徒歩で城下に下りた俺は、必要物資の補充をした後速やかに馬車の確保に向かった。
使うのは、個人の馬車ではなく乗合馬車だ。
今まで当たり前のように乗っていたロイヤル用の馬車よりも、揺れが大きく尻が痛い。
が、ガタガタガタガタ揺られながら行く道中は、俺の心も弾ませた。
出発前に立てた「やりたかったけどずっと出来なかった事をしてみよう」という目標は、数えてみればちょうど10個存在したのだが、その内の一つに実は『乗合馬車に乗ること』というのがある。
そう、俺は今一つ目の目標を絶賛満喫中なのだ。
もしかしたら「曲がりなりにも一国の王太子だった人間の『ずっとやってみたかった事』が、そんなちっぽけな事でいいのかよ」と思う人も居るかもしれないが、そんな事は無い。
「人がひしめき合う馬車に自分も一緒に乗る」という行為は王太子には絶対に叶わぬ夢だった。
だってそうだろう。
そうでなくとも王族の乗る馬車がすし詰め状態になる事を許す筈が無いというのに、一緒に乗るのは他人同士だ。
警備上、絶対にありえない。
馬車でだけじゃない。
どこでだって、王族はすし詰めになったりはしない。
そもそもすし詰めなんて状態に出会う事がごく稀だ。
そんな中、視察の時にチラッと見ただけのこの乗合馬車は俺にとって『すし詰め』の代名詞であり、コレが俺にとっての紛れも無い『すし詰め初体験』という訳だった。
実際に体験してみると、確かに狭いし近いし熱かった。
が、凄い人口密度の中、例え肩がぶつかっても誰一人として嫌がるどころか気に留める気配すら無いというこの状況は、とても俺を安心させた。
実際には多分、単にコレに乗る全員が「乗合馬車とはそういうものだ」という認識を持っているだけなのだろうが、俺にとっては互いに互いの存在を許容し合っている様に思える。
それは一種の連帯感や仲間意識を芽生えさせるものであり、俺にとってはそれが何だか無性に嬉しい。
そして、そう思える今がとても楽しいと思えていた。
まぁしかし、それもこれも王城での暮らしとのギャップがあればこそなのだろう。
例えばパーティーなどで同じ皿から好きな物を取って食べる事があったが、そんな風に食べた所で腹を割った関係性にはなれやしない。
みんなが腹に何か一物隠していて、別の方を向いていた。
連帯感なんて皆無だった。
だからこそただ乗り合わせているだけなのに互いにある程度許し合って譲り合っているこの状況は、とても心地が良かったのだ。
と、何やら視線を感じた気がしてそちらの方を見てみれば、隣に座っている男の子が俺をジーッと見つめてた。
何で見てるのかは分からないがとりあえずニコッとしてみると、彼は「ねぇねぇ」と俺に声を掛ける。
「お兄さん、どうしてこんなギューギューなのに嬉しそうなの?」
「えっ」
「こらローグ、お兄さんが困ってるでしょ! ……すいません」
嬉しそう?
そんなににやついてたか。
そう思いながら顎のあたりに手を当てると、お母さんなのだろうか。
彼の向こうに座った女性が申し訳なさそうに謝ってくる。
そんな彼女に、とりあえず「あぁいえいえ」と笑って言い、ローグと呼ばれたその子に対して「実は今日、俺にとって初めての旅の門出なんだ。だからちょっと嬉しくてね」と答えてやった。
彼女は謝ってきているが、俺はむしろ話しかけてきてくれて嬉しかった。
ちょうど時間を持て余してるし、王太子だった時には知らない子供からこうして気軽に話しかけられる事なんて、一度も無かった事でもある。
俺が言葉を返した事で、母親な少し安堵しながら俺に会釈してきた。
もしかしたら「息子の相手をしてくれてありがとうございます」という事だろうか。
そう思い、俺も「いえいえそんな」という思いで彼女に対して会釈し返す。
一方ローグは、俺の答えにキョトン顔でまた聞いてくる。
「お兄さんは旅人さんなの?」
「うん、今日から旅人さんだ」
「へぇー! 凄い!!」
目を輝かせたローグに俺は「何が凄いんだ?」と疑問に思った。
すると彼が「僕も旅したいけど、お母さんに『まだダメ』って言われたの」と教えてくれる。
なるほど、そういう事なのか。
だったら旅人に興味を持つ気持ちもよく分かる。
しかしローグは見た所、だいたい4、5歳といった所。
一人旅には、確かにまだちょっと早い。
「お兄さんは一人なの?」
「そうだよ、気ままな一人旅。でも俺はこう見えて、剣も魔法も使える強い旅人だ、だから一人でも大丈夫なんだよ」
「強いの?」
「うん強い。その辺に出るクマくらいまでなら素手でもどうにかなるな」
「えー?」
元王太子らしい細腕でビシッとガッツポーズを決めてそう言えば、彼は「本当ー?」と言いたげな顔でケタケタと笑ってくる。
そんな彼が微笑ましくて、「あぁ実は俺、割と子供が好きらしい」と生まれてこの方18年目の意外な事実に気が付いた。
「ローグくんももし本当に旅に出たいんなら、まずは沢山食べて寝て体を鍛えて、強くなってからじゃないダメだな!」
そう言ってあげると、彼は自分の細い腕を見つめながら「そうかぁー」なんて納得している。
多分これで当分は、母親に旅をせがむ事は無く自己研鑽に勤しむだろう。
そんな風に思っていると、彼は「じゃぁ」と顔を上げる。
「これからお兄さんはどこ行くの?」
「隣の国に行く予定なんだ。知ってるかな? 『ノーラリア』っていう国なんだけど」
「えー? 知らなーい」
少年がそう言って「どこなのー?」と聞いてくる。
が、俺は少し答えるのに躊躇した。
(ノーラリアはちょっと特殊だからなぁー。下手な教え方をすると後でこの子が親に怒られたりするかもしれないし……)
せめて彼の両親がどういう思想の持ち主なのかが分かれば安心なんだろうが、もちろん初対面である。
思想なんて知る筈も無い。
そんな風に困っていると、おそらくその空気を感じたのだろう。
母親が話を変わってくれる。
「ノーラリア国はね、色んな種族が仲良く暮らしている場所なのよ」
「色んな種族?」
「そうよ。人族の他にも、エルフにドワーフ、獣人、魔族。その他にも数は少ないけど竜族とか人魚族とか、色んな外見と風習の人たちが皆一緒に住んでいるの」
その説明に、俺は密かに胸を撫でおろす。
彼女の説明は、ノーラリアに対して好意的なものだった。
種族差別をする人間もこの国には少なくないので、彼女がどうかちょっと気になっていたのである。
が、偏見が無くて何よりだ。
俺だって思想が個人の自由だという事は理解しているが、やっぱり自分が良いなと思っている事が悪し様に言われるのは聞きたくない。
「でも僕、まだ人族以外見たことなーい」
「この国では人族以外の入国は認められていないからね」
そんなやり取りをしている親子をちょっと微笑ましく思いながら眺めていると、同乗者たちもみんな子供の無邪気な様子と母親の好意的な説明をどこか微笑ましげに眺めていた。
幸いにも、同乗者の中に差別主義者は居ないらしい。
俺は、そう密かに安堵した。
この国には『他種族差別』というものが存在していて、それを少なからずそれを増長させてしまっているのがこの国の『他種族入国禁止令』だ。
実は過去にコレを撤廃しようとした事があるのだが、その差別主義者の筆頭があのバレリーノの家であり、金をばら撒いて方々に裏工作をされてしまってこの試みは結局否決されてしまった。
この国を見限り権力も放り投げた今となっては、猶更この国の制度を変える力は無いが、幾ら法律で縛ろうとも人の心は縛れない。
なるべくならば理不尽な優劣で人を蔑み貶める事が無い世の中になればいいのになぁと願うばかりだ。
と、そんな事を考えていると、服の端をツンツンと引っ張られる。
「それで、隣の国には何しに行くの?」
純粋な丸い瞳が俺を真っ直ぐに見ていた。
そんな彼に、俺は笑いながら言う。
「願いを叶えに、かな?」
「『願いを叶えに』……?」
商売とか冒険とか、はたまたどこに行きたいとか。
おそらくそんな、もっと具体的な話が出ると思ったのだろう。
ローグがコテンと首を傾げる。
その後ろで母親までもが同じように首を傾げていたもんだから微笑ましすぎて、込み上げてくる笑いを「いや失礼だから」と堪えるのに苦労する。
「そ、そうだよ。俺にはずっとやりたくて、でも出来なかった事があるんだ。だからそれをしに行くんだよ」
口の端が少しフヨリと浮いてしまったが、どうにか誤魔化せたと思う。
「その『願い』? は、ノーラリアに行かないと出来ないの?」
「うーん、そういう訳じゃないんだけど……」
含むところの無い素朴な瞳にどうしても嘘は付きたくなくて、だからちょっと言い淀む。
正直言って、俺のやりたい事はどれも、あまり場所に関係なく出来てしまう。
最初に叶った願いが『乗合馬車に乗ること』だったのがいい例だ。
しかし、それでも。
「自分で行きたいと思った国、だからかなぁ」
自分の居場所をせっかく自分で決められるんなら、行きたい場所に行きたいし、やりたい事をやりたいんだ。
そう答えれば、良い笑顔でローグは「そっかぁ!」と返してくれた。
その目がまるで憧れのものを見るように輝いていて、少しだけ擽ったい。
だけど悪い気はしなかった。
乗合馬車では、人が頻繁に乗り降りする。
話し相手になってくれたあの少年もあれから2つ先の停留所で、母親に手を引かれながら降りていった。
最後に手をブンブンと振るその姿は、実に可愛らしくって、「あの高慢ちきな荒金使いとの子供は欲しいと思わなかったが、この先誰か相手が出来れば子供を作るのも良いかもしれない」と思わせられるくらいには、別れは寂しいものだった。
こうして馬車は進んでいく。
道中は実に平和だった。
天気が悪くなることも無く、馬車を引く馬もきちんと働き、ほぼ定刻で停留所へとたどり着く。
しかし3つ先の停留所へ向かう途中の道すがら、とあるアクシデントが俺達を襲う事になる。
最初に感じた異変は、本当に小さな物だった。
「……ん? 何か妙な感じが」
魔法を行使する者は、魔力の動きを少なからず察知できる。
空気中にもそれはあって、その密度はある程度一定――の筈なのだが、それが少し歪んでいるような感覚がある。
小さな違和感ではあったし、感覚といっても直感とかそういうものに近い類のものである。
が、俺のこういうのは残念ながらよく当たる。
だから念のために「『探索せよ』」と小さく唱えてみた。
それと同時に内包魔力が俺を中心に薄く周りへと広がっていき。
「……居た」
引っかかったのは、5つの反応。
その内の1つ、先頭の物だけ小さい。
それを少し奇妙に思ったが、ゆっくりしてはいられない。
その反応は全てこちらに向かって走ってきている。
このままだと、いずれこの馬車の側面部と遭遇する。
「御者さん!」
馬車の中で立ち上がりつつ声を張り上げると、周りの人達が驚いた。
対して御者台の方からは「何だーい?」という間延びした声が聞こえてくる。
実に緊張感を削がれる声だが、呑気にしている場合じゃない。
「俺、実は感知の魔法が使えるんだけど、右前方からなんか来てる。結構大きい」
「何っ?!」
「ちょっと俺が見てくるからさ、ここで馬車止めて待っててくれないか?」
俺がそう申し出ると、彼は素直に馬の手綱を引いてくれた。
お陰で馬車は動きを止めて、馬がヒヒンと小さく嘶く。
俺はすぐに馬車から降りて、御者の男にこう告げた。
「下手に動いたらそっちに行っちゃう可能性もあるから、ちゃんと止まってここで待ってて。で、万が一俺が止められない場合は分かる様に火球を空に打ち上げる。その時は馬車で全力で逃げてくれ」
「分かった。けどアンタ、一人で行くのかい?」
不安そうなその声からは、迫りくる驚異に対する怯えと「この人に任せて大丈夫なのか」という疑念が見て取れる。
確かに俺は、目に見えて筋肉質だったりはしないし、肌だって日焼けしてない。
その上服装が町人ルックなのだから「戦えるのか?」と思われても仕方ないだろう。
だから俺は、敢えて強く笑って言った。
「大丈夫、俺って結構強いから」
と。
感知は持続させながら、森の中を疾走する。
その中で、先程の小さな反応が何なのかに思い至った。
「……逃げてるな、間違いなく」
先行する1つと、後ろの4つ。
その間隔が段々と狭まってきている。
その事から、後ろの4つが前の1つに統率されているという事は無いと予想する事が出来た。
その1つは、魔法で身体強化をしている感じではなくどうにも素人臭い動きだし、特に立ち止まるでもなく逃げている様子から見ても、もしかしたら自衛手段を持っていないのかもしれない。
どちらにしろ、命の関わるかもしれない事態である。
急ぐのは当然だった。
4つの方はおそらくだが、大きさからして人ではない。
走り方から見てそれなりの知能を持っている、団体行動が可能な獣だろうとすぐに想像がついた。
その条件に当てはまる、この辺に生息している獣は――。
「ウェアウルフ、かな」
だとしたら、俺一人でも十分処理出来るだろう。
そんな風に思ったのと、目標の姿を俺の目が捉えたのはほぼ同時の事だった。
しかしそれを見つけた瞬間、思わず口角がヒクリと上がる。
「おいおいおい……どうしてお前がここに居る」
目視出来たのは二メートルほどの大きさの、想定よりも小さな体躯。
しかしその小ささは、戦闘力とは比例しない。
「……ガイアウルフの氷型亜種」
間違いない。
図鑑で一度、見たことがある。
ガイアウルフとは、ウェアウルフが何らかの理由によって魔素に障った結果生まれた魔物の名前だ。
ウェアウルフより危険度ランクが2つも高い上に『亜種』とは突然変異種で、その希少な代わりに戦闘力が格段に高く、『氷型』というだけあって氷魔法を行使する。
せめて亜種であるのは見間違いであってほしかったが、首に一回りゴツゴツとした氷が生えているんだから見間違えようがない。
(どうしたもんかな……)
ウェアウルフなら持っている剣で一閃だった。
しかし魔物となると獣よりも皮膚が固いし、魔法だって使うんだから一人で相対するには少しばかり厄介だ。
しかしまぁ、とりあえず。
「人命、優ー先っ!」
そんな掛け声と共に、腰に下げていた剣を鞘から抜いて斬りかかる。
すると金属が何か固いものにでもぶつかるような高い音が、当たり一帯に響き渡った。
すぐ目の前には、牙を剥き出しにした魔物。
腹でも減っているのだろうか、よだれがめっちゃダラダラだ。
後ろをチラリと確認すれば、今正に食われそうになっていた小さなモノが腰を抜かして座り込んでいる。
見ればどうやら、一桁年齢の女の子らしい。
あのタイミングで割り込めなければ、間違いなくコイツに食い殺されていただろう。
目深にフードを被ったその子は青い顔で、目を丸くして俺とガイアウルフの姿を捉えている。
「もう、大丈夫」
安心させるように言えば、薄紫色の瞳が俺に焦点を合わせた。
「俺が助ける、だからそこでじっとしてろ」
そう一言言い置いて、改めて目の前の敵たちに目を向けた。
俺がずっとやりたかった10の事、その内の一つに、実は『正義の味方』というものがある。
誰かのピンチに駆けつけて、颯爽と敵を倒して笑う。
昔何かの本で読んだ英雄のようなその姿に、俺はずっと憧れていた。
王太子時代は、誰かの為に体を張る所業自体が許されなかった。
むしろ王太子は、守られる側の人間だ。
叶わぬ夢なのは当たり前だ。
しかし今、そのシチュエーションが目の前にある。
(まぁ、思ってたより嬉しくないが……なっ!)
迫りくる牙に剣で応戦しながら俺は、そんな風に独り言ちる。
こういう事態に遭遇してみて、初めて分かる。
人命に関わるこの状況では、正直言って『正義の味方』とか言ってられない。
先程も言った通り「人命優先」、今考えるべきはそれだけだ。
俺は過去に一度だけ、魔物の討伐に出たことがあった。
王太子としての箔付けだから前線に立つような事は無かったが、後ろでずっと討伐風景を見ていたし隊長が戦闘のセオリーやらを色々と解説してくれていたので、魔物に対する戦い方は一通り知っている。
「まさかこんな所で、しかもこんな強い個体相手にソロの初陣をかますとは俺も思ってなかったけどな」
それでもやらなければ俺も後ろの子も死ぬのだから、やらねばなるまい。
「退けて、斬る。それが一番シンプルだ」
目の前の敵を睨みながら、俺は口内でそう呟いた。