一日の授業を終えた時生は、電車通学に使っている駅近くに位置して自らが住むアパートへの帰路についていた。途中、スーパーで夕食の買い出しをして店を出るころには空は夕焼けに染まり、一番星がぽつんと始まったばかりの夜空に取り残されたように瞬いていた。
かぜよみ荘と言う名の古い木造二階建てのアパート、一階の角部屋が時生の城だ。鞄から鍵を取り出して、扉の錠を落とす。
「ただいまー…。」
誰もいない、暗い部屋に向かって自身の帰宅を告げた。すぐに壁にある電灯スイッチを手探りで探り当て、光を灯す。パラパラと音を立て電気が付くと、部屋の全容が曝け出された。鉄パイプのベッドと学習机、大きな棚が一つずつ置かれたシンプルな部屋だ。異様なのは棚に収められた樹脂封入標本の数だ。カブトムシ、蝶々。トカゲや小魚。大きなものでヘビなど、合わせて50個以上はあるだろうか。透明な樹脂に閉じ込められて、美しい死骸のまま保存されている。
時生は学習机にリュックを置いて、ベッドに腰掛けた。ふう、と小さな溜息を吐いて上半身を自らの匂いがする布団の上に倒す。しばらく目を閉じて、深呼吸を繰り返す。頭上、上の階でごとごとと重いものを動かすような音が響いていた。アパートの前に止まっていた引っ越し業者のトラックが走り出す場面を思い出す。どうやら新しい住人が引っ越してきたようだ。
前に住んでいた人は水商売の女性らしく、夜中にハイヒールの音を響かせながらアパートの廊下を歩いていた。その靴音に目覚めることも少なくなく、今度の住人は静かな人だといいと思った。
ふっと気合を入れて起き上がり、学習机の上のリュックに手を伸ばす。リュックの奥底を探り、手に触れたのは冷たく小さな樹脂の塊だ。とん、と指先で小突き、水から掬い上げるように取り出した。丁寧に研磨して仕上げた樹脂の中には切断してしまった左手の薬指が標本として収まっている。
卓上においてある鏡に今の自分の顔が映った。その顔には微笑が刻まれている。自分はこの標本を手にするときはこんな表情をするのかと、新鮮に驚いた。ぎゅっと標本を拳に握り込み、再びベッドに座った。そして電気の灯りに透かすように頭上にかざしてみた。
乾燥させて、干からびたミイラ状態になり幾分か縮こまっているが、光に透かすと僅かに肌の淵が赤黒く染まる。血肉は固まっても尚、赤い。
裏に表にひっくり返して指紋のしわを見たり、白い爪先を眺めた。愛しく思い、ちゅ、と樹脂のつるりとした表面に口付けたところで、玄関のチャイムがビーと鳴った。
「!」
驚き、指の標本を取り落としそうになりつつ、時生は立ち上がった。ボトムスのポケットに標本を突っ込んで、対応すべく玄関に向かう。
「はーい…?」
錠を落として、扉を開けるとそこには一組のカップルが立っていた。
「あ。」
カップルの女性と時生の声が重なる。その人物は、劇団星ノ尾で出会った役者の海咲だった。
「海咲さん…どうして、ここに。」
「時生くん?ここに住んでいたんだ。」
置いてけぼりの彼氏が、海咲に「知ってる人?」と尋ねる。海咲は笑って、手を蝶々のようにひらひらと振った。
「ああ、えっとね。時生くんって言って、前に私が所属している劇団で出会ったの。時生くん、こっちは私の彼氏のきーくん。」
「どうも、二階の部屋に越してきた上田です。これからよろしくお願いします。」
海咲の紹介にぺこりと頭を下げた上田の名前は、喜一だと後に聞いた。海咲はおじいちゃんみたいな名前だね、と笑ってそれから「きーくん」と呼ぶようになったという。この名前のおかげで彼女と仲良くなったと自慢する喜一はくまのような大らかさを持つ、優しげな雰囲気の青年だった。「あ、ああー。どうも、わざわざありがとうございます。八尾時生です。よろしくお願いします。」
「住むのはきーくんだけだけど、私もちょくちょく来るからよろしくね!」
海咲は手を振って、そしてその手を喜一に腕に絡めて去って行った。

「ねえ、きーくん。ご近所さんが知ってる人で良かったね。」
「知ってるのは海咲の方だろ。」
二階の部屋に戻った二人は玄関の扉を閉めつつ、笑い合う。「さて、と。荷解きは後にして、ごはん食べに行く?」
喜一は玄関の靴棚の上に置いていた財布を取って、海咲に提案する。
「だめだよー、引っ越しで随分とお金が掛かったでしょ。節約、節約ー。」
「じゃ、どうすんの。」
海咲は取りやすいように一番上に置いたのであろう段ボールから、調理用品を取り出した。
「私が作ってしんぜよう!」
「海咲が?」
驚いた喜一はそのまま表情に出る。そしていち早く察し、海咲のこめかみに怒りマークが浮かぶ。
「何かご不満が?」
「不満と言うか、不安が。」
喜一は苦笑しながら、過去の海咲の作品を思い出した。ジャガイモがほくほくしていないカレー、ケーキを作ろうとしてできたクッキーの生地。極めつけは卵の殻が含まれたたまごかけごはん。簡単と思える料理でも、その失敗率は高かった。海咲は頬を紅く染めながら、喜一の胸を叩いた。「もう!意地悪なんだから!!」
海咲の抗議に喜一はさらに笑みを濃くして、ついには声を出して笑う。
「ごめん、ごめん。じゃあ一緒に作ろうか。」
そう言って、二人、小さなキッチンに向かった。
喜一と海咲のカップルが二階で調理を始めたころ、時生は浴槽にお湯を溜めて入浴をしていた。小さいながらバス・トイレ別がかぜよみ荘の数少ない良いところだ。
「―…。」
肺に溜まった二酸化炭素を吐き出しながら、膝を折りたたんでゆっくりと浴槽に浸かる。湯気で浴室内は白く染まり、天井からは時折結露した水の雫が滴った。両手の掌でお湯を掬って顔を洗う。ポタポタと顎の先からお湯が落ちる感触は、海里の指が顎に触れた感触によく似ていた。思い出すのは、その指よりももっと深い場所。左手の手首に刻まれた一筋の傷痕だった。いわゆるリストカット痕に、時生は海里の儚さを感じ取った。
生々しく桃色にふっくらと盛り上がった線状の傷痕は何よりも美しく海里を着飾る、アクセサリーのようだと思った。標本にすることが叶わない代わりに、写真に収めたかった。「いけない、いけない。」
時生はお湯の雫を飛ばしながら、ふるふると首を横に振った。海里の柔いところに土足で踏み入れ、荒らしてしまう所だった。大丈夫、まだ分別はついている。
忘れたくとも、会えば自然と目が行ってしまう。気を付けなければと思う。

「一ノ瀬さんは、演劇部とかには興味がないの?」
新緑に雨が降る五月のある日。今日は図書室で二人、校舎裏の非常階段の踊り場で過ごしていた。海里は愛読書のようにいつも台本を読んでいた。
「ないですね。」
その台本から目を離すことなく、海里は時生の問いに即答する。その視線は台詞や感情の動きについてのアドバイスに向けられていた。時折、赤いサインペンを取って何かメモ書きをしている。真剣な眼差しは凛々しく、彼女の本気度が伝わってきた。
「そっか。」
時生は頷いて、手にしていた紅茶飲料のペットボトルを傾けて飲む。甘く香ばしい芳香とちょっとした渋み、ミルクの甘さを感じた。飲み物のチョイスは海里だった。互いに使えるお金の少ない高校生と言うこともあり、金額を折半して購入した。海里が「飲み物のシェアぐらいで狼狽える年でもないでしょう」と言い放ち、それならと時生は了承したのだった。時生としてはコーヒーの方が好みだが、海里がコーヒーのカフェインを受け付けず大体いつも紅茶になった。
「あ、私の分も残しておいてくださいね。」
やっと顔を上げたかと思えば飲み物の心配かと、少し残念に思う時生がいた。時生からペットボトルを受け取って、海里は口をつける。露わになる白い喉元が嚥下して動く姿が妙に生々しく感じた。そしてそのペットボトルを傾ける左手の手首につい目が行ってしまう。
「…何です?」
海里が怪訝そうに時生の視線を遮るように声を出した。
「何でもないよ、ごめん。」
「嘘。八尾先輩って遠慮なく人を見ますよね。理由は?」
こういう時、海里は逃げることを許してくれない。時生は、困ったな、と呟いて口元に手を当てて考える。彼女を怒らせない言葉は何だろう。
「…一ノ瀬さんがきれいだから。」
「気分は良いです。それで具体的に?」
第一声は成功したようだ。
「きれいと思う気持ちを具体的に表すって相当難しいんだけど…。強いて言うなら、花を見て愛でる気持ちと似てるかな。」
理由なく花の色彩や花びらの形、その香りを好ましく思う気持ちによく似ていると思った。美しく思う感情に明確な理由はない。
「つまり、海里さんは花のように麗しいと。」
そこまでは言っていない、との言葉を時生が飲み込んで頷くと海里は上機嫌になって頷いた。
「よろしい。では、従順な下僕にご褒美をあげましょう。」
「決して下僕ではない。」
時生の抗議を無視して、海里は鞄の中を探って一枚の紙きれを取り出した。
「これは?」
それは劇団星ノ尾の公演チケットだった。
「今度、初日を迎える劇『青い靴』のものです。普段ならお金を取りたいところですが、今回は特別です。」
ふふん、と得意げに海里は胸を張る。
「青い靴?赤じゃないんだ。」
「はい。脚本家の先生曰く、童話『赤い靴』のオマージュらしいです。」
ふうん、と呟きながら時生はチケットを眺めた。そして裏面の文字に、海里の名前を見つける。
「主役じゃん。」
主演の役者の名前、一番先に刻まれていた。海里は珍しく感情豊かにはにかむ。
「初めての主役なんです。中には親の七光りだとか、えこひいきだという言葉もありましたが、私、これでも頑張ったんです。」
よく見ると、先ほどまで手にしていた台本のタイトルが『青い靴』だった。この台本に「ガンバレ」と書き込んで怒られたのは記憶に新しい。読み込まれ、擦り切れた台本に彼女の頑張ったという真意を知る。海里は己の力で主役の座を勝ち取ったのだろう。
「そうか。楽しみにしてる。」
時生は微笑んで、チケットを大事にスマートホンのカバーにはさんだ。そしてそのままの流れで、自らのリュックからある物を探る。
「じゃあ、はい。お祝いになるかわからないけど。」
取り出したのは、あの春の日に採取した蝶々の樹脂封入標本だった。昨日、やっと完成した。
「蝶々。」
海里がうわ言のように呟いた。時生はそっと小さな海里の掌に置いてやる。海里はまるでガラス細工を扱うように両の掌で包んだ。
「…。」
「残念ながら樹脂の封入で鮮やかな色彩は消えたけど…、翅の模様はそのまま残ったと思う。」
どうかな、と時生は海里の顔を覗き込む。そこで初めて、海里の満面の笑顔を見せた。
「ありがとうございます。嬉しいです。」
「そ、そう。よかった。」
いきなりの笑顔という爆弾投下に、時生はドギマギと戸惑う。そして照れ隠しのつもりで、海里の演技にアドバイスをした。
「今の笑顔、がいいんじゃないかな。前に?マークを付けてた演技指導。」
「え?」
海里は幼い子供がするようにきょとんと眼を丸くする。そして一瞬にして頬と言わず、耳まで朱に染めた。唇をきゅっと結び、視線を標本に戻す。そして小さな声で呟く。
「ほ…、本当ですか。」
「うん。僕は演技ができないけど、これだけは保証する。」
時生が断言してみせると、海里はぎゅうっと標本を握った。
「じゃあ…。その、これ、お守りにします。」
「それは光栄だな。」
海里のツンデレで言う所のデレ部分を貴重に思いながら、微笑ましく感じる。劇の公演日は来週の日曜日。いつまでこのデレ期は続くのかなと、人知れず思う時生だった。結果として、公演日が近づくにつれて海里は神経質になっていき、そう長くはデレ期は続かなかったわけだけれど。