その日の夜、夢を見た。
沖縄の青く澄んだ海の波打ち際で、私は来未と綺瀬くんと水遊びをして遊んでいる。
凪いだ海はどこまでも青く、太陽にきらきらと煌めいていた。
三人の笑い声が、高い空に吸い込まれていく。来未も綺瀬くんも、とても楽しそうに無邪気に笑っている。
声まできらきらと輝いているようで、私はその場に佇んだまま、しばらくふたりを見つめた。
ずっと見ていたら、涙が込み上げてきてしまう。
瞳を濡らした私に気付いた来未が、驚いた顔をして水飛沫を上げながら駆けてくる。
来未はどうしたの、と心配そうな顔をして、私の顔を覗き込んだ。私がなんでもない、と言う前に、綺瀬くんが海水が目にしみたんだろ、と言う。
来未は笑って、そっかそっか、やり過ぎたね。ごめんね、と私の頭を撫でる。
その手があたたかくてさらに涙が込み上げる。
あぁ、なんて幸せなんだろう。
あの旅行がこんなふうならよかったのに。
こんなふうに三人でただ笑って、はしゃいで、疲れ切って帰りの飛行機で爆睡する。それで、楽しかったね、大人になったらまた行こうねって……。
夢だと分かっている。いくら願っても、祈っても、これが現実にはならないということも。
それでも、いつも苦しそうに助けを求めてきていた来未が笑っていることが嬉しくて、暑いねと笑って服を扇ぐ綺瀬くんが遠過ぎて、涙が止まらない。
「水波。もう泣くなよ。せっかくの旅行が腫れまぶたの思い出になるぞ」
「たしかに! 早く泣き止まないと、思い出の写真ぜんぶブスになるよ!」
そうだ。これはせっかくの旅行なのだ。
「いやだぁ、そんなの!」
私は両手で乱雑に涙を拭うと、並んだふたりに勢いよくダイブした。
悲鳴を上げ、ふたりがバランスを崩す。
透明な飛沫が上がり、口の中にしょっぱい水が入り込んでくる。なまあたたかい水が肌に張り付く。
頭から海に浸かったふたりが、ぽかんとする。私は大きく口を開けて笑った。久しぶり、というか、初めてこんなふうに笑った気がする。
いきなり笑い出した私に、ふたりはさらにぽかんとした顔をする。私はそれがおかしくて、また笑った。
すると、来未も吹き出した。
「水波ってばもー!!」
「なんだよ、お前ら」
綺瀬くんは一瞬ぽかんとしたあと、すぐにいたずらっ子の顔になり、私たちに海水をかけてくる。結構、容赦なく。
「わっ!」
「ぶぁっ!! ちょっと綺瀬! なにすんの!」
「やり返しに決まってんだろ!」
綺瀬くんがにっと笑う。
それからしばらく、私たちは波打ち際できゃらきゃらとはしゃいだ。
きらきらした笑顔が眩しくて、私は思わず目を細める。一緒になってはしゃぎながら、私はふたりの笑顔を目に焼き付けた。
ヴェールがかかったように、ふたりの笑顔が霞み出す。
あぁ、もう終わりなんだと寂しくなる。
「水波、楽しいね。来てよかったね、沖縄」
輝く海を背に、来未が言う。
「うん。すごく楽しい。すごくすごく楽しい」
楽しくて、涙が出る。
「また泣くのかよ」
「だって……」
来未が笑いながら、私を抱き締めた。
「水波、いろいろごめんね」
顔を上げる。
「いろいろ背負わせてしまったね」
「そんなこと……っ」
ぶんぶんと首を振る。
「私……私こそ、ごめんなさい……っ」
とうとう堪えようがなくなった涙が、次から次へと海へ還っていく。
「あのとき、来未を助けられなくて、ごめんなさい」
「水波はなにも悪くないよ。私こそ、あのときちゃんと謝れなくてごめんね。私のせいで、ずっと苦しい思いをさせて、ごめんね。それから、お母さんがごめんね。お母さん、まだ私のこと過去にできていないみたいなんだ。これからもひどいこと言っちゃうかも。でも、本心じゃないから。お母さん、水波のこと大好きだったから。……ごめんね」
来未の瞳から、一筋の涙が流れる。来未は、悲しげな、寂しげな顔をしていた。
彼女らしからぬその表情に、私はようやくじぶんの不甲斐なさを思い知る。
「来未が謝ることなんて、なんにもないよ」
涙を拭い、私は顔を上げた。
「大丈夫。私はもう大丈夫だから、安心して。来未、綺瀬くん」
すると、ふたりは目を見合わせて、嬉しそうに微笑んだ。
「私たちはいつまでも待ってるからね」
「そうそう。だから水波は、焦らないでゆっくりおいで」
ふたりが光に包まれる。
「……うん。お土産、たくさん持ってくから待っててね! 私のこと、忘れないでね。約束だよ! 絶対だよ!」
あまりに必死に言う私を見て、来未と綺瀬くんが笑う。
「バカだなぁ」
ふたりの声がぴたっとそろう。
「忘れるわけないじゃん」
「当たり前だろ」
辺りに光が満ちていく。きらきら、きらきら星が落ちたように眩く、華やかに。
意を決して、私は精一杯の笑顔で来未と綺瀬くんを見つめる。
「あのね……」
伝えたいことはたくさんあったはずなのに、いざふたりを前にすると言葉が出てこない。
ありがとう? 大好き? さよなら?
ううん、違う。ぜんぶ違う気がする。だって、私たちは永遠のお別れをするわけじゃない。ただ少し、ほんの少し離れるだけなのだから。
こういうときはやっぱり慣れた挨拶が一番だ。そう思い直して、私はふたりに大きく叫んだ。
「またね!」
***
パッと目が覚める。
身を起こすと、頬を涙が流れた感覚があった。
「夢……夢、かぁ」
あたたかい水の中で笑い合う、幸せな夢だった。幸せ過ぎて、でもやっぱり悲しくて、涙が出る。
「水波? また悪夢見た?」
身を起こした私に気付いたお母さんが、心配そうに声をかけてくる。
「……ううん。三人で遊んでる夢だった。ふたりとも、すごく楽しそうにしてた」
「……そっか」
ぼろぼろと泣く私を、お母さんが優しく抱き締めてくれる。
「水波、起きる? ホットミルク飲もうか」
「……うん」
素直に頷き、ふたりでキッチンに降りる。私はカウンターに座り、静かにお母さんの手元を眺めていた。
お母さんは冷蔵庫から牛乳を取り出すと、手際よくミルクパンに注ぎ、火にかける。私ならマグカップに牛乳を入れて、電子レンジであたためて終わりにしてしまうのに、と思う。
お母さんの手は、いつも丁寧だった。その手を見つめ、じぶんの手に視線を落とす。
見比べて気付く。
お母さんの手って、あんなに小さかったっけ。
「…………」
……いや、違う。
私が大きくなったのだ。私の手はもう、お母さんの手とそう変わらない。
「……あのね、お母さん」
お母さんが振り向く。
「私、さっき夢の中で、ふたりにまたねって言ったんだ」
ようやく言えたのだ。あの日、言えずに終わってしまったあの言葉を。
「だからね、お母さん。私……」
まっすぐにお母さんを見つめる。
「私、頑張るね。頑張って生きるから……だから、もう心配しないでね」
私の言葉にお母さんはわずかに目を瞠ったあと、顔をくしゃっと歪ませて微笑んだ。
「……そう」
ホットミルクを飲みながら私は、明日彼らを弔いに行こうと思うとお母さんに伝える。一緒に来てほしいとお願いすると、お母さんは「行くよ。一緒に行くよ」と何度も頷いてくれた。
***
翌年、八月九日。
私は再び沖縄に足を運んだ。
あの日三人で遊んだ浜辺に佇む。両手を合わせ、目を瞑ると波の音が耳を支配した。
来未、綺瀬くん。
久しぶり。ふたりともお元気ですか。
また、夏が来たよ。
ごめんね。ふたりにはたくさん心配をかけたよね。おかげでふたりはゆっくり休めなかったと思う。
でもね、私は臆病だからふたりのいない世界で生きていく勇気がなかったんだ。
来未と綺瀬くんは、私のヒーローだったから。
また来未のバカだなぁって言葉が聞きたくて、たまらなかったの。それがない毎日を生きる意味が分からなかったんだよ。
綺瀬くんがいない毎日は、まるで太陽を失くした世界のように真っ暗でなにも見えないんだ。道に迷って、凍えてしまいそうになるんだよ。その大きな手で、いつまでもどこまでも導いてほしかった。
怖かった。
ふたりがいないと、私にはなにも残らないから。
だけど、違った。私は、大切なものを失ったんじゃなくて、じぶんから捨てていたんだね。
気付かせてくれてありがとう。
いつかふたりに会いに行くときは、きっとたくさんのお土産を持っていくから、笑ってまた話そう。
だから、その日まで私は、精一杯生きていこうと思います――。
目を開けると、果てのない水平線が広がっている。
ふたりは今、どこにいるのだろう。この青い空か、もしくは空と海の間の、そのずっと先の世界かもしれない。
とにかくふたりが、今は穏やかであたたかい世界にいることを祈って。
「水波! アイス買ってきたよー! そろそろホテル戻ろーっ!」
大好きなふたりとの会話を終え、海を眺めていると、遠くから朝香の声が聞こえた。
振り向くと、親友が大きく手を振りながら、私の元へと駆けてくる。朝香の背後には、歩果ちゃんと琴音ちゃんもいた。
「うーん! 今行くー!」
朝香に返事をして、海を振り返る。
「また来るね」
と告げて、私は親友たちの元へ歩き出した。