文化祭と後夜祭が終わって、それからクラスのみんなで打ち上げをして、家路に着く頃にはすっかり陽は山の向こう側に落ちていた。

 腕時計を確認しながら歩いていると、見上げた空の先に赤い提灯の光が滲む。
 綺瀬くんのことを思い出すが、うちの門限は八時だ。今日はもう寄り道をしている時間はない。

 綺瀬くんは今頃、なにをしているだろう。あの広場にいるのだろうか……。
 ふぅ、と息を吐く。

 綺瀬くんのことを思うだけで、不思議と強ばっていた心がほどけていく気がする。

 まさか、文化祭の今日会えるだなんて思わなかった。

 ……一緒に回れたら楽しかっただろうな。わざわざ会いに来てくれただけでも贅沢なのに、もう少し話したかったなんて思ってしまうのは、わがままだろうか。
 朝香を紹介したかったなんて言ったら、笑われるだろうか。
 でも、朝香と友達になれたのも、歩果ちゃんと琴音ちゃんが仲直りできたのも、ふたりと友達になれたのも、ぜんぶ綺瀬くんのおかげだ。

 だからだろうか。
 綺瀬くんには、今日あったできごとを、なんでも話したくなってしまうのだ。

 明日、会いに行くときには冷たい飲み物でも買って行こう。
 そんなことを思いながら、私は家路を急いだ。


 ***


 文化祭が無事幕を閉じた、十月の初め。

 衣替えをしたといえど、まだまだ陽は高くて暑い日が続いている。日中は暑くてブレザーは着ていられないので、私は今のところ登下校時以外では長袖シャツにリボンだけの格好でいる。

 それにしても朝から暑いなと思いながら、片手をうちわ代わりにして文庫本のページをめくっていると、教室に先生が入ってきた。

 いつものようにホームルームが始まり、私は机に頬杖をついたまま、窓の外の中庭へ視線を流した。

 つむじ風が色褪せた落ち葉を巻き上げて、小さな嵐を起こしている。
「榛名」
 秋風と落ち葉の軽やかなピルエットを眺めていると、不意に名前を呼ばれて我に返る。教卓を見ると、先生が手招きをしていた。

「悪いんだが、昼休み、お昼食べ終わったらでいいから、ちょっと職員室に来てくれるか」
「あ、はい」

 呼び出しだ。なんだろう。
 課題はちゃんとやっているし、思い当たる節がない。
 私は朝香と顔を見合わせ、首を傾げた。

 昼休みになり、早々に昼食を済ませると職員室へ向かう。職員室の扉をノックして中に入ると、四方から先生たちの視線を感じて肩を竦めた。

「あぁ、榛名。こっちだ」

 私に気付いた先生が手を上げる。
 私を見る先生の表情はどこか固い。その視線は、最近忘れかけていた『事故の被害者である』という意識をぶり返させた。

「最近、学校はどうだ?」

 気を遣うような視線に少し居心地が悪くなるけれど、私は気にしていない素振りで「楽しいです」と当たり障りなく返す。そんな私に、先生はにこりと笑った。

「そうか。それはよかった。最近はよく志田たちと一緒にいて笑顔を見るようになったから、先生も安心してたんだ」
「はい。朝香……えっと志田さんには、いつも仲良くしてもらってます。文化祭も、最初は出る気なかったんですけど、志田さんが誘ってくれて」

 おかげで私は、かけがえのない思い出を得られた。

「……そうか」

 先生は穏やかに微笑んだものの、そのあとすっと表情を曇らせた。穏やかじゃないその顔に、どきんと胸が鳴る。

 なんだろう。
 そわそわと両手を擦り合わせて次の言葉を待っていると、先生が、
「実は十二月にある修学旅行の話なんだけどな」
 と、話を切り出した。

 ぴき、と全身の筋肉が凍りつく感覚があった。先生はどこか言いづらそうに私から目を逸らし、続ける。

「榛名も知っていると思うんだけど、昨年までうちの学校は沖縄に行っていたんだ。だけど、その……榛名の事故のこともあって、今年は職員会議で沖縄以外の場所も候補に上がっていたんだ。ただ、保護者会で候補地を変えるという話をしたとき、思ってた以上に反対の意見が多くてなぁ」

 先生はかりかりと頭を掻きながら、やるせなさげに私を見ていた。私は黙ったまま、先生の胸元辺りをぼんやりと眺めてその話を聞いた。

「……それで、理事長の最終判断で今年も通年通り旅行先が沖縄に決まったんだ」

 沖縄。
 ……沖縄、かぁ。

 その地名を、じぶんではないだれかの口からは久しぶりに聞いた気がする。

「せっかくの修学旅行だからさ、先生もなんとかひとりも欠けることなく全員で行ければと思ってたんだけどな……でも、無理強いはしたくないからさ。榛名が辛いようであれば、当日は休んでもらってもかまわない。その場合、学校側としては欠席扱いにはしないようにするという判断になった。もちろん、一緒に行けるならそれが一番ではあるんだが……くれぐれも無理はしないでほしい。榛名の親御さんには電話でもう伝えてあるから、榛名自身もよく考えてみてくれるか」

「…………」

 先生の声が少しづつ遠くなっていく。それに合わせて、頭ががんがんしてきた。ひどい目眩を覚えて、思わずぎゅっと目を瞑る。

「……榛名? 大丈夫か」

 ハッとして、顔を上げる。頭はまだ痛むけれど、とりあえず「分かりました」と頭を下げて、私は足早に職員室を出た。

 そのまま私は教室には戻らず、自販機がある購買部に行った。その場で佇んだままパックのトマトジュースを飲む。ストローを苦々しく噛みながら、晴れやかな空を見上げる。

「沖縄か……」

 呟いてみると、それはどこかよそよそしい響きを持って空気に解けて消えていく。

 事故以来、私は沖縄には足を踏み入れていない。

 もし、あの場所に行ったら、どうなるのだろう。ふつうでいられるのか、それとも発狂するのか、じぶんでもぜんぜん分からない。

 ただ、行くと言えばお母さんとお父さんには反対されるのだろうな、ということだけは分かった。

 事故後の飛行機は、特に恐怖はなかった。だからきっと、ただ行くだけなら大丈夫。でも……。

 海は、どうだろう……。

 膝を抱えてうずくまる。
 あの事故のあと、私はまだ一度も海を見ていない。


 その日の放課後。

「やっとテスト終わったぁーっ!」

 ホームルームが終わり、帰り支度をしていると、朝香が自席で大きく手を伸ばしながら清々しい声を上げた。

「ねぇねぇ水波! 今日このあとどっか行かない?」
 突然振られ、反応に遅れる。
「えっ、あ、うん。いいけど……」
「やった! それじゃ……」
「はいはい、賛成っ! 私、ドーナツ食べたいっ」
「今日は部活もないしねぇ。私も行こっかな」
 ふたりで話していると、すかさず歩果ちゃんと琴音ちゃんが話に混ざってくる。さすが、反応もフットワークも軽い。

 文化祭のあと、私たち四人はぐっと距離が縮まって、学校で一緒に過ごすようになった。

 歩果ちゃんは、ちょっと天然だけど人見知りで琴音ちゃんが大好きな女の子。
 一方琴音ちゃんはクールビューティでさっぱりしているけれど、裏表がなくきっちりとした性格の、文武両道の優等生。

 ふたりとも、話してみるととても気さくでいい子たちだ。私はふたりを歩果ちゃん、琴音ちゃんと呼び、歩果ちゃんは私を水波ちゃん、琴音ちゃんは水波と呼んでくれている。

 ふたりとも、私の新しい親友だ。

 学校を出ると、私たちは駅前のドーナツショップに入った。

「文化祭が終わってー、テストが終わってー、あぁー今年もどんどん終わってくねぇ」
「もう十月なんて、あっという間だよね!」
「十月と言えばハロウィンだよ!」と、チョコレートがたっぷりかかったリングドーナツを食べながら歩果ちゃんが言った。
「ハロウィンかぁ。じゃあ、今度うちで仮装パーティーでもする?」
「いいね! したいしたい! いっそのこと、学校でもハロウィンのイベントがあればいいのになぁ」
「ははっ、無茶言うなぁ。でも、もしそんなイベントがあったらお菓子食べ放題の日ってことだよね。いいかも」
「それだけじゃないよ、イタズラもし放題だよっ!」

 楽しげにはしゃぐ歩果ちゃんたちを、私は一歩引いて見つめた。

「そういえば、来週から修学旅行の話始めるとか言ってたよ」
「マジ?」
「マジ! 今年も沖縄だって!」
「やったぁ!」
「沖縄……」

 朝香たちと一緒にいる時間は、文句なしに楽しい。だけど、楽しいと思えば思うほど、心は反対に暗くなっていく。

 まるで、呪いにかかったように。毒が全身に回っていくように、身体が重くなっていく。

 私はみんなと同じように、こんなふうに人生を楽しんでいいのだろうか。自問自答したところで答えは出ないけれど、問わずにはいられない。

 だって……。

「――水波? どうかした?」
 ぼんやりしていると、朝香が心配そうな顔をしてこちらを見ていた。ハッとして、顔を上げる。

「ううん。なんでもない」
「そ? あ、そういえば、先生の話なんだった?」

 朝香が振り向く。

「あぁ、あれね。なんていうか、えっと……あれはただ、ホームルームではちゃんと先生の話を聞けって説教だった」

 突然聞かれ、私は咄嗟に誤魔化してしまった。

「なぁんだ。そんなことでいちいち呼び出さなくてもいいのにね!」
「……それで、なんの話だっけ?」
「あぁ、修学旅行ね! 今度買い出しに行こうかって話! 水波、来週の日曜日空いてる?」
「あぁ……そうなんだ。うん、大丈夫だけど」

 頷きながら、ドーナツと一緒に買ったぶどうジュースを飲む。声を弾ませて話の続きをする三人を見つめる。

「必要なものってなんだろうね?」
「水着? あ、あとローファー以外の靴とビーサン!」
「自由行動はたしか私服でいいんだよね?」
「そっか!」
「あ、それなら私、下着もこの際新しいの買いたいなー」
「だね! あーもう修学旅行楽しみ過ぎる! 来週のホームルームはまず班決めからするって言ってたよね!」
「ねぇねぇ、修学旅行の班って四人で一班なんでしょ? それなら私たち一緒になろうよ!」
「いいね! そうしよ!」
「やったー! めっちゃ楽しみっ! ねっ! 水波!」

 朝香に話しかけられ、ハッとする。

「あ……うん、そうだね」

 わいわい盛り上がるなかで、私はただ曖昧に微笑む。テーブルの下で、私は震える手を押さえるようにして握り込んだ。


 ***


 家に帰ると、お母さんが夕食を作っていた。玄関の扉を開けるなり、カレーの匂いがふわりと香る。カレーは私の好物だ。
 リビングに顔を出すと、キッチンにいたお母さんが振り向いた。

「あら、おかえり水波」
「ただいま。カレー作ってるの?」
「そうよ。水波好きでしょ?」
「うん! 着替えてくるね」
「手洗いうがいも」
「分かってる」

 一度洗面所に行き、楽な部屋着に着替えると、私はもう一度リビングに降りた。

「……ねぇ、お母さん」
「んー? どうしたの?」

 お母さんは今度は炒め物をしているらしく、カレーの匂いの中にバターの甘い匂いがした。

「……あれ、なに作ってるの?」
「キノコバターよ」
「わっ、やった!」

 キノコも、バターソテーもどちらも私の好物だ。

「たくさん作ったから、いっぱい食べてね」
 お母さんが微笑む。私は笑顔で頷いた。
「……お母さん。今日ね、先生に呼び出されたんだ」
 お母さんが火を止め、こちらを向く。
「……あら、どうして?」
 心配そうな眼差しが向けられる。
「修学旅行、今年も沖縄に決まったんだって」
 静かに言うと、お母さんの手がぴたりと動きを止める。
「……そうなの」
 私はお母さんに訊ねた。

「……あのさ、沖縄じゃない場所にしてほしいって言ってくれたの、お母さんでしょ?」

 私の問いに、お母さんは眉を下げてかすかに笑う。

「……ごめんなさい。でも、そのほうが水波も心置きなく楽しめるかなって思って……」

 私は首を振る。

「うん、分かってる。……ありがとう。今日ね、先生に辛いなら行かなくていいって言われたんだ。もちろん、その期間は欠席扱いにはしないって」
「そう……」

 お母さんは私の正面に座り、まっすぐに私を見た。
「水波はどうしたい?」
 少し考える。
「……分かんない。お母さんとお父さんは、私が沖縄に行くって言ったら、やっぱり心配?」
「……そうねぇ」
 思い切って聞くと、お母さんは困ったように微笑み、私を見た。

「本音を言えば、そうよ。心配」
「そうだよね……」
 それなら、やっぱり私は行かないほうが……。

「でもね、お母さんたちは水波の気持ちを一番に優先したい。だから、水波がどうしたいかを尊重するわ。もちろん、親としてはどうしたってあんなことがあった場所には近づいてほしくないと思ってしまう。……でも、事故を理由に、あなたの自由を奪うことも正しいとは思ってないから」

 ふっと息が漏れた。
 目を伏せる。

「……ありがとう。私も、沖縄に行くのはちょっと怖い。でも、朝香たちと楽しみたい、思い出を作りたいっていうのも思ってて……まだ悩んでる。……少し、考えてみてもいいかな?」
「もちろんよ」

 お母さんは柔らかく微笑み、腰を上げた。

「さて、お父さんもそろそろ帰ってくるでしょうし、晩御飯の続きしなくちゃね。水波、手伝ってくれる?」
「うん!」

 お母さんのそばで手伝いをしながら、私はどうするべきなのか一生懸命考えた。
 でも、いざじぶんで決めるとなるとどうしても事故のことが脳裏を過ぎってしまって、答えは一向に見えなかった。


 翌日の放課後、私は朝香たちに予定があるからと言って、早々に学校から帰った。そのまままっすぐ、綺瀬くんのところへ行く。

 山の上の神社の、そのさらに上を目指して石段を登っていく。

「綺瀬くん!」

 神社の奥、石段をさらに上がった先にある、空の下にぽっかりと空いた広場に出ると、そこには見慣れたシルエットの青年がいた。

「水波。来てくれたんだ」

 ベンチには、爽やかな笑顔をたたえた綺瀬くんがいた。小走りで駆け寄り、となりに腰を下ろす。

「今日はなんだか悩んでる顔してるね」

 顔を合わせるなり、綺瀬くんが言う。

「……そ、そうかな?」

 誤魔化しながらも、どきりとするじぶん。綺瀬くんの言う通りだった。
 先生に修学旅行のことを言われてから、あまりまともに眠れていない。
 しかし、いくらひとりで考えても答えを出せないからと、今日はその件を綺瀬くんに相談しようと思ってここへきたのだ。

「いいよ、話してごらん」

 優しく言われ、私は素直に頷く。

「私ね、十二月に修学旅行なの」
「おぉ。それは楽しみだね」
「…………うん」
「……って、あれ。もしかしてそうでもないのかな?」
「そんなことはないんだけど……ただ場所がね、沖縄なんだ。それがちょっとひっかかってて」

 行き先を告げると、綺瀬くんは息を呑んだ。

「先生は、無理しないでいやなら欠席していいって言ってくれたんだけど……友達はみんなすごく楽しみにしてる。一緒の班になろうって私のことも誘ってくれたの。みんなの楽しみの中にね、私と一緒にっていうのも入ってるんだ。だから、行くか行かないか、すごく迷ってて」

 夏休みが明けたばかりの頃の私は、ひとりぼっちだった。当時の私なら、行かないと即答しただろう。

 でも、今は。
 今はとなりに朝香がいる。ほかにも、歩果ちゃんや琴音ちゃんがいる。
 本心を言えば、行きたいと思っている……と思う。

「でも……私、あれから一度もあの場所に行ってない。海なんて絶対無理だし、それに……水族館とかも正直行ける気がしないんだ」
 そっか、と綺瀬くんは吐息混じりに言った。
「……ねぇ、水波はなにが怖い?」
「行くのはいいの。ただ……」

 行ってみて、案外なんともなかったな、と思うのがいちばん怖い。
 沖縄で、ふつうでいられるじぶんがいたら、私はたぶん、じぶんにどうしようもない嫌悪感を覚えるだろう。
 それが、怖い。
 そう言うと、綺瀬くんは目を伏せた。
「……そっか」
「先生に言われたときからずっと考えてるんだけど、ぜんぜん答えを出せなくて。……どうしたらいいかなって、悩めば悩むほど分かんなくなっちゃって」

 私は膝の上に置いた手元へ視線を落とした。握ったり開いたりをしながら、きっとどこかにあるじぶんの心を探ってみる。

「……ねぇ、水波があの事故の被害者だってことは、みんなは知ってるんだよね?」

 顔を上げ、頷く。

「それなら、自由行動で船に乗るアクティビティは避けてもらうよう頼んでみたらどうかな? あぁ、でもなぁ。沖縄の水族館は大きいし、大体定番だから、自由行動のときじゃなくて学校全体で行くことになりそうだよね。ただ、それなら先生も配慮してくれるんじゃないかな。みんなが水族館にいる間だけはバスの中で待っているとかね」
「でも、私だけそんな特別待遇は……」

 みんなに迷惑がかかってしまう。それに、そこまでして行く意味があるのだろうか。

 また俯きかけると、綺瀬くんが言う。

「バカだな、水波。これは特別じゃないよ。それぞれが一番楽しめる修学旅行にするためのただの努力だ」
「努力……?」
「そうだよ。水波が悩むことなんてない。水波が決めるのは、修学旅行に行きたいかどうか、みんなと思い出を作りたいか、それだけだよ」

 呆然と綺瀬くんを見る。
 行きたいかどうか……。

「……そっか……」

 暗闇の中に、すっと光が差したような気がした。
 私たちは、あの日に戻ることはできない。でも、進むことはできるのだ。いつだって、道は前に向かって続いているのだから。

 綺瀬くんは、どうしてこんなにも私のことを分かってくれるのだろう。この一週間、ご飯も喉を通らないくらいに悩んだのに、綺瀬くんに会ったら、ほんの一瞬で解決してしまった。

「水波はどうしたい?」

 綺瀬くんに問われ、私はおずおずと口を開く。

「行きたい……修学旅行。行きたい、朝香たちと」

 すると、綺瀬くんは穏やかな笑みを浮かべて、私を見た。

「なら、行くべきだよ。絶対」

 朝香や歩果ちゃんや琴音ちゃんたちクラスメイトと、三泊四日の修学旅行。

 高校のその先の進路はまだ決めていないけれど、もしかしたらこれが最後になるかもしれない学生旅行。高校生で、たった一度きりの旅行。

 行きたいに決まっているのだ。

 ――でも……。

 ふと、心に影が差す。

「本当に、いいのかな……」

 少なくとも、私が朝香たちと同じようにただ人生を楽しむのは、違うと思っている。

 だって私は、来未の死の上に立っているのだ。来未は、高校に行くことすらできなかった。私だけなにもかもを忘れて遊ぶというのは、神様が、来未のママが許さないのではないか。来未も、許さないのではないか。

 ぐっと胃のあたりが重くなったように感じて、奥歯を噛む。

「……水波? どうした?」
 綺瀬くんの心配そうな眼差しに、私はハッとして顔を上げた。
「……あ、ううん。大丈夫。ただ、ちょっと思い出しただけ」
「……思い出したって、事故のこと?」

 こくりと頷く。

「どうしてもね、前向きになろうとすると、いつも来未の顔がよぎるんだ」

 お前は人殺しだ。人と同じように生きるなんて許さない。
 そう、耳元で囁かれている気がする。

「……ねぇ、綺瀬くんはだれかに恨まれたことある?」

 綺瀬くんは一瞬目を瞠って、黙り込む。そして、「いや……」と小さく首を振った。

「前にね、朝香に言われたんだ。私が生きていてくれてよかった。出会えてよかったって。……そう言われたとき、すごく嬉しかった」

 こんな私にもそんなことを言ってくれる人がまだいるのかと、涙が出た。

「……でも、来未のお母さんはきっと、私と来未が出会わなければよかったって思ってる」

 二年前、沖縄に旅行に行こうと言ったのは私だった。
 夏休みだから、どこかに行こうよって。
 私がそんなことを言わなければ、来未はきっと今も笑って生きていた。私に出会っていなければ、来未はきっと、今も元気に生きていたのだ。

「……私ね、あの事故の遺族からすごく恨まれてるんだ。私だけ生き残っちゃって、ほかの人はみんな死んじゃったから」

 来未のママだけじゃない。私に詰め寄ってきた人はほかにもいた。

「事故のときのことは、今もまだ記憶が曖昧でよく覚えてないんだけど……このままじゃ、いけない気がするの」

 その瞬間、いつも穏やかな綺瀬くんの顔に、ピリッと緊張が走ったような気がした。

「あの事故のことを思い出そうとすると、どうしても頭にもやがかかったようになるんだけど、それでも思い出さなきゃって気持ちになる。それはきっと、私が忘れてることがすごく大事なことだからだと思うんだ」

 きっと、思い出すと辛い記憶。だけど、それでも思い出すべき記憶なのだと本能が言っている気がする。

「だからね、私……」

 ――と、そのときだった。
「!」
 突如ぶわっと凄まじい突風が吹いて、私は咄嗟に目を瞑った。
 ざわざわと木々が鳴る。遠くでクラクションの音が響いた。
 少し風が落ち着いて、私はかすかに目を開けた。綺瀬くんは私を見たまま、悲しげに笑っていた。

「え……」

 目を瞠る。
 綺瀬くんの姿が、背景に溶け込むようにかすかに滲んでいる。まるで、涙を溜めた瞳で見ているかのような錯覚を覚えて、私は思わず目元をごしごしと拭った。

「綺瀬、くん……?」

 風が止んだ。瞬きをしてあらためて見ると、いつもどおりの綺瀬くんがそこにいた。
 困惑していると、綺瀬くんが青白い顔をしてぽつりと呟く。

「……いいんじゃないかな」
「え?」

 綺瀬くんの瞳が悲しげに揺れた。
 かと思えば、綺瀬くんが手を伸ばし、私の目を隠すように手で覆い、抱き締める。あまりにも優しいぬくもりに、きゅっと喉が絞られるように息ができなくなる。

「綺瀬く……」
「思い出すのが水波の苦しみになるなら、思い出さないほうがいい。それで心が守れるなら、思い出すな。そんな記憶、君の人生になくていい記憶だから」

 綺瀬くんの、私を抱き締める力が強くなった。

「で……でも……それじゃ前に進めないし……」
「いいんだよ。それでいい。水波はなにも悪くないのに、どうして生きていることに負い目を感じなくちゃいけないの? それこそバカげてるよ。これからは、水波は楽しいことだけを考えて、前を見て生きるんだよ。過去なんてどうだっていいんだよ」

 珍しく、感情的な言い方だった。

「……綺瀬くん?」
「さて。この話はおしまい。それより水波、最近いろいろあって寝不足なんでしょ? 手を繋いでてあげるから、休もう。俺もちょっと眠いんだ」

 綺瀬くんは話は終わりだとばかりにそう言って、私の手を握ったまま横で目を瞑った。
 私はそれ以上なにも言えず、となりで目を閉じた綺瀬くんを見る。

 綺瀬くんのぬくもりがあると、とても落ち着く。だけど、最近は胸が痛くなることがある。
 それはまるで事故のことを思い出すときの痛みに似ているようで、ざわざわと胸が騒いだ。

 ……どうしてだろう。綺瀬くんのとなりはこんなにもあたたかいのに、握られた手は悲しいくらいに冷え切っている。

 私は、小さく寝息を立てる綺瀬くんの横顔を盗み見ながら、妙な焦燥に駆られた。