夏休みを迎える前に海里は職員室に呼ばれた。
「…このままだと、進級が難しいぞ。」
海里のサボり癖を常々苦く思っている担任は、溜息交じりに海里に告げる。呼び出された理由の内容は、長期休暇中の補習授業についてだった。
「とにかく。この補習は救済措置だと思って、きちんと出なさい。いいね?」
取りあえず頷いて、海里は職員室を退出した。頭を下げて職員室の扉を引くと、廊下で待っていた時生が海里に気が付いた。
「先生、何だって?」
「補習のお話でした。」
簡潔に内容を話しながら、二人は連れ立って歩き出す。中庭に隣する渡り廊下は日陰ながら、夏の温度を孕んだ風が通り抜けていた。
「私としては、進級するのも面倒なのでどうでもいいんですけど。」
「いや、留年の方がはるかに面倒でしょ。」
いかにも海里らしい意見に、時生は苦笑しながら言う。
「正論はいらないですー。」
つん、と海里は顎を斜め上に向けてしまった。
「じゃあ、楽しみを鼻の先にぶら下げてみない?」
時生は海里が補習を受けるモチベーションが上がるようにある提案をした。
「補習の最終日って半日でしょ。その日、午後から海水浴に行こうよ。上田さんと海咲さんにいつでもいいから海に行こうって誘われているんだ。」
「日焼けしたくないので行かないです、と言いたいところですが。今回は時生の顔を立ててあげます。行きましょう。」
思いがけず快諾を得られ、時生は驚く。
「当日になって、やっぱり行かないは無しだからね?」
「どんだけ信用がないんですか、私…。」
海里はわかりやすく大きく溜息を吐いて、立ち止まって時生を見上げた。そして右手の小指を出す。
「はい。」
「何?」
首を傾げる時生を海里はにっと口角を上げて笑って見せる。「約束しましょう。指切りです。」
「え?あ、ああ。指切りね。」
海里は時々、子どものようになる。普段の人形のような怜悧な印象とのギャップに困惑してしまうことも多々あった。ちなみに今がその時である。
時生がおずおずと彼女の小指に自らの小指を絡めると、海里はお馴染みの歌をうたう。
「…指、きーった!」
「…きった。」
気恥ずかしさが勝りつつ、無事に指切りを終えた。
「じゃあ、海里も補習頑張って。」
時生は照れ隠しに海里に釘をさす。海里は苦々しい表情をしながらも、頷くのだった。
海里と別れ、かぜよみ荘への帰路につくと喜一が丁度打ち水をしていた。高校帰りの時生に気が付くと喜一は、ひしゃくを持った手を振って迎え入れてくれる。
「おー、八尾くん。おかえり。」
「ただいまです。上田さん、涼しそうなことをしてますね。」
まあね、と言いながら再度、かぜよみ荘前の道路に水を撒く。
「案外、古典的の手法が一番かしこいんだよねー。」
たしかに、水で冷やされた地面を通る風は涼しく感じた。時生は喜一の少し後ろに立って、涼を感じることにした。
「そういえば前に話した海の件なんですけど。」
「ああ、日にち決めた?」
足元で水の雫が跳ねる。
「はい。それでお願いなんですけど、一人増えてもいいですか?」
「いいよー。誰?」
時生が海里の名前を告げると、喜一は驚いたように手を止めた。
「彼女、海に行くキャラだとは思わなかった。八尾くんやるねえ。」
「僕もそう思いました。」
しみじみと時生が頷くと、喜一は吹き出す。
「いや、海咲も喜ぶよ。当日はレンタカー借りていくからね、にぎやかでいいじゃないか。」
「ガソリン代、払いますね。」
時生が気を聞かせて言うと、喜一は笑って制する。
「いいよ、いいよ。今、俺自身が運転したい気分なの。」
喜一は最近、自動車免許を取得したらしいことを聞いた。きっと積極的に運転を楽しみたい時期なのだろう。
「高校生からお金を取るのもね。」
はは、と喜一は笑う。
「上田さんだって、大学生じゃないですか。」
「この年の差を甘く見るなよー。アルバイトは自由にできんのか?高校生。」
時生と海里が通う高校はたしかに特別な事情がない限りアルバイト禁止だった。
「まあ、おにーさんに甘えときなさい。」
「…すみません。ありがとうございます。」
時生が素直に頭を下げると、そのまま喜一にくしゃくしゃに髪の毛を乱された。その撫でられる感覚はとても久しぶりに感じられた。
終業式を終えた次の日から、海里の補習授業が始まった。
海里は教室の一番後ろ、窓際の席で片腕を太陽に焼かれながら授業を受ける。教室にクーラーが導入されているとはいえ、設定温度は低くなく生徒たちは下敷きをうちわ代わりにパタパタと扇いでいた。退屈な授業を寝て過ごそうかとも思ったが、ちゃんと補習を受けると時生と約束した手前、海里はきちんと起きていた。毎度の授業最後の小テストを終えて、くたくたになりながらも淡々と補習をこなしていく。そして、最終日。無事に補習を合格して晴れて、高校から解放されて夏休みを迎えるのだった。
「海里!」
その日の正午、高校の校門前で待っていた時生は海里を見つけて名前を呼ぶ。手を振って海里を迎え入れて、隣に立ったところで歩き出した。
「駅前のレンタカー屋で集合なんだ。」
時生がスマートホンを確認しつつ言う。真夏の昼、道路はゆらゆらと逃げ水が波打っている。じりじりと肌を焼く感覚が不快だった。太陽光を真っ向に受ける髪の毛はあっという間に熱を持っていく。背の低い女の子には照り返しなどつらい暑さだろうと思い、時生は気を利かせる。
「海里、日傘持ってなかった?僕に遠慮しないで差していいよ。」
「…そうですか?すみません。」
やはり遠慮をしていたのであろう海里は鞄から折り畳みの日傘を出して、開いた。
「時生も入りますか。」
「日傘で相合傘って、あまり聞いたことなくない?」
それもそうですね、と海里は頷き、大人しく一人使いをすることに決めたようだ。海里の横顔を覗くことができないのは惜しいが、仕方がない。
やがて到着した駅前では、海咲と喜一がレンタカーに既に乗り込んで待っていてくれた。
「海里ちゃーん。時生くん!こっちだよー。」
車の助手席の窓を開けて、海咲が元気よく手を振った。隣で喜一も片手をあげる。
「すみません、待たせましたか。」
後ろの座席の扉を開けて、乗り込みながら時生は訊く。
「大丈夫だよ、八尾くん。海咲がコンビニで買い出しとかしていたから。」
「お菓子と飲み物はばっちりだよー。海里ちゃん、何か飲む?」
ゆっくりと車は発車して、賑やかな道中が始まったのだった。
「熱を逃すためにちょっと窓を開けるよ。」
喜一が操作をして、車の窓を開けた。瞬間、熱されていた空気が動き、新鮮な風が車内を満たす。女性陣の長い髪の毛が煽られて、ふわりと舞った。その可憐な動きについ視線が奪われて隣を見ると、海里は気持ちよさそうに目を細めるところだった。僅かにシャンプーの香りが鼻腔をくすぐって、嗅覚と視覚を以て脳に甘い思い出として刻まれる。「ねえ、きーくん。音楽かけてもいい?」
海咲はスマートホンを取り出して、車と連動させながら問う。
「それは、後部座席の二人に訊きな。」
喜一の答えに、はーい、と良い返事を返して海咲は上半身を捻って、時生と海里を見た。そして二人の同意を得ると、喜々として音楽を流し始める。選曲は懐かしいアニメソングだった。
「この頃のアニソンが、神だと思うの!」
「ごめんねー。八尾くん、一ノ瀬ちゃん。海咲はアニメオタクなんだよ。」
海咲の意外な一面を知って驚き、時生は知ってた?と海里に目で問う。海里は首を横に振った。どうやら付き合いの長い海里でも初見だったらしい。
「ほら、小さい頃ってごっこ遊びでヒロインになりきったりするじゃない?役者はその延長線上なんだ。」
そう言って海咲は、女児向け変身ヒロインアニメの決め台詞と手だけでポーズをする。それを見た海里は懐かしそうに同意した。
「そのアニメ、覚えてます。私は主人公よりもサブキャラの方が好きだったなあ。」
「お!誰押し?」
それから海咲と海里はアニメ談議に花を咲かせていた。やがてにぎやかな車内でも、海の潮の香りが感じられ始めた。
「このトンネルを抜けたら、もう海だよ。」
喜一がナビゲーションを見ながら言う。薄暗いトンネルの長い道をしばらく走り、前方に出口の灯りが見えてくる。徐々にその光は強くなり、抜ける瞬間に白い閃光が放たれたそこには。蒼く、ダイヤモンドを散らしたかのような光を反射させる海が現れた。海咲は歓声を上げて喜ぶ。一方で静かだなと思っていた海里を見ると、彼女は彼女で瞳を輝かせて無言ながら頬をほころばせていた。
到着した海の家隣接の駐車場に車を停めて、四人は水着に着替えるために更衣室へと向かった。
「八尾くん。日焼け止め、ちゃんと塗った方がいいよ。」
服を脱ぎ、水着を着ながら喜一は時生に言う。時生は早々に更衣室を出ようとしていた。
「僕、色白いので少し焼きたいんですけど。」
時生は自らの腕を見ながら、告白する。真っ黒とまでは行かなくとも、健康的に日焼けはしたい。
「だったら尚更だ。ムラが出たら嫌だろ。」
「あー…。それはかなり嫌ですね。」
喜一に甘えて、日焼け止めのクリームを借りて肌に塗る。手の届かない背中は互いに塗り合った。
更衣室を出た二人は海の家に荷物を預けて、女性陣を待つ。
「二人とも遅いなあ。」
時生は海を目の前にまてを食らった犬のように、じれったそうに言う。喜一はそんな時生を見て笑った。
「まあ、女の子だしね。男は待つもんだよ。」
「…上田さんって、大人ですよね。」
達観した風にも思える喜一に対して、時生は子供っぽい自分を恥じた。
「そうでもないよ。ただ、海咲に調教されただけさ。」
「調教って。」
ふっと時生が噴き出すと、喜一は大袈裟に肩をすくめた。
「いや、マジ。料理中、入浴中。外出の支度中とか海咲、すっごい時間かけるからさ。待つのが当たり前みたいな感じになるんだよ。」
「…なるほど。」
おしゃれや身だしなみに気を遣う海咲を、早くしてよ、と催促しながら優しく待つ喜一の姿が目に浮かぶ。
「一ノ瀬ちゃんはどうなの?」
「僕たちは付き合っていないので。」
時生の答えに喜一は目を丸く張った。
「そうなんだ?仲がいいように見えたから、てっきり。」
「二人とも、何の話ー?」
会話の最中に声がかかる。声の主は海咲だった。ようやく更衣室から出てきたようだ。
スタイルのいい海咲の水着姿は内側から健康美が輝く様だった。テラコッタカラーのビキニで首元と腰がひも状のリボンで飾られている。そのリボンが動く度に揺れて、解けないか心配になってしまう。
「いいね、その水着。」
喜一が褒めると海咲は嬉しそうに笑う。
「今日のために新調したんだぞ。もっと褒めて!」
「はいはい。あれ?一ノ瀬ちゃんは?」
喜一の海里を探す声に、自身も海里を探していた時生はどきりとする。まるで心の声が筒抜けになったように錯覚した。
「あれ?海里ちゃーん、何を恥ずかしがってるんだー?」
海咲が背後を振り返り、海里を見つけると手を引いてくる。
「べ、別に恥ずかしがってなんか、ないです!」
「じゃあ、ほれ。お披露目だ!」
海里の背中を押して、海咲自身より前にぐいと出す。
「…。」
時生は海里の水着姿を前に言葉を失う。ワンピースタイプに水着で、色は深い青色。胸元はシャーリング使用になってワンポイントで白いリボンが施されている。肌の露出が少ないのに大人っぽく感じるのは、サイドの編み上げの効果だろう。
「あの、何か言ってくれないんですか…っ?」
時生の視線を受けて、無言の時間に耐えられなくなった海里が音を上げる。
「…かわいい…。」
今度こそ本当に心の声が漏れた。
「でしょでしょ!時生くん、見る目あるぅ。一緒に水着を買いに行ったんだよねー。」
海咲が海里の肩を叩きながら、豪快に笑う。それに反比例するように、海里は顔を朱に染めて俯いてしまった。
「きーくん、泳ぎに行こ。」
「ああ。」
恋人同士の海咲と喜一は先に海へと行ってしまう。残された恋人未満の海里と時生は隣で微妙な距離を保っていた。
「えーと、何か、ごめん。」
気まずさの原因を自分にあると思い、時生は謝罪をする。
「なんで謝るんですか。可愛いんなら、良いです。」
横目で見ると、同じく時生の様子を伺っていた海里と目が合った。海里も海里で、時生の様子を気にしていたことに嬉しくなった。
「僕たちも行こうか。」
「…私、泳げないんです。」
すみません、と謝る海里の告白を意外に思いながら、時生は海の家で浮き輪を借りることを提案して海に赴くことにしたのだった。
海里が使う浮き輪につかまりながら、時生も波に揺られる。
「運動神経いいのに、泳げないんだ。」
「陸上方面に特化してるんです。水中はからっきし。」
確かに思い出せば、海里は歩くのも走るのも早い。
「それでも、海、付き合ってくれたんだね。」
「楽しみに、してましたから。」
思いがけず率直な気持ちを告げられて、時生は驚く。
「だから!謝らないでください、ね?」
「了解。」
はは、と笑い合い、二人はしばらく海水浴を楽しむことにした。海水は陽に温められて丁度良い水温を保ち、寄せては返す波のリズムが心地よく身体に響く。
「母親の胎内を思い出しますね。」
海里は浮き輪で水面を漂いながら、ぽとんと呟いた。それを拾ったのは時生だ。
「覚えてるの?」
のんびりと何でもない風に時生は訊く。
「…人に言ったら笑われると思うんですけど。」
「そんなことないよ。言って?」
海里は両の掌で器を作って、海水を掬う。さらさらと手から零れていくのはきっと思い出の羊水だろう。
「視界は時折、泡が生まれるのがわかるぐらいの光量なんです。温かくて、気持ちが良くて、私はよくうたた寝をしていました。」
「うん。それで?」
時生が母親の胎内で安心して眠る様子を想像して、時生は微笑ましくなる。きっと可愛らしい赤ちゃんだっただろう。
「私の隣には弟かお兄ちゃんがいました。時々、喧嘩して、でも仲良く母の胎内で過ごしていました。」
「え…。双子、だったの?」
新しく知った海里の兄妹関係について、時生は驚く。そのような存在の欠片には気が付かなかった。
「はい。だった、んです。」
海里は瞼を閉じて、自らの片割れのことを思い出しているようだった。
「…生まれた時に、死に別れました。」
門限があると言う海里のために、海水浴は夕方には終えることになった。
「うわー、砂でじゃりじゃりだなあ。」
喜一が海の家で借りたシャワールームで、温水で身体を流しながら呟く。
「本当ですね。きちんと落とさないと、レンタカーの人に嫌がられそう。」
時生も頷いて、いつもより丁寧にシャワーを浴びた。水が肌を伝う感覚にぞわと粟立つ。
「…八尾くん。何かあった?」
「え?」
ふっと顔を上げると、喜一がシャワールームの曇りガラスの扉に影を作っていた。
「なんでもないですよ、そんな。」
「そう?」
喜一の優しく深い声色が時生の冷えていた心を温かく包む。
「うーん、と。ですね…、」
だけど、心に残る海里のことをどこまで話していいものかがわからない。
「双子の人って、片割れがいなくなったらどんな気分になるのかなってふと思うことがあって。」
海里の名前を伏せて告白すると、喜一はシャワールームの外で首を傾げているようだった。
「そうだなあ…。まあ喪失感は多大だよね。」
彼らは魂の半身が最初から一緒に生まれてきたものだから、と喜一は言葉を紡ぐ。
「聖書の話ですね。上田さんは詳しいんですか?」
「その話だけ印象的で覚えてただけさ。」
コックを捻って水を止め、時生はシャワールームを出た。喜一から差し出されたタオルを、礼を言って受けとる。
「自分の半分が切り取られる苦痛は、どれほどのものなんだろう。」
時生の問いにも似た呟きを拾った喜一も、考え込んだ。
「一生乾くことの無い傷にはなり得るだろうね。」
海咲と海里の身支度を待って、四人は車に乗り込む。行きのにぎやか雰囲気とは一転して、帰りは疲れが出たのだろう。とても静かな車内だった。運転手の喜一が寝ないようにと付けたラジオが流れていた。海里はこくりと舟を漕いで、夢現の狭間を漂っている。夜の帳が下りる頃に、四人が乗った車が街に辿り着いた。住宅街を行き、海里の自宅へと近づく。
「海里、海里ー?もうすぐ着くよー。」
時生は海里の肩を小さく揺らして、覚醒を促した。海里は幼い子どものように目をぱちぱちと瞬かせて、ぼんやりと時生を見た。
「おはよ。夜だけど。」
「おはよぅー…。」
舌足らずな声ではあるものの、海里は目覚めたようだった。海咲が小さく笑って、助手席から振り返った。
「海里ちゃん。団長には、私が挨拶に行くから安心してね。」
「助かります。」
海咲の言葉に、男二人は頭を下げるのだった。友人とはいえ男に大事な娘が送り届けられるのは、父親としていい気持ちはしないだろう。
やがて滑らかに車は海里の自宅前に止まる。海里と海咲が自動車を出ようとシートベルトを外し始めた。そして扉を開けようとする刹那、時生は海里の手に触れた。
「海里。」
海里は驚いたように、振り返る。
「今日は、ありがとう。色々と話せてよかった。」
「え?いえ、こちらこそ。ありがとうございました。楽しかったです。あの、上田さんも。」
運転席のミラー越しに喜一も微笑んで応えた。
「じゃあ…、おやすみなさい。」
そう言って頭を下げると、先に自宅前で団長と談笑している海咲の元へと海里は駆けて行った。海里の姿を見た団長は嬉しそうに彼女を迎え入れて、車内に残る時生と喜一に頭を下げたのだった。
送るのは駅までで良いと言う海咲を、駅前で降ろして時生たちはかぜよみ荘に戻る。古く、狭い階段前で喜一と別れてようやく時生は一人になった。
荷物を下ろして、冷蔵庫からお茶のペットボトルを取り出して一気に煽る。冷たいお茶が喉の内側を伝って胃に落ちていく感覚が気持ちよかった。
「…。」
ふう、と溜息を吐く。思い出すのは、海里の表情。海に浸かりながら、海里は涙を零しながら笑っていた。そして言うのだ、ごめんなさい、と。
『生まれてきたのが、私で、ごめんなさい。』
中学時代にいじめられ、無視をされ、孤立した過去は海里の口から次の言葉で聞いた。
『私なんかいてもいなくても変わらないのに。なのに、私が生まれてきてしまった。…私の片割れは首にへその緒が絡まっていて、窒息していたらしいです。』
辛い記憶そのものが、海里の存在意義を奪っていった。彼女はこれから先、絶望することが起こる度に自らの生に疑問を抱くのだろうと思うと時生の胸は張り裂けそうだった。
苦しかっただろうな、と苦しそうに海里は言う。
『前に、死体は愛しく感じると話しましたよね。あれには補足があるんです。私の最初の記憶は…、片割れの死体を抱いていたことです。』
海里にとって、死体と言う存在は片割れの兄か弟そのものなのだ。愛しく、慈しみ、微笑ましい存在。きっと祖母の遺体も洩れなくそのイメージと重なったのだと思う。だから、泣けなかった。
補足があると言ったが、補足なら僕にだってある。誰だって本当のことを全て話すだなんてことは、酷く難しい。
彼女の生きづらさを理解して、時生自身の生について話していいものかと迷う。迷いつつ、時が過ぎ八月中旬。季節はお盆を迎えるのだった。
「八尾くんはお盆、実家に帰らないんだ?」
喜一は実家に帰省するらしくたくさんのお土産を手に提げて、アパートを出るところだった。時生はコンビニからちょっとした買い物を終えて帰ってきたところ、たまたま見送る形となる。
「そうですね。割と近いんで、日帰りで行こうと思います。」
時生のささやかな嘘に、喜一は気付かない。
「そっか。いいなあ、うちは地方だからこれから新幹線。お土産のリクエストも多くて大変だよ。」
はは、と笑いながら、喜一は腕時計を見て慌てる。
「おっと、時間がやばい。じゃあね、八尾くん。いいお盆休みを。」
「ありがとうございます。上田さんも。」
そう言って、軽く手を振って見送った。喜一の姿が見えなくなると、一気に周囲は静かに凪いだ。部屋に戻ろうと踵を返した瞬間、ふわりと鼻腔をくすぐる線香の匂いに気が付く。周囲の家の仏壇から香ってくるのだろう。思い思いに、故人を迎え入れているのだ。
時の流れは等しい速さだと言うけれど、本当だろうか。皆、何故に礼儀正しく霊魂を迎える準備をつつがなく終えることができるのだろう。僕はこんなにも鮮明に彼らを覚えていて、未だに死んでいることが信じられないのに。
時生は真夏の陽光を背に自らの影を十秒ほど見、鮮やかな蒼穹に影送りをする。白い影の残像は両親が宙に揺られている影に重なった。両親は、足元で泣く時生をあやすように力なくゆらりと揺られている。ふと、視界が揺らぐ。時生は自身の頬を撫でるとそこには熱くサラサラとした涙が伝っていた。無言で涙の雫を拭って、手の甲についた水分を払う。
「!」
ボトムスのポケットに入れていたスマートホンが僅かに震えた。取り出してみると、液晶画面にはメールありの表示がされていた。この時点で時生は相手が海里であることに見当がつく。画面をタップしてメールの受信ボックスを開くとそこには案の定、海里の名前が表示される。そのたった二文字を目でなぞるだけで、心が落ち着いていくのが分かった。
『毎日、暑いですね。生きてますか。』
海里らしい、たった一行の安否確認メール。くく、と笑いながら、時生はメールではなく電話をすることにした。一回の発信音のすぐ後に、海里は電話に出てくれた。おそらく携帯電話をずっと見ていたであろう速度だった。
「もしもし、海里?」
『はい、私ですけど…。なんで、メールじゃなくて電話なんです?』
困惑する海里の声に時生はほっとした。寒い真冬に降る雪の中で、露天風呂に浸かったような感覚に似ている。
「うん、声が聞きたくて。」
だから、素直に心の声を漏らしてみることにした。
『…時生。泣いてるんですか?』
「泣いてないよ。」
時生の嘘を見破って、海里は大袈裟に溜息を吐く。
『今、どこにいるんですか。』
「え?どこって?」
だーかーら、と海里の声色に柔らかな感情が滲む。
『今から会いに行くので、居場所、教えてください。』
「悪いよ、そんな。」
言葉ではそう言うものの、時生の心は海里の魅力的な提案に傾いていた。
『今の時生に拒否権はありません。大人しく私に会って、慰められなさい。』
「…。」
時生は束の間、海里の母性に触れた気がした。その感情はいつも感じている自身の母親とは全く違う温度を孕んでいる。
そして次の瞬間にはアパート、かぜよみ荘の住所を告げていた。
『じゃあ、待っていてください。これから家を出ます。』
「海里。」
携帯電話を切られる前に、時生は海里を呼び止める。
「ありがとう。」
『直接、私に言ってください。では後ほど。』
今度こそ本当に通話は切れる。時生は握りしめすぎて温かくなったスマートホンをまるで生き物のように優しく見つめて、部屋の片づけをすべくアパートの玄関の鍵を取り出すのだった。
およそ三十分後。海里から最寄り駅に着いたとの連絡メールが入る。時生は待ちきれずに、駅に行くとだけ返信してアパートを出た。自転車に跨って、生温い風を切るようにペダルを力いっぱい漕ぐ。汗が吹き出しても、上り坂に息が上がっても速度を落とすことはなかった。
駅前の時計台の前に、海里はいた。
「…海、里!」
息を整える事すらせずに、熱い空気を吸って吐き出すと同時に名前を呼ぶ。海里は驚いたように顔を上げて、時生の姿を確認して微笑んだ。
「時生。会話はさっきぶりですね。」
「うん…。」
慌てて出てきてくれたのだろう、海里の服はいつになくシンプルな黒いワンピースだった。そんな些細なことが抱きしめてしまいたくなるほど嬉しくて、でも海里が嫌がることをしたくないので理性で押しとどめる。
「どうする、どこか喫茶店に入ろうか。」
「え、時生のアパートに行かないんですか?」
一人暮らしの男子の部屋になんて行きたくないだろうという時生の配慮は、海里の無邪気さに呆気なく崩された。
「うん、じゃあ…行こっか。」
「あ、自転車なんですね。」
時生の傍らの自転車に気が付いて、海里は二人乗りをしてみたいと言った。快諾して、時生は自転車の後部に海里を座らせて再び、ペダルを踏んだ。最初こそグラグラと揺れたが、スピードに乗ってしまえば違和感なく走行が可能になった。時生の腰に回された海里の手がぎゅっと強く、Tシャツを掴んでいた。
「迎えに来てくれて、良かったです。私、方向音痴なので。」
「駅からは自信がなかった?」
はい、と頷く海里の頬が時生の背中を掠る。服の布越しに感じる体温が愛おしかった。
かぜよみ荘の駐輪場に辿り着いて、二人は自転車を降りる。時生が自転車に鍵をかけている間、海里は物珍しそうにあちこちを眺めていた。
「時生はここに住んでいるんですね。」
「古い建物で驚いたでしょ。」
時生は苦笑しながら、一階の自分の部屋の玄関を開けた。
「どうぞ。狭いし、散らかってるけど。」
そう言って、海里を招き入れるのだった。玄関で靴を脱ぐと几帳面に二人分の靴をそろえる海里を見て、彼女の育ちの良さを感じる。脱ぎっぱなしのままが多い時生は見習おうと思う。
部屋に入ると、海里はほうと溜息を吐くように標本が置かれた棚に釘付けになった。
「時生、この標本は何てヘビのもの?」
「アオダイショウだよ。中学の時に登山した時、死体で見つけたのを拾ってきた。」
海里は爬虫類にも怖気づくことなく興味深そうに眺めている。時生が、手に取って見ていいよ、と促すと海里はおずおずとガラスの壊れ物を扱うようにそっと触れた。
「ヘビの骨格標本って、上等なレースのリボンみたいで綺麗ですね。」
「レースのリボンという発想はなかったなあ。」
はは、と笑い、時生も海里の掌の上の標本を見た。今まで何気なく眺めていた物も、海里の言葉一つで優雅な美術品に変わった。
それからも海里は子どものように、これは?と質問を繰り返し、時生が丁寧に答えていった。
「…すみません。つい、興奮してしまいました。」
一通りを見終えて海里はようやくその好奇心が収まったようだ。
「いいよ、別に。興味を持ってくれて嬉しかった。」
「いえ。今日は、このために来たのではないので。」
海里は居住まいを正すように背筋を伸ばして、時生と向き合う。時生との身長差から海里は見上げる形になった。
「時生。大丈夫、じゃなくてもいいから、一人で泣かないでください。」
「大丈夫じゃなくていいの?」
とりあえずは、と海里は頷く。
「何でもいいので、とにかく一人で泣くな。私を呼べ。」
「…はい。」
急な命令口調に驚きつつも、今度は時生も頷いて見せた。
「いいですか。こんな天気の良い日に何か辛いことがあって、一人でいるなんて心が死にます。致命傷ですよ、致命傷。自分で気付け、バカ。」
「酷い言われようだな。」
海里の毒舌に、時生はくすっと笑う。
「時生、抱きしめてあげるからこっちに来なさい。」
そう言うと、海里は時生に向けて細くしなやかな腕を向けて、両の掌を差し出すように広げて見せた。
「…。」
あまりにも甘美な誘いに抗えず、時生はゆらりと揺れる柳のように海里の腕の中に納まる。すると海里は、きつく強く、もう離さないとばかりに抱きしめてくれた。柔らかい胸が押し付けられて、甘いミルクのような香りに包まれた。小柄な海里の頭を自らの顎の下に、時生もぎゅっと抱きしめ返す。
「僕、格好悪いね。」
「格好良かったこと、あります?」
束の間考えて、時生は首を横に振った。
「無いな!」
声に出して笑う。海里は時生の胸の内で溜息を吐いた。
「ごめんなさい。ありますよ、ちゃんと。自ら諦めないでください。」
「あるのか。いつ?」
海里が笑う気配がする。くすくすと笑むたびに、頭が小刻みに揺れた。
「内緒にしておきます。へこんだら教えて貰えると思われても、癪なので。」
「そこは甘やかさないんだね。」
抱きしめ合いながら、笑い、囁き合う。声が身体の中に響き渡り、体温を服の布越しに分け合って、互いの身動きを制限しているとまるで二人で一つの身体を共有しているような気になった。
「ところで、なんだけど。」
時生はふと思い立ったことを口にしてみる。
「僕が落ち込んでいる理由は聞かないんだ?」
「興味がないので。」
ネガティブなことに、との補足を得られて時生は納得する。その興味意識はとても心に健全だと思った。
「聞いてほしいですか。」
「…ううん。」
お盆だから両親の霊を迎え入れてあげないとね、という中学生のときの担任が時生に放った言葉が未だに心に巣食っていた。両親は、本当に時生に会いたいと思うだろうか。僕は生まれてきてはいけない子どもなのに。
時生の父親と母親は、兄妹だった。
両親の父親、時生の祖父に当たる人の虐待によって児童相談所から保護されたのだと二人の兄であり、時生の叔父が言う。叔父と時生の父が一緒の施設、時生の母一人が違う施設で過ごすことになったらしい。やがて月日が流れて、双子だった二人は互いの関係を知らずに出会ってしまったらしい。祖父母の離婚によって別性になったことも要因だった。二人は惹かれ合い、時生を母が身籠った。中絶ができないほどに膨らんだお腹を抱えて、時生の父と母はやっと気づかされた。自分たちが、双子の兄妹だということを。
『忌々しい子め。お前なんかが生まれなければ。』
両親の十三回忌に初めて会った祖父に自らの出生について聞かされた時生は絶望した。時生を育ててくれていた叔父は彼の仕打ちを聞いて、祖父と絶縁した。そのこともまた、時生を苦しめることにもなったのだけれど。
家族を壊してしまった。
ごめんなさい、と思う。生まれてきて、生きていて、ごめんなさい。
時生にとって自らの生は、悪で、害で、罪だった。誰かに懺悔したいと思っても赦されることでもない。
「海里は、お盆だけど墓参りとか行かなくていいの?」
だから、僕は誤魔化すことにしたのだ。
「私の家のお墓は、市内のお寺にあるので午前中にもう行ってきました。帰省の混雑には無縁なんですよ。」
「そうなんだ。楽でいいね。」
抱き合う二人のBGMに近くで、花火が鳴る音がした。その音は近所の神社で行われる盆踊りの開始の合図だった。数分後には祭囃子と軽快な笛の音、太鼓の音が響いてくる。
「そういえば、今日、夏祭りだったな。」
時生が夕方近くのノスタルジックな空の色を確認するように頭を動かして、窓の外に視線を向けてみる。
「行ってみません?」
海里の声音に喜色が滲み、見上げるように時生を見る。
「門限は?」
「午後七時です。大丈夫、まだ二時間は猶予があります。」
時計を見ると、午後五時の少し前だった。じゃあ、と時生は名残惜しいながらそっと海里を放した。
「急いで、今から行ってみようか。」
サンダルを引っ掛けて、二人はかぜよみ荘を出る。神社に向かっていると同様に近所の人々現れ始め、楽しいお祭りムードは高まってきた。
小さな女の子が浴衣のくしゅくしゅしたリボンのような帯を金魚の尾のように揺らしながら、父親と手を繋いで歩いている。一方で甚平姿の小学生の男子たちが連れ立って射的の腕自慢をしながら、駆けていく。年頃の女性は少し大人びた菖蒲の柄をした浴衣に身を包み、髪型をやたら気にして前髪を弄っていた。きっと恋人、もしくは片思いのあの人との待ち合わせをしているのだろう。
神社に到着すると提灯の朱色が頭上に輝いて、屋台グルメのソースの匂いや焦げる音が広く響き、アルコールを嗜んだ祭り男たちが大声で騒いでいた。やぐらを囲むようにして盆踊りを披露する育成会の女性陣、頬を上気させながら太鼓を叩く少年。いつものひっそりとした神社とは打って変わって、賑やかな場だった。
「すごい人ですね。」
「海里。」
人の波に溺れそうになる小柄な海里を見て、時生は自然と手を差し伸べていた。
「ありがとうございます。」
海里も何の違和感もなく、時生の手を握る。海里の手は小さく、僅かにしっとりと汗ばんでひんやりしていた。離れないように、迷わないように二人は強く指を絡め合う。
「あ、時生!金魚すくい!やりたい!!」
幼子のようにはしゃぎ、海里は時生の手を引いた。時生は普段とのギャップに苦笑しながら、ついていく。金魚すくいの華やかな水槽の前に立って海里は早速、ポイを購入して身構えた。
「えい。」
ちゃぽん、と勢いよく水に突っ込んでいき、呆気なく盛大にポイに穴を開けている。
「海里、ゆっくり水に入れないと。」
クスクス笑いながら、購入したポイで時生も参戦する。
「水平に動かして、こう。」
水の抵抗を考えたスマートなポイさばきで軽やかに金魚をすくって見せると、海里の目色に尊敬の念が滲んだ。今までに感じたことのない視線に時生はくすぐったく、肩をすくめる。
「おじさん、もう一回!」
再度、ポイを購入して海里は時生に続いて、今度は慎重にポイを水中に下ろしていく。が、動かす際に負荷が掛かったのか、またまた金魚に触れる前に穴が開いてしまった。
「難しーい。」
「がんばれ、海里。」
膝の上に頬杖をついて時生は海里を見て笑む。出会ったのが春の四月で、この四か月の間に本当に色々な表情を見せてくれるようになった。怒った顔、笑った顔、呆れたように零す溜息や真剣な眼差し。全て、全てが愛おしい。いつの間に、こんなに好きになったのだろう。柔らかい感情を噛み締めつつ、時生は海里を見つめていた。
結局、海里は一匹も金魚をすくえずに残念賞として、屋台のおじさんが一匹おまけでくれたのだった。
「一匹だけになると、寂しいものですね。たくさんいた時はあんなにワクワクしたのに。」
小さなビニール袋で泳ぐ金魚を眺めながら、海里は呟く。
「じゃあ、僕のもいる?」
時生はあの後、続けて二匹をすくい上げて終わった。三匹の金魚を手に、海里に差し出す。
「いいんですか?じゃあ、この子、寂しくないですね。」
嬉しそうに頷いて、海里は時生から金魚を引き受けた。
「お礼にりんご飴、買ってあげます。」
そう言うと、海里は毒々しいまでに赤いりんご飴の屋台に時生を連れて行った。そして二本を買い求めると、時生に一本を手渡した。
「ありがとう。」
時生は久しぶりに、お祭りの毎に目にするりんご飴を口につけて、がりり、と歯を立てる。
「いきなりですか!」
「え?まずかった?」
海里が驚愕したように目を丸くした。
「りんご飴は飴の部分を舐めて、甘さに慣れてきたら酸っぱいりんごをかじるものです。」
どうやら海里なりの食べ方のこだわりがあるようだった。海里に文句を言われつつも、時生は早々に食べ終えてしまった。一方で海里の食べ方だと時間が掛かり、歩きながら食べるのも危ないという話になり神社の境内へと避難することにした。
祭囃子から少し離れた境内は薄暗く、静かだった。ここから見る盆踊りのやぐらは水底から見る太陽によく似ていた。時刻は六時。海里の帰宅にかかる時間を考えれば、あと三十分も時間はない。
海里は小さな舌に赤い飴を乗せて、懸命に舐めるも中々食べ終わらない。飴の層を舐め終えるとようやく、かり、とりんごを食む。小動物みたいだなと眺めながら時生は思う。
「…あの。」
「ん?」
海里がふとりんご飴から顔を上げて、時生を見た。
「食べづらいのですが。」
そんなに見つめられると、と言葉を紡いでりんご飴のように頬を紅く染める。
「美味しそうだね。」
「? 食べましたよね?」
時生はゆらりと動き、海里の頬に口付けた。滑らかな肌が唇を通してわかる。
「な、にを、」
海里は金魚と同じく口を開閉して、頬に手を添えて後ずさった。そのはずみで、りんご飴は地に落ちる。金魚だけは大事に抱えていて無事だった。
「ごめん。」
「ごめん、て。いや、頬!?」
時生は海里の悲鳴にも似た言葉を拾って、小首を傾げる。
「頬じゃなかったら、どこ?」
「意地悪ですか?いや、天然か…。あーあ、りんご飴が。」
幾分か落ち着いた海里が溜息を吐いて、りんご飴を拾おうとしゃがみ込む。時生も一緒にしゃがみ、隣に膝をついた。
「これは、蟻にプレゼント行きですかね…。」
「ねえ、海里。どこ?」
え、と再び、海里は時生を見る。
「どこならよかった?」
「…っ!」
瞬間、海里は両手で唇を隠す。手首にかかる金魚が入ったビニール袋が揺れた。
「そこ?」
時生はゆっくりと海里の緊張を解すように、左手で頬を撫でる。そしてやんわりと海里の掌を退かす。唇はりんご飴の名残で赤く染まっていた。ペンギンのように歩み寄って、時生は海里との距離を詰めた。じゃり、と足元の小石がサンダルの底裏で擦れる。
海里はじれったそうに目を伏せて、ふと息を漏らす。再度、互いに目が合い、もう確認はいらなかった。
そっと二人の影が重なる。
唇と唇が触れ合って、吐息が交わった。りんご飴の糖分が残る海里の舌が僅かに時生の唇をかすめる。温かく滑っていて、甘い味に酔いそうになった。ちゅ、ちゅ、と音を立て吸い付く唇を離しては、またくっつける。磁石のように惹かれあうようだった。やがて時生は唇の先を食んで、熱を測るように額をつけたまま名残惜しく、海里を解放する。
「時間、そろそろだよね。駅まで送るよ。」
「…はい…。」
海里は熱に浮かされたように潤ませた瞳を瞬かせて、頷いた。
手を繋いで、神社を出る。かぜよみ荘に辿り着くまで、二人は無言だった。
「二人乗りでいい?」
そう言って時生は先に自転車に跨って、海里に後ろに座るように促す。大人しく来た時と同じように海里は横に座って、時生の腰に腕を回した。時生がペダルを踏みゆっくりと流れていく風景は、今までと違う輝きを以てして目に映る。一番星を伴って、猫が笑ったような口の三日月が空に浮かんでいた。空色はカクテルのようにとろりとした朱色から、群青色に変わりつつある。
駅前の駐輪場に自転車を止めて、時生は駅の改札まで海里を見送る。ICカードをかざして、ホームに向かうかと思ったら海里はふと立ち止まった。くるりとターンを踏むように振り返って、たたた、とリスのように時生に向かって駆けてくる。
「?」
時生が振りかけた左手を止めて海里を迎え入れると、駅構内とロータリーを繋ぐ改札口を乗り越えるように上半身を持ち上げて。そして、時生にそっと口付けるのだった。その一瞬、時間と音が止み、目の前に星が弾けるようだったことを覚えている。
「おやすみなさい。」
「…おやすみ。」
今度こそ、海里はホームに向かって行ってしまう。階段を駆け上がり、見えなくなる刹那。振り返り、微笑んで時生に手を振った。
彼女が乗る電車が発車した後も、時生はしばらくその場で佇んでいた。
門限ギリギリに帰ってこられたことをほっとしながら、海里は入った風呂を出る。
「お父さーん。お風呂、空いたよ。」
髪の毛から滴る水分をタオルで拭いながら、リビングの父親に声をかけた。
「そうか。じゃあ、入ってくるか。」
読んでいた新聞紙を畳んで、父親は腰を上げた。入れ違いに海里はソファに座って、扇風機を自らに向けて風量を上げる。火照った肌に涼しい風が当たって心地良い。
「今日、ひどく慌てて出ていったけれど、何だったの?」
母親が海里に冷たい麦茶を手渡しながら、海里に問う。
「えー…、ボランティア?」
ありがとう、と言い、受け取った麦茶を飲みながら答えると母親はくすりと笑った。
「なんで疑問形なのよ。いいわ、当てちゃう。男の子関係じゃない?」
「エスパーかよ。」
海里は恥ずかしそうに唇を尖らせると、母親は嬉しそうに身を乗り出してきた。
「わかっちゃうのよねえ、これが。えー、誰?お母さん、知ってる人?」
「…お母さんは知らない、と思う。」
てことは、と目を輝かせて母親は更に海里に問い詰める。
「お父さんは知ってるの?やだー、出遅れたわ。うん?と言うことは、劇団の子かしら。」
海里は首を横に振った。
「高校の先輩。」
「なんでお父さんが知ってるのよ?」
無くした台本を劇団の練習場まで届けてくれたことを説明すると、首を傾げていた母親は目を輝かせた。
「ひょっとして、八尾時生くん?」
「え、ちょっと待って。どこまで情報共有してるの?」
思いがけず母親の口から吐いた時生の名に海里は動揺を隠せない。
「お父さんが海里の友達が来たって喜んでいたけれど、そうかあ。友達じゃなかったかー。」
「友達…だけど。」
今度は海里が首を傾げた。すると母親は驚きに、目を張った。
「彼氏じゃないの!?」
「お母さん、声が大きい!」
慌てて二人で口を噤み、風呂場にいる父親の気配を伺う。僅かに鼻歌が聞こえてくるあたり、リビングで繰り広げられている女子トークは知られていないようだ。
「彼氏って…、いや、でもな…。」
海里は時生から直接、好意が含まれた言葉を聞かされていないことを思い出す。以前、『恋人』の単語を口にしてはくれたものの、その場をごまかすためだと言えばそれはそれで納得してしまうほどの曖昧なニュアンスだった。
「…キスをしたら、彼氏?」
海里はキャミソールの裾をぎゅっと握って、蚊の鳴くような小さな声で呟いた。母親は女性として、人生の先輩としての顔に変わる。
「少なくとも、友達ではないわね。」
「そ、そっか…。」
友達以上恋人未満という状況がまさか己の身に降りかかるとは思わなかった。海里が思考の整理に時間をかけていると、母親は感極まったように目元を押さえた。
「何故、今、泣く?」
海里は母親の挙動に驚いてカタコトになる。
「だって、嬉しいじゃない。娘と恋バナをするの、お母さんの夢だったんだもん。」
「だもん、って言われもな。」
呆れる海里に、でもね、と母親は言葉を紡ぐ。
「節操のあるお付き合いをしなさいね。避妊はちゃんとするのよ。話の流れから察すると告白はまだなのかしら。心配だわ。」
「あー…。」
告白よりも先にキスをしたという話は、些か母親を不安にさせてしまったようだ。
「ごめん、お母さん。ちゃんとする。今度会ったら、きちんと話をするから。」
これから手を繋いだり、ハグをしたり、キスをしたり、さらにその先に進むとしてもこの関係には名前を付けた方が健全であるだろう。
「頑張ってね、海里。で、良かったら八尾くんを家に連れてきてちょうだい。」
海里の手を握って、母親はよろしくねと念を押す。説教でもするつもりなのかと思ったらどうやら只々、時生という男の子を見てみたいという好奇心らしい。我が母親ながらミーハーと言うか、野次馬根性たくましいと言うか。
そこまでで話に決着をつけると、丁度良く父親が風呂から上がり機嫌よくリビングに入ってきた。
「海里ー。洗面器にいる金魚に餌を与えてもいいかい?」
今、水槽に溜める水のメンテナンスをしている最中で、祭りから連れ帰ってきた金魚たちは洗面器で待ちの状態だ。以外にも金魚を喜んだのは父親で、積極的に世話を買って出てくれている。
「ん?どうした?」
リビングに漂う空気を敏感に感じ取って父親は首を傾げたが、当然、今までの話は海里たち女の秘密だ。
「何でもないですー。あ、金魚に餌は与え過ぎないようにね?太っちゃうから。」
「そうか。太った金魚ってかわいいと思うんだがなあ。」
海里はピンポン玉のように膨れた金魚を想像した。
「…かわいい、かも。」
そうだろそうだろ、と頷く父親は満足気だった。
団らんを終えた、その日の夜のこと。海里は寝る仕度を整えて自分の部屋に行き、扉を閉めた。自分一人だけの空間になって、海里は夕方の時生とのキスを思い出していた。
あんなに人の唇が気持ちいいだなんて、思いもしなかった。柔らかくて、温かくて、少し震えていたのはどちらのせいだったか。
胸の内側からぎゅっと握られたかのような、甘い疼痛が海里を襲う。
「~…っ!」
心臓の鼓動を落ち着かせるようにその位置を手で押さえて、扉に寄り掛かりながらずるずるとしりもちをついた。きつく目を瞑って、頬を軽く二回叩く。はあ、と呼気を漏らして、海里は四つ足になってテーブルまで這って行った。そして、置いてあった携帯電話を手に取る。かちかちと操作して、メールの送信フォルダを引っ張り出した。そして一通のメールを認めて、震える指で送信をした。
『今度、いつ会えますか。』
それは、時生に宛てたメールだった。まだか、まだかと返信を待つ間、携帯電話からそろそろスマートホンにしても良いかもなと思いつつあった。
もっと気軽にチャット感覚で会話できるアプリを使ってみたい。綺麗に写るカメラで思い出を切り取りたい。あわよくば、機能の使い方を教わるふりをしてもっと近づきたい。
必要最低限の機能が付いていればいいと思っていたが、欲張りになる自分がいた。だが、嫌な気分ではない…と思ったところで、着信を告げるメロディーが鳴った。
『高校の一般開放日に図書室で会わない?五日後になるけれど。』
五日後、自らの気持ちを整えるには丁度いい猶予だろう。海里はすぐに了承した旨をメールで伝えた。
しばらく携帯電話の文面を眺めて、海里は再びテーブルに置いて自分はベッドに寝転んだ。扇風機が回る音、蚊取り線香の香りが僅かに漂っている。三日月ながら、今日は月光が明るい夜だった。部屋にタオルケットに包まって自分を自身で抱くように丸くなって、眠りに落ちていった。
海里の名前を何度も、何度も繰り返し呼ぶ優しい時生の声が響く。それは雫が落ちた水面に浮かぶ波紋のように広がっていく。
時生の手は恐る恐る海里の頬に触れて、口先に唇を落とす。手の指が絡まり合い、吐息も何もかもを緩やかに穏やかに食い尽くされていく感覚を得た。
抱き合い、素肌と素肌が密着するように触れて、融け合っていった。
「…っ!」
海里は飛び起きた。心臓が大きく脈打って痛いほどだった。ベッドサイドの時計を見ると早朝の四時を少しすぎたところで、部屋の中は水槽の中のようにまだ蒼く薄暗い。
「何て、夢を…。」
祈るように両手を合わせて口元を覆う。まだ経験はないけれど、今の夢はセックスをする夢だ。痛みのない、ひたすらに快楽だけを得る行為の内容に海里の身体の奥が熱を持ったように疼く。
今日は初めてのキスをした日から五日後。時生と会う日だ。特別に意識しないように、いつもの自分で会うためにこの猶予を最大限に利用してきたはずなのに、いよいよ当日で最大の爆弾が投下されてしまった。
まだ高鳴る心臓を落ち着かせるために一杯の水を求めて、海里は階下に降りてみることにした。しんとした廊下を歩き、両親を起こさぬように静かに階段を下る。リビングを抜けて、キッチンに立ち水道からコップに並々と水を注ぎ、仰いだ。
ふと溜息にも似た呼気を漏らし、もう眠る気にもなれずに海里はリビングのソファに腰掛けてみた。冷蔵庫が唸る音と共に、水が循環する音が聞こえる。ソファの後ろの出窓には金魚が住む水槽が置かれていた。海里は背もたれに頬杖をついて金魚を眺める。
四匹の金魚たちは優雅な尾鰭を翻して、朱色の金魚を輝かせていた。水の白い泡が弾けていく様はあの海の中を思い出させた。
底の知れぬ海は怖かったけれど、時生が一緒に海で浮き輪を以てして漂ってくれた。ゆらゆらと揺れる水面は温かく、思わず海里は胎内の記憶のことを吐露してしまっていた。時生はバカにすることもなく、引くこともせず真摯に聞いてくれたのは記憶に新しい。
嬉しかった。双子で生まれるはずだった片割れの生が認められた気がした。
海里はこつんと金魚の水槽を突いてみる。振動に反応した金魚が餌の時間と間違えて、水面を食む様子が可愛らしかった。
水の音と金魚の癒しから、とろりとした眠気が海里に訪れる。二階の自室に行く気にもなれなくて、海里はうとうととソファで横になって微睡むことにした。
カタン、と新聞紙が配達員により郵便受けに届けられる頃、父親はいつも起き出す。パートナーを起こさぬようにベッドから出ると、のそのそと熊のように着替えを済ませた。階下に降り、郵便受けの新聞を取ってリビングに向かう。
「…おっと。」
あくびをしながら扉を開けると一番に、何故かソファで眠る娘が目に入った。海里は胎児の様に丸まって、健やかな寝息を立てている。
「…。」
父親は辺りを見渡して、母親が使うひざ掛けを持って来て海里の身体の上に被せた。ひざ掛けが肌に触れた瞬間、海里はごそりと身動ぎ、起こしてしまったかと思ったがどうやらまた眠りに就いたようで安心する。
ふと、海里の左手首の傷痕に目が行く。生々しい血が滲んだ当時の傷を思い出す度に父親の胸は張り裂けるようだった。本人は衝動的なもので死ぬ気はなかったと言うが、自分の娘が自傷するほどに思い詰めていたことに気が付けなかった自分が憎い。本当に、本当に死ななくてよかったと心から安堵した。海里の自傷行為はその一回だけだったが、いつ、繰り返されるかもしれないと人知れず怯えていたのは内緒だ。
海里は最近、また良く笑うようになった。滲む嬉しさに、手先足先の指から温くなっていくようだった。
「よかったなあ…。」
ポツリと呟いて父親は海里の小さな頭を撫で、目覚めのコーヒーを淹れるべくキッチンに向かった。
午前十時の待合わせに間に合わせるために、駅から出た海里は駆けていた。ソファのうたた寝は意外にも気持ちよく寝過ごしてしまったのだ。
「…っは、…、」
呼吸が乱れる。空気は熱く蒸していて、喉の奥から鉄のような味がする。途中、立ち止まってしまうが何とか心を奮い立たさせて、身体に鞭を打って再び走った。やがて校門が見えてきた。信号の赤を恨みがましく見つめて、青に変わった途端にラストスパートをかける。
昇降口を抜けて靴を履き替える。図書室に向かうまでに何人かの近所の住民らしき人々とすれ違い、その度に注意を受けない程度に速度を落とした。そうして図書室の前にやっと辿り着く。
「…。」
海里は深呼吸を繰り返して、息を整えた。流れてくる汗もハンカチで拭い、自らの服に乱れがないか最終チェックをする。右を見て、左を見て、頷いてようやく扉に手を掛けたのだった。
ガラリ、と引き戸の音が響き、空調が効いている図書室から涼しい空気が足元から伝うように溢れ出てくる。滑るように進んで、時生の気配を探った。時生は窓際の一番奥の席に腰掛けていた。横顔は凛々しく、本のページをめくる指は長い。午前の光に透けてアンバーブラウンに髪の毛先が輝いている。思わず、声を掛けるのをためらうほどにその姿は、静かな風景に馴染んでいた。
「…!」
ふと、海里の視線の熱に気が付いたのか時生が顔を上げる。
「海里。」
微笑み、柔らかい声音で自らの名前を呼ぶ時生が、早朝に見た夢の中の時生と重なってしまう。海里は咄嗟に後ろを向いて、瞼をぎゅっと閉じた。心臓よ、落ち着いてくれと思う。
海里の挙動を不思議に思った時生が席を立つ気配がした。
「どうしたの?」
すぐ背後に立たれて、ひょいと顔を覗き込まれる。海里がぎこちなく顔を背けると、くすりと時生が笑った。
「ひゃ!」
時生がいたずらをして、海里の背筋を人差し指でなぞったのだ。肌がぞわりと粟立って、海里は短い悲鳴を上げる。すぐに場所が図書室だということに気が付いて、慌てて口元を覆った。そして時生を軽く睨む。
「ごめん、ごめん。海里があまりにもかわいいから。」
「…いつの間に、かわいいって自然に言えるようになったんですか。」
ようやく普通に話せるようになって、海里は時生と向き合った。
「えーと…、五日ぶりですね。」
「うん。そうだね。」
話ながら先ほどまで座っていた席に戻って、時生は海里に隣に座るように促す。
「窓際がいい?」
「日焼けするから、ここでいいです。」
海里は自らの腕を身ながら答える。補習授業の間に焼けた片腕の肌ケアが大変だったことを思い出して、苦々しく思った。時生は、そう、と頷いて再び、本の表紙を開く。
「…何の本を読んでいるんですか?」
「ん?野生動物の写真家のドキュメンタリーだよ。」
そう言って見せてくれた本は、その写真家が撮ったのであろう銀色の狼の写真が表紙を飾っていた。金色に、緑の虹彩がひまわりのように美しい瞳の狼だと思った。
「海里はちゃんと宿題を持ってきた?」
「…持ってきました。」
図書室で会おうという約束には続きがあって時生は、宿題を見てあげる、とメールの追伸部分に書いていた。
「時生はもう終わったんですか、宿題は。」
「三年生だからね、そんなにないんだ。」
それにしても随分と時生は余裕綽々だ。海里は首を傾げて問う。
「…受験は?」
「僕は専門学校志望だから、あまり関係ないなあ。」
時生は写真の専門学校に通いたいのだという。だからポートフォリオ用の撮影が迫られているらしい。
「さて、じゃあ始めようか。」
海里は苦手な数学をはじめとして時生に教わりつつ、宿題を片付けるのだった。一時間を目安に十分の休憩を入れる。それを二回繰り返して、昼食を摂りに図書室を出ることにした。
「つーかーれーたー…。」
海里はぐったりと学食の机に突っ伏した。海里たちが通う高校の学食は安さゆえに人気で、周囲には一般開放を利用した生徒以外の人間もちらほらと窺えた。
「頑張ったね。」
時生は海里を労い、飲み物を奢ってくれた。いつものペットボトルの紅茶飲料だった。海里が一口、口をつけると時生も分けてほしいと乞う。
「どうぞ。」
「ありがと。」
そう言って、時生はペットボトルに躊躇なく口をつけた。海里がその様子を何気なく見つめていると、時生の唇が目に入った。そして、この唇にキスをしたんだなあ、と間接キスをして思う。ペットボトルを返されて、海里は口を開いた。じっと時生を見つめて、声は擦れることなく滑らかに発することができた。
「ねえ、時生。」
―…私たちの関係って何?
「…。」
海里のささやきにも似た呟きに、時生は押し黙り、そして。すう、と息を吸い込んで時生は苦しそうに顔を歪ませる。
「ごめん。」
周囲の賑わいが一歩遠ざかったような気がした。
海里は環状線の電車に乗って、周回していた。涼しい車内で揺られて、思考回路もぐるぐると廻るようだった。
時生は本当に苦痛を伴ったように、唇を噛み締めていた。大体のことでは傷付かない自信はあったが、言葉より何より、そんな表情をさせてしまったことに海里は胸が抉られたようだった。
『ごめん。』
そんな顔をしないで、と思う。そんな目で見ないで、とも。
たった三文字の言葉が鼓膜を突き破って、脳内に木霊する。時生が表情を歪ませている中で、彼の眉毛がきれいだなと現実逃避をした。そして瞳に海里自身の姿を見つけて、やっと我に返る。
「…。」
その一言で、海里は距離感を間違えたことを悟った。時生が次の言葉を紡ぐ前に海里は席を立っていた。追われる前に荷物を持って出てしまったから、時生は驚いただろう。
車窓の外を眺めていて景色が歪んだことに気が付いて、海里はそっと指で頬に触れた。瞳からほたほたと涙が零れて、肌をしっとりと濡らしていた。
「一ノ瀬ちゃん?」
「!」
急に名を呼ばれて、海里は弾かれたように顔を上げる。そこには喜一が立っていた。いつの間にか大学前の駅に到着していた。
「やっぱり一ノ瀬ちゃんだ。一人?」
「…は、い。」
慌てて涙を拭うと、喜一は海里の泣き顔を見ないように違う方向を見つめてくれていた。
「毎日、暑いね。」
などと世間話をして気を紛らわせてくれるところに、年上の余裕を感じた。
「あの…。今日、海咲さんは?」
「海咲?今頃はバイトの時間かなあ。ちなみに俺はね、ゼミの先生に質問があって実家から直接大学に寄って、その帰りなんだ。」
よく見ると確かに背負うリュックは大きめで、手には喜一の地元のお土産らしきものが下がっている。やっと海里が喜一を見る心持ちになったことに、ほっと安堵しているようだった。
「何かあった?」
そう言って、される心配は弱った心に気持ちよかった。言わないけれど、海里は海咲を姉のように慕っていた。そして連動するように、その彼氏である喜一も他人には思えなかった。
「…。」
何から話せばいいかを迷い、口を開いては閉じる。その間も喜一は何も言わずに待っていてくれた。駅を二駅ほど過ぎて、喜一は電車に備え付けられている液晶パネルを見た。
「あ、最寄り駅はどこ?ちょっと落ち着いて、喫茶店にでも行かない?」
このまま一周するのもいいけど、と喜一は笑った。海里自身の最寄り駅を告げると、喜一は付き合って一緒に下車すると言う。
「すみません…。」
「なんで、謝るの。」
駅に着き、電車を降り、二人連れだって改札を抜けた。駅前にあったチェーン展開されているコーヒーショップに入る。
コーヒーが苦手な海里はアイスココア、喜一はソイラテを注文して席に着いた。
「夏にホットって暑くないですか?」
「俺、店内の冷房で身体冷えやすいんだ。」
少なくとも身体が冷えることを前提に飲み物を注文してくれたのかと思い、海里はひたすら恐縮する。
「さて、と。上田喜一のお悩み相談コーナー、始めちゃうよ。」
おどけたように言い、海里が話しやすい空気を作ってくれた喜一に甘えて海里は口を開いた。
「あの、男の人ってどういうときにキスするんですか?」
海里の思い切った問いに、喜一は目を丸くして次に口元に手を当て考え込む。
「キス?キスねえ…。そりゃ、相手を愛おしく思ったときとか…。」
「他には?理由ってあったりします?」
海里は縋るように喜一に訊く。
「まあ、衝動に駆られることがないわけではないけど。それでもやっぱり、好きな子にしかしないんじゃないかな。」
「…じゃあ、なんで…。」
再び、海里の瞳に涙が浮かび、ほろりと零れた。喜一は机の隅のナプキンを取って手渡してくれる。
「なんで、謝る、の。」
海里はナプキンを受け取って、涙を拭いた後にぎゅっと握りしめた。
「謝る?相手が謝ってきたの?」
喜一は驚いて、海里はこくりと頷いた。
「それはー…、厄介な相手に捕まったね。」
苦笑しながら、喜一は腕を組む。
「その子はさ、きっと…。一ノ瀬ちゃんを好き過ぎるんじゃないかな。」
「?」
海里は小首を傾げて、次の言葉を待つ。
「男って怖がりなところがあるから。恋人へのステップ踏むのを躊躇したんだよ。」
「普通、キスまでしたら腹をくくりません?」
そこが相手の厄介なところ、と喜一は言葉を紡ぐ。
「別れることを先に想像しちゃったんじゃない?で、それなら友人のままがいい。みたいな。」
「何だそれ。」
海里は喜一の推測を聞いて、それが本当なら、と心底呆れた。生まれた瞬間の赤子が、いきなり死に憂いるとでも言うのだろうか。あまりの先走りの早さに、海里は笑ってしまう。
「そうそう。案外、何それって理由だったりするんだよ。まあ、俺も八尾くんには説教しとくから、長い目で見てやって。」
はい、と頷きかけて、海里ははたと止まる。そして、そろそろと喜一を見た。その視線の意味に気が付いた喜一が首を傾げた。
「ん?八尾くんじゃなかった?」
名前を伏せていた筈なのに、速攻でバレていて海里は羞恥に頬を染めるのだった。
飲み終えたカップをダストコーナーで捨て、店を出る。冷房で冷えた肌が真夏の太陽に温められて心地よかった。
「今日は、ありがとうございました。」
海里は喜一に向かって頭を下げる。喜一は笑いながら、その頭をぽんと撫でた。
「頑張って。…あ、そうだ。メルアド、交換しようよ。いつでも相談に乗るよ。」
そう言いながらスマートホンを取り出す喜一に釣られて、海里も携帯電話を取り出した。言われるがままにメルアドを交換して、海里は喜一と別れた。
かぜよみ荘の集団の郵便受けの前で段差に腰掛けながら、時生は猫と戯れていた。白と黒のブチ猫は夏なのに福福に太っていて、ごろんごろんと地面に身体をこすりつけている。その柔らかい腹を撫でながら、想うことは海里のことだった。
ごめん、と言った自分の言葉に海里は傷ついた。当たり前だろう。女の子の唇を奪っておきながら、何て卑怯なんだろうと思う。
一人で勝手に決めてごめん。だけど愛されて育ってきたかけがえのない存在を僕がこれ以上、穢していいはずがない。
「…。」
溜息が漏れて、猫が時生を見る。猫はつまらなそうにあくびをして、駆けて行ってしまった。その行方を目で追うと、先にいた人物と目が合った。
「よ。悩める少年。」
喜一が片手を上げて、時生に話しかけた。近づいてくると、そのままどっかと隣に座った。
「おかえりなさい。実家、どうでした。」
時生が目を細めながら何気なく問うと、喜一は大げさに溜息を吐きながら自らの膝に頬杖をついた。そして時生の額にかかる髪の毛をよけて、ぱちん、と指で弾いた。
「痛い。」
時生は思わず真顔になって手で額をさする。
「痛く弾いたからな。」
「何なんですか、一体…。」
喜一は戸惑う時生を見て笑った。
「八尾くん。一ノ瀬ちゃんにキスしたろ。」
「! 海里から聞いたんですか?」
喜一の口から海里の名を聞いて困惑よりも、嫉妬の方が勝った。
「いや、一ノ瀬ちゃんは名前を伏せて相談してくれていたけど。わかっちゃった。」
てへ、と女子高生のように笑い、舌を出す喜一。うう、と呻く時生の頭をくしゃりと撫でる。
「そんな嫉妬の色を声に滲ませるなら、どうして彼女を泣かせるようなことをしたんだ。」
「…泣いていましたか。やっぱり。」
時生は下向き、唇を噛んだ。
「ちゃんと後悔してる?」
「してますよ…。」
時生の中にどろりとした血液の澱みのような感情が渦巻く。
普通、泣き顔なんて見れたものじゃないだろうが、海里は泣き顔が美しかった。黒く大きな瞳から涙が盛り上がり、表面張力を破って桃のように白い頬に伝う雫はガラスのように透明で、さぞ綺麗だったろうと思う。涙を零すうちに青みがかった白目が、ほんのり赤みを帯びて目は糖分を多量に含みとても甘そうに見えた。カニバリズムは趣味ではないが、相手が海里なら別だ。頭の天辺から足の先まで全て、全て食べて自らの血肉にしてしまいたい衝動に駆られる。
後悔はしている。海里の泣き顔を見逃したことに。
「ならいいけど。ちゃんと、謝罪の意味は一ノ瀬ちゃんに伝えてあげなさいね。わけわからんままの謝罪は意味がないぞ。」
時生の言葉の本位に気付かない喜一はそう言って立ち上がる。腕を真上にあげて背筋を伸ばした喜一に、時生はほんの一瞬だけ殺意が沸いた。海里の涙を目撃したその眼球を掌に転がして潰してしまいたい。
「…はい…、そうですね。ちゃんと海里とは話をします。」
衝動を抑え込み、時生は爪が食い込んで白くなるほどに拳を握りしめた。いつからだろう。こんな仄暗い感情が込み上げてくるようになったのは。自分の本質が人畜無害そうな羊の皮を被った邪悪な狼であることを、時生は早い段階で理解していた。
特に苦しみ、絶望した果ての涙が美しい人が、僕は好きだ。
「きーくん!」
女性らしい高い声に、時生は現実に引き戻された。視線を向けると海咲が嬉しそうに道路を駆けてくるところだった。
「あれ、時生くんもいたんだねえ。座ってたから気付かなかったよー。」
ごめんね、と両手を合わせる海咲に時生は首を横に振る。
「海咲さんの場合、僕が上田さんの隣に立っていても気付かないんじゃないですか?」
「ええー?まあね?」
時生の冗談に美咲も答えるが、あながち冗談でもなさそうなところがすごいと思った。
「二人とも、この暑いのに井戸端会議?部屋に入ればいいのに。」
「海咲の場合、寒いぐらいにクーラーの温度を下げるから嫌でーす。」
そう言って笑い合う仲の良い健全な恋人同士を、時生は見つめていた。これが普通の恋人かと、まるで教科書を見ているような気分だった。
「さて。じゃあ、俺たちは部屋に行くけど。八尾くん、またね。」
手を振って、喜一は海咲を伴ってかぜよみ荘の階段を上って行った。時生も軽く手を振って応えた。喜一と海咲、二人の華やいだ会話が余韻のように残っていた。
「ただいま。」
海里が自宅の玄関で靴を脱いでいると、帰宅に気が付いた母親が廊下まで出迎えてくれた。
「おかえり、海里。八尾くんとは、その、お話はできたの?」
どうやら海里が出掛けてからずっと、気になってそわそわしていたらしい。
「あー…、とんだヘタレだったよ。」
「?」
海里の答えに母親は小首を傾げる。その様子を見ながら、海里は思い出し笑いを浮かべた。
「失ったら戻ることの無い儚さに恋してる割には、その儚さを嫌ってる…みたいな感じ。」
「何よ、それ。なぞなぞ?」
ククク、と笑いながら海里は事の顛末を父親が不在らしいリビングに向かいながら母親に話す。
「あらー。八尾くんって詩人なのねえ。」
「突っ込むところ、そこ?娘、唇を奪われてるんですけど。」
母親は手をひらひらと振って笑った。
「可愛いじゃない。海里、ここは恋の駆け引きよ。」
そう言って、ソファに座る娘に母親は熱弁をする。
「押してダメなら引いてみなってよく言うでしょ。あれ、間違いじゃないのよね。お父さんだって…、」
「ストップ。長くなりそう?」
かなり、と頷く母親の話を断ち切って、海里は背後の金魚が住む水槽を見るために振り返った。相変わらず、金魚たちはマイペースに尾鰭を翻している。父親の影響か最近、金魚たちの体型が丸くなってきた気がする。
「お前たちは、可愛いのにね。」
時生が今は、少し憎らしい。
夏休みが明けた高校の初日。休み明けの教室はどこか気だるげで、でも友人同士が出会えた喜びにあふれていた。時生との件も重なって、いつものサボタージュに使う場所を使う気になれず海里は教室の机に座って、次の劇の台本を読んでいた。賑やかな空間は逆に一人になるには最適なことを、海里は知っていた。
今回の劇のタイトルは『KINGFISCHER GIRL』。カワセミの少女を主人公として、カラスの青年との恋をメインにした群像劇だ。配役を決めるのは一週間後。何の役でもいい。とにかく経験値の欲しい海里は、劇に出演したかった。まずは物語を頭に叩き込む。そして次に主要キャラの履歴書を海里なりの解釈で作る。台詞を覚えるのはそれからだ。授業中、演劇用の創作ノートを広げて海里は役柄の理解を深めていくのだった。ノートというアナログな手法は便利なもので、はたから見れば真面目に授業に集中しているように見えるから不思議だ。
低音の唸り声のような轟音が空から聞こえてくる。海里の集中は途切れ、シャーペンを置いてふと窓の外を見た。清々しいほどの空の青を分断するように、長い飛行機雲が白々と線を引いていた。夏休みの一般開放日に会ってから、時生との連絡は断っている。母親の言った言葉を鵜吞みにするわけではないが、確かに今は距離を置いた方が互いのためだと思った。そのまま空を眺めているのもいいが授業中では目立つ姿の上、劇の役理解を深めたいので海里は再び目線をノートに落とすのだった。
昼食、海里は迷った末に屋上に向かうことにした。暗い非常階段をかつん、かつんと足音を立てながら上って行く。最上階の屋上へと続く扉には立ち入り禁止の札が掛かっているが知ったことではない。この場所はまだ時生にも教えていない秘密があった。扉のノブをある一定のリズムで揺すれば呆気なく開くのだ。早速実行に移して、海里は扉を開けることに成功した。
がちり、と重そうに鉄の扉を解放すれば目の前には広がるのは一面の青。高校は街の高台に位置し、視界を遮る高いビルは周囲に存在しない。一歩踏み出して、屋上に出るとそのやってやったぞという満足感に気分は晴れた。貯水槽の影に腰を下ろして、自作の小さなお弁当を食べる。今朝は少し早起きして自分の好きなハンバーグをミニサイズでこしらえた。それをさらに半分に箸で割って口に放り込む。好きな味付けに満足して海里は一人、頷くのだった。少食の海里は早々に食べ終えて、再び台本を手に取った。ページをめくりながら、どこまで読んだかを確認していると不意にスカートのポケットから振動が起こる。朝に担任教師に提出せずに隠し持っていた携帯電話だった。
「…。」
ぱちりと折り畳み式の携帯電話を開くと、そこにはメールの着信アリとの表示があった。メールの送信者の欄には、喜一の名前が表記される。
『一ノ瀬ちゃん、こんにちは。特に用はないけど、メールしてみました。元気?』
喜一は海里を気遣ってか、日に一度はこうしてメールをくれた。
『元気ですよ。いつもありがとうございます。』
心配を嬉しく思いながら、海里は返信用のメールを認めて送信する。ポケットにしまった携帯電話は生き物のように温かく感じられた。
時生はポートレート用の写真を求めて放課後の校内を、カメラを持って徘徊していた。
人のいない図書室。運動部の声が響くグラウンドの片隅。一人の城と化した写真部の部室。
生活空間をモチーフにしようと決めたものの、どこか決定打に欠けている。思えば、四月からのおよそ五ヵ月は常に海里の気配が隣にあった。ふう、と溜息を吐いて時生は廊下に続く窓に頬杖をついて休憩をする。空を見、そして視線を階下に泳がせた。丁度、中庭の真上で行き交う人の顔がよく観察できた。
「…海里。」
中庭で初めて接触を試みたベンチに海里が腰掛けていることに気が付いた。デジャヴのように彼女は台本を眺めている。真剣な眼差しに思わず見惚れてしまう。時が止まったような錯覚を伴って見つめていると、不意に海里が台本から顔を上げた。視線が交わるその前に時生は膝を折ってしゃがみ込み、校舎に隠れてしまう。心臓が暴れるように脈打っていた。しばらく落ち着くのを待って、再びそろそろと窓の外を見るとすでに海里の姿はなかった。少し、ほっとする。海里の姿を目では探してしまうのに、いざ目の前にすると避けてしまう。そんな挙動がここ最近続いて、メールでもご無沙汰だった。会って話したいのに何を話せばいいかがわからず、自分はこんなにも意気地なしだったのかと思う。
「帰ろう。」
何度目かになる溜息を吐き、時生は荷物をまとめて廊下を歩き始めるのだった。
帰路につき、かぜよみ荘の前に着くと海咲が階段の下段付近で座っていた。その手には一本の煙草が携えている。
「おー、時生くん。おっかえりー。」
「ただいまです、海咲さん。…喫煙するんですね。」
海咲は苦笑しながら、唇に煙草を当て吸い込む。その慣れた手つきに、喫煙歴の長さを知る。
「これねー。きーくんの悪癖が移っちゃったんだ。」
「そう言えば、上田さんが吸っている煙草と同じような匂いがします。」
喜一が時々ベランダに出て喫煙をしているのは、風の流れで階下に降りてくる煙草の匂いで知っていた。
「ごめんね。迷惑だった?」
「いえ、僕はそんなに気にしないので。」
そう言いながらも服に匂いが染みつくのは嫌で、都度、干してあった洗濯物を取り込んでいるのは内緒だ。近所づきあいは円滑に行いたい。
「嗅覚でもきーくんを覚えていたくて、煙草を分けてもらって吸い始めたの。」
「上田さん、愛されているんですね。」
優しく目を細めながら満足そうに紫煙を吐く海咲を見て、時生は感心したように言う。
「うん。超、愛してる。」
海咲は鈴を転がすような声で笑いながら答え、煙草を携帯灰皿に押し付けた。そして立ち上がると、時生にねだるように肩に手を回す。
「ねーねー、きーくんが帰ってくるまで部屋に入れてよー。」
「上田さん、いないんですか?」
うん、と頷き、海咲は暑そうに団扇のように手で扇ぐ。
「スマホで連絡したら、まだ大学のゼミにいるって。あーつーいーよー。」
「残暑厳しいですよね。部屋を片付けるので、五分待ってください。」
そう言って時生は室内に入って見られたくないものを片付け、海咲を招き入れるのだった。
「あー。文明の利器、最高ー。」
早々にクーラーをつけて涼む海咲に、時生は麦茶をコップに注いで出す。
「今更なんですけど、他の男の部屋に入って上田さんに怒られませんか。」
「平気、平気。時生くんは子分だから。」
あっけらかんと笑う海咲に時生はがくりと肩を落とした。
「…せめて弟分でお願いします。」
しばらく取り留めのない会話を交わし、時生は専門学校に提出するプリントがあるからと机に向かった。しばらく時計の秒針の音が響くような静かな時間が過ぎる。スマホを眺めていた海咲は眠気が生じたのかクッションを抱きながらウトウトとし始めた。
「ねえー…、時生くーん…。」
「はい?何です、海咲さん。」
海咲は間延びした声で、時生に言う。
「きーくんがさ…、最近、元気ないんだあ。」
「…。」
時生は机から顔を上げて、海咲を見る。海咲は瞳を伏せ、もう夢現のようだった。
「何だか、笑う顔が無理してる気がして…心配…。」
「美咲さん。それは本人に言った方がいいのでは、」
次の瞬間には、海咲は睡魔に負けて眠りに就いていた。時生はやれやれと小さな溜息を吐いて、タオルケットを海咲にかけてやった。
およそ一時間後。玄関のチャイムが鳴り、応対するとそこには喜一が立っていた。
「ごめんね、八尾くん。海咲、回収しに来たよ。」
「どうぞ。寝てますけど。」
時生が部屋の中に案内すると、喜一は海咲の肩をゆすって起こそうと試みる。
「海咲? みーさーき、起きろー。」
海咲は、うー、と子犬のように唸るが起きる気配はない。やがて喜一は観念したのか、海咲の膝裏と背中を抱えて時生の部屋を出る。まるで寝てしまった子どもを抱える父親のような力強さだった。
「八尾くん、ありがとね。」
「いえ。じゃあ、えーと。おやすみなさい。」
おやすみ、と小さな声で囁いて、二階の自分の部屋に行こうとする喜一に時生は思い出したかのように声を掛けた。
「あの。海咲さんが、何か心配してました。その、上田さんのことを。」
「心配?」
立ち止まって、喜一は時生を見る。時生は頷いた。
「最近、元気がないって。」
「そうか、海咲が…。」
そう言うと一瞬、ほんの一瞬だけ喜一は痛みを我慢しているかのように表情を歪ませて海咲を見た。が、すぐにいつもの喜一の笑顔に戻る。
「ありがとう。何でもないよ。」
「…海咲さんに言ってあげてください。」
そうするよ、と苦笑しながら、今度こそ本当に喜一は海咲を抱えて部屋に戻っていった。
雨が降ると、劇団星ノ尾の地下にある練習スタジオは湿気が酷い。今日はそんな雨が夕方からしとしとと降る、新しい劇の配役決定まであと四日という日だった。
海里は海咲と共に、役を入れ替わり立ち代わり台本の読み合わせをしていた。今は海咲がカワセミの少女を演じ、海里がカラスの青年に声をあてていた。海咲の高い女性らしい声が囀るように言葉を紡ぐ。
「…今回の海咲さん、気合が入ってますね。」
一段落を終えて、海里は海咲に話題を振る。いつになく海咲は主役の獲得に必死だった。
「うん。私、今回の劇『KINGFISCHER GIRL』のお話、大好きなんだ。」
「何か思い出があるんですか?」
海咲は愛しそうに台本のタイトルの文字を指でなぞる。
「『KINGFISCHER GIRL』はね、私ときーくんが童話学のゼミで研究している話なの。この話を劇にするって聞いたとき、本当に嬉しかった。だから今回は絶対に、主役が欲しい。」
台本を胸に抱えてぎゅっと抱きしめる海咲を見て、海里は頷く。
「そうなんですね。頑張ってください。」
海里は、応援してます、と言葉を紡ごうとして海咲に止められる。
「だめだめ!海里ちゃんも、全力で役を取りにこないといけないんだからね?」
「!」
目を丸くして、海里は海咲の想いを汲み取って微笑んだ。
「わかりました。負けませんよ。」
二人は互いの健闘を誓うように笑い合い、再び台本を開いて読み合わせをするのだった。
夜、七時の門限を前にした海里を見送った海咲は、午後九時まで自主練習をしてスタジオを出た。鍵をかけ、戸締りを確認して地上に続く階段を上る。雨は晴れていたが、熱気と相まってその分だけ湿気がすごかった。じっとり浮かぶ汗を不快に思いながら海咲は帰路に就く。河原が望める土手沿いの道を歩きながら、海咲は空を見上げていた。白い月と星々が黒く濁った雲から覗く。テレビの砂嵐を何倍にも薄めたかのような光が零れていた。
「―…、」
口から吐いたのは、『KINGFISCHER GIRL』の劇で歌われる挿入歌だ。カワセミの少女の唄は童話の全集でも何度も読み、歌詞は空で言える。メロディーをつけたらどうなるのだろうと思っていて、今回、やっとその全容を知ることが出来た。優しく鼓膜に響く子守歌のようなメロディーに海咲は、一気に気に入ってしまった。機嫌よく口ずさみながら、土手を歩き次に思うのは喜一のことだ。
童話学の授業で教授が最初に何の物語が好きかのアンケートを取った。滅多に同じものを答える人がいないと言われているアンケートで、海咲と喜一は同じ物語を選んだ。その物語こそ、『KINGFISCHER GIRL』だった。
「…私がカワセミの少女を演じることになったら、きーくんはどんな顔をするかな。」
驚いて、そして自分のことのように喜んでくれるはずだ。その様子を想像し、うふふ、と口元に手をあて海咲は微笑む。
深い水中のような蒼をメインに、泡のように白いレースがあしらわれたドレスはきっと美しいだろう。そして歩いたそばから星屑が零れるような銀色の靴を履いて、劇場を統べるのだ。衣装班から聞いた話を思い出して、海咲はうっとりとするようだった。
役も、ドレスも、そして喜一の反応も。全部を手に入れたい。
海咲は鞄から台本を取り出した。ぱらぱらとめくると、そこにはいつにない量で赤ペンの文字が書き込まれている。大丈夫、頑張れる。海咲の心は、深い海中にあり光の手の鳴る方へと向かうようだった。
劇団星ノ尾の配役は団長と、副団長。それと各班のリーダーの意見で決まる。
一日を使って演技はもちろん、歌唱、ダンス、個別面接による本人の熱意を見るのだ。主役はいつだって激戦で、良い成績を残せれば主役を外れたとしても重要な役を任されることが多い。
『KINGFISCHER GIRL』の劇団内オーディションの日。海里は父親とは別に、練習スタジオへと向かっていた。最後の最後で親子の縁を理由にされたくない。
集合時間よりも早く向かったと思っていたが、練習スタジオにはすでに海咲の姿があった。海咲は海里が扉を開けた音にも気づかないほどに集中していた。イヤホンからは挿入歌のメロディーがわずかに漏れている。そうして海咲の口から紡がれる歌は、細く高く、身体から絞り出すような気合が込められていた。緊張を通り越して、どこか鬼気迫るような歌声だった。
「おはようございます、海咲さん。」
海里が海咲の気分を解すように、わざと大きな声で挨拶をする。
「! 海里ちゃん。」
海咲は驚いて目を丸くして、そしてイヤホンを外した。ふっと空気を和らげて海里を見る。
「おはよう。」
「早いですね。何時から来てるんですか?」
んー、と海咲は呟きながら壁の掛け時計を仰いだ。
「八時ごろかな。」
告げられた時間は、海里がスタジオに訪れる一時間前。オーディションが始まるのは午前十時からなので、海咲は二時間前からスタジオ入りしていると言うことになる。
「昨日も、帰りの鍵当番を買って出たんですよね。」
「そう。その流れで朝一に来ちゃった。」
海咲はそう言うと、ぺろりと舌を出した。
「大丈夫ですか?疲れていたり…しませんか。」
海里が心配して問う。連日、海咲は誰よりも居残って、誰よりも早く練習をしにスタジオに訪れていた。緊張や高揚感で疲れを感じていないにせよ、その埋め合わせは必ず訪れるものだ。
「平気、平気。今なら、何でもできる気がするから。」
手をひらひらと振って海咲は答え、再びイヤホンを耳にしようとする。海里はその答えを聞いてより一層、不安を煽られた。思わず、海咲の手を取って稽古を中断させる。
「美咲さん、ちょっと休んで下さい。このままだと演技に支障が、」
「海里ちゃん。」
海咲は一瞬表情を失くすように真顔になって、そして目を細めて笑った。
「海里ちゃんは、本当に感情表現が豊かになったよね。」
「そう、ですか?」
戸惑う海里を見て、うん、と海咲は頷く。
「役者としても、人間としてもすごく魅力的になった。正直、今回だって勝てる気がしない。でも、だからって私は頑張ることを忘れたくないの。」
海里の肩をそっと押し戻す。それは一瞬の決別を意味していた。
「オーディションまでは、別々で稽古をしよう。」
「…はい。」
海咲の決意に、海里は頷くことしかできなかった。
やがて午前十時になる頃、続々と他の役者やスタッフたちがスタジオに訪れた。最後に海里の父親、劇団の団長が現れてオーディションの開始を告げる。
「これから、『KINGFISCHER GIRL』の役を決めるオーディションを始めます。前日にくじで決めた順番で呼ぶので、該当者はステージに上がってください。」
はい、と役者たちの緊張が満ちた声が重なった。その中にはもちろん海里、海咲の声も含まれている。いつまでたっても配役を決めるこのオーディションは慣れない。心臓が早く脈打って、落ち着け、と願わずにいられなかった。
公開方式のオーディションが進む中、人々の視線をかっさらった役者が二人いた。海里と海咲だ。海里が繊細で丁寧な演技をすれば、海咲は伸びやかで艶やかな歌声を披露する。
「今回の主役は、一ノ瀬さんと斉藤さんの一騎打ちかな。」
「どっちだと思う?斉藤さん、最近めきめきと上達してきたとは思うけれど。」
ひそひそと役者の中で囁き声が漏れる。それほどまでに二人は自らを高め続けていた。そうしてオーディションは進み、面接を終えて一時間の選考時間に入った。この間、海里と海咲に会話は無かった。今か今かと、結果を待ち受ける役者の質の目の前にようやく団長と副団長が現れた。スタジオ内はしんと静まり返り、団長の言葉を待つ。
「まずはオーディション、お疲れさまでした。早速、主役のカワセミの少女役から発表していきます。」
一瞬の間が、とてつもなく長く感じられた。
「カワセミの少女―…、斉藤海咲。」
その瞬間のことは一生忘れないだろうと思った。
「海咲さん、おめでとうございます。」
海里が拍手をして、そして健闘を讃える握手を求めてきた。海咲は自分の名前を聞いて呆然としていたが、ようやく実感と喜びが湧いてきた。
「ありがとう、海里ちゃん。私、頑張る…っ!」
鼻の奥がツンと痛くなって、熱い思いと共に涙が込み上げてきた。
「すごかったよー、斉藤さん。」
「おめでとう!」
役者仲間からも次々と祝福と賛辞の言葉が贈られる。団長も拍手を贈りながら、言葉を紡いだ。
「今回は本当に難しかった。審査する我々も意見が割れてね。最後は斉藤さんの熱意が決め手になりました。おめでとう、精進してください」
その後、海里も無事に役をもらいオーディションは終わった。
打ち上げに行くかという劇団の仲間の誘いは断って、海咲は足取りも軽くスタジオから地上へと続く階段を上った。清々しい気持ちで最後の段を踏みしめて、鞄からスマートホンを取り出す。画面をタップして、電話を掛ける。数秒のプッシュ通知の音が響き、相手が出た。
「あ、もしもし。きーくん?」
電話の相手は喜一だった。
「今、時間大丈夫?」
『うん。どうした?』
海咲の声には喜びの色が隠せない。
「えーとね、うん。あの、今からアパートに行ってもいい?話があるの。」
どうせなら直接伝えたい。そして、喜一が共に喜ぶ顔が見たかった。
『いいよ。俺も、海咲と話したいし。』
「ありがとう、じゃあ今から向かうから。三十分ぐらいで着くと思う。」
電話を切って、海咲は嬉しさを力に変えて駆けだした。駅前に着くと、海咲が気に入っているケーキ屋の看板が目に留まった。いつもはカットされたケーキを購入していたが、今日は特別だ。思い切ってホールで買って、喜一と目一杯に食べよう。そう思い、海咲はケーキ屋の自動扉をくぐった。
桃とヨーグルトのタルトをホールで購入し、今度はタルトの入った箱を傾けないようにゆっくりと歩いた。目に映るすべてのものが光に輝いて見える。鼻歌を歌いながら機嫌よく進み、アパートが見えてきた。走ってゴールインしたい気持ちを押さえて、海咲はかぜよみ荘の階段を上る。かつん、かつんと響く足音に気が付いたのだろう、喜一が寸前で玄関の扉を開けて海咲を迎え入れてくれた。
「ありがと、きーくん。」
「うん。」
上がって、と喜一に誘われて、海咲は遠慮なく部屋に上がり込む。靴を脱いで、タルトの入った箱をテーブルに置いた。
「どうしたの、これ。」
「うふふー、食べたくなったの!」
そう言って海咲はタルトを切り分ける為のナイフを探しにキッチンに向かう。
「丁度良いのないから、包丁でいっか。」
流し下の戸棚を開けようと、海咲はしゃがむ。
「海咲。」
「なあに?ちょっと待って、」
「別れよう。」
夕方からの急な雨に降られて、時生は商店街での買い出しの帰り道を走っていた。
「予報が外れたな。」
通り雨かと思って花屋の軒先で雨宿りをさせてもらっていたが、いよいよ本降りと化して仕方なく雨の中に飛び出したのだ。パシャ、と水溜りを踏んで、飛沫を上げながら駆けていく。ようやくかぜよみ荘に辿り着いて、玄関の錠を落とし扉を開ける。ふう、と息を吐いて、タオルで服に滲みた水分を拭っていると、玄関のチャイムが鳴った。
「今、出ますー。」
時生がそう言う間も、チャイムは何度もビーと音を立て鳴っていた。一回押せば聞こえるのにと思いながらも、時生は髪の毛をタオルで拭きながら対応すべく玄関に向かった。
「はーい…?」
がちゃりと音を立て、扉を引くとそこには海咲が立っていた。
「海咲さん?何か用…、」
「…。」
海咲は無言のまま俯いている。
「…その血はどうしたんですか。」
海咲の手は血に濡れていた。それに気づいた時生は膝をついて、彼女の手を取った。傷口は見当たらない。よく見ると服のあちこちにも点々とした赤黒い染みが生じている。
「…の、…ゃない…。」
「え?」
か細い声で、小さく海咲は告白した。時生は顔を上げる。
「私の、血じゃない。」
海咲は泣きながら、笑っていた。瞳から止めどなく涙を零すのに、笑った唇の端は痙攣するように引き攣っている。その異常さに気が付いた時生は、戸惑い無く海咲の手を握った。
「海咲さん。ゆっくりでいいので話してくれませんか。何があったのかを。」
部屋に入るように促して、海咲を落ち着かせるように座らせた。
「きーくん…が、きーくんがね…、」
海咲は怯えるように辺りを見渡して、そして自分の手を見た。
「上田さんが、どうしたんですか?」
「わ、別れようって、言う、の。」
寒気を覚えたように肩を大きく震わせて、海咲は手をぎゅっと握る。力がこもり白くなった肌に、血液の赤がよく映えると時生は場違いに思った。
「だから、私…きーくん…、」
殺しちゃった、と海咲は呟いた。
―…別れよう。
喜一の言葉が海咲の心を切りつける。あまりの早業に一瞬切られたことに気が付かず、海咲は混乱した。
「…え?何、」
「ごめん、海咲。」
海咲が仰ぐように見ると、喜一は頭を下げていた。その肩は震えて、耐えるように拳をぎゅっと握りしめている。
「俺、他に好きな人がいる。だからこのまま、海咲と付き合えない。」
この人は何を言っているのだろうと思う。海咲はまるで客観的に喜一を見つめていた。その間も、喜一は何度もごめんと繰り返す。幾度目かの謝罪の言葉に、やっと海咲は彼が犯した過ちを知った。
「好きな人って、ちょっと待って…え?誰…、」
私はきーくんが好き。そして、きーくんも私のことを愛してくれる。
「一ノ瀬海里ちゃんを、好きになった。」
きっかけは『青い靴』の公演だった。海里の躍る足元、流れる手先。艶やかな目線が記憶にこびり付いたという。妹のように接するようになると、たまに見せる笑顔にとてつもなく惹かれた。そしてあの日。海里の涙を見て守りたいと思い、自らの感情が恋だと知った。
「…ごめん。」
海咲の真っ白になる思考回路が黒くなるその前に、感情が弾けた。
「包丁で刺したんですか。」
時生の言葉に海咲は小さく頷いた。その動作を確認して立ち上がる時生の腕に、海咲は縋る。
「ま、待って…、どこへ、いくの?」
「上田さんの部屋です。まだ、生きているかもしれない。」
海咲は大きく首を横に振った。いつも綺麗に整えられている髪の毛が乱れていく様は哀れを通り越して、悲惨に思えた。
「そんなことない!生きてる、なんて…だって、」
「だって?」
かちかちと親指の爪を噛み、海咲は自らを落ち着かせようとしている。
「だって、刺したのは一度じゃない…っ!」
彼女に飛び散った血飛沫を見ると、放った言葉の意味が知れた。海咲は喜一が死ぬまで包丁を用い、刺し続けたのだ。
時生は酷く冷静だった。ふむ、と頷いて、海咲の肩をそっと抱く。
「じゃあ尚更、様子を見てこないと。海咲さんはここにいてください。僕一人で、行ってきますから。」
そう言って突き放そうとすると、海咲は時生の手を握った。
「だめ!一人にしないで…。どうしても行くなら、私も行く!」
「…わかりました。」
怯える海咲の手を引いて、時生は玄関を出た。階段を上って行く間に会話はなく、喜一の部屋に近づく度に重苦しい死の空気がねっとりとした粘度を以て、足もとから這い出てくる気がした。喜一の部屋の玄関は僅かに開いている。生きている人間が存在する気配はない。時生は躊躇なく扉を開き、土足のまま部屋に入ると小さいキッチンで俯せに倒れる喜一を発見した。
床には血が擦れるような痕があり、喜一が這って逃げようとしていたことを察することができる。伸ばされた手の先には喜一自身のスマートホンがあった。
「…。」
時生は喜一の身体を仰向けにすると首元から脈拍と、口から呼気の有無を確認する。どちらも皆無ながら、まだほんのりと温かい。
「死んでいますね。」
喜一の腹部に傷痕が窺え、腹の傷口を押さえるようにして倒れたのだろう。その後を追った海咲は、背中から幾度も包丁を突き立てたらしい。血は床に多量、壁に少量散っていた。喜一は苦悶の表情を浮かべ、頬には涙の痕があった。即死できずに苦しんだようだ。
「きーくん…、きーくん…っ。」
海咲は膝をついて崩れ落ちる。肩が震えていた。
「海咲さん、どうしますか。自首するなら、警察まで付き添いますけど。」
「…っ、…!」
時生の言葉に海咲は首を横に振る。涙の雫が飛び散った。
「…私も、死ぬ…。」
幽霊のようにゆらりと立ち上がると、海咲は部屋の隅には放ってあった凶器であろう血に濡れたままの包丁を手に取った。
「…そうですか。残念です。」
時生は溜息を吐く。
「…止めないの?」
「止めてほしいですか?」
海咲は可笑しそうに笑った。
「ううん。ねえ、時生くん。」
「なんでしょう。」
時生は小首を傾げる。
「私が死ぬまで、傍にいてくれない?」
途中で怖くなって逃げないように、と海咲は呟いた。
「いいですよ。」
二人は喜一の部屋に備え付けられている小さな浴室へと移動した。冷たいタイルの床に座り、海咲は包丁で左手首を切る。切っ先は震え、幾度か切りつけると静脈を傷付けたのか一瞬噴水のように血液が吹いた。海咲が拳を作って力を籠めると、圧が掛かったのか血液が再び勢いよく溢れ出る。
「痛いですか?」
脂汗が額に滲む海咲に時生は訊く。
「うん…。すごく、痛い。でも、頑張らないとね。」
傷口が乾かないように、水が張った浴槽に手首を浸した。手首から滲んだ血液は絵の具のような粘度を持って、揺らぐように水を紅く染めていく。比重から血液は水底に溜まるようだった。
「時生くん…私が死んだら、海里ちゃん…泣くと思う?」
「確実に泣くでしょうね。」
浴槽にもたれ掛かりながら、海咲は、ふふ、と笑う。笑った後に遠くを見つめるように目を細めた。
「悔しい…、悔しい。悔しい…っ。海里ちゃんなんて、いなければよかったのに。」
呪いを吐きながら、海咲は泣いた。
「時生くん…?」
隣にいる時生を見て、海咲は怪訝そうに眉根を寄せる。
「何故、笑ってるの。」
時生は唇を弧のように引いて、笑っていた。その表情を見て、海咲はその場で嘔吐する、胃酸と臭気にけほけほと海咲はむせた後に、いよいよ狂ったように笑いだした。
「何だ。壊れていたのは、私だけじゃなかったんだ。」
ひとしきり笑うと、二人はまるで仲の良い姉弟のようにぽつぽつと語り合う。
「美咲さん、出血多量による死因には二つの種類があるらしいですよ。」
「そうなんだ。私は何に、なるの…?」
時生はスマートホンの画面を見ながら答える。
「首のような太い血管を切って、短時間で死ぬ場合は失血死。海咲さんのように長時間で死ぬ場合は、出血性ショック死が多いそうです。」
「そっかあ…、首を切る選択肢もあったね…。ごめん、時間が掛かっちゃって。」
その様子を想像した時生は、ゆるりと首を横に振った。
「いえ、その場合だと掃除が大変そうなので。…海咲さん?寒いですか。」
時間が経つにつれて海咲の顔色は白くなっていき、身体が小刻みに震え始めた。
「う…ん。少し、ね…。」
瞼を重そうに持ち上げると、海咲は涙を零した。
「視界が、チカチカす…る…。あれ、よくみえないな…。」
そう言うと、海咲は瞳を閉じた。
「海咲さん。」
「…。」
時生がそっと肩に触れて、揺すって覚醒を促すも反応はない。どうやら意識を失ったようだ。
「お疲れさま。」
海咲の髪の毛を撫で、時生は立ち上がる。このまま放っておけば、海咲は死ぬだろう。居間では喜一が死んでいる。時生は喜一のスマートホンをハンカチで包みながら手に取った。操作して指紋認証の設定を引っ張り出す。硬直が始まる前に喜一の掌を開いて、指の一本一本を認証させてロックを開いた。そしてアドレス帳を表示させて海里のメールアドレスと共に、メールのやり取りを消去する。これでいい。
ボトムスのポケットから今度は自分のスマートホンを取り出して、時生は海里に電話を掛けた。しばらくの着信音の後に、海里が電話に出た。
『もしもし、時生…?』
「海里。今から会えない?」
海里は突然の時生の電話に驚く。声は静かで笑みが含まれていたが、どこか涙を零しているようだった。あの、お盆の日のように。時生との電話を切って、海里は自分の部屋を飛び出した。
「海里ー。廊下は静かに歩きなさい、」
「お母さん!今から、出かけて来てもいい!?」
時刻は門限の午後七時を過ぎた頃だった。父親は町内会の集まりに出掛けている。
「ええ?今から?」
「お願い!」
訝しがる母親に、海里は必死で説得を試みる。娘の口か時生の名前が出ると、母親の表情は変わった。
「…つまり、八尾くんが助けを求めてるのね?」
「うん。私が行かないと、きっと彼は一人で泣く。」
海里自身が泣きそうに目を潤ませると、母親は大袈裟に溜息を吐いた。
「午後九時には戻ること。いい?お父さんが帰ってくる前に帰ってきなさいよ。」
「! ありがとう、お母さん!!」
母親と言う味方をつけて、海里は家を飛び出したのだった。
かぜよみ荘の一階、時生が住む部屋の玄関チャイムが鳴る。時生が扉を開くと、そこには息を切らした海里が立っていた。恐らく、駅からの道のりを走ってきてくれたのだろう。
「時生、大丈、夫…、」
「海里。」
時生は海里を力強く抱きしめた。小柄で細い、しなやかな背に腕を回すと海里自身も時生に縋るように抱きしめ返してくれる。
「来てくれて、ありがとう。」
「呼べって言ったのは、私だから。」
うん、と頷いて時生は彼女の耳を食み、長くしっとりとした黒髪に鼻先を埋めた。淡い汗と爽やかな石鹸の香りが混じって、日向のような香りになる。
「時生、あの、微妙に恥ずかしいんだけど。」
海里は僅かに身体をよじるが、時生は離れることを許さない。
「海里、このまま聞いて。」
「…うん。」
幼子に話しかけるように時生は優しい口調で海里の耳元、鼓膜に直接語り掛ける。海里はその穏やかな声音に落ち着きを取り戻して、時生に身を委ねた。
「僕と、恋人になってくれませんか。」
「本当…?」
海里の声が震えていた。時生の肩が熱く湿る。抱きしめている彼女の涙が滲んだのだと思う。
「本当。お願い、海里。」
甘えるように言うと、海里は何度も時生の胸の中で頷いた。ありがとう、と呟くとようやく時生は海里を解放した。
「何で泣くの。」
笑いながら、海里の目元の涙を指の腹で拭ってやる。
「だって、嬉しい…から。」
可愛くて、可愛くて…僕に愛される君はなんて可哀想なのだろう。時生は指についた海里の涙を舐めた。
「そうだ。ねえ、写真を取ってもいい?」
「写真?」
海里はきょとんと眼を丸くしながら、小首を傾げる。
「うん。今日の記念に。」
二階。頭上の部屋では、喜一と海咲が死んでいる。海里は何日後かには二人の死を知ることになるはずだ。
「時生って、記念日のたびに写真を撮る父親みたいだね。」
はにかんで、カメラを持ち出した時生に向かって居住まいを正す。
「そうかも。じゃあ…、撮るよ。」
そう言って、時生はシャッターを切った。今まで見た中で一番の笑顔で、海里は応えてくれた。ひたひたと滲む死の気配に日常が浸食されていく中、この表情が涙に濡れる瞬間を思い、時生の胸は疼き、手足の先が甘く痺れるようだった。
「ねえ、時生のカメラってフィルムなの?デジタルじゃなくて?」
ベッドの上に腰掛けて、時生の隣にいる海里が無邪気に聞く。
「そうだよ。デジタルもいいけど、単純に高いだろ。このカメラも中古の品だし。」
そう言いながら、時生は愛用のカメラの側面を撫でる。レンズにひびさえ入っていなければ良いと思い、小遣いを貯めて購入した物だった。
「ふうん。じゃあ、すぐに写真は見られないんだ。」
海里は残念そうに唇をとがらせる。時生は苦笑しながら、海里の頭を撫でた。
「今夜中には現像しておくから。」
「本当?」
ああ、と時生が頷くと、海里は機嫌が直った猫のように笑った。
「嬉しい。ね、一番に見せてね?」
「約束するよ。」
そう言うと、左手で指切りをするのだった。
午後八時を回り、いよいよ海里が帰路につく時間が迫ってきた。名残惜しそうにもたもたと帰り支度をする彼女が可愛らしくて堪らない。
「海里、駅まで送るよ。」
「…ありがとう。ねえ、じゃあ歩いて行こうよ。」
少しでも長く一緒にいたいといじらしいことを言われて、時生は気をよくする。
「いいよ。電車に間に合うぐらいにゆっくり歩いて行こう。」
玄関を出ると、くらげのように白く輝く月が夜空の海に浮かんでいた。住宅街はとても静かで、時折テレビの笑い声が漏れて聞こえてくるぐらいだった。駅までに続く等間隔に設置された街灯を、ヘンゼルとグレーテルの小石になぞらせるように二人は辿っていく。隣を歩く海里の手の指が、つん、と時生の手の甲に触れた。それを一つの合図のようにどちらかともなく、手を絡ませるように握ったのだった。しばらく無言で、でもその静寂が心地よく。手は口ほどに情緒を語った。
最寄り駅に到着する頃、風が少し出てきた。もしかしたら雨が降るのかも知れない。
「時生、あの、次は学校で、かな。」
「うん。また明日、だね。」
時生は誰にも見られないような素早さで、海里の旋毛にキスをした。小柄な海里の頭の位置は、口づけるのに丁度いい高さだ。
海里は照れたように自身の髪の毛の先を指先に絡めて弄び、そして決意したように時生の腕を引っ張り、背伸びをして頬にキスをする。柔らかい唇が頬に押し当てられて、時生はくすぐったそうに首をすくめた。
「ほら、もう行かないと乗り遅れる。」
時生はそっと海里の肩を押した。
「うん。」
またね、と手を振って、海里はまるで踊る子鹿のような足取りで駅の構内に駆けていった。彼女の姿が見えなくなるまで手を振って、時生はそっと背を向ける。
やがてポツポツと雨が降ってきて、夜の帳が降りた駅前の交差点の角に立った。
「…。」
時生は目をぱちぱちと瞬かせる。興奮から冷めて疲れが出たのだろうか、視界に霞がかかったようだった。雨が肩を濡らして行く。肌にまとわりつき気持ちが悪い。
歩行者用信号の色が青に変わったことをつげる音声が流れ、何気なしに一歩踏み出した。その瞬間、車のけたたましいクラクション音が響き渡った。
あ、やばい。
そう思った瞬間に、時生の身体に衝撃が加わったのだった。
「全くもう!どれだけ心配させれば気が済むんですか!?」
大学病院の病室。都合良く、個室となった時生の病室に訪れた海里が開口一番、ぶち切れていた。怒る目の淵が赤く腫れていたことを時生は気が付いていた。言葉通り、多大な心配をかけたのだろうと思う。
時生は昨夜、自動車と接触事故を起こして、救急車にて病院に運ばれた。雨で視界が悪かった車は発進した直後だったために、スピード自体はそんなに出ていなかった。ただ、接触した衝撃で額を切った時生の血は中々止まらなかった。傷口を縫合し痛々しい包帯を何重にも巻いて、時生は検査入院を強いられた。
『彼氏、事故で入院したんだって?』
海里はその入院を高校で教員から知らされたという。何気ない会話の糸口で知った衝撃は計り知れず、海里は時生の入院先の病院を聞くと供に高校を飛び出したらしい。
「ごめんなさい。」
時生は素直に頭を下げる。
「本当に…、怖かったんだから…っ。」
海里の表情がくしゃりと歪んだ。涙が彼女の瞳から盛り上がり、表面張力を破って零れた。
「時生が死んじゃったらどうしようって。それしか考えられなかった…っ。」
泣くことを躊躇しない海里を時生は手招く。病院の白いベッドに近づいてきた海里の腰に腕を回して、そっと抱き寄せた。
「ごめんね、海里。大丈夫だから。」
時生は海里の柔らかいお腹に耳を当てる。心臓を動かす筋肉の鼓動が響いていた。
「…もう、起きていて平気なんですか。」
ぐす、と鼻を啜りながら、海里は時生の頭を抱きしめた。
「うん。平気。血が止まらなかったのも、打ち所が悪かったんじゃなくて僕が血友病だったからだ。」
声がくぐもる。海里がざらりとした包帯の布地を撫でている。そして。彼女は呟いた。
「血友病…?」
一度、ぎゅうっと強く抱きしめた後、時生は海里を解放してベッドサイドのパイプ椅子に座るように勧めた。
ギシ、と軋む音を立てながら、海里は時生の勧めに応じて座る。そして話を聞こうと耳を傾けた。時生は目を伏せて、淡く微笑む。
「何から話そうかな。…えーと、そう。まずは血友病のことだ。」
血友病、血液凝固因子の欠損により出血傾向をきたす遺伝性疾患である。それは伴性劣性遺伝のため、男性に現れるという。
「…まあ、簡単に言うと血液が固まりづらいんだ。そういえば左手の薬指を切断したときも、血が思ったよりも出て周囲の方が困惑していた記憶がある。」
気絶した同級生はかわいそうだった、と時生は笑う。
「痣や、内出血とかができやすいところを除けば、普段の生活に支障は無いよ。」
「そう、なんですか。知りませんでした。」
海里は神妙な面持ちで頷く。
「言ってなかったからね。どちらかといえば、目の方が重症かも。」
時生はそっと片手で片目を覆うように触れた。
「まだ何かあるんですか?こうなったら、全てを白状しなければ許しませんから。」
海里の強気な発言は、心を守る鎧だと言うことは薄々気付いていた。その心が自分だけのものとも限らず、海里は時生が告白しやすいように仕向けてくれたものだった。
「網膜色素変性症をもね、患っているんだ。徐々に視野が狭くなって行くみたいなんだけど、夜盲がそろそろ始まったんだと思う。」
「?」
首を傾げる海里に気が付いて、時生は言葉を足す。
「夜盲っていうのは、なんだ。確か、鳥目と同じ感じかな。ほら、奴らって暗いところだと視力が落ちるだろ。」
昨日の事故も、必ずしも100%が車側が悪いわけではない。時生も車が見えていなかったのだ。
「…身体の中、ボロボロじゃないですか。」
海里がまるで自らの身体が痛むかのように、声を絞り出す。「生まれつきだから、慣れたよ。」
時生は俯く海里の頭を優しく撫でた。するりと髪の毛が一房、指から零れる。
「海里は以前、双子の片割れを亡くしたと言ってたよね。僕の両親も双子だったんだよ。」
「どっちが?両方とも?」
偶然ですね、と言う海里を見て、時生は微笑む。
「本当、すごい偶然。双子なのに恋をして、僕を生んだんだ。」
微妙にかみ合わない会話に、海里は思考が追いついていないようだった。
「実の双子、兄妹での近親相姦。僕の遺伝性の病は、その弊害なんだよ。」
「…。」
海里の周囲の空気が凍る。
「生まれてきてはいけなかったんだ。」
個室で良かったなあ、などと時生はのんびりと思う。いくらなんでも他人と共用の部屋でしたい話ではない。
「…時生…。」
「僕の存在は、罪そのもので害でしかない。せめて、僕がいなければ両親はまだ生きていたはずだ。」
このままでは海里の美しい黒髪を強く握ってしまいそうだからと、時生は腕を下ろして布団の上で両手を組んだ。強く強く爪が肌に食い込み、紅い痕が刻まれていく。
「時生。」
「うん、そうだ。僕が生まれてこなければ、」
「時生っ!!」
病室に、乾いた音が響いた。海里が時生の頬を手のひらで張った音だった。
二人の息づかいが微かに聞こえるほどの静寂が統べる。先に動いたのは海里だった。パイプ椅子から徐に立ち上がると、時生のベッドによじ登った。二人分の体重を受けて、ベッドが軋む。時生の膝を跨いで座り込み、海里のスカートの裾がふわりと広がった。海里の黒色のニーハイソックスとスカートのレースの間にできた絶対領域に、時生は目が奪われる。肌の白さがより強調される黒と言う色は、禁欲的でいて卑猥だ。
「…どこを見てるの。えっち。」
人の視線は案外、当該人物に悟られている。例に漏れず、海里は時生の視線に気が付いているようだ。時生はごめんと呟きつつ、視線をそらすことができない。
「ねえ、海里。触れてもいい?」
彼女への好奇心を隠しきれず、思わず真っ正直に申請してしまった。嫌われたかな、と思いつつもいきなり触れるという暴挙を回避した自分自身を時生は褒めてやりたかった。「いいですよ。」
小さなため息を吐きながらも、海里から得た答えは意外にも了承だった。
「ありがとう。」
時生は礼を言うと早速、膝の上に座る海里の足を触れた。さらりとしたニーハイソックスの生地が邪魔だなと思いながら、その脚線をなぞる。膝の丸みを手のひらで包み込むように撫で、ピアノの鍵盤を奏でるように指で爪弾く。時折、海里はくすぐったさを我慢して微かを身をすくませた。ようやく触れた素肌のなめらかさに、時生は驚く。日焼けのしない部位はまるで温かい餅のような弾力だった。
やがて時生の手はするりとスカートのレースの中に侵入してきた。
「…っ、」
時生の愛撫に海里は熱い呼吸を飲み込む。腰骨の下をマッサージするかのように強弱を付けてタッチしたかと思うと、時生は満足したのか、そろ、と手を引いた。そして、海里の背中に腕を回して強く抱きしめる。
「ごめん。嫌だったろ。」
「…本当に嫌だったら、殴ってでも逃げてます。」
海里もまた、時生の背中を抱いた。
「ごめんなさい。頬…、痛かった?」
「え?音の割には全然。叩くのうまいんだね。」
時生の謎の褒め言葉を受け取って、海里はくくくと笑いをかみ殺して震える。
「人を変態みたいに言わないでくれますか。」
「いやー、素質あるんじゃない?」
二人でいたずらをした子どものようにくすくすと笑い合う。ふう、と一息を吐くように落ち着いて、海里はぽとんと時生に問う。
「…時生は、自分のお父さんとお母さんのこと嫌い?」
「好きだよ。」
海里はそっかと呟く。
「だから、余計に苦しいんだね。」
まるで酸素欠乏症に陥った金魚のように、時生はいっぱいいっぱいなのだと知る。肺に水が満ち、苦しくて堪らないのだ。
「好きよ。」
時生は寝間着越しにじわりと滲み、染みこんでいく。それは海里の涙だった。
「時生、大好き。」
顎の下にいる海里の震える旋毛に時生は口付けを落とす。ちゅ、ちゅ、と音を立て、触れては返す。まるで波のようだった。
「ごめんね。」
「何故、謝るの。」
謝る海里に時生は言葉を促した。
「言葉が足りないの。私はこんなにも時生を愛しているのに、全ての気持ちを告げるだけの言葉を知らない。それがとても、もどかしい。」
「…僕には、充分すぎるほどの言葉たちだよ。」
海里は上目遣いに時生を見る。
「待ってて。あなたが自分を許せるぐらい、私は時生への愛を囁き続けるから。」
なんて頼もしくて、強くて、可愛らしい女の子なのだろうと思う。海里の存在が尊くて、目が眩みそうだった。
「楽しみにしてる。」
時生の言葉に海里は、期待してて、と笑う。そして、ようやく時生の肩を押して身体をゆっくりと離した。
「そうだ、時生。今度の劇の主役、海咲さんに決まったんだよ。」
ベッドを降りながら、無邪気に海里は告げる。時生は海咲の白い死に顔を思い出した。
「そうなんだ。海里は…、残念だったね。」
「ううん、それが全然悔しくないんだ。むしろ嬉しいとさえ思ってる。」
ふふ、と笑い声を零しながら、海里は通学用の鞄の中から『KINGFISCHER GIRL』の台本を取り出した。パラパラとページを愛おしむようにめくり、カワセミの少女を演じる海咲のことを語る。
「海咲さんが歌うカワセミの少女の唄、とても素敵なんだよ。高音に伸びる歌声が華やかで、本当に楽しそうなの。」
そういえば、海咲の歌を聴いたことがなかったなと思う。少女と大人の女声の狭間を揺れ動くような彼女の声は確かに映える歌声となるだろう。そんな海咲の口から呪いの言葉が吐かれたことを、海里は一生知ることはない。
「さて、と。時生の無事を確認できたので、私は稽古があるから帰るね。」
パタ、と台本を閉じ、海里は鞄を持って身支度を始める。そして病室の扉を開けて、振り返った。
「またね、時生。」
「うん。あ、海里。」
出て行こうとする海里を時生は呼び止める。
「…頑張って。」
うん、と頷き、海里は胸の位置の高さで手を振って今度こそ出て行った。
劇団星ノ尾のスタジオの更衣室で、海里は練習着に着替えていた。てっきりすでに来ているものと思っていた海咲の姿はなく太陽のような明るさを持つ彼女の不在は、何だか寂しい。
「お疲れ、一ノ瀬さん。いよいよ今日から本格的な稽古になるね。」
海里の隣のロッカーを使う演劇仲間が、シャツを脱ぎながら話しかけてくる。
「お疲れ様です。そうですね、楽しみです。」
長い髪の毛をポニーテールに結いながら、海里は頷いた。
「一ノ瀬さんと斉藤さん、良いコンビだから劇もどうなるか楽しみだわ。」
主役を逃したものの、海里は海里でカラスの青年の役を射止めている。
「ありがとうございます。…良い劇にしましょうね。」
はにかみながら準備を終えて、海里は更衣室を出る。稽古が始まるまでに準備運動のストレッチを済ませておこうと思う。
やがて稽古の集合時刻が過ぎ、団長や演技指導の先生が劇団員の前に訪れた。だが、海咲はまだこの場にいない。海里は時計を気にしながら、海咲を待った。
「…おや、斉藤さんは?」
団長が気付き、劇団員に所在を尋ねた。
「まだ来ていません。」
「あんなに張り切っていたのに…どうしたんだろ。」
主役の海咲がいないことに、周囲がざわつき始める。
「海里、何か知っているか?」
海里の父親の団長が、娘と仲が良いという理由で問う。だけれど海里も知る由もなく、首を横に振った。
「そうか。まあ、今のところは様子を見て、欠席の連絡も無いようだったらこちらから連絡してみよう。…じゃあ先にカラスの青年が、すずめの老女の捜し物を手伝うシーンから読み合わせをしていこうか。」
はい、と劇団員の声が揃うが、ひそひそと囁く声は止まなかった。
「海咲ちゃん、祝杯でもあげて二日酔いなんじゃない?」
「ああー…、初めての主役で浮き足立ってたからねえ。」
海咲はカワセミの少女の役を神聖視すらしていた。そんなことはあり得ない、と海里は声を張りたかった。
確かに海咲は誰よりも貪欲にこの役を得たがっていた。それが叶い、浮き足立つのは当然のことだ。だが、その目的を果たしただけで満足し、稽古をおろそかにする愚弄を犯すようなことは絶対にしない。
「あの、それは、」
海里が声を上げようとした刹那、団長の声が重なった。
「海里。カラスの青年役のお前がいないと始まらないんだが。」
「…すみません。」
今、場の調和を乱すのは良くないと、団長は判断したのだろう。主役の海咲のことで空気が悪くなれば、当人が現れた場合に気まずさは増すはずだ。
海里は無理矢理気持ちを切り替えて、役者の円陣に加わり台本を開くのだった。
結果として、今日の稽古に海咲は現れなかった。団長は首を傾げつつ、劇場の電話で海咲に連絡を取ろうとする姿が見えた。だが、彼女のスマートホンに通じるものの通話に出ることはなかったという。
「海里も斉藤さんに、メールをしてみてくれないか?」
心配する団長にそう頼まれて、海里は頷くのだった。
事務の仕事が残っているという団長を残して、海里は一人で家路につく。その帰り道、海里は自らの携帯電話を取りだしてメールの制作画面を開いていた。
『こんばんは、海里です。今日はどうしましたか?皆、心配しています。』
文章を制作して、送信する。そしてもう一通、今度は喜一宛にメールを打った。
『上田さん、こんばんは。あの、海咲さんを知りませんか?今日の稽古に来なかったので。何か知っていたら、連絡ください。』
そういえば一日に一通は来る喜一からのメールも今日は来なかったな、と海里は思う。
一人の夜の道がいつの間にか孤独を囁く、僅かな恐怖を孕んでいた。前までは一人でいることが当たり前で、夜の闇も怖くなかったのに。きっと時生を初めとして、心を許す人間が増えたのだ。これは恐らく良い変化なのだろうと言うことは、理解できた。だがこの恐怖が続くことで自分が弱くなったらどうしようとも思う。
「…それも、いいか。」
恐怖の闇を祓う月明かりが道を照らしていた。月は確かに存在する。その月は、時生だ。彼を思うだけで、私は強くなれる。
二日が経ち、時生は検査入院を終えた。病院を出ると、外のロータリーで待っていた海里が気付いて駆け寄ってくる。
「時生、退院おめでとう。」
そう言って、海里は時生の荷物が入ったボストンバッグを受け取ろうとする。
「ありがとう…って、彼女に荷物を持たさせる彼氏ってどうなんだろう。」
うーん、と時生は首を傾げた。
「いーの!今日は、退院祝いだから。」
海里は引ったくるようにして、時生の手からボストンバッグを奪い取った。着替えや洗面用具だけなので、女子でも持っていて負担は少ない。が、男子としては考えようだった。
「海里、やっぱり自分で、」
持つ、と言おうとするも、海里が父親の姿を見つけてさっさと駆けていってしまう。
「お父さーん。時生、来たよ。」
愛娘に話しかけられて、煙草を吸っていた父親が嬉しそうに顔を上げた。
「おお、来たか。八尾くん、久しぶりだね。」
「お久しぶりです。わざわざ車を出してもらって、すみません。助かります。」
今日、病院からの迎えの車を、海里の父親が買ってでてくれたのだった。
「いいよ、いいよ。気にしないでくれ。さあ、乗って。」
海里は父親の喫煙に文句を言いながら、すでに助手席に乗り込んでいる。
「海里、八尾くんの荷物なんだからもっと丁寧に扱いなさい。」
時生のボストンバッグを勢いよく自身の膝の上に置く海里を、父親がたしなめた。
「あ、大丈夫です。そんなたいした物は入っていないので。それよりすみません、お嬢さんに荷物を持たせてしまって。」
時生は頭を掻きながら、後部座席に乗った。
「悪いね、がさつな娘で。荷物も無理矢理、八尾くんから取ったんだろう?」
苦笑しながら、父親は運転席に乗り込む。海里は唇をとがらせた。
「だって、病み上がりなんだよ?荷物持つぐらい、普通でしょ。」
「いやー、彼氏としては良い格好つけたいところだろう。ねえ、八尾くん。」
さすがに同性でもある海里の父親は、時生の心持ちを敏感に察してくれる。まあ、と時生が困ったように笑うと、海里が憤慨したように振り返った。
「迷惑だったの?」
「ありがたかったです。はい。」
時生が頭を下げると海里は、よろしい、と満足そうに笑い、前を向いた。
「もう尻に敷かれてるようだねえ。」
その様子を、父親が微笑ましく見守っていた。
しばらく車内は和やかな雰囲気を保ち、道路を走っていた。だがその内に、時生はこの時間帯は海里がいつも稽古の時間に費やしていたことを思い出した。
「ところで、今日の劇のレッスンはどうしたんですか?」
わざわざ休ませてしまったのかと思い、時生は問う。
「…それがね、主役を演じる海咲さんと連絡が付かないの。」
海里が心配そうに瞳を伏せながら、答える。
「さすがに主役がいないと、練習もできなくてね。代役を立てていたんだが、それも限界があって。」
どうしたものかなと呟きながら、父親が首を傾げた。
「劇団員にも無理を強いることも難しい。これからも連絡が付かない様子が続くようなら、最悪は主役を降りてもらうしかないな。」
「でも、お父さん。…海咲さんはすごく頑張っていたんだよ。練習に来られないのはきっと、何か理由があるはず。」
落ち着かない様子で手を揉みながら、海里は海咲の身を案じていた。
「たった三日。されど、三日。役者は一日もあれば、爆発的に成長することがある。海里にも身に覚えがあるんじゃないか。…稽古にあてる一日をおろそかにするのはいただけない。」
「…。」
父親の言うことが理解できるのだろう。海里は唇を噛み、俯いた。
「海咲さんなら、」
車窓から流れる景色を眺めながら、時生の口からするりと言葉が零れる。
「アパートの上階で死んでますよ。」
次の日の朝刊にて。アパート、かぜよみ荘で二体の遺体が見つかったと記事が載った。
亡くなっていたのは上田喜一(享年21歳)と、斉藤海咲(享年21歳)。上田喜一には複数の刺し傷があり、背中にも傷があることから殺害されたと見られる。一方、斉藤海咲は自傷が致命傷となっており、こちらは自殺と断定された。
かぜよみ荘の周囲には規制線が張られ、パトカーが二台ほど止まっていた。野次馬も群がって、一帯は騒然としていた。
海里は住人のいないかぜよみ荘を遠くの電柱の影から見守っていた。
『海咲さんなら、アパートの上階で死んでますよ。』
時生の無機質な声が今でも鼓膜に残って、脳にこびりついて離れない。
あれから海里の父親は、海里だけを自宅に降ろして時生と二人でかぜよみ荘に向かった。海里は茫然自失となり母親に肩を抱かれ、手を握ってもらいながら父親からの連絡を待った。だが、最初に着た電話は警察からのもので、父親が二人の遺体の第一発見者となったとの連絡だった。以降の記憶が断片的なものになったのは、海里が貧血を起こして気絶したからだろう。
海里が目を覚ましたのは、その日の深夜。深海から泡が上がるように、ゆっくりとした意識の浮上だった。その深海は紅く、温かく、とろりとしていた。今思えばあれは、深海ではなく母親の胎内、羊水の中だったのではと思う。
「…、」
誰かの名前を呼んだ気がする。それはとても愛おしく、大切な何かの欠片だった。目覚めたくないと願い、その願い叶わず、海里は自室のベッドの上で目覚めた。
息をしている。当たり前だ、生きているのだから。
海里の心は何故か凪いでいた。柔らかな布団の上で、深呼吸を繰り返す。瞼を何回か開閉して、暗闇に瞳を慣らすとゆっくりと身体を起こした。
カーテンの隙間から月明かりが差して、室内を青白く染めている。そっとベッドから足を下ろして、床に立ってみた。若干足下がふらつく気がしたが、それでも歩けば徐々にバランスを取ることが事足りた。
扉を開けて見ると、階下から電気の明かりが僅かに差していることに気が付く。海里は明かりを目指して、ひたひたと裸足で階段を下っていった。
明かりはリビングから放たれていた。そっとガラス戸越しに室内を覗くと、父親が背中を丸めて身体を震わせている。その隣で母親が父親の背をゆっくりと撫でていた。泣いているのだと、海里は悟った。
いつもおおらかに笑い、時々気が弱いけれど、それでも頼りがいのあるあのお父さんが泣いている。私はこの涙を見たことがあった。それは私の左手首に刻まれたリストカット痕に理由がある。
海里が中学生の頃のことだ。場所は中学校の教室。苛立ちや不安、生きづらさを感じたピークの時にとっさに目に付いたシャープペンを肌に突き立てた。床に滴った血液を冷静になった海里がティッシュで拭っているところを、同級生が見かけ担任に報告をした。担任は一ノ瀬家に電話をして、海里の自傷が両親に知らされたのだ。
何も知らずに鈍い痛みと傷跡を連れ帰った海里は、リビングで泣いている父親を見た。
『…お父さん?』
『…海里…っ、』
父親に声をかけると、海里にようやく気が付いて困ったように涙を拭うと手招きをして隣に座らせた。そしてそっと左手を取った。
『…。』
『痛かったろ。ごめんな。』
何故、謝るのだろうと思う。私がいけないのに。生まれてきたのが私だったから、いけなかったのに。
自分で貼った不器用な絆創膏の上を父親は恐る恐る撫でてくれた。
『大丈夫。死ぬ気は無かったの。』
衝動的なものだと何度も説明して、ようやく父親は落ち着いた。やがて買い物から帰ってきた母親がその日の夕食は、海里の好物ばかりを作ってくれた。元気がないときは好きな物を食べるのが一番、と家の中を明るくしてくれた。
それは生きているからこそ、だったのだ。
「お父さん。お母さん。」
海里はリビングの両親に声をかける。そしてゆっくりと近づく。
「海里…。目が覚めたのね、大丈夫?気分は悪くない?」
「うん。」
母親が海里を招き入れる。そして、父親ごと二人を抱きしめた。
「…海里。お願いがあるの。」
「何?」
母親の声が震えている。
「八尾くんには、もう…会わないでちょうだい。」
父親は警察に時生のことは伏せてあるらしい。その代わり時生には、娘とは縁を切って欲しいと頼んだという。
「あなたが心配なの。わかって、くれるわよね?」
母親の言葉が身体の芯に染みこんで、心が冷えていく。何故だろう、普通なら身の安全の確保に安堵するはずなのに。「うん。わかった。もう、時生とは会わない。」
海里が頷くと、母親はほっと一息を吐いたようだった。父親は無言のまま涙を拭い、海里の手を取った。そしてぎゅっと弱々しくも握ってくれた。海里が力強く握り返すと、母親を巻き込んで抱きしめるのだった。
「今日、学校を休んでも良いのよ?」
登校準備をする海里に母親は言う。
「ううん、行く。いつもの日常を過ごさないと。」
そう言いながら靴を履き、玄関の土間に立つ。海里は微笑んで、振り返った。
「行ってきます。」
扉を開けると朝日が目に眩しく、景色が一瞬白く染まった。手で日陰を作り、空を見上げる。朝を迎えた喜びを鳥たちが歌っていた。
駅前の通学路で小学生が集団登校の列を成し、まだ眠そうなサラリーマンがあくびをかみ殺しつつ通勤している。海里が乗り込んだ電車は時生が住む町の最寄り駅へと向かう車両だった。電車は線路に導かれて、時々揺れながら人々を目的地へと運んでいく。
気の抜けたような音と供に電車の扉が開く。住宅街に位置する駅に降車する乗客は少なく、海里は身軽にホームへと降り立った。もう勝手知ったる時生が済むアパート、かぜよみ荘への道を辿る。進んでいく先は段々と賑やかになっていくようだった。パトカーと警察官、野次馬がかぜよみ荘を囲んでいるのが見えた。時生の上の部屋の扉付近にはブルーシートが貼られ、鑑識官とも思える人たちが忙しそうに行き交っている。
海咲さんと上田さんは、あそこで死んだのか。彼らは一体、どんな最期を迎えたのだろう。
現実感がまだ涌かなかった。
野次馬に交わることもはばかれて、海里はじっと電柱の影に隠れるように見守った。案じていたのは、時生のことだった。彼は今、何を思っているのだろうか。
両親に時生に会うことを禁じられたものの、海里はもう一度会いたかった。詰る気も、怒る気もない。ただ、時生の口から海咲と喜一の最期を語って欲しいと思った。
「時生…、さすがにあの渦中にはいない…よね。」
今、かぜよみ荘に何食わぬ顔をして住んでいるとは思えない。保護者である叔父のところに帰っている、と思った方が自然だ。海里はふとため息を吐く。時生のメールアドレスと電話番号は両親の目の前で携帯から消去してしまったので、連絡のしようがない。きっと一度はかぜよみ荘に戻ってくることを信じて、海里は待ち伏せを始めるのだった。午前が過ぎ、正午になっても時生は現れない。もしかしたら学校にいるかも、という考えもよぎったが、動いたことで入れ違いになるのも避けたかった。ここで待つと決めたからには、動かない方が良い気がした。午後二時の一番暑い時間帯、じりじりと厳しい残暑が肌を焼く。いつもなら日焼けを嫌がって早々に建物に避難するが、今日はどんなことがあっても我慢しようと思った。
海里は俯いて足下を見つめていた。蟻がせっせと餌を集め、巣へ運んでいく。その餌の中には何かわからない虫の翅があった。デジャブのような光景を見て、海里はワンピースのポケットを探る。取り出したのは時生が作ってくれた樹脂封入標本だった。手のひらで転がすように眺める。蝶々の翅のきらめきは失われたが、形はきれいに残っている。もっと丁寧に作れば良かった、と言った理由の僅かな傷を中指の腹でなぞった。つるりとした樹脂の表面に刻まれた傷に何故か愛着がわいた。それは仲間意識にも似た感情だった。
野次馬の顔ぶれが次々と変わっていく中、海里は忍耐強く待った。時が過ぎ、日も暮れていく。日中、ずっと晒されていた肌は赤くなりヒリヒリと痛んだ。海里の白い肌は日焼けする代わりに、爛れるように熱を持つのだった。
もうすぐ門限の時間を逆算して、家に帰らなければならない時間だ。今回の件を以て、父親はひどく神経質になってしまっているので早く帰宅して安心させてやりたかった。海里は名残を惜しんで振り返りつつも、その場から離れる。電車に乗り込み、帰路につく。帰宅する人々の波に流されながら、駅の改札を出ると父親が手を振っていることに気が付いた。
「おかえり、海里。」
「ただいま…って、どうしたの?」
首を傾げつつ、海里は父親の元へと駆け寄る。
「ん…、たまには迎えに行こうかなと思ってな。」
恥ずかしそうに父親は笑い、頬を人差し指で掻く。海里は父親の心情を察して、下ろされた手をそっと握った。
「お父さん、ありがとう。帰ろっか。」
父親は驚いているようだったが、すぐに嬉しそうに海里に連れられるままに歩き出す。
手を繋いで歩くのは何年ぶりだろうと思う。今思えば、幼い頃はよく手を引いてもらっていた。
「…海里。」
ありふれた会話が途切れて、父親が呟く。
「何?」
「昔、お前は双子で生まれてくるはずだったと話したことがあっただろ。」
海里は頷く。
「生まれてきてくれたのが、海里で…本当によかった。そして、こうも思うんだ。」
言葉を句切り、父親は空を見上げた。今日は雲が厚く朧月夜だった。やわらかな月光が、周囲を包んでいた。
「…亡くなったのが、海里でなくてよかった。」
「!」
海里は父親の横顔を見上げた。唇の端が震えているのがわかる。その言葉の意味が、二重の意味を含んでいることが理解できた。父親は双子の片割れでも、海咲と喜一のカップルでもなく、何よりも誰よりも海里を選んでくれたのだ。仄暗い罪悪感と供に、途方もない多幸感が海里の胸に満ちる。父親は握っていた手の力をぎゅっと強くする。
「伝えるのが遅くなってごめんな。」
次の日も海里は高校には行かず、かぜよみ荘の前に来ていた。野次馬は幾分か少なくなり、パトカーもいなかった。だが、二人分の死の重みは拭えないほどの空気の澱みとなって周囲を穢していた。海里はその空気に身を浸しながら、星ノ尾の練習スタジオでのことを思い出していた。
昨夜、正式に星ノ尾の劇団員に海咲の死が伝えられた。困惑の視線、すすり泣く声。驚愕の息づかいがその場に満ちた。
『海咲さんが彼氏を殺めたんだって。』
『ちょっと、やだ…。劇団にクレームきたらどうすんのよ。本人は自殺したんでしょ。』
不安に駆られ、死人を悪く言う者もいた。
人が二人亡くなっているのだから、悲しめば良いのに。供に演劇の道を歩んできた仲間に責められ、詰られる海咲が不憫でならなかった。
劇団は一週間、喪に服すことになりその期間は稽古も休みになった。『KINGFISCHER GIRL』の劇も続投か、降板かも知れない中途半端な状況だった。
「ー…、」
海里は歌をうたう。
「ささやき、繰り返し、響く私の星…。」
それはカワセミの少女の歌。
「心だけでも、想いだけでも傍に行けたら良いのに。」
海咲が歌うはずだったもの。
「…ポラリス。私に何を示す。」
細く、高い音程の歌詞たちに声がかすれてしまう。成長期の海里の喉には負担が掛かった。だが、海咲は。海咲なら、歌い上げることができたのに。
見守っていて、と願うにはまだ早くて、心の整理が付かない。だからせめて、まずは手を振ることから始めようと思う。私が手を振った際に起こった風が追い風になり、海咲と喜一の魂が緩やかに天に昇っていけば、それでいい。
海里は空を見上げてみる。十月の空は晩夏を宿して、未だに入道雲を描いていた。
待ち伏せも三日目となると、さすがに高校から無断欠席の連絡が行くだろうか。時生との面会を禁じられている身分ゆえに、その状況は避けたいところだ。そろそろ高校に行かなければ、と思う。今まであんなに嫌っていたのに、登校を隠れ蓑にしている自分の調子良さに若干呆れるが背に腹は代えられない。
私は、時生に会いたい。
ただその一心だった。
貴重な水分であるペットボトルのミルクティーを大事に飲みつつ、その温くなってしまったがためのもたれるような甘さに眉をひそめた。素直にミネラルウォーター、せめて無糖のお茶類にすればこんな不快感は味わわなくてよかったのにと一瞬思ったが、少しでも時生を感じたかったからこのチョイスにしたのだと考え直す。
「時生のばーか、ばーか。」
適当にリズムを付けて、繰り返していると散歩中の犬が不思議そうに見つめてきた。
犬は嫌いだ。幼い頃に、追っかけ回されたことがある。犬は無邪気に遊んで欲しかっただけなのかも知れないが、自分よりも体長のある獣が迫ってくるのは唯々恐ろしかった。
ざり、と一歩、後ずさろうとした刹那、頭上から優しい声色が降ってきた。
「大丈夫?海里。」
自らを案じるその柔らかい言葉に、時が一瞬止まった気がした。ゆっくりと振り返る。
そこに、時生が立っていた。
海咲の行方を案じる海里の心配そうな声に、言葉だけが先走ってしまった感は否めない。時生は自分が放った言葉に、自身で驚いていた。決して二人の死を告げるつもりはなかったのに、海里があまりにも可愛くて可哀想だったからつい口を吐いてしまったのだ。
海里だけを下ろした車内はとても静かで、時生の住むアパート、かぜよみ荘までの道をナビゲーションする声だけが響いていた。
目的地に到着し、かぜよみ荘の古く寂れた階段を二人分の靴音を立て上がっていく。喜一の部屋に鍵はかけていなかった。残暑が厳しかった所為もあるだろう、室内は死臭に溢れていた。
刺殺された喜一と自殺した海咲の遺体を見て、海里の父親は冷静に携帯電話を取りだして警察に連絡をした。事前に死を宣告されていたとはいえ、取り乱しもしない姿はとても立派だと思った。通話を終えて、海里の父親はようやく時生と向き合う。
「…八尾くん。君は実家に戻りなさい。今すぐに、だ。」
「僕のことを警察に言わないんですか?」
時生は目を丸くした。当然、自分も事情聴取をされるものだと思っていた。
「ああ。その代わり…、娘とは縁を切って欲しい。」
「…。」
そこにあったのは愛する娘を守る姿だった。これが父親としての態度なのかと、時生は素直に感心した。
娘の海里を慈しみ、愛し、心配して労ろうとする形に、なんて美しいのだろうと思う。
時生の沈黙を勘違いしたのか、更に海里の父親は頭を下げた。
「頼む、お願いだ。これ以上、あの子を傷つけたくない…っ。」
声が震えている。遠くではパトカーのサイレンが近づきつつあった。時間はもうさほど無い。
「わかりました。お嬢さんとは、もう会いません。」
時生は頷いて、ポケットを探り自分自身のスマートホンを手に取った。画面をタップし、海里の連絡先を父親に見せて、その場で削除をした。その動作に海里の父親は目に見えて、安心したようにほっと息を吐いた。
「…ありがとう。さあ、もう行きなさい。すぐに警察が来る。」
そう言うと海里の父親は、時生の背中を押すのだった。
入院中の荷物をそのまま持って、時生はかぜよみ荘を後にした。途中、パトカーとすれ違う。これから周囲は大騒ぎになるのだろうなと思い、近隣住民に心の中で謝罪をした。
久しぶりの叔父の家は広く、時生は以前使わせてもらっていた離れの一室を使わせてもらうことになった。叔父は時生のいきなりの来訪に驚いたようだった。
「一応、部屋の換気だけはしていたからすぐに部屋は使えるよ。」
「いつもありがとうございます、叔父さん。すみません。」
謝ることはない、と叔父は首を横に振ってくれる。
「事故の傷は痛まないか?中々見舞いに行けなくて悪かったな。」
叔父は時生が入院中、仕事の出張と重なっていたらしい。着替えなどを届けてくれたのは、叔母だった。
「大丈夫です。今日は…、久しぶりに叔母さんの手料理が食べたくなって。」
時生はそう言って笑みを作ると、叔母も嬉しそうに笑ってくれた。
「男の子の一人暮らしですもんね。そりゃあ、たまには人に作ってもらいたくなるわよねえ。」
時生の両親が双子で、自分自身の弟妹であることが引け目だとしても叔父夫婦は本当に時生に良くしてくれた。今日だって、快く招き入れてくれる。だからこそ、かぜよみ荘での事件を知ったときにどんな風に思うのだろうと純粋に興味があった。
その日は朗らかな夕食を終えて、時生は懐かしい自室に布団を敷いて横になった。幼い頃に怖かった人の顔のような天井の木目も、今では何とも思わないほどに成長していた。時生は瞼を閉じる。暗闇に浮かぶのは、海咲の死を告げたときの海里の虚無を描いた表情だった。
夢を見た。
それはアパートの天井に吊されて揺れる両親と、泣きながら死んでいった喜一と海咲の遺体の面影だった。時生に関係する人物の遺体はいつだって、頭上にあった。人は涙をこぼさぬように上を向くと歌うが、上を向くことが時生にとっては死との対峙であった。
「…?」
風船が弾けるような急激な意識の覚醒。一瞬、自分がどこに居るのかわからなかった。上半身を起こして、周囲を見渡してようやく叔父の家にいることに気が付いた。身支度をして母屋の居間に行くと、叔父が難しそうな顔をして新聞を読んでいるところだった。
「おはようございます。」
時生が挨拶をして叔父の前に座ると、すぐに叔母が朝食の準備を始めた。
「おはよう、時生くん。卵は何にする?」
「目玉焼きでお願いします。」
半熟にしとくわね、と言い、叔母は鼻歌を口ずさみつつ台所に戻っていく。
「…時生。」
叔父が新聞紙から顔を上げる。そして一枚の記事を時生に見せた。
「このアパート…お前が住んでるところに近いんじゃないか?」
地域のニュース欄で、アパートで二人の遺体が発見されたという内容だった。名前こそ伏せられているものの、それは確かにかぜよみ荘でのことだった。
「本当だ。近そうですね。」
台所から戻ってきた叔母から、ごはんと味噌汁を受け取りながら時生は何でも無い風を装って答える。
「あら、怖いわねえ。物騒な世の中だわ。」
叔母も記事を覗き込み、呟いた。
「本当にな。時生も戸締まりを気をつけなさい。」
はい、と時生は頷いて、朝食を採り始めるのだった。
その日は叔父の家から、高校に通った。かぜよみ荘に比べれば、遠い立地にあるため些か早く家を出た。
久しぶりに乗った都営バスに揺られ、スピーカーから響くバス運転手のアナウンスを聴きながら、車窓から流れる景色を眺めていた。冷房が効いていて快適な車内だった。いつもは満員の電車に乗っているために、慣れないバスもいいな、と単純に思う。
高校前までは行かない路線だったので最寄り駅前のバスロータリーで降り、他に歩く生徒たちに混じって時生は歩き出す。黒髪や黒っぽい服をきた同年代の女子を見かける度に、一瞬、海里を思い出してしまう。
彼女は今、何を思っているのだろう。
ふと、時生は自身の左の薬指が欠けた歪な手を見る。海里の柔らかい肢体や、流れるような黒髪の手に吸い付くような感触がまだ生々しく手のひらに残っているようだった。授業は退屈で、早々に専門学校を進路に決めた者だけの特権で寝そうになる。だが、クラスメイトのひんしゅくを買うのもおっくうなので耐えた。興味の無い教科だったが、黒板に書き記された文字をノートに書き写すことで眠気を堪えることにした。カリカリとシャーペンがノートに文字を刻む音が響く。ゆっくりとのろすぎる時間だけが過ぎていった。
茫洋とした一日が過ぎ、今頃警察の現場検証の真っ只中であろうかぜよみ荘には帰らずに、叔父の家に帰ることにした。あらかじめ二~三日お世話になる旨を伝えていたので、叔父の家に帰っても驚かれることはなかった。
夕食を摂り、団らんを終えてから自室に戻る。そういえば、カメラのフィルムにはまだ海里の笑顔が残されているはずだった。まだ現像をしていないことを思い出して、時生はカメラを手に取った。
ー…定着液に浸した後に乾かそうと、部屋の天井に張ったロープに写真を干す。
そういえば、専門学校に提出するポートフォリオも作成させなければならないのだった。
「…どうしたもんかな。」
何枚か撮りためた写真はあるものの、未だにこれといった決め手に欠けていた。日常をテーマにしていたが、時生の日常にはすでに海里がいた。だが、ポートフォリオ用に撮った写真にはどこにも海里がいない。いつの間に、こんなにも海里がいる風景が自然になったのだろうと思う。ため息を吐きながら、海里の笑顔の写真を見た。
このときはまだ、海里は二人の死について何も知らなかった。
無邪気で、可愛らしくて、無垢なその笑みが凍り付いたあの瞬間を時生は思い出した。
「…。」
暗室となった部屋の窓ガラスが、鏡の代わりになって己と目が合う。時生は口元に柔らかな笑みを浮かべていた。
次の日もまた、高校に普通に向かう。海咲と喜一が死んでいても、普通の日常を過ごせるのは海里の父親のおかげだ。感謝しなければならない。
午前の授業を終えての昼の休み時間。時生は非常階段の踊り場で叔母手作りの弁当を早々に食べ終えて、手持ち無沙汰になっていた。教室に戻ることもなく、唯々非常階段から空を見上げていた。何気なくスマートホンを取り出してしまうのは、若者特有の癖だろう。その割にはSNSを眺めるのも億劫で、好んで遊んでいたスマートホンのゲームアプリで時間を潰す気にもなれず、いたずらに画面に表示される天気予報を見ていた。今日は一日、晴れらしい。
ふあ、とあくびをしつつ、時生は服が汚れるのもいとわずに横になる。暖かいを通り過ぎて熱いぐらいの陽気に、夏休みに行った海水浴を思い出した。あの日も暑くて、海咲と喜一の仲もまだ冷えていなかった。
「…そうだ。」
海咲の笑顔を思い出して、ふと彼女が主役を演じる予定だった作品『KINGFISCHER GIRL』に思いをはせた。確か童話だと行っていたが、高校の図書室にあるだろうか。気にすれば、どんどん物語を知りたくなってきた。時生は徐に起き上がり、図書室に向かうことにした。
『KINGFISCHER GIRL』の絵本は無かったものの、英語の原文小説があり時生は表紙を開いた。知っている単語をパズルのように組み合わせて、読み解いていく。図書室はしんとして人気が無く、集中して作業することができた。
「純度の高い…、夜の蒼、色の翼を持つ少女がいた…。」
美しく秩序を保った羅列の中に、植え付けられる一粒の不安の種。口にすると、すとんと胸に落ちるような言葉たちだった。
カワセミの少女から紡がれる、カラスの青年に贈る愛の色が滲んだ歌に海咲の姿が重なった。
「海咲さんは、この歌をうたいたかったのか。」
彼女の愛は確かに鮮やかに色づいていたが、それは翼を広げて飛ぶには重かったのだ。
なるほど、と時生は一人納得して頷いた。
やがて校内のチャイムから予鈴が鳴り、時生は本を元あった棚に戻した。
海咲と喜一の死が発覚して三日目。時生は一度、かぜよみ荘の様子を見に行こうと思い、朝に荷物を全て持って叔父の家を出た。
「また、いつでも帰ってきなさい。」
叔父はそう言って、時生を送り出してくれた。軽く頭を下げて、歩き出す。
その日の授業を終えて、高校の小さなロッカーからボストンバッグを取り出してかぜよみ荘への家路についた。たった三日離れていただけなのに、随分と久しぶりな気がした。最寄り駅を降り、住宅街を歩いて行く。角を曲がればかぜよみ荘が見えてくる、という刹那。時生の視界に不自然なほどの黒色が映った。
「!」
それは、海里だった。
パフスリーブのブラウスの上に、黒いジャンパースカート。ひらりと揺れるレースがあしらわれた黒のハイソックスに、足下をバレエシューズのようなリボンで結ぶ靴を履いている。ゴシックロリータと言われるファッションは、本当に海里によく似合うと時生は改めて思う。黒は海里をより一層美しく着飾る色だった。
かぜよみ荘の階段近くに立つ海里を、しばらく時生は呆けたように見つめていた。彼女は時生に気が付かない。独り言か、もしくは小さく歌をうたっているのか紅い唇が僅かに動いている。ふと、伏せていた瞳が驚きに見開かれた。海里の足元近くに、散歩中の小型犬が匂いを嗅ぐように近寄ろうとしている。硬直する海里の小柄な身体を見て、彼女が犬を怖がっていたことに気が付いた。次の瞬間、海里への接近禁止令が彼女の父親から出ていることを忘れて、時生は歩み寄っていた。
息を呑み、後ずさろうとする海里の背後に立って。そして、ようやく声をかけることができた。
「大丈夫?海里。」
海里はさらに目を見開いて、振り返った。黒く美しい髪の毛がふわりと丸く翻る。時生と向き合ってその瞳は揺れて、唇が震えていた。
「…時生!」
小さく叫ぶように海里は時生の名前を呼んで、手にしていた飲み物のペットボトルを落とす。そのまま手を広げて、時生を包み込むように海里は抱きしめていた。そのまま海里は子どものように、時生の胸に顔を埋めて泣く。熱い涙が時生のシャツに染みこんでいった。
「どこにいたの…。私、ずっと…待って、た。」
高校内で彼女の姿を一ミリも見かけなかったのは、どうやら海里がかぜよみ荘の前で待っていてくれたからだと時生はようやく知った。
「ここにいてくれたんだね、海里。」
時生は海里の柔らかい肢体をきつく抱きしめた。
「ごめんね、ありがとう。」
甘いシャンプーの香りに混ざって、仄かに汗の匂いが滲む。海里の肌は赤くなっていて、残暑の厳しい日中の外に立たせていたことを時生は悪く思った。
ひとしきり泣き、海里は鼻を啜りながらようやく顔を上げる。
「…怒ってる、よな。」
時生の言葉に海里は当たり前だと頷いた。
「心配したんだから!」
「心配?」
首を傾げる時生を見て、海里も釣られるように首を傾げる。「何故、疑問形に?」
「いや、ほら…。怒ってるというのは、海咲さんのこと…なんだけど。」
混乱を隠すことすらできずに、時生は告白する。あんなにも海里を傷つけるような行為をしたのに、何故、僕を心配してくれるのだろうと思った。海咲の名前を聞いた瞬間、海里は苦しそうに瞳を伏せるがそれでもと顔を上げた。
「海咲さんたちのことは驚いたけれど…、でも、聞いた話だとあの二人だけの中で事件は完結しているようだった。時生が積極的に関わった訳ではないのでしょ?」
オブラートに包んではいるが海里は、時生が二人を殺したのではない、と断言していた。言葉の意味を汲み時生が頷いてみせると、海里もほらねとばかりに微笑んだ。
「海里は俺を信じてくれるんだ。」
時生は照れ隠しに海里を試すような言葉を使った。
「絶対的に信じてる。時生になら、裏切られてもいい。」
海里から返された言葉は予想の何倍も強固なもので、時生は驚く。
裏切られてもいい信頼だなんて、なんて甘美な響きだろう。「それなら…、」
だから、もっと甘えたくなってしまった。
「僕と一緒に、逃げてくれる?」