「――としてて避けられなかったのは俺もたしかに悪かった。けどさぁ、みんな横断歩道で青信号になるの待ってるとき、車が急に突っ込んでくるかも! なんて常に危機感いだいて待ってるか? ぼーっとしてるだろ、普通〜……と、まあここで愚痴言ったところでなんにもならないんですけどぉ……」

 イヤホンを通して耳に流れてきたのは、やや高く、細めの声質だった。

 「中学三年生ってやっぱり、いろいろ考えるんですよねぇ、進路とか将来とか」

 わたしはその声に自然と耳を傾けていた。同じ年だとわかったからというのもあるし、その芝居がかった口調に惹かれたというのもある。

 「俺ずっと好きなことばっかりやらしてもらってたから、それがなくなると人生空っぽってかんじで、いまマジで路頭に迷いまくっててぇ」

 話し方もノリも軽いなあ。でも、ちょっとわかる。
 というかなんで路頭に迷ってるんだろう。
 そんなふうに少しずつ興味が湧いていた。

 「あ、【アスナ】さんこんばんは。どーも、タニグチヤストです」

 ドキッとした。わたしの名前だ。さっきスタンプを送ったから、ユーザーネームを見られたんだろう。名前を呼んでもらえると、なんだか知り合いだったみたいで照れ臭い。

 「ヤスト? あー本名ですよ」

 別のリスナーさんの『本名?』というコメントに反応してタニグチヤストさんは答えている。

 続いての『本名出していいの?』というコメントにも、

 「いや大丈夫大丈夫。いま聴いてくれてる人、この地球上でわずか七人だし。そのうち【オオタ】と【カズ】はリア友だし? あとの人にもまあ別に。俺のこと特定してもなんの意味もないしね」

 ヤストさんは、はははっと力の抜けた笑い方をする。

 スマホの画面に表示される時刻は、0時を少し過ぎたところだ。この秘密のような時間を共有しているのは、地球上に七人だけなんだ。
 アプリでライブ配信を聴き始めたきっかけは、受験勉強の息抜きがほしかったのと、もうひとつ。

 わたしは、人前でうまく話せなかった。
 中学に入ってからその傾向は酷くなった。授業でスピーチの発表をするときや、発言をするときに、緊張してどうしても思うように声が出せず、話す内容も、頭が真っ白になってしまう。友だちとの短い日常会話ならなんとかこなせるけれど、たくさん話すと言葉を紡ぎ出すのに頭をフル回転させるため、どっと疲れた。

 そこで配信アプリをはじめた。自分でもトーク配信をして、人前で練習をしようと思ったのだ。だけどやっぱり結局緊張してしまって無理だった。それでいまは、もっぱらリスニング専門。ふらふらと、いろんな配信者さんの雑談配信を渡り合いて覗いているだけだった。

 「うん。そんで、えーなんの話だっけ」

 ヤストさんの軽やかな声と話し方はどこか不思議と心地がよく、ずっと聴き続けていたらこのまま眠れそうだった。
 それに彼はわたしみたいにうまく話せない人じゃなかった。こうやってスラスラと話ができる人はうらやましい。

 「あ、そうそう。だから去年の冬に大会に出たのが最後でした。ちょっとした交通事故に巻き込まれましてね。リハビリもしたんですけど、完全にもとには戻らず。いままでどおりサッカーやるのはちょっともう、無理みたいなんすよね」

 ちょっとした……?
 いやそれけっこう重傷でしょ。
 急に深刻な話になるのでおどろいてしまった。だからさっき路頭に迷ってるなんて語ったのか。
 でも口調は変わらず、飄々としている。交通事故で重傷を負って夢を失い、将来に悩んでいる人だとは、とても思えない。
 こういうときはなんて声をかけていいかわからない。まあ元からこちらの声は届かないけれど。
 机に向かっていたわたしは静かに問題集を閉じると、スマホを片手に、イヤホンをつけたまま、隣のベッドにごろんと寝転んだ。仰向けになって天井を見つめるわたしの耳に、心地の良いテノールが流れてくる。

 「で、ほかになんかあるかなぁって考えてて、始めたのがこのライブ配信アプリ」

 ああ、なるほどね。と心の中でうなずく。
 サッカーの代わりにはとうていならないけれど、気を紛らわすことはできるのかもしれない。

 「まあただ、だからなんだって話なんすけどね、これ配信一回目だし。――おいだれが三日坊主やねん」

 『どーせ三日坊主』というコメントに、ヤストさんはすかさず突っ込んでいる。

 「ライブ配信なんかが将来のどこにどうつながるのかってね、それはぶっちゃけわからないっすよ。ただ俺これはマジな話なんすけど、前から動画の編集とか興味あったんです。あとはしゃべりと、まー、ゲームもそこそこやるほうだし。だから俺、ガチで考えてたんすけど、動画配信者、目指そうかなっていまは思ってます」

 『真面目に働けw』『おっす、未来のクソニート』『親が泣くわ』
 おとなしかったコメント欄が、彼の発言でざわつく。失礼ながらわたしも、少し笑ってしまった。だって、サッカー少年が動画配信者に転向なんて、あまりにも唐突じゃない。

 「うまくいけば億稼げるじゃないですか〜いやいや、真面目に言ってんすよ〜」

 中学生ぐらいになるとだれでも一度は憧れる。動画配信サイトで一躍バズって一攫千金、好きなことして遊んで暮らす、そんな人生に惹かれる気持ちはわかる。
 でも、現実的にそれで成功できる人なんて、ごくひと握りだ。

 「まあ俺若いからねー、なに言っても許されますよね」

 とヤストさん自身も、冗談めかして笑っている。

 「『ぐだぐだ言ってないで受験勉強しろ』? 勉強かぁ、ぶっちゃけニガテっすね。サッカーで高校入ろうと思ってたんすよ。だからモチベダダ下がりー」

 ヤストさんは、コメントで厳しいことを言われてもペースを乱さず、軽妙に言葉を紡いだ。シリアスな話題なのに、聴いていると空気がやわらぐ。心のささくれが溶かされていくように感じた。
 わたしもこんなふうに話せたら。
 きっと人との会話も楽しいだろうな。

 「まあ、見ててくださいよ。十年で百万人登録者目指しますから」

 『はいはい』『ワロタ』『おつです』みんな冗談だと思っている。無理もない。言うだけなら簡単だもの。
 わたしも正直、本気でとらえたわけじゃない。でもほかのリスナーたちに同調したくないという子どもっぽい反抗精神と、ヤストさんがほんとうにそんな人気になったらすごいな、いいな、という純粋な想いから、気づけばスマホに文字を打ち込んでいた。

 『ぜったい叶う。わたしわかる』

 わかるなんて――そんなの嘘だ。なんの根拠もない。

 するとそれまで流れるように話していたヤストさんが、突然沈黙した。

 ちょ、気まずいんですけど……。わたしがスベったみたいじゃん。やたら速く打つわたしの心臓の音しか聴こえなくなる。なんか言ってよ。ねえ。



 「……アスナさん、応援ありがとうございます」



 しばらくして聴こえてきたのは、それまでとちがった、静かで、抑えるような声だった。
 だけど向こうで彼が微笑んでいることが、なんとなくわかった。
 ドキドキしながら、わたしもつられるようにして、頬が緩む。

 「かならず百万人の夢叶えます。十年後の自分がさ、おまえの人生、空っぽなんかじゃねぇぞって……今夜の自分に教えに来られたら、いいっすよね」

 うん。

 わたしひとりに向けて言ってくれたわけではないけれど、その優しい言葉に救われた気持ちになってうなずいていた。
 十年後なんて、想像もつかない遠い未来だけれど。
 だからこそ。
 なにが待っているか、わからないもんね。

 「はい、じゃあ俺の将来の夢も無事決まったことだし、今夜はこの辺で。

 ああ、まだお話聴いていたいな。
 もう二度と、巡り会えないかもしれない。
 そう思うとなんだか名残惜しくなった。たった十分、十五分のトークだけなのに、どうしてもっと彼のことを知りたいと思ってしまうんだろう。友だちでもなんでもないくせに。

 リア友だというリスナーさんが、うらやましかった。

 「お相手は、鰐池町出身、未来の人気動画配信者、タニグチヤストでした」

 「えっ」
 おどろいて思わず声が出た。

 住んでる町、同じじゃん。

 そうなんだ。タニグチヤストさんは鰐池町のどこかにいるんだ。
 同じ学年。でもうちの中学にはそんな名前の男子はいなかったから、となりの中学かもしれない。
 駅のホームとか、ショッピングモールとか、どこかですれ違っているかもしれない。
 どこかで不意に、その声を聞くかもしれない。

 と、そんな淡い期待を、しばらくは抱いていた。
 だけどそれもいつかはうすれゆくものだ。

 それっきり、タニグチヤストさんがライブ配信をおこなうことは二度となくて。
 もちろん町のどこかでばったり出会うなんてこともなくて。

 流れ星のような速さで十年の月日が流れた。 
 「えっ、リアルでファンの子に会ったのはじめてなんだけど!」
 「わーっ! うれしいです!」
 「もうすぐ百万人突破しそうだよね!」
 「去年イベントに出てから、一気に登録者が増えましたよね」
 その日いつものようにお店に出てきたバイトのさくらちゃんと吉野さんが、一台のスマホの画面をふたりで覗き込みながらなにやら盛り上がっていた。
 二十四歳になるわたしは、短大卒業後、地元を出ずにカフェ店員として三年間働きながら経営の勉強をして、最近自分のお店をオープンさせた。さくらちゃんはオープンから手伝ってくれている女子大生だった。一方で吉野さんは女子高生で、まだ入って一週間の新人さんだ。
 「なにみてるの?」
 と、ごくさりげなく尋ねてみる。
 「【テツワニ】さんていう実況者さんの動画です。オンラインゲームをやってることが多いんですけどね、トークがゆるいっていうか、軽いっていうか、とにかくなんか独特のおもしろみがあるんですよ」
 さくらちゃんが、よくぞ聞いてくれましたとばかりに早口で返してきた。
 「登録者数百万人を達成しそうなほど人気なんですけど、年齢も出身地も謎で……」
 「マスクしてるから素顔も謎なんですけど、あれはぜったいイケメンです」
 新人・吉野さんが横から熱を込めて言う。
 「雑談配信もやってるんで、明日菜さんも、ゲームに興味なくてもぜひ一回聴いてみてください!」
 「へぇ……」
 こちらが思っていた以上に推している人物のようで、その熱量にわたしはたじたじとなってしまう。
 とはいえふたりとの会話のネタになりそうなものが見つかったのはうれしかった。
 「若い子の流行はよくわからんわ」
 軽い冗談で肩をすくめると、
 「明日菜さんもじゅうぶん若いじゃないですか」
 とさくらちゃんがけらけら笑った。

 家に帰ってからPCを開く。
 テツワニってどう書くんだろう。などと考えながら検索欄に打ち込むと、いちばん上に【鉄鰐】という漢字出てきた。
 これかな。
 クリックすると、ずらりと動画のサムネイルが表示される。
 ちょうどライブ配信中のようだ。
 再生すると、画面にあやしげな黒いマスクとサングラスの男性が映った。これが鉄鰐さんか。なるほど、完全に素顔を隠して活動している配信者というわけか。
 自宅だろうか。シンプルなグレーのファブリックのソファに座って、緑茶のペットボトル片手に、小さなローテーブルを挟んだカメラのほうを向いて話している。

 「――そんなわけでね、みなさんほんとに応援ありがとうございました。いぇーいカンパーイ」

 その声を聴いた瞬間、わたしはがんと頭を殴られたような衝撃に襲われた。

 「十年で百万人ってのが、俺の目標だったからさあ、まーじで嬉しい。あ、【うじむし】さんスパチャありがとう。『有言実行してえらい』? でしょ〜、もっと褒めて」

 少し高くて軽々しい声に、不思議と心地の良いテンポのトーク。
 わたしの耳は、頭で考えるより早く、鉄鰐さんの声を聴いたことのあるものだと認識していた。

 いや、でも。でもでもでもでも、まさかまさかそんな偶然なこと起こる?

 「とはいえさ、まあ振り返ると俺の人生って別にすべてが予定通りとか順風満帆ってわけじゃ、全然ないんだよね。配信でもたまに言ってるけど、もともと俺はサッカーガチ勢で、小さい頃からサッカー選手になるつもり満々だったんだけど。中三のときに事故って。サッカーが思うようにできなくなって」

 サッカー、中学生三年生、事故。
 すべての情報がパズルのピースがはまるみたいに一致する。
 からだをめぐる血が熱くなり、鼓動が速まるのを感じた。

 「正直この先の人生、なにしたらいいのかわからなかったわけ。そんなときに試しにやってみたのが、ライブ配信のアプリなんだけど。もうないのかな、あのアプリ。まだあるのかな? 知らんけど」

 ああ、どうしよう、やっぱり間違いない。
 彼は、タニグチヤストさんだ。

 中学生の頃、人前で話すのが苦手で、わたしはライブ配信アプリをはじめた。
結局自分で配信をすることはできなかったけれど、受験勉強の息抜きにもなったし、人の話を聴くのは好きだったのだ。

ある日の深夜、一度だけ聴いた雑談配信。
そこでわたしは、軽妙な口調でシリアスな話題を飛び越えるように話す彼に出会った。

 「それもねー、一回しかやらなかったんだ。深夜にさ。身内しか聴いてねーわ、って思ってたら、何人か一応、リスナーの方が来てくれてさ」

 ああ、やっぱりあの一度きりだったんだ。
 地球上で七人だけ、あの夜タニグチヤストさんのおしゃべりを聴いていた。

 高校生になってからは、運良く素敵な友人や恩師に恵まれて、歳を重ねるにつれて話すのもそこまで苦ではなくなって、ほかのことに興味を持って、だんだんとそのアプリからは、遠のいていた。
 いつしか色褪せたものとなっていた受験期の記憶が、彼の言葉によって少しずつよみがえる。

 「まあ聴いてる人も少ないし、冗談のつもりで言っちゃったんだよね。十年で人気の動画配信者になってやるわ! ……って。いや実はそのときはまだそんなつもりなくてさ、勢いにまかせてつい口が滑ったわけ」

 えっ……て、え?

 ちょっと待って。
 あのときの宣言って、本気じゃ……なかった?
 「ガチで考えてたんすけど」って言ってなかった? あれ、嘘だったの!?

 追い討ちをかけるように打ち明けられた衝撃の事実に、あやうくむせそうになる。

 「でも聴いてくれてた人のなかでひとりだけ、たったひとりだけ、俺の背中を押してくれた人がいて」

 そうだっけ……。
 わたしはおぼろげな遠い記憶を探る。
 そういえばあのときはじめて、スタンプ以外の文章コメントを送った気がする。

 「『ぜったい叶う。わたしわかる』って」

 ……!?
 息を呑む。鳥肌が立つ。
 ああ思い出したよ、わたしのコメント。
 全細胞が、聞き耳を立てて次の言葉を待っていた。

 「まあ結果的にそのひとことをもらったことによって、おっしゃ、言ったからには実現させないとな! って思ったんだよね。自分の発言には責任を取らないとって。名前も覚えてるわ。アスナさん。ぜっっっっっっったいにこの動画見てはいないと思うけど」

 聴いてるよ。わたし、ここにいるよ!
 叫びたい衝動に駆られて胸元をぎゅっと押さえる。

 ああ、届いていたんだ。
 あの夜わたしの紡ぎ出した苦し紛れのひとことが、彼の心を動かしていた。

 「いやマジで感謝してる」

 鼻の奥がつんと痛くなって、目の奥にじわりと熱いものがこみあげる。

 違う。違うよ。感謝しているのはわたしのほうなの。
 わたしもあの夜、あなたの声を聴いてから、ほんの少しだけど考え方が変わっていったんだよ。
 町のどこかですれ違っているかもしれない。そう思うと世界は少しだけ色づいて見えたの。
 ああ、わたしのこの気持ちが、カケラだけでもいいから、彼に届けばいいのに……。

 あ、そうだ、コメントできるじゃん。

 思いついた自分を天才! と褒めちぎりながらキーボードに手を伸ばし、かたかたと勢いよく文字を打ち込む。

 『アスナです。いまも見てます。わたしも鉄鰐さんのおかげで変われました。ありがとうございます。これからも応援してます!』

 だけどいよいよエンターキーを押すという直前で、指がぴたりと止まった。

 もし、アスナが聴いていることがわかったら、ほかのファンの人たちはどう思うだろう。この一万人の人たちに、気を遣わせてしまうかもしれない。
 わたしは今日たまたま十年ぶりに彼に再会したけれど、十年間ともに歩んできた人だっているかもしれないのに。
 その人たちを押し退けて、自分の存在を主張することに、なんの意味があるのだろう。

 【タニグチヤスト】にとってのアスナは、過去の存在だ。
 【鉄鰐】がこれからつくる未来にはいない。「ぜっっっっっっったいにこの動画見てはいないと思う」とまで断言されるほどだし。
 わたしは匿名の新参者。今日はじめて鉄鰐に出会ったのだ。

 自分で自分に、思い込ませるように心の中でうなずいて、吹っ切れた顔で微笑む。

 「ヤストさんは、ほんとうにえらいよ」

 そっと口にする。もう何万人もの人たちに言われた台詞だろうし、決して届きはしないけれど。

 「百万人、達成おめでとう」
 タニグチヤスト――いや、鉄鰐のチャンネルはもちろんお気に入り登録して、配信を聴いたことは早速、さくらちゃんと吉野さんに報告した。
 十年前、鉄鰐さん一度限りのライブ配信を聴いていた【アスナ】がわたしだなんて、さくらちゃんたちは夢にも思っていない。
 わたしからも話すつもりはない。
 三人のなかでは自分がいちばん新入りのファンだって、心からそう思っている。

 それから一ヶ月が経った、とある平日の午前中。
 バイト組は学校があるため、働いているのは店長のわたしだけだった。
 お客様は、一杯のモーニングコーヒーを片手にノートパソコンに向かう常連のサラリーマンと、子どもを幼稚園に送り届けたあとでお茶するママ友がひと組。
 ぶっちゃけ余裕で回せる空き具合だ。

 やがてサラリーマンのお客様がお会計をして店を出ていくと、そろそろランチタイムの合図。少しだけ忙しくなる。

 案の定、ほぼ入れ替わるかのようにして、からん、と入店を告げる音がした。

 若い男性おひとり様。はじめてのご来店だと思う。ラフな黒いパーカーにジーンズ。黒い大きなバックパックを背負っている。近所に住んでいる方だろうか。

 「空いているお席におかけください」

 とご案内すると、彼は迷わず、さきほどのサラリーマンが座っていた端の窓際に腰掛け、バックパックからノートパソコンを取り出した。
 あの席はほかの人からパソコンの画面が見えにくいから人気なのだ。

 彼はしばらくメニューを眺めていたけれど、さほど時間もかからずに視線をはずし、店員の姿をさがした。わたしと目を合わせると、ひかえめに手を挙げる。

 「あ、すみませーん」

 彼が声を発したその瞬間。わたしの心臓は止まりそうになった。

 いや〜、いやいやいやいや。
 まさかね。
 興奮するのはまだ早いでしょ。まだ確証はないし。
 ものすごく似た声の人なのかもしれないし。
 そうだよ、きっとそう。

 この特に聴力の良くも悪くもない耳が、絶対音感もない耳が、そんな反射的に、はじめて聴くその肉声を聴き分けるはずがない――。

 だけど彼、十年前に言ってなかった?
 ここ、鰐池町に住んでいるって。
 そうだ。そうじゃん。
 いまや鰐池町の人口の百倍ファンがいるせいで、すっかり基本的な情報が頭から抜けていた。
 タニグチヤストは、まだこの町に住んでいるのだ。
 だから、このお店に来店する可能性だって、ゼロじゃない。

 はやる鼓動を抑えて、席まで近づく。
 「お待たせいたしました、ご注文おうかがいいたします」と早口に言いながら、まだ半信半疑の段階なのに、どうしても彼の顔をみることができなかった。

 「コーヒー、ホットで」

 最短で、最低限の、なんの変哲もないそれだけの会話。
 なのに、

 「かしこまりました、ありがとうございます」

 言葉の端がわずかに震えてしまう。
 やっぱりわかる。
 チャンネル登録してからというもの鉄鰐の動画は、過去のものも最新のものも毎日見て、聴いていた。
 そのせいか九十九パーセント確信が持ててしまった。

 厨房へ戻り深呼吸。豆を挽きながら必死で頭を冷やす。

 どうしよう。いや、どうもしないのがいちばん妥当な選択肢だ。
 知らないフリをして、黙ってお会計まで済ませるのだ。
 こんなところで素性がバレたら、このお店にはかなり来にくくなるだろう。店員のわたしも警戒されるだろう。ストーカーかと思われるかもしれない。
 でも今日の来店はたまたまで、気まぐれで、彼はもう二度とここにはこないかもしれない。

 考えているうちにご注文の準備ができてしまった。しかたなくホットコーヒーをトレイに乗せて、席に向かう。

 日当たりの良い彼の座る席は、ステージの上のスポットライトのように明るく輝いてみえる。
 一歩一歩、その距離は近づいていく。

 後悔しない?
 また自分に、嘘をつくのは。

 だってせっかく、中学の頃から変われたのに。

 十年かけて、人前で話すのも、人に話しかけるのも苦ではなくなったのだ。
 だからこうしてカフェの仕事ができている。
 きっとそれは、この日のためだったのだ。

 そうだ。
 何食わぬ顔をして、聞いてみよう。
 このお店をどこで知ったのか、どうして来てくれたのか。
 それだけでいい。それだけでも知れたら。

 陽の当たる場所で、嘘やごまかしのないありのままのわたしで。

 「お待たせいたしました」

 わたしはにっこりと微笑む。いつも通り、うまくできたと思う。
 だけどこちらを見上げて、彼が「ありがとうございます」と口にして、少しはにかんで笑うのを見ると、もう無理だった。

 胸に込み上げる熱いものが、わたしの感情を嬉し涙で押し流していった。

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