泣くつもりはなかったのに、心配な気持ちと今まで抑えていた不安が混じって雫として流れ落ちる。
まるで母に会いたくてたまらない子供のように泣いて、そうして私はそっと抱きしめられた。
背中をポンポンとあやしてくれる彼は、なんだか母の手のように優しく、そして愛しさが込められている。
「ああ……ふえ……ユリウス、さ……ま……母に……母に……!」
「会いに行くといい。この世界に戻ることも全て忘れて、まずは帰ってお母上に会っておいで」
「でも、でも……」
私を慰めながらそっと身体を離すと、私の頬に手を添える。
そうしてその手は頭の上に移動して、壊れ物を扱うほどに優しく、優しくなでた。
「大丈夫、私はいつでもユリエの心にいる。傍にいるから」
「ユリウス様……」
寂しい思いを感じていた私に安心させるように笑顔を見せてくれる。
彼の傍から離れたくないほど、もう私は彼が好きでたまらない。
だけど……。
「ユリウス様、私は……行きます」
「ああ」
私は戻りたい。
元の世界に、そして母の元に──
手に持っていた小瓶の蓋を開けて、じっと見つめる。
これを飲めば元の世界に戻ることができる。
もう一度ユリウス様に視線を移して一つ頷いたあと、私はそれを一気に飲み干した──
──何も感じなかった。
痛みも苦しみもなく、目を開けたその時にはユリウス様は目の前にいなくて、私は一人で外に立っていた。
手には卒業証書が抱えられていて、右肩には三年間共に過ごした学生バッグの重みを感じる。
自分の胸元に目を移すと、赤いリボンが結ばれていて、その下に視線を移すとグレーの短いスカートがあった。
風が少しだけ強めで、私の髪をさらっていく。
ああ、あの日、あの場所に戻ってきたのだと、理解して涙が頬を伝う。
周りから見れば卒業に浸っている学生に見えるだろう。
数年ぶりのように思えるこの景色と空気は私を一気にあの日へ戻した。
そうして私は振り返って駆けだした──
神社を超えて住宅街を抜けた先にある河川敷。
よくここで自転車で遊んだな……。
そんな風に少しだけ思いながら、急いで家に戻る。
「はあ……はあ……」
息は切れているけれど、それでもやっぱりこの学生靴は走りやすい。
ふふ、ヒールはやっぱり私には早かったのかしら。
そんな風に思っていると、小さな集合住宅が見えてきた。
「はあ……はあ……はあ……」
私は息を整えてその扉を見つめる。
「帰ってきた……」
私は嬉しさと懐かしさで喉の奥がつんとしてくる。
心を落ち着かせて一歩踏み出したその時、家の玄関が開いた。
中からは私のずっと会いたかった人がきょとんとしてこちらを見ている。
母は確か、私の卒業式を見た後で先に帰ると話していた。
「お母さん……」
「卒業おめでとう、友里恵。おかえりなさい」
母も私の涙をきっと思い出に浸っているそれだと思っているだろう。
だけど、だけど……たまらなく溢れてくる感情。
「ただいま」
そう言って私は母の元へと近づいていった──
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【ちょっと一言コーナー】
お母さんに会えました。
ずっとずっと会いたかったお母さんに。
【次回予告】
無事に戻ってきた友里恵は、母との再会を喜ぶ。
そうして母との楽しい時間を過ごすうちに、彼の事を思い出して。
次回、『平和で懐かしい日常』。
「何よ、そんなに部屋をじろじろ見て」
「いや、ううん。なんでもない」
あまりの懐かしさと嬉しさで台所、リビング、テレビ、タンス……様々なものを見てしまう。
向こうとはまるで違ったその全てに、なんだか不思議な気分。
こっちが今まで私が馴染んでいた世界だっていうのに、なんだかそうじゃない気がして。
テレビの前にあるローテーブルの横に置かれた座布団に腰かけると、落ち着いてため息が漏れる。
「何よ、そんなおっさんみたいな声だして」
「ごめん、ごめん! なんだか懐かしくて」
「今朝までいたじゃないのよ」
「そうだよね……そうなんだよね」
私は面白おかしくなって大きな声で笑ってしまう。
ああ、いつものお母さんだ……。
お茶を入れて私の目の前に置くと、その足でせわしなく台所に戻る。
目の前のそれに視線を移すと、氷が3つ入ってあった。
私が冷たいものが好きでいつも入れてくれる、そんなお母さんの優しさを感じてちょっと微笑む。
ありがたくそのお茶を飲むと、先程まで飲んでいた紅茶とは違うなんというか庶民的で慣れた味。
窓から見える景色は、宮殿や大きな屋敷でもなんでもない、コンクリートの一軒家やマンション。
都会みたいにとても大きなマンションじゃないけど、目の前には5階くらいのそれが立っている。
「まきちゃんと遊んできたんでしょ?」
「うん、写真撮ってカフェで話しまくった」
「あんたたちいっつも話長いんだから」
母は冷蔵庫とガスコンロを行ったり来たりしている。
次々に冷蔵庫からテーブルに並べられていく食事は、すでにあらかた出来上がっており、きっと私がまきちゃんと遊んでいる間に作ってくれてたのだろうと思う。
煮物と揚げ物と、サラダが二種類も……。
なんか、いつもより多い……?
私が異世界での食事に慣れすぎたせいか。
そう思ってテーブルのほうへと近づいていきながら尋ねてみる。
「なんかいつもより多くない?」
「ふふ、だって卒業なんてお祝いじゃない。作りすぎたわよ」
そう言いながら、まだあるわよ、と言って冷蔵庫から私の好きな青菜のお浸しを出してくる。
仕上げのかつおぶしを乗せると、ふわっと和風の香りが漂ってきた。
「いただきます」
「どうぞ」
手を合わせてお箸をまずはお浸しに向ける。
しょっぱめの味付けは本当に久々で舌がびっくり。
でも、少し後にはもうその味に馴染んでいて、やっぱり細胞レベルで親しんでいるんだな、なんて思う。
卵焼きは少し甘め。
でも、本当はお母さんはしょっぱめが好き。
きっと私に合わせて作ってくれてて、それが嬉しくてたまらない。
どれもみんな懐かしくて、私はお母さんのあたたかみを感じる。
ああ、これだ。
やっぱりこの味も、この家も、それに……。
「お母さん」
「なあに?」
「ありがとう」
やっぱり、私はお母さんが大好きだ──
現代での生活はいつの間にか一週間経っていた。
お母さんの買い物に付き合って、でも、学校はなくてみんなに会えなくて。
家でテレビをみて笑ったり、足を延ばしてくつろいだり。
ふふ、こんな姿見られたら、はしたないって怒られちゃう。
そんな風に思った時に、ふと彼の笑顔がよみがえる。
『大丈夫、私はいつでもユリエの心にいる。傍にいるから』
「ユリウス様……」
思わず呟いたその言葉は、キッチンにいる母には聞こえていなかった。
「──っ!」
考え込む私の意識を戻すように、テーブルに置いてあった携帯のバイブレーションが鳴る。
手に取って画面を見ると、そこにはまきちゃんの名前。
「まきちゃん……?」
私は慌てて通話に出ると、いつもの元気な声が聞こえてくる。
「あ、友里恵? 元気にしてた?」
その親友の懐かしい声に、再び苦しくなる。
ずっと、声が聴きたかった。
「うん、元気だった」
何年振りにも感じるけど、まきちゃんにしたら一週間なんだよね。
涙を彼女に悟られないように拭う。
「あのさ、なんかやっぱり寂しいね」
「学校ないと会えないからね」
「明日とかってあいてる? 遊べたりする?」
「あーちょっと待って?」
私は耳から携帯を外すと、お母さんに声をかける。
「お母さん! 明日、まきちゃんと遊んできていい!?」
「いいわよ~あ、夜には戻ってね!」
「は~い!」
返事をしてまきちゃんにも大丈夫と言った──
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【ちょっと一言コーナー】
まきちゃんも登場でした~!
親友の存在っていいですよね。
【次回予告】
まきちゃんの声でさらに現代に浸る友里恵。
ユリウスへの想いや寂しさも感じていると、母親から花見に誘われて……。
次回、『母娘の時間と桜(1)』。
まきちゃんと遊んだ2日後に、お母さんとのんびりテレビを見ていると、ある誘いの声が聞こえてくる。
「友里恵、お花見でもしない?」
お母さんからの提案はわりと珍しくて、私は思わず顔をあげた。
「うん、いいけど」
「そう、よかった。じゃあ、今から準備をして行こうか」
「え! 今から?」
お昼ご飯を食べてまったりしていたところで、なんなら学校がないことをいいことに昼寝でもしてしまおうかと思うくらいまどろんでいた。
そんな私とは反対にさっと立ち上がってキッチンに準備をしにいく。
水だしされた美味しいコーヒーを冷蔵庫から出すと、薄まらないように水筒に一つだけ氷を入れる。
カランと甲高い音を響かせて水筒と、ピクニックの時に使っていたコップを二つ棚の奥から出してきた。
私も手伝おうと席を立ったのだが、お母さんに制止される。
「あんたは天気大丈夫かテレビで見てて~」
「う、うん……」
今時天気はネットで見れば数秒で終わるし、それにお母さんもいつもネットで見てる。