、やっとてっぺんに……って……」
土手の頂上からの風景は、荒れ地としか表現できない状態だった。
砂漠というわけではないが、地面に生えているのは背の低い草木くらいで、背の高い木はまばらに生えている程度。
しかも、ところどころに湿地があり、地平線の向こうには手つかずの森と岩山が広がっている。
まさしく辺境。ルリが言っていた通りだった。
「いやいや、いくら何でもこれは……前任の魔導師がいるはずなんだし、こんなにボロボロのはずが……」
愕然としながら周囲を見渡し、どこかに集落がないか探してみようとする。
「ん? あれは……荷馬車か? ……って、まずい! 狼だ!」
土手の下を必死に逃げる荷馬車。それを追う狼の群れ。
更に、荷馬車は不運にも荒れ放題の道で横転し、乗っていた人間が地面に投げ出されてしまった。
今から駆け下りても間に合わない。
僕は咄嗟に、土手の上から呪文を詠唱した。
「射撃魔法、三連火弾!」
三つの火球が僕の手元から矢のように発射され、狼の群れを目掛けて降り注ぐ。
地面に着弾、炸裂。
狼達は突然の爆発に驚いて足を止め、散り散りになって逃げ出していった。
これで充分だ。命中に拘る必要はない。
「おーい! 大丈夫かー!」
狼の群れが遠ざかったのを確かめてから、土手を駆け下りて馬車から振り落とされた人に駆け寄る。
怪我をしていたら手当が必要だ。
治癒魔法は得意じゃないけど、何もしないよりはマシだろう。
そんなことを考えながら、倒れていたその人を抱き起こす。
深く被っていたフードが外れ――次の瞬間、僕は驚きのあまり硬直してしまった。
「獣人!? ほ、本物……なのか……?」
露わになったのは、少女の体に犬か狼の耳と尻尾を生やした、年若い獣人の姿だった。
バサバサに荒れた毛並みは、目を見張るくらいに鮮やかな赤色だ。
魔導師になってかれこれ五年。こんなに近くで獣人を見たのは初めてだ。
「う、うーん……ハッ! うわわっ! お、狼は!?」
獣人の少女が勢いよく起き上がる。
その子が発した言葉は、僕が使っているのと同じアイオニア語。
言葉が普通に通じると分かってホッとしながら、できるだけ落ち着いた声で話しかける。
「大丈夫。狼なら追い払ったよ」
「え? あ、ありがとうございます! ええと……」
「コハク・リンクス。王都から派遣された魔導師だ。君は……この辺りの子だよね?」
「まどうし……ええっ!? ほ、本当に魔導師様なんですか!? やったぁ!」
少女は大袈裟なくらいに目を輝かせて喜んだ。
その目元には、何故かうっすらと涙が浮かんでいる。
狼に襲われたのが怖かったとか、助かって安堵したとか、そういう理由ではないようだ。
根拠はないけど、そんな気がする。
「私、クレナイって言います! ペトラ村のクレナイです! よかったぁ……ずっと魔導師様がいらっしゃらなかったから、このままだと皆死んじゃうんじゃないかって……」
「魔導師が、いない? そんな馬鹿な。僕の前任者が派遣されてるはずじゃ」
当然の疑問をぶつけると、獣人の少女――クレナイは困ったように頬を欠いた。
「その、ですね。前にいた魔導師様、逃げちゃったんです」
旅の準備を終えた僕は、いよいよ王都を離れてマクリア地方へ向かうことにした。
移動手段は定番の水路だ。
王国中に張り巡らされた運河や天然の川を使えば、陸路よりもずっと速く目的地に到着することができる。
トラブルがなければ一日半くらいだろうか。
陸路ならその倍は軽く掛かってしまうはずだ。
「さて、そろそろ出発するか」
一人乗りの船の上で気合を入れ直す。
王都から一番近い運河には、大小様々な種類の船が集まっていた。
僕が乗っている小船みたいな小型船もあれば、まるで城が水に浮かんでいるかのような大型船もある。
そして、ここにある舶の大部分の動力源は、自然のエネルギーではなく魔法だ。
「風を受けて走れ」
簡単な手振りを交えて呪文を唱えると、小船の周りにちょうどいい強さの風が吹き、帆を膨らませて小船を前進させ始めた。
「んー……左へ向かえ……」
小船が運河の岸を離れて左へ進み――
「これくらいで、右へ向かえ……」
適度に岸から距離を取ったところで、今度は右に船先を傾け――
「よし、直進せよ!」
――魔法の風を満帆に受けながら、船でごった返す運河をまっすぐ進んでいく。
下っ端の下等魔導師とはいえ、小船一つ動かすくらいの魔法はお手の物だ。
まぁ、これが一流の航海魔導師なら、僕みたいに細かな呪文をあれこれ唱えなくても、たった一言で巧みに船を操ったりするのだけれど、それはそれ。
帆のある大型船は僕の船と同じように魔法の風で動き、帆のない大型船は魔法で操られた水流に乗って進む。
周囲を見渡せば、他にも魔法が社会を支えている様子が目に映る。
例えば、石材を操って橋を直す魔法使い。
例えば、植物を操って畑の作物を収穫する魔法使い。
空を仰げば、郵便鞄を肩に掛けた魔法使いが、杖にまたがって低空を飛んでいる姿も見えた。
これまでの歴史上、色々な道具や機械が造られてきたけれど、魔法の便利さに敵うものはない。現代社会の常識だ。
しかしそれは、言い換えれば『魔法の恩恵に預かれない人々は、とてつもない不便を強いられる』ということでもあって――
「さて……とりあえず、今日のところはここで一泊、と……」
運河沿いの宿で夜を越し、マクリア地方への船旅の後半に突入する。
今までは都会とその近郊だったけど、ここから先は田舎の風景。
運河に掛かる橋は魔法で作られた石橋ではなく、修理も手作業の木製の橋。
畑では大勢の人々が働いていて、収穫も耕作も魔法ではなく全て人力。
川沿いの水車は小麦を粉にするためのもの。
もちろんこれも、魔法があればこんなに大袈裟な設備は必要ない。
空を飛ぶ魔導師の姿はなく、王宮の紋章がペイントされた古びた郵便馬車が、運河沿いのでこぼこ道をゆっくり走っている。
王都近郊で活躍していた魔法の数々は、ここでは全くと言っていいほど見られない。
田舎育ちの僕にとっては、ある意味で懐かしさすら感じる光景だった。
「やっぱり、好き好んで田舎に来る魔法使いなんか、そうそういないよな。だから魔導師を増やすべきだって言ってるのに……うちのお偉方ときたら……」
船旅が暇すぎて、ついつい益体もない思考に耽ってしまう。
この国で魔法を習得するためには、大枚を叩いて家庭教師を雇わない限り、魔法省管轄の王立魔導アカデミーに入学しなければならない。
だが、こいつがまた問題だらけ。
入学も卒業も難しく、僕が卒業できたのは奇跡も同然だった。
トベラ大臣が言っていた通り、魔法の習得には『生まれ持った才能』が必要不可欠。
しかし才能さえあれば入学できるわけではなく、希望者の半数以上は入学すらできずに足切りされてしまう。
この時点で相当に厳しい条件なのだが、アカデミーは在学中にも容赦なく厳しい選別を課してくる。
能力不足を理由に退学させられる生徒は数知れず。
入学した生徒のうち、卒業できたのが一割にも満たない世代すらあったという。
無事に卒業できた一握りの生徒は魔導師に。
途中で脱落してしまった退学者が民間の魔法使いに。
アイオニア王国の魔法使いの大部分は、この二つのどちらかに該当する。
……問題は、民間の魔法使いが都会に集中してしまう、ということだ。
理由はいたって単純明快。都会の方がたくさん仕事にありつけて、儲かる。
あと娯楽が多くて生活も快適。以上。
アカデミーが入学基準を厳しくしすぎているせいで、魔法の需要の割に魔法使いがまるで足りていない。
そして限られた人材の争奪戦になってしまえば、田舎よりも都会の方が圧倒的に有利。
魔導師の地方派遣はこの格差を補うためなのだが、肝心の魔導師が少なすぎる。
正直なところ焼け石に水である。
「さて、そろそろ船着き場だと思うんだけど……」
時刻は昼過ぎ頃。
目的地も近くなってきたはずなので、無意味な思考を打ち切って周囲を見渡す。
「おいおい……まさか、アレがそうだって言うんじゃないよな……?」
地図に船着き場と記載されている場所にあったのは、朽ち果てた残骸の山だった。
無造作に放置されたあの廃墟は、もしかして水車小屋なのだろうか。
あんなに大事な設備が壊れたままにされているなんて。
何とか岸辺に船を寄せ、小船をロープで係留させてから、草の生い茂る土手を登る。
全く手入れがされていないのが丸分かりで、登るだけでも一苦労だ。
「ふぅ、やっとてっぺんに……って……」
土手の頂上からの風景は、荒れ地としか表現できない状態だった。
砂漠というわけではないが、地面に生えているのは背の低い草木くらいで、背の高い木はまばらに生えている程度。
しかも、ところどころに湿地があり、地平線の向こうには手つかずの森と岩山が広がっている。
まさしく辺境。ルリが言っていた通りだった。
「いやいや、いくら何でもこれは……前任の魔導師がいるはずなんだし、こんなにボロボロのはずが……」
愕然としながら周囲を見渡し、どこかに集落がないか探してみようとする。
「ん? あれは……荷馬車か? ……って、まずい! 狼だ!」
土手の下を必死に逃げる荷馬車。それを追う狼の群れ。
更に、荷馬車は不運にも荒れ放題の道で横転し、乗っていた人間が地面に投げ出されてしまった。
今から駆け下りても間に合わない。
僕は咄嗟に、土手の上から呪文を詠唱した。
「射撃魔法、三連火弾!」
三つの火球が僕の手元から矢のように発射され、狼の群れを目掛けて降り注ぐ。
地面に着弾、炸裂。
狼達は突然の爆発に驚いて足を止め、散り散りになって逃げ出していった。
これで充分だ。命中に拘る必要はない。
「おーい! 大丈夫かー!」
狼の群れが遠ざかったのを確かめてから、土手を駆け下りて馬車から振り落とされた人に駆け寄る。
怪我をしていたら手当が必要だ。
治癒魔法は得意じゃないけど、何もしないよりはマシだろう。
そんなことを考えながら、倒れていたその人を抱き起こす。
深く被っていたフードが外れ――次の瞬間、僕は驚きのあまり硬直してしまった。
「獣人!? ほ、本物……なのか……?」
露わになったのは、少女の体に犬か狼の耳と尻尾を生やした、年若い獣人の姿だった。
バサバサに荒れた毛並みは、目を見張るくらいに鮮やかな赤色だ。
魔導師になってかれこれ五年。こんなに近くで獣人を見たのは初めてだ。
「う、うーん……ハッ! うわわっ! お、狼は!?」
獣人の少女が勢いよく起き上がる。
その子が発した言葉は、僕が使っているのと同じアイオニア語。
言葉が普通に通じると分かってホッとしながら、できるだけ落ち着いた声で話しかける。
「大丈夫。狼なら追い払ったよ」
「え? あ、ありがとうございます! ええと……」
「コハク・リンクス。王都から派遣された魔導師だ。君は……この辺りの子だよね?」
「まどうし……ええっ!? ほ、本当に魔導師様なんですか!? やったぁ!」
少女は大袈裟なくらいに目を輝かせて喜んだ。
その目元には、何故かうっすらと涙が浮かんでいる。
狼に襲われたのが怖かったとか、助かって安堵したとか、そういう理由ではないようだ。
根拠はないけど、そんな気がする。
「私、クレナイって言います! ペトラ村のクレナイです! よかったぁ……ずっと魔導師様がいらっしゃらなかったから、このままだと皆死んじゃうんじゃないかって……」
「魔導師が、いない? そんな馬鹿な。僕の前任者が派遣されてるはずじゃ」
当然の疑問をぶつけると、獣人の少女――クレナイは困ったように頬を欠いた。
「その、ですね。前にいた魔導師様、逃げちゃったんです」