夏休みを迎える前に海里は職員室に呼ばれた。
「…このままだと、進級が難しいぞ。」
海里のサボり癖を常々苦く思っている担任は、溜息交じりに海里に告げる。呼び出された理由の内容は、長期休暇中の補習授業についてだった。
「とにかく。この補習は救済措置だと思って、きちんと出なさい。いいね?」
取りあえず頷いて、海里は職員室を退出した。頭を下げて職員室の扉を引くと、廊下で待っていた時生が海里に気が付いた。
「先生、何だって?」
「補習のお話でした。」
簡潔に内容を話しながら、二人は連れ立って歩き出す。中庭に隣する渡り廊下は日陰ながら、夏の温度を孕んだ風が通り抜けていた。
「私としては、進級するのも面倒なのでどうでもいいんですけど。」
「いや、留年の方がはるかに面倒でしょ。」
いかにも海里らしい意見に、時生は苦笑しながら言う。
「正論はいらないですー。」
つん、と海里は顎を斜め上に向けてしまった。
「じゃあ、楽しみを鼻の先にぶら下げてみない?」
時生は海里が補習を受けるモチベーションが上がるようにある提案をした。
「補習の最終日って半日でしょ。その日、午後から海水浴に行こうよ。上田さんと海咲さんにいつでもいいから海に行こうって誘われているんだ。」
「日焼けしたくないので行かないです、と言いたいところですが。今回は時生の顔を立ててあげます。行きましょう。」
思いがけず快諾を得られ、時生は驚く。
「当日になって、やっぱり行かないは無しだからね?」
「どんだけ信用がないんですか、私…。」
海里はわかりやすく大きく溜息を吐いて、立ち止まって時生を見上げた。そして右手の小指を出す。
「はい。」
「何?」
首を傾げる時生を海里はにっと口角を上げて笑って見せる。「約束しましょう。指切りです。」
「え?あ、ああ。指切りね。」
海里は時々、子どものようになる。普段の人形のような怜悧な印象とのギャップに困惑してしまうことも多々あった。ちなみに今がその時である。
時生がおずおずと彼女の小指に自らの小指を絡めると、海里はお馴染みの歌をうたう。
「…指、きーった!」
「…きった。」
気恥ずかしさが勝りつつ、無事に指切りを終えた。
「じゃあ、海里も補習頑張って。」
時生は照れ隠しに海里に釘をさす。海里は苦々しい表情をしながらも、頷くのだった。
海里と別れ、かぜよみ荘への帰路につくと喜一が丁度打ち水をしていた。高校帰りの時生に気が付くと喜一は、ひしゃくを持った手を振って迎え入れてくれる。
「おー、八尾くん。おかえり。」
「ただいまです。上田さん、涼しそうなことをしてますね。」
まあね、と言いながら再度、かぜよみ荘前の道路に水を撒く。
「案外、古典的の手法が一番かしこいんだよねー。」
たしかに、水で冷やされた地面を通る風は涼しく感じた。時生は喜一の少し後ろに立って、涼を感じることにした。
「そういえば前に話した海の件なんですけど。」
「ああ、日にち決めた?」
足元で水の雫が跳ねる。
「はい。それでお願いなんですけど、一人増えてもいいですか?」
「いいよー。誰?」
時生が海里の名前を告げると、喜一は驚いたように手を止めた。
「彼女、海に行くキャラだとは思わなかった。八尾くんやるねえ。」
「僕もそう思いました。」
しみじみと時生が頷くと、喜一は吹き出す。
「いや、海咲も喜ぶよ。当日はレンタカー借りていくからね、にぎやかでいいじゃないか。」
「ガソリン代、払いますね。」
時生が気を聞かせて言うと、喜一は笑って制する。
「いいよ、いいよ。今、俺自身が運転したい気分なの。」
喜一は最近、自動車免許を取得したらしいことを聞いた。きっと積極的に運転を楽しみたい時期なのだろう。
「高校生からお金を取るのもね。」
はは、と喜一は笑う。
「上田さんだって、大学生じゃないですか。」
「この年の差を甘く見るなよー。アルバイトは自由にできんのか?高校生。」
時生と海里が通う高校はたしかに特別な事情がない限りアルバイト禁止だった。
「まあ、おにーさんに甘えときなさい。」
「…すみません。ありがとうございます。」
時生が素直に頭を下げると、そのまま喜一にくしゃくしゃに髪の毛を乱された。その撫でられる感覚はとても久しぶりに感じられた。
終業式を終えた次の日から、海里の補習授業が始まった。
海里は教室の一番後ろ、窓際の席で片腕を太陽に焼かれながら授業を受ける。教室にクーラーが導入されているとはいえ、設定温度は低くなく生徒たちは下敷きをうちわ代わりにパタパタと扇いでいた。退屈な授業を寝て過ごそうかとも思ったが、ちゃんと補習を受けると時生と約束した手前、海里はきちんと起きていた。毎度の授業最後の小テストを終えて、くたくたになりながらも淡々と補習をこなしていく。そして、最終日。無事に補習を合格して晴れて、高校から解放されて夏休みを迎えるのだった。
「海里!」
その日の正午、高校の校門前で待っていた時生は海里を見つけて名前を呼ぶ。手を振って海里を迎え入れて、隣に立ったところで歩き出した。
「駅前のレンタカー屋で集合なんだ。」
時生がスマートホンを確認しつつ言う。真夏の昼、道路はゆらゆらと逃げ水が波打っている。じりじりと肌を焼く感覚が不快だった。太陽光を真っ向に受ける髪の毛はあっという間に熱を持っていく。背の低い女の子には照り返しなどつらい暑さだろうと思い、時生は気を利かせる。
「海里、日傘持ってなかった?僕に遠慮しないで差していいよ。」
「…そうですか?すみません。」
やはり遠慮をしていたのであろう海里は鞄から折り畳みの日傘を出して、開いた。
「時生も入りますか。」
「日傘で相合傘って、あまり聞いたことなくない?」
それもそうですね、と海里は頷き、大人しく一人使いをすることに決めたようだ。海里の横顔を覗くことができないのは惜しいが、仕方がない。
やがて到着した駅前では、海咲と喜一がレンタカーに既に乗り込んで待っていてくれた。
「海里ちゃーん。時生くん!こっちだよー。」
車の助手席の窓を開けて、海咲が元気よく手を振った。隣で喜一も片手をあげる。
「すみません、待たせましたか。」
後ろの座席の扉を開けて、乗り込みながら時生は訊く。
「大丈夫だよ、八尾くん。海咲がコンビニで買い出しとかしていたから。」
「お菓子と飲み物はばっちりだよー。海里ちゃん、何か飲む?」
ゆっくりと車は発車して、賑やかな道中が始まったのだった。
「熱を逃すためにちょっと窓を開けるよ。」
喜一が操作をして、車の窓を開けた。瞬間、熱されていた空気が動き、新鮮な風が車内を満たす。女性陣の長い髪の毛が煽られて、ふわりと舞った。その可憐な動きについ視線が奪われて隣を見ると、海里は気持ちよさそうに目を細めるところだった。僅かにシャンプーの香りが鼻腔をくすぐって、嗅覚と視覚を以て脳に甘い思い出として刻まれる。「ねえ、きーくん。音楽かけてもいい?」
海咲はスマートホンを取り出して、車と連動させながら問う。
「それは、後部座席の二人に訊きな。」
喜一の答えに、はーい、と良い返事を返して海咲は上半身を捻って、時生と海里を見た。そして二人の同意を得ると、喜々として音楽を流し始める。選曲は懐かしいアニメソングだった。
「この頃のアニソンが、神だと思うの!」
「ごめんねー。八尾くん、一ノ瀬ちゃん。海咲はアニメオタクなんだよ。」
海咲の意外な一面を知って驚き、時生は知ってた?と海里に目で問う。海里は首を横に振った。どうやら付き合いの長い海里でも初見だったらしい。
「ほら、小さい頃ってごっこ遊びでヒロインになりきったりするじゃない?役者はその延長線上なんだ。」
そう言って海咲は、女児向け変身ヒロインアニメの決め台詞と手だけでポーズをする。それを見た海里は懐かしそうに同意した。
「そのアニメ、覚えてます。私は主人公よりもサブキャラの方が好きだったなあ。」
「お!誰押し?」
それから海咲と海里はアニメ談議に花を咲かせていた。やがてにぎやかな車内でも、海の潮の香りが感じられ始めた。
「このトンネルを抜けたら、もう海だよ。」
喜一がナビゲーションを見ながら言う。薄暗いトンネルの長い道をしばらく走り、前方に出口の灯りが見えてくる。徐々にその光は強くなり、抜ける瞬間に白い閃光が放たれたそこには。蒼く、ダイヤモンドを散らしたかのような光を反射させる海が現れた。海咲は歓声を上げて喜ぶ。一方で静かだなと思っていた海里を見ると、彼女は彼女で瞳を輝かせて無言ながら頬をほころばせていた。
到着した海の家隣接の駐車場に車を停めて、四人は水着に着替えるために更衣室へと向かった。
「八尾くん。日焼け止め、ちゃんと塗った方がいいよ。」
服を脱ぎ、水着を着ながら喜一は時生に言う。時生は早々に更衣室を出ようとしていた。
「僕、色白いので少し焼きたいんですけど。」
時生は自らの腕を見ながら、告白する。真っ黒とまでは行かなくとも、健康的に日焼けはしたい。
「だったら尚更だ。ムラが出たら嫌だろ。」
「あー…。それはかなり嫌ですね。」
喜一に甘えて、日焼け止めのクリームを借りて肌に塗る。手の届かない背中は互いに塗り合った。
更衣室を出た二人は海の家に荷物を預けて、女性陣を待つ。
「二人とも遅いなあ。」
時生は海を目の前にまてを食らった犬のように、じれったそうに言う。喜一はそんな時生を見て笑った。
「まあ、女の子だしね。男は待つもんだよ。」
「…上田さんって、大人ですよね。」
達観した風にも思える喜一に対して、時生は子供っぽい自分を恥じた。
「そうでもないよ。ただ、海咲に調教されただけさ。」
「調教って。」
ふっと時生が噴き出すと、喜一は大袈裟に肩をすくめた。
「いや、マジ。料理中、入浴中。外出の支度中とか海咲、すっごい時間かけるからさ。待つのが当たり前みたいな感じになるんだよ。」
「…なるほど。」
おしゃれや身だしなみに気を遣う海咲を、早くしてよ、と催促しながら優しく待つ喜一の姿が目に浮かぶ。
「一ノ瀬ちゃんはどうなの?」
「僕たちは付き合っていないので。」
時生の答えに喜一は目を丸く張った。
「そうなんだ?仲がいいように見えたから、てっきり。」
「二人とも、何の話ー?」
会話の最中に声がかかる。声の主は海咲だった。ようやく更衣室から出てきたようだ。
スタイルのいい海咲の水着姿は内側から健康美が輝く様だった。テラコッタカラーのビキニで首元と腰がひも状のリボンで飾られている。そのリボンが動く度に揺れて、解けないか心配になってしまう。
「いいね、その水着。」
喜一が褒めると海咲は嬉しそうに笑う。
「今日のために新調したんだぞ。もっと褒めて!」
「はいはい。あれ?一ノ瀬ちゃんは?」
喜一の海里を探す声に、自身も海里を探していた時生はどきりとする。まるで心の声が筒抜けになったように錯覚した。
「あれ?海里ちゃーん、何を恥ずかしがってるんだー?」
海咲が背後を振り返り、海里を見つけると手を引いてくる。
「べ、別に恥ずかしがってなんか、ないです!」
「じゃあ、ほれ。お披露目だ!」
海里の背中を押して、海咲自身より前にぐいと出す。
「…。」
時生は海里の水着姿を前に言葉を失う。ワンピースタイプに水着で、色は深い青色。胸元はシャーリング使用になってワンポイントで白いリボンが施されている。肌の露出が少ないのに大人っぽく感じるのは、サイドの編み上げの効果だろう。
「あの、何か言ってくれないんですか…っ?」
時生の視線を受けて、無言の時間に耐えられなくなった海里が音を上げる。
「…かわいい…。」
今度こそ本当に心の声が漏れた。
「でしょでしょ!時生くん、見る目あるぅ。一緒に水着を買いに行ったんだよねー。」
海咲が海里の肩を叩きながら、豪快に笑う。それに反比例するように、海里は顔を朱に染めて俯いてしまった。
「きーくん、泳ぎに行こ。」
「ああ。」
恋人同士の海咲と喜一は先に海へと行ってしまう。残された恋人未満の海里と時生は隣で微妙な距離を保っていた。
「えーと、何か、ごめん。」
気まずさの原因を自分にあると思い、時生は謝罪をする。
「なんで謝るんですか。可愛いんなら、良いです。」
横目で見ると、同じく時生の様子を伺っていた海里と目が合った。海里も海里で、時生の様子を気にしていたことに嬉しくなった。
「僕たちも行こうか。」
「…私、泳げないんです。」
すみません、と謝る海里の告白を意外に思いながら、時生は海の家で浮き輪を借りることを提案して海に赴くことにしたのだった。
海里が使う浮き輪につかまりながら、時生も波に揺られる。
「運動神経いいのに、泳げないんだ。」
「陸上方面に特化してるんです。水中はからっきし。」
確かに思い出せば、海里は歩くのも走るのも早い。
「それでも、海、付き合ってくれたんだね。」
「楽しみに、してましたから。」
思いがけず率直な気持ちを告げられて、時生は驚く。
「だから!謝らないでください、ね?」
「了解。」
はは、と笑い合い、二人はしばらく海水浴を楽しむことにした。海水は陽に温められて丁度良い水温を保ち、寄せては返す波のリズムが心地よく身体に響く。
「母親の胎内を思い出しますね。」
海里は浮き輪で水面を漂いながら、ぽとんと呟いた。それを拾ったのは時生だ。
「覚えてるの?」
のんびりと何でもない風に時生は訊く。
「…人に言ったら笑われると思うんですけど。」
「そんなことないよ。言って?」
海里は両の掌で器を作って、海水を掬う。さらさらと手から零れていくのはきっと思い出の羊水だろう。
「視界は時折、泡が生まれるのがわかるぐらいの光量なんです。温かくて、気持ちが良くて、私はよくうたた寝をしていました。」
「うん。それで?」
時生が母親の胎内で安心して眠る様子を想像して、時生は微笑ましくなる。きっと可愛らしい赤ちゃんだっただろう。
「私の隣には弟かお兄ちゃんがいました。時々、喧嘩して、でも仲良く母の胎内で過ごしていました。」
「え…。双子、だったの?」
新しく知った海里の兄妹関係について、時生は驚く。そのような存在の欠片には気が付かなかった。
「はい。だった、んです。」
海里は瞼を閉じて、自らの片割れのことを思い出しているようだった。
「…生まれた時に、死に別れました。」

門限があると言う海里のために、海水浴は夕方には終えることになった。
「うわー、砂でじゃりじゃりだなあ。」
喜一が海の家で借りたシャワールームで、温水で身体を流しながら呟く。
「本当ですね。きちんと落とさないと、レンタカーの人に嫌がられそう。」
時生も頷いて、いつもより丁寧にシャワーを浴びた。水が肌を伝う感覚にぞわと粟立つ。
「…八尾くん。何かあった?」
「え?」
ふっと顔を上げると、喜一がシャワールームの曇りガラスの扉に影を作っていた。
「なんでもないですよ、そんな。」
「そう?」
喜一の優しく深い声色が時生の冷えていた心を温かく包む。
「うーん、と。ですね…、」
だけど、心に残る海里のことをどこまで話していいものかがわからない。
「双子の人って、片割れがいなくなったらどんな気分になるのかなってふと思うことがあって。」
海里の名前を伏せて告白すると、喜一はシャワールームの外で首を傾げているようだった。
「そうだなあ…。まあ喪失感は多大だよね。」
彼らは魂の半身が最初から一緒に生まれてきたものだから、と喜一は言葉を紡ぐ。
「聖書の話ですね。上田さんは詳しいんですか?」
「その話だけ印象的で覚えてただけさ。」
コックを捻って水を止め、時生はシャワールームを出た。喜一から差し出されたタオルを、礼を言って受けとる。
「自分の半分が切り取られる苦痛は、どれほどのものなんだろう。」
時生の問いにも似た呟きを拾った喜一も、考え込んだ。
「一生乾くことの無い傷にはなり得るだろうね。」
海咲と海里の身支度を待って、四人は車に乗り込む。行きのにぎやか雰囲気とは一転して、帰りは疲れが出たのだろう。とても静かな車内だった。運転手の喜一が寝ないようにと付けたラジオが流れていた。海里はこくりと舟を漕いで、夢現の狭間を漂っている。夜の帳が下りる頃に、四人が乗った車が街に辿り着いた。住宅街を行き、海里の自宅へと近づく。
「海里、海里ー?もうすぐ着くよー。」
時生は海里の肩を小さく揺らして、覚醒を促した。海里は幼い子どものように目をぱちぱちと瞬かせて、ぼんやりと時生を見た。
「おはよ。夜だけど。」
「おはよぅー…。」
舌足らずな声ではあるものの、海里は目覚めたようだった。海咲が小さく笑って、助手席から振り返った。
「海里ちゃん。団長には、私が挨拶に行くから安心してね。」
「助かります。」
海咲の言葉に、男二人は頭を下げるのだった。友人とはいえ男に大事な娘が送り届けられるのは、父親としていい気持ちはしないだろう。
やがて滑らかに車は海里の自宅前に止まる。海里と海咲が自動車を出ようとシートベルトを外し始めた。そして扉を開けようとする刹那、時生は海里の手に触れた。
「海里。」
海里は驚いたように、振り返る。
「今日は、ありがとう。色々と話せてよかった。」
「え?いえ、こちらこそ。ありがとうございました。楽しかったです。あの、上田さんも。」
運転席のミラー越しに喜一も微笑んで応えた。
「じゃあ…、おやすみなさい。」
そう言って頭を下げると、先に自宅前で団長と談笑している海咲の元へと海里は駆けて行った。海里の姿を見た団長は嬉しそうに彼女を迎え入れて、車内に残る時生と喜一に頭を下げたのだった。
送るのは駅までで良いと言う海咲を、駅前で降ろして時生たちはかぜよみ荘に戻る。古く、狭い階段前で喜一と別れてようやく時生は一人になった。
荷物を下ろして、冷蔵庫からお茶のペットボトルを取り出して一気に煽る。冷たいお茶が喉の内側を伝って胃に落ちていく感覚が気持ちよかった。
「…。」
ふう、と溜息を吐く。思い出すのは、海里の表情。海に浸かりながら、海里は涙を零しながら笑っていた。そして言うのだ、ごめんなさい、と。
『生まれてきたのが、私で、ごめんなさい。』
中学時代にいじめられ、無視をされ、孤立した過去は海里の口から次の言葉で聞いた。
『私なんかいてもいなくても変わらないのに。なのに、私が生まれてきてしまった。…私の片割れは首にへその緒が絡まっていて、窒息していたらしいです。』
辛い記憶そのものが、海里の存在意義を奪っていった。彼女はこれから先、絶望することが起こる度に自らの生に疑問を抱くのだろうと思うと時生の胸は張り裂けそうだった。
苦しかっただろうな、と苦しそうに海里は言う。
『前に、死体は愛しく感じると話しましたよね。あれには補足があるんです。私の最初の記憶は…、片割れの死体を抱いていたことです。』
海里にとって、死体と言う存在は片割れの兄か弟そのものなのだ。愛しく、慈しみ、微笑ましい存在。きっと祖母の遺体も洩れなくそのイメージと重なったのだと思う。だから、泣けなかった。
補足があると言ったが、補足なら僕にだってある。誰だって本当のことを全て話すだなんてことは、酷く難しい。
彼女の生きづらさを理解して、時生自身の生について話していいものかと迷う。迷いつつ、時が過ぎ八月中旬。季節はお盆を迎えるのだった。