修学旅行三日目に入った。
楽しい時間はあっという間で、修学旅行も今日と明日で終わりだ。
今日は一日、班に別れて自由行動となっている。マリンスポーツをしない私たちは、予定していた国際通りに来ていた。
星砂のハンドメイドアクセサリーを四人お揃いで買い、それから家族へのお土産をそれぞれで選んでいたとき、スカートのポケットにしまっていたスマホが鳴った。
画面には、『穂坂さん』の文字。
慌てて通話ボタンをタップする。
「もっ……もしもし!」
『あ、もしもし水波ちゃん? 今大丈夫?』
「はい、大丈夫です」
穂坂さんは最初に私が電話をかけたときとは違って、静かで落ち着いた口調だった。きっとふだんはこうなのだろう。
『実は、今から時間取れそうなんだけど、水波ちゃんどうかなって思って。今日ってたしか、自由行動だったよね』
「はい! 友達に確認してみますけど、たぶん大丈夫だと思います」
『そう。今どこにいる?』
穂坂さんに居場所を伝えると、案外近くにいたようで、国際通りのとあるカフェで落ち合うことになった。
通話を終えると、私は急いで朝香の姿を探す。
近くの店で買い物をしていた朝香を見つけ、人と会いたいから少しの間だけ別行動にさせてほしいと頼む。
「会いたい人って……水波が前に言ってた人?」
「うん。今から少し時間取れそうだからって」
「そっか……」
朝香は心配そうにしながらも、
「分かった。いいよ。ふたりには私から言っておく。気をつけてね」と、頷いてくれた。
「あ、でも三時にはここに戻ってきて」
「分かった」
そうして、私は穂坂さんと待ち合わせたカフェへ向かう。
カフェは通りに面したアラビアンな雰囲気の落ち着いたお店で、地下階段を降りたところにあった。
中に入ってきょろきょろと穂坂さんを探していると、「水波ちゃん」と小さな声で呼び止められた。
声がしたほうを見ると、短髪で背の高い男の人がテーブル席に座って手を振っている。
目が合い、私は小さく頭を下げた。
「こんにちは」
「こんにちは……」
穂坂さんだ。事故のとき、沈没しかけたフェリーから私を助けてくれた、命の恩人である。
穂坂さんは正面の席に着いた私を見て、潤んだ瞳を細めて微笑んだ。
「元気そうだね」
「……はい」
「あ、まずはなにか頼もうか。水波ちゃんなにがいい?」
穂坂さんにメニューを渡される。
「えっと……じゃあアイスティーにします」
穂坂さんが店員を呼ぶ。
「アイスティーとアイスコーヒー、それからティラミスとレアチーズケーキひとつずつお願いします」
注文を終え、しばらく近況の話をし合っていると、店員さんが注文したドリンクとケーキを運んできた。
運ばれてきたケーキを並べて、穂坂さんが言う。
「水波ちゃん、ティラミスとレアチーズ、どっちがいい?」
え、と顔を上げると、穂坂さんは「ひとりじゃ食べづらいから、付き合ってよ」と言って、にっこりと微笑んだ。
「……じゃあ、えっとティラミスいただきます」
穂坂さんの好意に甘えて、ティラミスをもらう。
穂坂さんとこうしてふたりきりで話すのは初めてだが、不思議と緊張はなかった。穂坂さんが事故のことに触れることなく、私の学校生活や友達についての何気ないことをたくさん聞いてくれたおかげかもしれない。気まずい空気になることもなく、終始穏やかな時間が流れた。
そして、しばらく他愛のない話をしてから、私はとうとう本題に入った。
「あの……私、ずっと穂坂さんにお礼を言えてなくて……助けていただいて、本当にありがとうございました」
「いいよいいよ、そんなこと気にしないで」
改めて頭を下げると、穂坂さんは人の良さげな笑みを浮かべ、頬を掻いた。
「……それから……私、ずっと穂坂さんには謝らなきゃいけないと思ってたんです」
「謝る?」
穂坂さんが戸惑いの滲んだ表情を浮かべる。
「はい」
私は一度唇を引き結び、膝に置いた手を握り込む。
そして、言った。
「私……実は死のうとしたんです」
穂坂さんが息を呑む音がした気がした。アイスティーの氷が、からりと音を立てて溶ける。
私は懺悔室に佇む罪人のように、穂坂さんを前にぽつぽつと話し出す。
「来未が……親友があの事故で死んじゃって、私はひとりだけ生き残りました。病院で目が覚めたとき、一緒にフェリーに乗っていたはずの人たちはひとりもいなくて、代わりにその家族の人がたくさんいて」
その人たちは、みんなそろって廊下の隅ですすり泣いていた。そしてそこには私の両親もいて、ほかの人たちと同じように泣いていた。
「その人たちの涙を見て……その人たちになんでお前は生きているんだと詰め寄られて、私はじぶんの立場を知りました」
生き残ったのは私だけ。来未は海に投げ出され、かなりの距離を流されて、見つかったときにはもう亡くなっていた。
ほかの人たちも船体から辛うじて助け出されたものの、全員蘇生には至らなかった。
「退院して家に帰ってからも、両親は……特にお母さんはパニックになっていて、あの事故以来、精神安定剤とかを毎晩飲むようになって……私が苦しそうにするとお母さんもお父さんも余計に心配するから、私は、なんでもないように振る舞いました」
「そう」と、穂坂さんはひそやかな声で相槌を打つ。
「……そんなことしか私にはできないんです。私は、私のせいで泣くふたりに……」
私自身、怖くて泣き叫びたい夜もあった。けれど、そんな不安定になっている私を打ち明けたら、両親はさらに混乱する。そう思うと、ただひたすらひとりで耐えるしかなかった。だれにも相談できなかった。
穂坂さんがやるせなさげに目を伏せた。
「……君は被害者だよ。一番に守られるべきなのは、君自身だ。君がそんなことを気にする必要はないのに」
「……そうでしょうか」
私は続ける。
「私はあの事故で生き残るのは、間違いだったんだと思っていました。私は、生き残るべきじゃなかった。そうすれば……お母さんもお父さんも、悲しむことはあってもこんなに苦しむことはなかったはずだから」
ほんの少し、空気が揺れた。穂坂さんが小さく息を漏らしたのだ。
「……あの事故の日から、見える景色がガラッと変わりました。なんていうか、上手く言えないですけど白黒写真みたいにすべてがモノクロになったみたい。学校の友達も、前みたいには話してくれなくなって……自然と、遠ざかっていきました」
どこかよそよそしくなったクラスメイトたち。みんな、私と目が合うと目を逸らしたり、困ったように目を泳がせるようになった。
「あぁ、私は……いるだけで空気を重くするんだなぁって思いました。それからだれかと話すということはなくなって、そのまま中学を卒業して、今の高校に入りました。高校では知り合いがほとんどいなかったから、さらに人間関係は希薄になりました」
わざと同じ中学の同級生が少ない高校を選んだのに、私の噂は入学した瞬間から広まっていた。だから私は、全員から向けられる同情や興味の視線に気付かないふりをして、息を殺すようにして過ごした。
話すことを一旦止めて、息を吸う。
思い出すだけでも、胸がちりちりとして、苦しくなった。
「水分、摂りな」
「……はい。すみません」
促されるままに私はアイスティーで喉を湿らせ、そのままぼんやりと汗をかいたグラスを眺める。
潤しても潤しても詰まる喉を押さえながら、私は絞るように声を出した。
「……ずっと、なんで私だけ生き残っちゃったんだろうって思ってたんです」
穂坂さんはなにも言わず、ただ静かに私の話に耳を傾けていた。
「今年の来未の命日に、お墓参りに行ったんです。そうしたらたまたま来未のお母さんに会ってしまって……言われました」
来未を返せ。来未が死んだのは、お前のせいだ。
すると、それまで黙って聞いていた穂坂さんが、苦しげに首を横に振った。
「違う。……違うよ、水波ちゃん。来未ちゃんが亡くなったのは、絶対に君のせいなんかじゃない。何度も言うけど、君は被害者なんだよ」
「違うんです」
強い口調で、穂坂さんの言葉を遮る。穂坂さんは息を呑んで私を見た。私は震える声で告げる。
「本当に……私のせいなんです。あの日、あの事故が起きたとき……私、来未と喧嘩しちゃって、どこかに行った来未を探しに行ったんです。そうしたら来未はデッキにいて……だけど、ちょうどそのときフェリーがものすごく揺れて、来未がよろけて……」
次第に声が潤んでいく。
これは、お母さんにもお父さんにも言ったことのない事実だ。綺瀬くんにしか言ったことのないあの日の事実を、私は静かに恩人に告白する。
「それで、そのすぐあとに爆発音みたいな音がして……倒れた来未が、勢いよくフェリーから落ちていきました。来未が海に落ちる直前、私は来未の手を咄嗟に掴んだ。でも……私の力じゃ支えきれなくて、転んでしまって……デッキの柵に頭をぶつけて一瞬、意識がなくなったんです。でも、すぐに気が付いて、じぶんの手を見たら……」
来未の手はなかった、どこにも。
涙が零れないよう瞬きを我慢しようとしたけれど、無理だった。ぱちりと一度だけ瞬きをすると、膝に置いた手の甲に雫が落ちた。
「……来未が死んだのは私のせい。もしかしたら、来未のママは私があのとき来未の手を離したことを知ってるのかもしれない……そう思ったら、たまらなく……怖くて……」
来未のママに憎しみのこもった目で睨まれながら、その背後の墓石に掘られた名前を見た。そのとき、来未の声が聞こえた気がした。
人殺し。どうして助けてくれなかったの。どうして手を放したの。親友だと思っていたのに。私はあなたを助けたのに。この裏切り者!
最後のほうは、もう言葉にならなかった。一度決壊した涙は、とめどなく溢れ出して止まりそうもない。
穂坂さんは泣きじゃくる私を見て、呆然としていた。
「……気付いたら私は、近所の高台にある広場にいて、転落防止用の柵を乗り越えてました」
……言ってしまった。恐ろしくて、顔を上げられない。穂坂さんの顔を、見ることができない。
「ずっと、助かったことを後悔してました。死にたかったんです。生きてるのが辛かったんです。この世のすべての人に責められてるようで」
私は恩人を前に、なんてことを言ってるんだろう。
穂坂さんはきっと、なんて助けがいのない人を助けたのだろうと呆れているだろう。助けなきゃ良かったと思っているかもしれない。
「……私、ずっと怖くて言えなくて……今まで黙っててごめんなさい」
俯いたまま言うと、穂坂さんは静かな声で言った。
「ずっと、ひとりで抱えてたんだね」
穂坂さんは、優しい声で「辛いことを、話してくれてありがとう」と言ってくれた。
「……ごめんなさい、ごめんなさい」
何度も呟くように謝ると、穂坂さんは首を振った。
「君は怪我をしてまで来未ちゃんを助けようとした。じぶんだって生きるか死ぬかの瀬戸際で、来未ちゃんを助けようと行動した。だれにでもできることじゃない。立派なことだよ」
穂坂さんの優しい言葉に、目頭がじわりと熱くなる。
「でも……助けられませんでした」
どんな行動をしたところで、助けられなきゃ意味がない。
「子どもにそんな力はないよ。君はなにも悪くない」
穂坂さんは少し視線を足元に落として、「ただ」と頭を搔く。
「ただ……正直なことを言うと、ちょっとショックだったな」
「え……」
顔を上げると、穂坂さんは悔しそうな顔をして、私を見つめていた。
「……ごめんね、君の気持ちはすごくよく分かるんだ。海難事故で助かった人たちは、いつも君と同じ顔をするから」
ときには、死んだ人よりひどい顔をしていることもある、と穂坂さんは遠い目をした。寂寥感をたたえたその横顔に、胸がぎゅっと絞られるように苦しくなる。
「海での事故に関して言うと、犠牲者がゼロってことはほとんどないから、助け出されたほとんどの生存者は生き残ったことに罪悪感を覚える。まぁそうだよね。目の前でそばにいた人が死んでいくところを見た人もいるわけだから……。水波ちゃんみたいに、目が覚めて事故の惨状を知って……絶望して、結局自死を選んでしまう人もいる」
そう告げる穂坂さんの肩は、小さく震えていた。
「……そんな報告を聞くたびに、俺はなんで潜水士になったんだろうって疑問に思うんだ。こっちは命懸けで訓練をしてきたのに、って」
海上保安官は殉職率もかなり高いという。
「訓練中の事故で死んだ仲間は何人もいる。そいつらの遺志も継いで俺はようやく潜水士の資格をとった。こっちは命を懸けて助けに行ってるんだ。それなのに、なんで死ぬんだよ。なんで自殺なんてするんだよ。生きてくれよ……じゃないと、俺たちはなんのために……」
そう言って、穂坂さんは苦しげに眉を寄せた。
「……ごめんなさい……私……」
私は、青ざめながら、ただ謝罪することしかできない。
私は、なんてことをとしたのだろう。
呆然とする私に、穂坂さんは「いや」と静かな声で、
「……謝らなくていい。水波ちゃんは水波ちゃんで、死んでしまいたいと思うくらいの辛いことがあったんだろう?」
「でも私、穂坂さんの気持ちも考えずに……」
「考えたって分からないよ。俺だって、君の苦しみを完全に分かってやることはできない。……それがすごく虚しくなるときがあるけど……仕方ないんだよ」
穂坂さんはやるせなさげに目を伏せた。
「……潜水士はそういう仕事だ。俺たちは要救助者の命は救えても、心までは救えない。だから、信じるしかないんだ。助け出された君たちが強く生きてくれることを」
穂坂さんが私を見て微笑み、「ひとつだけ聞いてもいいかな」と言う。
「は、はい」
なんだろう、と、どぎまぎしながら穂坂さんを見る。すると、穂坂さんは優しく微笑んだ。
「死のうとしたんでしょう? どうして思いとどまったの?」
「あ……それは」
どこから話すべきだろう、と一度口を噤む。
「……実は、死のうとしたとき、私の手を掴んでくれた人がいたんです。その人は私を柵の内側に引きずり戻すと、とても怒りました。怒られて、私もムキになって言い返して……喧嘩になりました」
思えば、あんなふうにだれかと言い合ったのは、事故以来はじめてだったかもしれない。
もともと人見知りで、感情を表に出すこと自体苦手だった私は、友達と喧嘩することなんてまずなかったのだ。
「でも、彼は私が自殺しようとするなら何度でも助けるって言ったんです。初対面なのにどうしてって聞いたら、手が届くからだって言っていて」
目を閉じて綺瀬くんの顔を思い浮かべると、彼がくれたあたたかな言葉たちがぽうぽうと胸の奥に灯っていくようだった。
『自殺は、心が死んだ人がする行為だ』
行き場のない虚無感に襲われていた私の手を取って、綺瀬くんは言った。
『忘れちゃダメだよ。死んじゃった人は、生き残った人の思い出の中でしか生きられないんだ』
こんなに苦しいのなら、いっそのこと来未のことを忘れてしまいたいと泣く私を、綺瀬くんは優しく慰めてくれた。
「その言葉で救われて……私は死ぬのをやめました」
一度死に近づいたからだろうか。あれ以来、私はあの柵の向こう側に立つ勇気は失くしてしまった。
「……そっか。いい出会いがあったんだ。その人に、君は心を救われたんだね」
穂坂さんが私を見て優しく笑う。私は少し照れくさくなりながらも頷いた。
綺瀬くんに出会っていなかったら、今私はここにはいない。そう考えると、彼との出会いは本当に運命的だったと思う。
「ようやく、息が吸えた気がしました」
ずっと家族に本音を言えなかった私を、クラスメイトに話しかけられて戸惑う私を、綺瀬くんは優しく受け入れてくれた。
『俺たちはエスパーじゃないから、心の中までは見えない。たとえ家族でも』
そう。私たちは、心の中まで見ることはできない。だから言葉を交わす。そのために、言葉があるのだと。
『親だって人間。娘のことをいくら思ってても、間違えることだってあるんだよ』
親だって、初めから親であるわけじゃない。きっと、悩んで傷付いて、失敗して親になっていくのだと。
家族と向き合えずに落ち込んでいた私に、大切なことを気付かせてくれた綺瀬くん。
『俺はいつだって、水波の味方だよ』
私も、どんなときでも綺瀬くんの味方でいたい。綺瀬くんの一番でいたい。
『水波』
耳の奥で、彼の涼やかな声が聞こえる気がする。
来未が死んだのは私のせい。こんなことならあのとき死んでしまえばよかった。
そう嘆く私を、綺瀬くんはバカだなぁと笑って受け入れてくれた。
「食べなきゃ死んじゃうこと、想いは口にしなきゃ伝わらないこと。それから……死んじゃった人との思い出はもう、増えないこと……」
もし私が来未のことを忘れたいと思ってしまったら、来未は私の心からも消えてしまう。
綺瀬くんが教えてくれたのは、すべてごくごくふつうのこと。だけど、日常に慣れてしまうと見落としてしまいがちなことでもあった。
「……正直、来未のことを思い出すのは今でもすごく辛いです。でも、忘れるのはもっといやだから……前を向くことにしたんです」
私はまっすぐに穂坂さんを見つめて、言った。
「彼に言われてようやく気付きました。私は生き残ってしまったんじゃなくて、助けてもらったから今こうして生きてるんだって」
穂坂さんは、驚いた顔をして私を見つめている。
「私は、穂坂さんに助けられました。だから生きています。本当にありが……」
礼を言おうとしたときだった。
「……ごめん」
穂坂さんに静止され、私は言葉を止める。穂坂さんの瞳は、どこか寂しげに揺らいでいた。
「話してくれてありがとう。君の本心が聞けて、すごく嬉しい。……でも、ごめん。やっぱり俺は、君に礼を言われるような資格はない」
「え……?」
戸惑いがちに穂坂さんを見る。穂坂さんは今にも泣きそうに顔を歪めて、私から目を逸らして俯いた。
「水波ちゃんにお礼を言うのは……本当は、俺のほうなんだよ」
「え……いや、穂坂さんがいなかったら私は確実にあのフェリーの中で死んでましたし……」
「違うんだよ」
穂坂さんの語気が不意に強くなり、びくりと肩を震わせる。すると穂坂さんが慌てて顔を上げた。
「……あ、ごめんね。大丈夫、怒ってるわけじゃないんだ」
「……はい」
「でもね、お礼を言いたかったのは、俺のほう。だから今日も、時間を作って君に会いに来た」
「……穂坂さんが、私に?」
意味が分からない。呆然としていると、今度は穂坂さんが話し始めた。
「……さっきはあんな偉そうなことを言ったくせにって思うかもしれないけど……俺は、一回君を諦めたんだ」
「え……あの、どういうことですか?」
穂坂さんは、まるで喉になにかを詰まらせてしまったかのように、苦しげに言葉を吐く。
「……ごめん。被害者である君に、こんなこと言うべきじゃないのは分かってる。これから話すことは、君をさらに苦しめるかもしれない」
首を振り、穂坂さんを見る。
「聞きたいです。お願いします」
そう言うと、穂坂さんは一度深く息を吐いてから話し出した。
「俺は潜水士としてはまだ未熟で、あの事故は三度目の救助の現場だった。それまでは潜水士としてあそこまで大きな事故に出動したことはなかったから、その……現場の惨状が想像以上で……恥ずかしい話だけど、絶望したんだ」
そう話す穂坂さんの表情はひどく沈んでいた。
ほとんどが海水に沈んだ船内には、微動だにしない要救助者たちが浮いていたという。
沈みゆく船の中で、穂坂さんたち潜水士はまず息のある救助者を探して奥に進んだ。そして僅かに空気が残った空間に浮かぶ私を見つけたという。
私は瓦礫に押し上げられていて、奇跡的に顎から上だけが空気に触れていた状態で見つかったらしい。
「俺たちが到着した頃には、フェリーは既に炎上していて、かなり危険な状態だった。もし、このまま火の手が回ってエンジンルームの燃料タンクに火がつけば、爆発する。君たちの救助は文字通り命懸けで、俺は正直、いつフェリーが爆発するのかって怖くてたまらなくて、救助に身が入ってなかった。先輩が船頭近くの部屋に君を見つけて、瓦礫の撤去を手伝えと指示をくれたけど、俺は動けなくて、一刻も早くフェリーから出たくてたまらなかった」
私は、言葉を返せなかった。
「それで、俺が君を抱き上げている間、先輩が瓦礫を撤去してくれていたんだけど」
でも、と、穂坂さんはまた声を沈ませた。
「直後、フェリーがバランスを崩して急速に沈み始めた。俺たちは急いで船内から脱出することになったけど、君はまだ挟まれたままで、とうとう先輩が諦める判断をしたんだ。俺はそれに従った。……だから俺は、一度は君を助けることを諦めたんだ」
どくどくと心臓が鳴る。握り込んだ手は、汗でべっとりと湿っていた。
「そ……う、だったんですか」
冷や汗が背中をつたい落ちる。
ゾッとした。私は、それほど死に迫っていたのだ。もし、穂坂さんがそのまま私を諦めていたら……。
考えて、疑問が生まれる。
私を助けることを諦めたのなら、どうして私は今生きているのだろう。
「それならどうして……?」
訊ねると、穂坂さんは私を見て言った。
「君が、生きたいって言ったから」
「え……?」
目を瞠る。
「君から手を離そうとしたとき、君が俺の手を掴んだんだ。その手が、助けてって言っているように思えて……俺は独断で、君の救助を優先した。たぶんあの瞬間、俺は本当の意味で潜水士になれたんだと思う」
あとから先輩にはすっごく怒られたけど、と穂坂さんはおどけて言った。
「ごめんね。こんな話、辛いでしょ?」
ぶんぶんと首を振る。
「さて」と、穂坂さんはティラミスをじぶんのほうに引き寄せてフォークで小さく割ると、お皿を私へ戻した。
「とりあえず、食べよう?」
声を出さずに頷いた。いや、出せなかった。なにかを口にしたら、違うなにかが溢れてしまいそうで。
お互い涙でぐしょぐしょのひどい顔をしながら、ケーキを食べた。
鼻が詰まっているせいで、味も香りもぜんぜん分からないけれど、舌に乗ったマスカルポーネのムースはふわっととろけて、甘い余韻を残して消えていく。
「よく、思うんだ」
レアチーズケーキを食べながら、穂坂さんは口を開いた。
「もしあの日君を見捨てていたら、俺はたぶん潜水士を続けられていなかったと思うんだ」
目の縁に涙を光らせ、穂坂さんは笑う。
「だからね、君が俺を救ってくれたんだ。君が生きたいって俺の手を握ってくれたから、俺は今も潜水士を続けていられる。海に潜るたびにいつも思い出すんだよ、君が俺の手を握った感触を」
きっと、一生忘れない。俺たちは要救助者が生きていようが生きていまいが、家族の元へ連れていくのが仕事だ。死んでしまった人を前にすると、遺族の泣き崩れる姿を見ると、どうしたって無力感に絶望する。だけどそういうとき、君の手を思い出すんだ。ここでやめちゃダメだ。ここでやめたら、この先助けられるはずの何人もの人を見捨てることになる。そう思って、毎日踏ん張ってるんだよ。
そう、穂坂さんは言った。
その言葉に、私はやっぱり堪えきれずに涙をぼろぼろと溢れ出す。
私は、どうしてこんな大切なことに気付かなかったのだろう。
あの日、フェリーの事故で死にかけていた私が今ここにいるということは、死にかけた私を死ぬ気で助けてくれた人がいたからなのに。
綺瀬くんに言われるまで気付かないどころか、今こうして葛藤する穂坂さんを見るまで、その現実を本当の意味では受け止められていなかった。
「私……穂坂さんが命をかけて助けてくれたのに、それなのに、命を捨てようとして……ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
穂坂さんは首を横に振って笑った。
「ほら、涙を拭いて。そんなに泣いたら目が腫れちゃうよ。可愛い顔が台無しだ」
ティッシュを差し出され、受け取る。
「……すみません」
「俺にはまだ子供がいないから、君を責めた来未ちゃんのお母さんの気持ちは想像することしかでしない。だから、彼女を責めることはできない」
ごめん、と穂坂さんは目を伏せる。
私はそんな穂坂さんに首を振る。
「……いえ。そのとおりだと思います」
私もそうだ。
親友を亡くした人の気持ちなら理解できる。でも、娘を亡くした親の気持ちは私には分からない。
今でも来未のことを思い出すと胸が潰れそうになる。家族なら、もっとだろう。
「だけどね、心ってひとつじゃないと思うんだ」
「え?」
「来未ちゃんのお母さんもね、きっと娘の親友である君が助かってよかったと、心から思っていると思うんだ。だけどその反面、娘と一緒にいたはずの水波ちゃんは助かったのに、なんでうちの子は無事に帰って来れなかったのだろうと思ってしまったんだと思う」
言葉が出なかった。
そうか。そうだ。少し考えれば分かることだった。
来未のお母さんは、事故に遭った私を、泣きながら抱き締めてくれたことがあった。その顔は心からよかったと、私の無事を喜んでくれていたように思える。
どうして忘れていたんだろう……。
「どちらもたしかに彼女の本心なんだよ。人の心っていうのは、複雑だよね」
黙り込んだ私に、穂坂さんが微笑む。
「そう……ですよね。私、なんでこんな簡単なことに気付かなかったんだろう……」
「仕方ないよ。他人に関心を持つ余裕なんてなかったでしょ」
と、穂坂さんは苦笑した。
「……だからね、君が生きることに罪悪感を持ってしまうのは分かる。だけど、これだけは忘れないで。もし君に罪があるというなら、その罪は君を助けた俺にもある」
「……そんなことは……」
否定しようとするけれど、声はあまり出なかった。
きっと私も、心のどこかで穂坂さんが来未を助けてくれていたら、と思ってしまったのだ。
穂坂さんは一生懸命仕事をしただけで、落ち度なんて少しもないのに。これこそ裏腹だ、と思った。
アイスコーヒーを飲み、喉を潤した穂坂さんは私を見つめて静かな声で言った。
「背負うなと言っても無理だろうから、さ」
「……はい」
「だから俺も、その罪を半分もらうよ。君の両親もきっとそう思ってる。ほかにもきっと、君を想う人はたくさんいる」
その言葉に、脳裏に朝香や綺瀬くんの顔が浮かんだ。
「……だからね、水波ちゃんはひとりだなんて思わなくていいんだ。顔をあげれば、君の荷物を持ってくれる人たちが周りにたくさんいるんだから。大丈夫。君は、みんなに愛されてるよ」
「…………」
ぐっと奥歯を噛む。
穂坂さんの優しい微笑みに、私は、
「はい」
気づけばそう、笑顔で答えていた。