「ここ、か?」
次の日の土曜日。時生は劇団星ノ尾の練習場に訪れていた。劇団星ノ尾は時生が暮らす街にある小さな劇団で、劇場の地下でそのまま練習ができるようにスタジオが作られていた。ホームページに載っていた住所を頼りに、時生は海里の台本を持って訪れたのだ。
銀色のプレートに金色の文字で星ノ尾と書かれている劇場が住宅街の一角に見つかり、人見知りをする時生は人知れず気合を入れて地下に続く練習場へと下って行った。
スタジオの扉はガラス張りになっており、時生はそろりと室内を伺う。スタジオ内では老若男女の役者が数名、発声練習や演技に対しての討論を繰り返している。そして目当ての人物を見つけた。長い黒髪をポニーテールに結い、ダンスレッスンを受けている海里がいた。高校では見たことの無い、海里の凛々しく真剣な表情に新鮮さを味わう。
「あれ?キミ、見学者かな。」
「!」
海里を見ていて意識が持っていかれたのであろう、時生は背後に近付く女性に気が付かなかった。
「いや、僕は、」
「見学者大歓迎だよー!何志望?役者?裏方も募集中だけど!」
女性は大学生のような年齢で、時生より僅かに年上に見えた。時生の話を聞かずに、にこにこと笑ってぐいぐいと彼の背中を押す。
「皆の者ー!新しい劇団員候補だぞー。」
元気よく扉を開けて、室内にいる人々全員の注目を集めるのだった。その中にはもちろん、海里の視線もあった。
「あ。」
時生と海里の声が重なる。
「…なんで、あなたがここにいるんですか。」
「お届け物?でーす…。」
海里の不穏な声色に時生は苦笑の色を滲ませつつ、鞄から台本を取り出した。台本を見て、海里は目を丸くする。
「私の台本!!」
そして飛びつくようにして、時生から台本を引ったくるのだった。台本のページをぱらぱらめくり、欠けがないことを確認して海里は時生をじとりと睨む。
「どうしてあなたが、痛!」
時生を問い詰めようとするよりも早く、海里は年配の男性に頭を丸めた雑誌でぽこんっと叩かれた。
「海里。まずは、ありがとう、だろう。」
「お父さ―…、」
叩かれた頭を押さえながら、海里は抗議するように後ろを顧みる。
「ここでは、団長。」
海里の父親兼団長は、こほん、と咳払いをするのだった。
「ええと、はじめましてだね。何くん?名前は?」
「あ…、八尾時生といいます。あの、僕は一ノ瀬さんと同じ高校に通っていて、」
自身の娘と同じ高校という言葉を聞き、団長は嬉しそうに頬をほころばせた。
「おお!そうか、海里と同じ高校に?そうかあ、それは色々と話を聞きたいね。」
「…。」
海里は面白くなさそうにふいとそっぽを向き、台本を抱えてさっさと自らの稽古に戻って行ってしまう。
「思春期の娘は難しいね。」
「はあ…。」
大らかに笑う団長のその笑みには、寂しさが僅かばかり滲んでいた。
「話を聞きたいのはやまやまだけど、これ以上娘に嫌われたくないからやめておくよ。」
自分で家族と劇団員との線引きをしておきながら、団長はよよと哀しそうに振る舞う。その矛盾に時生は微笑ましく思い、くすりと笑ってしまった。
「はは、まあ。せっかくだから、ゆっくりしていって。」
団長の言葉に甘えて、時生はスタジオの端にある休憩スペースに案内され、一人、椅子に腰かけていた。麦茶を注いだコップを目の前に置かれて、ありがたく頂く。
目の前では、それぞれの稽古が始まっていた。海里はもくもくとダンスを練習している。ポニーテールの髪の毛がひらりと翻り、足先はステップを踏み、軽やかに舞う。小柄な海里の体躯はまるで蝶々のようだった。
「海里ちゃん、華があるよねー。」
「はい…って、え!?」
問われた言葉に無意識に頷いて、時生を驚いて隣を見た。隣に座ったのは、時生をスタジオに引き入れた張本人だった。
「そんな、驚かんでも!あ、私、斉藤海咲。よろしくぅ。」
「斉藤、さん。」
時生が反芻すると、海咲はからりと笑う。
「やだなあ、海咲でいいよ。」
「…海咲さん。」
固いなあと呟きながら、海咲は、ま、いっか、と一人納得したようだった。
「ねねね、海里ちゃんって実際のところ、高校ではどんな感じなの?」
「一ノ瀬さん、は…マイペースです。」
時生の答えに、海咲は笑う。
「きっと、そうだろうとは思ってた。友達はちゃんといる?姉貴分として、心配なの。」
「友達ですか。」
時生は高校での海里について、思い出してみる。何度か見かけてはいるが、海里が人と一緒にいるところは見たことはなかった。だが、それを正直に美咲に申告してもいいものかと迷う。
「…いないんだね。もう、相変わらずだなあ。」
沈黙で悟られてしまい、時生は申し訳なく思う。すみませんと呟くと、何で謝るの、と海咲が朗らかに話を続けた。海咲は笑顔が似合う女性だと思った。
「でもよかった。時生くんみたいな子がいてくれて。えっとー…、先輩だっけ。」
時生は頷いて見せる。
「これからも、海里ちゃんを見守ってあげてね。」
一時間ばかり見学をし、時生は頭を下げてスタジオを出た。地上へ続く階段を上る途中、その手を何者かに掴まれる。
「!」
ひやりと冷たい、低い体温をした小さな手。
「あの。ちょっとよろしいですか。」
階下から見上げていたのは、海里だった。
地上に出て、しばらく無言で海里の後をついていく。どこからか桜の花びらが舞ってきて、足元をくすぐるように風にさらわれていった。途中、海里がはたと止まり、急に足の向きを変えた。不思議に思い、進んでいた先を見るとそこには子どもと散歩する犬が歩いていた。
「…犬が苦手なんだ?」
「別に。そういうわけじゃないです。」
彼女の強がりを微笑ましく思いながら、時生と海里は回り道をして小さな公園に辿り着いた。心地良い日和に咲く桜の木が一本あり、先ほどの花びらの親はこの木だということを知る。海里は木の下に置かれたベンチに腰かけた。時生はどうすればいいかわからずに、立ちつくす。
「…なに、ぼうっとしてるんですか。落ち着かないので座ってください。」
「隣に座っても?」
嫌ですけど、と前置きをしながらも海里は頷いてくれたので、時生はゆっくりとベンチの端に座る。
「…。」
沈黙の時間が、ゆっくりと流れていく。その間、時生はじっと蟻が蝶々の死骸をせっせと運ぶ様子を見ていた。
「…蝶々。」
海里も同じものを見ていたのだろう、ぽとんと呟く。
「綺麗なのに、蟻に食べられちゃうんだ。」
「可哀そうだと思う?」
再び、海里は無言を貫き通す。時生はベンチから立ち、膝をつく。そして、蟻から蝶々の死骸を取り上げた。
「…どうするの。」
海里は、不審そうに時生の挙動を見守っている。
「うん、家に持ち帰って標本にしようかなって。」
「標本?ピンを刺して?」
いいや、と時生は首を横に振った。
「樹脂封入標本にする。この翅の美しい色合いは消えるけど、形はきれいに残るよ。」
時生にはカメラの他にも趣味があり、それが樹脂封入標本だった。寿命が訪れたり、傷を負ったり。病気で死んだりした生物の死骸を始めは解剖をして、命の源を知ろうとした。その経過の内に、この美しい身体をそのまま残しておきたくなったのだ。
蝶々の死骸が崩れないように、優しくそっとハンカチに包む時生を海里は不思議そうに見つめていた。その視線に気が付いて、時生はしまったと思う。
「あ、あー…。気持ち悪い?」
年下の女子高生から見れば、虫の死骸を大切そうに持ち帰り標本にするなどと言う奇行は幾分と心を冷やすだろう。そう思い、バツが悪そうに引きつった笑みを浮かべていると海里は思いがけず首を横に振った。
「いえ。盗撮よりかは、引いていません。」
「その説はすみませんでした。」
時生は勢いよく腰を90度に曲げて、頭を下げる。海里はやれやれとばかりに溜息を吐いた。
「本当、ドン引きしました。人が気持ちよく散歩していたら、いきなりシャッターを切るんですもん。」
「黒色と桜色の鮮烈で対比が綺麗だったから。」
時生の言葉に、海里は若干目を細める。
「こういう時は、色じゃなくて私自身を対象にして下さい。賛美の言葉を惜しんだら、はっ倒しますよ。」
「一ノ瀬さんと桜の対比が綺麗でした!」
言い直すとようやく海里は、よろしい、と頷いてくれた。
「それで?何故、盗撮をしたんですか。」
「これは標本の延長なんだけど…僕は、失ったら戻ることの無い儚さに恋をしているようなんだ。」
時生は口をつぐむと無意識に自身の左手、薬指を見た。第二関節の位置より下にずれ、そこにあるはずの薬指が欠損していた。中学の木工の授業中に、電動工具に巻き込まれたのだ。花が散るような鮮血と一瞬後に起きた悲鳴をよく覚えている。指を切断した当の本人である時生より先に、その現場に居合わせた同級生がショックにより貧血を起こして倒れた。
それから時生はすぐに病院にかかったが、指の断面図はひどく傷ついていて手術でつなぐこともできず結果、欠けたままだ。ちなみに貧血で倒れた同級生は頭を強く打っていて、精密検査や入院を経験した。
「…手をよく見せてくれませんか。」
海里の申し出に時生は「いいよ」と快諾し、左手を彼女の目の間に晒す。
「…。」
その左手を取って、海里はまじまじと時生の存在しない薬指を見つめた。両の掌で包み込むように触れて、時折そっと指の付け根を揉んだ。そのささやかな感触がくすぐったくて、時生はふっと吐息を漏らす。
「痛いですか?その、幻肢痛、とか。」
「幻肢痛?珍しいところに目を付けたね。」
切断した当初は、確かに海里が言うように幻の指が痛むように感じて悩んだこともあった。だが数日もすれば、脳も指を欠損したことを認め始めて徐々に治まった。
「今は平気。」
将来、愛する人と永遠の愛を誓う指が無くなったのは残念。だけど、その代償に神は僕に恋を教えてくれた。生物の儚さを知り、多くの者に永遠は無いことを悟った。一方でプラナリアやイソギンチャクなどの生殖方法が分裂だという者には、嫌悪感を抱くようにもなったのだけれど。彼らには情緒というものがない。
「それで…、失ったら戻ることの無い儚さでしたっけ。私と桜にどう繋がるんです?」
「えーと、ね。何て言えばいいかな。」
時生は自らの中に芽生えた感情に名前を付けようと、言葉を探す。
「一ノ瀬さんと桜が儚く感じた一番のきっかけは、色。こんなことを言えば、また叱られるかもしれないのだけど。」
ゴシックロリータのファッションは、主に退廃的な印象を受ける黒に統一されている。すべての色を自らの色に染め上げる黒が、桜の淡い色彩にぽとんと落とされた瞬間。均等を誇っていた調和が崩された気がしたのだ。調和は海里がいる限り再起をかけることもできず、その場に異質なものとして残ってしまう。彼女と彼女がいる風景に、戻らない調和に儚さを感じた。
「ゴスロリを着てなかったら、僕は一ノ瀬さんを無断に撮影しなかったよ。…多分ね。」
「ふうん。割と興味深かったです。理由を話してくれて、ありがとうございました。」
律義に海里は頭を下げる。そして顔を上げたかと思うと、真っ直ぐに時生を見つめた。黒く大きい、猫のような瞳の中の自分と時生は目が合う。
「あなたの名前を教えてくれませんか。聞いていませんでした。」
「あ、あー。名乗ったのは一ノ瀬さんのお父さんに向けてだったね。そう言えば。」
じゃあ改めて、と前置きをして、時生は海里を見た。
「八尾時生です。一応、一ノ瀬さんの先輩です。」
「八尾先輩。」
ふむ、と頷く海里に時生は言葉を続ける。
「僕は一方的に一ノ瀬さんの名前を知っていたけど、自己紹介がまだだよね?」
「そういえば、なんで私の名前を知っているんですか?」
海里は心底不思議そうに首を傾げるので、時生は思わず笑ってしまう。
「学校で有名だよ。一ノ瀬さん。」
その私服のセンスと、サボり癖。職員室掲示板の常連。
「美少女で有名、ぐらいお世辞を言えばいいのに。」
海里はつまらなそうに唇を尖らせた。
「自分で言う?」
「八尾先輩が言ってくれないからでしょ。」
つん、とそっぽを向く海里を見て、案外感情豊かなんだなと時生は人知れず思った。
「…何か、失礼なことを考えたでしょ。」
「何故、わかった。」
うっかり正直に応えると、海里は「女の勘です」といって今度はやれやれと肩をすくめた。
「一ノ瀬海里。私の名前。」
「うん。よろしくね。」
右手を差し出して握手を求めようとすると、海里はゆるゆると首を横に振った。
「?」
「ここで差し出すなら、左手でしょう。」
彼女は、指が欠けた手が良いと言っている。時生はややあと頷くと、握手を求める手を左に変える。そこでやっと海里は手を握ってくれた。
「あまりよろしくしたくないですけど、よろしくお願いします。」
劇団のスタジオに戻ると言う海里を見送って、時生は一人公園に残った。無言で桜を見上げて、海里との会話を反芻していた。まるで人慣れしていない野良猫を手なずけたような気分だった。
次の日の土曜日。時生は劇団星ノ尾の練習場に訪れていた。劇団星ノ尾は時生が暮らす街にある小さな劇団で、劇場の地下でそのまま練習ができるようにスタジオが作られていた。ホームページに載っていた住所を頼りに、時生は海里の台本を持って訪れたのだ。
銀色のプレートに金色の文字で星ノ尾と書かれている劇場が住宅街の一角に見つかり、人見知りをする時生は人知れず気合を入れて地下に続く練習場へと下って行った。
スタジオの扉はガラス張りになっており、時生はそろりと室内を伺う。スタジオ内では老若男女の役者が数名、発声練習や演技に対しての討論を繰り返している。そして目当ての人物を見つけた。長い黒髪をポニーテールに結い、ダンスレッスンを受けている海里がいた。高校では見たことの無い、海里の凛々しく真剣な表情に新鮮さを味わう。
「あれ?キミ、見学者かな。」
「!」
海里を見ていて意識が持っていかれたのであろう、時生は背後に近付く女性に気が付かなかった。
「いや、僕は、」
「見学者大歓迎だよー!何志望?役者?裏方も募集中だけど!」
女性は大学生のような年齢で、時生より僅かに年上に見えた。時生の話を聞かずに、にこにこと笑ってぐいぐいと彼の背中を押す。
「皆の者ー!新しい劇団員候補だぞー。」
元気よく扉を開けて、室内にいる人々全員の注目を集めるのだった。その中にはもちろん、海里の視線もあった。
「あ。」
時生と海里の声が重なる。
「…なんで、あなたがここにいるんですか。」
「お届け物?でーす…。」
海里の不穏な声色に時生は苦笑の色を滲ませつつ、鞄から台本を取り出した。台本を見て、海里は目を丸くする。
「私の台本!!」
そして飛びつくようにして、時生から台本を引ったくるのだった。台本のページをぱらぱらめくり、欠けがないことを確認して海里は時生をじとりと睨む。
「どうしてあなたが、痛!」
時生を問い詰めようとするよりも早く、海里は年配の男性に頭を丸めた雑誌でぽこんっと叩かれた。
「海里。まずは、ありがとう、だろう。」
「お父さ―…、」
叩かれた頭を押さえながら、海里は抗議するように後ろを顧みる。
「ここでは、団長。」
海里の父親兼団長は、こほん、と咳払いをするのだった。
「ええと、はじめましてだね。何くん?名前は?」
「あ…、八尾時生といいます。あの、僕は一ノ瀬さんと同じ高校に通っていて、」
自身の娘と同じ高校という言葉を聞き、団長は嬉しそうに頬をほころばせた。
「おお!そうか、海里と同じ高校に?そうかあ、それは色々と話を聞きたいね。」
「…。」
海里は面白くなさそうにふいとそっぽを向き、台本を抱えてさっさと自らの稽古に戻って行ってしまう。
「思春期の娘は難しいね。」
「はあ…。」
大らかに笑う団長のその笑みには、寂しさが僅かばかり滲んでいた。
「話を聞きたいのはやまやまだけど、これ以上娘に嫌われたくないからやめておくよ。」
自分で家族と劇団員との線引きをしておきながら、団長はよよと哀しそうに振る舞う。その矛盾に時生は微笑ましく思い、くすりと笑ってしまった。
「はは、まあ。せっかくだから、ゆっくりしていって。」
団長の言葉に甘えて、時生はスタジオの端にある休憩スペースに案内され、一人、椅子に腰かけていた。麦茶を注いだコップを目の前に置かれて、ありがたく頂く。
目の前では、それぞれの稽古が始まっていた。海里はもくもくとダンスを練習している。ポニーテールの髪の毛がひらりと翻り、足先はステップを踏み、軽やかに舞う。小柄な海里の体躯はまるで蝶々のようだった。
「海里ちゃん、華があるよねー。」
「はい…って、え!?」
問われた言葉に無意識に頷いて、時生を驚いて隣を見た。隣に座ったのは、時生をスタジオに引き入れた張本人だった。
「そんな、驚かんでも!あ、私、斉藤海咲。よろしくぅ。」
「斉藤、さん。」
時生が反芻すると、海咲はからりと笑う。
「やだなあ、海咲でいいよ。」
「…海咲さん。」
固いなあと呟きながら、海咲は、ま、いっか、と一人納得したようだった。
「ねねね、海里ちゃんって実際のところ、高校ではどんな感じなの?」
「一ノ瀬さん、は…マイペースです。」
時生の答えに、海咲は笑う。
「きっと、そうだろうとは思ってた。友達はちゃんといる?姉貴分として、心配なの。」
「友達ですか。」
時生は高校での海里について、思い出してみる。何度か見かけてはいるが、海里が人と一緒にいるところは見たことはなかった。だが、それを正直に美咲に申告してもいいものかと迷う。
「…いないんだね。もう、相変わらずだなあ。」
沈黙で悟られてしまい、時生は申し訳なく思う。すみませんと呟くと、何で謝るの、と海咲が朗らかに話を続けた。海咲は笑顔が似合う女性だと思った。
「でもよかった。時生くんみたいな子がいてくれて。えっとー…、先輩だっけ。」
時生は頷いて見せる。
「これからも、海里ちゃんを見守ってあげてね。」
一時間ばかり見学をし、時生は頭を下げてスタジオを出た。地上へ続く階段を上る途中、その手を何者かに掴まれる。
「!」
ひやりと冷たい、低い体温をした小さな手。
「あの。ちょっとよろしいですか。」
階下から見上げていたのは、海里だった。
地上に出て、しばらく無言で海里の後をついていく。どこからか桜の花びらが舞ってきて、足元をくすぐるように風にさらわれていった。途中、海里がはたと止まり、急に足の向きを変えた。不思議に思い、進んでいた先を見るとそこには子どもと散歩する犬が歩いていた。
「…犬が苦手なんだ?」
「別に。そういうわけじゃないです。」
彼女の強がりを微笑ましく思いながら、時生と海里は回り道をして小さな公園に辿り着いた。心地良い日和に咲く桜の木が一本あり、先ほどの花びらの親はこの木だということを知る。海里は木の下に置かれたベンチに腰かけた。時生はどうすればいいかわからずに、立ちつくす。
「…なに、ぼうっとしてるんですか。落ち着かないので座ってください。」
「隣に座っても?」
嫌ですけど、と前置きをしながらも海里は頷いてくれたので、時生はゆっくりとベンチの端に座る。
「…。」
沈黙の時間が、ゆっくりと流れていく。その間、時生はじっと蟻が蝶々の死骸をせっせと運ぶ様子を見ていた。
「…蝶々。」
海里も同じものを見ていたのだろう、ぽとんと呟く。
「綺麗なのに、蟻に食べられちゃうんだ。」
「可哀そうだと思う?」
再び、海里は無言を貫き通す。時生はベンチから立ち、膝をつく。そして、蟻から蝶々の死骸を取り上げた。
「…どうするの。」
海里は、不審そうに時生の挙動を見守っている。
「うん、家に持ち帰って標本にしようかなって。」
「標本?ピンを刺して?」
いいや、と時生は首を横に振った。
「樹脂封入標本にする。この翅の美しい色合いは消えるけど、形はきれいに残るよ。」
時生にはカメラの他にも趣味があり、それが樹脂封入標本だった。寿命が訪れたり、傷を負ったり。病気で死んだりした生物の死骸を始めは解剖をして、命の源を知ろうとした。その経過の内に、この美しい身体をそのまま残しておきたくなったのだ。
蝶々の死骸が崩れないように、優しくそっとハンカチに包む時生を海里は不思議そうに見つめていた。その視線に気が付いて、時生はしまったと思う。
「あ、あー…。気持ち悪い?」
年下の女子高生から見れば、虫の死骸を大切そうに持ち帰り標本にするなどと言う奇行は幾分と心を冷やすだろう。そう思い、バツが悪そうに引きつった笑みを浮かべていると海里は思いがけず首を横に振った。
「いえ。盗撮よりかは、引いていません。」
「その説はすみませんでした。」
時生は勢いよく腰を90度に曲げて、頭を下げる。海里はやれやれとばかりに溜息を吐いた。
「本当、ドン引きしました。人が気持ちよく散歩していたら、いきなりシャッターを切るんですもん。」
「黒色と桜色の鮮烈で対比が綺麗だったから。」
時生の言葉に、海里は若干目を細める。
「こういう時は、色じゃなくて私自身を対象にして下さい。賛美の言葉を惜しんだら、はっ倒しますよ。」
「一ノ瀬さんと桜の対比が綺麗でした!」
言い直すとようやく海里は、よろしい、と頷いてくれた。
「それで?何故、盗撮をしたんですか。」
「これは標本の延長なんだけど…僕は、失ったら戻ることの無い儚さに恋をしているようなんだ。」
時生は口をつぐむと無意識に自身の左手、薬指を見た。第二関節の位置より下にずれ、そこにあるはずの薬指が欠損していた。中学の木工の授業中に、電動工具に巻き込まれたのだ。花が散るような鮮血と一瞬後に起きた悲鳴をよく覚えている。指を切断した当の本人である時生より先に、その現場に居合わせた同級生がショックにより貧血を起こして倒れた。
それから時生はすぐに病院にかかったが、指の断面図はひどく傷ついていて手術でつなぐこともできず結果、欠けたままだ。ちなみに貧血で倒れた同級生は頭を強く打っていて、精密検査や入院を経験した。
「…手をよく見せてくれませんか。」
海里の申し出に時生は「いいよ」と快諾し、左手を彼女の目の間に晒す。
「…。」
その左手を取って、海里はまじまじと時生の存在しない薬指を見つめた。両の掌で包み込むように触れて、時折そっと指の付け根を揉んだ。そのささやかな感触がくすぐったくて、時生はふっと吐息を漏らす。
「痛いですか?その、幻肢痛、とか。」
「幻肢痛?珍しいところに目を付けたね。」
切断した当初は、確かに海里が言うように幻の指が痛むように感じて悩んだこともあった。だが数日もすれば、脳も指を欠損したことを認め始めて徐々に治まった。
「今は平気。」
将来、愛する人と永遠の愛を誓う指が無くなったのは残念。だけど、その代償に神は僕に恋を教えてくれた。生物の儚さを知り、多くの者に永遠は無いことを悟った。一方でプラナリアやイソギンチャクなどの生殖方法が分裂だという者には、嫌悪感を抱くようにもなったのだけれど。彼らには情緒というものがない。
「それで…、失ったら戻ることの無い儚さでしたっけ。私と桜にどう繋がるんです?」
「えーと、ね。何て言えばいいかな。」
時生は自らの中に芽生えた感情に名前を付けようと、言葉を探す。
「一ノ瀬さんと桜が儚く感じた一番のきっかけは、色。こんなことを言えば、また叱られるかもしれないのだけど。」
ゴシックロリータのファッションは、主に退廃的な印象を受ける黒に統一されている。すべての色を自らの色に染め上げる黒が、桜の淡い色彩にぽとんと落とされた瞬間。均等を誇っていた調和が崩された気がしたのだ。調和は海里がいる限り再起をかけることもできず、その場に異質なものとして残ってしまう。彼女と彼女がいる風景に、戻らない調和に儚さを感じた。
「ゴスロリを着てなかったら、僕は一ノ瀬さんを無断に撮影しなかったよ。…多分ね。」
「ふうん。割と興味深かったです。理由を話してくれて、ありがとうございました。」
律義に海里は頭を下げる。そして顔を上げたかと思うと、真っ直ぐに時生を見つめた。黒く大きい、猫のような瞳の中の自分と時生は目が合う。
「あなたの名前を教えてくれませんか。聞いていませんでした。」
「あ、あー。名乗ったのは一ノ瀬さんのお父さんに向けてだったね。そう言えば。」
じゃあ改めて、と前置きをして、時生は海里を見た。
「八尾時生です。一応、一ノ瀬さんの先輩です。」
「八尾先輩。」
ふむ、と頷く海里に時生は言葉を続ける。
「僕は一方的に一ノ瀬さんの名前を知っていたけど、自己紹介がまだだよね?」
「そういえば、なんで私の名前を知っているんですか?」
海里は心底不思議そうに首を傾げるので、時生は思わず笑ってしまう。
「学校で有名だよ。一ノ瀬さん。」
その私服のセンスと、サボり癖。職員室掲示板の常連。
「美少女で有名、ぐらいお世辞を言えばいいのに。」
海里はつまらなそうに唇を尖らせた。
「自分で言う?」
「八尾先輩が言ってくれないからでしょ。」
つん、とそっぽを向く海里を見て、案外感情豊かなんだなと時生は人知れず思った。
「…何か、失礼なことを考えたでしょ。」
「何故、わかった。」
うっかり正直に応えると、海里は「女の勘です」といって今度はやれやれと肩をすくめた。
「一ノ瀬海里。私の名前。」
「うん。よろしくね。」
右手を差し出して握手を求めようとすると、海里はゆるゆると首を横に振った。
「?」
「ここで差し出すなら、左手でしょう。」
彼女は、指が欠けた手が良いと言っている。時生はややあと頷くと、握手を求める手を左に変える。そこでやっと海里は手を握ってくれた。
「あまりよろしくしたくないですけど、よろしくお願いします。」
劇団のスタジオに戻ると言う海里を見送って、時生は一人公園に残った。無言で桜を見上げて、海里との会話を反芻していた。まるで人慣れしていない野良猫を手なずけたような気分だった。