次の日の朝刊にて。アパート、かぜよみ荘で二体の遺体が見つかったと記事が載った。
亡くなっていたのは上田喜一(享年21歳)と、斉藤海咲(享年21歳)。上田喜一には複数の刺し傷があり、背中にも傷があることから殺害されたと見られる。一方、斉藤海咲は自傷が致命傷となっており、こちらは自殺と断定された。
かぜよみ荘の周囲には規制線が張られ、パトカーが二台ほど止まっていた。野次馬も群がって、一帯は騒然としていた。
海里は住人のいないかぜよみ荘を遠くの電柱の影から見守っていた。
『海咲さんなら、アパートの上階で死んでますよ。』
時生の無機質な声が今でも鼓膜に残って、脳にこびりついて離れない。

あれから海里の父親は、海里だけを自宅に降ろして時生と二人でかぜよみ荘に向かった。海里は茫然自失となり母親に肩を抱かれ、手を握ってもらいながら父親からの連絡を待った。だが、最初に着た電話は警察からのもので、父親が二人の遺体の第一発見者となったとの連絡だった。以降の記憶が断片的なものになったのは、海里が貧血を起こして気絶したからだろう。
海里が目を覚ましたのは、その日の深夜。深海から泡が上がるように、ゆっくりとした意識の浮上だった。その深海は紅く、温かく、とろりとしていた。今思えばあれは、深海ではなく母親の胎内、羊水の中だったのではと思う。
「…、」
誰かの名前を呼んだ気がする。それはとても愛おしく、大切な何かの欠片だった。目覚めたくないと願い、その願い叶わず、海里は自室のベッドの上で目覚めた。
息をしている。当たり前だ、生きているのだから。
海里の心は何故か凪いでいた。柔らかな布団の上で、深呼吸を繰り返す。瞼を何回か開閉して、暗闇に瞳を慣らすとゆっくりと身体を起こした。
カーテンの隙間から月明かりが差して、室内を青白く染めている。そっとベッドから足を下ろして、床に立ってみた。若干足下がふらつく気がしたが、それでも歩けば徐々にバランスを取ることが事足りた。
扉を開けて見ると、階下から電気の明かりが僅かに差していることに気が付く。海里は明かりを目指して、ひたひたと裸足で階段を下っていった。
明かりはリビングから放たれていた。そっとガラス戸越しに室内を覗くと、父親が背中を丸めて身体を震わせている。その隣で母親が父親の背をゆっくりと撫でていた。泣いているのだと、海里は悟った。
いつもおおらかに笑い、時々気が弱いけれど、それでも頼りがいのあるあのお父さんが泣いている。私はこの涙を見たことがあった。それは私の左手首に刻まれたリストカット痕に理由がある。

海里が中学生の頃のことだ。場所は中学校の教室。苛立ちや不安、生きづらさを感じたピークの時にとっさに目に付いたシャープペンを肌に突き立てた。床に滴った血液を冷静になった海里がティッシュで拭っているところを、同級生が見かけ担任に報告をした。担任は一ノ瀬家に電話をして、海里の自傷が両親に知らされたのだ。
何も知らずに鈍い痛みと傷跡を連れ帰った海里は、リビングで泣いている父親を見た。
『…お父さん?』
『…海里…っ、』
父親に声をかけると、海里にようやく気が付いて困ったように涙を拭うと手招きをして隣に座らせた。そしてそっと左手を取った。
『…。』
『痛かったろ。ごめんな。』
何故、謝るのだろうと思う。私がいけないのに。生まれてきたのが私だったから、いけなかったのに。
自分で貼った不器用な絆創膏の上を父親は恐る恐る撫でてくれた。
『大丈夫。死ぬ気は無かったの。』
衝動的なものだと何度も説明して、ようやく父親は落ち着いた。やがて買い物から帰ってきた母親がその日の夕食は、海里の好物ばかりを作ってくれた。元気がないときは好きな物を食べるのが一番、と家の中を明るくしてくれた。
それは生きているからこそ、だったのだ。

「お父さん。お母さん。」
海里はリビングの両親に声をかける。そしてゆっくりと近づく。
「海里…。目が覚めたのね、大丈夫?気分は悪くない?」
「うん。」
母親が海里を招き入れる。そして、父親ごと二人を抱きしめた。
「…海里。お願いがあるの。」
「何?」
母親の声が震えている。
「八尾くんには、もう…会わないでちょうだい。」
父親は警察に時生のことは伏せてあるらしい。その代わり時生には、娘とは縁を切って欲しいと頼んだという。
「あなたが心配なの。わかって、くれるわよね?」
母親の言葉が身体の芯に染みこんで、心が冷えていく。何故だろう、普通なら身の安全の確保に安堵するはずなのに。「うん。わかった。もう、時生とは会わない。」
海里が頷くと、母親はほっと一息を吐いたようだった。父親は無言のまま涙を拭い、海里の手を取った。そしてぎゅっと弱々しくも握ってくれた。海里が力強く握り返すと、母親を巻き込んで抱きしめるのだった。

「今日、学校を休んでも良いのよ?」
登校準備をする海里に母親は言う。
「ううん、行く。いつもの日常を過ごさないと。」
そう言いながら靴を履き、玄関の土間に立つ。海里は微笑んで、振り返った。
「行ってきます。」
扉を開けると朝日が目に眩しく、景色が一瞬白く染まった。手で日陰を作り、空を見上げる。朝を迎えた喜びを鳥たちが歌っていた。
駅前の通学路で小学生が集団登校の列を成し、まだ眠そうなサラリーマンがあくびをかみ殺しつつ通勤している。海里が乗り込んだ電車は時生が住む町の最寄り駅へと向かう車両だった。電車は線路に導かれて、時々揺れながら人々を目的地へと運んでいく。
気の抜けたような音と供に電車の扉が開く。住宅街に位置する駅に降車する乗客は少なく、海里は身軽にホームへと降り立った。もう勝手知ったる時生が済むアパート、かぜよみ荘への道を辿る。進んでいく先は段々と賑やかになっていくようだった。パトカーと警察官、野次馬がかぜよみ荘を囲んでいるのが見えた。時生の上の部屋の扉付近にはブルーシートが貼られ、鑑識官とも思える人たちが忙しそうに行き交っている。
海咲さんと上田さんは、あそこで死んだのか。彼らは一体、どんな最期を迎えたのだろう。
現実感がまだ涌かなかった。
野次馬に交わることもはばかれて、海里はじっと電柱の影に隠れるように見守った。案じていたのは、時生のことだった。彼は今、何を思っているのだろうか。
両親に時生に会うことを禁じられたものの、海里はもう一度会いたかった。詰る気も、怒る気もない。ただ、時生の口から海咲と喜一の最期を語って欲しいと思った。
「時生…、さすがにあの渦中にはいない…よね。」
今、かぜよみ荘に何食わぬ顔をして住んでいるとは思えない。保護者である叔父のところに帰っている、と思った方が自然だ。海里はふとため息を吐く。時生のメールアドレスと電話番号は両親の目の前で携帯から消去してしまったので、連絡のしようがない。きっと一度はかぜよみ荘に戻ってくることを信じて、海里は待ち伏せを始めるのだった。午前が過ぎ、正午になっても時生は現れない。もしかしたら学校にいるかも、という考えもよぎったが、動いたことで入れ違いになるのも避けたかった。ここで待つと決めたからには、動かない方が良い気がした。午後二時の一番暑い時間帯、じりじりと厳しい残暑が肌を焼く。いつもなら日焼けを嫌がって早々に建物に避難するが、今日はどんなことがあっても我慢しようと思った。
海里は俯いて足下を見つめていた。蟻がせっせと餌を集め、巣へ運んでいく。その餌の中には何かわからない虫の翅があった。デジャブのような光景を見て、海里はワンピースのポケットを探る。取り出したのは時生が作ってくれた樹脂封入標本だった。手のひらで転がすように眺める。蝶々の翅のきらめきは失われたが、形はきれいに残っている。もっと丁寧に作れば良かった、と言った理由の僅かな傷を中指の腹でなぞった。つるりとした樹脂の表面に刻まれた傷に何故か愛着がわいた。それは仲間意識にも似た感情だった。
野次馬の顔ぶれが次々と変わっていく中、海里は忍耐強く待った。時が過ぎ、日も暮れていく。日中、ずっと晒されていた肌は赤くなりヒリヒリと痛んだ。海里の白い肌は日焼けする代わりに、爛れるように熱を持つのだった。
もうすぐ門限の時間を逆算して、家に帰らなければならない時間だ。今回の件を以て、父親はひどく神経質になってしまっているので早く帰宅して安心させてやりたかった。海里は名残を惜しんで振り返りつつも、その場から離れる。電車に乗り込み、帰路につく。帰宅する人々の波に流されながら、駅の改札を出ると父親が手を振っていることに気が付いた。
「おかえり、海里。」
「ただいま…って、どうしたの?」
首を傾げつつ、海里は父親の元へと駆け寄る。
「ん…、たまには迎えに行こうかなと思ってな。」
恥ずかしそうに父親は笑い、頬を人差し指で掻く。海里は父親の心情を察して、下ろされた手をそっと握った。
「お父さん、ありがとう。帰ろっか。」
父親は驚いているようだったが、すぐに嬉しそうに海里に連れられるままに歩き出す。
手を繋いで歩くのは何年ぶりだろうと思う。今思えば、幼い頃はよく手を引いてもらっていた。
「…海里。」
ありふれた会話が途切れて、父親が呟く。
「何?」
「昔、お前は双子で生まれてくるはずだったと話したことがあっただろ。」
海里は頷く。
「生まれてきてくれたのが、海里で…本当によかった。そして、こうも思うんだ。」
言葉を句切り、父親は空を見上げた。今日は雲が厚く朧月夜だった。やわらかな月光が、周囲を包んでいた。
「…亡くなったのが、海里でなくてよかった。」
「!」
海里は父親の横顔を見上げた。唇の端が震えているのがわかる。その言葉の意味が、二重の意味を含んでいることが理解できた。父親は双子の片割れでも、海咲と喜一のカップルでもなく、何よりも誰よりも海里を選んでくれたのだ。仄暗い罪悪感と供に、途方もない多幸感が海里の胸に満ちる。父親は握っていた手の力をぎゅっと強くする。
「伝えるのが遅くなってごめんな。」