海里は突然の時生の電話に驚く。声は静かで笑みが含まれていたが、どこか涙を零しているようだった。あの、お盆の日のように。時生との電話を切って、海里は自分の部屋を飛び出した。
「海里ー。廊下は静かに歩きなさい、」
「お母さん!今から、出かけて来てもいい!?」
時刻は門限の午後七時を過ぎた頃だった。父親は町内会の集まりに出掛けている。
「ええ?今から?」
「お願い!」
訝しがる母親に、海里は必死で説得を試みる。娘の口か時生の名前が出ると、母親の表情は変わった。
「…つまり、八尾くんが助けを求めてるのね?」
「うん。私が行かないと、きっと彼は一人で泣く。」
海里自身が泣きそうに目を潤ませると、母親は大袈裟に溜息を吐いた。
「午後九時には戻ること。いい?お父さんが帰ってくる前に帰ってきなさいよ。」
「! ありがとう、お母さん!!」
母親と言う味方をつけて、海里は家を飛び出したのだった。

かぜよみ荘の一階、時生が住む部屋の玄関チャイムが鳴る。時生が扉を開くと、そこには息を切らした海里が立っていた。恐らく、駅からの道のりを走ってきてくれたのだろう。
「時生、大丈、夫…、」
「海里。」
時生は海里を力強く抱きしめた。小柄で細い、しなやかな背に腕を回すと海里自身も時生に縋るように抱きしめ返してくれる。
「来てくれて、ありがとう。」
「呼べって言ったのは、私だから。」
うん、と頷いて時生は彼女の耳を食み、長くしっとりとした黒髪に鼻先を埋めた。淡い汗と爽やかな石鹸の香りが混じって、日向のような香りになる。
「時生、あの、微妙に恥ずかしいんだけど。」
海里は僅かに身体をよじるが、時生は離れることを許さない。
「海里、このまま聞いて。」
「…うん。」
幼子に話しかけるように時生は優しい口調で海里の耳元、鼓膜に直接語り掛ける。海里はその穏やかな声音に落ち着きを取り戻して、時生に身を委ねた。
「僕と、恋人になってくれませんか。」
「本当…?」
海里の声が震えていた。時生の肩が熱く湿る。抱きしめている彼女の涙が滲んだのだと思う。
「本当。お願い、海里。」
甘えるように言うと、海里は何度も時生の胸の中で頷いた。ありがとう、と呟くとようやく時生は海里を解放した。
「何で泣くの。」
笑いながら、海里の目元の涙を指の腹で拭ってやる。
「だって、嬉しい…から。」
可愛くて、可愛くて…僕に愛される君はなんて可哀想なのだろう。時生は指についた海里の涙を舐めた。
「そうだ。ねえ、写真を取ってもいい?」
「写真?」
海里はきょとんと眼を丸くしながら、小首を傾げる。
「うん。今日の記念に。」
二階。頭上の部屋では、喜一と海咲が死んでいる。海里は何日後かには二人の死を知ることになるはずだ。
「時生って、記念日のたびに写真を撮る父親みたいだね。」
はにかんで、カメラを持ち出した時生に向かって居住まいを正す。
「そうかも。じゃあ…、撮るよ。」
そう言って、時生はシャッターを切った。今まで見た中で一番の笑顔で、海里は応えてくれた。ひたひたと滲む死の気配に日常が浸食されていく中、この表情が涙に濡れる瞬間を思い、時生の胸は疼き、手足の先が甘く痺れるようだった。
「ねえ、時生のカメラってフィルムなの?デジタルじゃなくて?」
ベッドの上に腰掛けて、時生の隣にいる海里が無邪気に聞く。
「そうだよ。デジタルもいいけど、単純に高いだろ。このカメラも中古の品だし。」
そう言いながら、時生は愛用のカメラの側面を撫でる。レンズにひびさえ入っていなければ良いと思い、小遣いを貯めて購入した物だった。
「ふうん。じゃあ、すぐに写真は見られないんだ。」
海里は残念そうに唇をとがらせる。時生は苦笑しながら、海里の頭を撫でた。
「今夜中には現像しておくから。」
「本当?」
ああ、と時生が頷くと、海里は機嫌が直った猫のように笑った。
「嬉しい。ね、一番に見せてね?」
「約束するよ。」
そう言うと、左手で指切りをするのだった。
午後八時を回り、いよいよ海里が帰路につく時間が迫ってきた。名残惜しそうにもたもたと帰り支度をする彼女が可愛らしくて堪らない。
「海里、駅まで送るよ。」
「…ありがとう。ねえ、じゃあ歩いて行こうよ。」
少しでも長く一緒にいたいといじらしいことを言われて、時生は気をよくする。
「いいよ。電車に間に合うぐらいにゆっくり歩いて行こう。」
玄関を出ると、くらげのように白く輝く月が夜空の海に浮かんでいた。住宅街はとても静かで、時折テレビの笑い声が漏れて聞こえてくるぐらいだった。駅までに続く等間隔に設置された街灯を、ヘンゼルとグレーテルの小石になぞらせるように二人は辿っていく。隣を歩く海里の手の指が、つん、と時生の手の甲に触れた。それを一つの合図のようにどちらかともなく、手を絡ませるように握ったのだった。しばらく無言で、でもその静寂が心地よく。手は口ほどに情緒を語った。
最寄り駅に到着する頃、風が少し出てきた。もしかしたら雨が降るのかも知れない。
「時生、あの、次は学校で、かな。」
「うん。また明日、だね。」
時生は誰にも見られないような素早さで、海里の旋毛にキスをした。小柄な海里の頭の位置は、口づけるのに丁度いい高さだ。
海里は照れたように自身の髪の毛の先を指先に絡めて弄び、そして決意したように時生の腕を引っ張り、背伸びをして頬にキスをする。柔らかい唇が頬に押し当てられて、時生はくすぐったそうに首をすくめた。
「ほら、もう行かないと乗り遅れる。」
時生はそっと海里の肩を押した。
「うん。」
またね、と手を振って、海里はまるで踊る子鹿のような足取りで駅の構内に駆けていった。彼女の姿が見えなくなるまで手を振って、時生はそっと背を向ける。
やがてポツポツと雨が降ってきて、夜の帳が降りた駅前の交差点の角に立った。
「…。」
時生は目をぱちぱちと瞬かせる。興奮から冷めて疲れが出たのだろうか、視界に霞がかかったようだった。雨が肩を濡らして行く。肌にまとわりつき気持ちが悪い。
歩行者用信号の色が青に変わったことをつげる音声が流れ、何気なしに一歩踏み出した。その瞬間、車のけたたましいクラクション音が響き渡った。
あ、やばい。
そう思った瞬間に、時生の身体に衝撃が加わったのだった。

「全くもう!どれだけ心配させれば気が済むんですか!?」
大学病院の病室。都合良く、個室となった時生の病室に訪れた海里が開口一番、ぶち切れていた。怒る目の淵が赤く腫れていたことを時生は気が付いていた。言葉通り、多大な心配をかけたのだろうと思う。
時生は昨夜、自動車と接触事故を起こして、救急車にて病院に運ばれた。雨で視界が悪かった車は発進した直後だったために、スピード自体はそんなに出ていなかった。ただ、接触した衝撃で額を切った時生の血は中々止まらなかった。傷口を縫合し痛々しい包帯を何重にも巻いて、時生は検査入院を強いられた。
『彼氏、事故で入院したんだって?』
海里はその入院を高校で教員から知らされたという。何気ない会話の糸口で知った衝撃は計り知れず、海里は時生の入院先の病院を聞くと供に高校を飛び出したらしい。
「ごめんなさい。」
時生は素直に頭を下げる。
「本当に…、怖かったんだから…っ。」
海里の表情がくしゃりと歪んだ。涙が彼女の瞳から盛り上がり、表面張力を破って零れた。
「時生が死んじゃったらどうしようって。それしか考えられなかった…っ。」
泣くことを躊躇しない海里を時生は手招く。病院の白いベッドに近づいてきた海里の腰に腕を回して、そっと抱き寄せた。
「ごめんね、海里。大丈夫だから。」
時生は海里の柔らかいお腹に耳を当てる。心臓を動かす筋肉の鼓動が響いていた。
「…もう、起きていて平気なんですか。」
ぐす、と鼻を啜りながら、海里は時生の頭を抱きしめた。
「うん。平気。血が止まらなかったのも、打ち所が悪かったんじゃなくて僕が血友病だったからだ。」
声がくぐもる。海里がざらりとした包帯の布地を撫でている。そして。彼女は呟いた。
「血友病…?」
一度、ぎゅうっと強く抱きしめた後、時生は海里を解放してベッドサイドのパイプ椅子に座るように勧めた。
ギシ、と軋む音を立てながら、海里は時生の勧めに応じて座る。そして話を聞こうと耳を傾けた。時生は目を伏せて、淡く微笑む。
「何から話そうかな。…えーと、そう。まずは血友病のことだ。」
血友病、血液凝固因子の欠損により出血傾向をきたす遺伝性疾患である。それは伴性劣性遺伝のため、男性に現れるという。
「…まあ、簡単に言うと血液が固まりづらいんだ。そういえば左手の薬指を切断したときも、血が思ったよりも出て周囲の方が困惑していた記憶がある。」
気絶した同級生はかわいそうだった、と時生は笑う。
「痣や、内出血とかができやすいところを除けば、普段の生活に支障は無いよ。」
「そう、なんですか。知りませんでした。」
海里は神妙な面持ちで頷く。
「言ってなかったからね。どちらかといえば、目の方が重症かも。」
時生はそっと片手で片目を覆うように触れた。
「まだ何かあるんですか?こうなったら、全てを白状しなければ許しませんから。」
海里の強気な発言は、心を守る鎧だと言うことは薄々気付いていた。その心が自分だけのものとも限らず、海里は時生が告白しやすいように仕向けてくれたものだった。
「網膜色素変性症をもね、患っているんだ。徐々に視野が狭くなって行くみたいなんだけど、夜盲がそろそろ始まったんだと思う。」
「?」
首を傾げる海里に気が付いて、時生は言葉を足す。
「夜盲っていうのは、なんだ。確か、鳥目と同じ感じかな。ほら、奴らって暗いところだと視力が落ちるだろ。」
昨日の事故も、必ずしも100%が車側が悪いわけではない。時生も車が見えていなかったのだ。
「…身体の中、ボロボロじゃないですか。」
海里がまるで自らの身体が痛むかのように、声を絞り出す。「生まれつきだから、慣れたよ。」
時生は俯く海里の頭を優しく撫でた。するりと髪の毛が一房、指から零れる。
「海里は以前、双子の片割れを亡くしたと言ってたよね。僕の両親も双子だったんだよ。」
「どっちが?両方とも?」
偶然ですね、と言う海里を見て、時生は微笑む。
「本当、すごい偶然。双子なのに恋をして、僕を生んだんだ。」
微妙にかみ合わない会話に、海里は思考が追いついていないようだった。
「実の双子、兄妹での近親相姦。僕の遺伝性の病は、その弊害なんだよ。」
「…。」
海里の周囲の空気が凍る。
「生まれてきてはいけなかったんだ。」
個室で良かったなあ、などと時生はのんびりと思う。いくらなんでも他人と共用の部屋でしたい話ではない。
「…時生…。」
「僕の存在は、罪そのもので害でしかない。せめて、僕がいなければ両親はまだ生きていたはずだ。」
このままでは海里の美しい黒髪を強く握ってしまいそうだからと、時生は腕を下ろして布団の上で両手を組んだ。強く強く爪が肌に食い込み、紅い痕が刻まれていく。
「時生。」
「うん、そうだ。僕が生まれてこなければ、」
「時生っ!!」
病室に、乾いた音が響いた。海里が時生の頬を手のひらで張った音だった。
二人の息づかいが微かに聞こえるほどの静寂が統べる。先に動いたのは海里だった。パイプ椅子から徐に立ち上がると、時生のベッドによじ登った。二人分の体重を受けて、ベッドが軋む。時生の膝を跨いで座り込み、海里のスカートの裾がふわりと広がった。海里の黒色のニーハイソックスとスカートのレースの間にできた絶対領域に、時生は目が奪われる。肌の白さがより強調される黒と言う色は、禁欲的でいて卑猥だ。
「…どこを見てるの。えっち。」
人の視線は案外、当該人物に悟られている。例に漏れず、海里は時生の視線に気が付いているようだ。時生はごめんと呟きつつ、視線をそらすことができない。
「ねえ、海里。触れてもいい?」
彼女への好奇心を隠しきれず、思わず真っ正直に申請してしまった。嫌われたかな、と思いつつもいきなり触れるという暴挙を回避した自分自身を時生は褒めてやりたかった。「いいですよ。」
小さなため息を吐きながらも、海里から得た答えは意外にも了承だった。
「ありがとう。」
時生は礼を言うと早速、膝の上に座る海里の足を触れた。さらりとしたニーハイソックスの生地が邪魔だなと思いながら、その脚線をなぞる。膝の丸みを手のひらで包み込むように撫で、ピアノの鍵盤を奏でるように指で爪弾く。時折、海里はくすぐったさを我慢して微かを身をすくませた。ようやく触れた素肌のなめらかさに、時生は驚く。日焼けのしない部位はまるで温かい餅のような弾力だった。
やがて時生の手はするりとスカートのレースの中に侵入してきた。
「…っ、」
時生の愛撫に海里は熱い呼吸を飲み込む。腰骨の下をマッサージするかのように強弱を付けてタッチしたかと思うと、時生は満足したのか、そろ、と手を引いた。そして、海里の背中に腕を回して強く抱きしめる。
「ごめん。嫌だったろ。」
「…本当に嫌だったら、殴ってでも逃げてます。」
海里もまた、時生の背中を抱いた。
「ごめんなさい。頬…、痛かった?」
「え?音の割には全然。叩くのうまいんだね。」
時生の謎の褒め言葉を受け取って、海里はくくくと笑いをかみ殺して震える。
「人を変態みたいに言わないでくれますか。」
「いやー、素質あるんじゃない?」
二人でいたずらをした子どものようにくすくすと笑い合う。ふう、と一息を吐くように落ち着いて、海里はぽとんと時生に問う。
「…時生は、自分のお父さんとお母さんのこと嫌い?」
「好きだよ。」
海里はそっかと呟く。
「だから、余計に苦しいんだね。」
まるで酸素欠乏症に陥った金魚のように、時生はいっぱいいっぱいなのだと知る。肺に水が満ち、苦しくて堪らないのだ。
「好きよ。」
時生は寝間着越しにじわりと滲み、染みこんでいく。それは海里の涙だった。
「時生、大好き。」
顎の下にいる海里の震える旋毛に時生は口付けを落とす。ちゅ、ちゅ、と音を立て、触れては返す。まるで波のようだった。
「ごめんね。」
「何故、謝るの。」
謝る海里に時生は言葉を促した。
「言葉が足りないの。私はこんなにも時生を愛しているのに、全ての気持ちを告げるだけの言葉を知らない。それがとても、もどかしい。」
「…僕には、充分すぎるほどの言葉たちだよ。」
海里は上目遣いに時生を見る。
「待ってて。あなたが自分を許せるぐらい、私は時生への愛を囁き続けるから。」
なんて頼もしくて、強くて、可愛らしい女の子なのだろうと思う。海里の存在が尊くて、目が眩みそうだった。
「楽しみにしてる。」
時生の言葉に海里は、期待してて、と笑う。そして、ようやく時生の肩を押して身体をゆっくりと離した。
「そうだ、時生。今度の劇の主役、海咲さんに決まったんだよ。」
ベッドを降りながら、無邪気に海里は告げる。時生は海咲の白い死に顔を思い出した。
「そうなんだ。海里は…、残念だったね。」
「ううん、それが全然悔しくないんだ。むしろ嬉しいとさえ思ってる。」
ふふ、と笑い声を零しながら、海里は通学用の鞄の中から『KINGFISCHER GIRL』の台本を取り出した。パラパラとページを愛おしむようにめくり、カワセミの少女を演じる海咲のことを語る。
「海咲さんが歌うカワセミの少女の唄、とても素敵なんだよ。高音に伸びる歌声が華やかで、本当に楽しそうなの。」
そういえば、海咲の歌を聴いたことがなかったなと思う。少女と大人の女声の狭間を揺れ動くような彼女の声は確かに映える歌声となるだろう。そんな海咲の口から呪いの言葉が吐かれたことを、海里は一生知ることはない。
「さて、と。時生の無事を確認できたので、私は稽古があるから帰るね。」
パタ、と台本を閉じ、海里は鞄を持って身支度を始める。そして病室の扉を開けて、振り返った。
「またね、時生。」
「うん。あ、海里。」
出て行こうとする海里を時生は呼び止める。
「…頑張って。」
うん、と頷き、海里は胸の位置の高さで手を振って今度こそ出て行った。