プロローグ
天界。
そこは天帝に作られた龍神たちが住まう神の国。
四人の王を頂点に、秩序が保たれた世界ではあるが、龍神だけが存在しているわけではない。
天帝によって結ばれた縁ーーいわゆる花印を持って生まれ、同じアザを持つ龍神と花の契りを交わした人間は、人間界で天寿をまっとうしたのちに天界へ迎え入れられる。
他にも、龍神の眷属となった生き物も多数、そこら中を自由に動き回っており、思いのほか賑やかだったりする。
漆黒の王はかわいい生き物が好きで、その中でも特にうさぎを愛し、龍花の町に降りるたびに眷属にして持ち帰ってくるというのは龍神の中では有名な話だ。
そのせいで漆黒の王の宮殿はうさぎの宮とまで呼ばれる始末。
そんなうさぎ好きの漆黒の王桂香は、うさぎのかわいさを布教すべく、他の王たちにも番いでうさぎを贈っているが、他の王たちの反応はいまいちなのが不満だといつも口にしている。
しかし、桂香が眷属にして人間界から連れてきたうさぎは頭もよく、かわいさも相まって、王以外の龍神たちの反応は思いのほかよかった。
紫紺の王、波琉の水宮殿にもそんなうさぎたちはたくさんおり、時にはお使いを買って出たりして龍神たちの手伝いもしている。
そんなうさぎの一羽が、波琉の側近である瑞貴の部屋へやって来た。
波琉の代わりに忙しく働く瑞貴は、いったん筆を持つ手を止める。
「残念ながら今は特に頼む用事はありませんよ」
そう告げて再び手を動かし始める瑞貴だったが、うさぎが瑞貴の足下まで来て服の裾を咥えて引っ張る。
「なんですか? 今は忙しいので後にしてください」
しかし、うさぎは服を引っ張るのをやめず、瑞貴はやれやれというように筆を置いた。
「どうしたんです?」
『倒れてる』
「え?」
『体が冷えちゃう』
龍神である瑞貴は当然ながら動物の言葉を理解できるが、うさぎの言っている内容の意味が分からなかった。
『こっち、こっち』
うさぎは瑞貴に後をついてくるよう促すように、部屋の扉まで進んでから瑞貴を振り返る。
『こっち』
「はて?」
瑞貴はよく分からないまま椅子から立ち上がると、うさぎの後に着いて歩く。
うさぎは時折止まっては、振り返って瑞貴がついてきているか確かめて進んでいく。
「いったいなにがあるんですか?」
しかし、瑞貴の問いにうさぎは『早く早く』と急かすだけ。
仕方なくついて行くしかない。
水宮殿の中でも最奥とも言っていい場所に向かっていく。
「そちらにはなにもありませんよ?」
うさぎが行こうとしているのは、波琉が大事な時にみそぎを行う、神聖な泉がある方向だった。
波琉が身を清める時ぐらいしか使われない場所ゆえ、普段は誰も近寄らない。
なぜそんな場所に連れていこうとしているのか不思議に思いつつ、ついていく。
なにせ、瑞貴が足を止めると、なぜついてこないのかと非難めいた眼差しを向けてくるのだから仕方ない。
「紫紺様はいらっしゃいませんよ?」
何度そっちにはなにもないと告げても、うさぎの足は止まらない。
そればかりか、次第にうさぎの数が増えてきた。
待っていましたとばかりに、次々うさぎが合流していく。
そのうさぎの数を見ながら、瑞貴は「少しうさぎたちが多すぎでしょうかねぇ。漆黒様にはこれ以上送ってこないようにお願いしなければ」などと、口にしている。
そんな別のことを考えながらたどり着いたのは、予想通り波琉がみそぎをする泉だった。
波琉しか使わないのだから、当然のように誰もいない、はずだった……。
しかし、瑞貴の目に鮮やかな布が目に入ってくる。
「えっ?」
驚く瑞貴。
さらには、うさぎたちがその布の塊の周りに集まっていた。
『早く』
『こっちだよ』
慌てて瑞貴が近づくと、それはただの布の塊ではなく、着物を来た少女だった。
体の半分が泉に浸かるように横たわっており、目を閉じている。
瑞貴は急いで少女を泉から引き上げた。
「大丈夫ですか!?」
瑞貴は強くない程度の力で少女の頬をペチペチと叩くが、少女が起きる気配はない。
人間の世界なら死んでいるのかと不安になるところだが、天界においての死とは消滅を意味する。
姿形を持っている時点で、少女が死んでいないことは分かっていた。
だからこそ少々手荒に起こそうと試みたわけだが、気を失ったままだ。
「どうしてこのような場所に人間の少女が……?」
龍神でないのはひと目で分かった。さすがに神である瑞貴が人と神の区別がつかないはずがない。
疑問を覚える瑞貴だが、このままにしておけないとすぐに思考を切り替える。
「とりあえず移動させた方がいいですね」
濡れたまま放っておくわけにはいかない。
しかし、その前に確かめなければならないことがある。
「花印を見ればどの龍神の相手か分かるでしょう」
そうして、少女の手の甲を見た瑞貴は固まる。
「椿の花印……」
それは十数年経っても忘れもしないアザであった。
なにせその人物に下界へ行くよう勧めたのが他ならぬ瑞貴自身なのだから。
「紫紺様と同じ花印? えっ? どういうことですか……?」
瑞貴の頭は混乱した。
波琉から唯一を見つけたと手紙があったのを覚えている。
その手紙の内容に瑞貴自身も大いに喜んだのだから忘れようがない。
しかし、その相手はまだ十数歳であり、寿命が来るのはもっと先のはずだった。
いくら短命な人間だとしても、天界に来るには早すぎる。
しかも、波琉からの連絡も来ていない。
「どうして紫紺様の花印の伴侶がここにいるのですか!?」
誰も返答してくれないと分かりつつ、疑問を口にせずにはいられなかった。
『早く早く』
うさぎが急かすように、しゃがむ瑞貴の袖を口で引っ張る。
はっと我に返った瑞貴は、今度こそ慌てて少女を抱きあげた。
「お前たち、すぐに女官を呼んできてください。大至急です!」
瑞貴は焦りを隠せずうさぎたちに命じると、白や黒、茶色のうさぎたちが我先にと走っていった。
それを見届ける前に瑞貴は少女を運んだ。
紫紺の王の伴侶と思しき者に、そこらの部屋をあてがうわけにもいかず、客室の中でももっとも上等な部屋に少女を連れていった。
すぐに水宮殿で働く女官が数名やって来る。
その女官たちも瑞貴と同じ龍神だ。
大した説明もないまま呼び出された女官たちは、当然ながら状況を理解していない。
「瑞貴様、お呼びと聞きましたがなにかありましたか? ずいぶんとうさぎたちが騒いでおりましたが」
「ええ、大問題発生です。とりあえず彼女を着替えさせてあげてください。濡れているので早く乾かしてあげなければ」
「彼女?」
そこでようやく、女官たちは部屋の寝台に少女が横たわっているのに気がつく。
「人間? 見たことがない子ですね。どなたの花印の伴侶ですか?」
「……紫紺様です」
「はっ?」
女官たちはそろって目を丸くした。
「えっ? ですが、紫紺様はまだ龍花の町からお戻りになっておりませんが?」
「そんなこと分かっていますよ。なぜかみそぎの泉に彼女が倒れていたんです。意識も戻らないようですし、下界でなにかあったのかもしれません。私は至急、紫紺様に連絡を取ってみます。その間彼女のことは任せましたよ。同じアザがあるので間違いがないと思いますから、丁重にお世話してください。紫紺様の伴侶と思われる方ですからね」
「は、はい。かしこまりました!」
紫紺の王の伴侶と聞き、女官たちの表情も引きしまる。
男性の瑞貴がいては着替えさせることもできないだろうとすぐに退出し、波琉へ向けて手紙を書いてすぐに送った。
「理由は分かりませんが、本当に紫紺様の伴侶だとしたら、きっと心配なさっておいでのはずだ」
あまりに書き殴った手紙は急いだあまりにかろうじて読めるほど字が汚かったが、瑞貴の焦りは伝わったはずだ。
そう時を置かずして、波琉が天界へと戻ってきた。
その表情は瑞貴がこれまで見てきた中でもっもと感情があらわになっていた。
たった十数年。
波琉が生きてきた年数から考えると瞬きほどの時間。
そんなわずかな間でこんな顔ができるようになったのかと、瑞貴どこか喜びを感じた。
「ミトがいるっていうのは本当!?」
まったく余裕のない様子で、波琉は瑞貴に詰め寄る。
「お、落ち着いてください!」
「落ち着いていられるわけがないでしょう! 本当にミトがいるの?」
「そのミトという方なのかは分かりませんが、紫紺様と同じアザを持っているのは確かです」
神気を感じたことからも間違いないはずだが、瑞貴は会ったことがないので絶対とは言いきれなかった。
「ご案内します」
「うん」
早くしろと言わんばかりの波琉を連れて、少女のいる客室に向かう。
女官によって着替えさせられ、寝台で眠る少女を見て、波琉は駆け寄る。
「ミト! ああ……、ミト。よかった……」
少女の手を握り、頬に触れる波琉は心から安堵していた。
またもや瑞貴の知らない、感情が揺さぶられた表情をする波琉に素直に驚く。
「よかった……」
いまだに意識を取り戻さない少女。
特に外傷があるわけでもなく、理由は不明だった。
「彼女はうさぎたちが発見し、私に知らせに来ました。私が見つけた時には、みそぎの泉に浸かった状態でした。その時から意識はなく起きる気配はありませんでした」
瑞貴の説明を聞いているのかいないのか、手を握るだけでは足りないと言わんばかりに少女の体を掻き抱く波琉は、今にも泣きそうな顔をしていた。
波琉は少女を抱きしめたまま離そうとはしない。
起きるその瞬間を見届けるまで許さないというように、少女から目をそらさない。
とても波琉から話を聞けるような雰囲気ではなかったために、いったん部屋を退出した瑞貴は仕事に戻った。
そして、時折やって来る女官に様子を問う。
「紫紺様の伴侶は目を覚まされましたか?」
「いいえ。まだのようです」
「そうですか……」
自然と出るため息。
波琉は少女につきっきりだそうだ。
なぜこれほど長く目を覚まさないのかが分からない。
天界へ来たということは下界での寿命を終えたということだが、普通は龍神が伴侶となるものの魂を持って天界へ戻ってきて、天帝より新たな体を与えられるのだ。
しかし、今回はまったくのイレギュラー。
だからなのか、最初こそ少女を見つけて安堵していた波琉も、不安そうな顔に変化していった。
「いったい下界でなにがあったのでしょうね」
さすがにそろそろ教えてもらわなければ、対処もできない。
瑞貴は立ち上がると波琉のいる客室へ向かった。
そこでは相変わらず波琉が少女を抱きしめており、今か今かと起きるのを待っている。
声をかけづらい空気に、ためらう瑞貴。
すると、ぴくりと少女の手が動いた。
「紫紺様、今手が動きました」
はっとする波琉が少女の顔を覗き込む。
すると、少女の瞼がゆっくりと開く。
意識がはっきりしないのかぼんやりとしているようだが、それを見た波琉はなんと涙を流した。
顔を俯かせ涙する波琉を瑞貴は信じられないものを見るように驚いた顔をする。
あの波琉が涙を流すほど感情を溢れさせるなど、これまであっただろうか。
唖然とする瑞貴の前で少女がかすれた声を発する。
「は、る……?」
「ミト」
顔を上げ涙する波琉の頬に少女が手を伸ばす。
「なんで、泣いてるの……?」
ゆっくりとした口調で問う少女に、波琉は苦悶の表情を浮かべた。
「ミト、君は死んだんだよ」
大きく目を見開いた少女は、まだ状況が理解できていないようだ。
この場は二人きりにした方がいいだろうと、部屋を後にした。
それからしばらくして瑞貴の下に波琉がやって来た。
瑞貴はすかさず一礼する。
「彼女は大丈夫なのですか?」
「うん。今は落ち着いてる。心配をかけたね」
「いえ。感情を露わにするあなたの貴重な顔が見られましたからね」
クスリと笑うと、波琉は苦虫を噛み潰したような顔をした。
けれど、ふたりの表情はすぐに真剣なものへと変わる。
「紫紺様、なにがあったのですか? 伴侶があのような形で天界に来るなど初めて聞きます」
「堕ち神のせいだよ。ミトの魂を狙っていたんだ。けれど、捕まえられずミトは消えてしまった。僕もミトの魂を見失って探していたところに瑞貴の手紙が届いて、慌てて戻ってきたって感じだよ」
堕ち神について、ある程度の話は波琉から連絡があったので知っていたが、詳しく知っているわけではない。
「なぜ堕ち神が紫紺様の伴侶を狙うのです?」
その問いかけに、波琉は怒りの表情を浮かべる。
少しの間でずいぶんとたくさんの表情を見られるようになったなと、瑞貴は感心した。
「僕の予想が当たってないことを祈るけど、たぶん当たってるんだろうな」
波琉は明言はしなかった。
「ミトはきっと龍花の町に帰りたいって言うだろうね。僕はそれを止めるつもりはない。でもきっと堕ち神はミトを狙ってくるはずだ。けれど今度は絶対にミトを守りきってみせる。ちゃんと決着をつけなければならない」
強い意志を見せる波琉の姿に、瑞貴は不謹慎だと思いつつも微笑ましく感じた。
「紫紺様の伴侶のお名前はミト様とおっしゃいましたか?」
「うん、そうだけど、それがどうかした?」
「いえ、紫紺様の大事な方とあらば、全力でお守りしなければなりませんね。必要とあらば、なんなりとお申し出ください」
「ありがとう、瑞貴」
喜怒哀楽を見せる波琉の姿に、ミトは絶対に失ってはいけない存在だと瑞貴頭に刻まれた。
天界。
そこは天帝に作られた龍神たちが住まう神の国。
四人の王を頂点に、秩序が保たれた世界ではあるが、龍神だけが存在しているわけではない。
天帝によって結ばれた縁ーーいわゆる花印を持って生まれ、同じアザを持つ龍神と花の契りを交わした人間は、人間界で天寿をまっとうしたのちに天界へ迎え入れられる。
他にも、龍神の眷属となった生き物も多数、そこら中を自由に動き回っており、思いのほか賑やかだったりする。
漆黒の王はかわいい生き物が好きで、その中でも特にうさぎを愛し、龍花の町に降りるたびに眷属にして持ち帰ってくるというのは龍神の中では有名な話だ。
そのせいで漆黒の王の宮殿はうさぎの宮とまで呼ばれる始末。
そんなうさぎ好きの漆黒の王桂香は、うさぎのかわいさを布教すべく、他の王たちにも番いでうさぎを贈っているが、他の王たちの反応はいまいちなのが不満だといつも口にしている。
しかし、桂香が眷属にして人間界から連れてきたうさぎは頭もよく、かわいさも相まって、王以外の龍神たちの反応は思いのほかよかった。
紫紺の王、波琉の水宮殿にもそんなうさぎたちはたくさんおり、時にはお使いを買って出たりして龍神たちの手伝いもしている。
そんなうさぎの一羽が、波琉の側近である瑞貴の部屋へやって来た。
波琉の代わりに忙しく働く瑞貴は、いったん筆を持つ手を止める。
「残念ながら今は特に頼む用事はありませんよ」
そう告げて再び手を動かし始める瑞貴だったが、うさぎが瑞貴の足下まで来て服の裾を咥えて引っ張る。
「なんですか? 今は忙しいので後にしてください」
しかし、うさぎは服を引っ張るのをやめず、瑞貴はやれやれというように筆を置いた。
「どうしたんです?」
『倒れてる』
「え?」
『体が冷えちゃう』
龍神である瑞貴は当然ながら動物の言葉を理解できるが、うさぎの言っている内容の意味が分からなかった。
『こっち、こっち』
うさぎは瑞貴に後をついてくるよう促すように、部屋の扉まで進んでから瑞貴を振り返る。
『こっち』
「はて?」
瑞貴はよく分からないまま椅子から立ち上がると、うさぎの後に着いて歩く。
うさぎは時折止まっては、振り返って瑞貴がついてきているか確かめて進んでいく。
「いったいなにがあるんですか?」
しかし、瑞貴の問いにうさぎは『早く早く』と急かすだけ。
仕方なくついて行くしかない。
水宮殿の中でも最奥とも言っていい場所に向かっていく。
「そちらにはなにもありませんよ?」
うさぎが行こうとしているのは、波琉が大事な時にみそぎを行う、神聖な泉がある方向だった。
波琉が身を清める時ぐらいしか使われない場所ゆえ、普段は誰も近寄らない。
なぜそんな場所に連れていこうとしているのか不思議に思いつつ、ついていく。
なにせ、瑞貴が足を止めると、なぜついてこないのかと非難めいた眼差しを向けてくるのだから仕方ない。
「紫紺様はいらっしゃいませんよ?」
何度そっちにはなにもないと告げても、うさぎの足は止まらない。
そればかりか、次第にうさぎの数が増えてきた。
待っていましたとばかりに、次々うさぎが合流していく。
そのうさぎの数を見ながら、瑞貴は「少しうさぎたちが多すぎでしょうかねぇ。漆黒様にはこれ以上送ってこないようにお願いしなければ」などと、口にしている。
そんな別のことを考えながらたどり着いたのは、予想通り波琉がみそぎをする泉だった。
波琉しか使わないのだから、当然のように誰もいない、はずだった……。
しかし、瑞貴の目に鮮やかな布が目に入ってくる。
「えっ?」
驚く瑞貴。
さらには、うさぎたちがその布の塊の周りに集まっていた。
『早く』
『こっちだよ』
慌てて瑞貴が近づくと、それはただの布の塊ではなく、着物を来た少女だった。
体の半分が泉に浸かるように横たわっており、目を閉じている。
瑞貴は急いで少女を泉から引き上げた。
「大丈夫ですか!?」
瑞貴は強くない程度の力で少女の頬をペチペチと叩くが、少女が起きる気配はない。
人間の世界なら死んでいるのかと不安になるところだが、天界においての死とは消滅を意味する。
姿形を持っている時点で、少女が死んでいないことは分かっていた。
だからこそ少々手荒に起こそうと試みたわけだが、気を失ったままだ。
「どうしてこのような場所に人間の少女が……?」
龍神でないのはひと目で分かった。さすがに神である瑞貴が人と神の区別がつかないはずがない。
疑問を覚える瑞貴だが、このままにしておけないとすぐに思考を切り替える。
「とりあえず移動させた方がいいですね」
濡れたまま放っておくわけにはいかない。
しかし、その前に確かめなければならないことがある。
「花印を見ればどの龍神の相手か分かるでしょう」
そうして、少女の手の甲を見た瑞貴は固まる。
「椿の花印……」
それは十数年経っても忘れもしないアザであった。
なにせその人物に下界へ行くよう勧めたのが他ならぬ瑞貴自身なのだから。
「紫紺様と同じ花印? えっ? どういうことですか……?」
瑞貴の頭は混乱した。
波琉から唯一を見つけたと手紙があったのを覚えている。
その手紙の内容に瑞貴自身も大いに喜んだのだから忘れようがない。
しかし、その相手はまだ十数歳であり、寿命が来るのはもっと先のはずだった。
いくら短命な人間だとしても、天界に来るには早すぎる。
しかも、波琉からの連絡も来ていない。
「どうして紫紺様の花印の伴侶がここにいるのですか!?」
誰も返答してくれないと分かりつつ、疑問を口にせずにはいられなかった。
『早く早く』
うさぎが急かすように、しゃがむ瑞貴の袖を口で引っ張る。
はっと我に返った瑞貴は、今度こそ慌てて少女を抱きあげた。
「お前たち、すぐに女官を呼んできてください。大至急です!」
瑞貴は焦りを隠せずうさぎたちに命じると、白や黒、茶色のうさぎたちが我先にと走っていった。
それを見届ける前に瑞貴は少女を運んだ。
紫紺の王の伴侶と思しき者に、そこらの部屋をあてがうわけにもいかず、客室の中でももっとも上等な部屋に少女を連れていった。
すぐに水宮殿で働く女官が数名やって来る。
その女官たちも瑞貴と同じ龍神だ。
大した説明もないまま呼び出された女官たちは、当然ながら状況を理解していない。
「瑞貴様、お呼びと聞きましたがなにかありましたか? ずいぶんとうさぎたちが騒いでおりましたが」
「ええ、大問題発生です。とりあえず彼女を着替えさせてあげてください。濡れているので早く乾かしてあげなければ」
「彼女?」
そこでようやく、女官たちは部屋の寝台に少女が横たわっているのに気がつく。
「人間? 見たことがない子ですね。どなたの花印の伴侶ですか?」
「……紫紺様です」
「はっ?」
女官たちはそろって目を丸くした。
「えっ? ですが、紫紺様はまだ龍花の町からお戻りになっておりませんが?」
「そんなこと分かっていますよ。なぜかみそぎの泉に彼女が倒れていたんです。意識も戻らないようですし、下界でなにかあったのかもしれません。私は至急、紫紺様に連絡を取ってみます。その間彼女のことは任せましたよ。同じアザがあるので間違いがないと思いますから、丁重にお世話してください。紫紺様の伴侶と思われる方ですからね」
「は、はい。かしこまりました!」
紫紺の王の伴侶と聞き、女官たちの表情も引きしまる。
男性の瑞貴がいては着替えさせることもできないだろうとすぐに退出し、波琉へ向けて手紙を書いてすぐに送った。
「理由は分かりませんが、本当に紫紺様の伴侶だとしたら、きっと心配なさっておいでのはずだ」
あまりに書き殴った手紙は急いだあまりにかろうじて読めるほど字が汚かったが、瑞貴の焦りは伝わったはずだ。
そう時を置かずして、波琉が天界へと戻ってきた。
その表情は瑞貴がこれまで見てきた中でもっもと感情があらわになっていた。
たった十数年。
波琉が生きてきた年数から考えると瞬きほどの時間。
そんなわずかな間でこんな顔ができるようになったのかと、瑞貴どこか喜びを感じた。
「ミトがいるっていうのは本当!?」
まったく余裕のない様子で、波琉は瑞貴に詰め寄る。
「お、落ち着いてください!」
「落ち着いていられるわけがないでしょう! 本当にミトがいるの?」
「そのミトという方なのかは分かりませんが、紫紺様と同じアザを持っているのは確かです」
神気を感じたことからも間違いないはずだが、瑞貴は会ったことがないので絶対とは言いきれなかった。
「ご案内します」
「うん」
早くしろと言わんばかりの波琉を連れて、少女のいる客室に向かう。
女官によって着替えさせられ、寝台で眠る少女を見て、波琉は駆け寄る。
「ミト! ああ……、ミト。よかった……」
少女の手を握り、頬に触れる波琉は心から安堵していた。
またもや瑞貴の知らない、感情が揺さぶられた表情をする波琉に素直に驚く。
「よかった……」
いまだに意識を取り戻さない少女。
特に外傷があるわけでもなく、理由は不明だった。
「彼女はうさぎたちが発見し、私に知らせに来ました。私が見つけた時には、みそぎの泉に浸かった状態でした。その時から意識はなく起きる気配はありませんでした」
瑞貴の説明を聞いているのかいないのか、手を握るだけでは足りないと言わんばかりに少女の体を掻き抱く波琉は、今にも泣きそうな顔をしていた。
波琉は少女を抱きしめたまま離そうとはしない。
起きるその瞬間を見届けるまで許さないというように、少女から目をそらさない。
とても波琉から話を聞けるような雰囲気ではなかったために、いったん部屋を退出した瑞貴は仕事に戻った。
そして、時折やって来る女官に様子を問う。
「紫紺様の伴侶は目を覚まされましたか?」
「いいえ。まだのようです」
「そうですか……」
自然と出るため息。
波琉は少女につきっきりだそうだ。
なぜこれほど長く目を覚まさないのかが分からない。
天界へ来たということは下界での寿命を終えたということだが、普通は龍神が伴侶となるものの魂を持って天界へ戻ってきて、天帝より新たな体を与えられるのだ。
しかし、今回はまったくのイレギュラー。
だからなのか、最初こそ少女を見つけて安堵していた波琉も、不安そうな顔に変化していった。
「いったい下界でなにがあったのでしょうね」
さすがにそろそろ教えてもらわなければ、対処もできない。
瑞貴は立ち上がると波琉のいる客室へ向かった。
そこでは相変わらず波琉が少女を抱きしめており、今か今かと起きるのを待っている。
声をかけづらい空気に、ためらう瑞貴。
すると、ぴくりと少女の手が動いた。
「紫紺様、今手が動きました」
はっとする波琉が少女の顔を覗き込む。
すると、少女の瞼がゆっくりと開く。
意識がはっきりしないのかぼんやりとしているようだが、それを見た波琉はなんと涙を流した。
顔を俯かせ涙する波琉を瑞貴は信じられないものを見るように驚いた顔をする。
あの波琉が涙を流すほど感情を溢れさせるなど、これまであっただろうか。
唖然とする瑞貴の前で少女がかすれた声を発する。
「は、る……?」
「ミト」
顔を上げ涙する波琉の頬に少女が手を伸ばす。
「なんで、泣いてるの……?」
ゆっくりとした口調で問う少女に、波琉は苦悶の表情を浮かべた。
「ミト、君は死んだんだよ」
大きく目を見開いた少女は、まだ状況が理解できていないようだ。
この場は二人きりにした方がいいだろうと、部屋を後にした。
それからしばらくして瑞貴の下に波琉がやって来た。
瑞貴はすかさず一礼する。
「彼女は大丈夫なのですか?」
「うん。今は落ち着いてる。心配をかけたね」
「いえ。感情を露わにするあなたの貴重な顔が見られましたからね」
クスリと笑うと、波琉は苦虫を噛み潰したような顔をした。
けれど、ふたりの表情はすぐに真剣なものへと変わる。
「紫紺様、なにがあったのですか? 伴侶があのような形で天界に来るなど初めて聞きます」
「堕ち神のせいだよ。ミトの魂を狙っていたんだ。けれど、捕まえられずミトは消えてしまった。僕もミトの魂を見失って探していたところに瑞貴の手紙が届いて、慌てて戻ってきたって感じだよ」
堕ち神について、ある程度の話は波琉から連絡があったので知っていたが、詳しく知っているわけではない。
「なぜ堕ち神が紫紺様の伴侶を狙うのです?」
その問いかけに、波琉は怒りの表情を浮かべる。
少しの間でずいぶんとたくさんの表情を見られるようになったなと、瑞貴は感心した。
「僕の予想が当たってないことを祈るけど、たぶん当たってるんだろうな」
波琉は明言はしなかった。
「ミトはきっと龍花の町に帰りたいって言うだろうね。僕はそれを止めるつもりはない。でもきっと堕ち神はミトを狙ってくるはずだ。けれど今度は絶対にミトを守りきってみせる。ちゃんと決着をつけなければならない」
強い意志を見せる波琉の姿に、瑞貴は不謹慎だと思いつつも微笑ましく感じた。
「紫紺様の伴侶のお名前はミト様とおっしゃいましたか?」
「うん、そうだけど、それがどうかした?」
「いえ、紫紺様の大事な方とあらば、全力でお守りしなければなりませんね。必要とあらば、なんなりとお申し出ください」
「ありがとう、瑞貴」
喜怒哀楽を見せる波琉の姿に、ミトは絶対に失ってはいけない存在だと瑞貴頭に刻まれた。