タニグチヤスト――いや、鉄鰐のチャンネルはもちろんお気に入り登録して、配信を聴いたことは早速、さくらちゃんと吉野さんに報告した。
 十年前、鉄鰐さん一度限りのライブ配信を聴いていた【アスナ】がわたしだなんて、さくらちゃんたちは夢にも思っていない。
 わたしからも話すつもりはない。
 三人のなかでは自分がいちばん新入りのファンだって、心からそう思っている。

 それから一ヶ月が経った、とある平日の午前中。
 バイト組は学校があるため、働いているのは店長のわたしだけだった。
 お客様は、一杯のモーニングコーヒーを片手にノートパソコンに向かう常連のサラリーマンと、子どもを幼稚園に送り届けたあとでお茶するママ友がひと組。
 ぶっちゃけ余裕で回せる空き具合だ。

 やがてサラリーマンのお客様がお会計をして店を出ていくと、そろそろランチタイムの合図。少しだけ忙しくなる。

 案の定、ほぼ入れ替わるかのようにして、からん、と入店を告げる音がした。

 若い男性おひとり様。はじめてのご来店だと思う。ラフな黒いパーカーにジーンズ。黒い大きなバックパックを背負っている。近所に住んでいる方だろうか。

 「空いているお席におかけください」

 とご案内すると、彼は迷わず、さきほどのサラリーマンが座っていた端の窓際に腰掛け、バックパックからノートパソコンを取り出した。
 あの席はほかの人からパソコンの画面が見えにくいから人気なのだ。

 彼はしばらくメニューを眺めていたけれど、さほど時間もかからずに視線をはずし、店員の姿をさがした。わたしと目を合わせると、ひかえめに手を挙げる。

 「あ、すみませーん」

 彼が声を発したその瞬間。わたしの心臓は止まりそうになった。

 いや〜、いやいやいやいや。
 まさかね。
 興奮するのはまだ早いでしょ。まだ確証はないし。
 ものすごく似た声の人なのかもしれないし。
 そうだよ、きっとそう。

 この特に聴力の良くも悪くもない耳が、絶対音感もない耳が、そんな反射的に、はじめて聴くその肉声を聴き分けるはずがない――。

 だけど彼、十年前に言ってなかった?
 ここ、鰐池町に住んでいるって。
 そうだ。そうじゃん。
 いまや鰐池町の人口の百倍ファンがいるせいで、すっかり基本的な情報が頭から抜けていた。
 タニグチヤストは、まだこの町に住んでいるのだ。
 だから、このお店に来店する可能性だって、ゼロじゃない。

 はやる鼓動を抑えて、席まで近づく。
 「お待たせいたしました、ご注文おうかがいいたします」と早口に言いながら、まだ半信半疑の段階なのに、どうしても彼の顔をみることができなかった。

 「コーヒー、ホットで」

 最短で、最低限の、なんの変哲もないそれだけの会話。
 なのに、

 「かしこまりました、ありがとうございます」

 言葉の端がわずかに震えてしまう。
 やっぱりわかる。
 チャンネル登録してからというもの鉄鰐の動画は、過去のものも最新のものも毎日見て、聴いていた。
 そのせいか九十九パーセント確信が持ててしまった。

 厨房へ戻り深呼吸。豆を挽きながら必死で頭を冷やす。

 どうしよう。いや、どうもしないのがいちばん妥当な選択肢だ。
 知らないフリをして、黙ってお会計まで済ませるのだ。
 こんなところで素性がバレたら、このお店にはかなり来にくくなるだろう。店員のわたしも警戒されるだろう。ストーカーかと思われるかもしれない。
 でも今日の来店はたまたまで、気まぐれで、彼はもう二度とここにはこないかもしれない。

 考えているうちにご注文の準備ができてしまった。しかたなくホットコーヒーをトレイに乗せて、席に向かう。

 日当たりの良い彼の座る席は、ステージの上のスポットライトのように明るく輝いてみえる。
 一歩一歩、その距離は近づいていく。

 後悔しない?
 また自分に、嘘をつくのは。

 だってせっかく、中学の頃から変われたのに。

 十年かけて、人前で話すのも、人に話しかけるのも苦ではなくなったのだ。
 だからこうしてカフェの仕事ができている。
 きっとそれは、この日のためだったのだ。

 そうだ。
 何食わぬ顔をして、聞いてみよう。
 このお店をどこで知ったのか、どうして来てくれたのか。
 それだけでいい。それだけでも知れたら。

 陽の当たる場所で、嘘やごまかしのないありのままのわたしで。

 「お待たせいたしました」

 わたしはにっこりと微笑む。いつも通り、うまくできたと思う。
 だけどこちらを見上げて、彼が「ありがとうございます」と口にして、少しはにかんで笑うのを見ると、もう無理だった。

 胸に込み上げる熱いものが、わたしの感情を嬉し涙で押し流していった。