夏休みが明けた高校の初日。休み明けの教室はどこか気だるげで、でも友人同士が出会えた喜びにあふれていた。時生との件も重なって、いつものサボタージュに使う場所を使う気になれず海里は教室の机に座って、次の劇の台本を読んでいた。賑やかな空間は逆に一人になるには最適なことを、海里は知っていた。
今回の劇のタイトルは『KINGFISCHER GIRL』。カワセミの少女を主人公として、カラスの青年との恋をメインにした群像劇だ。配役を決めるのは一週間後。何の役でもいい。とにかく経験値の欲しい海里は、劇に出演したかった。まずは物語を頭に叩き込む。そして次に主要キャラの履歴書を海里なりの解釈で作る。台詞を覚えるのはそれからだ。授業中、演劇用の創作ノートを広げて海里は役柄の理解を深めていくのだった。ノートというアナログな手法は便利なもので、はたから見れば真面目に授業に集中しているように見えるから不思議だ。
低音の唸り声のような轟音が空から聞こえてくる。海里の集中は途切れ、シャーペンを置いてふと窓の外を見た。清々しいほどの空の青を分断するように、長い飛行機雲が白々と線を引いていた。夏休みの一般開放日に会ってから、時生との連絡は断っている。母親の言った言葉を鵜吞みにするわけではないが、確かに今は距離を置いた方が互いのためだと思った。そのまま空を眺めているのもいいが授業中では目立つ姿の上、劇の役理解を深めたいので海里は再び目線をノートに落とすのだった。
昼食、海里は迷った末に屋上に向かうことにした。暗い非常階段をかつん、かつんと足音を立てながら上って行く。最上階の屋上へと続く扉には立ち入り禁止の札が掛かっているが知ったことではない。この場所はまだ時生にも教えていない秘密があった。扉のノブをある一定のリズムで揺すれば呆気なく開くのだ。早速実行に移して、海里は扉を開けることに成功した。
がちり、と重そうに鉄の扉を解放すれば目の前には広がるのは一面の青。高校は街の高台に位置し、視界を遮る高いビルは周囲に存在しない。一歩踏み出して、屋上に出るとそのやってやったぞという満足感に気分は晴れた。貯水槽の影に腰を下ろして、自作の小さなお弁当を食べる。今朝は少し早起きして自分の好きなハンバーグをミニサイズでこしらえた。それをさらに半分に箸で割って口に放り込む。好きな味付けに満足して海里は一人、頷くのだった。少食の海里は早々に食べ終えて、再び台本を手に取った。ページをめくりながら、どこまで読んだかを確認していると不意にスカートのポケットから振動が起こる。朝に担任教師に提出せずに隠し持っていた携帯電話だった。
「…。」
ぱちりと折り畳み式の携帯電話を開くと、そこにはメールの着信アリとの表示があった。メールの送信者の欄には、喜一の名前が表記される。
『一ノ瀬ちゃん、こんにちは。特に用はないけど、メールしてみました。元気?』
喜一は海里を気遣ってか、日に一度はこうしてメールをくれた。
『元気ですよ。いつもありがとうございます。』
心配を嬉しく思いながら、海里は返信用のメールを認めて送信する。ポケットにしまった携帯電話は生き物のように温かく感じられた。

時生はポートレート用の写真を求めて放課後の校内を、カメラを持って徘徊していた。
人のいない図書室。運動部の声が響くグラウンドの片隅。一人の城と化した写真部の部室。
生活空間をモチーフにしようと決めたものの、どこか決定打に欠けている。思えば、四月からのおよそ五ヵ月は常に海里の気配が隣にあった。ふう、と溜息を吐いて時生は廊下に続く窓に頬杖をついて休憩をする。空を見、そして視線を階下に泳がせた。丁度、中庭の真上で行き交う人の顔がよく観察できた。
「…海里。」
中庭で初めて接触を試みたベンチに海里が腰掛けていることに気が付いた。デジャヴのように彼女は台本を眺めている。真剣な眼差しに思わず見惚れてしまう。時が止まったような錯覚を伴って見つめていると、不意に海里が台本から顔を上げた。視線が交わるその前に時生は膝を折ってしゃがみ込み、校舎に隠れてしまう。心臓が暴れるように脈打っていた。しばらく落ち着くのを待って、再びそろそろと窓の外を見るとすでに海里の姿はなかった。少し、ほっとする。海里の姿を目では探してしまうのに、いざ目の前にすると避けてしまう。そんな挙動がここ最近続いて、メールでもご無沙汰だった。会って話したいのに何を話せばいいかがわからず、自分はこんなにも意気地なしだったのかと思う。
「帰ろう。」
何度目かになる溜息を吐き、時生は荷物をまとめて廊下を歩き始めるのだった。
帰路につき、かぜよみ荘の前に着くと海咲が階段の下段付近で座っていた。その手には一本の煙草が携えている。
「おー、時生くん。おっかえりー。」
「ただいまです、海咲さん。…喫煙するんですね。」
海咲は苦笑しながら、唇に煙草を当て吸い込む。その慣れた手つきに、喫煙歴の長さを知る。
「これねー。きーくんの悪癖が移っちゃったんだ。」
「そう言えば、上田さんが吸っている煙草と同じような匂いがします。」
喜一が時々ベランダに出て喫煙をしているのは、風の流れで階下に降りてくる煙草の匂いで知っていた。
「ごめんね。迷惑だった?」
「いえ、僕はそんなに気にしないので。」
そう言いながらも服に匂いが染みつくのは嫌で、都度、干してあった洗濯物を取り込んでいるのは内緒だ。近所づきあいは円滑に行いたい。
「嗅覚でもきーくんを覚えていたくて、煙草を分けてもらって吸い始めたの。」
「上田さん、愛されているんですね。」
優しく目を細めながら満足そうに紫煙を吐く海咲を見て、時生は感心したように言う。
「うん。超、愛してる。」
海咲は鈴を転がすような声で笑いながら答え、煙草を携帯灰皿に押し付けた。そして立ち上がると、時生にねだるように肩に手を回す。
「ねーねー、きーくんが帰ってくるまで部屋に入れてよー。」
「上田さん、いないんですか?」
うん、と頷き、海咲は暑そうに団扇のように手で扇ぐ。
「スマホで連絡したら、まだ大学のゼミにいるって。あーつーいーよー。」
「残暑厳しいですよね。部屋を片付けるので、五分待ってください。」
そう言って時生は室内に入って見られたくないものを片付け、海咲を招き入れるのだった。
「あー。文明の利器、最高ー。」
早々にクーラーをつけて涼む海咲に、時生は麦茶をコップに注いで出す。
「今更なんですけど、他の男の部屋に入って上田さんに怒られませんか。」
「平気、平気。時生くんは子分だから。」
あっけらかんと笑う海咲に時生はがくりと肩を落とした。
「…せめて弟分でお願いします。」
しばらく取り留めのない会話を交わし、時生は専門学校に提出するプリントがあるからと机に向かった。しばらく時計の秒針の音が響くような静かな時間が過ぎる。スマホを眺めていた海咲は眠気が生じたのかクッションを抱きながらウトウトとし始めた。
「ねえー…、時生くーん…。」
「はい?何です、海咲さん。」
海咲は間延びした声で、時生に言う。
「きーくんがさ…、最近、元気ないんだあ。」
「…。」
時生は机から顔を上げて、海咲を見る。海咲は瞳を伏せ、もう夢現のようだった。
「何だか、笑う顔が無理してる気がして…心配…。」
「美咲さん。それは本人に言った方がいいのでは、」
次の瞬間には、海咲は睡魔に負けて眠りに就いていた。時生はやれやれと小さな溜息を吐いて、タオルケットを海咲にかけてやった。
およそ一時間後。玄関のチャイムが鳴り、応対するとそこには喜一が立っていた。
「ごめんね、八尾くん。海咲、回収しに来たよ。」
「どうぞ。寝てますけど。」
時生が部屋の中に案内すると、喜一は海咲の肩をゆすって起こそうと試みる。
「海咲? みーさーき、起きろー。」
海咲は、うー、と子犬のように唸るが起きる気配はない。やがて喜一は観念したのか、海咲の膝裏と背中を抱えて時生の部屋を出る。まるで寝てしまった子どもを抱える父親のような力強さだった。
「八尾くん、ありがとね。」
「いえ。じゃあ、えーと。おやすみなさい。」
おやすみ、と小さな声で囁いて、二階の自分の部屋に行こうとする喜一に時生は思い出したかのように声を掛けた。
「あの。海咲さんが、何か心配してました。その、上田さんのことを。」
「心配?」
立ち止まって、喜一は時生を見る。時生は頷いた。
「最近、元気がないって。」
「そうか、海咲が…。」
そう言うと一瞬、ほんの一瞬だけ喜一は痛みを我慢しているかのように表情を歪ませて海咲を見た。が、すぐにいつもの喜一の笑顔に戻る。
「ありがとう。何でもないよ。」
「…海咲さんに言ってあげてください。」
そうするよ、と苦笑しながら、今度こそ本当に喜一は海咲を抱えて部屋に戻っていった。

雨が降ると、劇団星ノ尾の地下にある練習スタジオは湿気が酷い。今日はそんな雨が夕方からしとしとと降る、新しい劇の配役決定まであと四日という日だった。
海里は海咲と共に、役を入れ替わり立ち代わり台本の読み合わせをしていた。今は海咲がカワセミの少女を演じ、海里がカラスの青年に声をあてていた。海咲の高い女性らしい声が囀るように言葉を紡ぐ。
「…今回の海咲さん、気合が入ってますね。」
一段落を終えて、海里は海咲に話題を振る。いつになく海咲は主役の獲得に必死だった。
「うん。私、今回の劇『KINGFISCHER GIRL』のお話、大好きなんだ。」
「何か思い出があるんですか?」
海咲は愛しそうに台本のタイトルの文字を指でなぞる。
「『KINGFISCHER GIRL』はね、私ときーくんが童話学のゼミで研究している話なの。この話を劇にするって聞いたとき、本当に嬉しかった。だから今回は絶対に、主役が欲しい。」
台本を胸に抱えてぎゅっと抱きしめる海咲を見て、海里は頷く。
「そうなんですね。頑張ってください。」
海里は、応援してます、と言葉を紡ごうとして海咲に止められる。
「だめだめ!海里ちゃんも、全力で役を取りにこないといけないんだからね?」
「!」
目を丸くして、海里は海咲の想いを汲み取って微笑んだ。
「わかりました。負けませんよ。」
二人は互いの健闘を誓うように笑い合い、再び台本を開いて読み合わせをするのだった。
夜、七時の門限を前にした海里を見送った海咲は、午後九時まで自主練習をしてスタジオを出た。鍵をかけ、戸締りを確認して地上に続く階段を上る。雨は晴れていたが、熱気と相まってその分だけ湿気がすごかった。じっとり浮かぶ汗を不快に思いながら海咲は帰路に就く。河原が望める土手沿いの道を歩きながら、海咲は空を見上げていた。白い月と星々が黒く濁った雲から覗く。テレビの砂嵐を何倍にも薄めたかのような光が零れていた。
「―…、」
口から吐いたのは、『KINGFISCHER GIRL』の劇で歌われる挿入歌だ。カワセミの少女の唄は童話の全集でも何度も読み、歌詞は空で言える。メロディーをつけたらどうなるのだろうと思っていて、今回、やっとその全容を知ることが出来た。優しく鼓膜に響く子守歌のようなメロディーに海咲は、一気に気に入ってしまった。機嫌よく口ずさみながら、土手を歩き次に思うのは喜一のことだ。
童話学の授業で教授が最初に何の物語が好きかのアンケートを取った。滅多に同じものを答える人がいないと言われているアンケートで、海咲と喜一は同じ物語を選んだ。その物語こそ、『KINGFISCHER GIRL』だった。
「…私がカワセミの少女を演じることになったら、きーくんはどんな顔をするかな。」
驚いて、そして自分のことのように喜んでくれるはずだ。その様子を想像し、うふふ、と口元に手をあて海咲は微笑む。
深い水中のような蒼をメインに、泡のように白いレースがあしらわれたドレスはきっと美しいだろう。そして歩いたそばから星屑が零れるような銀色の靴を履いて、劇場を統べるのだ。衣装班から聞いた話を思い出して、海咲はうっとりとするようだった。
役も、ドレスも、そして喜一の反応も。全部を手に入れたい。
海咲は鞄から台本を取り出した。ぱらぱらとめくると、そこにはいつにない量で赤ペンの文字が書き込まれている。大丈夫、頑張れる。海咲の心は、深い海中にあり光の手の鳴る方へと向かうようだった。

劇団星ノ尾の配役は団長と、副団長。それと各班のリーダーの意見で決まる。
一日を使って演技はもちろん、歌唱、ダンス、個別面接による本人の熱意を見るのだ。主役はいつだって激戦で、良い成績を残せれば主役を外れたとしても重要な役を任されることが多い。
『KINGFISCHER GIRL』の劇団内オーディションの日。海里は父親とは別に、練習スタジオへと向かっていた。最後の最後で親子の縁を理由にされたくない。
集合時間よりも早く向かったと思っていたが、練習スタジオにはすでに海咲の姿があった。海咲は海里が扉を開けた音にも気づかないほどに集中していた。イヤホンからは挿入歌のメロディーがわずかに漏れている。そうして海咲の口から紡がれる歌は、細く高く、身体から絞り出すような気合が込められていた。緊張を通り越して、どこか鬼気迫るような歌声だった。
「おはようございます、海咲さん。」
海里が海咲の気分を解すように、わざと大きな声で挨拶をする。
「! 海里ちゃん。」
海咲は驚いて目を丸くして、そしてイヤホンを外した。ふっと空気を和らげて海里を見る。
「おはよう。」
「早いですね。何時から来てるんですか?」
んー、と海咲は呟きながら壁の掛け時計を仰いだ。
「八時ごろかな。」
告げられた時間は、海里がスタジオに訪れる一時間前。オーディションが始まるのは午前十時からなので、海咲は二時間前からスタジオ入りしていると言うことになる。
「昨日も、帰りの鍵当番を買って出たんですよね。」
「そう。その流れで朝一に来ちゃった。」
海咲はそう言うと、ぺろりと舌を出した。
「大丈夫ですか?疲れていたり…しませんか。」
海里が心配して問う。連日、海咲は誰よりも居残って、誰よりも早く練習をしにスタジオに訪れていた。緊張や高揚感で疲れを感じていないにせよ、その埋め合わせは必ず訪れるものだ。
「平気、平気。今なら、何でもできる気がするから。」
手をひらひらと振って海咲は答え、再びイヤホンを耳にしようとする。海里はその答えを聞いてより一層、不安を煽られた。思わず、海咲の手を取って稽古を中断させる。
「美咲さん、ちょっと休んで下さい。このままだと演技に支障が、」
「海里ちゃん。」
海咲は一瞬表情を失くすように真顔になって、そして目を細めて笑った。
「海里ちゃんは、本当に感情表現が豊かになったよね。」
「そう、ですか?」
戸惑う海里を見て、うん、と海咲は頷く。
「役者としても、人間としてもすごく魅力的になった。正直、今回だって勝てる気がしない。でも、だからって私は頑張ることを忘れたくないの。」
海里の肩をそっと押し戻す。それは一瞬の決別を意味していた。
「オーディションまでは、別々で稽古をしよう。」
「…はい。」
海咲の決意に、海里は頷くことしかできなかった。
やがて午前十時になる頃、続々と他の役者やスタッフたちがスタジオに訪れた。最後に海里の父親、劇団の団長が現れてオーディションの開始を告げる。
「これから、『KINGFISCHER GIRL』の役を決めるオーディションを始めます。前日にくじで決めた順番で呼ぶので、該当者はステージに上がってください。」
はい、と役者たちの緊張が満ちた声が重なった。その中にはもちろん海里、海咲の声も含まれている。いつまでたっても配役を決めるこのオーディションは慣れない。心臓が早く脈打って、落ち着け、と願わずにいられなかった。
公開方式のオーディションが進む中、人々の視線をかっさらった役者が二人いた。海里と海咲だ。海里が繊細で丁寧な演技をすれば、海咲は伸びやかで艶やかな歌声を披露する。
「今回の主役は、一ノ瀬さんと斉藤さんの一騎打ちかな。」
「どっちだと思う?斉藤さん、最近めきめきと上達してきたとは思うけれど。」
ひそひそと役者の中で囁き声が漏れる。それほどまでに二人は自らを高め続けていた。そうしてオーディションは進み、面接を終えて一時間の選考時間に入った。この間、海里と海咲に会話は無かった。今か今かと、結果を待ち受ける役者の質の目の前にようやく団長と副団長が現れた。スタジオ内はしんと静まり返り、団長の言葉を待つ。
「まずはオーディション、お疲れさまでした。早速、主役のカワセミの少女役から発表していきます。」
一瞬の間が、とてつもなく長く感じられた。
「カワセミの少女―…、斉藤海咲。」
その瞬間のことは一生忘れないだろうと思った。
「海咲さん、おめでとうございます。」
海里が拍手をして、そして健闘を讃える握手を求めてきた。海咲は自分の名前を聞いて呆然としていたが、ようやく実感と喜びが湧いてきた。
「ありがとう、海里ちゃん。私、頑張る…っ!」
鼻の奥がツンと痛くなって、熱い思いと共に涙が込み上げてきた。
「すごかったよー、斉藤さん。」
「おめでとう!」
役者仲間からも次々と祝福と賛辞の言葉が贈られる。団長も拍手を贈りながら、言葉を紡いだ。
「今回は本当に難しかった。審査する我々も意見が割れてね。最後は斉藤さんの熱意が決め手になりました。おめでとう、精進してください」
その後、海里も無事に役をもらいオーディションは終わった。
打ち上げに行くかという劇団の仲間の誘いは断って、海咲は足取りも軽くスタジオから地上へと続く階段を上った。清々しい気持ちで最後の段を踏みしめて、鞄からスマートホンを取り出す。画面をタップして、電話を掛ける。数秒のプッシュ通知の音が響き、相手が出た。
「あ、もしもし。きーくん?」
電話の相手は喜一だった。
「今、時間大丈夫?」
『うん。どうした?』
海咲の声には喜びの色が隠せない。
「えーとね、うん。あの、今からアパートに行ってもいい?話があるの。」
どうせなら直接伝えたい。そして、喜一が共に喜ぶ顔が見たかった。
『いいよ。俺も、海咲と話したいし。』
「ありがとう、じゃあ今から向かうから。三十分ぐらいで着くと思う。」
電話を切って、海咲は嬉しさを力に変えて駆けだした。駅前に着くと、海咲が気に入っているケーキ屋の看板が目に留まった。いつもはカットされたケーキを購入していたが、今日は特別だ。思い切ってホールで買って、喜一と目一杯に食べよう。そう思い、海咲はケーキ屋の自動扉をくぐった。
桃とヨーグルトのタルトをホールで購入し、今度はタルトの入った箱を傾けないようにゆっくりと歩いた。目に映るすべてのものが光に輝いて見える。鼻歌を歌いながら機嫌よく進み、アパートが見えてきた。走ってゴールインしたい気持ちを押さえて、海咲はかぜよみ荘の階段を上る。かつん、かつんと響く足音に気が付いたのだろう、喜一が寸前で玄関の扉を開けて海咲を迎え入れてくれた。
「ありがと、きーくん。」
「うん。」
上がって、と喜一に誘われて、海咲は遠慮なく部屋に上がり込む。靴を脱いで、タルトの入った箱をテーブルに置いた。
「どうしたの、これ。」
「うふふー、食べたくなったの!」
そう言って海咲はタルトを切り分ける為のナイフを探しにキッチンに向かう。
「丁度良いのないから、包丁でいっか。」
流し下の戸棚を開けようと、海咲はしゃがむ。
「海咲。」
「なあに?ちょっと待って、」
「別れよう。」

夕方からの急な雨に降られて、時生は商店街での買い出しの帰り道を走っていた。
「予報が外れたな。」
通り雨かと思って花屋の軒先で雨宿りをさせてもらっていたが、いよいよ本降りと化して仕方なく雨の中に飛び出したのだ。パシャ、と水溜りを踏んで、飛沫を上げながら駆けていく。ようやくかぜよみ荘に辿り着いて、玄関の錠を落とし扉を開ける。ふう、と息を吐いて、タオルで服に滲みた水分を拭っていると、玄関のチャイムが鳴った。
「今、出ますー。」
時生がそう言う間も、チャイムは何度もビーと音を立て鳴っていた。一回押せば聞こえるのにと思いながらも、時生は髪の毛をタオルで拭きながら対応すべく玄関に向かった。
「はーい…?」
がちゃりと音を立て、扉を引くとそこには海咲が立っていた。
「海咲さん?何か用…、」
「…。」
海咲は無言のまま俯いている。
「…その血はどうしたんですか。」
海咲の手は血に濡れていた。それに気づいた時生は膝をついて、彼女の手を取った。傷口は見当たらない。よく見ると服のあちこちにも点々とした赤黒い染みが生じている。
「…の、…ゃない…。」
「え?」
か細い声で、小さく海咲は告白した。時生は顔を上げる。
「私の、血じゃない。」
海咲は泣きながら、笑っていた。瞳から止めどなく涙を零すのに、笑った唇の端は痙攣するように引き攣っている。その異常さに気が付いた時生は、戸惑い無く海咲の手を握った。
「海咲さん。ゆっくりでいいので話してくれませんか。何があったのかを。」
部屋に入るように促して、海咲を落ち着かせるように座らせた。
「きーくん…が、きーくんがね…、」
海咲は怯えるように辺りを見渡して、そして自分の手を見た。
「上田さんが、どうしたんですか?」
「わ、別れようって、言う、の。」
寒気を覚えたように肩を大きく震わせて、海咲は手をぎゅっと握る。力がこもり白くなった肌に、血液の赤がよく映えると時生は場違いに思った。
「だから、私…きーくん…、」
殺しちゃった、と海咲は呟いた。

―…別れよう。
喜一の言葉が海咲の心を切りつける。あまりの早業に一瞬切られたことに気が付かず、海咲は混乱した。
「…え?何、」
「ごめん、海咲。」
海咲が仰ぐように見ると、喜一は頭を下げていた。その肩は震えて、耐えるように拳をぎゅっと握りしめている。
「俺、他に好きな人がいる。だからこのまま、海咲と付き合えない。」
この人は何を言っているのだろうと思う。海咲はまるで客観的に喜一を見つめていた。その間も、喜一は何度もごめんと繰り返す。幾度目かの謝罪の言葉に、やっと海咲は彼が犯した過ちを知った。
「好きな人って、ちょっと待って…え?誰…、」
私はきーくんが好き。そして、きーくんも私のことを愛してくれる。
「一ノ瀬海里ちゃんを、好きになった。」
きっかけは『青い靴』の公演だった。海里の躍る足元、流れる手先。艶やかな目線が記憶にこびり付いたという。妹のように接するようになると、たまに見せる笑顔にとてつもなく惹かれた。そしてあの日。海里の涙を見て守りたいと思い、自らの感情が恋だと知った。
「…ごめん。」
海咲の真っ白になる思考回路が黒くなるその前に、感情が弾けた。

「包丁で刺したんですか。」
時生の言葉に海咲は小さく頷いた。その動作を確認して立ち上がる時生の腕に、海咲は縋る。
「ま、待って…、どこへ、いくの?」
「上田さんの部屋です。まだ、生きているかもしれない。」
海咲は大きく首を横に振った。いつも綺麗に整えられている髪の毛が乱れていく様は哀れを通り越して、悲惨に思えた。
「そんなことない!生きてる、なんて…だって、」
「だって?」
かちかちと親指の爪を噛み、海咲は自らを落ち着かせようとしている。
「だって、刺したのは一度じゃない…っ!」
彼女に飛び散った血飛沫を見ると、放った言葉の意味が知れた。海咲は喜一が死ぬまで包丁を用い、刺し続けたのだ。
時生は酷く冷静だった。ふむ、と頷いて、海咲の肩をそっと抱く。
「じゃあ尚更、様子を見てこないと。海咲さんはここにいてください。僕一人で、行ってきますから。」
そう言って突き放そうとすると、海咲は時生の手を握った。
「だめ!一人にしないで…。どうしても行くなら、私も行く!」
「…わかりました。」
怯える海咲の手を引いて、時生は玄関を出た。階段を上って行く間に会話はなく、喜一の部屋に近づく度に重苦しい死の空気がねっとりとした粘度を以て、足もとから這い出てくる気がした。喜一の部屋の玄関は僅かに開いている。生きている人間が存在する気配はない。時生は躊躇なく扉を開き、土足のまま部屋に入ると小さいキッチンで俯せに倒れる喜一を発見した。
床には血が擦れるような痕があり、喜一が這って逃げようとしていたことを察することができる。伸ばされた手の先には喜一自身のスマートホンがあった。
「…。」
時生は喜一の身体を仰向けにすると首元から脈拍と、口から呼気の有無を確認する。どちらも皆無ながら、まだほんのりと温かい。
「死んでいますね。」
喜一の腹部に傷痕が窺え、腹の傷口を押さえるようにして倒れたのだろう。その後を追った海咲は、背中から幾度も包丁を突き立てたらしい。血は床に多量、壁に少量散っていた。喜一は苦悶の表情を浮かべ、頬には涙の痕があった。即死できずに苦しんだようだ。
「きーくん…、きーくん…っ。」
海咲は膝をついて崩れ落ちる。肩が震えていた。
「海咲さん、どうしますか。自首するなら、警察まで付き添いますけど。」
「…っ、…!」
時生の言葉に海咲は首を横に振る。涙の雫が飛び散った。
「…私も、死ぬ…。」
幽霊のようにゆらりと立ち上がると、海咲は部屋の隅には放ってあった凶器であろう血に濡れたままの包丁を手に取った。
「…そうですか。残念です。」
時生は溜息を吐く。
「…止めないの?」
「止めてほしいですか?」
海咲は可笑しそうに笑った。
「ううん。ねえ、時生くん。」
「なんでしょう。」
時生は小首を傾げる。
「私が死ぬまで、傍にいてくれない?」
途中で怖くなって逃げないように、と海咲は呟いた。
「いいですよ。」
二人は喜一の部屋に備え付けられている小さな浴室へと移動した。冷たいタイルの床に座り、海咲は包丁で左手首を切る。切っ先は震え、幾度か切りつけると静脈を傷付けたのか一瞬噴水のように血液が吹いた。海咲が拳を作って力を籠めると、圧が掛かったのか血液が再び勢いよく溢れ出る。
「痛いですか?」
脂汗が額に滲む海咲に時生は訊く。
「うん…。すごく、痛い。でも、頑張らないとね。」
傷口が乾かないように、水が張った浴槽に手首を浸した。手首から滲んだ血液は絵の具のような粘度を持って、揺らぐように水を紅く染めていく。比重から血液は水底に溜まるようだった。
「時生くん…私が死んだら、海里ちゃん…泣くと思う?」
「確実に泣くでしょうね。」
浴槽にもたれ掛かりながら、海咲は、ふふ、と笑う。笑った後に遠くを見つめるように目を細めた。
「悔しい…、悔しい。悔しい…っ。海里ちゃんなんて、いなければよかったのに。」
呪いを吐きながら、海咲は泣いた。
「時生くん…?」
隣にいる時生を見て、海咲は怪訝そうに眉根を寄せる。
「何故、笑ってるの。」
時生は唇を弧のように引いて、笑っていた。その表情を見て、海咲はその場で嘔吐する、胃酸と臭気にけほけほと海咲はむせた後に、いよいよ狂ったように笑いだした。
「何だ。壊れていたのは、私だけじゃなかったんだ。」
ひとしきり笑うと、二人はまるで仲の良い姉弟のようにぽつぽつと語り合う。
「美咲さん、出血多量による死因には二つの種類があるらしいですよ。」
「そうなんだ。私は何に、なるの…?」
時生はスマートホンの画面を見ながら答える。
「首のような太い血管を切って、短時間で死ぬ場合は失血死。海咲さんのように長時間で死ぬ場合は、出血性ショック死が多いそうです。」
「そっかあ…、首を切る選択肢もあったね…。ごめん、時間が掛かっちゃって。」
その様子を想像した時生は、ゆるりと首を横に振った。
「いえ、その場合だと掃除が大変そうなので。…海咲さん?寒いですか。」
時間が経つにつれて海咲の顔色は白くなっていき、身体が小刻みに震え始めた。
「う…ん。少し、ね…。」
瞼を重そうに持ち上げると、海咲は涙を零した。
「視界が、チカチカす…る…。あれ、よくみえないな…。」
そう言うと、海咲は瞳を閉じた。
「海咲さん。」
「…。」
時生がそっと肩に触れて、揺すって覚醒を促すも反応はない。どうやら意識を失ったようだ。
「お疲れさま。」
海咲の髪の毛を撫で、時生は立ち上がる。このまま放っておけば、海咲は死ぬだろう。居間では喜一が死んでいる。時生は喜一のスマートホンをハンカチで包みながら手に取った。操作して指紋認証の設定を引っ張り出す。硬直が始まる前に喜一の掌を開いて、指の一本一本を認証させてロックを開いた。そしてアドレス帳を表示させて海里のメールアドレスと共に、メールのやり取りを消去する。これでいい。
ボトムスのポケットから今度は自分のスマートホンを取り出して、時生は海里に電話を掛けた。しばらくの着信音の後に、海里が電話に出た。
『もしもし、時生…?』
「海里。今から会えない?」
海里は突然の時生の電話に驚く。声は静かで笑みが含まれていたが、どこか涙を零しているようだった。あの、お盆の日のように。時生との電話を切って、海里は自分の部屋を飛び出した。
「海里ー。廊下は静かに歩きなさい、」
「お母さん!今から、出かけて来てもいい!?」
時刻は門限の午後七時を過ぎた頃だった。父親は町内会の集まりに出掛けている。
「ええ?今から?」
「お願い!」
訝しがる母親に、海里は必死で説得を試みる。娘の口か時生の名前が出ると、母親の表情は変わった。
「…つまり、八尾くんが助けを求めてるのね?」
「うん。私が行かないと、きっと彼は一人で泣く。」
海里自身が泣きそうに目を潤ませると、母親は大袈裟に溜息を吐いた。
「午後九時には戻ること。いい?お父さんが帰ってくる前に帰ってきなさいよ。」
「! ありがとう、お母さん!!」
母親と言う味方をつけて、海里は家を飛び出したのだった。

かぜよみ荘の一階、時生が住む部屋の玄関チャイムが鳴る。時生が扉を開くと、そこには息を切らした海里が立っていた。恐らく、駅からの道のりを走ってきてくれたのだろう。
「時生、大丈、夫…、」
「海里。」
時生は海里を力強く抱きしめた。小柄で細い、しなやかな背に腕を回すと海里自身も時生に縋るように抱きしめ返してくれる。
「来てくれて、ありがとう。」
「呼べって言ったのは、私だから。」
うん、と頷いて時生は彼女の耳を食み、長くしっとりとした黒髪に鼻先を埋めた。淡い汗と爽やかな石鹸の香りが混じって、日向のような香りになる。
「時生、あの、微妙に恥ずかしいんだけど。」
海里は僅かに身体をよじるが、時生は離れることを許さない。
「海里、このまま聞いて。」
「…うん。」
幼子に話しかけるように時生は優しい口調で海里の耳元、鼓膜に直接語り掛ける。海里はその穏やかな声音に落ち着きを取り戻して、時生に身を委ねた。
「僕と、恋人になってくれませんか。」
「本当…?」
海里の声が震えていた。時生の肩が熱く湿る。抱きしめている彼女の涙が滲んだのだと思う。
「本当。お願い、海里。」
甘えるように言うと、海里は何度も時生の胸の中で頷いた。ありがとう、と呟くとようやく時生は海里を解放した。
「何で泣くの。」
笑いながら、海里の目元の涙を指の腹で拭ってやる。
「だって、嬉しい…から。」
可愛くて、可愛くて…僕に愛される君はなんて可哀想なのだろう。時生は指についた海里の涙を舐めた。
「そうだ。ねえ、写真を取ってもいい?」
「写真?」
海里はきょとんと眼を丸くしながら、小首を傾げる。
「うん。今日の記念に。」
二階。頭上の部屋では、喜一と海咲が死んでいる。海里は何日後かには二人の死を知ることになるはずだ。
「時生って、記念日のたびに写真を撮る父親みたいだね。」
はにかんで、カメラを持ち出した時生に向かって居住まいを正す。
「そうかも。じゃあ…、撮るよ。」
そう言って、時生はシャッターを切った。今まで見た中で一番の笑顔で、海里は応えてくれた。ひたひたと滲む死の気配に日常が浸食されていく中、この表情が涙に濡れる瞬間を思い、時生の胸は疼き、手足の先が甘く痺れるようだった。
「ねえ、時生のカメラってフィルムなの?デジタルじゃなくて?」
ベッドの上に腰掛けて、時生の隣にいる海里が無邪気に聞く。
「そうだよ。デジタルもいいけど、単純に高いだろ。このカメラも中古の品だし。」
そう言いながら、時生は愛用のカメラの側面を撫でる。レンズにひびさえ入っていなければ良いと思い、小遣いを貯めて購入した物だった。
「ふうん。じゃあ、すぐに写真は見られないんだ。」
海里は残念そうに唇をとがらせる。時生は苦笑しながら、海里の頭を撫でた。
「今夜中には現像しておくから。」
「本当?」
ああ、と時生が頷くと、海里は機嫌が直った猫のように笑った。
「嬉しい。ね、一番に見せてね?」
「約束するよ。」
そう言うと、左手で指切りをするのだった。
午後八時を回り、いよいよ海里が帰路につく時間が迫ってきた。名残惜しそうにもたもたと帰り支度をする彼女が可愛らしくて堪らない。
「海里、駅まで送るよ。」
「…ありがとう。ねえ、じゃあ歩いて行こうよ。」
少しでも長く一緒にいたいといじらしいことを言われて、時生は気をよくする。
「いいよ。電車に間に合うぐらいにゆっくり歩いて行こう。」
玄関を出ると、くらげのように白く輝く月が夜空の海に浮かんでいた。住宅街はとても静かで、時折テレビの笑い声が漏れて聞こえてくるぐらいだった。駅までに続く等間隔に設置された街灯を、ヘンゼルとグレーテルの小石になぞらせるように二人は辿っていく。隣を歩く海里の手の指が、つん、と時生の手の甲に触れた。それを一つの合図のようにどちらかともなく、手を絡ませるように握ったのだった。しばらく無言で、でもその静寂が心地よく。手は口ほどに情緒を語った。
最寄り駅に到着する頃、風が少し出てきた。もしかしたら雨が降るのかも知れない。
「時生、あの、次は学校で、かな。」
「うん。また明日、だね。」
時生は誰にも見られないような素早さで、海里の旋毛にキスをした。小柄な海里の頭の位置は、口づけるのに丁度いい高さだ。
海里は照れたように自身の髪の毛の先を指先に絡めて弄び、そして決意したように時生の腕を引っ張り、背伸びをして頬にキスをする。柔らかい唇が頬に押し当てられて、時生はくすぐったそうに首をすくめた。
「ほら、もう行かないと乗り遅れる。」
時生はそっと海里の肩を押した。
「うん。」
またね、と手を振って、海里はまるで踊る子鹿のような足取りで駅の構内に駆けていった。彼女の姿が見えなくなるまで手を振って、時生はそっと背を向ける。
やがてポツポツと雨が降ってきて、夜の帳が降りた駅前の交差点の角に立った。
「…。」
時生は目をぱちぱちと瞬かせる。興奮から冷めて疲れが出たのだろうか、視界に霞がかかったようだった。雨が肩を濡らして行く。肌にまとわりつき気持ちが悪い。
歩行者用信号の色が青に変わったことをつげる音声が流れ、何気なしに一歩踏み出した。その瞬間、車のけたたましいクラクション音が響き渡った。
あ、やばい。
そう思った瞬間に、時生の身体に衝撃が加わったのだった。

「全くもう!どれだけ心配させれば気が済むんですか!?」
大学病院の病室。都合良く、個室となった時生の病室に訪れた海里が開口一番、ぶち切れていた。怒る目の淵が赤く腫れていたことを時生は気が付いていた。言葉通り、多大な心配をかけたのだろうと思う。
時生は昨夜、自動車と接触事故を起こして、救急車にて病院に運ばれた。雨で視界が悪かった車は発進した直後だったために、スピード自体はそんなに出ていなかった。ただ、接触した衝撃で額を切った時生の血は中々止まらなかった。傷口を縫合し痛々しい包帯を何重にも巻いて、時生は検査入院を強いられた。
『彼氏、事故で入院したんだって?』
海里はその入院を高校で教員から知らされたという。何気ない会話の糸口で知った衝撃は計り知れず、海里は時生の入院先の病院を聞くと供に高校を飛び出したらしい。
「ごめんなさい。」
時生は素直に頭を下げる。
「本当に…、怖かったんだから…っ。」
海里の表情がくしゃりと歪んだ。涙が彼女の瞳から盛り上がり、表面張力を破って零れた。
「時生が死んじゃったらどうしようって。それしか考えられなかった…っ。」
泣くことを躊躇しない海里を時生は手招く。病院の白いベッドに近づいてきた海里の腰に腕を回して、そっと抱き寄せた。
「ごめんね、海里。大丈夫だから。」
時生は海里の柔らかいお腹に耳を当てる。心臓を動かす筋肉の鼓動が響いていた。
「…もう、起きていて平気なんですか。」
ぐす、と鼻を啜りながら、海里は時生の頭を抱きしめた。
「うん。平気。血が止まらなかったのも、打ち所が悪かったんじゃなくて僕が血友病だったからだ。」
声がくぐもる。海里がざらりとした包帯の布地を撫でている。そして。彼女は呟いた。
「血友病…?」
一度、ぎゅうっと強く抱きしめた後、時生は海里を解放してベッドサイドのパイプ椅子に座るように勧めた。
ギシ、と軋む音を立てながら、海里は時生の勧めに応じて座る。そして話を聞こうと耳を傾けた。時生は目を伏せて、淡く微笑む。
「何から話そうかな。…えーと、そう。まずは血友病のことだ。」
血友病、血液凝固因子の欠損により出血傾向をきたす遺伝性疾患である。それは伴性劣性遺伝のため、男性に現れるという。
「…まあ、簡単に言うと血液が固まりづらいんだ。そういえば左手の薬指を切断したときも、血が思ったよりも出て周囲の方が困惑していた記憶がある。」
気絶した同級生はかわいそうだった、と時生は笑う。
「痣や、内出血とかができやすいところを除けば、普段の生活に支障は無いよ。」
「そう、なんですか。知りませんでした。」
海里は神妙な面持ちで頷く。
「言ってなかったからね。どちらかといえば、目の方が重症かも。」
時生はそっと片手で片目を覆うように触れた。
「まだ何かあるんですか?こうなったら、全てを白状しなければ許しませんから。」
海里の強気な発言は、心を守る鎧だと言うことは薄々気付いていた。その心が自分だけのものとも限らず、海里は時生が告白しやすいように仕向けてくれたものだった。
「網膜色素変性症をもね、患っているんだ。徐々に視野が狭くなって行くみたいなんだけど、夜盲がそろそろ始まったんだと思う。」
「?」
首を傾げる海里に気が付いて、時生は言葉を足す。
「夜盲っていうのは、なんだ。確か、鳥目と同じ感じかな。ほら、奴らって暗いところだと視力が落ちるだろ。」
昨日の事故も、必ずしも100%が車側が悪いわけではない。時生も車が見えていなかったのだ。
「…身体の中、ボロボロじゃないですか。」
海里がまるで自らの身体が痛むかのように、声を絞り出す。「生まれつきだから、慣れたよ。」
時生は俯く海里の頭を優しく撫でた。するりと髪の毛が一房、指から零れる。
「海里は以前、双子の片割れを亡くしたと言ってたよね。僕の両親も双子だったんだよ。」
「どっちが?両方とも?」
偶然ですね、と言う海里を見て、時生は微笑む。
「本当、すごい偶然。双子なのに恋をして、僕を生んだんだ。」
微妙にかみ合わない会話に、海里は思考が追いついていないようだった。
「実の双子、兄妹での近親相姦。僕の遺伝性の病は、その弊害なんだよ。」
「…。」
海里の周囲の空気が凍る。
「生まれてきてはいけなかったんだ。」
個室で良かったなあ、などと時生はのんびりと思う。いくらなんでも他人と共用の部屋でしたい話ではない。
「…時生…。」
「僕の存在は、罪そのもので害でしかない。せめて、僕がいなければ両親はまだ生きていたはずだ。」
このままでは海里の美しい黒髪を強く握ってしまいそうだからと、時生は腕を下ろして布団の上で両手を組んだ。強く強く爪が肌に食い込み、紅い痕が刻まれていく。
「時生。」
「うん、そうだ。僕が生まれてこなければ、」
「時生っ!!」
病室に、乾いた音が響いた。海里が時生の頬を手のひらで張った音だった。
二人の息づかいが微かに聞こえるほどの静寂が統べる。先に動いたのは海里だった。パイプ椅子から徐に立ち上がると、時生のベッドによじ登った。二人分の体重を受けて、ベッドが軋む。時生の膝を跨いで座り込み、海里のスカートの裾がふわりと広がった。海里の黒色のニーハイソックスとスカートのレースの間にできた絶対領域に、時生は目が奪われる。肌の白さがより強調される黒と言う色は、禁欲的でいて卑猥だ。
「…どこを見てるの。えっち。」
人の視線は案外、当該人物に悟られている。例に漏れず、海里は時生の視線に気が付いているようだ。時生はごめんと呟きつつ、視線をそらすことができない。
「ねえ、海里。触れてもいい?」
彼女への好奇心を隠しきれず、思わず真っ正直に申請してしまった。嫌われたかな、と思いつつもいきなり触れるという暴挙を回避した自分自身を時生は褒めてやりたかった。「いいですよ。」
小さなため息を吐きながらも、海里から得た答えは意外にも了承だった。
「ありがとう。」
時生は礼を言うと早速、膝の上に座る海里の足を触れた。さらりとしたニーハイソックスの生地が邪魔だなと思いながら、その脚線をなぞる。膝の丸みを手のひらで包み込むように撫で、ピアノの鍵盤を奏でるように指で爪弾く。時折、海里はくすぐったさを我慢して微かを身をすくませた。ようやく触れた素肌のなめらかさに、時生は驚く。日焼けのしない部位はまるで温かい餅のような弾力だった。
やがて時生の手はするりとスカートのレースの中に侵入してきた。
「…っ、」
時生の愛撫に海里は熱い呼吸を飲み込む。腰骨の下をマッサージするかのように強弱を付けてタッチしたかと思うと、時生は満足したのか、そろ、と手を引いた。そして、海里の背中に腕を回して強く抱きしめる。
「ごめん。嫌だったろ。」
「…本当に嫌だったら、殴ってでも逃げてます。」
海里もまた、時生の背中を抱いた。
「ごめんなさい。頬…、痛かった?」
「え?音の割には全然。叩くのうまいんだね。」
時生の謎の褒め言葉を受け取って、海里はくくくと笑いをかみ殺して震える。
「人を変態みたいに言わないでくれますか。」
「いやー、素質あるんじゃない?」
二人でいたずらをした子どものようにくすくすと笑い合う。ふう、と一息を吐くように落ち着いて、海里はぽとんと時生に問う。
「…時生は、自分のお父さんとお母さんのこと嫌い?」
「好きだよ。」
海里はそっかと呟く。
「だから、余計に苦しいんだね。」
まるで酸素欠乏症に陥った金魚のように、時生はいっぱいいっぱいなのだと知る。肺に水が満ち、苦しくて堪らないのだ。
「好きよ。」
時生は寝間着越しにじわりと滲み、染みこんでいく。それは海里の涙だった。
「時生、大好き。」
顎の下にいる海里の震える旋毛に時生は口付けを落とす。ちゅ、ちゅ、と音を立て、触れては返す。まるで波のようだった。
「ごめんね。」
「何故、謝るの。」
謝る海里に時生は言葉を促した。
「言葉が足りないの。私はこんなにも時生を愛しているのに、全ての気持ちを告げるだけの言葉を知らない。それがとても、もどかしい。」
「…僕には、充分すぎるほどの言葉たちだよ。」
海里は上目遣いに時生を見る。
「待ってて。あなたが自分を許せるぐらい、私は時生への愛を囁き続けるから。」
なんて頼もしくて、強くて、可愛らしい女の子なのだろうと思う。海里の存在が尊くて、目が眩みそうだった。
「楽しみにしてる。」
時生の言葉に海里は、期待してて、と笑う。そして、ようやく時生の肩を押して身体をゆっくりと離した。
「そうだ、時生。今度の劇の主役、海咲さんに決まったんだよ。」
ベッドを降りながら、無邪気に海里は告げる。時生は海咲の白い死に顔を思い出した。
「そうなんだ。海里は…、残念だったね。」
「ううん、それが全然悔しくないんだ。むしろ嬉しいとさえ思ってる。」
ふふ、と笑い声を零しながら、海里は通学用の鞄の中から『KINGFISCHER GIRL』の台本を取り出した。パラパラとページを愛おしむようにめくり、カワセミの少女を演じる海咲のことを語る。
「海咲さんが歌うカワセミの少女の唄、とても素敵なんだよ。高音に伸びる歌声が華やかで、本当に楽しそうなの。」
そういえば、海咲の歌を聴いたことがなかったなと思う。少女と大人の女声の狭間を揺れ動くような彼女の声は確かに映える歌声となるだろう。そんな海咲の口から呪いの言葉が吐かれたことを、海里は一生知ることはない。
「さて、と。時生の無事を確認できたので、私は稽古があるから帰るね。」
パタ、と台本を閉じ、海里は鞄を持って身支度を始める。そして病室の扉を開けて、振り返った。
「またね、時生。」
「うん。あ、海里。」
出て行こうとする海里を時生は呼び止める。
「…頑張って。」
うん、と頷き、海里は胸の位置の高さで手を振って今度こそ出て行った。
劇団星ノ尾のスタジオの更衣室で、海里は練習着に着替えていた。てっきりすでに来ているものと思っていた海咲の姿はなく太陽のような明るさを持つ彼女の不在は、何だか寂しい。
「お疲れ、一ノ瀬さん。いよいよ今日から本格的な稽古になるね。」
海里の隣のロッカーを使う演劇仲間が、シャツを脱ぎながら話しかけてくる。
「お疲れ様です。そうですね、楽しみです。」
長い髪の毛をポニーテールに結いながら、海里は頷いた。
「一ノ瀬さんと斉藤さん、良いコンビだから劇もどうなるか楽しみだわ。」
主役を逃したものの、海里は海里でカラスの青年の役を射止めている。
「ありがとうございます。…良い劇にしましょうね。」
はにかみながら準備を終えて、海里は更衣室を出る。稽古が始まるまでに準備運動のストレッチを済ませておこうと思う。
やがて稽古の集合時刻が過ぎ、団長や演技指導の先生が劇団員の前に訪れた。だが、海咲はまだこの場にいない。海里は時計を気にしながら、海咲を待った。
「…おや、斉藤さんは?」
団長が気付き、劇団員に所在を尋ねた。
「まだ来ていません。」
「あんなに張り切っていたのに…どうしたんだろ。」
主役の海咲がいないことに、周囲がざわつき始める。
「海里、何か知っているか?」
海里の父親の団長が、娘と仲が良いという理由で問う。だけれど海里も知る由もなく、首を横に振った。
「そうか。まあ、今のところは様子を見て、欠席の連絡も無いようだったらこちらから連絡してみよう。…じゃあ先にカラスの青年が、すずめの老女の捜し物を手伝うシーンから読み合わせをしていこうか。」
はい、と劇団員の声が揃うが、ひそひそと囁く声は止まなかった。
「海咲ちゃん、祝杯でもあげて二日酔いなんじゃない?」
「ああー…、初めての主役で浮き足立ってたからねえ。」
海咲はカワセミの少女の役を神聖視すらしていた。そんなことはあり得ない、と海里は声を張りたかった。
確かに海咲は誰よりも貪欲にこの役を得たがっていた。それが叶い、浮き足立つのは当然のことだ。だが、その目的を果たしただけで満足し、稽古をおろそかにする愚弄を犯すようなことは絶対にしない。
「あの、それは、」
海里が声を上げようとした刹那、団長の声が重なった。
「海里。カラスの青年役のお前がいないと始まらないんだが。」
「…すみません。」
今、場の調和を乱すのは良くないと、団長は判断したのだろう。主役の海咲のことで空気が悪くなれば、当人が現れた場合に気まずさは増すはずだ。
海里は無理矢理気持ちを切り替えて、役者の円陣に加わり台本を開くのだった。
結果として、今日の稽古に海咲は現れなかった。団長は首を傾げつつ、劇場の電話で海咲に連絡を取ろうとする姿が見えた。だが、彼女のスマートホンに通じるものの通話に出ることはなかったという。
「海里も斉藤さんに、メールをしてみてくれないか?」
心配する団長にそう頼まれて、海里は頷くのだった。
事務の仕事が残っているという団長を残して、海里は一人で家路につく。その帰り道、海里は自らの携帯電話を取りだしてメールの制作画面を開いていた。
『こんばんは、海里です。今日はどうしましたか?皆、心配しています。』
文章を制作して、送信する。そしてもう一通、今度は喜一宛にメールを打った。
『上田さん、こんばんは。あの、海咲さんを知りませんか?今日の稽古に来なかったので。何か知っていたら、連絡ください。』
そういえば一日に一通は来る喜一からのメールも今日は来なかったな、と海里は思う。
一人の夜の道がいつの間にか孤独を囁く、僅かな恐怖を孕んでいた。前までは一人でいることが当たり前で、夜の闇も怖くなかったのに。きっと時生を初めとして、心を許す人間が増えたのだ。これは恐らく良い変化なのだろうと言うことは、理解できた。だがこの恐怖が続くことで自分が弱くなったらどうしようとも思う。
「…それも、いいか。」
恐怖の闇を祓う月明かりが道を照らしていた。月は確かに存在する。その月は、時生だ。彼を思うだけで、私は強くなれる。

二日が経ち、時生は検査入院を終えた。病院を出ると、外のロータリーで待っていた海里が気付いて駆け寄ってくる。
「時生、退院おめでとう。」
そう言って、海里は時生の荷物が入ったボストンバッグを受け取ろうとする。
「ありがとう…って、彼女に荷物を持たさせる彼氏ってどうなんだろう。」
うーん、と時生は首を傾げた。
「いーの!今日は、退院祝いだから。」
海里は引ったくるようにして、時生の手からボストンバッグを奪い取った。着替えや洗面用具だけなので、女子でも持っていて負担は少ない。が、男子としては考えようだった。
「海里、やっぱり自分で、」
持つ、と言おうとするも、海里が父親の姿を見つけてさっさと駆けていってしまう。
「お父さーん。時生、来たよ。」
愛娘に話しかけられて、煙草を吸っていた父親が嬉しそうに顔を上げた。
「おお、来たか。八尾くん、久しぶりだね。」
「お久しぶりです。わざわざ車を出してもらって、すみません。助かります。」
今日、病院からの迎えの車を、海里の父親が買ってでてくれたのだった。
「いいよ、いいよ。気にしないでくれ。さあ、乗って。」
海里は父親の喫煙に文句を言いながら、すでに助手席に乗り込んでいる。
「海里、八尾くんの荷物なんだからもっと丁寧に扱いなさい。」
時生のボストンバッグを勢いよく自身の膝の上に置く海里を、父親がたしなめた。
「あ、大丈夫です。そんなたいした物は入っていないので。それよりすみません、お嬢さんに荷物を持たせてしまって。」
時生は頭を掻きながら、後部座席に乗った。
「悪いね、がさつな娘で。荷物も無理矢理、八尾くんから取ったんだろう?」
苦笑しながら、父親は運転席に乗り込む。海里は唇をとがらせた。
「だって、病み上がりなんだよ?荷物持つぐらい、普通でしょ。」
「いやー、彼氏としては良い格好つけたいところだろう。ねえ、八尾くん。」
さすがに同性でもある海里の父親は、時生の心持ちを敏感に察してくれる。まあ、と時生が困ったように笑うと、海里が憤慨したように振り返った。
「迷惑だったの?」
「ありがたかったです。はい。」
時生が頭を下げると海里は、よろしい、と満足そうに笑い、前を向いた。
「もう尻に敷かれてるようだねえ。」
その様子を、父親が微笑ましく見守っていた。
しばらく車内は和やかな雰囲気を保ち、道路を走っていた。だがその内に、時生はこの時間帯は海里がいつも稽古の時間に費やしていたことを思い出した。
「ところで、今日の劇のレッスンはどうしたんですか?」
わざわざ休ませてしまったのかと思い、時生は問う。
「…それがね、主役を演じる海咲さんと連絡が付かないの。」
海里が心配そうに瞳を伏せながら、答える。
「さすがに主役がいないと、練習もできなくてね。代役を立てていたんだが、それも限界があって。」
どうしたものかなと呟きながら、父親が首を傾げた。
「劇団員にも無理を強いることも難しい。これからも連絡が付かない様子が続くようなら、最悪は主役を降りてもらうしかないな。」
「でも、お父さん。…海咲さんはすごく頑張っていたんだよ。練習に来られないのはきっと、何か理由があるはず。」
落ち着かない様子で手を揉みながら、海里は海咲の身を案じていた。
「たった三日。されど、三日。役者は一日もあれば、爆発的に成長することがある。海里にも身に覚えがあるんじゃないか。…稽古にあてる一日をおろそかにするのはいただけない。」
「…。」
父親の言うことが理解できるのだろう。海里は唇を噛み、俯いた。
「海咲さんなら、」
車窓から流れる景色を眺めながら、時生の口からするりと言葉が零れる。
「アパートの上階で死んでますよ。」
次の日の朝刊にて。アパート、かぜよみ荘で二体の遺体が見つかったと記事が載った。
亡くなっていたのは上田喜一(享年21歳)と、斉藤海咲(享年21歳)。上田喜一には複数の刺し傷があり、背中にも傷があることから殺害されたと見られる。一方、斉藤海咲は自傷が致命傷となっており、こちらは自殺と断定された。
かぜよみ荘の周囲には規制線が張られ、パトカーが二台ほど止まっていた。野次馬も群がって、一帯は騒然としていた。
海里は住人のいないかぜよみ荘を遠くの電柱の影から見守っていた。
『海咲さんなら、アパートの上階で死んでますよ。』
時生の無機質な声が今でも鼓膜に残って、脳にこびりついて離れない。

あれから海里の父親は、海里だけを自宅に降ろして時生と二人でかぜよみ荘に向かった。海里は茫然自失となり母親に肩を抱かれ、手を握ってもらいながら父親からの連絡を待った。だが、最初に着た電話は警察からのもので、父親が二人の遺体の第一発見者となったとの連絡だった。以降の記憶が断片的なものになったのは、海里が貧血を起こして気絶したからだろう。
海里が目を覚ましたのは、その日の深夜。深海から泡が上がるように、ゆっくりとした意識の浮上だった。その深海は紅く、温かく、とろりとしていた。今思えばあれは、深海ではなく母親の胎内、羊水の中だったのではと思う。
「…、」
誰かの名前を呼んだ気がする。それはとても愛おしく、大切な何かの欠片だった。目覚めたくないと願い、その願い叶わず、海里は自室のベッドの上で目覚めた。
息をしている。当たり前だ、生きているのだから。
海里の心は何故か凪いでいた。柔らかな布団の上で、深呼吸を繰り返す。瞼を何回か開閉して、暗闇に瞳を慣らすとゆっくりと身体を起こした。
カーテンの隙間から月明かりが差して、室内を青白く染めている。そっとベッドから足を下ろして、床に立ってみた。若干足下がふらつく気がしたが、それでも歩けば徐々にバランスを取ることが事足りた。
扉を開けて見ると、階下から電気の明かりが僅かに差していることに気が付く。海里は明かりを目指して、ひたひたと裸足で階段を下っていった。
明かりはリビングから放たれていた。そっとガラス戸越しに室内を覗くと、父親が背中を丸めて身体を震わせている。その隣で母親が父親の背をゆっくりと撫でていた。泣いているのだと、海里は悟った。
いつもおおらかに笑い、時々気が弱いけれど、それでも頼りがいのあるあのお父さんが泣いている。私はこの涙を見たことがあった。それは私の左手首に刻まれたリストカット痕に理由がある。

海里が中学生の頃のことだ。場所は中学校の教室。苛立ちや不安、生きづらさを感じたピークの時にとっさに目に付いたシャープペンを肌に突き立てた。床に滴った血液を冷静になった海里がティッシュで拭っているところを、同級生が見かけ担任に報告をした。担任は一ノ瀬家に電話をして、海里の自傷が両親に知らされたのだ。
何も知らずに鈍い痛みと傷跡を連れ帰った海里は、リビングで泣いている父親を見た。
『…お父さん?』
『…海里…っ、』
父親に声をかけると、海里にようやく気が付いて困ったように涙を拭うと手招きをして隣に座らせた。そしてそっと左手を取った。
『…。』
『痛かったろ。ごめんな。』
何故、謝るのだろうと思う。私がいけないのに。生まれてきたのが私だったから、いけなかったのに。
自分で貼った不器用な絆創膏の上を父親は恐る恐る撫でてくれた。
『大丈夫。死ぬ気は無かったの。』
衝動的なものだと何度も説明して、ようやく父親は落ち着いた。やがて買い物から帰ってきた母親がその日の夕食は、海里の好物ばかりを作ってくれた。元気がないときは好きな物を食べるのが一番、と家の中を明るくしてくれた。
それは生きているからこそ、だったのだ。

「お父さん。お母さん。」
海里はリビングの両親に声をかける。そしてゆっくりと近づく。
「海里…。目が覚めたのね、大丈夫?気分は悪くない?」
「うん。」
母親が海里を招き入れる。そして、父親ごと二人を抱きしめた。
「…海里。お願いがあるの。」
「何?」
母親の声が震えている。
「八尾くんには、もう…会わないでちょうだい。」
父親は警察に時生のことは伏せてあるらしい。その代わり時生には、娘とは縁を切って欲しいと頼んだという。
「あなたが心配なの。わかって、くれるわよね?」
母親の言葉が身体の芯に染みこんで、心が冷えていく。何故だろう、普通なら身の安全の確保に安堵するはずなのに。「うん。わかった。もう、時生とは会わない。」
海里が頷くと、母親はほっと一息を吐いたようだった。父親は無言のまま涙を拭い、海里の手を取った。そしてぎゅっと弱々しくも握ってくれた。海里が力強く握り返すと、母親を巻き込んで抱きしめるのだった。

「今日、学校を休んでも良いのよ?」
登校準備をする海里に母親は言う。
「ううん、行く。いつもの日常を過ごさないと。」
そう言いながら靴を履き、玄関の土間に立つ。海里は微笑んで、振り返った。
「行ってきます。」
扉を開けると朝日が目に眩しく、景色が一瞬白く染まった。手で日陰を作り、空を見上げる。朝を迎えた喜びを鳥たちが歌っていた。
駅前の通学路で小学生が集団登校の列を成し、まだ眠そうなサラリーマンがあくびをかみ殺しつつ通勤している。海里が乗り込んだ電車は時生が住む町の最寄り駅へと向かう車両だった。電車は線路に導かれて、時々揺れながら人々を目的地へと運んでいく。
気の抜けたような音と供に電車の扉が開く。住宅街に位置する駅に降車する乗客は少なく、海里は身軽にホームへと降り立った。もう勝手知ったる時生が済むアパート、かぜよみ荘への道を辿る。進んでいく先は段々と賑やかになっていくようだった。パトカーと警察官、野次馬がかぜよみ荘を囲んでいるのが見えた。時生の上の部屋の扉付近にはブルーシートが貼られ、鑑識官とも思える人たちが忙しそうに行き交っている。
海咲さんと上田さんは、あそこで死んだのか。彼らは一体、どんな最期を迎えたのだろう。
現実感がまだ涌かなかった。
野次馬に交わることもはばかれて、海里はじっと電柱の影に隠れるように見守った。案じていたのは、時生のことだった。彼は今、何を思っているのだろうか。
両親に時生に会うことを禁じられたものの、海里はもう一度会いたかった。詰る気も、怒る気もない。ただ、時生の口から海咲と喜一の最期を語って欲しいと思った。
「時生…、さすがにあの渦中にはいない…よね。」
今、かぜよみ荘に何食わぬ顔をして住んでいるとは思えない。保護者である叔父のところに帰っている、と思った方が自然だ。海里はふとため息を吐く。時生のメールアドレスと電話番号は両親の目の前で携帯から消去してしまったので、連絡のしようがない。きっと一度はかぜよみ荘に戻ってくることを信じて、海里は待ち伏せを始めるのだった。午前が過ぎ、正午になっても時生は現れない。もしかしたら学校にいるかも、という考えもよぎったが、動いたことで入れ違いになるのも避けたかった。ここで待つと決めたからには、動かない方が良い気がした。午後二時の一番暑い時間帯、じりじりと厳しい残暑が肌を焼く。いつもなら日焼けを嫌がって早々に建物に避難するが、今日はどんなことがあっても我慢しようと思った。
海里は俯いて足下を見つめていた。蟻がせっせと餌を集め、巣へ運んでいく。その餌の中には何かわからない虫の翅があった。デジャブのような光景を見て、海里はワンピースのポケットを探る。取り出したのは時生が作ってくれた樹脂封入標本だった。手のひらで転がすように眺める。蝶々の翅のきらめきは失われたが、形はきれいに残っている。もっと丁寧に作れば良かった、と言った理由の僅かな傷を中指の腹でなぞった。つるりとした樹脂の表面に刻まれた傷に何故か愛着がわいた。それは仲間意識にも似た感情だった。
野次馬の顔ぶれが次々と変わっていく中、海里は忍耐強く待った。時が過ぎ、日も暮れていく。日中、ずっと晒されていた肌は赤くなりヒリヒリと痛んだ。海里の白い肌は日焼けする代わりに、爛れるように熱を持つのだった。
もうすぐ門限の時間を逆算して、家に帰らなければならない時間だ。今回の件を以て、父親はひどく神経質になってしまっているので早く帰宅して安心させてやりたかった。海里は名残を惜しんで振り返りつつも、その場から離れる。電車に乗り込み、帰路につく。帰宅する人々の波に流されながら、駅の改札を出ると父親が手を振っていることに気が付いた。
「おかえり、海里。」
「ただいま…って、どうしたの?」
首を傾げつつ、海里は父親の元へと駆け寄る。
「ん…、たまには迎えに行こうかなと思ってな。」
恥ずかしそうに父親は笑い、頬を人差し指で掻く。海里は父親の心情を察して、下ろされた手をそっと握った。
「お父さん、ありがとう。帰ろっか。」
父親は驚いているようだったが、すぐに嬉しそうに海里に連れられるままに歩き出す。
手を繋いで歩くのは何年ぶりだろうと思う。今思えば、幼い頃はよく手を引いてもらっていた。
「…海里。」
ありふれた会話が途切れて、父親が呟く。
「何?」
「昔、お前は双子で生まれてくるはずだったと話したことがあっただろ。」
海里は頷く。
「生まれてきてくれたのが、海里で…本当によかった。そして、こうも思うんだ。」
言葉を句切り、父親は空を見上げた。今日は雲が厚く朧月夜だった。やわらかな月光が、周囲を包んでいた。
「…亡くなったのが、海里でなくてよかった。」
「!」
海里は父親の横顔を見上げた。唇の端が震えているのがわかる。その言葉の意味が、二重の意味を含んでいることが理解できた。父親は双子の片割れでも、海咲と喜一のカップルでもなく、何よりも誰よりも海里を選んでくれたのだ。仄暗い罪悪感と供に、途方もない多幸感が海里の胸に満ちる。父親は握っていた手の力をぎゅっと強くする。
「伝えるのが遅くなってごめんな。」
次の日も海里は高校には行かず、かぜよみ荘の前に来ていた。野次馬は幾分か少なくなり、パトカーもいなかった。だが、二人分の死の重みは拭えないほどの空気の澱みとなって周囲を穢していた。海里はその空気に身を浸しながら、星ノ尾の練習スタジオでのことを思い出していた。
昨夜、正式に星ノ尾の劇団員に海咲の死が伝えられた。困惑の視線、すすり泣く声。驚愕の息づかいがその場に満ちた。
『海咲さんが彼氏を殺めたんだって。』
『ちょっと、やだ…。劇団にクレームきたらどうすんのよ。本人は自殺したんでしょ。』
不安に駆られ、死人を悪く言う者もいた。
人が二人亡くなっているのだから、悲しめば良いのに。供に演劇の道を歩んできた仲間に責められ、詰られる海咲が不憫でならなかった。
劇団は一週間、喪に服すことになりその期間は稽古も休みになった。『KINGFISCHER GIRL』の劇も続投か、降板かも知れない中途半端な状況だった。
「ー…、」
海里は歌をうたう。
「ささやき、繰り返し、響く私の星…。」
それはカワセミの少女の歌。
「心だけでも、想いだけでも傍に行けたら良いのに。」
海咲が歌うはずだったもの。
「…ポラリス。私に何を示す。」
細く、高い音程の歌詞たちに声がかすれてしまう。成長期の海里の喉には負担が掛かった。だが、海咲は。海咲なら、歌い上げることができたのに。
見守っていて、と願うにはまだ早くて、心の整理が付かない。だからせめて、まずは手を振ることから始めようと思う。私が手を振った際に起こった風が追い風になり、海咲と喜一の魂が緩やかに天に昇っていけば、それでいい。
海里は空を見上げてみる。十月の空は晩夏を宿して、未だに入道雲を描いていた。

待ち伏せも三日目となると、さすがに高校から無断欠席の連絡が行くだろうか。時生との面会を禁じられている身分ゆえに、その状況は避けたいところだ。そろそろ高校に行かなければ、と思う。今まであんなに嫌っていたのに、登校を隠れ蓑にしている自分の調子良さに若干呆れるが背に腹は代えられない。
私は、時生に会いたい。
ただその一心だった。
貴重な水分であるペットボトルのミルクティーを大事に飲みつつ、その温くなってしまったがためのもたれるような甘さに眉をひそめた。素直にミネラルウォーター、せめて無糖のお茶類にすればこんな不快感は味わわなくてよかったのにと一瞬思ったが、少しでも時生を感じたかったからこのチョイスにしたのだと考え直す。
「時生のばーか、ばーか。」
適当にリズムを付けて、繰り返していると散歩中の犬が不思議そうに見つめてきた。
犬は嫌いだ。幼い頃に、追っかけ回されたことがある。犬は無邪気に遊んで欲しかっただけなのかも知れないが、自分よりも体長のある獣が迫ってくるのは唯々恐ろしかった。
ざり、と一歩、後ずさろうとした刹那、頭上から優しい声色が降ってきた。
「大丈夫?海里。」
自らを案じるその柔らかい言葉に、時が一瞬止まった気がした。ゆっくりと振り返る。
そこに、時生が立っていた。

海咲の行方を案じる海里の心配そうな声に、言葉だけが先走ってしまった感は否めない。時生は自分が放った言葉に、自身で驚いていた。決して二人の死を告げるつもりはなかったのに、海里があまりにも可愛くて可哀想だったからつい口を吐いてしまったのだ。
海里だけを下ろした車内はとても静かで、時生の住むアパート、かぜよみ荘までの道をナビゲーションする声だけが響いていた。
目的地に到着し、かぜよみ荘の古く寂れた階段を二人分の靴音を立て上がっていく。喜一の部屋に鍵はかけていなかった。残暑が厳しかった所為もあるだろう、室内は死臭に溢れていた。
刺殺された喜一と自殺した海咲の遺体を見て、海里の父親は冷静に携帯電話を取りだして警察に連絡をした。事前に死を宣告されていたとはいえ、取り乱しもしない姿はとても立派だと思った。通話を終えて、海里の父親はようやく時生と向き合う。
「…八尾くん。君は実家に戻りなさい。今すぐに、だ。」
「僕のことを警察に言わないんですか?」
時生は目を丸くした。当然、自分も事情聴取をされるものだと思っていた。
「ああ。その代わり…、娘とは縁を切って欲しい。」
「…。」
そこにあったのは愛する娘を守る姿だった。これが父親としての態度なのかと、時生は素直に感心した。
娘の海里を慈しみ、愛し、心配して労ろうとする形に、なんて美しいのだろうと思う。
時生の沈黙を勘違いしたのか、更に海里の父親は頭を下げた。
「頼む、お願いだ。これ以上、あの子を傷つけたくない…っ。」
声が震えている。遠くではパトカーのサイレンが近づきつつあった。時間はもうさほど無い。
「わかりました。お嬢さんとは、もう会いません。」
時生は頷いて、ポケットを探り自分自身のスマートホンを手に取った。画面をタップし、海里の連絡先を父親に見せて、その場で削除をした。その動作に海里の父親は目に見えて、安心したようにほっと息を吐いた。
「…ありがとう。さあ、もう行きなさい。すぐに警察が来る。」
そう言うと海里の父親は、時生の背中を押すのだった。
入院中の荷物をそのまま持って、時生はかぜよみ荘を後にした。途中、パトカーとすれ違う。これから周囲は大騒ぎになるのだろうなと思い、近隣住民に心の中で謝罪をした。
久しぶりの叔父の家は広く、時生は以前使わせてもらっていた離れの一室を使わせてもらうことになった。叔父は時生のいきなりの来訪に驚いたようだった。
「一応、部屋の換気だけはしていたからすぐに部屋は使えるよ。」
「いつもありがとうございます、叔父さん。すみません。」
謝ることはない、と叔父は首を横に振ってくれる。
「事故の傷は痛まないか?中々見舞いに行けなくて悪かったな。」
叔父は時生が入院中、仕事の出張と重なっていたらしい。着替えなどを届けてくれたのは、叔母だった。
「大丈夫です。今日は…、久しぶりに叔母さんの手料理が食べたくなって。」
時生はそう言って笑みを作ると、叔母も嬉しそうに笑ってくれた。
「男の子の一人暮らしですもんね。そりゃあ、たまには人に作ってもらいたくなるわよねえ。」
時生の両親が双子で、自分自身の弟妹であることが引け目だとしても叔父夫婦は本当に時生に良くしてくれた。今日だって、快く招き入れてくれる。だからこそ、かぜよみ荘での事件を知ったときにどんな風に思うのだろうと純粋に興味があった。
その日は朗らかな夕食を終えて、時生は懐かしい自室に布団を敷いて横になった。幼い頃に怖かった人の顔のような天井の木目も、今では何とも思わないほどに成長していた。時生は瞼を閉じる。暗闇に浮かぶのは、海咲の死を告げたときの海里の虚無を描いた表情だった。

夢を見た。
それはアパートの天井に吊されて揺れる両親と、泣きながら死んでいった喜一と海咲の遺体の面影だった。時生に関係する人物の遺体はいつだって、頭上にあった。人は涙をこぼさぬように上を向くと歌うが、上を向くことが時生にとっては死との対峙であった。
「…?」
風船が弾けるような急激な意識の覚醒。一瞬、自分がどこに居るのかわからなかった。上半身を起こして、周囲を見渡してようやく叔父の家にいることに気が付いた。身支度をして母屋の居間に行くと、叔父が難しそうな顔をして新聞を読んでいるところだった。
「おはようございます。」
時生が挨拶をして叔父の前に座ると、すぐに叔母が朝食の準備を始めた。
「おはよう、時生くん。卵は何にする?」
「目玉焼きでお願いします。」
半熟にしとくわね、と言い、叔母は鼻歌を口ずさみつつ台所に戻っていく。
「…時生。」
叔父が新聞紙から顔を上げる。そして一枚の記事を時生に見せた。
「このアパート…お前が住んでるところに近いんじゃないか?」
地域のニュース欄で、アパートで二人の遺体が発見されたという内容だった。名前こそ伏せられているものの、それは確かにかぜよみ荘でのことだった。
「本当だ。近そうですね。」
台所から戻ってきた叔母から、ごはんと味噌汁を受け取りながら時生は何でも無い風を装って答える。
「あら、怖いわねえ。物騒な世の中だわ。」
叔母も記事を覗き込み、呟いた。
「本当にな。時生も戸締まりを気をつけなさい。」
はい、と時生は頷いて、朝食を採り始めるのだった。
その日は叔父の家から、高校に通った。かぜよみ荘に比べれば、遠い立地にあるため些か早く家を出た。
久しぶりに乗った都営バスに揺られ、スピーカーから響くバス運転手のアナウンスを聴きながら、車窓から流れる景色を眺めていた。冷房が効いていて快適な車内だった。いつもは満員の電車に乗っているために、慣れないバスもいいな、と単純に思う。
高校前までは行かない路線だったので最寄り駅前のバスロータリーで降り、他に歩く生徒たちに混じって時生は歩き出す。黒髪や黒っぽい服をきた同年代の女子を見かける度に、一瞬、海里を思い出してしまう。
彼女は今、何を思っているのだろう。
ふと、時生は自身の左の薬指が欠けた歪な手を見る。海里の柔らかい肢体や、流れるような黒髪の手に吸い付くような感触がまだ生々しく手のひらに残っているようだった。授業は退屈で、早々に専門学校を進路に決めた者だけの特権で寝そうになる。だが、クラスメイトのひんしゅくを買うのもおっくうなので耐えた。興味の無い教科だったが、黒板に書き記された文字をノートに書き写すことで眠気を堪えることにした。カリカリとシャーペンがノートに文字を刻む音が響く。ゆっくりとのろすぎる時間だけが過ぎていった。
茫洋とした一日が過ぎ、今頃警察の現場検証の真っ只中であろうかぜよみ荘には帰らずに、叔父の家に帰ることにした。あらかじめ二~三日お世話になる旨を伝えていたので、叔父の家に帰っても驚かれることはなかった。
夕食を摂り、団らんを終えてから自室に戻る。そういえば、カメラのフィルムにはまだ海里の笑顔が残されているはずだった。まだ現像をしていないことを思い出して、時生はカメラを手に取った。
ー…定着液に浸した後に乾かそうと、部屋の天井に張ったロープに写真を干す。
そういえば、専門学校に提出するポートフォリオも作成させなければならないのだった。
「…どうしたもんかな。」
何枚か撮りためた写真はあるものの、未だにこれといった決め手に欠けていた。日常をテーマにしていたが、時生の日常にはすでに海里がいた。だが、ポートフォリオ用に撮った写真にはどこにも海里がいない。いつの間に、こんなにも海里がいる風景が自然になったのだろうと思う。ため息を吐きながら、海里の笑顔の写真を見た。
このときはまだ、海里は二人の死について何も知らなかった。
無邪気で、可愛らしくて、無垢なその笑みが凍り付いたあの瞬間を時生は思い出した。
「…。」
暗室となった部屋の窓ガラスが、鏡の代わりになって己と目が合う。時生は口元に柔らかな笑みを浮かべていた。

次の日もまた、高校に普通に向かう。海咲と喜一が死んでいても、普通の日常を過ごせるのは海里の父親のおかげだ。感謝しなければならない。
午前の授業を終えての昼の休み時間。時生は非常階段の踊り場で叔母手作りの弁当を早々に食べ終えて、手持ち無沙汰になっていた。教室に戻ることもなく、唯々非常階段から空を見上げていた。何気なくスマートホンを取り出してしまうのは、若者特有の癖だろう。その割にはSNSを眺めるのも億劫で、好んで遊んでいたスマートホンのゲームアプリで時間を潰す気にもなれず、いたずらに画面に表示される天気予報を見ていた。今日は一日、晴れらしい。
ふあ、とあくびをしつつ、時生は服が汚れるのもいとわずに横になる。暖かいを通り過ぎて熱いぐらいの陽気に、夏休みに行った海水浴を思い出した。あの日も暑くて、海咲と喜一の仲もまだ冷えていなかった。
「…そうだ。」
海咲の笑顔を思い出して、ふと彼女が主役を演じる予定だった作品『KINGFISCHER GIRL』に思いをはせた。確か童話だと行っていたが、高校の図書室にあるだろうか。気にすれば、どんどん物語を知りたくなってきた。時生は徐に起き上がり、図書室に向かうことにした。
『KINGFISCHER GIRL』の絵本は無かったものの、英語の原文小説があり時生は表紙を開いた。知っている単語をパズルのように組み合わせて、読み解いていく。図書室はしんとして人気が無く、集中して作業することができた。
「純度の高い…、夜の蒼、色の翼を持つ少女がいた…。」
美しく秩序を保った羅列の中に、植え付けられる一粒の不安の種。口にすると、すとんと胸に落ちるような言葉たちだった。
カワセミの少女から紡がれる、カラスの青年に贈る愛の色が滲んだ歌に海咲の姿が重なった。
「海咲さんは、この歌をうたいたかったのか。」
彼女の愛は確かに鮮やかに色づいていたが、それは翼を広げて飛ぶには重かったのだ。
なるほど、と時生は一人納得して頷いた。
やがて校内のチャイムから予鈴が鳴り、時生は本を元あった棚に戻した。

海咲と喜一の死が発覚して三日目。時生は一度、かぜよみ荘の様子を見に行こうと思い、朝に荷物を全て持って叔父の家を出た。
「また、いつでも帰ってきなさい。」
叔父はそう言って、時生を送り出してくれた。軽く頭を下げて、歩き出す。
その日の授業を終えて、高校の小さなロッカーからボストンバッグを取り出してかぜよみ荘への家路についた。たった三日離れていただけなのに、随分と久しぶりな気がした。最寄り駅を降り、住宅街を歩いて行く。角を曲がればかぜよみ荘が見えてくる、という刹那。時生の視界に不自然なほどの黒色が映った。
「!」
それは、海里だった。
パフスリーブのブラウスの上に、黒いジャンパースカート。ひらりと揺れるレースがあしらわれた黒のハイソックスに、足下をバレエシューズのようなリボンで結ぶ靴を履いている。ゴシックロリータと言われるファッションは、本当に海里によく似合うと時生は改めて思う。黒は海里をより一層美しく着飾る色だった。
かぜよみ荘の階段近くに立つ海里を、しばらく時生は呆けたように見つめていた。彼女は時生に気が付かない。独り言か、もしくは小さく歌をうたっているのか紅い唇が僅かに動いている。ふと、伏せていた瞳が驚きに見開かれた。海里の足元近くに、散歩中の小型犬が匂いを嗅ぐように近寄ろうとしている。硬直する海里の小柄な身体を見て、彼女が犬を怖がっていたことに気が付いた。次の瞬間、海里への接近禁止令が彼女の父親から出ていることを忘れて、時生は歩み寄っていた。
息を呑み、後ずさろうとする海里の背後に立って。そして、ようやく声をかけることができた。
「大丈夫?海里。」
海里はさらに目を見開いて、振り返った。黒く美しい髪の毛がふわりと丸く翻る。時生と向き合ってその瞳は揺れて、唇が震えていた。
「…時生!」
小さく叫ぶように海里は時生の名前を呼んで、手にしていた飲み物のペットボトルを落とす。そのまま手を広げて、時生を包み込むように海里は抱きしめていた。そのまま海里は子どものように、時生の胸に顔を埋めて泣く。熱い涙が時生のシャツに染みこんでいった。
「どこにいたの…。私、ずっと…待って、た。」
高校内で彼女の姿を一ミリも見かけなかったのは、どうやら海里がかぜよみ荘の前で待っていてくれたからだと時生はようやく知った。
「ここにいてくれたんだね、海里。」
時生は海里の柔らかい肢体をきつく抱きしめた。
「ごめんね、ありがとう。」
甘いシャンプーの香りに混ざって、仄かに汗の匂いが滲む。海里の肌は赤くなっていて、残暑の厳しい日中の外に立たせていたことを時生は悪く思った。
ひとしきり泣き、海里は鼻を啜りながらようやく顔を上げる。
「…怒ってる、よな。」
時生の言葉に海里は当たり前だと頷いた。
「心配したんだから!」
「心配?」
首を傾げる時生を見て、海里も釣られるように首を傾げる。「何故、疑問形に?」
「いや、ほら…。怒ってるというのは、海咲さんのこと…なんだけど。」
混乱を隠すことすらできずに、時生は告白する。あんなにも海里を傷つけるような行為をしたのに、何故、僕を心配してくれるのだろうと思った。海咲の名前を聞いた瞬間、海里は苦しそうに瞳を伏せるがそれでもと顔を上げた。
「海咲さんたちのことは驚いたけれど…、でも、聞いた話だとあの二人だけの中で事件は完結しているようだった。時生が積極的に関わった訳ではないのでしょ?」
オブラートに包んではいるが海里は、時生が二人を殺したのではない、と断言していた。言葉の意味を汲み時生が頷いてみせると、海里もほらねとばかりに微笑んだ。
「海里は俺を信じてくれるんだ。」
時生は照れ隠しに海里を試すような言葉を使った。
「絶対的に信じてる。時生になら、裏切られてもいい。」
海里から返された言葉は予想の何倍も強固なもので、時生は驚く。
裏切られてもいい信頼だなんて、なんて甘美な響きだろう。「それなら…、」
だから、もっと甘えたくなってしまった。
「僕と一緒に、逃げてくれる?」
二人で手を繋いで、駆けだしたのは夕方と夜の縫い目だった。空は一番星が輝き始めて、地上に生まれる灯りさえも柔らかく受け止めていた。夕日の朱色と夜の帳がカクテルのようにとろりと混ざり合っている。
駆ける彼女を追って蝶々が戯れているように、ひらひらと海里のジャンパースカートにあしらわれたレースが生温い風に揺れる。
夏の名残を惜しみ、秋の虫が控えめに鳴き始めていた。
駅に辿り着いて改札をくぐって、プラットホームへと向かった。いつも使っている路線で行けるところまで行こう、と時生は言った。
電車内は家路につく人々で混んでいたが、駅を何回や乗り過ごすと二人分の座席が空いた。
「終着駅がどんなところなのか、気になってたんだよね。」
座席に座り、海里の手をつなぎ直しながら時生は微笑んだ。海里も手つなぎに応えて、指を複雑に絡める。
「噂だと蛍が生息しているって聞いたことがあるんだけど。どうだろうなー…。」
車窓から外を眺め、時生は呟いた。いつになく多い時生の口数に、少なからず彼の気分が高揚しているのだと海里は悟った。
「時生は、蛍、見たいと思う?」
「見れるものならね。海里は見たことがある?」
時生の問いに海里は頷いて答える。
「昔、家族旅行で行った地方で。」
「そうなんだ。いいね、どんな感じ?」
海里は記憶を辿りつつ、語りだす。
「…逃げることを知らないんじゃないかってぐらい無防備で、簡単に捕まえることができましたね。すぐに逃がしましたけど。」
その名の通り蛍光色の命の灯火は触れても不思議と熱くなく、儚くも力強くゆっくりと明暗を繰り返す。ふわり、ふわりと舞うその姿は真夏に降る雪のようだった。おびただしい量の蛍たちの中心に立つと、星々が輝く宇宙にたった一人立ち尽くす錯覚にも陥ったと言う。
美しさと供に、その命の激しさに泣きたくなった。
「そうか…。そんなに綺麗なんだ。」
海里のうっとりとした説明に時生はため息を零す。
「うん。時生も見れると良いね。」
それから二人、蛍に思いをはせるように黙り込んで流れていく夜景を見つめていた。
マンションのテトリス、車のテールランプのネックレス、赤い目をした信号機。アフターダーク後の世界は澄んだ紺色に空気を染めて、時折通る繁華街の光を強調するようだった。
海里の肩に時生の頭が寄りかかる。いつの間にか、時生に眠気が訪れたようだった。目的地は終着駅なので、乗り過ごす心配は無い。海里は時生を起こさぬように、姿勢を正した。
握られた時生の左手は大きく、男性らしく筋張っている。少し乾燥してざらつく肌は温かく、爪は丁寧に切りそろえられていて健康的な桜色だった。あるべき場所にない愛を誓う指を海里は惜しく思う。
「薬指があれば…おそろいの指輪をつけてくれた…?」
眠る時生に聞こえないように小さな声で、海里は囁く。
「時生。私たちは、唯一無二で…きっと二人で一つなんだよ。何だか、すてきだと思わない?」
海里は、きゅ、きゅ、と強弱を付けて、時生の手を握った。「…うん…。」
「!」
夢現な時生の声が漏れただけなのか、意図しての返事なのかわからなかった。
それでもいい。どこでもいい、一緒に逃げよう。
海里の瞳の淵から涙がほろりと零れた。
「あれ…、おかしいな。」
海里はそっと空いた手で涙に濡れる肌に触れた。さらさらとして熱い涙は次から次へと玉のように盛り上がり、表面張力を破って頬を伝っていく。
時生の健やかな寝息がしんと胸に染みこむようで、嬉しくて、唯々嬉しくて堪らなかった。両親に、もう時生と関わるな、と乞われてもそれを欺いてでも、海里は彼を手に入れたかったのだ。
淡い罪悪感を閉じ込めるように、海里は瞼を閉じた。

柔らかい湖底の泥に沈む気がした。
昔から、空を飛ぶ夢を見ることは叶わなかった。だけどその代わりに、水の中ではうまく呼吸ができた。ゆっくりとした寝息のような呼吸を繰り返し、水底から水上を見上げていた。白い光のカーテンがゆらりと揺れて、生まれた気泡が上下を証明するように昇っていった。
恐らく私は前世、魚だったんだと思う。
時に夜の海でも泳ぎ切れば、そこにある景色を私は知っていた。
「ー…。」
ゆっくりと瞼を持ち上げる。光が網膜を刺激して、パチパチと瞬きを繰り返した。ふと隣を見ると、時生が優しい目色を滲ませながら海里を見つめていた。
「起きた?もうすぐ、駅に着くよ。」
時生の声は温かく、引いては返す波のように柔らかい。
「…。」
「海里?寝ぼけてるの。」
くすりと微笑む気配がする。海里はゆるゆると首を横に振った。
「そう。そろそろ、降りる準備をしようか。」
「…うん。」
時生と海里が降り立った駅で、電車は回送になりゆっくりと元来た線路を辿って行ってしまった。遠ざかっていく電車を見送って、二人は周囲を見渡した。
アーチ状を描く鉄骨で縁取られたプラットホームの角には聞いたことのない町名が書かれた張り紙の貼ってある掲示板があった。その脇には緑色の公衆電話が誰かに使われることを待っているようだった。
終着駅で降りた乗客は少なく、すでに改札をくぐっていた。取り残された時生と海里も言葉少なく、歩き始める。一つしか無い改札を出て、道から伸びる階段を下って行った。目的地のない逃避行の先にあるものが何なのか、純粋に興味があった。
「静かだね。」
時生ののんびりとした声こそが静かに響く。
都会の喧噪から離れ、随分と自然が豊かな地域のようだった。ぽつん、ぽつんと道しるべのように、等間隔に立った街灯が闇の奥へと誘う。蛍光灯に小さな羽虫が数匹引き寄せられて、チカチカと音を立てていた。
海里は時生の腕を抱くように、ぴたりと身を寄せた。
「怖い?」
時生は海里の様子を伺いながら、優しく問う。
「ううん。」
海里の強がりを見抜きつつ、なら良いけど、と時生は微笑んだ。互いに電源を切ったスマートホンと携帯電話でしか時間を知る由がなく、今が何時かわからない。とっくに海里の門限が過ぎていることだけが、夜の深い匂いと月の高さで理解できた。
「行こうか。」
「…どこへ?」
海里が首を傾げながら時生と供に歩んだ。砂利を踏みしめ、足音を二人分立てながら進む。
「蛍を探しに。」
しばらく駅から伸びる一本道を辿った。二人、口数は少なく、繋いだ手から互いの体温を交換し合っていた。
木々の隙間から赤子を守るために存在するお地蔵様が何体かこちらを見ている。昼間に見れば微笑ましい笑みも、暗闇に浸る今は不気味に目に映るから不思議だった。風が吹き、かさこそと木の葉や道の草を揺らす。一際大きく植物が震えた先に、野ウサギが二人を見ていた。警戒するように鼻を鳴らして左右を確認すると、野ウサギは踵を返して駆けていってしまう。
やがて視界が開けてくると古びたスナックパブの看板や、年季の入った赤提灯が軒先に釣らされている小さな繁華街が見えてきた。どうやらこの町のメインストリートのようで、居酒屋の他に明かりの落とされた個人商店も並んでいる。
「…。」
一件の店から人が出てくる気配がして、時生と海里はとっさに電信柱の影に隠れた。二人の逃避行を咎められたら面倒だった。
賑やかに店内の他の客に別れを告げた酔っ払いが、機嫌良く鼻歌をうたいながらその場を去って行く。その後ろ姿を見送って、ようやくほっと息を吐いた。
「ふふっ。」
海里が不意に笑う。
「どうかした?」
「何か、かくれんぼしてるみたいで懐かしくて。」
海里はそれからしばらく、くくく、と笑みを零していた。どうやら緊張から転じて、気分が高揚しているようだった。「ねえ、時生。もっと違うところも行ってみようよ。」
楽しそうに時生の手を引っ張る海里は、気まぐれに路地裏へと続く細い道に誘った。野良猫が出されたキャットフードにありついている横を通り過ぎて、落ちそうな観葉植物が置かれた塀の傍らを抜ける。迷路のような狭い路地裏を通り抜けた先は町の角に辿り着いたのだろう、そこに一件のラブホテルが急に現れた。ケバケバしいピンク色のネオンで、『サンクチュアリ』と書かれたラブホテルはまるでこの地の最果てのようにひっそりと建っている。
「…ねえ、海里。提案なんだけど、」
「いいよ。」
時生が最後まで言葉を口にする前に、海里は間髪入れずに頷いた。
「まだ何も提案してないんですけど。」
「時生と一緒なら、いいよ。私も歩き疲れたし。入ろうよ。」
腹をくくれば肝が据わるのはいつの時だって、海里だった。時生が考えたことを汲んで、何なら彼の手を引いて積極的にラブホテルに行こうと言う。
「代金っていくらかな。どういう仕組みなんだろ。時生、知ってる?」
「…耳年増の知識でなら、うっすら。」
ラブホテルのロビーに入り。宿泊代を半分支払うと言う海里を諌めて時生は自動販売機形式のフロントの前に立った。「海里、どの部屋が良い?」
各部屋の写真が貼られている蛍光板を見ながら、問う。
「よくわかんない。」
興味津々ながら首を傾げる海里に、だよね、と時生も頷く。「この部屋が一番シンプルそうだから、ここにしようか。」
時生が案を出し、同意する海里を確認してから宿泊代を支払い、機械から落ちてきた鍵を受け取った。
「行こう。」
「うん。」
エントランスを抜けて、二人はエレベーターに乗り込んだ。狭いエレベーターの箱が上昇すると供に耳に違和感を覚える。軽い浮遊感を感じつつ、じっと目的の階数に着くまでランプを眺めていた。
ゆっくりと開かれた扉から一歩踏み出すと、靴裏の感触がふわっと毛足の長い絨毯のものに変わった。足音は吸収されて、時生と海里は鍵に刻まれた部屋の番号を見つつ移動した。
「…ここだ。」
時生が確認して呟き、カチリ、と音を立て部屋の扉の錠を落とす。滑り込むように入室して、電灯のスイッチを探して壁を手のひらで撫でる。中指で触れたスイッチに力を込めると、何度か瞬きのような点滅を繰り返して明かりが付いた。
扉から室内に続く短い廊下の右にユニットバスがある。部屋は主にキングサイズのベッドで支配され、サイドテーブルと小さな冷蔵庫がそこにある家具の全てだった。
「ねえねえ、時生。」
荷物を置く時生の服の裾を海里がつんと引っ張り問う。
「何?」
「何で、天井が鏡張りなんだと思う?意味あるのかなあ。」
海里は頭上を見上げて、首を傾げていた。言われて気が付いたが、見上げると鏡に映った自分と目が合った。
「これはー…、その、」
シンプルだと思っていた部屋に施された仕掛けに気が付き、時生は二人しかいない室内、小さな声で海里に耳打ちをする。
「…自分たちの性行為を眺めるため?わざわざ?」
時生の答えを聞いて、海里は呆れたようにため息を吐いた。
「それっていやらしすぎませんか。」
「いや…、まあ。いやらしいことをするところだからね。」
時生は人差し指で頬をかきながら、苦笑した。
「ふーん。時生もしたい?私と。」
無邪気すぎる彼女の問いに、本当に意味がわかっているのかと時生は疑問に思う。
「…うん。そうだね。いつかは、したいと思うよ。」
時生の曖昧な答えを言及することなく、そっか、と海里は頷いた。そして、ベッドの上に畳まれて置いてあったバスローブを手にした。
「私、お風呂入ってくる。ロリータの洋服って、色々なところが窮屈なの。今日はもう脱ぎたい。」
確かに海里が身に付けているゴスロリの服は編み上げのシャーリング部分や、レースやリボンで調整するところが多い。かわいらしさを追求したファッションには我慢がつきもののようだ。
「行ってらっしゃい。」
時生に見送られて、海里はユニットバスに向かった。残された時生はベッドに仰向けに寝転んだ。他人が使うシャワーの音は何故、こんなにも安心するのだろう。耳をそばだてながら、時生はふと黒い闇が広がる窓の外を見た。
「…雨。」
窓ガラスに当たる銀色の雫が外の天気を物語っていた。雨に降られる前に眠る場所が確保できて良かったと思う。シャワーの音と雨音の二重奏を聞きながら時生はいつの間にか、うとうとと微睡んでいた。

時生はふと目覚めて、一瞬ここがどこなのかわからなかった。部屋の電気は最小限に落とされて、雨音が響く。鏡張りの天井で自分自身の瞳がゆらりと輝いていた。
「…。」
そっと隣を見ると、海里がバスローブ姿で眠っていた。規則正しい寝息にバスローブのタオル地に包まれた胸が上下する。安っぽい石けんの香りが似合わなかった。
これはずっと見ていられるやつだ、と時生は思う。
柔らかい身体の曲線が女性らしく、黒々とした髪の毛がベッドの上に広がっていた。
「…ん…。」
海里の愛らしい唇から、吐息が漏れる。
繭のように閉じられた二人だけの優しい世界に時生は泣きたくなった。自分の逃避行についてきてくれた、かわいい恋人。許されない、祝福されない恋を知り、時生は初めて自身の両親の苦しさと愛を手にした気がした。
涙に視界が滲み、手の甲で拭っていると隣からそっと起き上がる気配がした。
「…時生…?」
再び瞼を開けた視界に、海里が上半身を起こして時生を見下ろしていた。
「どうしたの…。」
「どうもしないよ。おはよう。」
まだ夜中だけどね、と海里が微笑む。そして体重が移動して、ベッドのスプリングが僅かに軋んだ。
海里が時生の上に乗り上げて、彼の耳の横に手を置いて顔を覗き込んできた。さらりと海里の髪の毛が肩から零れて、時生の頬をくすぐった。音もなく海里は小首を傾げるように時生の目色を伺う。
「時生、よく見せて。」
「ん。」
海里の暗い錆色の瞳に自らの顔が映るのが見えた。やがてその顔は近づいて、唇で睫毛の付け根を柔く挟まれた。つん、と引き攣られる感覚に時生は目を細める。海里の吐息を眼球に感じつつ、時生は海里の体躯を抱きしめた。
「…涙、塩っぽいね。」
時生の胸の上で抱かれながら、海里が額を押しつける。時生は感じる確かな重みは温かく、手放したくなかった。
「海里…、好きだよ。」
子猫のようにすり寄って、海里は時生の心臓の上に耳を当てた。海里はとく、とく、とく、と規則正しく動く鼓動をずっと聞いていたいと思った。
二人はしばらく抱き合いながら、身体を寄せ合っていた。時生は海里の髪の毛をなで続け、指先から零れる毛先の感触を楽しんでいた。海里は時生の耳の裏に鼻先を埋めて、深呼吸をしていた。
「僕、汗臭いんじゃない?」
「そう?お日様の香りみたいで落ち着くけど。」
海里がうふふと声を漏らす度に吐息がくすぐったくて、時生も笑ってしまう。子どもが内緒話をするように楽しかった。
「今、何時かな。」
海里の問いに、時生はデジタル腕時計のバックライト越しに時刻を確認する。
「午前3時12分。まだ寝てられるよ。」
「そうだねえ。ね、時生。」
海里はそっと呟いた。
「どこまで逃げようか。私、時生とならどこでもいいよ。」
未来は無地のキャンバスのように何色にも染められるのに、海里は時生色に染まっても良いと言う。
狂ったコンパスを胸に抱えながら、時生は二人の未来の行き先を決めた。
「朝になったら帰ろう。それで、逃避行はお終い。」
「…。」
海里が顔を上げて、時生を見る。
「どうして?」
「どうしてって…。海里のお父さんやお母さんが心配してるだろ。」
時生自身でも、何を今更、と思う。だけど、もう両親を悲しませたくない。
海里はふいと視線をそらして、再び時生の胸に顔を伏せてしまう。そしてしばらく身じろぎ一つしなかった。
「…怒ってる?」
ごめんね、と時生は囁く。雨粒が風に煽られて、一際大きく窓ガラスを叩いた。
「謝罪なんか、いらない。」
海里の固い声音が直接、心臓に響くようだった。
「そうか…。困ったな、どうすればいい?」
淡い声色で時生は海里に許しを乞う。
「時生が欲しい。他には何もいらない。」
あなただけがいればいい、と海里は泣いた。シャツに染みこむ彼女の声が熱い。
「僕はもう全部、海里のものだよ。」
時生は海里の手を取って、胸に当てた。
「この心臓も、気持ちも、時間さえも全て海里にあげる。」
白々しい上辺だけの言葉が、ベッドの上を統べる。逃避行を終えれば、全てが砕けることを時生も海里も知っていた。「…いつの間に、こんなに好きになったんだろ。」
海里は目を潤ませながら、起き上がった。共有していた体温が冷めて、肌が心許ない。
ベッドから抜け出して、時生が見ているにも関わらず海里はバスローブを床に落とした。丸い肩やくびれた腰、小さなお尻としなやかに伸びる足が惜しげも無く晒される。そして恥ずかしげも無く、下着を身につけ始める。発光するような白い肌が僅かな布地で覆われていくのがもったいないと思った。
「私、もう行く。駅で始発を待つね。」
「まだ朝じゃない。」
時生は、海里が着込もうとする服の裾を掴んで止める。
「いいの。離して、お願い。」
「嫌だ。」
「離して。」
「嫌だ!」
ベッドから起きて、時生は海里を背後から抱きしめた。いつも細い身体に触れるときには手加減していたが、今ばかりは思い切り腕に力を込めた。海里は泣いていた。あんなにも焦がれた海里の涙に、少なからず時生は動揺していた。「時生、大好きだよ。…あなたが自分の存在を嫌っていることが、とても悲しい。」
海里の肩が震える。俯いた先に、涙が落ちた。
「時生のお父さんたちが双子だったとしても、私は時生が生まれてくれたことが嬉しい。許されないのはご両親の関係で、時生の存在じゃない。」
「…そう、なのかな。でも、じゃあどうして僕は二人に置いて行かれたんだろう。」
僕は許されない存在だ。
「時生。それはね、」
残されたのは、その罰だ。
「愛されているからよ。」
繰り返し、夢に見る。朝日とも夕日ともつかない、朧気な灯りの中にゆらりと二人分の足が揺れている。黒い影に滲み、表情は伺い知れない。ちらちらと二人の背後に光るのは蛍でも、雪でもない。ただの埃なのに、とても美しいと思った。時生の記憶に残る両親だ。
「…愛…?」
時生の中になかった答えに、思わず反芻してしまう。
「そう。時生の両親は時生を愛しているから生むことを決意して、しあわせ全部を託して時生だけを残して逝ったんだよ。」
淀むことなく、海里は力強く断言をする。
「…愛してる、時生。」
その声は海里を通した両親の声に聞こえた。
不意に、心にかけていた鍵の錠が落ちた気がした。最も柔らかく、傷つきやすい部分で自分でも触れるのが怖かったところだ。それを海里は恐れることなく、包み込んでくれた。手のひらに乗るほど小さな心は静かに燃えて、脈打っている。海里は幼子を扱うように優しくあやし、口付けをしてくれた。
「…。」
気が付くと、時生の頬に涙が伝っていた。溢れる涙は熱い血潮にも似ていた。
海里がダンスを踊るように時生の腕の中でくるりと身を翻した。そして時生の頬を両の手のひらで包み込む。かかとを持ち上げて、そっと時生にキスをする。柔く唇の先を食み、吐息を飲み込んだ。
「ゆっくりでいいから…、気付いてね。」
そう言って、海里は微笑む。その刹那、海里に対しての愛しさが心に溢れ出した。歪んだ感情が温かい雨に晒されて、汚れを禊いでいくようだった。
海里は涙を摘むように、時生の目尻を吸う。くすぐったい。
「何か、ずっと…海里にリードされっぱなしな気がする。」
照れ隠しも込めて、時生は苦笑する。
「そうだよ、へたれなんだから。たまには強引にでも唇を奪ったらどう?」
「…じゃあ、」
海里の腰に手を添えて、ぐっと抱き寄せた。
「いい?」
時生は海里についばむようなキスをして、徐に彼女を抱き上げてベッドへと連れ戻すのだった。

スマートホンの甲高いアラーム音が鳴る。
「…。」
時生は布団から腕だけを出して、スマートホンに触れアラームを止めた。そっと上半身を起こして外を伺うとカーテンの隙間から白い朝日が差している。昨日の雨が嘘みたいだ。
隣では海里がまだ眠っている。
零れる熱い吐息、触れた柔い肌が未だに脳裏に浮かぶ。時生は昨夜のことを思い出して、手で口元を覆い一人赤面した。早々に落ち着かねばと深呼吸を繰り返した。これ以上、海里に無様な姿を見せたくない。
「んー…。」
海里が声を漏らす。きゅっと眉根を寄せて唸ったかと思えば、手を伸ばして何かを探している様子を見せた。
「…海里。」
時生が海里のその手を握ると、力を込めて握り返された。「時生…?」
舌足らずな発音で海里は時生の名前を呼ぶ。そして瞬きを数回繰り返すと、ようやく焦点が彼に合った。
「おはよ…ぅ。」
「うん、おはよう。」
時生は海里の頭を撫でながら、挨拶を返す。
「朝だねえ。」
うとうととまだ眠たそうな海里の手に、時生はある物を握らせた。
「海里さえ良ければなんだけど…、僕の愛を受け取ってくれる?」
「…?」
海里はそっと手のひらを開く。そこには、時生の薬指。愛を誓う指の樹脂封入標本があった。
「気持ち悪くて、ごめんね。」
本当ならおそろいの美しい指輪を準備したかった。だけど、自分には身に付ける指がない。だから薬指そのものを手渡したかった。
「…どんなに大きなダイヤモンドや、輝くプラチナなんかよりずっと嬉しい。ありがとう、時生。」
海里は嬉しそうに歯を見せて笑う。
「もう返さないから。」
海里は薬指の標本を胸に抱き、上目遣いに時生を見た。
「いいよ。でも、いらなくなったら捨てて。」
海里の頬をふにとつまみながら、時生は言う。
「…傷つけてごめん。痛かっただろ。」
時生の手に海里は自らの手を重ねた。
「全然。私、そんなにやわじゃないので。」
「すごいな。」
彼女の頼もしい答えに、時生は笑ってしまう。そして海里を抱きしめる。
「海里、好きだよ。愛しているから、別れようか。」
一番に見せると言った海里の写真は結局、仕舞われたままだ。いつかこの愛が冷めたとき、再び取り出そうと思う。
「うん。わかった…。」
海里は瞳を伏せるが、口元には笑みが浮かんでいた。
「ねえ、時生。」
遠くで線路が鳴る音が響く。もう、あの街に帰る電車は走っているのだろう。
「大嫌いよ。」
海里の淡い目色が時生を映し、朝の光に柔らかい声音の嘘が二人の恋路の邪魔をする。

これが僕たちの、愛の証。


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