清らかで澄んだ流れに、そっと手を入れる。冷たくて気持ちがいい。流れもゆるやかだし、気温も十分。これなら大丈夫そうだ。
「村に着く前に、ついでに水浴びしときますか」
 日本出身の身としては、そろそろ温かいお風呂が恋しくなってくるものの、まったく身体を洗わないわけにもいかない。川を見つけたら水浴びをしたり、身体を拭いたりしてしのいでいた。
 到着してからお風呂を探してもいいんだけど、この大森林のさらに奥にある村となると、宿屋自体が存在しないおそれもある。それに、第一印象はさっぱりしておいた方がいい気がするしね。
 もし温かいお風呂がなかったら、まずはお風呂の啓蒙活動から始めようかな。
 念のため、スキルウインドウを眺めてツリーを再確認した。お腹がふくれるツリーには、川の入り方に関する指示はない。強いていえば、上半身はきちんと脱ぐように注意書きがしてあるくらいだ。
 これなら、ついでに水浴びしても失敗にはならないよね。
 さすがに全裸になってしまうと、いざというとき……もちろん、なるべくそんな瞬間はこないでほしいけど、身動きがとりづらい。下着のパンツを残して服を脱ぎ、荷物といっしょにまとめておいてから、ゆっくりと川に足を入れる。
 透明度が高くて、底まで見渡せるくらい綺麗だ。急に足がつかなくなって溺れちゃう……なんてこともなさそうだ。簡単に頭と身体を濡らしてこすってから、穏やかな流れに身を任せてぷかりと仰向けに浮かび、ぼんやりとスキルウインドウを眺めた。
 一人になってからというもの、俺はスキルウインドウばっかり眺めている気がする。日本にいた頃、特にみるものがないのにスマホを眺めてしまったあの時間に似ているかもしれない。
 おなかが膨れるツリーのひとつ上、追いかけているメインのツリーには『栄誉を捨てれば、理想の暮らしが始まる』なるタイトルがついている。
 これは今まで見たことのないタイプで、いつの間にか終わっていた『隣の男に飯をおごれば、世界が平和になる』のツリーに入っていたクエストである、勲章の投げ捨てから派生しているように見える。
 『栄誉を捨てれば、理想の暮らしが始まる』にぶら下がっているのは、今のところ森林深くにある村……ラルオ村へたどり着くことだけだった。とりあえず行けばわかる、行ってみなければ何もわからないってことだね。
 身体も綺麗になったし、考えの整理もできたし、冷えてしまう前に上がろうかと身を起こしたところで異変に気づく。身体が、やけに重い。
「うわあああ!」
 原因はすぐにわかった。スライムだ。無色透明なスライムが、何体も俺の身体にまとわりついている。川の水も透明、スライムも透明で、しかも呑気にぷかぷか浮かんでスキルウインドウに集中していたから、気づくのが遅くなってしまった。
「痛い! ひい、うわ、血を吸われてる!?」
 スライムからぬるりと伸びた触手らしきものが、ぶすりと俺の身体に浅く刺さり、そこからじんわりと血が吸われていくのが見えた。水浴びしてたらいつの間にか血を吸われて、干からびちゃいました、なんて冗談にもならない。おなかがふくれるどころか、しわしわ空っぽコースじゃないか。
 まとわりついたスライムを、ちぎっては投げて引きはがしながら、大慌てで川から上がる。
 血を吸われたことでだるくて重たくなった身体に鞭を打って、河原に置いてあった剣を抜き放つ。とにかく、スライムを全部剥がさないと。
 俺が川からあがったことで逃げられると思ったのか、スライムたちの吸いつきが、水中にいたときより明らかに強くなっている。
「離れろ……って!」
 メリメリと音を立てて、いくらかの流血とともに最後のスライムを引き剥がしたところで、ぜえはあと肩で息をする。勇者パーティーの一員なんて言ったって、俺には特別な戦う力はない。
 異世界にきてから覚えたちょっとした剣と、戦いの役に立てるかどうか微妙な程度のいくつかの魔法。それから、王様に運任せと揶揄されたユニークスキル。それだけだ。
 三年ちょっと駆け回っていたから、体力や筋力は比べものにならないくらいついているし、冷静に準備して身構えた状態なら、スライムだとか、街道の外れに出てくるような魔物や魔獣に負けはしないけど、水浴び中はひどいじゃないか。
「うは、冗談でしょ……?」
 荷物と服を取ろうとした俺は、思わずへらりと口元をゆがませた。
 川の中からわらわらと、獲物を逃してなるものかと言わんばかりの、大量のスライムが上がってきていた。
 相変わらずの透明っぷりだけど、陸に上がればなんとなく形はわかる。なるほど、水そのものに擬態して待ってたってわけか。生命の神秘ってすごい。
 なんて、感心している場合じゃない。集合体恐怖症の人が出くわしたら、卒倒しそうな眺めだ。透明でよく見えないのが、逆に救いかもしれない。
 這い出してきたスライムたちは、すでに俺のシャツとパンツ、荷物にも群がっている。今すぐこの場を離れたい。離れたいけど、さすがに荷物一式を全部放り投げて、パンイチで旅の続きをやるのは辛すぎる。剣をどうにか握りしめていても、心の剣が折れちゃいそう。
「てえい!」
 タイミングを見計らって服と荷物をぱっとひっつかむと、俺は一目散に逃げ出した。
 当然、スライムは追ってくる。シャツとパンツにはすでに、びっしりとスライムがひっついていた。水中で俺の身体にひっついていた数体とは、比べるべくもないびっしり具合だ。それでも、残念ながらそれらを丁寧に剥がしている余裕なんてない。もちろん、スライムまみれの服を着る余裕も、勇気もない。
 不本意ながらパンツ一丁で森を駆けぬけ、シャツとパンツをぶんぶん振り回す。ひっついたスライムは、まったく剥がれる気配がない。今のこの姿だけは、サイラスたちにも、他の誰にも、けっして見られたくない。
 無事に逃げ切ってスライムたちを剥がしたら、そのままお墓まで持っていこう。
「きゃあああ!」
 早くも見られた!?
 突然の悲鳴に、どこを隠せばいいやら、くねっとした不思議ポーズで剣を構えてしまい、自主的に恥を上塗りした俺めがけて、一人の女の子が走ってくる。
「ごめんなさい、どいて!」
「そんな急に無理ですぐぼあっ!?」
 見事なポージングをキメたまま硬直した俺は、見知らぬ女の子からショルダータックルのプレゼントをいただいた。半裸のままごろごろと数回転して、うつむきに止まった俺は、熱烈なキスの相手を務めてくれた冷たい大地に別れを告げて、顔をあげる。
「ごめん、大丈夫? 怪我してない!?」
「そっちこそ……ってどうして裸!? っていうか、そんなことよりあいつは!?」
 どうやら無傷だったらしい女の子は、がばっと起き上がると、手にしたナイフを握りしめて身構えた。
 そういえば、何かに追われているようだった。どんな相手で、どれくらい距離があったのか。何もわからないままごろごろと転がってしまったけど、確かにそれどころじゃない。
 ぎゅっと拳に力を込めて、俺も女の子と同じ方に視線をやる。
 どこから、何がくる?
 鈴の音は聞こえなかった。新しい桶屋クエストが出ているわけでもないとなれば、今の俺にできることは限りなく少ない。
「あれ……もしかして、俺の?」
 握りしめていたはずの剣も荷物も、ついでにスライムまみれのシャツとパンツも、手元からなくなっている。さっき女の子にぶつかったときに、ばらまいてしまったらしい。
 それは仕方ないし、問題はそこじゃない。
 問題は、俺の手を離れて飛んでいったシャツとパンツをかぶった何かが、怒りに満ちた様子でうごうごと這い寄ってきていることだ。
「気をつけて。牙と血に強い毒を持つ猪型の魔獣です!」
 緊張感のある声で、女の子がこちらを振り向かずに叫ぶ。
 シャツとパンツの隙間から、黄色い目玉がぎょろりと覗いた。完全にお怒りだ。
「わたしがなんとかするから、合図したら逃げて」
 女の子が、俺がやってきた茂みの方を指さす。なんとかするって言ったって、どうするのだろう。
 女の子が手にした小ぶりのナイフは肉厚で、対魔獣用にも役に立つのかもしれないけど、牙と血に毒を持つらしい相手に、リーチの短いナイフでは相性が悪すぎる。
 ナイフで一撃を入れるためには牙の間合いに入らなければならないし、かいくぐって斬りつけたとしても、返り血で毒を浴びてしまう。
「そんな、放っておけないよ」
 魔獣を警戒しながら、剣の位置を確かめる。魔獣の斜め前……正直、嬉しくない位置だ。でも、絶対に不可能ではなさそうだ。
「変なこと考えないで」
「いや、いける!」
 かけ声をはずみに、俺は剣にとびついた。
 あの魔獣より、もっと大きくて凶暴で、素早い相手と対峙したことだってある。山あいの村で新生活を送ることになるかもしれないなら、地元の魔獣さんくらい相手にできなくてどうする。
「あぶないっ!」
 取った。握った剣の柄からひやりとした感触が伝わってくる。
 とびついたままの体勢で、魔獣に意識を向ける。魔獣は完全にこちらを向いて、姿勢を低くしていた。剣の柄よりもっと、本能を刺激するひやりとした感触が背中をつたう。

 ――突進してくる!

 ぐっと魔獣の前足に力が入る。俺はまだ、剣をどうにかつかんだところで、身体を起こそうとしている途中だ。
 牙に毒があると女の子は言っていた。そこだけは注意して、いなすか受けるかして立て直す。それしかない。覚悟を決めて集中した。
 ぐうっと、景色がゆっくりになるような感覚に襲われる。身体が鉛のように重い。
 アドレナリンだかなんだか、脳内から大量の何かが放出されて、神経を研ぎ澄ませてくれているのだろうけど、それならちゃんと、身体もいい感じに動くようにしてほしい。意識だけゆっくりのまま、猪の突進を真正面からいただくなんて、何の罰ゲームだよ。
「……あれ?」
 ゆっくりした視界の中で、いくら待っても突進はこなかった。
 魔獣はぐっと前足に力を入れて、そのままゆっくりと、前のめりにどさりと倒れてしまった。
「もしもし? 魔獣さん?」
 警戒しながらゆっくりと近づいて、剣でつついてみても反応がない。
 もともとひん死で、決死の覚悟で女の子を追ってきていた?
 いや、そんな風には見えなかった。それじゃあどうして?
 首をひねっていると、魔獣の身体から、透明の液体がじわじわと染み出してきた。毒を警戒してとびのく。でも、それ以上のことは起こらない。
 どうやら動かなくなってしまった魔獣から、視線を女の子に移す。目を合わせてくれた女の子も肩をすくめて、わからないといった表情だ。
「なんかわかんないけど、倒せた……のかな? ちょうど寿命だったとか?」
「こ、これは……うそでしょ!?」
 錯乱した考察で目をくるくるさせる俺をスルーして、女の子が驚きの声をあげた。
「何かわかったの?」
「その反応……冗談よね? あなたが、狙ってやってくれたんじゃないの?」
「いいえ、違います」
 即座に全否定だ。
 できないことをできると言いはって、いいことがあった試しはない。誤解は早めに解いておくに限る。
 なにしろ、俺がやったことといえば、女の子の邪魔をしてぶつかって足を止め、荷物を散らかして、剣を拾いにいったことでみずからピンチを演出したくらいだ。しかも、パンツ一丁で。
 なんだかすごくつらくなってきた。あまりにシリアスな話の流れに、とりあえず服を着てもいいかなとも言い出しづらい。
 しかも、それが許されたとしても、俺が着ようとしている服はさっきまで吸血スライムまみれで、今は毒持ちの魔獣がでろでろとなんらかの液体を垂れ流して倒れた上に、くったりとかぶさっている。
 王城で着ていた礼服は、路銀の足しにして下着の替えとなけなしの食料に変えてしまったから、そこにあるのが一張羅だ。考え事があまりにも多すぎる。
 元勇者パーティー所属とはいえ、こんなところで勇気を試されたくはなかった。
「結論からいえば、魔獣は死んでるから、とりあえずもう大丈夫。わたしはリタ。リタ・スフレナ。なりゆきなのかもしれないけど、助けてくれてありがとう」
 深々と頭を下げたリタに、慌てて俺も頭を下げる。
「俺はノヴァ、ノヴァ・キキリシム。なんとかなってよかったけど、逃げてるところを邪魔しちゃってごめん」
 顔をあげたリタは、真っ赤な髪をさらりとかきあげて、ふんわりと笑った。
「その様子だと、本当に狙ってやったわけじゃないみたいだね。信じられないけど……きみはすごいことをしてくれたんだよ」
 ブラウンの大きな瞳が、じっと俺を見つめてくる。目力が強くて、つい目をそらしてしまう。俺の色素薄目のくすんだグレーがかった黒目じゃ、受け止めきれない。
「そうなの?」
「あの魔獣は牙と血に毒があるって言ったでしょ? 血の方の毒が、消えてなくなってるんだよね」
「死ぬと毒が消えるってこと?」
 リタは首を横に振る。
「牙の毒は上手に解体すればなんとかなるけど、血の方はどうにもならなくて、困ってたんだ」
「それじゃあ、どういうわけか血の毒だけが……あ、もしかして」
「何か心当たり、あるの?」
 なんとなくわかってきた。
 魔獣には俺のシャツとパンツがかぶさっていて、シャツとパンツには吸血スライムがびっしりくっついていた。つまり、そういうことだ。
「実はさっきまで、あっちの川で水浴びをしてたんだけど」
「え! スライムだらけのあの川で? 大丈夫!?」
 その大丈夫は、俺の身を案じてだよね?
 俺の頭の中身に対してじゃないよね?
 ざっくりした一言に不安を覚えつつ、ひとまずうなずいて続ける。
「まあ案の定、スライムに襲われちゃって。それでこんな格好で逃げてきたんだけど、魔獣にかぶさってる服に、スライムがいっぱいついたままだったんだ」
「スライムが毒の血を吸って、浄化してくれたってこと?」
「浄化してくれたっていうか……相討ちっていうか?」
 魔獣から染み出したでろでろとした透明の液体は、スライムたちの成れの果てに違いない。まさかの相討ち、お互いを引き合わせた俺もびっくりだ。
「すごい! すごいすごいすごい! ノヴァ、めちゃくちゃお手柄だよ!」
「そ、そう? どうもありがとう?」
 リタは大興奮してぴょんぴょん飛びはねると、「そうだ、みんなに知らせなくちゃ」と叫ぶやいなや、空に向かってぱあんと光の玉を打ち上げた。
 ちょっとした明かりを確保するための、魔力の素養があれば誰でも使える初級魔法だ。
 近くに他の魔獣がいたら、寄ってきちゃわない?
 なんて言うのはきっと野暮なのだろうし、黙っておくことにする。
「もしよかったら、ノヴァもいっしょに村にきてほしいんだけど、どうかな? その魔獣を村に運んで、食べられるかどうか、いろいろ試してみなくちゃ。もし駄目でもいい素材になりそう!」
「お邪魔じゃなければ、案内してもらえるとうれしいな」
「何言ってるの! ほとんどノヴァが仕留めたようなものなんだから。むしろ、どんなお礼をしたらいいか、みんなに相談しなくちゃだよ!」
「いや、そんな大それたことは別に……それならじゃあ、お願いします」
 うんうん、と大きくリタがうなずき、俺もへらりと笑う。
「決まりだね!」
「うん、行こう!」
 二人してにこにこと笑いあい、村の人たちを待つ間に、どちらともなく散らばった荷物を片付け始める。
「こんなもんかな」
「そうだね。そしたらノヴァ、悪いんだけどとりあえず」
 ひととおり片付いたところで、リタが申し訳なさそうにする。
「うん?」と首をかしげた俺に向かって、頑張って作りました、といわんばかりの笑みをはりつけて、リタは首をかしげてみせた。
「村のみんなが来る前にそろそろ……服、着てみてもいいんじゃないかな?」