息が苦しい。どれだけもがいても、ここから抜け出せないような感覚に陥る。
それでも、腕を動かし、足を動かし、少しずつ、全身を前へ送り出していく。
「抜け……たあっ!」
ずぶぬれのびっしゃびしゃで滝を抜けると、ひいひい言いながらどうにか向こう岸に渡り、ごろりと仰向けになって肩で息をする。
俺のすぐ隣に、同じ様子でぜえはあと息をしたリタも転がった。
「雨、やんでるね」
まだまだ風は強いけど、まるで俺たちが滝を渡りきるのを待っていたかのように雨がやみ、雲の間から明るい光が差し込み始めていた。
「それで? 次はどうすればいいの?」
「とりあえず、息を整えたら荷車を探そう。多分だけど、すぐ見つかるはずだから」
「わけわかんないけど、わかった。荷車を無事に見つけたら、帰ってあったかいお風呂に入りたい!」
ばっと起き上がって、リタが両腕を真上にあげて叫ぶ。
わかるよ、すごくわかる。そう言おうとした俺の口からこぼれ落ちたのは、「あ」というとっさの一言だけだった。
「どうしたの? って、ええっ!?」
パーにして真上に広げたリタの両腕に、滝から飛び出した一匹の大魚がすっぽりと収まった。
「さ、魚!? なんで!? っていうかこれ……超レアものじゃない!」
降ってきた魚をぎゅっと抱きしめてほおずりをするリタの姿は、とってもシュールだ。まあ、本人がいいならいいのかな。
「そんなにレアなの? でもそれ、大丈夫? うろことかひれで、ほっぺた削れない?」
「レアもレア、超レアだよ! あのゴールデンルビーフィッシュだよ! 食べられる宝石! 滋養強壮の鬼! 美と健康の化身! 重さイコール金貨の!」
知らないことが申し訳なくなるくらい、リタは熱弁をふるって大魚を抱きしめている。
「この子が手に入るなら、荷車と今日集めた素材全部が戻ってこなくても、おつりがきちゃう。ありがとうノヴァ!」
お祭りのために、多めに食材を確保しておかないといけないんじゃなかったっけ?
思わぬレアものを前に、目的を見失いつつあるリタになんと言ってあげるのが正解だろうか。
ひとまず落ち着くまで見守っていると、改めて大魚を抱きしめようとリタが力を込めたことで、つるりとその腕から飛び出した大魚が、空を泳いだ。
「ああっ! 待って、ルビーちゃん!」
リタが大魚を追って走り出し、俺もそれに続く。
驚異的な脚力で大魚に追いついたリタが、捕まえようと必死に手を伸ばす。
何度も触れているのに、なかなか捕まえられない。大魚が、お手玉のように空中で跳ね回る。
「あなたまで、わたしの前からいなくなったら、許さないんだからね!」
聞きようによってはちょっと怖い台詞を、見ようによってはちょっと怖いぎらぎらした目つきで発しながら、リタが何度目かのジャンプをキメた、そのときだった。
「えええ! なんでよおおおおお!」
木から跳んできた一匹の猿が、リタの目の前で大魚を片手でかっさらい、隣の木に飛び移ったのだ。
「ちょっとあんた、返しなさい!」
憤慨するリタをあざ笑うように、猿が横取りした獲物を両手で持ち上げ、笑うようにきいきいと鳴いた。こうなれば、当然リタは大激怒だ。
「そう、わかった……今晩のおかずになりたいってわけ」
村には、猿を食べる習慣はない。つまりこれは、リタなりの威嚇だ。かなり本気で怖いし殺気も出ているけど、そのはずなのだ。
びくりとした猿が手元を誤り、大魚が再び宙を舞う。
「渡さない!」
「落ち着いて、リタ!」
「ききぃっ!」
リタ、猿、俺のみつどもえで大魚を追う。
三人の手の上を順番にお手玉したり、風に煽られて進路を変えたりしながら、大魚が大空を舞い踊るように泳いでいく。
雨がやんだ空には虹がかかり、水滴がきらきらと陽光を反射して、幻想的な光景だ。俺たちの視線は大魚に釘付けで、せっかくの景色を楽しむ余裕はほとんどないけどね。
途中から、前に見かけたものより一回り大きな猛禽が大魚キャッチに参戦し、魚を狙っているのか俺たちや猿を狙っているのかわからない、巨大な植物までもがつるで参戦して、森は一気にさわがしくなった。
「あんたは絶対に、わたしが持って帰るんだからっ!」
「これだけ言われたら食べてみたい! 絶対に持って帰ろう、リタ!」
「きききっ!」「ぎゃあぎゃあ!」「しゅるるるる!」
俺とリタ、猿、鳥、植物の鳴き声がこだまし、風が吹き荒れ、魚が空を舞い踊り、どんどんと森の奥深くへと突き進んでいく。
「リタ、ストップ! 今すぐ止まって!」
そんな中、俺は急停止して、それをリタにも告げた。次の桶屋クエストが表示されていたからだ。
「なんで……ああ、ゴールデン……ルビー……行っちゃった……ううう」
「泣いてる場合じゃないよ」
「でも、もう少しであの子をキャッチできたのに。ひどいよ、ノヴァ」
「さかなぴょこぴょこみぴょこぴょこ、あわせてぴょこぴょこむぴょこぴょこ! さん、はい!」
「え? は?」
「三回唱えたら動いていいよ! さん、はい!」
「なにそれ、え? なんで?」
わかる、すごくわかるよ。俺が聞きたい。どうしてここまでレアものを追いかけさせておいて、急停止して早口言葉を叫ぶのか。
「俺を信じて!」
俺は、俺自身にも言い聞かせる気持ちで、曇りのないまなざしでリタを見つめた。そう、ここで俺が半信半疑の顔や態度をしようものなら、きっとスキルの効果は薄れてしまう。
これを考えている時点で半分アウトかもしれないけど、最後までやってやるという気概は見せておかなくては。
「わかった、わかったよ! やってやろうじゃないの! さかなぴょこぴょこにぴょこ……みぴょこぴょこ? あわせてぴょこぴょきょむ……ぴょことこ! さかなぴょこぴょこ……!」
やけくそ気味に、かみ気味に、リタが早口言葉を叫ぶ。
それを表向き満足そうに眺めてうなずくと、俺も同じように残り二回にチャレンジする。
「むぴょこ! ぴょこっ! よし、もういいよね!? ひえっ!?」
ぐすぐすと泣きべそをかきながら、リタが走りだそうとしたその鼻先を、どこかに消えていた荷車が猛スピードで横切っていった。
タイミングを間違えていたら、完全に轢かれているところだ。
目をぱちくりさせて、事態を呑み込めずにいるリタをしり目に、荷車は正面の大木へとまっすぐに突っ込んでいく。
「ああ、壊れちゃう……」
ぽつりとつぶやいたリタの目から、すうと一筋、新たな涙がこぼれて頬をつたう。
大木に真正面から衝突していく荷車を、俺もただ眺めるしかない。
きらきらと日差しが照らす大木は、神秘的ですらある。そこへ、ひと際きらきらと輝く何かが、空を滑るように落ちてくる。
「さか……な?」
俺たちがさんざんに追いかけ、森の奥へ消えていったゴールデンルビーフィッシュが、どこをどう泳いできたのか、荷車と大木の間にするりと滑り込んだのだ。
ぬる、しゅるん、すとん。
大魚がその肉厚な身体と絶妙なぬめりけをもって緩衝材となったらしく、荷車が無傷で止まる。大木と荷車に挟まれ、またしても浮力を得た大魚は、舞い上がった空でくるりと身をよじらせると、荷車の中にダイブしておとなしくなった。
おそるおそる近づいた俺たちが見たのは、強風の中を走り回ったおかげで、森中のレア食材と素材がたっぷり詰め込まれ、仕上げに超レアものの大魚がそっとそえられた荷車だった。恐ろしいことに、傷ひとつない。
「あ、はは……まあざっとこんな感じ?」
荷車をのぞき込んで、顔を見合わせて、俺たちはひとしきり笑った。
ありえないことの連続だったけど、最終的に想定以上の結果を手に入れられた。
「リタのおかげだよ、ありがとう」
「全然。わたし、振り回されっぱなしだったよ」
「最初にさ、言ってくれたでしょ? ちゃんと期待してって。そのおかげのような気がするんだよね」
もしかしたら、勇者パーティー時代も、これに近いことを無意識にやっていたのかもしれない。でもそれを、俺自身がきちんと意識したのは今回が初めてだ。
スキルの持ち主のくせに、スキルを信じ切れていなかったことが恥ずかしい。そして、それに気づかせてくれたリタは、振り回されながらも本当に最後まで信じてくれて、今も隣で笑ってくれている。この子には、感謝してもしきれないな。
「これなら、村のみんなもびっくりするね。ちょっと休んだら帰ろうか」
うなずいてから、俺はあれ、と気がつく。
大木の根本、うろになっているところに何かある。それが陽光に反射したらしい。
「あれ、なんだろう?」
「卵、かな?」
隠されているようにも、無造作に置かれたようにも見える卵がひとつ、そっと顔を出していた。
俺が両手で抱えるほどの大きさだ。魚を狙ってきた猛禽だとかのものとは思えない。もっと大きな、何かがこの近くにいるのかもしれない。
「どうする? 卵があるなら親がいそうだし、ここからは早めに離れた方がよさそうだけど」
「とりあえず持っていこうか?」
「リタさん!?」
「ここがノヴァのスキルのゴールなんでしょ? ってことは、ここにあるものは全部、ものすごーくレアな、わたしたちのものってことだよね?」
「念のためだけど、これが何の卵かリタは知ってるの?」
「知らない。けど、この森にあるのにわたしが知らないってことは、きっとすごい何かなんだよ」
リタはにっこり笑うと、うんしょ、と卵を抱えて荷車の上にそっと置いた。これは、何を言っても聞いてくれなさそうだね。
レアものを目の前にすると止まらなくてね。村人さんの困った笑顔がとても印象的に、俺の脳裏に蘇ってきていた。
山盛りの食材や素材のうえに、堂々とした佇まいのレア大魚と謎の大きな卵を乗せた荷車を、倒さないように注意しながら引いていく。ゆっくりペースで森の外に運び出した頃には、もうすっかり日が高くなっていた。
スライムが少ないという川の近くで荷車をおろして、てきぱきと焚き火を準備する。
ずぶ濡れだった服や身体を、生乾きではなくきちんと乾かしつつ、腹ごしらえをしておくためだ。
勇者パーティーの雑用として経験を積んだ俺はもちろん、リタも手際がいい。さすが、村の食材管理をきりもりしているだけのことはある。
ついでに、火をつけるところは魔法の力を借りるので、そこまで難易度も高くない。異世界キャンプは、転移前の世界よりだいぶ楽なのだ。
あの大雨だったので、薪になる枝がしけっているのではと心配もしたけど、どうやら俺たちがいた辺り限定の、超局地的なスコールだったらしくて、火がつきそうな薪は簡単に手に入った。
ちょうどいい感じの小枝をつまみあげて、空模様と見比べてはけげんな顔になっているリタに、声をかけるべきか迷ったけど、やめておいたのは正解だったと思う。やっぱりおかしいよ、不自然だよと長めのお説教が始まりそうな気配だったからね。
「すごい……どれもこれも本当に、滅多に取れないレアものばっかりだよ!」
「それならよかった。あ、これは俺も知ってる。高級レストランとかに売れるきのこだよね」
「それ、おいしいよね! 食べるか売るか迷っちゃう!」
焚き火を囲んだ俺たちは、どれを食べるか相談しつつ、荷物の整理もすることにした。
食材と素材は、荷車にざっと流し込んだような状態で、さすがにこのまま持って帰るのは微妙なバランスだ。荷車に積んであった袋に、種類ごとに詰めていくことにしたのだ。
持って帰ると傷んでしまいそうなものを優先して、これまた荷車に積んであって大鍋に放り込んで、お昼ご飯用に煮込んでいく。
「こんな鍋が入ってたから重かったんだね……これ、いつも積んでるの? 大変じゃない?」
「わたしは外でもごはんに妥協したくないから、大抵の場合は積んでるよ。外で頑張ったときこそ、おいしいご飯が食べたいと思わない?」
さわやかすぎるリタの笑顔に、俺もぎこちなくうなずく。
「これでよし、と。ノヴァは火加減見ててくれる? わたしはあっちでちょっと作業してくるから」
「わかったよ……ってちょっとリタさん!? これ、本当に合ってる!?」
焚き火を囲むように四本の支柱を立てて、ちょうど火の真上で交差するような形にしてある。そこから大鍋を吊るして、食材を煮込んでいるわけだけど、覗き込んだ大鍋の中央に鎮座ましましていたのは、例の大きな卵だった。
「食べちゃっていいんだっけ?」
「わかんない」
リタが首をかしげて、にっこり笑う。
俺もつられて、ひきつった笑みを浮かべて首をかしげてしまった。
「わかんないって」
「わかんないけど、拾った時点で冷たかったから。残念だけど、そこから何かが孵ることはないと思うんだよね。で、そうなると気になるのは鮮度でしょ。大事に持って帰ったとしても、正体不明で鮮度も怪しい、しかもひとつしかない卵を、村の皆にふるまうわけにはいかないじゃない?」
なめらかに動くリタの口から、よどみなく、もっともらしい理由の波が押し寄せてくる。
さらさらの真っ赤な髪を耳にかけて、きらきらした大きな瞳で卵を見つめる姿は、完全に食べる気まんまん、持って帰る気ゼロだ。
この子は、かわいい顔をして予想以上にワイルドな子のようだ。
「二人で食べる分にはいいんだっけ?」
「毒がないことは確認してあるよ。だから今ならまだ、悪くなってはいなさそうだし、煮込めば大丈夫だよ。たぶん」
小さな声でたぶんって言ったね。
毒がないことがリタのスキルでわかってしまうだけに、食べていいものかわからないからやめておこう、という切り口で止めることはおそらくできない。
しかも、俺に相談してくれるより先に、火にかけた大鍋にくべてしまっている行動力だ。
何かが孵る見込みがないのなら、大事に抱えて持って帰っても仕方ないし、時間が経つほど鮮度が落ちていくのもそのとおりだ。ついでに、まさしくリタの言うとおり、いくら大きいとはいっても、ひとつしかないのでは皆で分けるのも難しい。
「わたしでも知らないくらいのレア卵だもん。きっと美味しいよ! それに、あれだけの目にあったんだから、ちょっとだけご褒美があってもいいよね?」
なるほど、本音はきっとこっちだね。レアだから美味しいっていう理屈はだいぶ怪しいけど、気持ちはわかるよ。
「わかった。これはここで、ありがたくいただいちゃいますか。火加減見ててって言ってたけど、リタはどうするの?」
「ん、わたしはこっちの下処理やっちゃおうかなって」
リタが両腕に抱きしめてほおずりをしているのは、もうひとつの大物、ゴールデンルビーフィッシュだ。
雨風に煽られて、俺たちに追い回されて、とどめに大木と荷車の板挟みにあったのだ。すっかりぼろぼろかと思いきや、いい感じにぬめりとうろこが落ちているようで、荷車と同じく傷らしい傷はついていない。これなら、内臓と血をしっかり処理すればよさそうだ。
というか、それでいいのか桶屋クエスト。やりすぎじゃないのかな。もの自体が激レアな上に、森が下処理をしてくれましたなんて言ったら、それこそ誰も信じてくれないよ。
「まあ……任せるよ。頬ずりは、ほっぺた切りそうだしほどほどにね」
さて、やるからにはしっかり火を通して、お腹を壊さないようにしたい。
拾ったときにもう冷たかった、というリタの話で心配になった俺は、手渡された大きなおたまで大鍋をかきまぜては、半分ほどはみ出した卵の向きを変えたり、上から熱湯をかけたりとかいがいしく世話をした。
しばらくお世話をしてから気づいたけど、これって割ってから入れなくてよかったんだっけ。リタとしては、煮卵のようなイメージなのかな。
大鍋には、スパイスとなる様々な木の実や葉、主食になりそうな芋、リタがどこからか取り出した干し肉なんかがこれでもかと入っている。
二人分にしては作りすぎのような気もするけど、この大きさの卵に風味をつけるには、これくらいの量が必要なのかもしれない。
ぐつぐつと煮立つ大鍋からは、食欲をそそるいい匂いがこれでもかとあふれてきて、胃袋を刺激する。自然と、卵を愛でるおたまにも力が入ろうというものだ。
「よしよし、いい子に育つんだぞ。よーしよし」
「ノヴァ、大丈夫? 普段はそういう感じ?」
「うわあ! き、気がつかなかった。下処理は終わったの?」
テンションに任せて卵に話しかけていたところへ、大魚の下処理を終えたらしいリタがいつの間にか戻ってきて、にやにやしながら俺を眺めていた。頬杖なんかついて、完全に人間観察モードじゃないか、恥ずかしい。
「あれ?」
「どうしたの?」
「いや、リタの脇に置いてある、それなんだけど」
「ああこれ? さすがに今回の目玉をどっちも二人で食べちゃったら怒られるでしょ? だからお包みしてみました」
にっこり笑うリタは、いくつかに切り分けた大魚を、大きな葉っぱで器用に包んで戻ってきていた。
その葉っぱ自体は、俺もこの世界に来てからよくお世話になったので知っている。ほどよい大きさがあって、やわらかくて丈夫で減菌効果まである便利素材だ。
俺が気になったのはそこじゃない。
「リタさんや? その切り身、もしかしなくても凍ってません?」
「うん、初級魔法の応用でね、便利でしょ?」
「……卵の鮮度がなんとか言ってたけど、同じように凍らせれば持って帰れたんじゃない?」
「ばれた? まあまあいいじゃない。さっきも言ったけど、頑張ったんだからご褒美はほしいでしょ?」
俺は軽くため息をついて、まあいいかと小さくつぶやいた。
後出しはずるい気がするけど、率先して卵の世話をして、がっつりと煮込んでしまった手前、俺もすでに共犯だ。何かを言い返せる立場ではなくなっている。
「あれ、火が強くなりすぎたかな?」
ぐつぐつと煮えたぎる大鍋が、ぐらぐらと揺れ始めていた。
そっと支柱をおさえながら、鍋の下をのぞき込んで、火の加減を調節する。
「なかなか上手くいかないね、かわる?」
落ち着かない鍋の様子に、リタも覗き込んでくる。
「違う……これ、火加減のせいじゃない!」
「え、どういう意味? きゃあ!」
ぐらぐらと煮立つ鍋の揺れは、いよいよ小刻みな振動をともなって、激しくなってきていた。
リタがとっさに飛びのき、俺はどうにか支柱を押さえてふんばる。
火はほとんど消えてしまったような状態なのに、鍋が勢いを増し続けているとなれば、その原因は鍋の中ということになる。
「卵が!?」
見れば、幾筋ものヒビが入っている。
何かが孵化できる状態ではないという俺たちの見立ては、大きく間違っていたらしい。
もしくは、スパイスたっぷりのスープと、俺の食欲をはらんだ歪んだ愛情が、瀕死の卵をよみがえらせたのか。
いよいよヒビだらけになった卵が、薄青い光を放ち始める。ただ光っているだけじゃない、これは魔力だ。しかも、ものすごく濃密な。
この世界にきていろんな卵を見てきたけど、孵化するときに魔力がほとばしるような卵なんて、お目にかかったことはない。
でもこの魔力の感じが、どんな生き物によるものかは、なんとなく感覚でわかってしまった。
「やばい……これ、ドラゴンだ!」
「ピイイイイイッ!」
俺の叫びに呼応するように、光に包まれた卵の中から、一頭のドラゴンが飛び出した。
サファイアブルーに輝く全身が、なめらかなうろことふわふわの真っ白な毛で覆われ、完璧なバランスで模様を描いている。身体より少し薄い色のブルーの瞳はまさしく宝石のようで、ちょこんとした二本の角も、すらりと伸びた翼と尾も、息をのむ美しさだ。
「きれい……!」
「本当に」
思わずぼんやりと見とれてしまう。リタも同じようで、俺の隣で立ち尽くしている。
「ピイ」
子ドラゴンは大きくひとつ鳴き声をあげると、なめらかな動きで空中を泳ぐように近づいてきて、俺に頭をすりつけてきた。
「わ、くすぐったい」
「ノヴァのこと、親だと思ってるとか?」
「ドラゴンは頭がいいから、自分の親はちゃんとわかってるはずだよ。これは、多分あれだね」
すごく言いづらいけど、よく煮えるようにおたまでお世話をしたり、卵の向きを変えて熱が均等にとおるようにした一連のあれこれのおかげだ。
死にかけていた卵を丁寧に温めてくれた恩人として、認識してくれているらしい。食欲をはらんだ歪んだ愛情が、なんて冗談混じりに考えたことが現実になるなんて、なんという罪悪感か。
子ドラゴンは、もうひとつピイと鳴いて、鍋に向き直った。どういう仕組みなのか、あれだけ硬かった卵の殻が、よく煮えたスープにとろりと溶けて、なんともまろやかに仕上がっている。
「ああ……まあ、しょうがないか」
「だね。食べようとしたこと、これで許してくれるといいけど」
子ドラゴンは大鍋に頭を突っ込むと、あっという間に、溶けた卵の殻ごとスープを飲み干してしまった。
ついさっきまで煮えたぎっていたスープなんだけど、熱くないのかな。舌とか喉とか、火傷してない?
俺の明後日を向いた心配をよそに、鍋の中身を飲みつくした子ドラゴンはけろりとした顔できょろきょろして、今度はリタの脇にある魚の切り身に狙いを定めた。
今は葉っぱに包まれて凍っているけど、中身のレア度は一級品だ。何か、感じるところがあるのかもしれない。
「待って、これは駄目!」
凍った切り身を後ろに隠して、リタがぶんぶんと首を振る。
「いいんじゃない? あげちゃおうよ」
「でも……!」
レアものを前にして、リタが涙目で食い下がる気持ちはわからなくはない。でも、俺としては、早いことこの子におなかいっぱいになってもらって、ご両親の元に飛び去っていただきたい気持ちでいっぱいだった。
ドラゴンは頭がいい。さっきも言ったとおりだ。
生まれた瞬間からこれだけの魔力を宿し、俺が卵の世話をしていたことを認識して、頭をすりつけてくれるような子だ。
そのご両親が、どれだけ名のあるドラゴンさんなのか、想像するだけで逃げ出したくなる。
だってそうじゃないか。子ドラゴンは俺たちのことを命の恩人のように考えてくれているけど、親御さんからすれば一目瞭然だ。
何がって、そんなの決まってる。大事な卵を俺たちが食べようとしていたことが、だ。
この子とはなるべく、迅速かつ気持ちのいいお別れをしておくに越したことはない。そのためなら、下処理済みのレア大魚だって、差し出して然るべきだ。命よりレアなお宝はないのだから。
「そういうわけだから、ほら、差し上げて! 今にもご両親が飛来するかもしれないんだから! 自慢じゃないけど俺は、大人のドラゴンなんて一人じゃ絶対勝てないからね!」
「はあ……わかったよ。まあそうだね、結果的に、この子が無事に生まれてくれてよかったのかも」
リタは諦めたように、そっと凍った切り身を地面に置く。
子ドラゴンが、俺とリタを順番に見つめてくる。食べる気まんまんなのに、念のため、食べていいのか確認しているみたいだ。めちゃくちゃかわいい。
二人で思わず笑みを浮かべて、こくこくとうなずくと、子ドラゴンは一声鳴いて、凍った切り身をあっという間に平らげた。
「ピイちゃん、食いしん坊だね!」
「ちょっとノヴァ、名前とかつけちゃって大丈夫? 一刻も早く、穏便にお別れするんじゃなかったの?」
「考えたんだけど、孵化のときにあれだけ魔力を放出したんだし、親御さんも気づいてると思うんだよね。それならより穏便に、直接お渡しした方がカドが立たないかなって」
「そうなのかな? それにしたって、鳴き声そのままって安易すぎない?」
「実は迷ってて……どれがいいと思う? ピイピイ鳴くピイちゃんか、食いしん坊のボウちゃんか、煮込む寸前で孵化したニコちゃんか」
「ニコちゃんて。何そのセンシティブなセンス。なんかごめんね……ピイちゃんでいいよ。うん、ピイちゃんがいいと思う」
この子の様子から、知恵を絞って考えた究極の三択だったのに、リタは何故かじっとりした目つきになっている。
改めて、「ピイちゃん」と呼ぶと、ピイちゃんは角をぴくりと反応させて、すいすいと空を泳いで俺のところにやってきた。
「くすぐったいって……いやいや、そこで寝ちゃうわけ?」
お腹がいっぱいになったらしいピイちゃんは、俺とリタにひとしきり頭や身体をすりつけて甘えると、俺の背中から首に巻きつくような格好で器用にくっついて、すうすうと寝息をたて始めた。
仕方なくそのままで、起こさないように気をつけながら鍋を片づける。意外にも、ピイちゃんの身体はすごく柔らかくて、動きにくいこともなく、ふわふわとした不思議で心地いい触り心地だった。
「全然、親が迎えにくる感じじゃないね。近くにはいないのかな。安心して寝てもらえてるのは嬉しいけど、ずっとこのままってわけにもいかないよね」
ひととおりの片づけが終わっても、それらしいお迎えがやってくる様子はなかった。
ピイちゃんは俺に巻き付いて、完全に熟睡している。
「ノヴァ、めちゃくちゃ懐かれちゃってるね。どうする?」
どうすると言われても、ほったらかしにして村に戻るのは微妙なところだ。なにより、引き剥がすのはしのびないかわいさで、連れて帰りたい気持ちになっている。
「とりあえず、親が迎えに来てくれるまでいっしょにいるってことで、村に戻ろうか」
リタもうなずいて、にっこり笑ってくれる。
「ところで、もうひとつ相談があるんだけど」
「ああ、実は俺も話があるんだよね」
「さすがに何か、食べてから戻らない?」
「俺が言おうとしたのもそれ、本当そう。おなかの中、空っぽすぎ」
レア食材たっぷりの、真心込めて煮込んだスープは、この子にすべて食べられてしまった。森の中を半日近く駆け回った胃袋からは、朝ごはんはもうとっくに消えて空っぽだ。
とりあえず俺たちは、仕分けた荷車の袋から、すぐに食べられそうなものをがさごそと探し始めた。
この世界におけるドラゴンの生態は、謎に包まれている。
暮らしぶりを隅から隅まで観察、確認しようという命知らずの物好きがいないことはもちろん、大人になれば人間以上の知性を持ち、大抵が人の言葉を解するようになるドラゴンが、そういうところを見せようとしないこともある。
ドラゴンの孵化に立ち会えたこと自体が、言ってみれば超スーパーシークレットレアな出来事だ。
中には、勇者パーティーで討伐したダークドラゴンのように、闇落ちしてしまう個体もいるにはいるけど、基本的にドラゴンは神獣や聖獣に近い存在だ。ドラゴンの子供の信頼を勝ち取ることはすなわち、ドラゴンの加護を得たも同じ、奇跡の中の奇跡と言っても過言ではない。
「というわけで、放っておくわけにもいかなくて、ひとまず連れて帰ってくることになったんだよね」
「く、首にドラゴンが……!」
村に戻った俺たちは、村人の皆さんの目を揃って見開かせ、口をあんぐり開けさせることに成功していた。
「それって重たくないんですか? 苦しくもないんですよね? あったかいんです?」
腰に手を当て、パープルの瞳をぱちくりさせて、ピイちゃんをしげしげと眺めてあれこれと質問してきているのは、村の農業をとりまとめているカティという女の子だ。
アッシュグレーのゆるやかなウェーブがかかった髪をポニーテールにまとめ、動きやすそうなシャツとパンツに身を包んでいる。アクティブな服装は、色々と作業をしやすくするためなのだろうけど、口調がたいへんおっとりしているので、素敵なギャップがある。ちなみに年齢的には俺やリタのふたつ上、二十歳だ。
「なんとこのまま寝てるんだよ、かわいくない? 名前はピイちゃんです」
「わあ、本当にぐっすり寝てるんですね。寝息までかわいいです」
「わかってくれますか! この、ときおり鼻息がふんすってなるところとかもう、たまらんですよね!」
「たまらんですね!」
揃ってにっこりとした笑みを浮かべ、首をかしげる俺とカティに、リタもつられて笑っている。
「いや、かわいいのはわからなくもないんだがね。これは一大事なんじゃないか? とりあえず、ランドを呼んでくるよ」
冷静な村人さんが駆け出し、残った皆でドラゴンをどうするかの相談と、荷車の整理を手分けすることにした。
「こいつは本当にすごいな。ノヴァ、あんた何者なんだい? これだけのものを半日程度で集めて、ドラゴンまで連れて帰ってくるなんて」
これでもかと登場するレア食材、レア素材に、村の皆さんから口々にお褒めの言葉がとんでくる。レア度が低いものにしても、質がいいとか通常のものより大きいとか、何かしらいいものばかりが入っていたようだ。桶屋クエスト、様々だね。
「それでこの子、放っておけなかったっていっても、いったい何がどうしてこうなったんです?」
俺とリタは、森の中での一連の出来事と、その最後に卵を見つけたこと、色々あって卵が孵化したことを簡単に説明した。
さすがに、煮込んで食べようとしたことは黙っておいたし、リタも見事なコンビネーションで辻褄を合わせてくれた。ゴールデンルビーフィッシュも結果的に手元からなくなってしまったので、そのことも黙っておいた。
カティは目をきらきらさせて話を聞いてくれたけど、まわりを囲む村人さんの顔は険しい。
「この子、お話からするとなんでも食べそうですけど、一日に何回くらいお食事するんでしょうね?」
「わかんないけど、食べ続けてなきゃ大変……って感じではなさそうだよ」
「そうなんですね。眠るときは基本的にノヴァに巻き付いてるんですか?」
「え、どうなんだろ。もしそうだったら、うれしい悲鳴というか、どうしよう」
「待て待て、いっしょに暮らす気満々のところ悪いが、親のドラゴンがきたらどうするつもりなんだ?」
食べ物や寝床の話を始めた俺とカティに、村人さんに呼ばれてやってきたランドが割って入った。
今のピイちゃん自身に、危険はほぼないはずだ。ただし、ランドが言うように、親ドラゴンがどうかといえば、それは個体によるとしか言えない。
理性的な個体が多いのは確かなはずだけど、知性も魔力も高いだけに、人を下に見ている個体もいれば、闇ギルドや悪意を持った相手に狙われて、人を嫌ったり憎んでいるものもいる。
迎えにきた親ドラゴンがそういうタイプだった場合、誠心誠意説明するしかないけど、それでも怒りを買ってしまった場合は、村自体が危ういなんてこともあるかもしれない。
何か言いたそうにしたリタに、「いいんだ」とそっと告げて、俺は頭を下げた。
「ランドや皆の心配してることはわかるよ。いきなり連れてきて、無理を言ってごめん。カティも聞いてくれてありがとう。少し休ませてもらったら、行くよ」
この村の迷惑になってはいけないのに、村の中まで連れてきてしまったのは俺のミスだ。
かといって、ピイちゃんをこのまま投げ出せるかといえば、すでに情が湧いてしまっている今、それもノーだ。となれば、俺がピイちゃんを連れて村を離れるしかない。
卵を見つけた場所から離れすぎてもいけないだろうし、しばらくは山暮らしかな。村の皆とも物々交換しながら暮らしていけると助かるけど、完全に野宿でもまあ、なんとかはなるかな。
目安は、ピイちゃんの親が迎えにくるか、この子が独り立ちできるくらい大きくなるまでだけど、もしかしたら、ある程度の年月を考えておいた方がいいかもしれない。
この子が生まれたときの魔力を感じ取れる範囲に親がいたのなら、もう迎えにきていてもおかしくないはずだ。半日近くが経っても来ていないうえに、卵が冷えかけていたことを考えると、親ドラゴンに何かあった線も考えなくちゃいけない。
「うん? 今日はまだどこかに行くのか? 祭りの準備があるにしても、想定外の事態なんだ。とりあえず今日はもういいんじゃないか?」
「いや、だから皆に迷惑をかけないように」
「え?」
「は?」
ランドと俺の頭の上に、それぞれ疑問符が浮かぶ。どうにも会話がかみあっていない。
俺は、ずり落ちかけたピイちゃんをそっと首に巻きなおして、話を整理しにかかった。
「だって、親ドラゴンが迎えにきたときに、どうするのかって」
村に何かあったらどうするのか、という意味でなければ、どういうことなのか。
「こんなにかわいくて、こんなに懐いてるのに、手放せるのか? 離れていても友達だって、割り切れればいいけどな」
「あれ?」
「あれ、じゃないだろ。この子……ピイちゃんだったか? こんなにノヴァにくっついて、そもそもちゃんと野生に戻れるのか? この村でいっしょに暮らす方法もあるんじゃないか。いや、それより、ちょっと触ってみても? ん、どうした? ノヴァ、ちゃんと聞いてるか?」
「いやあ、思ってたのとだいぶ違うなって」
「ランドって、こう見えてかわいい動物とか大好きだもんね」
リタが隣でくすくすと笑う。
俺が一人でぐるぐると考えた、シリアスな葛藤を返してほしい。
険しい顔に見えたランドは、親ドラゴンが迎えにきたときの、俺とピイちゃんとの別れとか、本当に野生に帰れるかどうかを気にしてくれていたらしい。
俺たちを囲むほかの村人さんも、「なんでも食べるって言っても、本当はあげちゃいけないものとか、あったりしないのかな」「うちの納屋なら貸せるぞ!」などと、どうすればより快適に、いっしょに暮らせるかを口々に提案してくれる。
のんびりしているというか、平和というか、ちょっと心配にはなるけど、俺はまた少しこの村が好きになった。
「うおお、なんてやわらかさだ! ふっかふかじゃないか!」
ひとまず村全体で面倒を見ることに決まると、ランドはさっそくピイちゃんを撫でて、感激の雄たけびを上げた。
「静かにしてよ、ランド! ピイちゃんが起きちゃったじゃない!」
「悪かったよ。そうだ、ノヴァの部屋、まだ余裕あるよな? ひとまずこの子の寝床はお前さんの部屋に作っていいか? つっても、藁がいいのか毛布がいいのかわからんが……それらしいやつをいくつか運ばせるからよ」
「うん、ありがとう」
ランドは、リタだけでなくその場の全員からブーイングを受けつつ、そこは村長らしく、ピイちゃんを俺の部屋で寝られるように整えることを約束してくれて、場を収めにかかる。
ピイちゃんの食べ物についても、村の蓄えからなんとかしつつ、足りない分や特殊な何かが必要なら、俺を中心にがんばってみるということで落ち着いた。
そのあとは荷車の整理を一段落させて、目を覚ましたピイちゃんに皆で四苦八苦しながらごはんを食べさせたり、水を飲んでもらったり、寝床の具合を確かめてもらったりと、一喜一憂の大騒ぎだった。
あっという間に日が暮れてしまったけど、新鮮で驚きの連続の一日だった。
これから始まるピイちゃんとの暮らしに、俺も村の皆もわくわくしていたのだけど、その日の夜に、さっそく事件は起こってしまう。
ごうごうと吹きつける風が、普通ではないと最初に気づいたのは誰だっただろうか。
ずんと大きな何かが着地する音に飛び起きた俺たちは、昼間以上に目を見開き、口をあんぐりと開けて立ち尽くすことになった。
村の入口には、鋭い目つきでこちらをにらみつける、二頭のドラゴンの姿があったのだ。
月明かりを受けて真っ白に輝くなめらかな毛と、きらきらと輝く宝石のようなブルーの鱗。色合いといい二本の立派な角といい、ピイちゃんにそっくりだ。
抑えているはずなのに、二頭から感じる魔力はとんでもないもので、間違っても戦ってはいけない部類のお相手のようだ。
「いやあ、もふもふドラゴンとのんびりライフ……短い夢だったなあ。元気でね、ピイちゃん」
俺は半笑いかつ半泣きで、非常識な時間に飛来した親ドラゴン二頭を、ぼんやりと眺めるしかなかった。
「我らの子を、無礼にもさらったのは貴様たちか」
「私たちがシャイニングドラゴン、ツァイスとソフィのつがいだと知ってのことですか。魂すら凍てつかせるブレス、よほど味わいたいようですね」
親ドラゴンさんは、自分たちをシャイニングドラゴンだと名乗った。
完全に誤解されすぎていて、ブレスなんていただくまでもなく、魂が口から出ていきそうだ。
シャイニングドラゴン。それはこの世界で、数々の書物や伝承に語られる、伝説のドラゴンだ。
高い魔力と戦闘力の高さは数あるドラゴンの中でもトップクラス。吐き出すブレスは、どの伝承を見ても、魂すら凍てつかせるとの触れ込みで有名だ。
どうして俺がこの世界のドラゴンに詳しいのかといえば、勇者パーティーでダークドラゴンを討伐したおかげだ。討伐の前に、何かできることはないものかと、ドラゴン全般に関する文献や伝承を読み漁っていた時期があるのだ。
魂を凍てつかせるなんて、誰が大げさに言い出したのかと思って読んでいたものだけど、まさかご本人さんの口上として登場する感じだったとは。
当時、半分本気、半分冗談で「シャイニングドラゴンをどこかから見つけてきて、ダークドラゴンとぶつけたら話が早いんじゃない?」と提案したら、サイラスに本気で怒られたっけ。
「伝説のドラゴン様を最後に拝んで逝けるってのも、まあ悪くないか」
「あらあら、これはどうしようもなさそうですね」
「何言ってんの! こっちは悪いことしてないんだから、ピイちゃんを連れてきてちゃんと話をすればきっと大丈夫だよ! ノヴァ、ピイちゃんは!?」
完全にあきらめモードのランドとカティをひっぱたいて、リタが俺に詰め寄る。
「まだ寝てると思う。すごいよね。ご両親、ど派手なご登場だったのに」
「感心してる場合じゃないでしょ、連れてきて!」
「待て。誰一人として、そこから動くことを許さぬ」
ぴり、と空気の温度が下がる。下手に動けば、弁明の機会も与えられず、終わってしまう。そう認識させられるのに有り余る圧力だ。
親ドラゴン……ツァイスとソフィからすればこの村が、大事な子供をさらった極悪で矮小な人間どもの巣、という認識になっているのは間違いなさそうだ。
矮小な人間どもサイドとしては、まあまあ頑張ってお子様のお世話をしたので、ぜひお話を聞いていただきたいところなんだけど。
というか、俺はだんだん腹が立ってきていた。
運よく、本当に運よく孵化できたからよかったものの、こんなに怒るくらいなら、冷えかけた卵を放置してどこをほっつき歩いていたんだよ。
それで、子供をさらったのはお前たちかと夜中に踏み入ってきて、力に訴えるような言い方をしてくるなんて。
「ピイちゃん……ええと、あなた方のお子さんは確かにこの村にいます。いますけど」
「やはりそうか。貴様ら、許さんぞ」
「けど! っつってんでしょうが!」
びりびりと村中に響く大声……というか怒声で、俺はツァイスの言葉を遮った。
「気持ちはわからないでもないけど、話聞いてよ。俺が見つけたのは大きな卵で、ほとんど冷えかけてたんだよ。それをあの手この手で温めて、どうにか孵化してくれたんだ。あの子、今は寝てるけど、ひどいことをしたりしてないのは、起きてくれば証明できる」
「……嘘ではなかろうな」
「嘘ついてどうすんのさ。むしろ大丈夫? この村は、大事なお子さんの命の恩人ですよってことなんだけど? その相手に、動くなとか許さんとか初手からイキりちらかして、どう謝ってくれるか楽しみだね」
「無礼な」
「だから、今、無礼なのはあんただってば。言葉を返すようだけど、そこ、一歩も動かないでよ。あの子、連れてくるからね」
ツァイスの言葉をそのままお返しして、俺はふんと鼻息を荒くする。
真っ青になっているランドやカティの横をすり抜けて、ピイちゃんといっしょに寝ていた部屋へずんずんと歩いていく。
部屋に戻ると、これだけの振動やら怒声やらが飛びかった後というのに、ピイちゃんはまだぐっすり眠っていた。
「はあ……完全に言い過ぎた。この子を見てたら反省してきた。事情も知らずにイキりちらかしたのは、俺も同じだよ。っていうか、なんなら食べようとしてたんだよね。本当にごめん」
そっとピイちゃんの頭を指でくすぐる。角の間をこしょこしょすると、気持ちよさそうに身体をくねらせて、小さく鳴いて目を覚ましてくれた。
「起こしちゃってごめんね。きみのお父さんとお母さんが来てるんだよ。ちょっと誤解されちゃってるみたいでさ、事情を説明してくれないかな?」
俺の言葉を聞いたピイちゃんは、ふわりと浮き上がって俺に身体をこすりつけると、窓からそっと外を眺めて、大きな声で「ピイ!」と鳴いた。
「わ、ちょっと、引っ張らなくてもいっしょに行くよ」
寝ぼけてゆっくりした様子だったピイちゃんは、外の様子を確認して事態を把握したらしく、俺の服のすそをぐいぐいと引っ張って、早く行くよう催促してきた。どうやら窓の外にいるのは、本当に親ドラゴンのようだ。
ピイちゃんに引っ張られて外に戻ると、「おお!」とツァイスとソフィがそろって感嘆の声をあげる。
「無事であったか……すまないことをした」
「見守ってあげられなくてごめんなさいね。無事に生まれてくれて本当に嬉しいわ」
二頭の間を、ピイちゃんが大喜びで飛び回る。
「ピイちゃん、説明してさしあげて」
「ピイ! ピイイ!」
「むう……まさかそのような」
「なんてことなの……本当に」
ピイちゃんの言葉は俺にはわからないけど、二頭のリアクションからすると、どうなんだろう。
このニンゲン、最初は食べようとしてたけど、食べ物とか色々くれたんだよとか、説明してさしあげちゃっているんだろうか。
怒られたら、ジャパニーズ土下座一択だね。駄目でも、村の皆だけは許してもらえるようにお願いしてみよう。
「皆さん、申し訳ない。大変に失礼なことをした」
「ごめんなさい。この子をさらわれて、気が立ってしまって……卵を温めてくれたばかりか、食べ物や寝る場所まで与えてくれた、本当に命の恩人だったのですね」
へなへなと、肩の力が抜ける。どうやら、ピイちゃんは素敵な説明だけしてくれたみたいだ。
「俺も言い過ぎました、ごめんなさい。でも、どうしてあんなところに卵があったの?」
非礼を詫びてから、気になったことを聞いてみる。
動くな、との呪縛から解放されたリタやランド、カティも前に出てきて、俺と並んで二頭を見上げた。他の皆さんは、さすがに前に出てくる勇気が出ないのか、遠巻きに眺めている。
「実は、卵を盗まれてしまってな……一生の不覚よ」
「でもこの子に会えて、本当の無礼者が何者なのかわかったわ」
「え、どうやって?」
「この子に、邪な魔力がうっすらとこびりついているの。かわいそうに……本当にごめんなさいね」
小さく息を吸ったソフィが、純白のブレスをそっとピイちゃんに吹きかける。邪な魔力とやらは俺には感知できないけど、ピイちゃんが喜んでいるところを見ると、吹きはらってくれたのだろう。
「よかったね、ピイちゃん。想像してたより短い間だったけど……すごく楽しかったし、いっしょにいられて嬉しかったよ」
「元気でね」
なんとか笑顔を作った俺に続いて、リタも短く言葉を投げた。
ちらりと見ると、リタの目には涙がたまっている。かくいう俺も、ほとんど泣き顔に近い。おかしいな、泣くつもりなんてなかったのに。
「ピイ!」
ピイちゃんはちらりとツァイスとソフィを振り返ってから、まっすぐ俺とリタのところに下りてきてくれた。するすると飛び回って身体をこすりつけると、くるりと俺の首に巻きついて、満足げな顔を浮かべる。
「まあ、この子がここまでなついているなんて……あなた、どうかしら? もう少しの間、この方たちに預けてみては」
「むう、しかし」
「これから、無礼者のところにお仕置きにいかないといけないでしょう? 危ない場所にこの子を連れていくわけにもいかないし、一人で待たせるのも、ね? それに、あの子が一番なついているあの方からは、不思議な力も感じるわ」
「そうだな。わが子を救ってくれた人間よ……もう少しの間だけ、その子を頼めないだろうか?」
「いや、むしろいいの? 何かあったらそりゃあ全力で守るつもりだけど、俺はその、不思議な力はあるかもしれないけど、そんなに強くはないっていうか」
頼ってもらえた嬉しさはともかく、事実は伝えておくことにする。
まだもう少しの間、この子といっしょに過ごせるならそれは嬉しい。嬉しいけど、何かあったときに、必ず守れるとは胸を張って言い切れないのも、残念ながら事実だ。
「例えばどっちかだけでも残るとか……二人そろって行かないと、危ないような相手なの?」
「……聞かぬ方がよいこともある」
ツァイスが、たっぷりと間をおいて答えてくれる。よし、これ以上の深掘りはやめておこう。本当にいいことなさそう。
「それじゃあ、食べ物とか寝る場所の準備と、遊び相手くらいしかできないかもしれないけど、ぜひ引き受けさせてください」
「ありがとう、助かります」
ソフィが深々と頭を下げるので、俺たちもつられて頭を下げる。
ピイちゃんは大喜びで、両親と俺たちの間を飛び回っては、嬉しそうに鳴いてくれる。
「あなた、念のためあれを」
「そうだな。わが子を守るため、そしてわが子を預けるそなたらを守るため、簡単な結界を張っておきたいのだが、よいか?」
「ランド、どうする?」
「お、おう……いいぞ」
こくりとうなずくと、ツァイスとソフィが夜空へと飛び立つ。
村の上空で、踊るように優雅に旋回する姿は、この世のものとは思えない美しさだ。
二頭の描く軌跡が、見たことのない魔法陣を形成していく。俺たちが使う魔法とは、別の体系にのっとっているのだろう。
柔らかな青い光で形作られた立体的な魔法陣は、村の端にある畑まですっぽりと覆う大きさの球体に成長し、何度か明滅すると、すうと見えなくなった。
「すまぬな、竜種のブレスを受け続ければ百年ほどしか持たぬ簡単な結界だが、これでひとまずの守りとさせてくれぬか」
「いやいや、竜種のブレスに百年ほどて。どんな世界の終わりを想定してんですか、十分すぎるでしょ! 今夜からここが、世界一のセーフティゾーンだわ! っていうか、百年戻ってこないつもり!? ピイちゃんはとっくに大人だろうし、ここに揃ってる顔はほぼ全員いなくなってますけど!?」
「むう、無礼者の居場所はわかっているゆえ、いく月もかからず戻れると思うが」
きょとんとする二頭に、俺はリタと顔を見合わせて大きなため息をついた。過保護ドラゴン、ここに極まれりだ。
ともかく、村の中にいる限り、どう考えてもピイちゃんは安心安全になった。
村の外に出るときだけ、気をつけておけばなんとかなるだろう。
「はあ……とりあえず、お気遣いありがとう。なるべく早く帰ってきて、この子を安心させてあげてね」
うむ、と力強くうなずくと、ツァイスとソフィが再び翼を広げた。
「ではゆくか、卵を奪われた怒りと恥辱、魂の奥底まで後悔させてくれる! ガアアアアアア!」
「ええ、あなた。とどめは私に譲ってくださいな! ギャオオオオオオ!」
最後の最後で本能をむき出しにして、二頭のドラゴンが空の向こうに飛び去っていく。
あの二頭の恨みを買ったのがどこのどちら様かは知らないけど、宣言どおり、魂の奥底まで後悔することになるのは間違いなさそうだ。
「はは、すごかった。びっくりしたけど、なんとか誤解がとけてよかったね。ものすごい結界も張ってもらっちゃったし」
「結果的になんとかなってよかったが、お前さん、意外と沸点低いんじゃないのか? 荒ぶる伝説のドラゴンに、イキりちらかしてだのと言い返したときは、さすがに肝が冷えたぞ」
ランドが完全に引いた顔で俺を見てくれば、「人は見かけによらないですね」とカティもじわりと半歩下がってみせた。
「わたしはちょっと爽快だったかな。だって、ひどい言われようだったし」
「おお、リタさんや。わかってくれるかい」
「もちろん、例によってスキルのクエストが出てたんでしょ? 親ドラゴンにキレちらかすと、村が守られてピイちゃんともいっしょにいられる、みたいな」
目をきらきらさせるリタには申し訳ないけど、今回は完全に俺の独断で、スキルは発動していない。
「ごめんね、スキルは発動してなかったよ。喧嘩になってたらどうしてたんだろう、考えてなかった」
「え……こわ」
味方かと思われたリタが、あっという間に手のひらを返して、ものすごい勢いで後ずさりした。
「だから、そんなに万能じゃないんだってば。っていうか引くの早すぎるでしょ! どっちかっていうとリタはこっち側じゃない?」
「それ、どういう意味?」
興奮で目が冴えてしまった俺たちは、しばらくの間ぎゃあぎゃあとやりあってから、誰ともなしにそれぞれの部屋に戻って、眠りについた。
夜中に二頭のドラゴンが飛来して、大騒ぎになった翌日。
完全に寝不足だったので、少しゆっくり眠ろうと思っていたのに……俺の安眠はいとも簡単に、もっとも身近なところから崩された。
「ピイイイイ!」
「ぎゃあああ! おはよう! 耳のすぐそばで! 元気なおはようありがとうね!」
昨日あれだけはしゃいでいたのに、その前にぐっすり眠っていたおかげなのか、そうそうに起きだしたピイちゃんが、俺をあの手この手で起こしてくれたのだ。
毛布ごしに身体をこすりつけ、お腹にダイブし、顔をなめ、鼻を甘噛みし、最終手段は至近距離でのおはようのあいさつだった。
飛び起きた俺を見て、得意げに満足げに、くるくると飛び回るピイちゃんはすごくかわいい。でもこれは大変だ。毎朝のように今のおはようをもらっていたら、あっという間に難聴になってしまいそうだ。
「完全に目が覚めちゃった……着替えて顔洗おうかな」
今日はいったん村の外には出ずに、ピイちゃんが一日にどれくらい食べて、飲んで、どう過ごすのかを把握するための日にすると決めていた。
昨日の食べっぷりを見るに、かなりの食料が必要になりそうな予感がする。食べるものが豊富なラルオ村ではあるけど、場合によっては、明日からの食料調達のペースを上げないといけないかもしれない。いっしょに森で過ごすのも楽しそうだけどね。
それから、食べられないものがないかどうかも、これはピイちゃん自身の感覚に頼るしかないのがちょっと怖いけど、見極めておく必要がある。村の外に出なくても、意外とやることは多そうだ。
いつものように一階に降りていくと、テーブルに肘をついて、リタがうとうとしていた。厨房の中では、何人かの村人さんが朝食の用意をしているところだった。
「おはよう、大丈夫?」
「ああノヴァ、おはよ。ありがとう、大丈夫。起きてはみたもののどうしても眠くて、朝の準備はかわってもらっちゃった」
「昨日はすごかったし、大変だったもんね」
ぐだぐだと挨拶をかわして、準備してもらった朝ごはんを、二人でのそのそと盛り付けて席に戻る。もしゃもしゃとサラダを口に運びつつ、ピイちゃんに村を案内するルートを考えてみた。
「とりあえず一周して、近くの畑もまわって、ここからここまでが村なんだよって、教えてあげようと思うんだよね」
「うん、ちゃんと紹介できてない人もいるし、顔見せも兼ねてそれでいいんじゃないかな。ところで、ピイちゃんは? まだ寝てるの?」
え、と思わず口から漏れて、あたりを見回す。
いない。いっしょに降りてきたはずなのに。
「おっと、お前さんは昨日の子じゃないか。ノヴァかリタはいっしょじゃないのか?」
外から聞こえた声に、俺とリタは二人で勢いよく立ち上がる。
農作業の準備をしていた村人さんの納屋に、ピイちゃんが入ってしまったらしい。中を覗けば、なんともわくわくした表情でぱたぱたと羽を動かしている。
「こっちおいで。俺から離れないようにしようね」
伝わったのか伝わっていないのか、ピイちゃんは首をかしげてきょとんとすると、ふわふわの白い毛を俺にすりつけて、小さく鳴いた。
「この子、まだ知らないことの方が多くて。ごめん、少しずつ教えていくから」
「いやいや、こっちもびっくりして大声出しちまって、悪かったよ」
村人さんに謝ってその場は事なきをえたものの、この後もピイちゃんは、村のあちらこちらで旺盛な好奇心をこれでもかと発揮した。
そばにいてねと伝えても、気がつけばふらりといなくなっているし、何も怖がることなく色々な場所に飛び込んでいくし、作業中の村人さんにちょっかいを出してみたり、食べられるものがあれば食べてしまったりした。
そのたびに俺とリタは追いかけて、あちらで謝り、こちらで謝り、これは勝手に食べちゃいけないんだよなどと諭していく。
「なんだかすごい結界まで、村中に張ってもらったんだろ? そんならこの子は、村の守り神みたいなもんだ。元気で自由にしてくれていいさ」
昨日の夜のことがあるので、ほとんどの村人さんは、ピイちゃんが伝説のシャイニングドラゴンの子供であることを認識している。当然ながら、ツァイスとソフィが、結界を張っていったこともだ。
でも、それに甘えるわけにはいかない。仮とはいえ、いったんその身を預かっている立場の俺が、きちんとしなくては。
「……つ、疲れた」
「まだお昼前とか、うそでしょ? 体力ありあまりすぎじゃない?」
結局、朝ごはんのあとから午前中いっぱいを、追いかけっことごめんなさい行脚に費やした俺たちは、木陰にごろりと転がっていた。
ピイちゃんは今も畑の上を飛び回っては、くるくると旋回してみたり、色々なところの匂いを嗅いでみたりと忙しそうだ。
「午後はもう少し、村はずれの方に行ってみようか。そっちの方なら、そんなに入っちゃいけない場所とかはないと思うし、作業してる人も少ないから」
「賛成……このペースのまま、丸一日はちょっときついかも。今はまだ、目新しいものが多いからこれだけはしゃいでるんだって信じたい」
異世界特有のもふもふと、のんびり過ごして、たまに冒険したりしてきゃっきゃするスローライフは、俺の理想のひとつだ。でも、その裏にこんな体力勝負が待っているとは思わなかった。
そうだよね、実際に生き物と暮らそうと思ったら、言葉が通じないことの方が多いし、大変なことの方が多いよね。
知性のあるドラゴンって言ったって、最初は何もわからないところからのスタートなんだから。むしろ、生まれたそばから父親のツァイスみたいに「我は腹が減ったぞ」とか艶のある声色でしゃべりだしたら、その方が複雑な気持ちになりそうだしね。
「これも醍醐味ってことか……!」
「うん? ノヴァ、いきなり叫んでどうしたの?」
「いやいや、今日も少しずつ、理想に近づいてるんだなって思ってさ」
そうなの? と聞き返してくるリタの視線は生ぬるかったけど、俺はすでに切り替えている。
「よーし、休憩終わり! 次いってみますか!」
ぐいと身体を起こして立ち上がると、まだくるくると飛び回っているピイちゃんに手を振った。
お昼の休憩と軽食を終えた俺たちは、予定どおり、村の中心部から外れた畑の方へやってきた。このあたりになると魔獣除けの柵にも隙間が多くなるけど、昨日のシャイニングドラゴンの百年結界のおかげで、もはや柵はいらなくなっていた。
俺たちを見つけて侵入を試みた毒猪が、見えない壁にはじかれてくったりと気絶するところを、この目でしっかり見たからね。どうやらこの結界、魔獣や魔物だと識別した相手からのなにかしらを、同じ力で跳ね返す効果があるらしい。
俺やリタ、ピイちゃんが通り抜けても、当然ながら何の反応もなかったし、小石や小枝を投げてみても、跳ね返されたりはしなかった。
「どうやって判別してるんだろう」
「村の皆とかピイちゃんに、悪意があるかどうか、とか?」
「ううん。それじゃあ例えば、午前中みたいにピイちゃんが自由奔放に動き回って、村人さんの誰かがちょっと怒ったりしたら、その人はどうなるのかな?」
「え! それはさすがに大丈夫なんじゃない? 大丈夫だって、信じたい……」
少し怖い想像をしつつ、結界があまりに強力だったことで、俺たちは油断してしまったのだ。
ふらりと村の外に出たピイちゃんめがけて、待ち構えていた毒猪が突進してきた。
俺とリタの二人で連携して、なんとかピイちゃんから引き離して、これを撃退したところまではよかった。
よかったのだけど、例によってその場からは、ピイちゃんの姿が消えていた。
もう少し気を配っていればよかった。結界との境目になるような、村はずれはやめておけばよかった。そもそも、生まれたてのドラゴンを預かったことが間違いだったのでは。
ぐるぐると回る思考をどうにか落ち着かせて、とりあえず無事を確認しなければ、と二人で村の外を駆け回って、名前を呼んで探し回った。
もしかして、生まれた森に戻っていたりするのでは、と明後日の方角に顔を向けたそのとき、結界の中、村はずれの畑の脇にある小屋の扉が、少しだけ開いているのが目に入った。
「リタ、あそこって開いてたっけ? 何が入ってるの?」
「あそこは農具とか、収穫した野菜を一時的に保管して……まさか!」
リタのまさかは、豪快に的中した。
絶句する俺たちの目の前に現れたのは、小屋の中に保管されていたであろう野菜を残らず食べつくし、お腹いっぱいでうとうとし始めているピイちゃんの姿だった。
「ここって、どれくらいの量が保管されてたのかな?」
「残念ながら、小屋いっぱいに入ってたんじゃないかな」
「まずいよね?」
「そう……ね」
あはははは、はあ。
二人分の乾いた笑い声に反応して、ピイちゃんが目を覚ます。
大喜びでこちらにくるかと思いきや、何やら様子がおかしい。しきりにあたりを見回しては、目をぱちぱちさせている。
声をかけて近寄ろうとしたら、大きく一声鳴いたかと思うと、俺とリタの間をすり抜けて、猛スピードで外に飛び出していってしまった。
「なになに、どうしたの?」
「また村の外に出ちゃったら大変だ、追いかけよう!」
急いで外に出た俺たちは、改めてぼうぜんとすることになった。
一応、言葉を選ぶのであれば、畑がピイちゃんの落とし物で溢れていたのだ。
上下からのそそうを振り撒きながら飛び回るという、トリッキーかつ大変な曲芸をやってのけたピイちゃんは、なにやらすっきりした顔でこちらに戻ってくると、俺の脇に頭をすりつけて甘えてきた。
お腹いっぱいになったし、気持ち悪いのも治ったよと報告してくれているらしい。
「ここの畑ってどちら様のなんだっけ? 謝って許してもらえるといいんだけど……っていうか、ピイちゃん? なんか大きくなってない?」
「え、本当だ! ふたまわりくらい大きくなってる!」
今朝まで長めのマフラーサイズだったのに、今は、尻尾まで含めると俺と同じくらいのサイズになっている。
ドラゴンって、一日でこんなに成長するの!?
この調子だと、数日でとんでもないことになっちゃうんじゃない?
あれこれと立て続けに驚きすぎて、頭から湯気が出そうな俺たちをよそに、ひとしきり甘えたピイちゃんは、俺の首にくるりと巻きついた。もはや首だけでは収まらないので、上半身まで覆い被さっている感じだ。
「意外と重くないし、めっちゃもふもふ! かわいいね!」
「いいなあ! じゃなくて、気持ちはわかるけど、現実逃避はそれくらいにしよっか。とりあえず事情を説明して謝らないと。村の畑は誰のっていうわけじゃないんだけど、基本的に全部カティが取りまとめてるから」
「そっか。この時間だとどこにいるかな?」
「どうかな。とりあえず戻って、誰かに聞いてみるしかないかも」
二人で小さくため息をつく。俺に巻きついたピイちゃんは、さっそく寝息を立て始めている。食べ物をどうするか、真剣に考えないとな。
村の食糧を食べ尽くしちゃいました、なんてことになったら、さすがに皆も怒るだろう。というか、すでに小屋ひとつ分を食べちゃってるし。
「あらあら、これは大変ですね」
とほとぼと歩き出した俺たちはすぐに、聞き慣れた声に立ち止まった。ちょうど巡回してきたらしいカティと、数人の村人さんが、空っぽになった小屋の中を眺めて目を丸くしていたからだ。
「カティ、ごめん。これ、俺の責任なんだ」
「ノヴァの? ああ、なるほど。なんとなくわかりました」
俺に巻きつくピイちゃんを見て察したらしいカティが、うんうんとうなずく。
「ということは、向こうとその向こうの小屋も、ノヴァたちが?」
「え!?」
「向こうと、その向こう……も?」
驚いた様子の俺とリタに、「あら、違いました?」とカティが首をかしげる。
「ここと同じように小屋が空っぽになっていたので、てっきり同じかと」
「ご、ごめんなさい!」
まさか、そんな短時間に、何箇所も!?
俺とリタは揃って頭を下げる。いくら食べ物が豊富とはいっても、いくつもの小屋と畑をあっという間に食べ尽くしてしまうのはやりすぎだ。
「足りなくなった分は、必ず補填するようにする」
「ピイちゃんにもちゃんと教えていくから。本当にごめんなさい!」
いくら伝説のドラゴンの子供とはいえ、追い出されても仕方ないかもしれない。俺にできることは、真剣に謝って挽回のチャンスをもらうことだけだ。
チャンスをもらったとしても、この量を補填するには一日二日で終わるとは思えない。それに、ピイちゃんが一食につき小屋三軒分の食料を必要とするなら、どちらにしても相談が必要だ。身体が大きくなっているし、さらにここから食べる量が増えるかもしれない。
頭を下げたまま、しばらくカティたちの返事を待ってみたけど、一言もリアクションがない。あまりの呆れっぷりに、言葉もないということだろうか。
「お願いがあります、顔をあげてください」
顔をあげて様子をうかがうか、まだもう少し待つか、迷い始めた頃に、カティがぽつりとつぶやいた。
「俺にできることなら、なんでもする」
わたしも、とリタもぎゅっと手に力を込める。
「その前に念のため確認です。これは本当にノヴァが……というか、ピイさんがやったんですね?」
ピイさん……ものすごい違和感だけど、今はそこに突っ込みを入れるのは悪手すぎる。俺は、歪みかけた口元を叱りつけて、むっつりとした顔でうなずく。
「ちなみに、ピイさんは眠っているだけですか? 昨日とはちょっと、様子が違っているようですけど」
「ああ、なんだろ。成長期なのかな……でもうん、眠ってるだけだよ。食料の補填だけじゃなくて、もちろん畑も元通りにするよ。だから」
「元通りに? それは困ります!」
え、と思わず声が漏れた。畑を元通りにされると困るって、どういうことだろう。元通りじゃ、補填にならないほどひどいってこと?
「わかった。それじゃあ、どうすればいい?」
おそるおそる聞いてみる。お願いがあると言ってくれたからには、挽回のチャンスはゼロではないと思いたい。
「他の場所も、いくつかここと同じようにできませんか?」
「うん? どういう意味で、ここと同じに?」
言葉の意味が理解できず、聞き返してしまう。リタも首を傾げて、やりとりを見守っている。
「ああ、そうですよね。ちゃんとご説明しないと、いきなりすぎましたよね」
カティは他の村人さんと顔を見合わせ、何かを示し合わせてから、俺とリタに向き直った。
「畑の土を確認してみても?」
「もちろん」
カティがうなずくと、村人さんたちが畑にずんずんと進んでいき、土を手ですくって質感を確かめたり、匂いを嗅いでみたり、日に透かして眺めたり、何やら魔法を唱えたりしてみている。
ドラゴンの生態はあまり知られていない。
つまりは、ドラゴンのそそうが土にどのような影響を及ぼすものなのか、知っている者もいないということだ。
たかがそそう、されどそそう。ソソウ・オブ・ザ・伝説のドラゴンともなれば、伝説級の警戒が必要ってことなのかな。そこまで頭が回らず、思考停止していた自分が恥ずかしくなる。
「あの、どうかな? リタが先に見てくれて、畑にも小屋にも、毒とかはないはずなんだけど」
やはりそうか、間違いない。そう言って、ごにょごにょと相談して戻ってきた村人さんたちは、カティに何かを耳打ちして一歩下がった。
そのかわりに、カティが気まずそうに前に出て、こほんと小さく咳払いをした。
「実はですね、ピイさんが空っぽにしてくださった小屋に保管してあった作物は、どれも毒がついてしまって、食べられないものばかりだったのです」
「え!? わたし、そんなの聞いてなかったよ!?」
驚いたのはリタだ。村のはずれとはいえ、村でとれた作物が大量に汚染されていたとなれば、本来であれば、被害状況を把握するためにも、まずは毒見のスキルを持つリタに相談があって然るべきだろう。
「そうですよね、ごめんなさい。私も、報告を受けたのが今朝のことで。リタを探していたんです。あ、厨房だとかに運んだ分は大丈夫ですよ。毒があったのは今のところ、こちら側のいくつかの畑だけですから」
「そうだったんだ……」
「畑がいくつも毒にって、そういうの、結構あるものなの?」
「うん。例の猪のせいでたまにね」
なるほど。毒猪は数が多いうえに、討伐もしにくくて、最低限の駆除で切り抜けてきたという話だった。こういう形で、畑に被害が出ることもあるのか。
猪そのものは人を襲ったりもしているから、雑食なんだろうけど。毒のある牙を掲げて突っ込んでくるから、どうしても色んなところが汚染されてしまうんだね。なんて迷惑な。
「あれ、でも待って。それじゃあ、それを食べちゃったピイちゃんは大丈夫なの!?」
確かにそうだ。俺は今更ながら背筋が冷たくなる気持ちで、ピイちゃんの様子をうかがった。巻きついた身体は暖かく、かといって熱すぎるようなこともなく、寝息も穏やかだ。
そっと頭を撫でてみる。なめらかでふわふわな真っ白の毛に指先が沈み、ピイちゃんが気持ちよさそうに身をよじって、薄目を開けた。
ピイちゃんはきょろきょろとしてからすぐに、おおあくびをひとつして、またすやすやと眠ってしまった。
「なんか、大丈夫そうだね?」
「あれだけの毒を大量に食べてなんともないなんて、すごいな……!」
「シャイニングドラゴンは熱にも冷気にも毒にも強い……まさしく伝説のとおりですが、これほどとは」
無事を確かめたことで、カティも村人さんたちも、感嘆の声をあげている。
「毒がついたまま土に埋めてしまうわけにもいきませんし、燃やして煙に毒が含まれていたらそれも困ります。かといって洗浄しようにも量が量で、とりあえず無事なものと分けて保管しておいたんです。本当に助かりました」
こちらが謝るはずだったのに、いまは反対に頭を下げられてしまっている。食べられもせず、処理にも困っていた毒物を、ピイちゃんがまとめてなんとかしてくれたってことだよね。桶屋クエストにも出ていないし、本当に予想外の展開だった。
「しかも、この土ですよ!」
ピイちゃんの落とし物が混じってしまったであろう、ほくほくの土をぐっと握りしめて、村人さんがさらにヒートアップする。もはや何も言うまい。ここは聞きに徹するのだ。
「リタの毒見でも出てこなかったとおり、ここの土に毒はないんだ! 昨日までは、触るだけで肌が焼けそうだったし、つんとした匂いもして大変だったのに!」
「ただ毒が消えただけじゃないぞ。こんなに上質な土は、そうお目にかかれないさ」
伝説のドラゴン、とんでもなかった。
上からもそそうしていたから、あまり食べすぎるのは心配ではあるけど、毒にかなりの耐性がある上に、落とし物に浄化作用まであるなんて。なんなら、俺より全然役に立っているじゃないか!
「そんなにすごいんだ……?」
誇らしいやらちょっと情けないやらで、へらりと笑うしかない俺の表情をどう読み取ったのか、カティが前のめりになる。
「本当にすごいんですよ! そこでお願いに戻るんですけど、ピイさんに負担がかかることでなければ、他の畑も同じようにお願いできませんか?」
「ああ、なるほど」
ようやく繋がった。同じようにしてほしいとは、小屋の中身と畑の浄化をさしていたわけだ。
元通りにしますから、なんて俺が言っても、響くわけがない。元通りとはつまり、毒のある状態に戻してしまうことになるからだ。
「ううん。この子の様子次第で決める感じでいいかな? 大丈夫だとは思うんだけど、畑の方の半分はこの子が吐いちゃったものだから」
「え、吐いちゃってたんですか。えと、もう半分は?」
「あれ、言ってませんでしたっけ? その、落とし物というか、ね?」
カティをはじめ、土を握りしめていた村人さんたちが、ぴしりと固まる。見た目も土と混ざってふかふかだし、それらしい匂いもしないので、気づかなくても仕方ない。
「これは、この子の……排泄物だと?」
あ、はい。なんかすみません。
なぜだか、やたらとよく響いてしまった俺の声だけが、固まった空間の隙間を縫って、するりと空気に溶けていった。
カティたちが大興奮で握りしめていた魔法の肥料は、ピイちゃんの排泄物だった。
空気がある程度の固まりを見せはしたものの、動物の排泄物を肥料として使う文化はこのあたりにもあったようで、そうなった流れをきちんと説明したら、一定の理解はしてくれた。
ただ、普通は排泄物をそのまま、即座に肥料として使ったりはできない。
加工処理というか、発酵処理というか、そういう工程が必要なはずで、そのあたりはカティも村人さんも首をひねるばかりだった。
ピイちゃんはすやすやと寝息を立てている。大量に食べて、大量に吐いて、大量に排泄して、ついでに一日でふたまわりも大きくなるのがドラゴンの正常な状態なのか、判断できる者がそもそもいないのは問題かもしれない。
無理に食べさせたりはせず、ピイちゃんのペースにある程度任せようということで、その場の議論は落ち着いたのだった。
「おかげで、結構な広さの畑がまた使えるようになりましたし、お礼も兼ねて食事でもいかがですか? 食堂より少しだけ、騒がしくなるかもしれませんけど」
カティたちは、それぞれの畑の状態の共有や作物の品質確認を兼ねて、定期的に集まって食事をしているらしい。
というのは建前で、ほとんど宴に近いものらしいけどね。大変な仕事だからこそ、楽しみを忘れないようにしましょうというのが、カティたちの方針なのだそうだ。
「すごいね! これ、食堂の方でもたまにやってほしいかも。農業班だけでやってるの、ずるい!」
「最初はもう少しこじんまりとやっていたんですけど、いつのまにかこうなってました」
カティたちについていってみると、そこではすでに準備が始まっていて、二十人程度の皆さんがわいわいと笑いながら、料理をしているところだった。
「あっちではお芋とお野菜を中心とした煮込みを、そっちの窯では穀物の粉を使ってパンを焼いています」
「パンに塗ってる黒っぽいの、もうちょっと近くで見てもいい?」
何やら懐かしい匂いに、俺はふらふらと調理場へ近づいていく。
「果実をたっぷり使って煮込んだソースで、味付けをするんですよ」
この匂い、色、そしてとろみ……これは、転移前の世界でお世話になった、あのソースに限りなく近いものなのでは?
穀物の粉、大量の野菜、肉と卵、そしてソースが揃っているとなれば、あれを試すしかないじゃないか!
「ちょっとそこの鉄板、お借りしても?」
「どうぞどうぞ」
「そっか、ノヴァも料理できる人だもんね。何を作るの?」
「お好み焼き!」
「オコノ・ミヤキ……どんな料理?」
これだけのものが揃っているのだし、現に焼き上がったパンにソースを塗ったりもしているので、近しいものはもうあるかもしれない。
それでも俺は、俺の食欲と望郷の念を満たすために、やらねばならない。使命感に駆られて鉄板の前にどんと立った。
ちなみにピイちゃんは、起こさないようにそっとおろして、近くの納屋のわらの上でおやすみいただいている。ドラゴンを身体に巻きつけたままじゃ、さすがに調理はできないからね。
「うーん、山芋にかわる感じのがあるとなおいいんだけど……なんかこう、粘り気のある芋とかあったりしない?」
「粘り気ですか? あるにはありますけど、あちらの煮込みの方で使っています。焼いてだと、あまり好んで食べる人はいないかもしれません」
「おお! あるならぜひ、試しに使わせて!」
カティにはやんわりと難色を示されてしまったけど、上手くいけばふわふわのお好み焼きができるかもしれない。
失敗したらそれはそれ。栄養をまとめてとるために、勇者パーティーの野営ではこういう風にするのが伝統だったとかなんとか、それらしいことを言ってごまかしてしまおう。
水と粉、山芋がわりの芋、卵、キャベツがわりのしゃきしゃき葉物を投入して混ぜ合わせていく。粉をふるえるとなお良かったけど、とりあえずよしとしよう。
すでに準備万端に熱せられている鉄板に、村でよく使っているというあっさりした植物油をのばしてから、生地を流し入れてまあるく形を整える。
「お芋は直接焼くのではなくて、水と粉と卵で生地にしたんですね。ありそうでなかった感じ……面白いです」
カティとリタが興味津々で覗き込み、それにつられて村人さんたちも集まってくる。なんだか、ちょっとした実演販売のようになってきてしまった。
「さて、そろそろだね」
両手に金属製のへらを構えて、集中する。
いい感じのへらが揃っていたのは嬉しいね。というかこのラルオ村、豊富な食材のおかげなのか、やたらと調理器具とか調味料が揃っている気がする。食への探求心が貪欲というか、どことなく懐かしい気持ちになるというか。
薄切りにした肉を生地にのっけてから、片面がいい感じに焼けてきたお好み焼きをくるりとひっくり返した。
おお、と村人の皆さんがうれしいリアクションを投げてくれる。昔から、こういうの得意だったんだよね。
芋や葉物の量はお好みでとか、実演販売っぽくしゃべりつつ、程よく火が通ってきたところで、もう一度ひっくり返す。肉にもしっかり火が通っていい感じだ。
「ここで先ほどのソースを取り出し、たっぷりと塗っていきます!」
完全に調子に乗った俺は、口調もそれらしくなってきて、自分が持ってきたものでもないのに、見せびらかすようにソースを皆さんに見えるように掲げてから、大げさな動きで塗りたくっていく。
これこれ、ソースの香ばしい匂い! 個人的には同じ量のマヨネーズも塗りつけたいところだけど、異世界マヨネーズは今の俺にはハードルが高い。
「これで完成! お試しだからとりあえず一枚だけだけど、食べてみて。熱いから気を付けてね」
「わたし、食べてみたい!」
「それじゃあ私もいただきますね」
へらで切り分けた一切れずつを、カティとリタが口に運ぶ。
俺と他の村人さんが固唾をのんで見守る中、二人の目がみるみるうちにきらきらと輝いていく。
「おいしい!」
「いいですね、これ!」
よかった、お好み焼きの正義が伝わった!
「これが合うなら、上にあれをまぶしてみてもいいかも? ちょっと待ってて!」
「お肉がいけるなら、川でとれる小エビでも美味しいかもしれませんね!」
リタが青のりのようなものを持ってきてふりかけ、カティがあっという間に海鮮焼きを考案し、食卓はお好み焼きの改良で大いに盛り上がることになった。
そもそもが、生地を混ぜて焼いてひっくり返して、のお手軽料理なので、村人の皆さんもすぐに焼き方を覚えて、あれはどうだこれはどうかと次々と創作お好み焼きが爆誕していく。
仕込み中だった煮込みもすごくおいしかったし、地産地消の真髄を見せてもらった。
「いやあ美味しかった、おなかいっぱい」
「ノヴァ、リタも、今日はありがとうございました。また今度、違う料理も教えてくださいね」
食べた分は、自分たちですぐに片づける。
朝でも夜でも食堂でなくても、それは同じだ。腹ごなしに洗い場で手を動かしながら、俺たちは並んでしゃべっていた。他の村人さんたちも、それぞれ片付けに取り掛かっている。
「こちらこそ。同じお好み焼きでも、人それぞれで発想も焼き加減も違って、面白かったよ!」
「今日のお好み焼きは、皆で作ってわいわい食べられますし、お祭りに取り入れてもいいかもしれませんね」
「そうだね! ってそうだった、ピイちゃんのことがあったから、結局お祭り用の食材集め、あんまり進められてないよね」
「ちらっとは聞いたけど、どんなお祭りなの?」
伝統的なお祭りみたいだけど、お好み焼きを取り入れる話をしているくらいだから、きちんとしたところと、緩いところのバランスを上手に分けていそうな気がする。
「山と森の神様に、一年間の恵みを感謝して、来年もよろしくお願いしますって気持ちを伝えるお祭りなんだよ。かがり火を焚いて、古くから伝わる舞をその年ごとに選ばれた踊り子が踊って、お供え物をするんだ」
「そのあとは、普段より少しだけいいものを食べたり、歌ったり踊ったりして一晩過ごすんですよ。というかリタ、今年の踊り子でしたよね。お稽古の時間、取れていますか?」
「うわ……全然できてない。そろそろきちんとやらないとだね」
お祭りのことを話す二人は、すごく楽しそうだ。思わず俺も、暖かい気持ちになってくる。
「いいね、そういうの。食材集めはもちろんだけど、他に手伝えることってあるかな? 正直に言うと、最初は自分のためっていうか……いい感じに自然のあるところで、のんびり暮らせればそれでいいやって感じだったんだけどさ。まだ出会って日は浅いけど、皆と色んな話をしたり、ピイちゃんとのことがあったりして、本当にここが好きになってきてるんだよね」
「ちょっとわかる。最初の頃のノヴァって、どこか他人事にしてる雰囲気あったもんね。あ、それが悪いってわけじゃないよ。いきなり当事者として考えるのはわたしでも無理だと思うし」
へらりとリタに笑みを返す。
その土地に根付いて暮らしていくことを、ふわっとしか想像できていなかった俺に、根気強く色々と教えてくれたのはリタやカティ、村の皆だ。
部外者として旅人気分でお祭りを眺めるより、入れてもらえるのならだけど、しっかり輪の中に入りたい。
「そうだ。それじゃあノヴァにも踊り子やってもらえばいいんじゃない?」
「え。興味はあるけど、大丈夫なの? 伝統的な、神様に感謝を捧げる踊りなんでしょ? 俺がいきなり入っていいのかな」
「大丈夫ですよ。むしろ、新参者は挨拶の意味もかねて、踊り子をやることが多いですし」
もちろん、無理強いするものではないですし、お稽古は厳しいですから、やる気と体力がついていければ、ですけどね。
カティの含み笑いは、俺のやる気を煽るには十分だった。
この世界では、自分から動かなければ何も起きないし、何も変わらない。反対に、動いてみれば動いた分だけ、何かが残るし、ついてくる。それは、勇者パーティーにいた三年間でも、十分すぎるほど体験してきた。
「やってみたい! どうしたらいいのかな、ランドに頼んでみればいい?」
「そうだね。それじゃあ、今日はもう遅いから明日、いっしょに頼んでみる?」
「うん、ぜひ!」
「お好み焼き以外にも、よさそうなお料理とか、皆で楽しめる何かとか、素敵な提案があればどんどんお願いしますね。伝統は大切ですけど、堅苦しいだけじゃ疲れてしまいますから、お祭りの改革は力を入れていきたいんです!」
わかった、考えてみるよ。
軽い気持ちで引き受けたこの話が、とんでもない大事になるなんて、このときの俺は知る由もなかった。
「いいぞ、ノヴァも踊り子で頼むわ。稽古はいつも夜にやってる。強制じゃないが、まあ出ておく方がいいだろうな」
確かにそうだよな、と思い出したように、ランドはあっさりと許可をくれた。だから言ったでしょ、とリタが得意そうにする。
結構な覚悟を決めて直談判しにきたのに、あっさりしすぎていて、拍子抜けだ。
「踊りの経験はあるのか?」
「ないよ」
正確には、転移前の学校の授業として、体育でやったことはある。でもそれを経験としてカウントしていいかは、微妙だ。
こっちに来てからは、身体を動かさざるをえないことばかりで、いつの間にか筋力も体力もついてくれたけど、それまではどちらかといえば、運動は苦手な方だった。
まさか、自分から祭りで踊りたいなんて言い出すことになるなんて、人生ってわからないね。
「そりゃあいいな!」
「え、経験ないのがいいの?」
「おお、やる気のあるやつは大歓迎だからな。経験値だけで気の抜けた踊りをやるやつより、必死に気合いれてやってくれた方が、神様も喜ぶってもんさ」
経験値のある人が、必死に気合を入れてやってくれるのが一番なのでは?
喉まで出かかった一言を飲み込む。自分のハードルを上げたうえ、場の空気を下げる一言になってしまうところだった。
「そういや、祭り全体の流れや準備も、お前さんに説明できてなかったよな」
ラルオの火祭りは、村の中心にどっしりと構える美少女の像、初代村長の時代から今に至るまで続く、伝統的なお祭りなのだという。
最初は火を焚いて儀式的なことをやるだけだったとか、踊りの振り付けは初代村長が考えたものがベースになっているとか、諸説はあるらしいけど、かなり昔から、炎と舞がセットになっているようだ。
「まあ、祭りのルーツが気になるなら、調べてるやつも何人かいるから、話を聞いてみるといい。とりあえず大事なのは、全く新しい、村全体がひとつになって盛り上がれるような、新しい風なんだ」
「え。あれ? そんな話だったっけ……?」
カティもそんなことを言ってはいたけど、ランドまで真剣な顔で人差し指を立てるものだから、混乱してきた。
「かがり火を焚いて、舞を踊る。それはいい。いいんだが、問題はそのあとだ」
「いつもより少しいいものを食べて、歌って踊ってみんなでお祝いするんでしょ? すごく楽しそうじゃない?」
「そうなんだが、このあたりで新しい何かがほしいんだよな。ノヴァ、世界中を勇者様といっしょに見て回ってきたお前さんなら、何かないか?」
「ううん、どうだろう」
勇者パーティーにいたことと、王都を追放になったことは、一応は話してある。追放と聞いて拒否反応のある人もいるかもしれないし、黙っているのはなんだかうしろめたかったからだ。結果はご覧のとおりで、むしろ色々と頼られるようになってしまった。
レア食材や素材はどんどん持ってくる、シャイニングドラゴンの孵化に立ち会って懐かれる、親ドラゴンに真正面から物申す、知らない料理を教えてくれる……なるほど、勇者パーティーにいたのも本当かもしれないな、という認識らしい。
「まあ今すぐでなくていいし、無理に捻り出すもんでもないからな。頭の片隅にでも、置いといてくれ。まずは舞をそれらしくやれるようになるとこからだな」
「ノヴァ、いっしょに頑張ろうね!」
それからは、輪をかけて忙しい日が続くことになった。
かがり火に仕込むお香がわりのような木の実や、踊りの衣装に使う装飾品や化粧用の素材、お祭り全体を飾り付けるための素材などなど、普段のことをやりながら、プラスアルファで集めてくるものが盛りだくさんだし、夜には舞の稽古も始まった。
村の中が結界で安全になったことで、畑で育てる作物についても、カティから相談されているし、初日ほどではないにしろ、自由気ままに振る舞うピイちゃんからも、目は離せない。
特に、舞の稽古は想像以上に大変だった。
今回の代表は十人で、基本的には動きをあわせて、伝統的なリズムに合わせて舞うことになっている。
その、基本的な動きをいちから覚えるのがまず大変だし、ついでにソロパートまであったのだ。
「ど、どうしよう。何も思いつかない……」
ピイちゃんが、きょとんとして首をかしげる。
みんなでお祭りをやって、伝統的な舞に参加させてもらえたら、楽しそう!
そこまでしか考えていなかった俺は、素材集めの途中で見つけた洞窟で、がっくりと肩を落としていた。
稽古が始まってからというもの、俺は普段の作業の途中でも、たまたま見つけた、このひっそりとした洞窟で個人練習をやっていた。人工的なものなのか、天然のものなのかはわからないけど、ホールみたいなちょっとした空間があって、空気も澄んでいて集中できるんだよね。
夜の稽古とあわせてみっちり練習してきたおかげで、ぎこちないながらも、基本的な動きはだいぶ覚えてきたと思う。でも、創作ダンスが入るなんて。
芸術的なセンスは、自慢じゃないけどまったく自信がないし、触れてこなかった分野だ。かといって、基本の動きのままで場を繋ぐのは残念すぎる。
「めちゃくちゃ楽しみだし、頑張りたいけど、どうすれば……!」
――チリン!
夢に見るほど悩んでいた俺を見かねたのか、桶屋クエストの鈴が鳴った。
お題目は、『異世界の風をさわやかな汗に乗せて吹かせれば、村の文明レベルが段違いに上がる』だ。俺はううんと首を捻る。結局どういうこと?
お祭りを成功させると、村にとってかなりいいことがありそうなのは確かなのだけど、抽象的すぎる。
「おお!?」
腕組みをしてスキルウインドウを凝視していると、立て続けに、桶屋クエストがメインのツリーにぶら下がる。
振り付けを完璧に覚えよう。ソロの振り付けを完璧に覚えよう。舞全体で七十七コンボを成功させよう。ソロで、伝説のドラゴンとコラボしよう。
といった感じで、舞関連のクエストが並び、別の括りで、異世界の知識を元に、新しいイベントを祭りに取り入れよう、とある。
最後のは、カティとランドが言っていた何か新しい風を……みたいなやつかな。真剣に考えてみた方がいいのかも。
それより問題は、振り付けだのコンボだのと並んでいる、舞関連の方だ。ソロの振り付けを覚えようって言われても、それが思いつかないから苦労してるのに。
そう考えた途端、スキルウインドウが手元から勝手に動き、俺の全身より大きなサイズにぐんと広がった。
「は? え? なにこれ?」
予想外かつ初めての動きに思考停止している間に、スキルウインドウには、人のような影が浮かび上がる。怪しい人影が現れても、咄嗟に飛び退いたりしなかったのは、耳慣れたリズムが聴こえてきたからだ。
「え、舞の……お手本ってこと?」
立ち尽くして眺めてしまった俺の前で、スキルウインドウの中の怪しい人影が、完璧な舞を披露してみせる。
ひとつの振りごとに、ミスの表示が浮かぶそれは、まさしくリズムゲームそのものだった。全てミスなのはもちろん、俺が立ち尽くして眺めているからだ。
「これをお手本に、舞えってこと?」
よく見れば、怪しい人影は俺にそっくりだ。つまりこの人影は、俺が完璧に振り付けを覚えた状態の、お手本ということらしい。
流麗な舞が、いよいよソロに差し掛かる。
ダイナミックなリズムで、手足をさらりと伸ばしては曲げるその姿は、とても俺のものとは思えない。これができたら、きっとものすごく楽しいだろうし、祭りも盛り上がる。
なんとかモノにしたい。食い入るように見つめる中、ソロパートはいよいよ最後の見せ場に入った。
シルエットの俺は、飛び跳ねてはくるくると身体を回転させ、立て続けにバク転やら側転やらをキメた上に、文字通り空へと舞い上がってみせた。
空中で何度か旋回してから戻ってきた俺は、残りの舞を完璧に踊りきり、最後のポージングをしっかりとやってのけた。
すごい。すごすぎる。俺は、シルエットの俺に惜しみない拍手を送った。それから、すんと冷静になった。
「いや、普通に無理では?」
等身大に拡張されたスキルウインドウが、きらりと光る。
スキルウインドウの中にいる、俺のシルエットにあわせて、大きく両手を広げる。滴り落ちる汗を気にもせず、俺は一心不乱にリズムを刻み続けた。
「わ、ちゃ、いや、無理だってば! なんでそこで飛ん……人間の動きじゃないって! あああ……七十五コンボまできてたのに」
新しい桶屋クエストが、これでもかと出てきてからというもの、俺は前にもまして個人練習に励むようになった。雨の日も風の日も、洞窟の中なら関係ないし、練習を見られて恥ずかしいこともない。
「ぜえ、はあ。あと二週間しかないのに、どうやってもソロができない……なにこれ、無理すぎない?」
通常モードの舞であれば、コンボを繋げられるようになってきた。コンボを繋ぐには、完璧に近い振りとタイミングで舞う必要がある。
ゲーム感覚で練習できたおかげで、目に見えて上達した自覚はある。いっしょに踊るリタや、稽古をやっているみんなにも驚いてもらえているし、自己満足ではないと信じたい。
それでも、ソロだけはどうしても駄目だ。今の身体能力なら、バク転も側転も、調子がいいときはなんとかなる。ただし、そこからのテンポが上がりすぎてリズムがずれてしまうのだ。
極めつけは、そのあとにやってくる、まるで浮いているかのような跳躍と空中移動だ。
木のつるか何かを仕込んでおいて、ワイヤーアクションでもキメるしかなさそうな、人間離れした動きなのだ。
とりあえずは、シルエットに似たポージングで、地上を駆け回る感じで寄せているけど、判定はミスの連発だ。一回だけ、シルエットに合わせてジャンプしてみたら、そのときだけ当たりの判定が出たから、高さも重要らしい。実に困った。
「こっちもわからないし、このままじゃクエスト失敗になっちゃうよ……」
伝説のドラゴン……ピイちゃんとのコラボを促すクエストと、新しいイベントを祭りに取り入れるクエストに至っては、手付かずになっている。
「ピイちゃんもいっしょに踊ってくれてるんだけど、クリア判定になってくれないんだよね」
俺の舞が上達していくと、見守ってくれているピイちゃんのテンションも上がってきて、俺の動きを真似するように空中でくるくると飛び回ってくれる。とってもかわいいし、俺としては完全にコラボ成功なのだけど、桶屋クエストはお気に召さないらしい。
「本番でいっしょに踊ってくれたら、クリアになるのかな。なにか違う気がするんだよな、うーん」
腕組みをして、こつんと洞窟の壁に頭を預けた。
まだ飛び回っているピイちゃんは、まるで俺のかわりに練習してくれているみたいだ。うんうん唸って、考えてみても答えは出ない。やれることを、できるだけやっておくしかないよね。
少し前向きになれた気がして、壁から頭を離す。
「よし、戻って荷物を整理したら、夜の稽古だね……って、ピイちゃん、それ大丈夫?」
よく見ると、ピイちゃんは旋回しすぎて目を回したのか、スピードに乗ったまま、ふらふらと飛び回っている。
あぶない、と思う間もなく、洞窟の壁に激突しそうになったピイちゃんは、どうにか後ろ足で壁を蹴って、難を逃れた。
壁の一部が、ガラガラと音を立てて崩れてしまい、慌てて頭を守る。
「大丈夫!? って、なんだろこれ……ボール?」
崩れた壁の破片に混じって、サッカーボールくらいの大きさのボールが落ちてきた。両手で持ってみると、適度な柔らかさ、適度な軽さで、引っ張ると適度に伸びる。ついでに、紫色に淡く光っていた。
ゴムとも違うし、もちろん金属でもない。スライムというほどには柔らかくないし、壁から出てきたといっても、岩や土とも違う。念のため、入念に触ったり顔を近づけて鼓動が聞こえてきたりしないか確認してみたけど、多分、卵の類でもない。
「癖になる質感だけど、謎素材だね……いや、本当になんだこれ」
崩れた壁のところに目を凝らしても、ボールが落ちてきたところ以外は、岩肌が広がっているだけだ。
気になったのか、ピイちゃんがやってきて、鼻先でツンツンとボールをつつく。つつかれたボールは、淡い光に少しだけ青を混ぜて明滅している。わあ、とってもきれいだね。
「じゃなくて、大丈夫かなこれ。この感じ、魔力に反応してそうだよね」
でもこれ、ちょっといいかも。
片手でつかんで、何度か弾ませてみる。柔らかいから片手で掴めるし、弾力があるからよく弾む。原理はわからないけど、淡く光っているから夜でもよく見えそうだ。
異世界の風を取り入れたイベントを、お祭りに取り入れる。
この謎ボールを使って、球技大会ができないかな?
得体の知れない謎の球を、いきなり採用しようなんてどうかしているかもしれないけど、悪い魔力は感じないし、ピイちゃんも警戒していないから、大丈夫な気がする。それに、桶屋クエストが大量に出てきて、舞の個人練習もやっているこの場所で、急に出てきたアイテムだ。きっと、何か意味があるんじゃないかな。
「大きさ的にはサッカーだけど、ルールがうろ覚えだし、みんなで練習するには時間がないよね。キックベース? ううん、野球とかもあんまり詳しくないんだよね。バスケとかバレーも……厳しいか」
ボールがあるなら球技大会かな、と思いつきはしたものの、スポーツは学校の体育でかじった程度で、運動部に入っていたわけじゃないんだよね。
このボールは置いておいて、リレーとかにしちゃう?
いや、それも違う気がする。
ある程度、誰でもできて、練習があんまり要らなくて、みんなで楽しめる球技か。うんうんと唸った俺は、ふと思いつく。
「そうだ、ドッジボールすればいいんじゃない?」
ドッジボールにしても、専門的なルールを細かく知っているわけじゃないけど、ノーバウンドで当たったらアウトになって、外野に回る感じだよね。他の球技より、全員が初心者でも楽しみやすい気がする。
試しにある程度の距離をとって、ピイちゃんと向かい合う。投げるよと合図をしてから、ほとんど勢いをつけずに、ゆるゆるの球を放る。ピイちゃんはそれを、しっぽで上手にはたいて返してくれた。
戻ってきたボールを両手でキャッチして、今度は壁に向き直って、ちゃんと振りかぶって思い切り投げてみる。
回転のかかったボールは勢いよく飛んでいき、小気味良い音を立てて、洞窟の壁に跳ね返って戻ってきた。それを、あえてキャッチせず身体で受ける。
「うん、ぜんぜん痛くない!」
よし、決めた。ランドとカティに、ドッジボール大会を提案してみよう。そもそもこっちの世界はスポーツ自体があんまりないし、上手くいったら、日常的にもいい娯楽になるかもしれない。
そうと決まったら、さっそく戻って、ボールを見つけたことと合わせて話してみなくちゃ。
そうだ、せっかくのお祭りだし、サイラスたちも遊びにこれたりしないかな。
残り二週間で、手紙を書いて、一番近い町から届けてもらって、サイラスたちが受け取ってから移動して、だと間に合わないかもしれない。でもとりあえず、落ち着いたら手紙くらいは出しなさいよとクレアにも言われているし、約束は守っておきたいよね。
王都を出てから結構日が経っちゃったし、無事なのも伝えておきたいし。やっぱり手紙、書いておこう。
「やば、外が暗くなってきちゃった。戻らなきゃ!」
練習に精を出しすぎたのと、ボールを見つけたのと、考え事までしたせいで、すっかり遅くなってしまった。ちょっと熱中しすぎちゃったけど、これでお祭りが成功に近づくといいな。
俺は、荷物とボールをまとめて、大急ぎで洞窟を飛び出した。