次の日も海里は高校には行かず、かぜよみ荘の前に来ていた。野次馬は幾分か少なくなり、パトカーもいなかった。だが、二人分の死の重みは拭えないほどの空気の澱みとなって周囲を穢していた。海里はその空気に身を浸しながら、星ノ尾の練習スタジオでのことを思い出していた。
昨夜、正式に星ノ尾の劇団員に海咲の死が伝えられた。困惑の視線、すすり泣く声。驚愕の息づかいがその場に満ちた。
『海咲さんが彼氏を殺めたんだって。』
『ちょっと、やだ…。劇団にクレームきたらどうすんのよ。本人は自殺したんでしょ。』
不安に駆られ、死人を悪く言う者もいた。
人が二人亡くなっているのだから、悲しめば良いのに。供に演劇の道を歩んできた仲間に責められ、詰られる海咲が不憫でならなかった。
劇団は一週間、喪に服すことになりその期間は稽古も休みになった。『KINGFISCHER GIRL』の劇も続投か、降板かも知れない中途半端な状況だった。
「ー…、」
海里は歌をうたう。
「ささやき、繰り返し、響く私の星…。」
それはカワセミの少女の歌。
「心だけでも、想いだけでも傍に行けたら良いのに。」
海咲が歌うはずだったもの。
「…ポラリス。私に何を示す。」
細く、高い音程の歌詞たちに声がかすれてしまう。成長期の海里の喉には負担が掛かった。だが、海咲は。海咲なら、歌い上げることができたのに。
見守っていて、と願うにはまだ早くて、心の整理が付かない。だからせめて、まずは手を振ることから始めようと思う。私が手を振った際に起こった風が追い風になり、海咲と喜一の魂が緩やかに天に昇っていけば、それでいい。
海里は空を見上げてみる。十月の空は晩夏を宿して、未だに入道雲を描いていた。

待ち伏せも三日目となると、さすがに高校から無断欠席の連絡が行くだろうか。時生との面会を禁じられている身分ゆえに、その状況は避けたいところだ。そろそろ高校に行かなければ、と思う。今まであんなに嫌っていたのに、登校を隠れ蓑にしている自分の調子良さに若干呆れるが背に腹は代えられない。
私は、時生に会いたい。
ただその一心だった。
貴重な水分であるペットボトルのミルクティーを大事に飲みつつ、その温くなってしまったがためのもたれるような甘さに眉をひそめた。素直にミネラルウォーター、せめて無糖のお茶類にすればこんな不快感は味わわなくてよかったのにと一瞬思ったが、少しでも時生を感じたかったからこのチョイスにしたのだと考え直す。
「時生のばーか、ばーか。」
適当にリズムを付けて、繰り返していると散歩中の犬が不思議そうに見つめてきた。
犬は嫌いだ。幼い頃に、追っかけ回されたことがある。犬は無邪気に遊んで欲しかっただけなのかも知れないが、自分よりも体長のある獣が迫ってくるのは唯々恐ろしかった。
ざり、と一歩、後ずさろうとした刹那、頭上から優しい声色が降ってきた。
「大丈夫?海里。」
自らを案じるその柔らかい言葉に、時が一瞬止まった気がした。ゆっくりと振り返る。
そこに、時生が立っていた。

海咲の行方を案じる海里の心配そうな声に、言葉だけが先走ってしまった感は否めない。時生は自分が放った言葉に、自身で驚いていた。決して二人の死を告げるつもりはなかったのに、海里があまりにも可愛くて可哀想だったからつい口を吐いてしまったのだ。
海里だけを下ろした車内はとても静かで、時生の住むアパート、かぜよみ荘までの道をナビゲーションする声だけが響いていた。
目的地に到着し、かぜよみ荘の古く寂れた階段を二人分の靴音を立て上がっていく。喜一の部屋に鍵はかけていなかった。残暑が厳しかった所為もあるだろう、室内は死臭に溢れていた。
刺殺された喜一と自殺した海咲の遺体を見て、海里の父親は冷静に携帯電話を取りだして警察に連絡をした。事前に死を宣告されていたとはいえ、取り乱しもしない姿はとても立派だと思った。通話を終えて、海里の父親はようやく時生と向き合う。
「…八尾くん。君は実家に戻りなさい。今すぐに、だ。」
「僕のことを警察に言わないんですか?」
時生は目を丸くした。当然、自分も事情聴取をされるものだと思っていた。
「ああ。その代わり…、娘とは縁を切って欲しい。」
「…。」
そこにあったのは愛する娘を守る姿だった。これが父親としての態度なのかと、時生は素直に感心した。
娘の海里を慈しみ、愛し、心配して労ろうとする形に、なんて美しいのだろうと思う。
時生の沈黙を勘違いしたのか、更に海里の父親は頭を下げた。
「頼む、お願いだ。これ以上、あの子を傷つけたくない…っ。」
声が震えている。遠くではパトカーのサイレンが近づきつつあった。時間はもうさほど無い。
「わかりました。お嬢さんとは、もう会いません。」
時生は頷いて、ポケットを探り自分自身のスマートホンを手に取った。画面をタップし、海里の連絡先を父親に見せて、その場で削除をした。その動作に海里の父親は目に見えて、安心したようにほっと息を吐いた。
「…ありがとう。さあ、もう行きなさい。すぐに警察が来る。」
そう言うと海里の父親は、時生の背中を押すのだった。
入院中の荷物をそのまま持って、時生はかぜよみ荘を後にした。途中、パトカーとすれ違う。これから周囲は大騒ぎになるのだろうなと思い、近隣住民に心の中で謝罪をした。
久しぶりの叔父の家は広く、時生は以前使わせてもらっていた離れの一室を使わせてもらうことになった。叔父は時生のいきなりの来訪に驚いたようだった。
「一応、部屋の換気だけはしていたからすぐに部屋は使えるよ。」
「いつもありがとうございます、叔父さん。すみません。」
謝ることはない、と叔父は首を横に振ってくれる。
「事故の傷は痛まないか?中々見舞いに行けなくて悪かったな。」
叔父は時生が入院中、仕事の出張と重なっていたらしい。着替えなどを届けてくれたのは、叔母だった。
「大丈夫です。今日は…、久しぶりに叔母さんの手料理が食べたくなって。」
時生はそう言って笑みを作ると、叔母も嬉しそうに笑ってくれた。
「男の子の一人暮らしですもんね。そりゃあ、たまには人に作ってもらいたくなるわよねえ。」
時生の両親が双子で、自分自身の弟妹であることが引け目だとしても叔父夫婦は本当に時生に良くしてくれた。今日だって、快く招き入れてくれる。だからこそ、かぜよみ荘での事件を知ったときにどんな風に思うのだろうと純粋に興味があった。
その日は朗らかな夕食を終えて、時生は懐かしい自室に布団を敷いて横になった。幼い頃に怖かった人の顔のような天井の木目も、今では何とも思わないほどに成長していた。時生は瞼を閉じる。暗闇に浮かぶのは、海咲の死を告げたときの海里の虚無を描いた表情だった。

夢を見た。
それはアパートの天井に吊されて揺れる両親と、泣きながら死んでいった喜一と海咲の遺体の面影だった。時生に関係する人物の遺体はいつだって、頭上にあった。人は涙をこぼさぬように上を向くと歌うが、上を向くことが時生にとっては死との対峙であった。
「…?」
風船が弾けるような急激な意識の覚醒。一瞬、自分がどこに居るのかわからなかった。上半身を起こして、周囲を見渡してようやく叔父の家にいることに気が付いた。身支度をして母屋の居間に行くと、叔父が難しそうな顔をして新聞を読んでいるところだった。
「おはようございます。」
時生が挨拶をして叔父の前に座ると、すぐに叔母が朝食の準備を始めた。
「おはよう、時生くん。卵は何にする?」
「目玉焼きでお願いします。」
半熟にしとくわね、と言い、叔母は鼻歌を口ずさみつつ台所に戻っていく。
「…時生。」
叔父が新聞紙から顔を上げる。そして一枚の記事を時生に見せた。
「このアパート…お前が住んでるところに近いんじゃないか?」
地域のニュース欄で、アパートで二人の遺体が発見されたという内容だった。名前こそ伏せられているものの、それは確かにかぜよみ荘でのことだった。
「本当だ。近そうですね。」
台所から戻ってきた叔母から、ごはんと味噌汁を受け取りながら時生は何でも無い風を装って答える。
「あら、怖いわねえ。物騒な世の中だわ。」
叔母も記事を覗き込み、呟いた。
「本当にな。時生も戸締まりを気をつけなさい。」
はい、と時生は頷いて、朝食を採り始めるのだった。
その日は叔父の家から、高校に通った。かぜよみ荘に比べれば、遠い立地にあるため些か早く家を出た。
久しぶりに乗った都営バスに揺られ、スピーカーから響くバス運転手のアナウンスを聴きながら、車窓から流れる景色を眺めていた。冷房が効いていて快適な車内だった。いつもは満員の電車に乗っているために、慣れないバスもいいな、と単純に思う。
高校前までは行かない路線だったので最寄り駅前のバスロータリーで降り、他に歩く生徒たちに混じって時生は歩き出す。黒髪や黒っぽい服をきた同年代の女子を見かける度に、一瞬、海里を思い出してしまう。
彼女は今、何を思っているのだろう。
ふと、時生は自身の左の薬指が欠けた歪な手を見る。海里の柔らかい肢体や、流れるような黒髪の手に吸い付くような感触がまだ生々しく手のひらに残っているようだった。授業は退屈で、早々に専門学校を進路に決めた者だけの特権で寝そうになる。だが、クラスメイトのひんしゅくを買うのもおっくうなので耐えた。興味の無い教科だったが、黒板に書き記された文字をノートに書き写すことで眠気を堪えることにした。カリカリとシャーペンがノートに文字を刻む音が響く。ゆっくりとのろすぎる時間だけが過ぎていった。
茫洋とした一日が過ぎ、今頃警察の現場検証の真っ只中であろうかぜよみ荘には帰らずに、叔父の家に帰ることにした。あらかじめ二~三日お世話になる旨を伝えていたので、叔父の家に帰っても驚かれることはなかった。
夕食を摂り、団らんを終えてから自室に戻る。そういえば、カメラのフィルムにはまだ海里の笑顔が残されているはずだった。まだ現像をしていないことを思い出して、時生はカメラを手に取った。
ー…定着液に浸した後に乾かそうと、部屋の天井に張ったロープに写真を干す。
そういえば、専門学校に提出するポートフォリオも作成させなければならないのだった。
「…どうしたもんかな。」
何枚か撮りためた写真はあるものの、未だにこれといった決め手に欠けていた。日常をテーマにしていたが、時生の日常にはすでに海里がいた。だが、ポートフォリオ用に撮った写真にはどこにも海里がいない。いつの間に、こんなにも海里がいる風景が自然になったのだろうと思う。ため息を吐きながら、海里の笑顔の写真を見た。
このときはまだ、海里は二人の死について何も知らなかった。
無邪気で、可愛らしくて、無垢なその笑みが凍り付いたあの瞬間を時生は思い出した。
「…。」
暗室となった部屋の窓ガラスが、鏡の代わりになって己と目が合う。時生は口元に柔らかな笑みを浮かべていた。

次の日もまた、高校に普通に向かう。海咲と喜一が死んでいても、普通の日常を過ごせるのは海里の父親のおかげだ。感謝しなければならない。
午前の授業を終えての昼の休み時間。時生は非常階段の踊り場で叔母手作りの弁当を早々に食べ終えて、手持ち無沙汰になっていた。教室に戻ることもなく、唯々非常階段から空を見上げていた。何気なくスマートホンを取り出してしまうのは、若者特有の癖だろう。その割にはSNSを眺めるのも億劫で、好んで遊んでいたスマートホンのゲームアプリで時間を潰す気にもなれず、いたずらに画面に表示される天気予報を見ていた。今日は一日、晴れらしい。
ふあ、とあくびをしつつ、時生は服が汚れるのもいとわずに横になる。暖かいを通り過ぎて熱いぐらいの陽気に、夏休みに行った海水浴を思い出した。あの日も暑くて、海咲と喜一の仲もまだ冷えていなかった。
「…そうだ。」
海咲の笑顔を思い出して、ふと彼女が主役を演じる予定だった作品『KINGFISCHER GIRL』に思いをはせた。確か童話だと行っていたが、高校の図書室にあるだろうか。気にすれば、どんどん物語を知りたくなってきた。時生は徐に起き上がり、図書室に向かうことにした。
『KINGFISCHER GIRL』の絵本は無かったものの、英語の原文小説があり時生は表紙を開いた。知っている単語をパズルのように組み合わせて、読み解いていく。図書室はしんとして人気が無く、集中して作業することができた。
「純度の高い…、夜の蒼、色の翼を持つ少女がいた…。」
美しく秩序を保った羅列の中に、植え付けられる一粒の不安の種。口にすると、すとんと胸に落ちるような言葉たちだった。
カワセミの少女から紡がれる、カラスの青年に贈る愛の色が滲んだ歌に海咲の姿が重なった。
「海咲さんは、この歌をうたいたかったのか。」
彼女の愛は確かに鮮やかに色づいていたが、それは翼を広げて飛ぶには重かったのだ。
なるほど、と時生は一人納得して頷いた。
やがて校内のチャイムから予鈴が鳴り、時生は本を元あった棚に戻した。

海咲と喜一の死が発覚して三日目。時生は一度、かぜよみ荘の様子を見に行こうと思い、朝に荷物を全て持って叔父の家を出た。
「また、いつでも帰ってきなさい。」
叔父はそう言って、時生を送り出してくれた。軽く頭を下げて、歩き出す。
その日の授業を終えて、高校の小さなロッカーからボストンバッグを取り出してかぜよみ荘への家路についた。たった三日離れていただけなのに、随分と久しぶりな気がした。最寄り駅を降り、住宅街を歩いて行く。角を曲がればかぜよみ荘が見えてくる、という刹那。時生の視界に不自然なほどの黒色が映った。
「!」
それは、海里だった。
パフスリーブのブラウスの上に、黒いジャンパースカート。ひらりと揺れるレースがあしらわれた黒のハイソックスに、足下をバレエシューズのようなリボンで結ぶ靴を履いている。ゴシックロリータと言われるファッションは、本当に海里によく似合うと時生は改めて思う。黒は海里をより一層美しく着飾る色だった。
かぜよみ荘の階段近くに立つ海里を、しばらく時生は呆けたように見つめていた。彼女は時生に気が付かない。独り言か、もしくは小さく歌をうたっているのか紅い唇が僅かに動いている。ふと、伏せていた瞳が驚きに見開かれた。海里の足元近くに、散歩中の小型犬が匂いを嗅ぐように近寄ろうとしている。硬直する海里の小柄な身体を見て、彼女が犬を怖がっていたことに気が付いた。次の瞬間、海里への接近禁止令が彼女の父親から出ていることを忘れて、時生は歩み寄っていた。
息を呑み、後ずさろうとする海里の背後に立って。そして、ようやく声をかけることができた。
「大丈夫?海里。」
海里はさらに目を見開いて、振り返った。黒く美しい髪の毛がふわりと丸く翻る。時生と向き合ってその瞳は揺れて、唇が震えていた。
「…時生!」
小さく叫ぶように海里は時生の名前を呼んで、手にしていた飲み物のペットボトルを落とす。そのまま手を広げて、時生を包み込むように海里は抱きしめていた。そのまま海里は子どものように、時生の胸に顔を埋めて泣く。熱い涙が時生のシャツに染みこんでいった。
「どこにいたの…。私、ずっと…待って、た。」
高校内で彼女の姿を一ミリも見かけなかったのは、どうやら海里がかぜよみ荘の前で待っていてくれたからだと時生はようやく知った。
「ここにいてくれたんだね、海里。」
時生は海里の柔らかい肢体をきつく抱きしめた。
「ごめんね、ありがとう。」
甘いシャンプーの香りに混ざって、仄かに汗の匂いが滲む。海里の肌は赤くなっていて、残暑の厳しい日中の外に立たせていたことを時生は悪く思った。
ひとしきり泣き、海里は鼻を啜りながらようやく顔を上げる。
「…怒ってる、よな。」
時生の言葉に海里は当たり前だと頷いた。
「心配したんだから!」
「心配?」
首を傾げる時生を見て、海里も釣られるように首を傾げる。「何故、疑問形に?」
「いや、ほら…。怒ってるというのは、海咲さんのこと…なんだけど。」
混乱を隠すことすらできずに、時生は告白する。あんなにも海里を傷つけるような行為をしたのに、何故、僕を心配してくれるのだろうと思った。海咲の名前を聞いた瞬間、海里は苦しそうに瞳を伏せるがそれでもと顔を上げた。
「海咲さんたちのことは驚いたけれど…、でも、聞いた話だとあの二人だけの中で事件は完結しているようだった。時生が積極的に関わった訳ではないのでしょ?」
オブラートに包んではいるが海里は、時生が二人を殺したのではない、と断言していた。言葉の意味を汲み時生が頷いてみせると、海里もほらねとばかりに微笑んだ。
「海里は俺を信じてくれるんだ。」
時生は照れ隠しに海里を試すような言葉を使った。
「絶対的に信じてる。時生になら、裏切られてもいい。」
海里から返された言葉は予想の何倍も強固なもので、時生は驚く。
裏切られてもいい信頼だなんて、なんて甘美な響きだろう。「それなら…、」
だから、もっと甘えたくなってしまった。
「僕と一緒に、逃げてくれる?」