異端の魔導師は辺境の地で第二の人生を送りたい

 魔導師コハク・リンクスが、要塞司令官リョウブ・レオンからの魔導器開発要請を受けてから、およそ二週間。

 コハク・リンクスが研究開発に勤しむ一方その頃、要塞付近の街道を、三台の馬車が列を成して走っていた。

 このうち二台は兵士を乗せた護衛車両。
 列の前と後ろに位置取って、中央の三台目――精緻な装飾が施された貴族用の馬車を守っている。

 そして、厳重に護衛された貴族用の馬車の中には、二人の高貴な少女の姿があった。

 マクリア地方領主、ユキカ・アラヴァストス。
 宮廷伯ディアマンディ家令嬢、ルリ・ディアマンディ。

 二人の少女は同じ馬車に相乗りし、良く言えば雄大で牧歌的な、悪く言えば閑散とした辺境の平原の散策を楽しんでいた。

「人間世界の西の果て。魔導師が赴任を拒否する辺境中の辺境。中央ではそんな風に言われていますけど、仕事を忘れて静養する分には快適ですわね」
「ありがとうございます。だけど定住するとなると、苦労の方が大きくなってしまうんですけどね」

 ユキカは以前と変わることなく、自分の領地に対するネガティブな評価を、顔色一つ変えることなく平然と受け入れている。

 本音を隠し笑顔を取り繕っている、というわけでもない。

 むしろ心から同意しているようにも見えた。

「……わたくし、最初は社交辞令の類だと思っていましたわ」
「え、何のことですか?」
「領地を貶められても怒らない、それどころか同意すらしているでしょう。てっきり、わたくしに話を合わせているのだとばかり」
「もちろん本音ですよ。だって私、この領地のこと、嫌いですから」

 ユキカは満面の笑顔でそう言い切った。

「あっ、もちろん全部が嫌いってわけじゃないですよ。自然が綺麗だなって思うことはありますし、領民の人達は素朴で良い人ばかりですし」

 唖然とするルリに対して、ユキカは焦った様子もなく言葉を続けた。

「だけど、生活が不便なところは嫌いです。お店や娯楽がほとんどないのも嫌いです。美味しいケーキ屋さんがないのも嫌いです。嫌いな理由は数え切れないくらいにありますけど、一番の理由は……」

 一拍の間。そして、真剣な声。

「……領民の人達を幸せにできない土地だっていうことが、心の底から大嫌いです」
「ユキカ、貴女……」
「この土地には、足りないものが多すぎます。しかも足りないだけならまだしも、百眼同盟なんてものがあるせいで、なけなしの余裕も防衛に吸い上げられてしまう……そうしなければ何も守れない……」

 車窓の外を眺めるユキカの瞳は悲しげで、どこか遠くを見つめているようだった。

「もちろん、変えようと頑張りました。この土地の環境は嫌いでも、ここに済む人達のことは好きですから。だけど無理でした。どれだけ頑張っても、乾いた砂漠に水を撒くようなものだったんです」

 しかしその眼差しは、すぐに希望の色へと塗り替わる。

「コハク様と出会ったのは、私にできることをやり尽くして、領主として行き詰まりを感じ始めたときでした。そして思ったんです。誰にでも魔法が使える道具……魔導器こそ、私達を救ってくれる希望。これはきっと運命なんだって」
「運命ですか? わたくしの目には偶然の積み重ねのように見えますけれど」
「それを運命って言うんですよ」

 心の底から嬉しそうに笑うユキカ。

 全ては偶然の積み重ね――コハクが魔導器の研究を始めたのも、魔法省の大臣が左遷先としてマクリア地方を選んだのも、ユキカの苦境を救おうとしたからではない。

 赴任したコハクが魔導器を製造したのは自分の負担を減らすためで、そうせざるを得なかったのは前任の魔導師が行方を晦ましたから。

 一連の流れに関わる誰一人として、マクリア地方とユキカを救おうとは考えていなかったにもかかわらず、全てが絶妙に噛み合った結果、偶然にも救いの手となってユキカの前に差し出されたのだ。

 これを運命と言わずに何と言う。
 ユキカは言葉と眼差しの両方でそう断言していた。

「コハク様の研究が成就すればするほど、この土地に足りないものを補える……領民の人達の生活に余裕が生まれて、今よりもずっと幸せにしてあげられる……実際、あの方がほんの数日滞在しただけで、あのペトラ村がすっかり復興してしまったくらいですから」
「はぁ……やっと合点がいきましたわ。どうして貴女が魔導器を受け入れたのか。ただの友人としては喜ばしいことですが、魔導師としては忸怩(じくじ)たる思いですわね」

 ルリは短く溜息を吐いた。

「それにしても、貴女の責任感には感服しますわ。先祖代々の領地とはいえ、並の人間ならとうの昔に諦めていてもおかしくないでしょうに」
「あ、実はですね……この土地、先祖代々の領地というわけではないんです」
「……はい?」

 余計に困惑を深めるルリに、ユキカは笑いながら自分の事情を説明した。

「元々、マクリア地方はゼフィロス家の親戚が治めていたんです。だけど先代領主が跡継ぎを決めずに亡くなって、こんな辺境を誰に引き継がせるのかっていう押し付け合いが始まって……巡り巡って、ほとんど他人みたいな遠縁の私にお鉢が回ってきたんです」
「ゼフィロス家……四大貴族のゼフィロス公ですか!? それはまた……大変なところから押し付けられてしまったものですわね……」
「とんだ貧乏くじですよね。お父様ったら、下級貴族の我が家から地方伯が! なんて大騒ぎしてましたけど、私の気苦労も少しは考えてほしいものです」

 このアイオニア王国の貴族制度は、大きく分けて三つのグレードに分かれている。

 まず一つ目は、単に『伯』あるいは『諸伯』とだけ呼ばれる下級貴族。
 領地は狭く、権力も弱く、国王や上位の貴族の下請けとして、限られた範囲を代理統治しているという意味合いが強い。

 二つ目は『伯』の前に何らかの装飾語がつく上級貴族。
 重要な軍事拠点とその周辺を治める『城塞伯』や、領地内に大都市を抱えた『都市伯』の他、領地を持たず王宮で政治に携わる『宮廷伯』などが存在する。

 ユキカの肩書である『地方伯』は、上級貴族における序列第一位の『宮廷伯』に次ぐ第二位の格が与えられている。

 ……ただし、これはあくまで社会的な格付けの話であり、領地が豊かであるかどうかは別問題。

 小国並の経済力を持つ地方伯もいれば、ユキカのように苦労を重ねる地方伯もいる。

 そして三つ目は、国王に次ぐ権勢を誇る最上級貴族、いわゆる四大貴族である。

 王国の東西南北にそれぞれ広大な領地を有し、他の貴族には許されない『公』の敬称で呼ばれる四つの一族。

 下級貴族にとっては文字通り雲の上の存在。

 これほど地位の高い人物から領地を任せたいと言われて、断れる下級貴族などまずいないだろう――それがたとえ、我が子を生贄に差し出すようなものだったとしても。

「北方支配のヴォーリオス公と比べれば、西方支配のゼフィロス公は穏健派だと聞きますわね」
「穏健派というより無関心なんですよ。口出しはしない代わりに手も貸さない、なんて言って、援助のひとつもしてくださらないんです。まぁそのお陰で、コハク様の研究を全力で支援できるんですけど」

 ユキカは拗ねたように唇を尖らせた。

「そうだ! せっかくですから、サブノック要塞に立ち寄って、コハク様の仕事ぶりを見学していきません?」
「ど、どうしてそうなるんですの!?」
「ルリも気になりませんか? コハク様が次にどんなものを作るのか! 確か今は、レオン司令の要請で……」

 二人を乗せた馬車は、閑散とした丘陵地帯をゆっくりと進んでいく。

 周囲に人里はなく、馬車の車輪の音だけが響いている……はずだったのだが。

「あら? ユキカ、何か聞こえませんこと?」
「え? そういえば……うっすらと、聞こえなくもないような……他の馬車でしょうか」
「それにしては速すぎます。馬車だとしたら、明らかに暴走していますわ」

 どんどん大きくなっていく異音。

 ルリとユキカが音の聞こえる方の窓に体を寄せ、外の様子を伺おうとした次の瞬間、大きな影が丘の頂上から勢いよく空中に飛び出した。

 二人の馬車の上を飛び越えていく謎の影。

 まるで、馬が繋がれていない馬車のような形。

 普通なら走るはずなどない代物が、とんでもない速度で丘の頂上から離陸して、街道を挟んだ反対側に墜落――否、着地する。

 バラバラになってもおかしくない勢いの着地だったが、墜落寸前で風属性の魔法が発動して空気のクッションを生成し、破壊的な落下を未然に防いでいた。

「なななな、何が起きたんです!?」
「まさか……!」

 唖然とするユキカを車内に残し、ルリは自分達の馬車を飛び出して、正体不明の馬なし馬車に駆け寄った。

 馬なし馬車の扉が開き、乗員がフラフラと外に出る。

「あー……酷い目に遭った……」
「やっぱり! コハクさんでしたのね!」

 それはまさしく魔導師コハクだった。

 御者席には獣人のクレナイの姿があり、憔悴したコハクとは正反対に、何やら恍惚とした顔で笑っている。

「はあぁ……! 最っ高ですね、これ! 気分爽快です……!」
「……一緒に空飛んだときも思ったけど……君さ、危険な乗り物ほど好きだったりしないか?」

 少し遅れて、我に返ったユキカと護衛の兵士も追いついてくる。

「コハク様!? 一体何が……!」
「おっと。奇遇ですね、マクリア伯」

 すぐさま襟を正すコハク。

「実は、レオン司令から依頼された魔導器のテスト走行をしているところなんです。だけどクレナイに最高速度を試してもらっていたら、うっかり限界を越えてしまいまして」
「魔導器? まさか、これは……あの資料にもあった……」

 驚きから一転。ユキカの表情が輝く。

「自動車ですね! 凄い、凄いです! あんなに速く走れるなんて!」

 掛け値なしの称賛を受けて、照れ笑いを浮かべるコハク。

 その後ろで、ルリは溜息を吐いて首を横に振っていた。
 僕がレオン司令に提示した解決案――それは『自動車』だった。

 百眼同盟による輸送部隊への妨害を回避する手段。
 条件は陸路であること。そして、移動時間の短縮による回避であること。

 レオン司令の要求仕様を満たすためには、陸上を高速で移動する乗り物を作るしかなかった。

 普通に考えれば無理難題。
 僕以外なら完全にお手上げだったかもしれない。

 だけど、僕は最初から答えを得ていた。

 学生時代に打ち込んだ趣味。
 馬が繋がれていない馬車を魔法で走らせる陸上競技。

 これを魔導器に落とし込んでやれば、馬車よりも遥かに速く荷物を運ぶことができるようになるはずだ。

 僕はそう考えて、実車での走行テストにたどり着けたのだが――

「呆れましたわ。まさかまた自動車に手を出すなんて。一体どれだけ好きだったんですの」
「他に手段がなかったんだよ。趣味を優先したとか、そういうのじゃないから。本当に」

 ルリがジトっととした目で僕を見ている。
 多分、学生時代に揉めまくったことを思い出しているんだろう。

 加熱するスピード比べが原因の事故。
 いつしか始まった賞金とギャンブル絡みの金銭トラブル。

 当時を知るルリにしてみれば、魔導アカデミー時代の厄介な思い出の一つに違いない。

 けれど、いや、だからこそ。
 僕は自動車(これ)なら百眼同盟の妨害に対抗できると確信していた。

「馬車が使える道なら問題なく走れて、なおかつ速度は馬車以上! 魔石が枯れるまでトップスピードを維持できる! これなら多少の妨害なんか振り切れるさ!」
「はぁ……リョウブ・レオン卿が構わないというなら、わたくしが口出しすることではありませんわね。ところで、一体どのような魔法で走らせているのですか? 風魔法で? それとも車輪を直接操って?」
「どっちも学生時代に試したけど、あまり魔力の効率が良くなかったんだよ。だから、この原理で走らせてる」

 僕は車内から筒状の魔導器を取り出してみせた。

 水筒くらいの大きさで、筒の中を上下に動く蓋がついた中空構造。

 要するに、いわゆるピストンという奴だ。

「蓋を筒の底まで押し込んでから、中に魔力を注ぎ込んで、小さな爆発を起こすと……!」

 ポンッ! と音が鳴って、蓋が筒の端まで押し上げられる。

「……それが何か?」
「こいつを使って車輪を回すんだよ。粉挽き小屋の水車の仕組みは知ってるだろ?」
「いえ、よく知りませんけど」

 しまった。ルリは貴族な上に根っからの魔導師だった。
 田舎の人間が使う魔法の代用品の仕組みなんて、知ってる方がおかしい。

 だけどまぁ、頭のいいルリのことだ。
 簡単に説明すればすぐに理解してくれるはずだろう。

「川の流れを水車で受け止めて、内部の歯車を回転させるっていうのは分かるよな。この回転をそのまま使って石臼を回すタイプと、歯車なんかを駆使して回転運動を縦の上下運動に変換、自動的に杵を動かすタイプがあるんだけど、今回使ったのは後者の仕組みだ」
「回転運動を上下運動に……ああ、なるほど」

 ルリはさっそく合点がいったようだった。

「その仕組みを逆に動かせば、上下や前後の動きを回転運動に変換できますわね。その筒の中で魔力を爆発させれば、蓋が上下に動く。この動きを歯車仕掛けに伝えて回転運動に変換すれば、車輪を回転させることができる……理屈は通っていますわ」
「風を操るよりも小規模な爆発を起こす方が簡単だからね。火球魔法はどこの流派でも基本中の基本だ。当然、魔導器で再現するのも楽だったよ。比較的に、だけど」

 レオン司令にお願いして、歯車仕掛けの機械に強い技術者を紹介してもらったのも、これが理由だ。

 僕も色々な魔導器を自作してきたけれど、機械技師としてはさすがにアマチュアの域を出ない。

 これほど複雑な仕組みを作るためには、専門家の助けが必要だった。

 自分だけで全部作ろう! なんてことは最初から考えちゃいない。

 コハク・リンクスという男の能力を、この世で最も信頼していないのは、他でもない僕自身なのだから。

「まぁ、いいでしょう。ユキカとレオン司令が納得なさったのでしたら、わたくしが口を挟む余地などありませんわ。ちなみに、乗り心地はどうなんですの?」
「拷問」
「真顔で即答しないでくださいまし」

 そんなこと言われたって。

 こいつに使われている動力技術は、およそ前例と呼べるものがない代物なのだ。

 まずはちゃんと輸送できるかどうかが最優先。
 今のところ、乗り心地は二の次にせざるを得ない。

 前々から構想や設計を考えていたとはいえ、半月やそこらでテスト走行ができただけでも運が良かった。

「速さも乗り心地も、基本的には馬車と同じだよ。生き物に頼ってる馬車と違って、全速力を長時間維持しやすいから、総合的には移動時間を短縮できるっていうだけさ。でもそんな速度で荒れた道を走ったらどうなるか、簡単に想像できるだろ?」
「説明されるまでもありませんわ。本当に大丈夫なんですの、それ」
「レオン司令は『軍用だから快適性は求めない』ってさ。常時全速力で走るわけじゃないんだし、危なそうなときだけ我慢すればいいって判断なんじゃないかな。試しに乗ってみる?」
「断固としてお断りします!」

 にべもなく断られてしまった。

 いやまぁ、僕もルリの立場なら断固拒否しているんだろうけど。

「でも、マクリア伯は興味津々みたいだぞ」
「えっ? あっ! 何をしているんですの、ユキカ! クレナイさんもお止めなさい!」

 僕とルリが話し込んでいる間に、マクリア伯は目を輝かせて馬なし馬車――自動車の運転席に乗り込んで、クレナイから動かし方のレクチャーを受けていた。

 私も運転してみたいだとか、絶対にお止めなさいだとか、押し問答が繰り返された末にマクリア伯の方が根負けして、露骨に渋々といった様子で車から降りてくる。

「まったく……ユキカの好奇心には参りますわ。コハクさんからも強く言ってやってくださいませ」
「無茶言うなよ。領主相手にどうしろって?」
「わたくしと同じように接すればいいでしょう」
「それはルリが特別だからだよ。他の貴族相手にできるわけないだろ」

 僕がルリ相手に気安く接することができるのは、本人がそうするように言っていたのと、魔導アカデミーの同期の間柄だからだ。

 マクリア伯はここの領主で、僕にとっては資金提供者にして後ろ盾。
 いくらなんでも力関係に差がありすぎる。

 ルリもそのことを思い出したのか、唇を尖らせてそっぽを向いてしまった。
 その後、僕は試作自動車のメンテナンスを済ませてから、サブノック要塞に引き返そうとした。

 クレナイが運転席に乗り込み、マクリア伯も自分の馬車に戻ったから、後は僕が後部座席に乗って出発を指示するだけ。

 ちょうどそのタイミングで、ルリが自動車に向かおうとする僕を呼び止めた。

「お待ちなさい。一つ、大事なことを思い出しましたわ。貴方に会ったら伝えようと思っていたことです」
「大事なこと?」
「以前、一ヶ月ほど休暇を取った、と申し上げたでしょう。本来なら、そろそろ王都に帰る頃合いなのですが、少々予定が変わりました。もうしばらく、この土地に滞在することになりそうです」

 言われてみれば、そんな話を聞いた気がする。

 つまり、僕がマクリア地方に派遣されて、かれこれ一ヶ月。

 前々から練っていた設計を実際に作っただけとはいえ、ボイラーや自動車の試作品まで形にすることができたのは、相当なハイペースだと言っていいんじゃないだろうか。

 もっとも、全部が手作業だったら、この数倍は掛かっていたに違いない。

 魔導器を作る過程では、僕が使える魔法をフル活用し続けている。

 例えば金属の素材を加工するときも、手作業で曲げたり繋げたりするのではなく、金属を操る魔法で良い感じに加工することで、作業時間を大幅に短縮している……といった具合に。

 しかしその辺りを差し引いても、自慢できる成果なのは変わらないはずだ。

「休暇の延長? よっぽど気に入ったんだね」
「仕事ですわ。先日、魔法省からの指示がありました。休暇が明け次第、マクリア地方で査察に当たれ、と」
「……ササツ? ササツって……査察、か?」

 聞こえてきた言葉が信じられなくて……いや、信じたくなくて、思わず間の抜けた聞き返し方をしてしまう。

「ええ、査察です。魔法省も貴方の活躍を無視できなくなったようですわね」
「う、嘘だろ!? もう目を付けられたってこと!? まだ一ヶ月しか経ってないのに!」
「残念ながら当然の結果です。たったの一ヶ月でこんな乗り物まで作っておいて、注目されないはずがないでしょう。ご自分が成し遂げたことを振り返りなさい」

 ルリの指摘が正論すぎて反論のしようもなかった。

 新しい環境。強力な後ろ盾。あまりに物事が上手く行き過ぎて、つい加減を忘れてしまったことは事実だ。

 けれど、さすがにここまで動きが早いのは想定外だった。

「ですがご安心を。さしもの魔法省も、地方伯クラスの上級貴族の邪魔をするのは簡単ではありません。今回の査察の対象も、あくまで『亜人との魔石の取引』である、という名目になっています」
「そ……それは確かに、査察して当然だよな……」
「ちなみに、査察をするのは魔法省だけではありません。軍事省からも査察官が送られる予定です。こちらの到着は、わたくしの査察の翌月になるそうですが」

 上級貴族が自分の領地で行動する分には、大体のことは自治権の範疇として容認される。

 王宮が強制的に介入できるのは、よほど目に余るほどの残虐行為か、王国に対する反逆行為やその準備くらいのものだ。

「なるほどね……亜人との取引が王国への反逆行為に当たるんじゃないか、って方向から攻めようって魂胆か。しかも軍事省まで巻き込んで。魔導器を作るな! っていうのは、マクリア伯が相手じゃ言いたくても言えないから……」

 トベラ大臣の苦々しい顔が目に浮かぶようだ。

 魔法省の上層部は僕に魔導器の研究をさせたくない。
 だけど、マクリア伯が研究させたいと言ったら邪魔はできない。

 苦肉の策として、もっともらしい屁理屈で足を引っ張れないかと考えたんだろう。

「ユキカは査察を最初から織り込み済みです。魔法省を納得させるだけの準備は整えてあります。わたくしは『問題なし』と報告するつもりですし、軍事省の役人は魔法に詳しくないでしょう。揚げ足を取るにも知識が必要ですわ」
「ええと、それはつまり……あんまり気にしなくてもいいってことか?」

 あっさり頷くルリ。

 疲労感というか徒労感がどっとこみ上げてきて、思わず肩を落としてしまう。

「何だ、それならそうと最初に言ってくれよ……無駄に疲れた……」
「大事な話であることに変わりはないでしょう。事前の情報共有は重要ですわ」

 いやまぁ、それはそうなんだけど。

 結局のところ、僕は今まで通りに過ごせばいいわけだ。

 マクリア伯は査察を予想していたらしいし、レオン司令だってちゃんと考えているに決まっている。

 二人からの要請を受けて魔導器を作っている限り、余計なことをしてしまう心配はないのだから。

「ただし! 勘違いなさらないでくださいませ! わたくしの判断は客観的かつ合理的に判断した結果です! それがたまたま、ユキカにとって好都合な報告になるだけですし、ましてや……」
「貴方のためではありません、だろ? 言われなくても分かってるよ。こういうときに私情を挟まないのは、ルリのいいところだからね」

 だからこそ、魔法省もルリを担当に選んだんだろう。

 さもなければ、要注意人物に目を光らせるための査察に、そいつの同期を送り込んだりはしないはずだ。

「……分かっているなら、結構ですわ。同期と友人が相手だから手を抜いた、などと誤解されてはたまりませんから」

 何故かルリは不機嫌そうなように見えた。

 褒めたつもりだったのに。一体何が不満だったんだろうか。

 それなりに長い付き合いだけど、ルリの考えていることは時々よく分からない。

◇ ◇ ◇

 ――王都、魔法省。

 魔導師コハクが査察について知ったちょうどその頃、トベラ大臣の執務室を一人の軍服姿の若者が訪ねていた。

「お呼びですか、大臣閣下」
「うむ。よく来てくれた、メギ・グラフカ近衛小隊長」

 その男は背筋をまっすぐ伸ばし、両手を背中側に回して組んだ体勢で、直立不動のまま大臣と対峙している。

「まず確認しておくが、マクリア地方伯領について、貴官はどの程度まで把握している?」
「王国領の最西端の貴族領。四大貴族ゼフィロス公の影響下にあるものの、魔獣および亜人の群生地と隣接していることから、昨今は荒廃の一途を辿っている。私が知る情報は以上です」
「よろしい。では、この資料に目を通してもらおう」

 メギは大臣から受け取った書類を一読し、怪訝に眉をひそめた。

 そこに記されていた内容は、魔法省の密偵によって調べられた、コハクとマクリア伯のこれまでの行動についての概要だった。

 魔導器。コボルト。百眼同盟。魔石の取引――第三者視点で調べうることは、おおよそすべて記されていると言っても過言ではない。

「……信じがたい情報です」
「忌々しいことに真実だ。あの男、異端の思想を捨てるどころか、現地の領主に取り入って研究を認めさせおった。まさか左遷が裏目に出るとはな」

 トベラ大臣は吐き捨てるようにそう言った。

「無論、我々も手をこまねいているばかりではない。その資料にもある通り、亜人と魔石を取引していることを口実に、魔法省と軍事省の共同査察をねじ込むことには成功した。これを足がかりに切り崩してやるまでよ」
「しかしながら、閣下。魔法省の査察担当がコハク・リンクスの同期というのは、人選に問題があるのでは。手心を加える可能性が高いでしょう」
「構わん。それも計算のうちだ」

 躊躇のない断言だった。

「魔法省の査察官は身内も同然。軍事省の人間は魔法に疎い。ここまで有利な状況が重なれば、奴らは間違いなく油断する。そこで貴官の出番だ。近衛兵団所属の軍人にして、公認資格を持つ正規魔導師。稀有な人材である貴官に、軍事省の査察担当として現地に赴いてもらいたい」

 ルリ・ディアマンティによる査察は囮。
 本命は一ヶ月の間をおいて行われる、軍事省側の査察。

 最初から手強い妨害だと分かっていれば、魔導師コハクもマクリア伯も相応の対策を練って迎え討とうとするだろう。

 不都合な事実の隠蔽を図ることも充分に考えられる。

 その裏をかき、簡単に乗り切れる妨害だと思い込ませた上で、魔法にも軍事にも精通した人物を送り込み、魔導器研究を潰すための口実を作り出す。

 これこそがトベラ大臣の講じた策であった。

「私は魔導師である以前に軍人です。魔法省からの指示で動くことはできません」
「心配は要らんよ。既に貴官の上司には話を通してある。じきに正式な辞令が出るだろう。今日こうして呼び出したのは事前説明のために過ぎん」
「……正式な命令であるのなら、拒む理由はありません」
「結構。期待しているよ。下がりなさい」

 メギ・グラフカは略式の敬礼をして、大臣の執務室を後にした。

 扉を閉め、声も姿も大臣に届かなくなったところで、初めて表情らしい表情を――蔑むような顔をする。

「暇さえあれば足の引っ張り合い……これだから魔法省はいけ好かない。軍を選んで正解だったな」

 魔導師の資格を持つ近衛兵。確かに稀有な人材だ。

 しかし裏を返せば、それは魔導師として魔法省の下で生きることを拒否し、畑違いの分野を選んだということでもあった。

「だが、正式な命令だというなら致し方ない。コハク・リンクスとやらの手腕、見せてもらうとしよう」
 一ヶ月後――当初の予定通り、軍事省の査察担当官メギ・グラフカは、魔導師コハクの魔導器研究を査察するため、王都の遥か西方に位置するマクリア地方伯領を訪れていた。

 荒涼とした平原の真ん中で軍事省の馬車を降り、周囲の荒廃具合に嘆息する。

「噂以上の辺境ぶりですな、グラフカ殿」

 馬車の御者も戸惑いを隠しきれていない。

「ご苦労。もう引き返してもいいぞ」
「へ、へい。それじゃあ、失礼します」

 メギは逃げるように走り去る馬車を見送りもせず、古びた東屋(ガゼボ)――壁のない日除け小屋のベンチに腰を降ろし、マクリア伯からの送迎を待った。

 しばらくして、今度は荒野の向こうから馬車の音が聞こえてくる。

 周囲に視界を遮るものは何もない。

 音がした方に目を向ければ、一台の馬車が近付いてくるのが見て取れた。

「……っ!? 何だ……あれは……!」

 メギは我が目を疑った。

 貴人の移動に使われる高級な箱馬車の車体が、馬に繋がれることなくひとりでに前進している。

 坂道ならまだしも、ここはただの平原だ。

 馬なしの馬車が勝手に走るなどありえない……魔法でも使っていない限りは。

 御者席には一組の男女の姿。
 片方は若い少女でもう片方は兵士の男。

 服装からして、少女の方が高い地位にあるようだ。

 車がメギの前で止まり、黒髪の少女が軽やかに地面に降り立つ。

「ロウバイ・ファーサ査察官殿ですね。私はサブノック要塞の騎士ホタル・レオンです。ようこそ、マクリアへ」
「いや、すまないが急遽予定に変更があった。私は王室近衛兵団のメギ・グラフカ。ロウバイ・ファーサに代わって査察官を務めさせてもらう。こちらが正式な辞令書だ」

 少女騎士は驚きに目を丸くしながら辞令書を受け取り、中身を検めた。

 事前連絡なしの変更ということもあって、少女騎士も何か言いたそうな顔をしていたが、最終的にはそれをぐっと飲み込んだ様子で言葉を続けた。

「交代の件、了承しました。改めてよろしくお願いします、メギ・グラフカ査察官殿」
「こちらこそ、よろしく頼む。ところで、この車は? 魔法で動かしているのか? それとも、まさか……」

 挨拶もそこそこに、メギは当然の疑問を投げかけた。

「そのまさかです。これは魔導師コハク・リンクス様が設計した自動車。魔法の才を持たない私にも扱える魔法の道具です」

 少女騎士の返答は、魔導器と開発者に対する誇りに満ち溢れていた。

 信じ難い。一体どうやって動かしているというのか。
 メギは詐術を見破ろうとする取締官のように、自動車という魔導器を凝視した。

(全体的な構造は既存の馬車の流用か。車体を新たに製造するのではなく、既に馬車として使われていたものを改造することで、短期間での開発を可能としたのだな。車体の前方に取り付けられた箱型の大型装置、これが動力と見た。具体的な原理は分からんが、この装置と前輪を連結することで車輪を回す仕組みか)

 考えれば考えるほどによく出来た機巧(からくり)だ。

 件の魔導師が追放されて二ヶ月。
 たったのそれだけの期間で、トベラ大臣が脅威を感じるほどの装置を作れるものかと思っていたが、現物を見れば納得だ。

 一から全てを構築しているのではなく、既存の道具に必要最小限の改造を加えるだけで、魔法の恩恵を組み込めるように設計されている。

(動力装置の搭載以外の改造箇所は……御者席に船の舵輪のような輪形ハンドルが。これは方向転換のための装置と見て間違いないだろう。足元のペダルで動力装置を制御するのか?)

 メギがあまりにも真剣に車体を眺めていたせいか、少女騎士は困ったような笑顔を作って、メギに乗車を促した。

「お乗りください、査察官。要塞ではもっと素晴らしいものが見られますよ」
「う、うむ。失礼した」

 気を取り直して客席に乗り込み、要塞への移動を開始する。

 乗り心地は馬車そのものだ。

 現状、動力以外の部分までは手を加えられていないと思われる。

 今度も研究開発が勧められたとしたら、一体どんな代物が生み出されることになるのだろうか。

 ふと車窓の外に視線を移すと、街道から少しばかり離れた場所に広がる畑が見えた。

 よく整えられた畑だ。収穫もきっと期待できるだろう。

 ここが辺境の土地だということを忘れそうになってしまう光景だった。

「あの畑は魔法使いが仕立てたのか?」
「いいえ、領民達が魔導器を使って仕上げたものです」
「そうか……末恐ろしいものだ」
「何かおっしゃいましたか?」
「独り言だ。気にしなくてもいい」

 やがて自動車はサブノック要塞にたどり着き、メギを乗せたまま城壁の内側へと入っていく。

 城壁内の広場には、何台もの自動車が所狭しと並べられていた。

 貴族のための華美な車体ではない。
 質実剛健な軍用馬車を改造したものだ。

 その多くは輸送用のようだが、中には金属の装甲を取り付けられているものまである。

 御者席まで装甲に包まれたその姿は、まるで大きな金属の貯槽(タンク)のようだ。

「……装甲も魔導師リンクスの指示なのか?」
「あれは要塞司令官の発案です」
「そうか、安心した」

 よもや自分と同じく、軍事にも精通した魔導師なのか――メギは一瞬そんな不安を抱いたが、さすがにそこまで万能というわけではなかったらしい。

 だが、その安堵感、あるいは油断も、要塞の建物の中に入るまでだった。

「お降りください、査察官殿。まずは要塞内部を案内いたします」

 メギは少女騎士の先導で要塞に踏み込み、そしてすぐに驚きと眩しさで目を細めた。

 要塞の廊下は眩い明かりに照らし上げられていた。

 窓がないにもかかわらず、まるで昼間のような明るさ。

 天井近くの壁面に点々と取り付けられた照明器具は、火を燃やすことなく光だけを放っている。

「魔力照明か。まさかとは思うが……」
「もちろんこれも、コハク師設計の魔導器です。原理としては、容器の中に組み込んだ魔石を発光させているだけの単純なもの……とのことです。とてもそうは思えませんけれど。ちなみにあちらのスイッチで、廊下全体の照明を操作できるようになっています」
「……簡単に言ってくれる」

 メギは口を歪めて呟いた。

(これほどの規模の建造物全体の照明を、魔法を使えない人間が指先一つで制御する……理屈は単純かもしれんが、これまで誰も思いつかなかった発想だ。都市の街灯を全てこれに置き換えることすらできるかもしれん)

 しかしこれも、メギを待ち受けていた驚きの数々の中では、まだまだ序の口に過ぎなかった。

 例えば、魔導ボイラーによる給湯システム。
 この要塞では大浴場に熱水を供給するだけの役割に留まっているが、理論上は配管を建物全体に巡らせることで、暖房器具の熱源として流用することも可能だという。

 例えば、物資運搬用のエレベーター。
 装置自体は前々から使われていたもので、人力と滑車を用いていたのだが、その動力源を魔導器に置き換えることで飛躍的な効率化が実現されている。

 例えば、厨房の魔導コンロ。
 王都などの大都市でも、薪ではなく魔力を火に変えて料理をするのは一般的である。
 だが、それらは魔法で火を起こす。つまみを回すだけ火が出るなど前代未聞だ。

 そして少女騎士は、メギを厨房の最奥の一室に招き入れた。

 扉を開いた瞬間、冬の屋外のような冷気が溢れ出る。

 薄暗い部屋。立ち並ぶ棚。それらに陳列された肉や魚。

「ここは要塞の食料貯蔵室です。王都にあってマクリアにないものは数え切れませんけど、一番不便なのはやはり『冷蔵庫』がないことでした。魔法の冷気で食料を腐らせずに保管する……今までは、たったそれだけのことすらできなかったんです」
「……これも魔導器か……」
「はい。この冷蔵室のお陰で、腐りかけの塩漬けを騙し騙し使う必要もなくなりました。現在、自動車に搭載して長距離輸送にも使えるように、小型化と省エネルギー化の研究中だそうです」

 メギは信じられないものを見たように首を振った。

 少女騎士が言った通り、冷蔵庫は王都にも存在している。

 だがそれは、魔法使いが容器に魔法を掛けて一定期間の低温状態を作り、効果が切れるたびにまた掛け直してもらう、というサイクルで成立しているものだ。

 王都を筆頭とする大都会の快適な暮らしは、魔法の恩恵によって成り立っている。

 魔導師や魔法使いの助けなくして享受はできず、都会以外では目にすることすら難しい特別な生活――それらと同等の代物が、魔導器によって作り上げられていた。

(こんな技術が普及してみろ。影響は民間人の生活に留まらんぞ。軍事にすら影響を与えかねん)

 人数の限られた魔法使いに頼ることなく、物資を運搬し、食料を保存し、野営地で兵士の腹を満たす――

 まさに革新。魔法使いの頭数というボトルネックが解消されることで、軍の活動の幅を飛躍的に広げられるようになる。

 それどころか、更に研究開発が進めば、これまでにない新たな装備が生み出されるかもしれない。

 だが、魔法省はその可能性の芽を摘もうとしている。

 このまま協力し続けるべきか否か。

 魔導師コハクが作り出した魔導器の数々を前に、メギは大きすぎる決断を迫られていた。
 査察当日。僕はサブノック要塞を離れ、アルゴス山脈のコボルトの洞窟に足を運んでいた。

 もっと正確に言えば、コボルトのガル族が管理する魔石鉱山だ。

 今回の査察、魔法省の本音は『魔導器の研究を妨害できる口実探し』なのだろうけど、表向きにはコボルトとの魔石取引の査察が目的となっている。

 だから当然の結果として、この鉱山も査察官の訪問先に含まれているのだ。

 この日、僕がわざわざ鉱山までやってきたのは、査察の受け入れに向けた諸々の準備を済ませるためである。

「いよいよですね、コハク様!」

 手伝いに気てくれたクレナイが、気合いを込めてぐっと拳を握る。

「軍事省のお役人さんを良い感じに誤魔化しちゃえば、当分は安心して魔導器の研究ができるんですよね! 頑張らないと!」
「人聞きが悪いなぁ」

 その隣で、コボルトのガルヴァイスもやる気満々に飛び跳ねている。

「オレタチもガンバります! マカせてください! ゴマカしましょう!」
「真似しない真似しない。ちゃんと納得してもらうだけだからね? この鉱山はどこに出しても恥ずかしくないってことをさ」

 小柄なトカゲ人間といった外見のガルヴァイスは、最初に出会ったときの裸同然の格好ではなく、人間の鉱夫が着るような厚手の服に身を包んでいた。

 服を着ているのはガルヴァイスだけではない。

 魔石鉱山で働く全てのコボルトが、人間的な服や装備を身につけていた。

 警備担当は兵士のように。採掘担当は鉱夫のように。

 爬虫類型の有鱗人であるコボルトは、外皮が頑丈な鱗に覆われているので、人間のように服で体を保護する必要性は低い。

 寒さに弱いとはされるけれど、この地域に根付いた亜人なので、よほどの厳冬でもなければ裸でも問題ないはずだ。

 そんなガル族が、あえて鎧以外の衣服を身につける理由――それは人間に味方するという意思の表れ、そして他の部族のコボルトと区別をつけやすくするためである。

 人間はコボルトの顔をほとんど見分けられない。

 裸のままだと、百眼同盟に味方する別部族のコボルトと間違えられてしまうかもしれないので、手軽な目印として服を着ているというわけだ。

 ただし服が煩わしいと感じるコボルトは少なくないらしく、採掘担当の半分くらいはズボンだけを履いた上半身裸で作業をしているのだが。

「コハクサマのイうとおりです! ドウメイにシハイされてたときとクラべたら、ホントウにユメみたいですよ!」

 ガル族の魔石鉱山には、試作品の魔導器が幾つも投入されている。

 坑道を照らす魔力照明はもちろん、魔石を運ぶトロッコやエレベーターも魔導式だ。

 一般的な鉱山でも、溢れた地下水を排出するための機械が使われているが、この鉱山ではそういった機械も魔導式で高効率。

 さすがに水属性魔法の専門家には及ばないものの、水車や人力だけで作業をするのとは比べ物にならない。

 まぁこの辺はあくまで、大昔から歯車仕掛けで作られていた装置の動力源を、魔導器に置き換えただけのもの。

 短期間での開発成功も原型あってこそ。

 いつかは完全なゼロから――魔法の模倣でも既存の機械の改良でもない、全くの新技術を作り上げてみたいものだけど、果たして三流魔導師の僕にどこまでやれるものか。

「王国の敵はあくまで百眼同盟。そしてガル族は同盟と敵対関係にある。この辺りをきちんと伝えてやれば、この取引が利敵行為じゃないと分かってもらえるはずだ。軍事省の役人は魔法には詳しくないはずだから、魔導器については深く追求されないだろうし……」

 そのとき、ルリが顔色を変えて坑道に駆け込んできた。

「やられました! まずいことになりましたわ!」
「うわっ! ど、どうしたんだ!?」

 ルリは久々の長期休暇も、魔法省の査察官としての仕事もとっくに終わり、王都に帰ってもいいはずなのだが、何故かマクリアに残って僕達の手伝いをしてくれていた。

 本人曰く、仲良くなったユキカのためだとのことだが……今はそんなことを思い返している場合じゃなさそうだ。

 このルリの慌てよう、明らかに想定外の自体が起きている。

「軍事省の査察官が変更されていました! ファーサ査察官ではなく、あのメギ・グラフカが来ています!」
「何だって!? くそっ! 僕達を油断させてから、ギリギリで本命を送り込む作戦だったってことか……!」
「今はホタル卿が時間を稼いでいるそうですが……」

 焦る僕とルリの横で、クレナイが訝しげに首を傾げる。

「担当者が変わっちゃうと、何か問題でもあるんですか?」
「大有りだよ! メギ・グラフカは魔導師の資格を持つ近衛兵! 魔法と軍事の両方に精通した専門家だ! そんな奴が魔法省の味方に付いたんだとしたら、いくらでも妨害の口実を仕立て上げられる……!」
「ええっ!? 大問題じゃないですか!」

 魔法省、更に言えばトベラ大臣の目的は、目障りな魔導器の研究をやめさせること。

 そのためには、上級貴族であるマクリア伯の方針に介入できるだけの、それらしい説得力のある口実が必要になってくる。

 査察に来るのがごく普通の軍事省の役人なら、そんな口実を与えずにやり過ごせたはずだった。

 しかし、メギ・グラフカが相手となると話は別だ。

 魔法と軍事、双方のエキスパートに本気を出されたら、こちらの僅かな隙を見つけて口実を引っ張り出されてしまうだろう。

「ど、どうしましょう!」
「ここで待っていても、一方的にやられるだけだ。クレナイ、ガルヴァイス。すぐに車を出してくれ。僕達も要塞に戻るぞ」
「はいっ!」
「リョウカイです!」

 何ができるのかは分からない。

 だけど、何もしないわけにはいかない。

 とにかく要塞に戻ろう。具体的な対策はそれからだ。

「わたくしも同行いたします。貴方だけでは手に余るでしょう」
「助かるよ。こっちからお願いしたかったくらいだ」

 上級魔導師のルリの助けがあれば、メギ・グラフカとも渡り合えるかもしれない。

 僕は吐き気がしそうなくらいの焦りを抱えながら、鉱山の外の自動車に向かって走り出した。

 運転席にはクレナイ、その隣にはガルヴァイス。

 屋根のない馬車を改造した自動車で、二人掛けの後部座席に僕とルリが飛び乗ったのと同時に、クレナイが魔導エンジンを始動させる。

「飛ばしますよ! しっかり掴まっててください!」

 宣言通りの全速力で自動車が走り出す。

 森林を大雑把に切り開いただけの路面は酷く不安定で、無数の起伏が絶え間ない揺れを引き起こす。

 下手に喋ろうとしたら舌を噛んでしまいそうだ。

 今この道を走っているのは、僕達を乗せた四人乗りの自動車だけ。

 他に車の姿はない。
 輸送部隊の運行スケジュールともタイミングが重なっていないので、移動中に余計な横槍が――百眼同盟の妨害が加えられる可能性は低いはずだ。

 そう踏んで強硬に打って出たのだが――ああ、くそっ!

「クレナイ! 上だ!」

 頭上に落ちる人型の影。

 道路を囲む鬱蒼とした木々の梢から、高速で疾走する自動車を目掛けて、一体の獣人が飛びかかってきたのだ。

 なんという跳躍。なんという度胸。なんという直感。

 タイミングが一瞬でも外れたら車に轢かれかねない強襲を、その獣人は寸分違わず成功させたのである。

「このっ……!」

 クレナイが急ハンドルを切って、頭上からの攻撃を回避する。

 しかし急激な方向転換の代償は重く、俺達を乗せた自動車は大きくバランスを崩し、起伏に乗り上げて横転してしまった。

風の盾よ(スクトゥム・アエリス)!」

 ルリの魔法が俺達四人を無傷で守り抜く。

 車は完全にひっくり返った状態で止まってしまい、すぐには逃げ出せそうになかったが、それもルリの魔法が解決してくれた。

戻れ(レスティテュエ)!」

 完全にひっくり返った自動車が、ゆっくりと再反転していって、下敷きになりかけていた僕達四人を解放する。

 だが、全ての元凶は今もそこにいた。

 大柄な獣人。狼にも似た犬頭。燃えるように赤い毛皮。獣貌の戦士。

 後頭部は(たてがみ)様の赤い獣毛に覆われ、ただでさえ規格外の体格を更に大きく見せている。

 手にした武器は大剣に似ているが、その刃は金属ではない。

 素材は骨、いや、牙か。

 巨大生物の遺骸の一部を刀剣状に加工したものだと、この距離からでも見て取れる。

「あわわわわ……」

 ガルヴァイスがうずくまって小刻みに震えている。

「メガス・キーオンだ……ヤツらのカシラがコロしにキた……メガス・キーオンのトウリョウが……イリオスが……!」
「何だって? (かしら)? 頭領? ええと、メガス・キーオンは組織名だから……つまり、あいつがその指導者……イリオス……」

 元に戻された自動車を盾に様子を窺う。

 獣人と自動車の距離は、人間の全速力で二秒か三秒程度。

 数は一体。他に合流してくる様子はない。

 恐らく、単独行動中に偶然僕達を発見したんだろう。

 森の中をたった一輌で疾走する謎の軍用車輌。
 誰が乗っているのか、何を運んでいるのかは分からなかったが、何かしらの任務を受けていると予想して破壊を試みた、といったところか。

 今すぐ車に乗り込んで逃げ出したいのは山々だけど、あの獣人の身体能力を考えると、迂闊に隙を見せるわけには――

「お待ちなさい! まだ動いてはいけません!」

 ルリが不意に大声を上げる。

 その視線の先では、クレナイが車体の陰から呆然と身を乗り出していた。

 まずい。あれだと車体が盾になっていない。

 腕を伸ばして引っ張り戻そうとした矢先、真紅の獣人が唸るような声を上げた。

「■■■■、■■■■、■■■■■■■■」

 クレナイが唇を引き結び、怒りとも嘆きともつかない感情に顔を歪める。

 獣貌の戦士の口が動く。威嚇とは違う。嘲ったのだろうか。

「言葉ヲ忘レタカ? ナラバ人間ノ鳴キ声デ伝エテヤル」

 口吻(マズル)状の口から放たれたのは、紛れもなく人間の言葉だった。

「フォティア。我ガ生涯唯一ニシテ最大ノ汚点。マサカ、コンナトコロデ再ビ相見(アイマミ)エルトハナ」

 獣人が人間の言葉を喋った事自体は、驚きはしたが不自然ではない。

 クレナイがそうであるように、アルゴス山脈の獣人の知性は人間と変わらない。

 僕が耳を疑ったのは、あの獣人が明らかにクレナイを知っていたからだ。

「哀レナ出来損ナイ。殺シテヤロウ。今度コソ」

 真紅の獣人……メガス・キーオンのイリオスが身を屈める。

 次の瞬間、数え切れないほどの魔力の刃がイリオスに降り注いだ。

 着弾、轟音、噴き上がる土煙。

「聞くに耐えませんわね。事情は分かりかねますが、どちらに(くみ)するべきかは論ずるまでもありません」

 ルリがクレナイの前に進み出る。

 その周囲には、金剛石(ダイヤモンド)のように煌めく結晶化した魔力の刃が、幾枚も宙に浮かんで静止していた。

命ず(ユベロー)

 右手を前に動かす仕草に合わせて、無数の刃の先端が一斉に土煙を指し示す。

金剛よ(アダマンテース)穿て(ペネトラーテ・)我が(イニミカム・)敵を(メウム)

 横薙ぎに降り注ぐ、結晶化した魔力の刃。

 切り裂かれ、吹き消される土煙。

 突き抜けていった魔力の刃が、遥か後方の森林までも刺し貫き、何十本もの木々を切り刻んで倒壊させていく。

 相変わらず冗談みたいな威力の魔法だ。

 ルリの手に掛かれば、巨大な豪邸も数分足らずでズタズタの木片に変えられてしまうだろう。

 これほどの魔法行使を、たった数単語の詠唱で実現してしまうのだから、一流は根本的にレベルが違うのだと思わざるを得ない。

 だが、土煙が晴れたその後には、無傷のイリオスが悠然と佇んでいた。

「……っ! 再攻撃(レペティテ)!」

 再び襲いかかる魔力の刃。

 ところが、イリオスが牙の大剣を片手で振るうと、直撃するはずだった刃が吸い込まれるように掻き消えてしまった。

 明らかに異常だ。悪い冗談としか思えない。
 結晶化した魔力が破壊されたのなら、消える前に砕けるはず。

 あれじゃあまるで、剣に喰われてしまったかのようだ。

「魔獣……いえ、神獣の牙! 逃げなさい! 早く!」

 ルリが形振り構わず叫ぶ。

 動かないクレナイ。
 腰を抜かしながらも逃げようとするガルヴァイス。

 僕は車体の陰にしゃがみ込み、自動車の動力部の辺りに側面から手を触れた。

「遅イ!」

 イリオスが目にも止まらぬ速さで肉薄する。

 咄嗟に結晶化魔力の障壁を展開するルリだったが、牙の大剣は障壁を一切の抵抗なく突き抜けて、術者であるルリを刺し貫かんとした。

「危ないっ!」

 その窮地を救ったのはクレナイだった。

 常人離れした瞬発力でルリに飛びかかったかと思うと、その勢いのまま自分の体ごとイリオスの間合いの外に飛び出してしまう。

 大剣が、ルリの背後にあった車体を貫通する。

 車体の反対側に隠れた僕の目と鼻の先を、牙の切っ先が掠め過ぎる。

 イリオスは刃を引き抜くことなく、刀身に剛力を込めて、そのまま車体を両断した。

「コレデ逃ゲラレマイ……ムッ?」

 ここに来てようやく、イリオスは車体の陰に隠れた僕の存在に気がついた。

 ああ、残念ながら手遅れだ。

 もっと早く――僕に気がつくべきだった。

「遅い!」

 動力部に触れさせた片手に渾身の魔力を込める。

 それが最後の一押しとなって、動力部に搭載された全ての魔石が励起。

 自動車を中心に大爆発を引き起こした。

「ガアアアアッ!」
「ぐううっ……!」

 至近距離から爆発の直撃を受けるイリオス。

 僕もその余波を受けて吹き飛ばされ、何度も地面を転がってようやく停止する。

 ああ、くそっ、全身が痛みでバラバラになりそうだ。

 ルリが戦っている間、僕は車体に身を隠しながらこっそりと詠唱を続け、動力源の魔石で爆発魔法を発動できるように準備をしていた。

 僕みたいな三流の魔導師でも、あれだけの魔石と詠唱時間があれば、一撃だけなら一流に迫ることができるのだ。

 あくまで万が一の切り札。できれば使いたくない悪あがき。
 魔導機関の構造を把握している僕だからこその、最後の抵抗。

 そんなつもりで進めていた準備だったが、まさかこんな自爆同然の形で使うことになるなんて。

 爆発には指向性を持たせていたし、全力の防御魔法も同時に展開していたにもかかわらず、食らってみればこの有り様だ。

 やっぱり慣れないことはするものじゃない。

 心の底からそう思いながら、気力を振り絞って上半身を起こそうとする。

 ここまでやったんだ。いくらなんでもこれで終わり――

「……おいおい、嘘だろ……」

 イリオスは爆風で吹き飛ばされながらも、牙の大剣を盾にして、倒れることなく踏みとどまっていた。

 まさかあの魔力喰いの大剣が、魔導器の魔石を使った爆発魔法まで吸い取ってしまったのか。

 しかしさすがに無傷というわけにはいかなかったらしく、全身に軽い熱傷と切創を受けている。

 恐らく、刀身の大きさの都合で、全身はカバーしきれなかったのだろう。

 あの無法な牙剣も万能ではなかった……と分かったところで、僕にはもう打つ手がない。

「……そうだ! 皆は……?」

 イリオスを警戒しながら、急いで周囲を見渡す。

 ガルヴァイスは一足先に逃げていたので、無傷で距離を取っている。

 ルリはもう立ち上がって呪文を詠唱し、様々な属性の魔法を立て続けに繰り出していたが、全てイリオスに切り払われて足止めにしかなっていない。

 そしてクレナイは、ルリの側を離れて走りながら、離れた場所にいるガルヴァイスに向けて叫んでいた。

「あった! ヴァイス君! 私の鞄、取って! 思いっきりぶん投げて!」
「え? あ、はい! これか!」

 ガルヴァイスは火に包まれた車の残骸に腕を突っ込み、運転席だった辺りからクレナイの鞄を引っ張り出した。

 人間なら大火傷間違いなしの行動だ。
 しかし、鱗に覆われたガルヴァイスの体なら耐えられる。

「ナげます! そりゃあっ!」

 火が燃え移った鞄が宙を舞う。

 クレナイは地面に落ちた鞄に駆け寄って、その中から筒状の魔導器を取り出した。

「……よし、燃えてない! まだ使える!」

 それは僕が以前クレナイに渡した、威嚇用の魔導器だった。

 中空の筒の奥で爆発を起こし、筒を向けた方向に爆風と大きな音を打ち出すだけの、些細な道具。

 駄目だ。そんなものがあいつに通じるわけがない。

 野生動物を驚かして追い払うだけで精一杯。
 それ以上の性能は最初から考えていないのだ。

 やめるんだ、と大声で静止したかったが、喉が詰まって掠れた声しか出なかった。

 ところが、クレナイが取った行動は予想もできないものだった。

 筒の開口部を塞いでいた布――異物が入らないようにするための蓋を取り外し、爆発した自動車の細かな破片を筒の奥にねじ込んだのだ。

 そして思いっきり息を吸い、獣人の言語で吼えるように叫ぶ。

「■■! ■■■■ッ! ■■■■■■■■■!」

 言葉の意味は分からないが、それに込められた感情は、クレナイの鬼気迫る横顔を見ただけで理解できた。

 怒り。憎しみ。全身全霊の決意。

 その矛先を向けられたイリオスが、憤怒に牙を剥いて咆哮する。

「フォティアァ!」

 もはやイリオスは僕もルリも眼中になく、殺意を剥き出しにクレナイ目掛けて突進した。

「……っ! クレナイ!」
「いけません、クレナイさん!」

 振り上げられる牙の大剣。

 クレナイは筒状の魔導器をイリオスの顔めがけて振り向け、クロスボウから流用された引き金を引いた。

 響き渡る炸裂音。噴出する爆風。そして、鋭く尖った無数の破片。

 筒にねじ込まれた破片が瞬間的に加速され、一つ一つが鋭利な(つぶて)と化してイリオスの顔面に突き刺さり――片方の眼球を引き裂いた。

「ガアアアアッ!?」

 激痛に悶えるイリオス。

 まさかの反撃。そう言うしかない。まさかあの魔導器に、こんな使い方があったなんて。

 理屈としては僕が自動車を爆破したのと同じだ。

 牙の大剣は刀身で受け止めた魔法は吸収でき、飛び散った破片も物理的な強度で防ぎ止められるが、防御できなかった破片はどうしようもない。

 筒状の魔導器の内部で一方向に収束させられた爆風は、破片に獣人の毛皮を貫くだけの速度を与えるには充分すぎたのだ。

「やった――えっ?」

 だが、巨漢の獣人を仕留めるには至らない。

 クレナイが喜びに動きを止めた瞬間、イリオスは太い腕でクレナイの胸ぐらを引っ掴み、そのまま力任せに投げ飛ばした。
 人体がまるで投石のように、高く、遠く、宙を舞う。

 頭から落ちれば首を折って死にかねない――頭では分かっていても、一瞬のことに反応が追いつかない。

 走ったって間に合わない。

 呪文を。魔法を。ああ、駄目だ。

「クレナイ!」

 追突直前のクレナイと地面の間に、細見のシルエットが滑り込む。

 落下の衝撃を受け止めるクッションとなったその人物は、ここにいるはずのない、ホタルだった。

 ありえない。ホタルはサブノック要塞にいるはずだ。

 唐突な展開に驚く僕を他所に、何台もの軍用車輌が次々に現れては急停止し、僕達を守るような陣形を構築する。

「弩弓部隊、射撃用意! 射て!」

 隊長の号令一下、車輌から降りた兵士達が一斉にクロスボウを発射する。

 しかもあのクロスボウは普通じゃない。

 本来、クロスボウは一発発射するごとに、ハンドル式の巻き上げ機で弦を引いてから、次の矢弾を(つが)えなければならない。

 高威力の代償として、弦があまりにも固くなり、素手では矢弾を装填することができないのだ。

 再装填に掛かる時間こそ、クロスボウ最大の弱点。

 だが、これは違う。
 レオン司令のリクエストで開発した魔導式自動巻き上げ機を搭載し、高速の再装填と連射を可能とした改良型なのだ。

 絶え間なく射出される矢弾が、次から次にイリオスの肉体に突き刺さる。

「オノレ……人間風情ガ、薄血(ハクケツ)風情ガ、コノ俺ヲオオオオオッ!」

 イリオスは全身からおびただしい量の血を噴き出しながら、怪物じみた跳躍力で森の中へと逃げ去っていった。

「射ち方、止め! 周辺の警戒に移れ!」

 僕が唖然としている間に戦いは終わっていた。

 何故? どうして? どんどん疑問が浮かんできて、しかも全く答えが見えない。

「コハクさん、これは一体……」

 ルリが疲れた体を引きずって近付いてくる。

 ガルヴァイスも突然現れた兵士達に驚き戸惑い、結局見知った人間の近くが安全だと思ったのか、大慌てで僕の傍に駆け寄ってきた。

「僕が聞きたいくらいだよ。どうして要塞の兵士がこんなところに……」
「あんな爆発があったんです。何かあったと思わない方がおかしいでしょう」

 そう答えたのは、他ならぬホタル自身だった。

「すぐに動ける人員で急行してみれば、この有り様です。何があったのか聞きたいのは私の方ですよ。まさかコハク殿が襲われていたとは、さすがに想像もしていませんでした」

 ああ、なるほど、そういうことか。
 僕が自動車を爆破したことで、要塞にも異常事態が伝わったのだ。

 怪我の功名というか何というか。良くも悪くも、偶然に振り回される戦いだった。

「ディアマンディ様。クレナイに治癒魔法を。あの高さからの落下です、内臓を痛めているかもしれません」
「治療が必要なのは貴女もでしょう!? ほら、動かないで!

 ホタルは砂と土で汚れた服のまま、ぐったりとしたクレナイに肩を貸して、フラフラした足取りで歩いていた。

 人間一人の落下を体で受け止めた側と、受け止められたとはいえあの高さから落ちた側。

 どちらも見た目以上のダメージが入っていてもおかしくない。

「ルリ。悪いけど、ここは任せていいか? 僕はさっきの奴の跡を……」
「お待ちなさい! 治療が必要なのは貴方もです!」
「僕も?」
「貴方も、ですっ! 顔中血塗れですわ! 鏡があったら見せつけて差し上げたいくらいに!」

 あ、本当だ。道理で前が見にくいと思ったら。

 どうやら車を爆発させたときに、破片で額を深く切っていたらしい。

 額は切れやすくて派手に出血しやすいと聞くけれど、こんなにたくさん血が出ているのは、さすがに軽い傷ではなさそうだ。

 三人まとめてルリの治癒魔法を受けながら、僕は隣にへたり込んでいるクレナイに話しかけた。

「大丈夫か、クレナイ」
「えへへ……途中までは、上手くいったと思ったんですけど……すみません、結局こうなっちゃって……」
「お陰で助かったよ。それより、あの獣人は……」
「はい、私の父親みたいです」

 クレナイは困ったように笑った。

 やっぱりそうだったのか。

 ということは、イリオスが口にしていた『フォティア』というのは、ひょっとしたらクレナイが獣人の里にいた頃の名前だったのかもしれない。

 それを本人に問い質すのは、何となく(はばか)られた。

「十歳くらいで森に捨てられるまで、親らしいことなんか全くされませんでしたけどね。でもまぁ、汚点とか言って毛嫌いするくらいですし、親なのは本当だと思いますよ」

 あまりにあっけらかんとした態度に、思わず困惑してしまう。

 本人は気にしていない……ということはないだろう。

 そうでなければ、あんなに怒りを露わにして立ち向かったりはしないはずだ。

「あ、ちなみに。十歳まで育てられたのはですね。それくらいまでなら、後天的に毛皮が生えて半獣になる可能性があるから、とか何とかで。半獣ならギリギリ手元に置いてやってもいい、みたいな価値観らしいですよ。毛が生えたってそんなのお断りですけどね!」

 クレナイは子供みたいにケラケラと笑い、それから大きく息を吸い込んで、吐息と共に静かな声色で言葉を続けた。

「……ありがとうございます、コハク様」
「それは何に対してのお礼なのかな。心当たりがないんだけど」
「色々です。私……ずっと前から、もしもアイツとまた出くわしたら、思いっきりぶっ飛ばしてやろうって思ってたんです。でも、見ての通りすっごく強かったでしょ? だから無理だと諦めてたんですけど……」
「魔導器のお陰で実現できたって?」

 悪いけどそいつは買い被りだ。

「あんな使い方は想定してなかったよ。だから、あれは君自身の頑張りだ。おめでとう、でいいのかな」
「だとしても、お礼を言いたいんです」

 真っ直ぐな笑顔でそう言われてしまい、気恥ずかしさに思わず視線を逸らす。

「コハク様が来てくれたから、私も、村の皆にも……希望が……すぅ……」

 クレナイは軍用車輌の車体に寄りかかったまま、すやすやと寝息を立て始めた。

 慌てるホタルに、クレナイが眠ってしまったのも仕方ないことだと説明する。

「疲れて眠くなったんだよ。魔導アカデミーで教わる治癒魔法は、治される側も体力を使うタイプだからね」

 治癒魔法や回復魔法とひとまとめにされがちだが、そのやり方は流派によって様々だ。

 自然治癒力を活発化させるもの。
 実体化した魔力で傷口を埋め、自然に治るまでの鎮痛に徹するもの。
 中には、人体の組織を擬似的に生成して、その場で元通りにしてしまう離れ業を使える人もいるらしい。

 魔導アカデミーが教えている治癒魔法は、自然治癒力を利用したスタンダードなものである。

 習得が比較的簡単で――治癒魔法にしては、だが――大袈裟な準備をしなくても使える一方で、治療対象も体力を消耗しながら自然治癒力を働かせることになるため、衰弱しきった相手には逆効果になってしまう欠点がある。

 多用しすぎると寿命が短くなるという説もあり、この手の魔法を忌避する人も少なくはないけど、実際のところはよく分からないし、今考えるようなことでもないだろう。

「言われてみれば私も眠く……って、いえ! その前に、コハク殿! お伝えすることがあります!」
「お伝えすること?」
「査察官殿が、コハク殿と直接お話したいと仰っています」

 思考が一瞬フリーズする。

 しまった、すっかり忘れていた。
 魔石鉱山を飛び出して要塞に急いでいたのは、急遽交代したという新しい査察官に対応するためだった。

「……ああー……」
「そうでしたわ……結局、対策は何も練られていませんが……」
「私達が現場に急行できたのも、そのために車の準備をしていたタイミングだったからです。ほら、ちょうとあちらに」

 ホタルが視線を動かして、兵士に指揮を飛ばす隊長の方を見やる。

 前に要塞で見かけたことがある隊長の隣に、全く見覚えのない男が一人。

 堅物と厳格を絵に描いたようなその男は、ホタルの視線に気がつくと、隊長とのやり取りを打ち切ってこちらに歩み寄ってきた。

「お初にお目にかかる。私は王室近衛兵団第一小隊隊長のメギ・グラフカだ。貴君が魔導師コハク・リンクス殿で相違ないな」
 マズいマズいマズい。ヤバいヤバいヤバい。

 焦りが際限なく腹の底から湧いてくる。

 魔法使いにして軍人。魔導と軍事のエキスパート。

 その豊富な知識と経験を悪用すれば、魔導器の研究を邪魔する口実くらい簡単に捻り出してしまうだろう。

 どんな方向性から攻めてくるつもりだ? 一体どうすれば凌ぎ切れる?

 ここにマクリア伯がいれば、領主権限であれこれとやり返すことができたかもしれないが、いくら何でも無理な相談というものだ。

 さっきの獣人(イリオス)みたいに命を狙ってくる敵だったら、手段を選ばずに抵抗すれば凌げたかもしれない。

 けれど、この手の敵に強硬手段は逆効果。

 査察を暴力で拒んだということで、却って立場を危うくしてしまう。

 つまり言葉だけでやり合うしかないわけだが、三流魔導師の僕でどれだけ抗えるものか。

 ルリも口惜しそうに唇を結んでいる。

 友達であるマクリア伯の力になれないことを悔しがっているんだろう。

 今回ばかりは、ルリの助けは期待できない。

 あいつも魔法省側の査察官という立場、つまり表向きにはトベラ大臣の使者という扱いだったから、下手にこちらの肩を持てば逆に付け入る隙を与えかねないのだ。

「……魔導師コハク。まずひとつ聞きたい。何故、魔導器なるものを研究し始めたのだ。魔導師としては異端の研究だと分かっていただろう」

 冷徹な声が問いかけてくる。

 一瞬、どう答えれば安全だろうかと思考して、すぐに止めた。

 考えるだけ無駄に決まっている。
 取り繕えば取り繕うだけ、辻褄合わせが苦しくなるだけだ。

 だから、心からの本音を返す。

「最初は……自分自身のためでした。僕はアカデミーを卒業できたのが奇跡みたいな三流魔導師です。実力も何も足りていない。だから、少しでも足りない分を補うために、道具を改良し続けて……その末に、簡単な魔法であれば道具だけで行使できると気付きました」

 軍用車輌にもたれかかって座り込んだまま、顔を上げて長身のメギ・グラフカの顔をまっすぐ見据え返す。

 決して目は逸らさない。恥じるようなことは何一つないのだから。

「現状、この国は魔導師が……魔法使いが全く足りていない。だけど、この技術を使えば足りない分を補える。そう思って大臣に論文を提出したんですが、結果は御覧の通りです」
「……魔導への侮辱であると糾弾され、辺境に左遷された」
「まぁこの時点では、魔法省にアイディアを採用してもらうつもりであって、自分が研究開発をするなんて思いもしていませんでしたけどね」

 万が一にも採用されていたら、間違いなく大規模なプロジェクトになる。

 僕みたいな三流が主導することはなく、上級魔導師か特級魔導師の誰かが舵を取るだろう……なんてことを考えていたのも、今となっては懐かしい。

「マクリアに着いたときは本当に驚きました。何もかもボロボロで何もかも足りていない。僕一人だけが馬車馬のように働いても到底間に合いそうにないし、そんなことをしたら過労で死んでしまうなって思うくらいに。だから魔導器の試作品を使いました。僕が楽をするために」

 聞こえのいい言葉なんか使わない。

 なんて自分勝手な奴だ、と思われたって知るものか。

 魔法も『楽をしたい』という願望を叶えるために頼られるのだ。

 違いがあるとすれば、頼る相手が魔法使いか意志のない道具なのかというだけで。

「だけど、僕が思っていた以上に、マクリアの人達は喜んでくれました。足りなかったものが満たされた、見捨てられたと思っていたけど救われた……そんな風に思ってもらえることが嬉しくって、もっと皆の為になるものを作りたくなった。理由はこれだけです。納得してもらえましたか?」

 ああ、すっきりした気分だ。

 何もかも包み隠さずにぶちまけてやった。

「査察官殿。僭越ながら、私からも口添えをお許しください」

 僕の隣で治癒魔法を受けていたホタルも声を上げる。

「魔導器のお陰で、マクリア地方の情勢は飛躍的に改善しました。サブノック要塞の戦力は高まり、戦力供出で疲弊していた村落も回復しつつあります。全てはコハク殿の研究の賜物。どうかご一考を」

 ルリも治癒魔法を発動しながら、しきりに頷いている。

 メギ・グラフカは気難しそうに押し黙ったまま、しばらく考え込むような素振りを見せて、それからゆっくりと口を開いた。

「……先程、サブノック要塞を視察させてもらった。加えて、偶然の産物ではあったが、魔導器を用いた作戦行動も観察することができた。貴君への聞き取りも含め、判断を下すには充分な知見を得たと言えるだろう」

 つまり、この男の中では、とっくに結論が出ているということだ。

「結論から言おう。私は魔導器の研究開発を『有用である』と判断する」

 その一言に、迷いはなかった。

「魔法を用いることなく火を起こし、熱を生み、冷気を作り出し、明かりを灯す。畑を拓き、人を運び、物を送る。どれも人々が必要としているもの、心から望まれているものばかりだ。それを切り捨てるなど、できるわけがあるまい」

 予想もしなかった宣告に頭が追いつかない。

 都合の良い幻でも見ているんじゃないだろうか。

「軍事省と近衛兵団も、魔法省の方針には頭を悩ませている。魔法の使い手の不足に悩まされているのは、何も民衆だけではないのだ。魔導師の派遣の可否を交渉材料にされることも、決して珍しいことではないのでな」
「……いいんですか? トベラ大臣に歯向かうことになるんじゃ……」
「私は軍事省の人間であり、陛下をお守りする近衛兵だ。協力はしても服従はしない。我々自身の利益を損なうようなら、協力の対象外だ。軍事省(こちら)の大臣と兵団長もそう仰っている」

 メギ・グラフカの発言は一言一言が力強く、強固な意志が込められているようだった。

「魔導器は近衛兵団のためにもなる技術だ。これを握り潰すということは、近衛兵団の利益を損なうということ。ひいては国王陛下に背く行いに他ならない。我々は精強であらねばならんのだ! 陛下の御為にも! ……という理由で、御納得頂けたかな?」

 ここに来て初めて、メギ・グラフカの口元に微笑が浮かぶ。

 厳格さがほんの少しだけ緩み、その隙間からメギ・グラフカという人物の人間味が覗いたような気がした。

「正直なところ、トベラ大臣のやり口は前々から気に入らなかったのだ。判断に私情を挟んだつもりはないが、個人的には溜飲が下がった思いだよ」

 メギ・グラフカは軽く手を振って踵を返し、一番遠くに停められた軍用車の方へ歩き去っていった。

 まだ頭がついてこない。何が起きたのか飲み込みきれていない。

 研究を認められた……そう受け止めてもいいのか?

 ようやく喜びの実感が湧き上がってきたかと思ったところで、左右からルリとホタルが肩を掴んで思いっきり揺すってきた。

「やりましたわ! これで貴方……もユキカも安泰ですわね!」
「コハク殿! おめでとうございます! 一時はどうなることかと……!」
「ちょ、なんで君らの方が喜んでるんだよ」

 呆れながらも、唇が緩んでしまうのが止められない。

 緊張の糸がぷっつりと切れてしまって、しばらくは立ち上がることすらできそうになかった。

◇ ◇ ◇

 ――深夜。王都、魔法省庁舎、大応接室。

 コハク・リンクスとメギ・グラフカの邂逅から数日後、魔法省大臣のトベラ特級魔導師は、豪奢な内装の応接室で別の老人と対面していた。

「失礼。もう一度、お聞きしてもよろしいかな?」

 トベラ大臣の発言は、露骨に苛立ちを噛み殺したような響きを帯びていた。

「軍事省は魔導器の研究開発を全面的に支持する、と申し上げた。大臣としての権限で、この私が下した決定だ」

 面談の相手――軍事省の大臣は平然とそう答えた。

 怯む様子もなければ臆する気配もない。

 自然体のままの堂々とした応対であった。

「……ご協力頂けると伺っていましたが?」
「お恥ずかしながら、魔導器の有用性を見誤っておりましてな。いやはや、なにせ魔法には疎いもので。部下からの報告がなければ、せっかくの新技術を危うく見逃してしまうところでした」

 トベラ大臣から無言で睨みつけられながらも、軍事省の大臣は平然とした態度のまま席を立った。

「では、これにて失礼。マクリア地方伯に送る書状の準備がありますので」

 軍事省の大臣が立ち去り、応接室に沈黙が訪れる。

 トベラ大臣は怒りに身を震わせ、魔力の籠もった拳を応接室のテーブルに叩きつけた。

 真っ二つに砕け割れる応接テーブル。

 それでもなおトベラ大臣の怒りは収まらず、無言のまま歯を食いしばり、握り締めた拳を膝の上で震わせ続けていた。
 メギ・グラフカの査察からしばらく経ったある日のこと。

 僕はクレナイが運転する自動車に揺られて、久し振りにペトラ村を訪ねることになった。

 車を降りて早々、変わり果てた村の風景に言葉を失ってしまう。

「凄いな! もうこんなに復興できたのか」
「皆で頑張りましたから! もちろん、コハク様の魔導器のお陰です!」

 ペトラ村はまるで別物のような復興を遂げていた。

 周囲の道路は綺麗に均され、畑は見事に蘇り、廃屋同然だった家々も着々と再建が続いている。

 この様子なら、運河の船着き場と水車小屋も立派に直されているに違いない。

 廃村としか思えなかったこの村が、たった数ヶ月でこんなに立派な姿を取り戻すなんて。

 感慨深さに浸っていると、奥の建物から村長が大慌てで駆け寄ってきた。

 トラブルが起こって慌てている……わけではさそうだ。

 むしろ喜色満面。これ以上ないくらいに喜びを露わにしている。

「これはこれはっ! お久しぶりです、魔導師様! ご活躍の程はクレナイから常々伺っております!」
「復興の順調なようで何よりです。まさかここまで好調だとは思いませんでした」
「魔導師様のお力添があってこその成果です。あの便利な乗り物を贈ってくださったお陰で、あらゆる作業が順調に進みました」

 村長が言っている『便利な乗り物』というのは、サブノック要塞製の輸送用自動車だ。

 荷台を広く取った縦長の車体。長距離を走れる大容量の魔石ストレージ。

 きっと建物の再建に使った資材も、あの車で他所から運んできたものだろう。

「ところで、クレナイはよく働いておりますか。以前からお手伝いをさせていただいておりましたが、このたび正式に助手としてお迎えいただけるとのこと。村民一同、ご迷惑をお掛けしないか不安で不安で……」
「ちょ……ちょっと! 大丈夫だって言ってるでしょ!」
「ええ、クレナイには何度も助けられていますよ。彼女がいなかったら、僕も今頃どうなっていたことか。だからこそ助手になってくれと頼んだんです。お陰で新しい護身用魔導器も開発できましたしね」

 僕が正直にそう伝える横で、クレナイは自慢気に胸を張っていた。

 さっきから年相応の反応ばかりで、なんだか微笑ましくなってきてしまう。

 こんなことを本人に言ったら、きっと『子供扱いしないでください』と唇を尖らせてしまうのだろう。

◇ ◇ ◇

 コハクがペトラ村を訪ねているちょうどその頃、領都リーリオンのアラヴァストス家邸宅で、領主のユキカは待ち望んだ客を迎え入れていた。

「お帰りなさい、ルリ。思っていたよりも早かったですね」
「そこはいらっしゃいませ、でしょう。わたくしを何だと思っているんですの?」

 来客こと、ルリは呆れた様子でユキカの反対側のソファーに腰を下ろした。

 獣人襲撃事件の後、ルリは査察官の仕事を完遂したということで、ひとまず王都に帰還していた。

 王都で何かしら動きがあったら報告する――そうユキカに伝えた上での帰還だったが、これほど早く戻ってくることになるとは、ルリもユキカも想像すらしていなかった。

「とりあえず、現状を報告いたしますわ。ひとまず魔法省は、矛を収めて経過観察に徹する構えのようです。もちろん魔導器を容認したわけではありません。上級貴族に介入できる大義名分を得られず、あまつさえ軍事省まで寝返ったわけですから、戦略を練り直す必要に迫られたのでしょうね」

 ルリは一連の報告を一気に済ませてから、あらかじめ用意されていた紅茶で喉を潤した。

「それで、ルリの扱いはどうなったんですか? 需要なのはそこですよ」
「……わたくしは監督官として、マクリア地方に駐在することになりました」
「やった!」

 ソファーの上でぴょんと跳ねるユキカ。

「でも、意外ですね。ルリが私達と懇意なのは分かりきっているでしょうに。どうして監督官を任せてくださったのでしょう」
「トベラ大臣お得意の策略ですわ。監視役はわたくしだけではありません。様々な角度から情報を収集し、万が一わたくしが貴女達の肩を持つようなら、わたくしごと糾弾して失脚させるつもりでしょう」
「なるほど。だったら心配する必要はありませんね。ルリは本当に真面目な人ですもの」
「またそんなことを言って。計算ずくでわたくしを送り出したのでしょう? この結果も狙い通りなのでは?」
「ふふっ。さて、どうかしら」

 ユキカは無邪気に微笑んで、ルリからの追求を軽やかにかわした。

 この可憐な少女の判断のうち、一体どこまでが計算のうちで、一体どこからがアドリブ的な対応だったのか、ルリはずっと測りかねている。

 少なくとも、コハクが派遣されたことは偶然の幸運だったようだが、以降の展開を全て読み切っていたとしても、あるいは全て運任せの勝負師だったとしても、ごく自然に納得できてしまう――そんな気がしてならなかった。

 だが、一つだけ確かなことがある。

「それはそうと! 本当に良かったですね、ルリ! コハク様とまた一緒に過ごせますよ!」
「ぶはっ!?」

 思わず紅茶を吹き出しそうになる。

「ななな……! 何をおっしゃっているんです! どうしてここでコハクさんが出てくるんですの!」
「だってルリったら、いつもコハク様を気にかけているでしょう? 端から見ているだけで丸分かりですよ」
「同期だからです! 厳しいアカデミー生活を乗り越えた者同士だけの関係というものがですね! ちょっと、聞いていますの!? 目を輝かせるのはお止めなさい!」

 ユキカ・アラヴァストスという少女は、他人の浮いた話が大好きだ。

 そこだけは、貴族という家柄も領主の地位も関係なく、ただの年相応の少女として。

◇ ◇ ◇

 ペトラ村を後にした僕は、続いてサブノック要塞の方へと車を走らせた。

 普段は要塞の兵士と、補給品を運んでくる領民くらいしか寄り付かないはずの、辺境中の辺境に位置する無骨な軍事要塞。

 ところが、どういうわけかその正門の前に、普段見ないような雰囲気の人々が長蛇の列を成していた。

 商人、職人、錬金術師。当然ながら魔法使いらしき人もいる。

 何なんだろうと首を傾げながら、正門以外の出入り口を通って要塞に入る。

 車を降りると、すぐにホタルが出迎えに来てくれた。

「おはようございます、コハク殿」
「正門前に凄い行列ができてたけど、何かあった?」
「何かも何も! あれはコハク殿にお会いしたいと集まっている人々です!」
「……はい?」

 突拍子もないことを言われた気がして、気の抜けた返事をしてしまう。

「魔導器の噂は既に他の地域にも広まっています。その上、魔法省と軍事省の共同査察までクリアしたとあって、是非とも協力したいという雇用希望者が殺到しているんです。お陰様で朝から大わらわですよ」
「な、なんだか大変なことになってるな」
「コハク様も当事者ですよー?」

 クレナイの冷静な突っ込みが突き刺さる。

 僕だって、いつかは人を雇わなければと考えていた。

 単純に僕一人でやれる作業量には限りがあるし、技術的にできないことは自動車のエンジン開発のときみたいに専門家を頼るべきだ。

 けれど、まさかいきなり、こんなにたくさん押しかけてくるとは思わないじゃないか。

「早く要塞の中に。コハク殿が見つかったら大騒ぎになってしまいます」
「そこまで大袈裟な話?」
「そこまで大袈裟な話ですとも。今やコハク殿は王国中の注目の的なのですから」

 そこまで大袈裟な話なのか? と、心の中で繰り返しながら、クレナイとホタルに背中を押されて裏口から要塞の中に入る。

 裏口に繋がる狭い廊下を歩きながら、軽く溜息を吐く。

 これも嬉しい悲鳴という奴なんだろう。

 人材不足に悩まされることがなくなりそうなのは喜ばしいことだし、評価されるのは純粋に嬉しい。

 だけど、これからしばらくは忙しい日々が続きそうな――

「――え?」

 いつの間にか、目の前にフードを被ったローブ姿の人影が佇んでいた。

 背筋がぞわっと粟立つ。

 視線を真正面から逸らしていたのは、ほんの一瞬のことだ。

 しかもこの廊下に人間が隠れられる場所はない。

 だったらどうして。一体どこから。

 周囲に兵士の姿は見当たらない。
 普段から人通りが少ない場所なうえ、正門の騒動への対応に人手が割かれているせいだ。

 つまり、これから何が起きたとしても、助けを求めることはできない。

「久しいな。リンクス下級魔導師」
「……っ! その声は!」

 恐怖が驚愕に塗り潰される。

 目の前の人物はもはや正体不明の存在ではない。

 嫌になるくらいに良く知っていて、それと同時に、今ここにいることが到底信じられない人物。

「トベラ大臣! どうしてここに――」

 最後まで叫び終えることはできなかった。

 完全な無詠唱で発動した転移魔法に飲み込まれ、僕の存在そのものが廊下から消え失せてしまったからだ。