明日はちゃんと、君のいない右側を歩いてく。


 白く霞む視界は、果てまで一面、灰色の海だった。時化(しけ)た海の向こうに、なにかが浮いている。

 ……なにか。

 手だった。海面から、白い手が一本、伸びているのだ。苦しげに、必死にこちらへ助けを求めるように。

来未(くるみ)っ!』
 私は叫びながら、手を伸ばす。
 けれど、どれだけ手を伸ばしても、私の手が来未の手に届くことはない。
『来未っ! 来未!』
 私は潤んだ声で、何度も、何度も来未を呼ぶ。けれど、来未の手はどんどん荒波の向こうに流されていく。

『やだっ……待ってよ、待って!』

 ぶくぶくと泡が弾ける音に紛れて、どこからか、苦しいよ、苦しいよと沈痛な声が響き始めた。

『来未! 待って! すぐ! 今すぐ助けるから!』

 けれど、私は彼女を救うための道具も、強さも、なにも持っていなくて、ただ手を伸ばすことしかできない。

 いくら叫んでも、彼女には届かない。
 来未の姿が消え、波が落ち着く。

 直後、背後から囁き声が聞こえた。

『――人殺し』

 ハッとして目を開けると、私はあたたかなベッドの上にいた。
 瞬きを繰り返して、部屋の中を見渡して。息を吐いて、そうしてようやく、私はそれが夢だと気付くのだ。

 荒い呼吸を繰り返し、私は額に張り付いた髪の毛を払う。
 部屋はしんと静かで、自分の息遣いだけが聞こえる。脱力感がどっと全身に広がっていく。

「……はぁ」

 小さく息を吐きながら身を起こして、ベッド横のカーテンを開ける。

 窓の向こうには、すべてを呑み込んでしまいそうなほどの暗黒の世界が広がっていた。
 星なんてひとつも見えやしない夜空を、しばらくぼんやりと眺める。

 ふと、とある言葉が脳裏を過ぎった。

『生きることは、悪いことである』

 それは、いつか図書館で見かけた本に載っていた言葉だった。
 その一文は、見たその瞬間から、なぜだかずっと私の中でひっかかっていた。

 どうしてひっかかっているのか。

 それはずっと、私がいじめを受けていたから、みんなに嫌われていたからなのだと思っていた。
 けれど、違った。

 これは、いじめられっ子だった私へ向けられた言葉ではない。そんななま優しいものではなかった。

『あなたが死ねばよかったのに』

 ある人に言われたときに分かった。
 あの言葉は、だれかの命を犠牲にして生きている私を指した言葉だったのだと。

 私は、ただ生きているだけでだれかを苦しめている。
 ――こうしている、今も。
 だれかの心を追い詰めている。

 八月九日、夕方。
 夏の盛りを過ぎた陽射しの下。

 私は、ふらふらと街の中を彷徨(さまよ)っていた。手から垂れた仏花は暑さのせいか、色を失ったようにくすんでいる。

 まるで私の心みたいだと、視線を仏花に落として、ぼんやりと思った。

 歩く私のすぐ真横を通り過ぎていく車が、けたたましくクラクションを鳴らす。
 耳をつんざくような不快なその音に、ふとさっきのできごとがフラッシュバックした。

 親友が眠るお墓の前だった。
『なんであなたは生きてるの』
 この数年で、見違えるほど老け込んだ親友の母親に浴びせられた言葉。

 頭を殴られたような衝撃を受け、我に返る。

 本当だ。私は、なんで生きているんだろう……。

『あなたが死ねばよかったのに』
 うん、そうだよね。私も、そう思う。

『あの子を返して』
 あの子が帰ってきてくれるなら、私はなんだってするよ。だって……私だって会いたいんだから。

 頭の中を、ぶつけられた言葉がぐるぐる巡っている。
 それらの言葉は、私を殴るだけ殴ったあとも、そのまま背後霊のようにくっついてきていた。

『この悪魔』
 ……あぁ、そうだ。私は悪魔だったんだ。あの子の命を奪った悪魔だったんだ。
 だからきっと、あの子は私をひとり置き去りにして逝《い》ってしまったのだ。

 突然、どん、と太鼓の音がして顔を上げる。

 街の中央にある小高い山の上に、小さな神社が見えた。
 神社へ続く長い石段の両脇には、赤色の提灯(ちょうちん)が整然と並んでいる。

 それはまるで鬼火のように、淡く、怪しくゆらゆらと揺れていた。

 どん、どん。

 お囃子(はやし)の音色に誘われるように、私はその場所へ足を向ける。

 金魚の(ひれ)のような鮮やかな袖や帯飾りが、視界のあちこちで優雅にひるがえる。
 私はそれら揺らめく影の波を、縫うように歩いた。

 つーっと、汗が首筋をつたう。

 石段が途切れると、目の前に大きな朱色(しゅいろ)鳥居(とりい)が現れた。
 くぐり抜けると、広場の中央に(やぐら)が建っている。その櫓を取り囲み、浴衣を着た人たちが楽しげに盆踊りを踊っていた。

 戦隊もののキャラクターのお面を付けて踊る子供。
 ゆったりと優雅に舞う老人。
 親子で、友達同士で、カップルで。それぞれ楽しそうに笑いながら櫓の周りを回る人たち。

 ……楽しそう。
 そう思うけれど、その中に入ろうという気にはならない。

 屋台のりんご飴も、かき氷も、お好み焼きも、食べたいと思わない。
 今、私の中にある欲求はただひとつ。

 死にたい。

 それだけだった。

 お祭りが催されている広場を抜け、神社の後ろ側へ行くと、またさらに石段が現れた。

 こんな場所あったんだ……。

 地元だけれど、初めて来る場所だ。いったいこの石段はどこまで続いているのだろう。

 両脇の木が、石段を覆うように青々と繁っている。
 木々がざわめくその石段を、私はなにかに誘われるように、ただひたすら昇った。

 どれくらい昇っただろう。いつの間にか、お囃子の音はほとんど聞こえなくなっていた。

 石段を昇り切ると、突然視界が明るくなった。
 それまで生い茂っていた木々はすべて切り倒されていて、そこだけぽっかりと開けた空間が現れる。

 進むと、燃えるような夕焼けと喧騒(けんそう)にまみれた見慣れた街の景色が広がっていた。
 街の向こうにある大きな山と、さらにその向こうにあるオレンジ色の大きな太陽、分厚い入道雲(にゅうどうぐも)

 車のクラクション。信号機の音。だれかの笑い声。
 ぜんぶが、遠い。街も、人も、未来も……過去すら――。

 かさりと音がした。
 音のしたほうへ目を向けると、少し先に転落防止用の柵があった。錆びて色が変わり、傾いている様子は心もとない。

 そっと足を踏み出して、そこへ向かう。下を覗くと、その高さに目眩(めまい)がした。

 ふと、思う。

 ここから落ちたら、死ねるだろうか。死んだら、あの子に会えるだろうか。私が死んだら、あの子の心は、あの人は救われるだろうか……。

 私も……楽に、なれるだろうか。

 足が動く。さっきまでと違って、足取りは驚くほど軽い。
 柵を越える。

 そっか。私は、ずっとこうしたかったんだ。

 この先には、きっと私にしか行けない道があるんだ。
 そこはきっと私が楽になれる場所。あの子に会える場所。あの視線から、ため息から開放される安らかな場所。

 足を前に踏み出した。

 足場のない空間に浮いた足は、重力に沿って落ちていく。目を瞑って、すべてを遮断する。

 風が私の体を包み込もうとした、次の瞬間。
「なにしてるの!」
 突然、腕に痛みが走った。
 驚いて目を開く。振り返る間もなく、ぐっと乱暴に腕を引かれ、息を詰める。

 キィ、と錆びた柵が音を立てた。

 その場に倒れ込んだ私は、呆然と顔を上げた。そこには藍色の浴衣を着た男の子がいた。赤色の狐のお面を被っているため、顔は分からない。

「……だれ?」

 訊ねると、男の子の喉仏がわずかに上下して、掴んだ腕の力をゆるめた。けれど、ここが柵の外側であることを思い出したのか、すぐに力がこもる。

 男の子は私の腕を掴んだまま、仮面を少し横にずらした。

 目が合う。

 仮面の下から半分だけ覗いた素顔は、ハッとするほど整っていた。切れ長の瞳に、すっと通った鼻筋。上品な唇はきつくきゅっと引き結ばれていた。
 さらさらとした黒髪が夏風に揺れている。

 同い年くらいだろうか。たぶん知らない子だ。私は眉を寄せて、睨むようにその子を見返した。

「なに? 手、痛いんだけど」
 強く抗議するが、しかし、男の子の手の力が緩まる気配はない。
「とにかく、こっちきて」
「あっ……ちょっと!」

 さらに強い力で、半ば引きずるように柵の内側へ引っ張られた。そのまま地べたに落ちると、男の子はようやく私から手を離した。

 掴まれていたところがじんじんとして、私は思わず、男の子をキッと睨んだ。
「ちょっと、なにするのよ!」
「なにじゃない! 危ないだろ!」

 容赦のない怒鳴り声が私の耳を貫き、無性に涙が込み上げてくる。けれど、知らない人の前で泣くのが嫌で、懸命に唇を噛み締めてこらえた。

「あなたには関係ないでしょ!」
 震える声を誤魔化すように強く言い返すと、
「じぶんがなにしようとしたか分かってるの!? 落ちてたら、死んでたんだよ!」と、さらに怒鳴りつけられた。

 耳がきぃんとして、思わず耳を押さえた。

 なにも知らないくせに。
 下腹のほうから、苛立ちがふつふつと湧き上がってきた。

「あなたこそ、いきなりなんなのよ!? 分かってるよ! 見れば分かるでしょ! 死のうとしてたの! 死にたいからここにいたの! 放っておいてよ!」

 強い口調で言い返しながら、なんで他人にこんなことを言わなきゃならないのだと、余計に腹が立ってくる。
 その意思を込めてぎゅっと唇を引き結んだままでいると、男の子が呆れたようなため息をついた。

「放っておけるわけないだろ。目の前で死のうとしてる奴がいたら、だれだって助けるよ」

 当たり前のように言われ、じぶんの顔がこわばるのが分かった。

「……助けるってなによ。もしかして、自殺を止めることが私を助けることだとか思ってるの? だったら間違い。そんなの、あなたの勝手な自己満足でしかない。私を助けたいなら、素直に死なせて」
「……いやだ」

 男の子は、迷いのない瞳で私を見下ろしている。

 ……違う。
 彼の言うとおりだ。目の前でだれかが苦しんでいたら、助けるのが当たり前。

 その当たり前ができないのは、私だ。私は、来未を……。
 青白い手を見下ろす。手首には、男の子に掴まれた跡がくっきりと残っていた。こんなに跡が残るなんて、ずいぶん強く握られていたらしい。

 ……助けるなら私じゃなくて、あの子を助けてほしかった。あのときだって、あの子は必死に助けてって叫んでいたのに。

 助けるだなんて簡単に言ってしまえるこの人が羨ましい。私を柵の内側へあっさり引き戻してしまうその手が羨ましい。

 ぎゅっと拳を握り、男の子の大きな手を見つめる。

 大きくて、骨張った、男らしい手。なんでも守れそうな力強い手だった。この手があれば、私にもあの子を助けることができたのだろうか。

「……あなたは、いいなぁ」
「え?」

 あの子はもういないのだから、今さら後悔したって遅いのだ。それでも思わずにはいられない。

「……とにかく、あなたには悪いけど、私には救われる資格なんてないの。だからもう、どこかへ行って。お願いだから、ひとりにして」

 そう呟いて、私は男の子を拒むように顔を背けた。

「……よく分かんないけどさ、そばにいるよ」

 その場で座り込んだまま項垂れる私に、男の子がしっとりとした声で言った。

「……なんで?」
「……だって、俺がいなくなったら君、また自殺しようとするでしょ」
「だったらなによ。私の命なんだから、どうしようが私の勝手でしょ」

 それこそ、赤の他人のあなたには関係のないことだ。

「うわ、なにその言い草、可愛くない。それに、それこそ無責任だと思うけど」
「あぁ、もううるさいな……なにも知らないくせに」
 力なく言い返すと、男の子は静かに、でも強い口調で続けた。
「知らないよ。けど、それでもいやなんだよ」

 ……変わった人。

 いなくなる気配のない男の子に、私は諦めのため息を漏らす。完全に死ぬタイミングを逃してしまった気がするけれど、私の正体を知れば、さすがに消えてくれるだろうか。

「……じゃあ、私が人殺しだって言っても助けてくれるの?」
「……は? 人、殺し……?」

 男の子があからさまに動揺する。

「そうよ。私が人殺しだって知っても、あなたはまた助けてくれるの?」

 男の子は私を見つめたまま、黙り込んだ。

 当たり前の反応だ。私に、悲しむ資格なんてない。

 その反応に、ほんの少しだけショックを受けているじぶんがいることに気付いて、呆れた。
 こんな状況でも、私はまだ救われようとしているのか、と。

 ダメだよ、現実を、目の前の表情を見て。
 私の正体を知った人はみんな、こういう顔をするんだ。
 こういう目で、私を見るんだから。

 やっぱり私は、存在するべきじゃないんだ。

 男の子の表情に、私は再び覚悟を決めた。

 ……ただ。
 ただ、ひとつだけ言いたいことがあるとすれば、後悔するなら最初から関わらなければいいのにとだけ思った。

 勝手に助けて、勝手に後悔して、バカみたい。

「……もう迷惑だから、あっち行って」

 目を伏せる。
 次に目を開けたときには、きっと男の子はいなくなっているだろう。
 それでいい。
 そうしたら、またあの柵を乗り越えてしまおう。今度こそそれで、すべてが終わるのだ――。


 風が動いた。
 心が揺れないように、必死に感情を凍らせて、風が消えるのをじっと待つ。
 と、頭の上にぬくもりを感じた。目を開くと、なぜだか男の子の手が、私に向かって伸びていた。

 頭にはあたたかくて、優しい感触。
 これは、なに……?

 目を瞬かせて男の子を見る。
 男の子は私の頭に手を置いたまま、視線を合わせてきた。

「……助けるよ。目の前で死のうとしてたら、何回だって助ける」
 目の奥や胸の辺りが燃えるように熱くなった。
「……どうして?」
 震える声で訊ねると、男の子は柔らかく微笑んだ。
「だって、手が届くから」

 男の子はどこか遠くを見つめ、しんみりとした声で言った。

「俺さ、大好きな人がいるんだ。すごく優しくて、素直で、可愛い子でさ……」

 その顔はどこか、私が来未を想うときに似ているような気がした。
 男の子は寂しげに笑い、私を見る。

「だけど、その人とはもう、一緒にはいられなくなっちゃったんだ」
「え……?」
 不意のやるせなさげなその顔に、どきりとする。
「どうして……?」
 訊ねても、男の子は私の問いには答えなかった。

「俺が君を助けた理由はね、君が俺の手が届くところにいたからだよ、――水波(みなみ)
 目を瞠る。
「……なんで私の名前……」

 きぃん、と頭の奥でなにかが響く。
 脳の中心に、瞬間的に長い光の針を差し込まれたような、鋭い痛みだ。
 突然目眩がして、私は咄嗟に頭を押さえた。

「大丈夫?」
「……うん、大丈夫」

 額を押さえたまま顔を上げ、男の子を見る。目が合うと、男の子はやはり私を見て優しく微笑んだ。

 あどけないその笑顔に、心臓が大きく弾んだ。

「……とにかく、水波が生きててよかったよ」
「……あなた、何者? なんで私の名前を知ってるの?」
 男の子はにこりと笑うと、私の手を取った。

「こっちきて!」

 ぐっと手を引かれた勢いで立ち上がり、柵のすぐそばにあったベンチに座らせられる。
 そして男の子は仮面を被り直すと、「ここでちょっと待ってて」と言って去っていく。

「え? えっ、ちょっ……!」
 取り残された私は、困惑してその背中を見つめた。

 男の子は振り返りながら、「ちゃんと待ってろよ! どこにも行くなよ!」と何度も言って、軽やかに石段を降りていった。

「……なんなの」

 ひとり取り残された私はベンチに座ったまま、ぼんやりと夕暮れの街並みを眺めた。

 赤紫色に滲んだ空には、まるで絵に描いたような入道雲。家屋もビルも学校も、街全体が燃えるような赤に染まっている。

 あまりの眩しさに目を細める。

 蝉の声がジリジリと暑さを誇張(こちょう)する。髪が頬に張り付いて煩わしい。

 ……暑い。肌が焼かれるようだ。
 カラスの鳴き声や人々の生活音がする。ついさっきまで、まるで耳に入ってこなかった雑音たちが、今さらになって迫ってくるようだった。

 急に現実に引き戻されたような心地になる。

 ……まったく、なんだったのだろう。

 まるで台風のような男の子だった。
 初対面なのに、土足で私の心に踏み込んできて。あっという間に私を死の淵から連れ戻してしまった。
 一瞬のできごとだったように思う。
 柵を越えたことも、腕を掴まれたことも、あの、男の子のぬくもりも……。

 蝉の声が聞こえてくる。

 もしかして、暑さが見せた白昼夢だったのではと思い始めた頃、例の男の子が戻ってきた。

 男の子は手に、りんご飴とかき氷を持っていた。かき氷の山のてっぺんには可愛らしいピンク色が乗っている。イチゴ味だろう。
「はい!」
 男の子は私に両方差し出してくる。

「……え? 私に?」
 私は目を瞬かせた。

 戸惑いがちに、男の子と食べ物を交互に見る私を見て、
「ほかにだれがいるの?」
 と、男の子は笑う。

「……いらない。私、今お金持ってないし」
 なにせ死ぬ気だったから食欲だってない。

「いらないよ、そんなの。ほら、食べな」
 と、ぐいっと手を突き出してくる男の子。

 目の前に差し出されたふたつを見て、迷いながらも「ありがとう」と言ってりんご飴を受け取った。
 男の子は私のとなりに座って、私が受け取らなかったほうのかき氷を、プラスチックのスプーンでしゃくしゃくと突き刺して食べ始めた。

 そんな彼の様子を見て、なんというか、やっぱり不思議な人だな、と思った。

 りんご飴の舌に絡む独特の甘さに、こんなに甘かったっけと思う。

 表面に歯を立てると、飴がパキッと割れた。砕けた飴をかじりながら、そういえば、幼い頃はりんご飴をかじった瞬間が好きだったな、なんてしょうもないことを思い出した。

 りんご飴の味自体は特に好きでもなんでもなかったのだけれど、透き通った硝子にひびが入っていくような感じがなんとなく好きだったのだ。

 ……なんて、一度死を覚悟したからだろうか。
 とりわけ好きでもなかったはずのりんご飴なのに、「おいしい」と思うだなんて。

 なにかをおいしいと思うのは、どれくらいぶりだろう。そういえば、事故後、味を感じたことがあっただろうか。たぶん、ない。そんな余裕はなかった。

 甘くてぬるくて、重い味が舌に絡まる。しばらく無心で舐め続けた。

「……ねぇ、なんで死のうとしてたのか、聞いてもいい?」
 りんご飴を食べ終わって、ぼんやり街の景色を眺めていると、不意に静かな声で、男の子が訊ねてきた。

 言いたくないわけじゃないけれど、すんなり答えるのもどうかと思い、私は咄嗟に「名前、教えてくれたらね」と返す。

 すると、
「俺は綺瀬(あやせ)
 男の子が名乗った。

「アヤセ? それって苗字? 名前?」
「名前。苗字は紫咲(しざき)。紫咲綺瀬だよ」
「ふぅん……」
 珍しい、きれいな名前だと思った。

 男の子改め、綺瀬くんが、私を「君は?」という視線で見つめる。

「……私は榛名(はるな)水波。ねぇ、紫咲くんはなんで私の名前知ってたの?」
「えー、そこは綺瀬って呼んでよ。だから苗字言わなかったのに」

 ……ため息を漏らす。
 と同時に、この人案外めんどくさい性格だな、と思った。

「……ハイハイ、じゃあ綺瀬くん。綺瀬くんは、なんで私の名前を知ってたんですか」
「図書館で何度か見かけたことがあったんだ。君のこと。それで、君と同じ南高(みなみこう)の人がキミの噂話をしてて、名前を知ったの。南高の水波ちゃんって覚えやすくない?」
「え……綺瀬くんってもしかして」

 思わずげんなりして綺瀬くんを見る。

「いや、冗談だよ!? 冗談だからね!?」
「ここ、地元の人でもなかなか知らない穴場だよね。私も初めて来たし。そんな場所で偶然会うとかふつうじゃ……」
「いや、待って待って! 俺、べつに君のストーカーとかそういうわけじゃないから! 断じて!」

 冗談のつもりでまだ怪しむ視線を送ると、綺瀬くんはさらに慌てた様子で否定した。

「だから違うって! たまたま名前が耳に入ったから覚えてただけで……。それでなくたって君、いつもひとりで図書室にいるんだもん。目立つ容姿してるし、だれだって気になるでしょ!」

 綺瀬くんはわざとらしく『ひとり』の部分を強調した。
「…………」
 ムッとする。

「悪かったですね、変わり者で。いつもひとりで」
「……あ、もしかして怒った? ごめんごめん。ほら、このかき氷あげるから機嫌直してよ。ね?」
「もう溶けてるじゃん!」
「ジュースだと思って!」

 ため息をつく。
「……いらない。それから、べつに怒ってないし」
「怒ってるじゃん。ほら、もう。可愛い顔が台無しだよ? スマイルスマイル!」
 さらりとドン引くようなことを言う綺瀬くんに、げんなりする。

「水波は笑ってたほうが可愛いよ」
 綺瀬くんは膝に頬杖をつき、私を見上げている。
 目が合う。逸らしたら負けな気がするけれど、無理。逸らした。

 ……ふつう、初対面の異性にこういうこと言う?
 もしやこの人、タラシなのだろうか。……うん、きっとそうに違いない。となると、私としてはあんまり関わりたくないタイプかもしれない。

 黙り込んでいると、綺瀬くんは私が照れていると思ったのか、
「え、これも冗談だよ?」
 と、ケロリとした声で言った。
「はぁ!? 冗談!?」
「うん ……あれ? なんか水波、顔赤い?」
 自分でも顔が熱くなるのが分かった。
 伸びてきた綺瀬くんの手を振り払う。
「最低! 信じらんない! ふつうこういうこと冗談で言わないから!!」
「ごめんよ、そんな本気にすると思わなくて」
「ほ、本気になんてしてないってば!」
「ははっ! そっかそっか」
「もう帰る!」
 勢いよく立ち上がると、綺瀬くんが慌てて私の手をとった。

「ごめん、謝るから行かないでよ」
「…………じゃあ、離して」
 パッと綺瀬くんの手が離れる。
 服の皺を伸ばしてから座り直すと、綺瀬くんはホッとしたように表情をゆるめた。

 再び沈黙が落ちた。
 葉と葉が擦れる音が耳を支配する。

「……どうしてこんなことしたの?」

 もう一度、綺瀬くんが訊いた。
 心臓が、どくんと跳ねる。

「どうしてって……」
 それは。
 言葉に詰まり、ぎゅっと拳を握る。
「……言ったでしょ。私は人殺しだって」
「うん。だからそれ、どういうこと? 当たり前だけどさ、直接殺したとかそういうんじゃないんだろ?」
「…………」

 目を逸らし、不機嫌さを隠さずに告げる。

「……綺瀬くんは、なんでそんなこと知りたいの? べつに私のことなんて関係ない。どうだっていいじゃない」
「まぁ、たしかにさっきまではそうだったかもしれないけど。でも、今は君の恩人なんだから、聞く権利があると思わない?」
 にこやかに言われてしまった。

「……ちっ」
 ……めんどくさい人だ、やっぱり。
「……君って、舌打ちするのクセなの? それやめたほうがいいよ。キレイな顔で舌打ちって結構効くから」

 いや、ふだんはしないし。綺瀬くん限定だし。

「……まぁいいや。とにかくね、俺が君にかまうのは、君のことが気になるからだよ。とはいってももちろん興味本位じゃない。ただ理由が分かれば、君をちゃんと助けられるかもしれないから。だから聞きたい」

「助ける……? どうして?」

 私には、助けられる資格なんてない。
 私には、助けを求める権利なんてない。

 それだけじゃない。
 だって私たちは、ついさっき会ったばかりなのだ。
 それなのに、綺瀬くんがここまでしてくれる理由はいったい……。

「……理由なんてないよ。あるとすれば、君ともっと仲良くなりたいから、今ここに繋ぎ止めておきたい。それだけだよ」

 綺瀬くんの言葉は、乾き切った私の胸に深く染み込んでいった。

「だからお願い。話して」
 あまりにもまっすぐな眼差しが、私を射抜いた。
「私は……」

 小さく息を吸ってから、口を開いた。

「……一昨年の沖縄の海難(かいなん)事故、知ってる?」
「……フェリーが岩場に座礁して、沈没したやつだよね?」

 少し黙り込んでから、綺瀬くんが答えた。
 私は静かに頷き、続ける。

「私ね、あれの被害者なの。一昨年の夏休みにね、親友とふたりで沖縄に旅行に行ってた。……それで、あのフェリーに乗って、事故に遭った。結果、私だけ助かって親友は死んだ。……まぁ、簡単に言ったらそういうこと」
「…………」

 綺瀬くんは黙り込んだ。

 当たり前だ。
 こんなの、他人からみたらあまりにも重過ぎる内容だし、私だって、本当に助けてほしくて話したわけじゃない。ただ、軽く説明すればいくら綺瀬くんでもそれ以上ツッコんではこないだろうと思ったから話した。

 沖縄のフェリー海難事故は、二年前の今日、八月九日に起こった。

 二○二五年、沖縄の沖合でフェリーが岩場に座礁し転覆、沈没する事故があった。
 その日は濃霧により視界が悪かったため、一時は欠航になるかと思われた。しかし、フェリーは一時間遅れで出航してしまった。

 ……もしあの日、あのまま欠航になっていれば、と何度思っただろう。

 出航してまもなく、視界不良による操縦ミスでフェリーは岩場に座礁。船体は横倒し状態のまましばらく海上を流れた。
 その後、損傷部から海水が船内に流入し、フェリーは乗客と乗員を乗せたままゆっくりと沈没を始めた。

 結果、フェリーに乗っていた二十二人の乗員乗客のうち二十人が死亡、うちひとりが今も行方不明のまま。多くの犠牲者を出し、ニュースにも大きく取り上げられた事故だった。

 あの事故で助かったのは、フェリーに取り残されて沈没直前に助け出された私だけ。
 海上保安庁の潜水士が私を助け出した直後、フェリーはひとりの乗員を取り残したまま、渦を巻いて海の中に消えていった。

 事故発生から、約一時間半後のことだった。

「あの日、私は来未と一緒に乗ってたんだ。でも、来未だけ海に落ちちゃって……ライフジャケットを着ていなかった来未は遠くまで流されて、発見されたときにはもう……。……結局、私だけ助かっちゃった」

 目を閉じると、今でも来未の声が聞こえてくるような気がする。涼やかな、夏の風鈴のような彼女の声が。

 もちろんそれはただ気がするだけで、実際には聞こえない。目を開いても、来未はどこにもいない。この世の、どこにも。

 指先が白くなるほど、手を握り込む。

「……今日、来未のお墓に行ったの」
 綺瀬くんが、柵の向こうに落ちている仏花をちらりと見る。
「そうしたら、来未のママと会っちゃって……あなたが死ねばよかったのにって言われたんだ。あの子を返してって、泣きながら私に詰め寄ってきた」

 足が竦んだ。怖くて怖くて、たまらなかった。
 視界が滲む。俯き、一度瞬きをすると、雫が膝の上にぽっと落ちる。

「私……怖くて……だって、来未のママのあんな顔初めて見たの。事故の前まではすごく優しい人で、声を荒らげるところなんて、一度も見たことなかったのに……」

 あそこまでだれかに恨まれるのははじめてだった。

 血走った目。わなわなと震える拳。

 穏やかでいつもニコニコしていた来未のママが、あんな顔をするだなんて、あんなふうに怒鳴るだなんて信じられなかった。

「来未のママにあそこまで憎まれているだなんて、今日までぜんぜん知らなかった。でも、考えたら来未のママの態度は当然のことだよね」

 だって、なにより大切な娘を失ったのだ。
 来未のママにとって、私は娘を奪った人間。娘を殺した人間。私は、殺したいほど憎まれて当然の人間なのだ。

「……だから、死のうとしたの?」
 目を伏せ、頷く。また雫がぽろっと落ちた。

 こんなに苦しいのなら、助からなきゃよかった。あのとき、来未と一緒に死んでしまえばよかったんだ。
 そうしたら、こんな苦しまずに済んだのに。

「……もう、終わりにしたかった。死んだら、楽になれると思ったの」

 逃げたかった。でも、生きている限りこの現実は変わらない。
 ……ならば。
 どこに行ったって、逃げ場所がないのなら、もう死ぬしかないではないか。

「……まったくバカだなぁ」
 空に向かって、あの子の真似をして大きな声で言う。
「え……?」
 綺瀬くんが、戸惑いがちに私を見た。
「……来未の口癖だったの。私が落ち込むと、いつもとなりでバカだなぁって言って笑ってた。笑って、気にするなって言ってくれたんだ。そうしたら私も笑って、うん、そうだねって笑い飛ばすことができたの」

 でも……ここにはもう、そう言ってくれる親友はいない。来未は私のせいで、死んだ。

「私、なんで生きてるんだろ……」

 再び目の奥がじんわりと熱くなる。

 生きることがこんなに辛いだなんて思いもしなかった。
 あの事故がなければ、こんな感情は知らずに生きられたのに。
 幸せに笑っていられたのに。
 ……あの事故をなかったことにできたら、どれだけよかっただろう。
 そんなことはできない。分かっている。だから、私は。

「……死にたい」

 荒波のように迫り来る孤独に耐えるようにぎゅっと目を瞑る。すべてを遮断しようとしたとき、頭上から、ふと光の雨のような声が降ってきた。

「それは違うよ」

 顔を上げると、綺瀬くんが私の手をそっと握った。
「君は死にたいんじゃなくて、この苦しみから逃れたいだけだよ」

 この……苦しみから。

「……でも、生きてる限りそんなの無理だよ……っ!」
「そうかな? そんなこと、ないんじゃないかな」
「どういうこと……?」

 首を傾げると、綺瀬くんは私をまっすぐに見つめて言った。
「だって君は、助けられたから生きてるんだよ」
「助けられたから……生きてる……?」

 優しい顔で私を見る綺瀬くんがいる。吸い込まれそうなほど、澄んだ瞳をしていた。まるで、水の惑星そのものを閉じ込めてしまったかのような。

「……せっかく助けられた命なんだから、無駄にしちゃダメじゃん」

 ドラマやなんかでよく聞くような、ありきたりなセリフだと思う。けれど、その言葉はなによりもあたたかく、私の胸にじわじわと沁みていく。

「でも、やっぱり話を聞いてよかったよ」
「……え?」

「君はただ、苦しみから逃げたかっただけ。君にとって、苦しみから逃れるための選択肢のひとつに、死ぬことがあって、君は間違ってそれを選んでしまっただけなんだ」
「選択肢……?」
「そうだよ。でも、死なずに君の苦しみが消える方法だってきっとあるはず。それを一緒に探そう」

 爽やかな微笑みをたたえて、綺瀬くんが告げる。
 その笑顔に、思わず言葉を失って見惚れる。
 返す言葉も忘れて呆然としていると、綺瀬くんはかき氷のカップを傾け、溶けたそれを喉に流し込んだ。

「ひゃ〜っこいっ!! 頭がぁっ!」
 かき氷を食べたとき特有の頭痛に叫ぶ綺瀬くんを、呆れて見つめる。
「一気に飲むからだよ」
「んーっ、でもうまい!」

 痛みが落ち着いたのか、綺瀬くんはからりと笑った。

「……まったく、子供みたい」
「ははっ。ねぇ、俺の舌どうなってる? 赤くなったでしょ?」
 と、綺瀬くんは私に顔を近付け、舌を出した。
「ちょ、なに。いきなり近っ……」
 咄嗟に身を後方へ避けると、バランスを崩した。
「わっ……!」

 バランスを崩し、ベンチから落ちそうになる私を、綺瀬くんが掴み、抱き寄せる。

「……大丈夫?」
 すぐ耳元で声がして、うわ、と思う。
 私は、綺瀬くんに抱き締められていた。
「……だ、大丈夫。ありがと」
 身体を離しながら、熱くなった頬を押さえた。
 そんな私を見て、綺瀬くんはにっこりと微笑んでいる。

 ……不思議な人だ。
 初対面なのに、私が死ぬのを力づくで止めて。
 無理やり私の心に土足で踏み込んできて。励ましてくれて、食べ物まで与えてきて。
 ……でも、嫌じゃない。というか、初対面なのにこんなにも安心感があるのはなんでだろう……。

 涼し気な藍色の浴衣と、赤いきつねのお面。いまどきの高校生らしくない、落ち着いた言動。話せば話すほど、不思議な人だと思う。
 綺瀬くんは、しばらく日が暮れて落ち着いた色の街並みを眺めていた。

「……さっき、君に触れて、君が生きていることが実感できて、よかった」
 綺瀬くんはそう、しみじみとした口調で言った。見ると、綺瀬くんは静かに涙を流していた。

「綺瀬くん……?」
 驚き、私は息を詰める。

 どうしてあなたが泣くの。どうしてそんなに、私のことを心配してくれるの。あなたは、なんなの。

 綺瀬くんの涙は、私の心まで揺り動かした。

「……あのね、水波。心が死んでいくのは、目では見えないんだよ」
「え……?」
「だから、手遅れになる前にだれかに助けを求めなきゃダメなんだ」

 助けを、求める。
 まっすぐな視線から、目を逸らす。

「自殺というのは、心が死んだ人がする行為だから」

 低い声にどきりとしてもう一度綺瀬くんを見ると、彼は少し責めるような眼差しで私を見ていた。

 私は綺瀬くんから視線を外し、手元を見る。

「……自殺はいけないって言う綺瀬くんの気持ちは分かるよ。でも、私には、そんなことを考えてる余裕なんてなかった。とにかくこの状況から逃げたかったの。私だけまだ生きているのが辛かったから」

 綺瀬くんが、寂しげな眼差しを私に向ける。

「でも、もし俺が来未ちゃんだったら、水波だけでも助かってよかったって思ってると……」
「やめてよ」
 静かに綺瀬くんの言葉を遮る。
「そういうの、いらないから」

 綺瀬くんが息を詰めるのが分かった。見ず知らずの私にこんなによくして、話まで聞いてくれている人に、私はなんてひどい言葉を投げているのだろう。

 頭では分かっているのに、でも、止められない。

「なにを根拠にそんなこと言えるの? 死んだ人の気持ちなんてだれにも分からないじゃない! 勝手なことを言わないで」

 心臓がどくどくと騒ぎ出す。一瞬にして全身から酸素が消失したように息苦しくなった。

「ごめん、水波……」

 違う。謝ってほしいわけじゃない。

「私は……」

 身体を折り曲げ、両手で自分を抱き締める。
 私は、だれかにそんなことを言ってもらえるような人間じゃない。

「私は……私は」
 苦しい。息ができない。まるで、水の中にいるみたいだ。
 過呼吸のようになって、背中を丸めた。

「はぁっ……」
「水波、ごめん。大丈夫だから落ち着いて」
 綺瀬くんが優しく私の背中をさすってくれる。

「大丈夫だから、ゆっくり息を吸って」

 苦しい。息が、できない。
 あのときの来未も、こんな感じだったのだろうか。こんなふうに、苦しんだのだろうか……。

 どれくらいそうしていただろう。過呼吸が治まる頃には、空はすっかり藍色になっていた。
 こめかみを汗がつたい落ちた。

「……毎日、あの日のことを夢に見るんだ」
「……うん」

 綺瀬くんは控えめに相槌を打ってくれる。

「来未が流されていく夢。来未が必死に助けを求めてくるのに、私は一度だってその手を取れないんだ」


 あの日からずっと、水の音が……来未の声が頭から離れない。

 夢の中で、来未は遠くへ流されていく。
 流されながら来未は、助けてと私に必死に手を伸ばすのだ。私も一生懸命来未へ手を伸ばすけれど、届かない。
 来未はどこまでも、どこまでも流されていく。

「私はあのとき……必死に助けを求める来未の手を離した……」
 あの光景は、いまだに鮮明に焼き付いたまま、私を責めたてる。
「あのとき私は、たしかに来未の手を一度掴んだ。それなのに私は、来未の手を、すがりついてくる彼女の手を離しちゃった……」

 その事実は、私と来未しか知らない。
 海上保安庁の人も、来未のママも、家族すら知らない。言えない。

 怖くて、とても口になんてできなかった。
 これは、今この世界で私しか知らない真実だ。

「来未はきっと、私が手を離したことを恨んでる。私がちゃんと握っていれば、来未を引きあげていれば、来未は、私と一緒に助かったかもしれないんだから」

 夢の中で、来未はいつも苦しそうに顔を歪ませて、海の底に沈みながら溺れ死んでいく。
 来未が波に呑み込まれたあとのそんな光景を見た記憶なんてないのに。私の脳は勝手にその映像を作り出しては、リピート再生する。

「……夢の中でいくら手を伸ばしても、来未は遠くへ行ってしまう。私を責めたてるみたいに、手だけを海面に出して」

 分かってる。手を離した私が悪いんだ。来未はきっと私を恨んでる。だから、今も夢に出てくるんだ。

 最近は来未のことまで忘れたいと思うようになってしまった。

 だって、眠れないから。
 苦しくてたまらないから。

「命で償うしか、もう私には選択肢なんて残されてないんだよ」

 呟くように言うと、
「……ダメだよ」
 綺瀬くんが私の手を両手で包む。
「死んじゃダメ。だって、君が自殺したら、君は彼女をもう一度殺すことになる」
「……もう、一度?」
「そうだよ。だって、死んじゃった人は、生き残った人の思い出の中でしか生きられないんだから」

 とても寂しそうな声をしていた。

「ねぇ、よく思い出してみて。君の親友は、君に恨み言を囁くような人だった? 君を責めるような人だった?」
「それは……」

 ふと思い出す。
 そういえば、この人も大切な人を失っているのだと。
 遠くを見つめるその横顔は、悲しいほど美しい。もしかしたら綺瀬くんも今、遠くにいるその人のことを想っているのだろうか。

「……苦しくないの? 綺瀬くんは、その人を思い出して」
「……苦しいよ。でも、俺にはもう想うことしかできないから。なにがあっても、忘れたくないって思うんだ」
 悲しげに笑う綺瀬くんに、言葉を失う。

 でも、たとえそうだとしても。
「……私は、綺瀬くんみたいにはなれないよ」

 私には、亡くなった来未をそんなふうに想い続けることはできない。
 だって、
「私は、そんなに強くないもん」
「水波……」
「……話、聞いてくれてありがとう。……りんご飴も」

 じゃあね。
 そう言って立ち上がり、石段へ向かう。すると、一度離れたはずの手が、パッと掴まれた。

 振り返ると、今にも泣きそうな顔をした綺瀬くんと目が合う。
「な、に……?」
「強くないよ、俺だって。だからここにいるんだ」

 掴まれた手に、ハッとする。綺瀬くんの手は、かすかに震えていた。

「本当は俺も、君と同じ。ひとりが寂しかったんだ。寂しくてたまらなくて、死のうかと思ってた。そうしたら、君を見つけた。君を助けたのは……似たもの同士だったから」
「え……」
「本音を言うよ。本当は、俺が水波を助けたのは、俺のため。君に、そばにいてほしいって思ったんだ。……俺も今、寂しくて死にそうだったから」

 顔を上げて綺瀬くんを見て、私は息を呑んだ。綺瀬くんは、静かに涙を流していた。

「えっ……ちょっと……」

 私は慌ててポケットからハンカチを取り出す。
「はは。ごめん。なんか急に涙が出てきちゃった。……まったく、男が泣くなんて情けないよな」
 片手で乱暴に涙を拭いながら、綺瀬くんは力なく笑った。

「……そんなことない。泣きたいときは、だれにだってあるよ」
「……ん」

 はにかんだ綺瀬くんは、今にも消えてしまいそうで。私は、思わずその手を握り返した。

「……いいよ、いる」
「え?」

 綺瀬くんが驚いて顔を上げる。私は潤んだ声でもう一度言った。

「私が、そばにいるから」

 言いながら、唐突に思った。

 きっと、私はこんなふうにだれかに寄り添ってほしかったんだ。お互いを心から欲しがって、寄り添い合えるだれかに。

 私はきっと、ずっとこの人を待っていた。

 いつの間にか、私は綺瀬くんの手を握ったまま眠りについていた。
 綺瀬くんのとなりは、優しい香りがしてあたたかな毛布に包まれているような心地がして。
 事故の後初めて、私は来未の夢を見ることなく、ぐっすりと眠った。


 ふと目を開けると、満天の星空が見えた。
 目の前に広がる夜空は霧が晴れたようにすっきりとしていて、星が溢れんばかりに輝いている。

 星? なんで……。

「あ、起きた?」

 すぐ近くで、声がした。
 ハッとして振り向くと、浴衣姿の男の子と目が合った。綺瀬くんだ。
「わっ!」
 驚いて少し身を離すと、手が繋がれていることに気付く。慌てて離し、綺瀬くんから距離をとった。

「ごっ、ごめん! 私、寝ちゃって……」

 自分で言いながら、驚いた。

 今、何時? うそ、私どれだけ寝てた!?

 見回せば、空はもう真っ暗だ。
 こんなに眠りこけるなんて有り得ない。
 いつもは眠っても数十分で悪夢にうなされるのに……。

「気にしないでいいよ。俺ものんびりできたし。こんなに穏やかな日は久しぶりだったから」
 そう言って、綺瀬くんはくんっと両手を空へ伸ばした。
「……もしかして、ずっと手を繋いでてくれたの?」
 訊ねると、綺瀬くんはちょっと申し訳なさそうに笑って、首を横に振った。

「ううん。一回離したんだ。でも、その後ちょっとうなされてるみたいだったから、心配でもう一回握った。そうしたらすっと眠ったようだったから、それからはずっと」

 つまり、ほぼずっと綺瀬くんは私に付き合っていてくれたらしい。

「……ごめん」

 いくら寝不足だったからって、初対面の人の手を握ったまま眠るなんて有り得ない。

 落ち込んでいると、くつくつと笑う声が聞こえた。

「なんで謝るの。そこはありがとうって言ってほしかったかな。俺こそ、こんな美人と添い寝できるなんてラッキーだったんだから」

 あっけらかんとした口調に、小さく笑みが漏れた。

「……なにそれ」

 笑いながら綺瀬くんを見ると、綺瀬くんはふっと目を閉じて、空へ顔を向けた。月明かりに照らされたその横顔は、ハッとするほど涼しげで美しい。

「俺も、君のぬくもりに慰められたよ。だから、本当にお互い様だよ」
「……そっか。それなら、よかった」

 空を見上げ、目を閉じる。
 すうっと鼻から息を吸い込む。身体が軽い。頭がすっきりしている。
 こんなふうに深い眠りについたのは、事故以来初めてのことだった。

「……ずいぶん、寝不足だったんだね」

 控えめに、綺瀬くんが言った。目を開けて、綺瀬くんを見る。躊躇いつつ、小さく頷く。

「……いつも来未が夢に出てきて、ほとんど眠れなかったから」
 綺瀬くんがもう一度、私の手を握る。どこまでも澄んだ瞳が、私を映し出す。
「……じゃあ、眠くなったらここにおいで」
「え?」
「俺はいつでもここにいるから。眠くなったら、手を握っててあげる。だから、君のぬくもりを俺にも分けて」

 言われて初めて、その手がひんやりしていることに気付いた。

 こんなに暑いのに……。
 綺瀬くんの手はなぜか、なにかに怯えるように震えている。

「あなたも、寂しいの? あなたも、孤独なの?」
 綺瀬くんは静かに微笑むだけで、なにも言わない。

 不思議だ。今日出会ったばかりの同じ歳くらいの男の子なのに。
 名前以外、お互いに大切な人を亡くしたということ以外、なにも知らないのに。
 家の場所も、通っている学校も。
 なにも知らないのに。
 でも、でも……。
「……ありがとう」
 私はその手を、ぎゅっと強く握り返した。


 ***


 それから数日後の夕方。
 私はまたあの神社の先にある広場にいた。

 石段に沿うようにつけられた提灯を見ながら、神社の鳥居を目指す。
 神社を抜けて、その奥にある石段をさらに登っていくと、街を一望できる広場に出る。その一角にあるベンチに綺瀬くんがいた。
 ホッとして、そっとベンチに向かう。

「やぁ。また来てくれたんだ」

 綺瀬くんは私に気が付くと、読んでいた本を閉じて、ベンチをとんとんと叩いた。

「おいで」

 私は素直にとなりに座る。
「本……読んでたの?」

 緊張しながら話しかける。一度泣き顔を見られているせいか、ちょっと落ち着かない。

「ううん。開いてただけ」
「え、開いてただけ……?」

 綺瀬くんを見ると、綺瀬くんは恥ずかしそうに笑って、頬を掻いた。ほんのり頬が赤くなっている。

「本を読んでるふりしながら、水波を待ってた」
「え、私を?」
 綺瀬くんが苦笑する。
「……寂しくて。でも、昨日も一昨日も来なかったし、もしかしてもう来てくれないのかなぁって思って、ちょっと落ち込んでたところ」

 ぱたん、と本を閉じて、綺瀬くんは私を見た。どきりとして、思わず目を逸らしてしまう。

 なんだろう。目を合わせるのが、恥ずかしい……。

「……ごめん。何度かその、表の神社までは来たんだけど」
「だけど?」
「その、なかなか勇気が出なくて……」
 すると、綺瀬くんがふっと笑う。
「……そっか」

 会いたいけど、会いたくない。

 そう思ってしまったのだ。だって、言われたとおりに甘えてここに来て、もし綺瀬くんがいなかったら。
 私は、今度こそ生きていける気がしない。

「おかげで俺は、毎日寒くてたまらなかったんだけど」
「あ……」

 綺瀬くんは膝の上で手を組んだ。
 あの日のぬくもりを思い出す。夏の陽の下にいるとは思えないほど冷たい手。なにかに怯えるように、震える手……。

 そういえば、綺瀬くんも私と同じだったのだ。綺瀬くんも寂しくて、私のぬくもりを求めていたのだった。
 それなのに、私はまた自分のことばかり……。

「……ねぇ綺瀬くん。手、繋いでもいい?」
 おずおずと声をかける。
「え?」

 綺瀬くんは、驚いたように私を見た。私はハッとして、立ち上がる。

「あっ……い、いや、なんでもない。ごめん、今のは、忘れて」
 いたたまれなくなって逃げ出そうとしたとき、パシッと手を掴まれた。

「待って」
 引き止められ、足を止める。

「……せっかく来たのに、もう帰るのはなしでしょ」
「でも……」
「もう少し、そばにいてよ。お願い」

 縋るような声に、私はもう一度綺瀬くんのとなりに座り直した。すると、綺瀬くんがぎゅっと私の手を握り直す。少しかさついた指先が、くすぐったい。

「……うん。私も、ここにいたい」
 あぁ、そっか。
 寂しいのは私だけじゃないんだ……。

 ひんやりとした手を握り返して、目を閉じる。

「……私ね、綺瀬くんのとなりなら、ちゃんと眠れるの」

 あの恐ろしい悪夢を見ずに、ぐっすりと眠ることができる。なぜかは、分からないけれど。

「……違うよ。俺が手を繋いでいれば、でしょ。俺もそうだから、分かる。俺も、君と手を繋いでいると、ぜんぜん寒くないんだ。やっぱり俺たちは、似たもの同士なんだよ」

 そう言って、綺瀬くんはにっこりと笑った。

「……うん、そうかも」

 身を寄せ合って、手を握り合って、目を閉じる。
 静かに、波が引くように、私はゆっくりまどろみへと落ちていく。

 来未と仲良くなったのは、中学二年生のときだった。

 昔から、私は人と馴染むことが得意ではなくて、いつもひとりでいた。
 なにをやるにもどんくさくて、決して怠けているわけではないのに、先生にはいつもサボるなと怒られた。

 それに対して、もちろん言い返す度胸なんて私は持っていなくて、だから私は先生から疎まれていた。先生に疎まれると、クラスでも浮く。
 次第にクラスメイトたちは私に話しかけてくることをやめた。

 少しづつ、少しづつ、私は名前を失くしていった。

 進級して、クラス替えをした四月。
 そんな春の真ん中で、私は来未と出会った。
 進級してクラスが変わっても、私の立ち位置は変わっていなかった。

 名前のないクラスメイト。それが、私の名前だった。

 出席番号の関係でたまたま隣の席になった来未が私に声をかけてきたのは、二年生になったその日のこと。

 その瞬間、教室中の空気がピリッと張り詰めたのを覚えている。

 声が大きくて、空気を読まない変わり者。
 授業中ですら大きな声で話しかけてきて、わたしは最初は来未のことを迷惑に思っていた。

 でもあるとき、影で私の悪口を言っていたクラスメイトに、来未が言ったのだ。

『喧嘩するのはいいけどさ、悪口ってかっこ悪いよ。不満があるなら、本人に直接言えばいいじゃない。でもさ、嫌なことをなんにもされてないのにもしそういうこと言ってるなら、それはただのいじめだよ』

 べつに、気にしてなかった。

 教科書を破られるわけでも、靴を隠されるわけでもなかったし、ただ、無視されるだけ。だから、じぶんがいじめられてるだなんて思ってなかった。

 ……いや、思いたくなかったのだ。だっていじめだと理解してしまったら、学校に通うことが怖くてたまらなくなってしまうから――。

 その日、私は泣いてしまった。

 ずっとなにも感じないように頑丈にしてきた心が来未の叫んだひとことでヒビが入り、ぱりんと割れてダムが決壊したように感情が溢れた。

 私が泣いたことでちょっとした騒ぎになり、先生も駆けつけた。先生は私を見ると、あからさまにため息をついた。

 そんな先生に、来未は言った。

『今の、なに?』

『なんでため息ついたの? 先生、絶対気付いてたよね。水波が無視されてるの、気付いてて放っておいたんでしょ。それって、先生もあの子たちと一緒になって水波をいじめたってことだよね。先生って、なんなの? 正しいことを教えることが先生なんじゃないの? 先生が生徒を追い詰めてどーすんの?』

 その言葉に、さらに涙が溢れた。

 来未は泣きじゃくる私を抱き締めて、笑いながら言った。

『まったくバカだなぁ。こんなこと、我慢するようなことじゃないのに。……でも、今までひとりでよく頑張ったね。えらいえらい』

 それが、初めて聞いた来未の『バカだなぁ』だった。
 それから私たちはふたりでよく一緒にいるようになって、あっという間に仲良くなった。

 学校帰り、コンビニに寄ってアイスの買い食いをはじめてした。お昼をだれかと一緒に食べるのもはじめて。休みの日に待ち合わせをしてカフェに行って、ショッピングをしたのも来未がはじめて。

 はじめての友達。はじめての親友。来未は間違いなく、私のヒーローだった。

 来未と仲良くなってから、私の世界は変わった。

 薄汚れた灰色の世界にいた私の瞳の中に、七色のクレヨンで描いたようなきれいな虹が生まれた。
 来未との思い出や来未からもらった言葉なんかがころころとした宝石や砂のように混ざっていて、私の瞳はいつの間にか、万華鏡(まんげきょう)に変わっていたのだった。

 来未と一緒に見る世界は、道端に落ちたガラクタすら輝いて見えた。

 来未以外のクラスメイトと話すことも増えて、無視されるということはなくなった。先生からは特に謝罪などはなかったけれど、ただ私に対してあからさまに態度を変えるということをやめた。

 ぜんぶ、来未のおかげ。

『まったくバカだなぁ』

 あの口癖を最後に聞いたのは、いつだったっけ。
 ずっと聞けると思っていた。高校生になっても、大人になっても。あの声を、この先もずっとずっと聞けると思っていた。

 それなのに、あの、旅行の日。

 沖縄で予約していたフェリーで、私は来未と喧嘩してしまった。そして、仲直りする前に、あの事故が起きた。

 あれ。私、あのときなんで来未と喧嘩したんだっけ……。
 思い出そうとしたとき、ずきんと頭が割れるように響いた。
 小さく呻き声を上げ、頭を抱える。

『水波』
 来未……。

『水波』

 私を呼ぶ声が、どろんと水の中に落ちていく。来未の姿は波に呑まれて見えない。ただ、海面から苦しげに大きく広げた手だけが伸びていた。

 やだ、待って。行かないで。行かないでよ、来未……っ!

「……なみ、水波っ!」

 大きな声で名前を呼ばれて、ハッと目が覚めた。

 すぐ目の前に、お母さんの顔がある。心配そうに私の顔を覗き込んでいた。

「あ……お母さん」
「水波、ごめんね。うなされてたから起こしたんだけど……最近よくうなされてるみたいだけど、ちゃんと眠れてるの?」

 大きく息を吐きながら、額に張り付いた前髪をかきあげる。

「……うん、大丈夫」

 お母さんから目を逸らし、小さく答える。よろよろと起き上がると、背中がぐっしょりと汗で濡れていた。気持ち悪い。

「でも水波……」
「大丈夫だから。着替えるから、出てって」

 お母さんの言葉を遮るように言うと、お母さんは困ったように口を噤んで、部屋を出ていった。

 お母さんが出ていった扉を見つめて、もう一度ため息をつく。
 お母さんとお父さんの寝室は、私の部屋のとなりだ。そこまでうなされていた声が聞こえていたのだろうか。気をつけなくちゃ、と思いながら、もう一度息を吐いた。

 時計を見ると、深夜の二時。
 起きるには早すぎる時間だけれど、もう一度眠る気にはなれなかった。とはいえどうやって暇を潰そう。

 汗のせいで肌寒さを感じたとき、ふと彼の顔が浮かんだ。

 彼は今、どうしているだろう。
 会いたい。

 思ったら、もう止められない。ティーシャツとジーンズに着替えて、足音を立てないように階段を降りる。

 一階に降りるとリビングに灯りがついていた。キッチンを覗くと、お母さんがいた。目が合い、しまったと思う。

「あ、水波。今ホットミルク作ってるから……って、その格好外着じゃない」

 引き止められる前に、と、急いで玄関に向かう。

「ちょっとどこに行くの! こんな時間に……」
「……ちょっと、散歩」
「ダメよ、今何時だと思ってるの! 危ないでしょう!」

 強く腕を掴まれ、私はその手を力任せに振り払った。
「放してよ!」
「水波!」
「夜だからなに!? 私はただ、勝手に人の部屋に入ってくるような人がいるこの家にいたくないの!」

 お母さんがハッとした顔をする。

「ごめんなさい……でも、落ち着いて水波」
「落ち着いてって、なに」
「怖い夢を見たなら、明日先生にそのことを言おう。きっと良くなるお薬もらえるから。不安なら、お母さんも一緒についてくから」
「うるさい! 薬なんていらない! そういうことじゃないの!」
「水波……」

「結局、お母さんには私の気持ちなんて分からないんだよね。……お願いだから、放っておいて」
 無表情で告げると、お母さんが泣きそうな顔をした。

「……水波」

 あの日、事故で頭に傷を負った私は、病院で目を覚ました。

 なんで、私は生きているのだろう。
 私はひとりだった。
 なんで、だれもいないのだろう。

『大変だったね。今はとにかく、ゆっくり休みなさい』
 ねぇ、来未は? ほかのみんなは?
『とにかく、水波が無事でよかったわ』
 ここはどこ?
『もう大丈夫だからね』
 だれか、だれか教えてよ。

 だれも答えてくれない。だれも、本当のことを私に言わない。
 だから私は、来未の葬儀にすら行っていない。来未の最期を見ていないし、来未とちゃんとしたお別れをしていない。

「……お母さんの顔なんか、見たくない」
 そう言い捨てた瞬間、お母さんの顔がガラスにヒビが入るようにピキッと強ばったのが分かった。
 私はこれ以上お母さんの傷付いた顔を見るのが怖くて、家を飛び出した。


 ***


 ふらふらと、夜の街を歩く。

 空に輝く満天の星は、カーブミラーやビルの窓ガラスの枠の中に落ちていて、きらきらと私のゆく道を照らしてくれている。

 どこからか、夜色の蝶がひらひらと飛んできた。まるで私に寄り添うように近くを飛び続ける。

「君もひとり?」
 言葉を持たない蝶に話しかけながら、静謐(せいひつ)な空気を裂くように歩く。

 街灯がチカチカと頼りなく揺れている。
 八月の夜風はなまあたたかく、私の肌にねっとりとまとわりつく。

 しばらく歩いていると、突然暗闇が薄れたような気がした。顔を上げると、ゆらゆらと赤色の提灯が揺れている。
 あの場所だ。
 石段を登り、神社を抜けて、また石段を登る。
 登りながら、ぼんやりと考える。
 私はどうして、あそこに向かってるんだろう。

 こんな真夜中に、いるわけないのに。

 じんわりと汗をかいてきた。ティーシャツが肌に張り付き、息が切れる。それでも、心は一心に彼の名前を呼んでいた。

 会いたい。綺瀬くんに、会いたい。

 もう心が限界だった。
「綺瀬くん……!」
 頂上が見え始める頃にはもう、走っていた。石段を駆け上がり、広場に出てベンチを見る。

 いた!

 そっとそばにいくと、綺瀬くんは小さく寝息を立てて眠っていた。その寝顔に、わけもなく泣きそうになる。

 起こさないようにとなりに座って、息をする。

 ねぇ、あなたは何者なの? こんな時間になにしてるの? 家は?

 そっと手を握ると、その手はやはりひんやりとしていた。凍えそうなほど冷たい手のひらを、私は優しく両手で包む。
 ……と。

「……ん……あ、あれ?」

 綺瀬くんが目を開ける。となりに私がいることに気付くと、ぎょっとした顔をする。

「えっ!? なに!? なんで水波がいるの!?」
「……あ、ごめんね、起こして。なんかちょっと、会いたくなっちゃって……」

 沈んだ声を出した私を、綺瀬くんは静かに見つめて微笑んだ。

「……ん、そっか。俺もひとりで寂しかったから、来てくれて嬉しい」

 そう言って綺瀬くんは私の手を握り返してくれた。たったそれだけのことがすごく嬉しい。

「手、冷たいね」
「……うん、ちょっと寒いんだ」

 綺瀬くんは、会うたび寒いという。寒いというのは、彼の口癖なのかもしれない。
 だって、今は真夏だ。夜とはいえ、体感的にはものすごく暑い。
 なら、なにが寒いのだろう。心のことだろうか。分からない。分かりたい。でも、その一歩を踏み込むのが怖かった。

「……私もね、眠いんだ。でも眠れなくて」
「そっか。じゃあ一緒に寝よう」

 綺瀬くんは当たり前のように私にもたれかかって目を閉じた。私も目を閉じる。
 まだ数回しか会っていないというのに、この安心感はなんなのだろう。
 触れ合った手から伝わるぬくもりがあたたかくて、優しくて、ぎゅっと目を閉じると涙が流れる。

 ……あたたかい。

 声を殺してすすり泣く私に、綺瀬くんはなにも言わなかった。ただ静かに寝たふりをして、寄り添ってくれていた。

 次に目が覚めたとき、綺瀬くんはいなくなっていた。でも、ベンチにはまだ綺瀬くんの香りが残っていて、ついさっきまでそこにいてくれてたんだな、と心があたたかくなった。


 ***


 夏休みが明け、学校が始まった。

 私は、家から徒歩十数分のところにある県立(けんりつ)南ヶ丘高校(みなみがおかこうこう)、通称南高(なんこう)という高校に通っている。
 最近、老朽化がひどくて校舎を建て替えるという話が出ているくらい古い歴史のある学校だ。

 高校での私は、来未と出会う前の私だ。だれとも喋らず、ただ机に向かってノートとにらめっこして、街をふらふらして時間を潰してから帰る。

 学校のだれも、私に話しかけてこない。空気のように扱う。けれど、中学のときのような、変に気を遣われる空気よりは今のほうが幾分マシだった。

 私はもう、友達を作る気はない。どうせ卒業したら疎遠になるのだし、そもそも人と関わるのは面倒だ。

 ……それに、あんな思いをするのはもういやだから。

 バッグから文庫本を取り出し、開いたときだった。

「榛名さん、おはよう!」

 突然挨拶され、顔を上げると女の子が立っていた。長い黒髪の毛先は丁寧に切りそろえられていて、前髪もいわゆるパッツン前髪。
 目鼻立ちがはっきりした女の子だ。

「……おはよう」

 挨拶を返しながらも、内心戸惑う。だれだっけ。クラスメイトなのは分かるが、名前が分からない。彼女は私の前の席に座ると、くるりとこちらを向いて話しかけてきた。

「榛名さん、夏休みはどこか行った?」
「……ううん、特には」
「そっか」
「…………」
「…………」

 しばらくお互い無言だった。女の子は気まずそうに瞬きをしながら視線を泳がせている。

 まったく、用がないなら私なんかに話しかけてこなければいいのに、と思う。

「あっ、そうだ!」

 ふと、思い出したようにカバンを漁り出した。
「あのね、榛名さん。これ、あげる」
 と、女の子は、私に手のひらサイズのウサギのぬいぐるみを差し出した。

「え……?」

 戸惑いがちに女の子を見る。
 すると女の子はちょっと恥ずかしそうに頬を紅潮させながら、落ち着かない様子で私を見ている。私はぬいぐるみに視線を落とした。
 渡されたぬいぐるみは、仮面舞踏会のようなゴージャスな仮面を付けていて、
「可愛い」
 そう。可愛かった。

「微妙にキモいけど」
 呟くと、彼女はパッと表情を明るくした。

「ほんと!? これね、ご当地ぬいぐるみなんだ。お盆に実家に帰ったときにたまたま見つけたんだけど、なんとなく榛名さんに似てて、可愛いなって思って」
「……え、私に似てるの?」

 今私、キモかわいいって言ったんだけど。じっとぬいぐるみを見つめていると、女の子が慌て出す。

「あ、へ、へんな意味じゃないよ!? ただ、可愛いなって。ほら、おそろい」と、女の子は自分のカバンを見せてきた。そこには私にくれたものと同じ仮面をつけたネコバージョンのぬいぐるみキーホルダーがある。
「……ありがとう」

 ぬいぐるみを見つめ、考える。彼女はどうして、私にこれをくれたのだろう。友達でもなんでもないのに。私なんて、あなたの名前も知らないのに。

「夏休み明けちゃってちょっとダルいけど、今月は文化祭だし楽しみだよね! これからまたよろしくね!」
「うん……」

 無邪気な笑顔を向けてくる女の子に、私は目を細める。眩しく感じた。まるで太陽のようだ、と思う。
 ちらりと覗いた教科書から、志田(しだ)朝香(あさか)という名前が見えた。

 志田さんというのか。
 ほんの少し、声が来未に似ている気がする。
「……よろしく」
 志田さんがからりと笑う。
 その笑顔が来未の笑顔とダブったのか、私の心は妙に胸がざわついていた。
 その日の放課後、私は綺瀬くんに会いに行った。
 帰り道に駅前に新しくできたドーナツ屋さんで買ってきたドーナツを食べながら、私は学校でのできごとを綺瀬くんに話した。

 今朝、突然とあるクラスメイトに話しかけられたこと。それからその子にぬいぐるみをもらったこと。あまりに突然のことで、彼女の意図が分からない、といった相談だった。

 ドーナツをもぐもぐしながら話を聞いていた綺瀬くんは、ごくんと喉を鳴らしてドーナツを飲み込むと、小さく笑った。

「それはもちろん、水波と仲良くしたいからじゃない?」
「でも私、同じクラスっていっても志田さんとぜんぜん話したことないし、友達になりたいなんて思ってもらえるようななにかをした記憶もないよ」
「そんなこと関係ないよ。その子はただ、この子可愛いな、友達になりたいなって思っただけじゃない?」
「か、可愛い?」
「え、うん。可愛いよ、水波は」

 ぼぼっと顔が熱くなるのを感じた。綺瀬くんはときどき、唐突にそういう言葉を吐くので反応に困る。

「そ、そんなことないから……」

 ない。まず有り得ない。学校での私はぜんぜん愛想なんてよくないし、話しかけるなオーラ全開だし。

 ……でも。

「友達……か」
 ちらりと綺瀬くんを見る。

 もし、友達を作るのなら、まずは綺瀬くんとそういう関係になりたいと思う。というか、今の私たちの関係ってなんなのだろう。

 友達じゃないし、恋人でもない。ということは、お互いの傷を癒すためのただの手繋ぎ要員、といったところだろうか。

 私たちはお互い孤独で、それぞれ胸にぽっかりと空いた穴を埋めるためだけに一緒にいる。

「ん?」

 私の視線に気付いた綺瀬くんがこちらを見る。カチッと目が合って、私は思わずばっと顔ごと逸らした。

「……どうしたの?」
「……ううん。なんでもない」

 訝しげに訊ねてくる綺瀬くんに笑みを返すと、綺瀬くんはなぜだかムッとした顔をした。

「まったく。水波はいつもそうやって言葉を飲み込む。それ、あんまりよくないよ。飲み込んだ言葉は消えない。埃みたいにどんどん積もっていく」

 そしていつか、じぶんで溜め込んだ言葉に窒息するんだ、と綺瀬くんは言った。

「俺には我慢しなくていいんだよ」

 ……我慢。

 私はなにを我慢しているのだろう。それすら今はよく分からないけれど……。

 でも、疑問はある。

「……綺瀬くんは、どうして私のそばにいてくれるの?」

 見ず知らずの私に、なんの関係もない私に、どうしてここまでしてくれるの? ただ優しいだけ? ううん、そんなはずはない。きっと、なにかあるのだ。

 たとえばそう……私が、綺瀬くんの大切だった人に似ているとか。

 少し早口で訊ねると、綺瀬くんは茜色の空を見上げた。
「なんで、かぁ。うーん…… なんていうか、放っておけないから? 放っておきたくないっていうか、気になるっていうか」
「気になる?」
「簡単に言うと、よく思われたいから?」

 綺瀬くんは燃え盛る夕焼けから視線を流し、私を見た。赤い陽が、その横顔を神聖な彫刻のように浮かび上がらせている。

「それって……私のこと、好きってこと?」
「直球だな」と綺瀬くんは苦笑する。
「でもまぁ、そういうこと……かな?」

 珍しく私から視線を逸らす綺瀬くんをまじまじと見つめる。さっきより、顔が赤い気がするのは気のせいだろうか。

「……もしかして綺瀬くん、照れてる?」
「ちょっと黙んなさいって」
「わっ」

 頭を掴まれ、ぐりんと無理やり回されてしまった。少し雑な触れ方のあと、すぐに優しく頭に手が置かれて、顔が熱くなる。

「だって、そうじゃなきゃふつう手なんて握らないでしょ。ましてや一緒に眠るなんて絶対しないから」
「……でも初対面だったし、しかも私死のうとしてたんだよ?」

 そもそも綺瀬くんには好きな人がいるはずだ。ずっと忘れられなくて、心にぽっかりと穴が空いてしまうくらい愛している人が。

 いつの間にか、綺瀬くんは私を見つめていた。澄んだ瞳と目が合う。

「……面影が、重なったから」

 綺瀬くんの大切な人と、ということだろうか。

「今の俺は、どうやったって彼女に手は届かない。いや、手を伸ばしちゃいけないんだ」
「……じゃあ、私はその人の代わりってこと?」

 聞いてから後悔した。そうだよ、と言われたらどうしよう。答えを聞きたくなくて、思わず俯いた。

「違うよ。君は君だ。だれの代わりでもない」

 しんとした声で、綺瀬くんが否定した。顔を上げ、綺瀬くんを見る。

「……いつも思うんだ。思い出だけで、生きていければいいのになって」

 少しだけ、綺瀬くんの声が潤んでいるような気がした。

「いや、生きていけるって思ってた。ずっと、あの子との思い出があれば、もうなにもいらないと思ってた。でも、いつの間にか、君との思い出をほしがってるじぶんがいる。勝手だよな、心って」
「綺瀬くん……」
「どうしようもなく、君に会いたくなる夜がある。寂しくて、怖くて泣き叫びたい夜でも、君の声を聞くと心が凪ぐ。すごく、ホッとするんだ」

 ひどく切ない声に、ぎゅっと胸が締め付けられた。
 綺瀬くんが自嘲気味に笑う。

 その気持ちは、私にも分かる。

 だって、私だって今日までは友達なんていらないと思っていた。
 それなのに、ただの一度クラスメイトに話しかけられただけで、来未との学生生活を思い出してしまった。どうしようもなく懐かしくて、またあの頃のような毎日を、と焦がれてしまった。

「……私もそうだよ。私も、綺瀬くんと同じ」

 私たちはきっと、死んだ人を思い続けて、それだけで生きていけるほど強くない。弱くて脆くて、不完全な人間だから、どうしたって目先のぬくもりに手を伸ばしてしまう。

 綺瀬くんの気持ちは、痛いほどよく分かる。

「……私も、綺瀬くんを来未の代わりだなんて思ってない。でも、そばにいたい」

 きっと、そういうことだ。

 呟くように言って綺瀬くんを見ると、綺瀬くんは一瞬驚いたように私を見て、あの日私が越えた転落防止用の柵へ視線を流した。

「……あの日、あの柵の向こう側に立つ水波を見たとき、怖くて怖くてたまらなかった。どうにかして繋ぎ止めたいって思ったんだ」

 綺瀬くんは顔を上に向けて空を見上げた。
 その面差しは、大切な人を思っているときのそれだった。助けられなかったその人を思い出しているのかもしれない。


「ねぇ水波。俺はね、君に今日そのぬいぐるみをくれた子の気持ちがすごくよく分かるんだ。その子はただ、君と仲良くなりたいんだ。君をもっと知りたいんだ。そのきっかけが、このウサギのぬいぐるみだったんだと思う」

 綺瀬くんは私の膝の上にちょんと座るぬいぐるみを見て、優しく微笑んだ。

「思いっていうのは、共鳴するのかもしれないね。俺も、水波ともっと仲良くなりたい」
「綺瀬くん……」

 まっすぐな思いに、胸がじんわりとあたたまっていく。
 こんな感情は知らない。

 ……いや、知っている。

 久しくなかったけれど、来未が話しかけてきたとき、私はたしかにこのあたたかさを知った。そして今日、彼女の笑みにも同じ感情を抱いた。

「水波は?」

 綺瀬くんは優しい眼差しで、ゆっくりと瞬きをする。
「……私も、綺瀬くんともっと仲良くなりたい」

 すると、綺瀬くんは嬉しそうに表情を綻ばせた。私も思いを受け止めてもらえて嬉しいはずなのに、うまく笑えない。泣き笑いのようになってしまう。

 綺瀬くんはそんな私の頭をよしよしと撫でてくれる。おかげで私は少しづつ落ち着いていく。

「まったく、水波は泣き虫だな」

 まるで、ずっと前から知っているみたいにそばにいるのが当たり前のような気がする。

「ふだんは我慢してるもん」
「俺の前だけ?」

 涙を拭いながら頷く。すると、綺瀬くんは嬉しそうにはにかんだ。

「じゃあ、その子はどうかな?」

「え?」

「その子と向き合える気はする?」

 黙り込んで考えて、首を横に振る。

「……分からない。学校の子は、みんな私があの事故の被害者だって知ってるから、どこか気を遣って遠ざけてる気がするし、そうすると私も身構えちゃう。不幸な子でいなきゃいけないんだって思っちゃう」

 私は可哀想だから、人殺しだから、笑っちゃいけない。みんなのように楽しそうにしてはいけないのだとみんなの視線に言われている気がして、息が苦しくなる。

「本当にそうなのかな?」
「え?」
「たしかに、中には水波に話しかけづらいなって思ってる人もいるかもしれない。けど、みんながみんなそうじゃないんじゃないかな」
「そんなことない! だって、お母さんですら私を見ようとしてくれない」

 言ってから、私はハッと口を噤む。

「……ごめん」
 綺瀬くんは優しく微笑んで、私を促した。

「いいよ。我慢しないで、言ってみて」
「…………っ」

 綺瀬くんの優し過ぎる声が、トリガーだった。
 心の器にこびりついたようにたまっていたものが、ぽろぽろととめどなく零れ出す。

「……事故のあとから、家族すら私に遠慮するようになった」
「うん」
「お母さん、今までみたいな小言を一切言わなくなったんだ。まるで親戚の子を相手するみたいに遠慮するようになった」

 泣くとすぐに病院に行こうと言われるようになった。うなされていると、病人扱いされるようになった。

「事故の後、私はきっともうあの人の子供じゃなくなったんだよ。娘と同じ顔をしただけの事故の被害者っていう赤の他人になったんだ」

 だから、どこかよそよそしい。

 私は、お母さんが私の見えないところで、大きなため息をついていることを知っている。泣いていることを知っている。
 きっと私は、死んでいたほうがお母さんもお父さんも楽だった。
 仏壇の前で嘆くだけなら、きっと今より心の負担はなかっただろう。

 言い終わって黙り込んだ私を、綺瀬くんが優しく抱き締めた。

「……バカだなぁ。そんなこと思うわけないって、分かってるくせに」
「でも……っ」

 綺瀬くんは優しく私の背中を撫でながら、
「前に言ったでしょ。俺たちはエスパーじゃないから、心の中までは見えないんだよ。たとえ家族でも」

 綺瀬くんは少し身体を離し、私と視線を合わせて「大丈夫」と優しく微笑んだ。

「ふたりはきっと、どうしたら水波が笑ってくれるかを考えてるんだ。ただただずっと、可愛い水波のことを考えてるんだよ」
「……そんなことない。お母さんもお父さんも、きっともう私を面倒としか思ってない」

 あれから私は、ずっと嫌な子供のまま。この前だって、酷い言葉を言ってしまった。

「そんなの、思春期の子供を持つ親ならちゃんと分かってるよ」

 綺瀬くんは私をまっすぐに見つめて微笑んだ。

「あのね、水波。親だって、人間なんだ。分からないことだってあるよ。娘のことをいくら思ってても、空回りして間違えることだってあるんだ」

 俺の親もそうだった、と綺瀬くんは言う。

「綺瀬くんの?」
「俺のお母さんもふだんは優しい人なんだけどね……」
 そう言って、綺瀬くんは目を伏せた。目を開け、私を見る。
「親は、子供のためならなんだってするんだ。……時には、間違ったことだって」

 綺瀬くんがするりと私の手をとった。そのぬくもりにハッとする。

「俺たちは大切な人を失って、恐ろしい孤独を味わってる。命の儚さを人よりずっとよく分かっているだろ?」

 綺瀬くんに優しく問われ、頷く。すると、綺瀬くんがにこりと微笑む。

「たらればを考えたってなんにもならない。そんな暇があるなら、今生きてる人たちと向き合うんだ。言葉は、生きているうちしか伝えられないんだから」

 あの日、もしあのフェリーに乗っていなければ。
 あの日、もし旅行になんて行っていなければ。
 ……喧嘩なんてしていなかったら。

 あの日からずっと、もしものことばかり想像した。祈った。

 でも、どれだけ悔やんでも、過去が変わることはない。死んだ人は戻ってこない。今さら来未の気持ちを聞くことはできないのだ。

 ……だけど、今は変えられる。

「俺たちは、未来に後悔を持ち込まないようにできるだけじぶんで努力するしかないんだ」

 涙ぐみながら、綺瀬くんを見上げる。唇から、声とも言えない吐息が漏れる。

「大丈夫。水波はひとりぼっちなんかじゃないよ」

 綺瀬くんが優しい言葉をくれるたび、私の心は灯火が灯るようにあたたかくなっていく。

「……お母さんと、話してみる。それから、志田さんとも」
 すると、綺瀬くんはなにやら考え込む仕草をした。
「……あ、でもね、ひとつだけ忠告」
「ん?」
「友達については、最大限努力してダメだったなら、仲良くしなくていいと思う」
「えっ?」

 なんだそれ、と綺瀬くんを見る。せっかく頑張る気になったのに。

「世の中にはたくさん人がいる。その中で、合わない人がいるのは当然だよ。一回親しくなったからって、ずっと友達でいなきゃいけないわけじゃない。無理に自分を殺して合わせる必要なんてないんだ。合わない人たちとは、無理に付き合わなくていい。いつかきっと、相手の全部を好きになれなくても、どこか一部でも好きになれるところがあって、喧嘩してもまた会いたいって思える運命の子に出会えるから。だからさ、それまで、どうか諦めないで。……大丈夫。俺はいつだって、水波の味方だよ」

「……うん」

 どうして、この人はこんなにも私が欲しい言葉をくれるのだろう。
 まるで、会ったばかりのはずなのに、ずっと前から知っているみたいだ。

 綺瀬くんの言う運命の子というのが、今目の前にいる彼自身だったらいいのに、と思う。
 だって、綺瀬くんがとなりにいてくれるだけで、私はこんなにも心が安らぐ。飾らないじぶんでいられる。
 私は綺瀬くんのとなりで、安心して目を閉じた。


 その日、家に着いたのは、夜の九時過ぎだった。

 そっと玄関の扉を開けると、物音に気付いたお母さんがリビングから駆けてくる。

「水波!」
「……ただいま」

 お母さんは私を見ると、一瞬泣きそうに顔を歪ませて口を開いた。けれどすぐ口を閉じ、なにかを飲み込むように黙り込む。
 そして、小さく「おかえり」と言った。

 その顔を見て、やっぱりお母さんは私に気を遣っているのだと実感する。

「……今、ご飯用意するからね」

 ぱたぱたとスリッパを鳴らしてキッチンのほうへ入っていくお母さんの背中を見つめ、唇を引き結ぶ。

 意を決して「お母さん」と口を開いた。

「なに?」とお母さんが振り返る。お母さんはすっかり穏やかな笑みを張り付けていた。それは、事故のあと見るようになった作った笑顔だった。

「……あの……」

 首が締められたように言葉が喉で絞られて、声が出なくなる。
 黙り込んで俯くと、お母さんが心配そうにそばへ寄ってくる。

「水波? どうしたの? 頭痛い?」
 首を振る。

「そうじゃなくて……」

 言葉に詰まり、俯いた。その瞬間、綺瀬くんの言葉が脳裏を掠める。

『俺たちはエスパーじゃないから、心の中までは見えないんだよ。たとえ家族でも』

 そうだ。心は見えない。だから、ちゃんと言葉にして伝えなくちゃ。

 顔を上げて、お母さんを見る。

「あの……あのね、お母さん。私、苦しいの。ずっとずっと、苦しい。事故のあと、お母さんもお父さんも私を本気で怒らなくなって、すごく、私に気を遣っているのが分かって……家にいるのに、ずっと他所の……だれかの家にいるみたいで、苦しいの」

「水波……」

 お母さんがハッとしたように私を見る。私は震える声で続ける。

「でも、泣くとお母さんとお父さんが心配するから、病院に連れていかなくちゃって言われるから、ずっと我慢してた。私は病院に連れて行ってほしいわけじゃないから……。……夜も、本当はぜんぜん眠れない。毎日あの事故の悪夢を見て、うなされて目が覚めるの」

 本当は、夜、ベッドに入って目を瞑るのがすごく怖い。
 目が覚めたら、だれもいなくなっちゃったんじゃないかって思うと、怖くてたまらない。
 ようやく寝付けたと思っても、すぐに悪夢でうなされて目が覚める。

 それの繰り返し。

「でも、そんなこと言ったらお母さんは余計に心配しちゃうから、ずっと言えなかった……本当は、ぜんぶ聞いてほしかった。大丈夫って言ってほしかった。なにも変わらなくてもいいから、ただ言いたかった……!」

 顔をぐしゃぐしゃにして泣きながら、私はずっと喉の奥に詰まらせていた言葉を吐き出す。

「だけど、私のせいで悲しむふたりを見るのが辛くて……ずっと言えなかった。思ってないことばかり、言ってた。今まで、いやなことたくさん言ってごめんなさい。ずっと心配かけてごめんなさい。今までずっと謝れなくてごめんなさい。……あの日からずっと、じぶんでじぶんの心もよく分からなくなってて、それで……ずっと考えてた。こんなことなら私、生き残らないほうがよかったのかなって……」

 お母さんが私を抱き締めた。

「そんなわけないでしょう!」
 そう叫んだお母さんの声は潤んでいた。

「バカなこと言わないで! 生き残らないほうがよかったなんて……そんな悲しいこと言わないで。……ごめんなさい……私こそ、あなたを苦しめてるなんてぜんぜん思ってなくて……傷ついた水波を見てどうしたらいいのか、どうしたら元気になってくれるのか分からなくて……ごめんね。水波。お母さん、水波のこと追い詰めてたんだね。気付いてあげられなくて、ごめんね……」

 震えるお母さんの声と指先に、涙が溢れて止まらない。私はお母さんにぎゅっと抱きついた。

 綺瀬くんの言う通りだ。ただ心で思っているだけじゃ、なにも伝わらない。

「話してくれてありがとうね……」
「……うん」

 お母さんに抱き締められて、お母さんの心の内を聞いて、少しだけ心が軽くなった気がした。
 お母さんも、迷っていたんだ。恐ろしい事故に遭って、親友を亡くした娘にかける言葉を探して探して、でも分からなくて、悩んでいた。

「……お母さん、ありがとう。話、聞いてくれて」
 お母さんはぶんぶんと首を振って、私の両頬に手を添える。

「水波にはお母さんもお父さんもいるから大丈夫。絶対ひとりになんてしないから。だからね、水波……お願いだからもう、ひとりで抱え込もうとしないで。一緒に乗り越えていこう」

 力強く言うお母さんを、私は口をぎざぎざにして見上げ、こくこくと頷く。

「うん……っ!」
 お互いに気を遣い過ぎていたんだ。

 玄関で泣きじゃくる私を、お母さんはなにも言わずに抱き締めてくれていた。

 その日の夜は、久しぶりにお母さんとお父さんと三人で並んで眠った。

 それでもやっぱり悪夢は見てしまって、ほとんど眠れなかったけれど、私がうなされているとお母さんがすぐに起こしてくれて、そっと手を握ってくれた。

 私は浅い眠りを繰り返しながらも、以前より少しだけ、眠るのが怖くはなくなった。

 三人で並んで眠った翌日の朝、私は朝食を食べながら、キッチンに立つお母さんへ訊ねた。
「お母さん。聞きたいことがあるの」
「なに?」

 お母さんは忙しなくお弁当用の唐揚げを揚げながら、ちらりと私を見る。

「私って、どこかおかしいのかな?」
「……え?」

 お母さんは火を止めて、戸惑いがちに私を見る。それまで新聞を読んでいたお父さんも顔を上げ、私を見た。

「どうしたんだ、急に」
「……そのよく分からないけど、事故からしばらく経つのに、未だに病院に連れていかれるし……検査とかもあるし……私、もしかしたら後遺症とかがあって、どこか悪いのかなって」

 身体はなんともない。自覚症状なんてものもない。でも、自分では分からないこともある。自覚してないだけで、身体の中でなにかが起こっていてもおかしくはない。

「私、病気なの?」

 恐る恐る訊ねると、お母さんとお父さんは戸惑いがちに顔を見合わせた。意味深な目配せが、さらに私の心を乱した。

 どくどくと心臓の音が大きくなったように感じた。

「……隠すのは、水波のためじゃないんだよな」
「そうね……辛いかもしれないけど、水波のためにも黙っておくべきじゃないのよね」

 やっぱり、と思う。やっぱり私はなにかあるんだ。
 お母さんはエプロンで手を拭って、お父さんのとなりに座った。なんとなく姿勢を正してお母さんを見る。

「水波はね、身体はなんともないの。これは本当。でもね、ちょっと記憶に障害があるのよ」
「……え?」

 記憶?

「事故のとき、浸水したフェリーの中であなたは意識を失った状態で発見されてね。幸いにもかすかに空気が残った空間に取り残されていたから水はほとんど飲まずに救助された。……ただ、目が覚めたあと当時の記憶を訊ねたら、記憶が曖昧であることが分かったの。それで、要通院と判断されたのよ。心当たりあるかしら?」

 お母さんが優しく言う。私は少し考えて、首を横に振った。

「もちろん、当時のことを思い出してほしいなんて私もお父さんも思ってないわ。でも、もしなにかの拍子で当時の記憶を思い出してしまったとき、あなたがまた苦しむんじゃないかって怖くて……だから、今でも定期的に脳の検査と心療内科に行ってもらってるのよ」
「……そっ……か」

 記憶がない。
 ないものは、いくら考えたところでなにも分からない。私はなにを忘れているのだろう。覚えていない自覚すらないのに、お母さんもお父さんも、どうして私に記憶障害があると分かるのだろう。

 私が覚えているものはなに? あの夢はなに?
 ハッとした。

「それじゃあ、来未が死んじゃったのは……?」

 かすかな願いを込めて、訊ねる。お母さんが目を伏せた。

「……それは本当よ。残念だけど」
「……だよね」

 頷く。

 知ってる。今年、命日に来未のお墓に行ったし、墓石には来未の名前がちゃんと書かれていた。それに、来未のお母さんに投げつけられた言葉もちゃんと覚えている。

「……じゃあ私は、なにを忘れているの?」

 思い切って訊ねると、お母さんもお父さんも優しく微笑んだ。

「病院の先生はね、無理に思い出すのはダメって言ってたわ。心に負担がかかっちゃうから」
「そうだ、水波。それにな、こういうことは思い出そうとして思い出せるものじゃない。水波はいつもどおりにしていればいいんだよ」

 そんなこと言われても、気になるものは気になる。必死に思い出そうとしたら、ずきんと脳が痺れた。額を押さえる。

「水波! お願いだから無理しないで」

 ……私は、失くしたものを取り戻す術すら持たないのか。

「水波。なにか思うことがあったら、すぐに言ってね?」
 お母さんの言葉に、私は小さく頷いた。
「……分かった。教えてくれてありがとう」
「大丈夫か? 今日は学校まで送っていこうか?」

 お父さんの言葉に、私は「大丈夫」と首を横に振る。

「……あとね、水波」
 控えめに口を開いたお母さんを振り返る。
「なに?」
「最近、帰りが遅いようだけど、あなたどこに行ってるの?」

 お母さんは心配そうな顔をして私を見つめてくる。

「えっと……友達……のところだけど」
「友達って?」
「学校の子じゃないんだけど……夏祭りのときに知り合って、それからたまに放課後に会ってる」

 綺瀬くんのことを言いたくないわけではないけれど、男の子と会っていると言ったらいらぬ誤解をされそうだ。

「……そう」

 それ以上なにも言わない私に、お母さんは言った。
「友達と会うこと自体はなにも言わないけれど、最低でも夜の八時には帰ってきなさい。あなたはまだ高校生なんだからね」
 ずっと私に気を遣っていたお母さんが少し強い口調で言った。
「……分かった」
 私は素直に頷き、「八時までには帰るようにする」と返して家を出た。

 その日、私は志田さんからもらったウサギのぬいぐるみをカバンに付けて登校した。

 教室に入ると、先に登校して席にいた志田さんと、ぱたりと目が合う。
「あっ」
 志田さんの目が、私からカバンに付いているぬいぐるみに流れた。
「榛名さん! それ、付けてくれたの!?」
 志田さんは目を輝かせて私に駆け寄ってくる。

「……うん。可愛かったから」
 ちょっとキモいけど、と心の中で付け足して。
「嬉しい!」

 きゃらきゃらと風鈴が鳴ったような声で志田さんは笑う。
 風が吹いたかと錯覚するような、涼やかさだ。彼女の声は澄んでいて、優しく空気を震わせる。

「……あの、志田さん」
「うん、なになに?」
 くっきりとした大きな瞳が私を映し出している。
「えっと……」
 目が合って、慣れない私は頭が真っ白になった。

 こんなふうに、まっすぐ見つめられるのはいつぶりだろう。事故のあと、みんな私から目を逸らすようになったのに。
 まっすぐに澄んだ瞳。でも、この瞳……。私はこの瞳を、最近どこかで……。
 ふと、脳裏に夕焼けと男の子の優しい笑顔が浮かんだ。
 そうだ。綺瀬くんだ。綺瀬くんも、まっすぐに私を見つめてきてくれた。
 今度こそ、私も……。

「……あの、……水波でいいよ、呼び方」
 志田さんは大きな瞳をさらに大きくして、瞬きをした。次の瞬間、ばっと私の手を取ると、私のほうへ身を乗り出して言う。
「水波っ!」 
「わっ、な、なに?」
「嬉しい、水波! 私のことも朝香って呼んで!」
「……あ、う、うん」
 勢いに押されながら頷いた。

 にこにことして私を見る朝香を横目に、私は自分の机にカバンを置いて、椅子に座る。すると朝香は当たり前のように前の席に座って、私のほうを向き、きゃらきゃらと弾けた声で、話しかけてくる。

「私、ずっと水波と話してみたかったんだよね! 水波ってなんか不思議な雰囲気してたからさ!」
「そ、そう?」
「そうだよ! なんていうか、妖精みたいっていうか……。あ、変な意味じゃなくてね。そうだ、今日の放課後、駅前のドーナツ食べていかない? 私、あそこのドーナツまだ食べたことなくてー。それから駅ナカのアイスクリーム屋さんにも行ってみたい! 今度新しく開店するんだって!」

 その日から、私の日常には朝香がいる。

 しばらく彼女と一緒に過ごして、思った。朝香はおしゃべりだ。けれど、決してだれかの悪口を言うようなことはない。

 いつも明るい話――たとえば好きなアイドルの話だとか、今ハマってるアニメやコスメの話だとか、あそこのアイスが美味しいとか、何組のだれがイケメンだとか――をした。

 私はほとんど黙って朝香の話を聞いているだけだったけれど、それでも朝香は楽しそうにいろんな話題を振ってくれた。

 私は、その笑顔にとても救われた。

 ずっと、息をひそめるようにしていた学校生活。
 つまらなかった毎日が、朝香の「おはよう」というセリフひとつでまるっと変わった。

 寂しくて死にそうだったのに、彼女の声を聴いていると、まるで世界の中心に立ったような気分になる。

「ねぇ、朝香」
「なに? 水波」

 名前を呼ぶだけで、心の垢が剥がれていくようだった。
 まるで、来未と出会ったあの日のようだと思った。


 ***


 九月の半ば。

 遠く、空のずっと向こうにあったと思っていた雲は、落ちてくるんじゃないかと思うほどに低く、近くに浮かんでいる。

 窓から入ってくる風はからりとして、ついこの間まで空気の中に混じっていた水気はいつの間にやらどこかにいってしまったようだ。

「えーそれでは、今年の二年四組の文化祭は巫女カフェをやるということで決定しました」

 一限目のロングホームルーム。
 今日の議題は、今月末にやる文化祭について。文化祭実行委員が主体となって、出し物を決めている最中だ。

 クラス全員で大いに盛り上がっているが、私にはあまり関係のない話である。南高の文化祭は、基本自由参加だから、私は昨年同様今年も出るつもりはない。

「異議はありますか?」
「さんせーい」
「えー待て待て。女子はいいけどさぁ、俺たちなにやるんだよ」
「巫女だよ」
「女装すんの!?」
「ほかになにやんのよ。お決まりでしょー」
「えー俺やだよ」
「はーい、静かに。異論は手を挙げてからお願いしまーす」

 ガヤガヤと浮き足立つ教室の隅で、私は窓の向こうの空を見上げ、息をついた。

 秋の背中が見え始めている。
 夕立が傘を鳴らす日が一日、また一日と減り、夏の暑さが弱まってくると学校はすぐに節電をうたい、冷房を切る。そうなると学生たちは窓を開けて暑さに対抗するわけだが、それが私は苦手だった。

 暑いのが、ではなく、窓から吹き込む少しひんやりした秋風が苦手なのである。

 午前中の授業が終わって昼休みになり、私と朝香はいつものように教室の机を向かい合わせて、お弁当を広げた。

 私はお母さんが作ってくれたお弁当。朝香は購買のパンだ。焼きそばパンと、プリンあんまん。これが彼女の毎日のお昼ご飯。
 ちなみに前者はいいとして、プリンあんまんはなかなか攻めたパンである。
 朝香があまりに美味しそうに食べるものだから、じっと見ていたら、この前ひとくち食べる? と聞かれた。
 食べたらまぁ、想像通りの味だった。不味くはないけど……うん。もういらないかも。
 朝香いわく、革命的な味でしょ! やみつきになるでしょ! ……とのことだ。
 私はやみつきになる前に断念した。

「プリンあんまん、食べる?」

 今日も今日とて熱心にプリンあんまんを推してくる朝香をやんわり断りながら、私もじぶんのご飯を食べ始めた。

 しばらく昨日のドラマの話で盛り上がったあと、ふと朝香が思い出したように言った。
「夏もそろそろ終わりだねぇ。やっと涼しくなるよ」

 朝香の視線につられるように、私も窓のほうへ視線を向ける。
 窓の向こうには、燦々とした太陽がある。あらためて、夏が終わり秋が近付いていると実感する。

 少しひんやりとした風が、頬を撫でる。秋色が滲む風に、知らずと冷や汗が出た。


 二年前、私はあの事故のあとしばらく沖縄の病院に入院していた。
 フェリーから助け出された私は、額を数針縫う怪我をしたけれど、それ以外に目立った外傷はなかった。しかし、念の為ということで、脳波とか心臓とか、とにかくいろいろと検査を受けた。

 警察や病院の先生にも、事故のことをいろいろと聞かれた。あの頃の私はまだ、事故について思い出すのは辛くて、その人たちのことがあまり好きではなかった。
 病室を出ると事故について調べている記者や、私が事故の被害者であることを知っている人たちの視線をいつも感じて、トイレに行くことすら怖くなった。

『あの子が助かった子?』
『運のいい子ね』
『あのフェリー、今も引きあげられてないんでしょ?』
『あんな事故で助かるなんて、奇跡だわ』

 あちこちで、いろいろな声が囁かれた。

 テレビは見れなかった。というより、お母さんとお父さんが見させてくれなかったのだ。
 たぶん、事故に関してのニュースがいたるところで報道されていて、お母さんもお父さんも、私の心を心配してくれていたのだと思う。

 そのときはまだ、私は私以外の人が助からなかったということを知らなかったから。

『水波ちゃん……水波ちゃんっ』

 あるとき、知らないおばさんが私に会いに来た。
 そのおばさんは、私を見るなりぎゅっと抱きついてきた。最初は優しかったその腕は、次第に強くなって、ぎりぎりと私を締め上げ始めた。

 その人は、泣きながら私を強く強く抱き締めて、耳元で囁いた。

『どうして? どうしてあなたは生きているの? どうしてあの子はいないの? ねぇ、一緒にいたはずよね? あの子はどこ? ねぇ、答えなさいよ。ねぇ!』

 腕が千切れるかと思うほど、強い力だった。剥き出しの歯が、血走った目が、恐ろしかった。

『落ち着いてください、この子はなにも悪くない。まだ話をできるような状態じゃないんですよ』
『お気持ちは分かりますが、お引き取りください』
『待って! まだ話は終わってないのよ! 離して! 離しなさい!』

 その人は医師や看護師の言うことも聞かず、ただまっすぐに私を睨みつけて、呪詛のように『あの子を返せ』と呟いていた。
 あれは、だれだったんだろう。
 分からない。いくら考えても、思いだせない。

 けれど、ひとつだけ分かっていることがある。
 彼女は、私をすごく恨んでいた。生き残った私を、憎んでいた。

 医師たちが慌てて私から引き剥がそうとすると、女性は泣き叫びながら暴れた。まるで、子供のように。

『放して! 放しなさい! この子があの子を殺したのよ! この子が私の子を奪ったの! この鬼! 悪魔!』
『お願いやめて!』
『この子はまだ目覚めたばかりなんですよ! お願いします! これ以上この子を怖がらせないでっ!』

 お母さんとお父さんが、慌てて私を庇うように抱き締める。私は怖くて声も出せなかった。全身が震えて、息を忘れた。

 あのときの彼女は化粧もしていない顔をぐしゃぐしゃにして、泣き叫んでいた。その姿がとても痛々しくて、当時の私は、それがすごくショックだった。

 なにかが割れる音。叫び声。すすり泣く声。

 秋風は、あの日の曖昧な記憶を乗せてやってくる。
 事故のあと、たった一度だけ会ったあの人は……。

 あの人は、だれ?

 窓の外を眺めながら呆然と考えていると、
「水波? ぼーっとして、大丈夫?」
「え? あ……」
 心配そうな顔をした朝香と目が合って、ハッとする。


「ごめん、ぼーっとしてた」
「なにか悩みごと? お腹痛い? お腹減った? それならこれ食べて。美味しいよ」
「……じゃあ、焼きそばパンのほうがいい」
「おっと? 私のプリンあんまんはいらないだと?」

 そんなこと言って、朝香が最近プリンあんまんに飽きてきていることを私は知っている。
「やみつきになるから、ほら〜」
 私は朝香が持っていたプリンあんまんじゃないほう――焼きそばパンに隙をついて齧りついた。

「あぁっ!! 私の焼きそばパンがっ!」
「ふふん。やっぱりこっちのが美味しいよ」
「ぬぉー! なんだとーっ! プリンあんまんに謝れ!」
「わっ! もう危ないってば〜」
 朝香とじゃれ合っていると、どこからかギターらしき音が聴こえてきた。

「……うち、軽音部なんてあったっけ?」

 首を傾げていると、朝香が、
「あぁ、あれは文化祭ライブの練習じゃない?」
 そういえば、昇降口前の掲示板に、体育館に出演する団体を募集するチラシが貼ってあったような。

「文化祭かぁ……」

 ぎこちないギターの音色を聴きながら、私は腕をさする。

「ねぇ水波。今年は文化祭、出るでしょ?」
「えっ?」
「一緒に回らない?」
「あ……うん、考えてみる」
 つい、間の抜けた返事をしてしまう。
「水波?」
「…………」

 ふと、気が遠くなった。
 さわさわと葉の擦れる音がして、私と朝香の間を風が吹き抜けていく。

『人殺し』
『あの子を返して』
『じぶんだけ助かるなんて』
『許せない』
『許せない』
『許せない!』

 カーテンが揺れる。頭痛がひどくなり、目を瞑った。

『私の手を離したくせに』

 ドクン、と心臓が脈を打った。

「水波?」
「……ごめん。窓、閉めていいかな?」
「え? でも、暑くない? みんなも暑そうにしてるし……」

 私は朝香の言葉を無視して、窓をぴしゃりと閉めた。思いの外、大きな音が出てしまった。

「水波……? どうしたの?」
「……なにが? 私はただ、寒かったから閉めただけだよ」

 ちょっとキツい言い方になってしまった。言ってからハッとして朝香を見ると、彼女は俯いていた。その悲しそうな顔に、胸がちりりとした。

「あの……ごめん。ごめんね、朝香」
「ううん……」

 朝香に苛立ったわけじゃない。
 ただ、この季節はどうしても、気分が沈む。

 秋は嫌いだ。事故が起こった、夏よりも。
 あの日を……事故のあと、目が覚めた日のことを思い出すから。
 でも、そんなことを知らない朝香は、私が苛立った意味をきっと探している。自分がなにか気に触るようなことを言ってしまったのかもしれないと、気にしている。

「もしかして、文化祭……出たくない? それなら無理には……」
「違う。そうじゃないよ」

 本当に違う。けれど、ほかになんと言ったらいいのか、言葉が見つからない。

「じゃあ、なに?」
「それは……」
 なんと言えばいいのだろう。なんと言えば、伝わるだろう。
 ……伝わるわけない。朝香は、私とは違うんだから。

「ごめん。これは……私の問題だから」
 小さく息を吐くように言うと、朝香が私を見た。朝香は、なにか言いたげに口を開くけれど、結局なにも言わずに閉じた。

「……そっか。ごめん」

 俯いた朝香の表情は、影になっていてよく見えない。

 やっぱり、こうなるんだ。私がだれかといると、こういう空気になってしまう。

「私こそ……気を悪くしたよね。ごめん」

 俯いたまま謝ると、朝香が突然「よしよし」と私の頭を撫で始めた。

 顔を上げると、朝香は微笑みながら私の頭を撫でていた。
「朝香?」
 どうして笑っているの? 私は、あなたを傷つけたのに。
 訳がわからず瞬きをしていると、
「……水波のクセだよ。すぐ下向くの」
 優しくそう言われ、私は顔を真っ赤にした。
「……そ、そんなことは」

 ないよ、と言いながらまた下を向きかけて、慌てて顔を上げる。私と目が合うと、朝香はくすっと笑った。

「……朝香、怒ってないの?」
「なんで怒るのさ。……ねぇ、知ってた? 水波ってさ、目が合うといつも逸らすんじゃなくて俯くの。私ね、思ってたんだ。この子、顔を上げてればすごく可愛いのになって」
「い、いきなりなによ」
「だからさ、水波は悪いことなんてなにもしてないんだから、顔を上げてていいんだよってこと。今のは踏み込み過ぎた私が悪いんだ」
「そっ、そんなことない! 私が悪いんだよ。私、また朝香に気を遣わせて……ごめん」

 すると、朝香は「謝らないでよ。こっちこそ、気を遣わせてごめんって」と笑った。

「あのさ、水波こそ私といてもいつも遠慮してるでしょ。それもクセ? それとも性格? よく分かんないけどさ……話したいことがあるなら聞くよ。でも、無理には聞かない。水波が話したくなったらでいい。私に話して楽になるなら、なにかを我慢しなくてよくなるなら、いつでも聞くから言ってね」

 手をぎゅっと握り込む。
「……う」

 朝香のあたたかくて心がこもった言葉に、力を入れていないと涙がこぼれてしまいそうだった。

「あーもう、唇噛まないの。切れて血が出ちゃうよ」
 朝香は幼い子供をあやすように言う。
「……ごめん……っ」
「ん。いいよ」
 朝香に背中を撫でられ、私はまた後悔していた。

『いつかきっと、相手の全部を好きになれなくても、どこか一部でも好きになれるところがあって、喧嘩してもまた会いたいって思える運命の子に出会えるから。それまで、諦めないで』

 綺瀬くんにああ言われたばかりなのに。
 私はまた、向き合うことを避けていた。

 言われるまま唇の力を緩めてみたら、喉まで緩んでしまったみたいだった。

「話、したい」
「え?」
「……話、してもいいかな」

 私は朝香を見上げ、ぽつりと訊ねる。

「もちろん。……あ、場所変えよっか。体育館行く?」
 朝香はちらりと周りを見て言った。
「……うん。助かる」
 私たちは食べかけのお弁当を持って教室を出た。

 昼休みの体育館はがらんとしていて、私たちはふたりで舞台に足を投げ出して並んで座った。
 食べかけのお弁当を食べながら、私はなかなか言い出せなくて、口を開いては閉じて、喉からせり上がってくるものをご飯で無理やり流し込んでを繰り返した。

 朝香はそんな私を急かすようなことはせず、ひとりごとともとれる何気ない話をしながら、パンをかじっていた。

 お弁当を食べ終えると、朝香は転がっていたバスケットボールを手に取り、ボール遊びを始めた。私は舞台に座ったまま、ぼんやりとそれを眺める。

 ダンダン、とバスケットボールが弾む音だけが響く体育館。
 私はようやく、ぽつぽつと事故のことを話し出した。
「……私が二年前のフェリー事故の被害者だってことは知ってると思うんだけど」
 朝香は一瞬驚いた顔をして私を見たあと、小さく「うん」と頷いた。

「あの事故のあとから、私……夜ぜんぜん眠れなくなって。夜っていうか、まぁ昼間でも眠れないんだけど。いつも夢を見るんだ。傾いていくフェリーを滑り落ちながら、親友が助けてって手を伸ばしてくる夢。でもね、夢の中でも私は一度もその子を助けられたことがないんだ」

 一度言葉を止めると、朝香は今にも泣きそうな顔をして私を見つめていた。

「あ……ごめんね、こんな重い話。やっぱりやめようか」
 慌てて言うと、朝香は潤んだ瞳をまっすぐ私に向けて、首を横に振った。

「ううん、続けて。……さっきは話したくなったらでいいって言ったけど、やっぱり聞きたい」
「……うん」

 頷いて、再び口を開く。

「……事故のあと、みんなよそよそしくなったんだ。お母さんもお父さんも、友達も。仕方ないよね。私以外みんな死んじゃってるんだし。同じフェリーに乗ってた私にも、どう接していいか分からなかったんだと思う。でもね、その窺うような視線がいやで、話すことをやめたんだ。私が話しかけに行くと、みんな笑顔を引き攣らせるから……そういう顔を見たくなくて」

 だからもう、ひとりでいいやって諦めた。

 これは罰。私だけ生き残ってしまった罰。親友を助けられなかった罰なのだとじぶんに言い聞かせた。

「……私、この前死のうとしたんだ」
「え……?」
 朝香が息を呑む音がした。

「親友の命日の日、その子のお母さんに、あなたが死ねばよかったのにって言われて、私は生きてちゃいけないんだって気付いた。……ううん。本当は最初から気付いてた。でも、気付かないふりをしてたの。だけど、気付かないふりをするのももう限界で」

 八月九日。私は、じぶんで人生を終わらせようとした。
 だけど。その日、私は運命に出会った。
 耳の奥で、あの日聴いたお囃子の音が響く。

「……だけど、死のうとした日にね、ある男の子に出会ったんだ」
「男の子?」
「うん。その子も大切な人を失っていてね。泣きながら、私にそばにいてって言ってくれたの。私がずっと言いたくて言えなかった言葉を、その子が代わりに言ってくれたんだ」

 朝香は柔らかい顔で私を見つめてくれていた。

「それでね、あとでその子に言われたの。俺たちはエスパーじゃないから、心の中までは分からないよって。いくら仲のいい友達でも、ましてや家族だって、心の中までは分からない。だから、ちゃんと話さないとダメだよって」

 顔を上げて、朝香を見る。
 もう友達なんていらないと思っていた。

 でも、綺瀬くんと出会って、だれかと向き合うことの大切さを教えてもらって。本当はじぶんが、なによりそういう存在を求めていたことに気付いた。

「……私ね、これからも朝香にいろいろ気を遣わせちゃうと思う。迷惑もかけるだろうし……喧嘩もするかも。でも、それでも私、朝香が好き。朝香の笑い声も、朝香とのおしゃべりも大好き。……だから、これからも友達でいたい」

 見ると、朝香は静かに涙を流していた。思わずぎょっとする。

「えっ……あ、あの」
 どうしよう、とおろおろしていると、朝香がガバッと私に抱きついてきた。
「!」
「水波っ! 話してくれてありがとう……」
 朝香は私を抱き締めたまま、私に言う。
「今まで辛かったね。よく頑張ったね」と、朝香は私の背中を撫でながら何度もそう言ってくれた。
 朝香のセリフに感極まって泣き出した私を、朝香はさらにぎゅっと抱き締めた。
「私、決めたよ。一生水波と一緒にいる」
「え……?」
「私、一生水波と一緒にいる」

 朝香は私の肩を掴み、まっすぐに私を見つめて言った。

「水波はこれまで、ひとりぼっちで寂しかったんでしょ? 事故の前はその子がいたけど、事故で失って……ううん。きっと水波、自分のせいでその子が死んだって思ってるんだよね。だからそんな夢を見るんだ。親にも心配かけたくなくて言えなかったんだよね。……でも、その男の子に言ったら楽になったんでしょ? 状況が少し変わったんでしょ? なら、私もその役やるよ」

 掴まれた肩がちょっと痛い。朝香が決意が伝わるようだった。
「私はその男の子みたいにいいこととかアドバイスとかは言えないけど……一緒にいることならできる。水波がひとりぼっちにならないようにすることだけはできる。あの事故は水波のせいなんかじゃないって、何回だって言ってあげる。だから、今のは決意表明だよ」
「朝香……」
「……ふふ。私、その男の子にお礼が言いたいな」
「え?」
「だって、その子がいなかったら私、水波とこうやって話せてなかったよ。友達にもなれてかった。とにかく、水波が生きててくれてよかった」

 朝香の頬をつたう透き通った涙を見て、私は頷く。

「私も、あの日死ななくてよかった。朝香とこうして友達になれてよかった。ありがとう……」
「もうっ! 泣くなー!」
 朝香は私以上にぽとぽと涙を落としながら、昼休みが終わるまでずっと抱き締めてくれていた。