木製の椅子に座らされると、夏目は立てた自分の膝にマリの短い足を乗せ、慣れた手つきでライナーと呼ばれるシリコン製のカバーをかぶせていく。
義足をつけるとき、切断した足をソケットという筒状の部分に差し込むのだが、生足をそのまま入れると中でつるんと滑ってしまう。
それを防ぐためにシリコンカバーを足側につけ、ずぷずぷと筒の中の空気を抜くように差し込んでいく。
こうすることで中が真空になるうえシリコンの摩擦によって抜けなくなるのだ。
正直、ライナーの装着はマリでもできる。
いつか義足を使うときのためにとリハビリで練習させられていた。
しかし今日に限っては、全てを夏目に任せたい気分だった。
できるならやってみろ。
少しでも嫌なところがあれば突っぱねてやる。
そういう、ちょっとした意地悪のつもりだった。
だがマリに触れる夏目の手は骨張った見た目に反していやに優しくて、否定してやりたいのにその機会が見つからない。
夏目の体温は低栄養のせいか少し低くて、逆にマリの足先は火照っている。
宗一郎なら感染症!? とか言って慌てそうなほどの熱と赤みを帯びた膝先は、夏目の低い体温と交じりあったおかげで今ようやく平熱くらい。
心地よくない、と言ったら嘘になる。
「そうだ」
夏目が何かを思いだしたように立ちあがると、マッドサイエンティスト工房から小さな箱を持ってきて蓋をあけた。
中にはピンクベージュのてかてかしたハイヒールが入っていた。
自分の人生には一ミクロンたりとも存在しない色。
思わずじっと見つめている視線の先で、夏目が右足のローファーを靴下ごと剥ぎとった。
「ちょっと」
「いいから」
あっけない拒絶とともに右足は派手なヒールへと様変わりした。
どうしてサイズがわかったのか、そのヒールはマリの足にぴたりとはまる。
なんだかむず痒い。
ちょっと、かわいい、気が、した、から。
お洒落なんて、特に足元のなんて、足がなくなってからしようとも思わなかったので。
夏目の手がとうとう左足に触れた。
靴を強奪したときの乱暴さを思いだして身構えたが、拍子抜けするくらいそっと義足をかぶせると嘘みたいに断端へと吸いついた。
初めからそうだったかのように違和感のないその足は、マリの見おろす先で鈍色に光っている。
どうみても人間らしくない足なのに、両足が揃っているということがとても人間らしい気がした。
見慣れないような、見慣れているような。
人魚姫が初めて自分の足を見たときも、こんな疑似既視感に囚われたのだろうか。
ふわり、と。
いきなりのことだった。
夏目がマリの手を掴んだかと思うと、あろうことかそのまま引き寄せたのだ。
細い胸の中に飛び込むような形になる。
初めての義足なのに、片手を添えただけで立ちあがらせるなんて何を考えているのか。
ぎゅっと目をつむり、身構える。
痛いだろうか、膝が抜けないだろうか。
体重をかけた瞬間にばらばらと壊れたら?
すっぽ抜けたら――?
思ってもみなかった感触が左足を包んだ。
まるで雲の上に立っているような、表現しがたい感覚。
ぴりぴりとした刺激が頭の先から両足の先まで突き抜ける。
痛いのではない。
背筋がすっと伸びて、新鮮な空気が肺を満たして、すっきりした感じ。
とんとん、と肩が叩かれた。
「目、あけてみ」
薄目をあけると夏目がどこかを指差していた。
操られるように視線を向けると、そこには一面に張られている鏡がある。
普段、醜い車椅子姿を映す鏡。
しかしそこに映っていたのは、見たこともない自分だった。
踵の高いヒールを履いて、すっと背筋が伸びている。
縦にほっそりと長く、堂々としたいで立ちでセーラー服を着こなしている。
スカートから覗く足は、二本ある。
てかてかしたヒールを履いた右足と、メタリックに照り返す機械仕掛けの左足。
ずんぐりと車椅子に座っていたお飾り人形の自分が、今日はスレンダーに鏡に映る。
いつもの二倍の高さから見ると世界が変わって見えた。
自分の視線よりも上にあったものが、今は下にある。
夏目に引き寄せられると身体が密着した。
全身の血が沸騰してくらくらする。
逃げようとするマリの腰を夏目の大きな手が抑え込んだので、腹同士が擦れあって心臓が跳ねた。
しかし相手はポーカーフェイスのまま腰に添えた右手を肩甲骨まで這いあげて、残った左手でマリの右手を掴むと真横へと押し広げる。
あいたスペースに自らの身体をねじ込んで、
一歩。なんの前触れもなく。
機械仕掛けの左足が夏目の右足によって押しだされた。
糖度ゼロのはずの、紙粘土っぽい匂いが嗅覚に触れて麻薬のように脳をぼうっとさせる。
「スロウ、スロウ、クィック、クィック――」
身体が勝手に動く。
ステップなんてまるで知らないのに、この新しい足が知っているみたいだった。
密着した身体は接着剤で張りついてしまったかのように、離れそうもない。
「――エン、スロウ」
制服のスカートが翻る。
綺麗な弧を描いて大きく広がり、空気をはらんで揺らめいた。
ぴたり。
急角度で回転した身体が、何事もなかったかのように、鏡の前で制止する。
綺麗な、縦長の身体を維持したまま。
ぴん、と背筋が伸びたまま。
足が、二本生えたまま。
「ほら、踊れた」
低く抑揚のない夏目の声が鼓膜に触れた。
それでも初めは信じられなくて、何秒も、何十秒も、瞬きもせずに鏡を見つめた。
マリは自分が嫌いだった。
言いたいこともろくすっぽ言えない、身も心も不自由な自分。
でも。
夏目の腕の中にいる自分は、どこまでも自由だった。
魔法にでもかかったみたいに、二本の足で平然と回る。
あの日見た女性のように、くるくると。
それはまるで、別人のようで――。
夏目の腕の中にいる自分は、好きになれそうだった。
「俺と、踊ってくれる?」
蝉が鳴いていた。
すぐそばでわんわんと鳴いていた。
だから夏目の声以外、何も聞こえなくなっていた。
音が壁となって二人を包み、周囲の音を全て消し去っていた。
籠もった熱気が蜃気楼のように周囲の景色を霞ませて、高い位置から、といっても以前よりも格段に近くなった高い位置から、こちらを見おろす薄灰色の瞳をより鮮明に映しだしている。
少し碧みがかった光彩がくっきりと見え、マリは瞬きするのも忘れて見入っていた。
もう答えは知っていると言わんばかりの、強気な目。
そんなの、卑怯だ。
「……はい」
吐息がかろうじて声になったような、頼りのない音で呟いた。
夏目の口角がわずかにあがる。
そのとき初めて笑顔を見た。
肉付きの薄い頬をわずかにあげただけの、笑ったと言えるのか怪しいものだったけれど。
しかしそれまで温度というものがまったく感じられなかった瞳の奥に、ラムネ瓶が生んだプリズムのような光が灯ってきらきらと輝いていた。
喩えるのなら、夏休みにクヌギの木に留まったカブトムシを見つけて興奮する少年というような。
ほんの一瞬、その笑顔があの日見た王子様と重なって見えた。
触れている部分が全部心臓になったみたいだった。
並列繋ぎになった心臓がいつもの何倍もの速さで身体中に熱を運ぶので、たぶん40℃くらいの熱に浮かされていた。
だからもう、何も考えられなくて。
身体はどこまでも自由だったけれど。
マリの言葉は夏目に縛られてしまって、まだ不自由だった。
お嬢さんは精神に重篤なダメージを抱えているようですね。
精神科医が憐れむような、敬虔な信徒のような、とにかく胡散臭い口調で母親にそう告げるのを、よく飽きないなあと思いながら隣でぼーっと聞いていた。
いつまでも義足を使わないでいたら小児科の偉い先生が勝手に精神科医を紹介してきて、月に一度通わされていた時期がある。
精神科医は気のないマリを見てさらに慈悲深い表情になって、きっとそのうち義足も受け入れられるようになりますよ、気長に治療していきましょうねなんて優しく微笑む。
母親はというとマイペースな人なので、この子はファーストシューズを履くのもイヤイヤしていたんですよ、と医師の真意をわかっているのか怪しい様子でのらりくらりと躱していた。
そして診察が終わるといつも病院のカフェテラスに立ち寄って、大きすぎるパフェを二人でわけあいっこして帰る。
カウンセリングの話は一切しなかった。
だが世間の人はどうしても型にはめたいらしく、義足をつけろと学校でも強要されてしばらく授業にも参加させてもらえず、スクールカウンセラーの部屋へ押し込められていた。
クラス会では何度も議題として取りあげられ、障害があってもみんなは仲間ですとか、固い絆がクラスにはあるとか、差別のない社会をとか綺麗な言葉を並べ立てる教師がどうにも好きになれなくて、気づけば保健室登校になっていた。
みんな言葉の末尾には必ず〝マリさんのためなのよ〟という言葉がついたけれど、当人にしてみれば精神科医や教師のどの言葉よりも、母親とわけあう一杯のパフェのほうがよほど自分のためになっている気がした。
「代理ミュンヒハウゼン症候群」
「え?」
当時雑談のつもりで話していたら、いつも気怠そうな保健医が、気怠そうな態度でそんな言葉を教えてくれた。
「普通は親が子にやるんだけど、健康な子どもをわざと傷つけたり病気にしたりして、健気に看病する親になりきることで世間から同情や注目、はたまた賞賛を得ようとする精神疾患。アナタハヨクヤッテイルワ~ショウガイニコンナニリカイガアルナンテスバラシ~」
「ぷっ、何それ」
「校長と教頭の真似。似てるだろ」
「似てる~」
この保健医と出会って、誰かを〝かわいそう〟という位置に押し込めて庇護することで自分のアイデンティティを得ようとする人種がいることを学んだ。
そう話す保健医はというと一切遠慮のない人で、特別扱いもしないで、むしろマリに荷物持ちなんかもさせて、電動車椅子助かるわーとていたらくに笑っていたのを覚えている。
「車椅子で楽してんじゃねぇ。松葉杖使え。筋肉を鍛えろ」
記憶の中の保健医以上に配慮のない口調で夏目が言うので「リハビリはしてるってば」と反論したのだが、夏目は一切聞かずにダンスフロアの片隅に広げた青いビニールシートの上でバケツに入ったコンクリート状の何かをかき混ぜている。
これからマリを海に沈めるつもりだろうか。
〝明日から毎日来い〟
昨日、こちらの都合を一切訊かずにそう告げると、夏目はマリを車椅子に座らせて、義足とヒールを強奪して、ローファーを元通り履かせて、そのままスタジオから追いだした。
反論する余地も与えず「俺はこれから行くところがある」とマリをその場に置き去りにして消えてしまったので、怒りを通り越して呆れるしかない。
やっぱり被験者になるのを断ってやろうかと思いながら一人で帰路についたのだが、結局来てしまったのだからマリも大概お人好しである。
「ねえ、それ何やってるの?」
「こんなもんか。こっち来い。車椅子使うなよ」
質問には一切答えず、というより一瞥すらしないでコンクリートを混ぜ続ける夏目に苛立ちを覚えつつ(何が車椅子は使うなよ、だ。偉そうに)四つん這いになってビニールシートへ向かった。
マリを視界の端に捉えた夏目が「バー持って立って」と顔もあげずに指差した先には、木製の手すりが壁に備えつけられている。
ダンス教室の場合は〝手すり〟ではなく〝バー〟と呼ぶらしいが。
「こう?」
バーを握りしめ腕と右足の力で立ちあがると、初めて夏目が顔をあげて「そのまま立ってろ」とバケツ(コンクリート入りのほうではなく、もう一つ用意されていたバケツだ。中には水に浸された包帯が入っている)と食用ラップを手に近寄ってきた。
食用ラップ?
マリの足下にバケツを置くと、突然夏目が着ていたシャツを脱ぎ始めた。
そのうえ、
「スカート脱げ」
「はあっ?」
どういうつもりだ。
海に沈める前に味わっておこうとかそういう話か?
一瞬そんなことを考えたが、基本的に半死体みたいな夏目がそんな生命力溢れる行為に乗じる姿が想像できない。
(したくもないが)
「なんでっ……」
言い返したときには夏目はすでにシャツを脱ぎ終わっていて、上半身裸の男が目の前にいたので続く言葉を失った。
ぱくぱくと金魚みたいに口を開け閉めしていると、夏目の手がマリの腰に触れたのでびっくりして跳ねあがり、
「へんたいっ」
「いや俺はこのまましてもいいんだけど、制服汚れたら困るんじゃねぇの」
困るとか困らないとかそういう問題ではない。
片足しかないので逃げることもできず(車椅子で来るなと言ったのはこのためか)、そもそも人生初めての恐怖体験のせいで身体が固まって動けない。
それを察したのか、夏目は仕方ないなとばかりに深いため息を一つつき、
「なんで俺が結ばないといけないんだ」
「は? え? どういうこと?」
さっきまで着ていたシャツをマリの腰に回して結び始めた。
男物のシャツはかなり大きく、腰回りをすっぽりと覆い隠した。
そのまま夏目はファスナーに手をかけるとスカートを一気に引きおろす。
「ぎゃっ」
「うるせぇ」
という淡白なやりとりのあとぱさりとスカートが床に落ちたが、さらし者になるはずだったパンツは夏目のシャツによって秘匿されたままだ。
「どういうこと?」
もう一度問うと夏目は平然と、
「石膏で足の型を取るんだよ。スカートに石膏ついたら困るだろ?」
つまりあれか。
スカートを脱げと言ったのは石膏をつけて汚さないためで、夏目がシャツを脱いだのはスカートのかわりにパンツを覆えるものを用意した結果であって、それがなんの説明もないまま進められたからマリだけが勘違いしたと。
「まぎらわしいことすんなっ」
「何が?」
夏目は一切理解していないらしく不機嫌そうにこちらを見あげてきたのでマリはもう呆れかえるしかない。
マリが脳内で不戦敗を決定した頃、夏目はマリの両手を自分の肩に乗せ、
「はい、ジャンプ」
「よっ……」
夏目の肩に全体重を乗せて飛びあがった瞬間、タイミングよくスカートが引っこ抜かれる。
まるでテーブルクロス引きの曲芸だ。
「軽いなぁ。ちゃんと食べろよ」
という夏目にだけは言われたくない台詞を聞きながら放り投げられるスカートを見送った。
少し冷たい夏目の指先がシャツの中に差し込まれ、マリの短くなった足先に触れたので身体が跳ねた。
途端に指先がその場で止まり、しかし離れることはなくて、接地面の体温が馴染んだところで再び近寄ってくる。
手のひら全体が触れるまでにたっぷり一分くらいはかかった気がした。
(まさかあの夏目さんが気を使った?)
顔を覗き込むと不遜なポーカーフェイスがたちまちに歪んで
「何?」
と不機嫌そうな声。
そんなわけなかった。
そうだよなあと一人でうんうん頷いているとことさら不審な顔を向けられる。
何よ、そっちが先に不審な行動を取ったくせに。
実際に義足を使う状況を想定して、シリコン製のライナーを装着してから型を作り始めた。
地肌に石膏がつかないように夏目が食用ラップを巻いていく。
短くなった左足だけではなく、股間と腰を通って右足の太股にまでぐるぐると巻かれたので簀巻きにされる受刑者の気分だった。
やはり海に沈められるのでは。
「というか、なんで足の型を取るの?」
「義足を作るために決まってんだろ」
「いや、それくらいはわかるけど」
拒否はしていたものの、義足を作る工程はさすがに理解している。
義足と短くなった足をつなぐ部分をソケットと呼ぶのだが、足の切断面に合わせて作るため一人一人石膏で型を取るのがセオリーだ。
しかし、
「昨日のやつでもぴったりだったじゃん」
昨日の義足があれば型など不要な気もするのだが。
「あれはお前を騙すためにそれっぽく見せただけ。使えば使うほど粗がでて傷の原因になる」
「うわ、詐欺」
「何とでも言え。そもそもお前は普通の使い方をしないんだから正確な型は必要不可欠」
お前は、というか、夏目が、普通の使い方をさせてくれないんだけど。
見おろせば腰回りに顔を埋めるような体勢で無心にラップを巻いている夏目の背中が見えた。
間接的とはいえ女子高生の股間にさわっているのだから少しくらいは面白みのある反応を返すだろうと期待したのに、首筋からわずかに見えた顔はまさに〝無〟表情だった。
ラップを巻き終えるとペンに持ち替え、ぐにぐにとまさぐって骨を見つけては印をつけていく。
この上から石膏を塗れば型の内側にインクが移って、骨の位置が記録されるらしい。
「こんなもんか。あとは……」
突然だった。
夏目の腕が後方に回り込むと、左手を尻の割れ目に差し込んだのだ。
「うわ、へんたいっ」
「うるっさい。耳元で喚くな。坐骨の位置を確認してるだけだろーが」
「坐骨?」
「左右一個ずつある骨盤の一番下の骨。これ」
説明のつもりでぐりぐりと押しながら
「肉薄いなあ。褥瘡できるぞ」
と何やら意味不明な単語を言った。
いい意味でないことは明らかだったので「貧相で悪うございましたね」と吐き捨てる。
第一、女子高生の尻をまさぐって無表情なのが気に食わない。
「そんな触んないでよ」
「坐骨が一番大事なんだぞ。体重支えて、義足の荷重バランスを取るのがこの坐骨で」
と話す間もずっと坐骨をさわっている。
(義足馬鹿め)
前から思っていたが、夏目の場合は人間として優先されるべきものの前にマッドサイエンティストとしての人格が居座っている気がする。
ラムネの成分とか、義足のこととか、女子高生の股間をさわっても成人男子にあるまじき反応を示すところとか。
一般人としては二の次以前に考えることすらしないものが、夏目の中では最優先事項になる。
こういうときだけ饒舌だし。
科学者(この場合は職人?)ってみんなこうなのか。
偏見かもしれないが典型的なザ・理系という感じがする。
と、シャツの中に頭を突っ込んで位置を目視し始めたので今度こそ本当に顔が赤くなった。
今日は無地のパンツなのにっ。
いや別に夏目相手に着飾る必要なんてないけれど、見られるからには女子高生としての意地があるというかっ。
「もう、いい加減に」
「やっほー慧、マリちゃん。差し入れ持ってきた――」
最悪のタイミングで玄関の戸が開き、人なつっこい笑みを浮かべた槙島が顔をだした。
ぎくしゃくと戸口のほうを向くマリと、まるで暖簾をくぐるようにシャツの中から無表情をだした夏目。
その手は依然としてシャツの中に突っ込まれており、端から見れば坐骨をさわっているとはわからないわけで。
槙島は掲げていたビニール袋をゆっくりと降ろしながら、
「――んだけど、俺すっごい邪魔しちゃったカンジ?」
「誤解!」
全力で否定したのはマリだけで、夏目は槙島を一瞥しただけでシャツの中へと戻っていこうとしたのでのを思いっきり突き飛ばしてやった。
「ははーんなるほどね。足の型取りね。でも知らない人が見たらどう見ても卑猥なことしてるようにしか見えないよね」
槙島が木製の椅子を引きずって現れ、背もたれをこちらに向けて跨がると頬杖をついてにやにやと。
差し入れと聞こえた気がしたが、槙島はビニール袋に入っている残り二本のアイスをこちらに渡すこともなく、左手にぶら下げたままちろちろと自分だけアイスを舐めている。
エアコンの壊れた室内は蒸し風呂状態で、しかし窓をあけたところで吹き込んでくるのは結局熱風。
長らく放置していたスタジオにカーテンのようなものはなく、照りつける日差しの中でマリは羨ましげに槙島のアイスキャンディを見つめた。
「ていうかそれ、今度は何してるの?」
槙島がきょとんと指差した先では、夏目がマリの腰を覆うシャツの中に頭を突っ込んで(もう隠している意味がない)手をわちゃわちゃと動かしている。
マリは感触でなんとなくわかるが、槙島の位置からはシャツに覆われているので怪しさ満点だろう。
「石膏を含んだ包帯で足を覆ってる。五分もすれば固まって型ができる」
「へーそうなんだー」
興味なさそうな声でとってつけたような感想を述べると再びアイスをちろちろと。
聞く気がないのなら聞かなければいいのにと思いつつ、マリのほうは気になっていたので図らずも答えを知ることとなった。
そもそも夏目が説明をしなさすぎる。
どうやら水に浸かっていた包帯が石膏入りだったらしい。
身体に巻きつけた状態で乾燥させればその形状のまま固まってくれるので、これで足の型が取れるのだとか。
石膏ででろでろの包帯を巻きつける夏目の手はもはや爪の中まで白く汚れている。
そのうえ構うことなく額の汗も拭うので、アフリカの先住民族みたいに白い線が浮かんでいた。
ちなみにマリの腰に巻かれたシャツも例外なく石膏がべっとりとこびりついていて紙粘土臭い。
そうか、初日に夏目からしたのはこの匂いか。
包帯を巻かれている間それなりに踏ん張っていると、どうしてもじとりと汗が浮かんでくる。
これはすごく嫌だ。
夏目がシャツの中に顔を突っ込んでいる現状では。
ぎゃんぎゃんとうるさい盛りきった蝉の声と、夏目が石膏を撫でつけるぺちゃぺちゃという音が茹だるような暑さの室内にこもる。
「もういいか」
およそ五分後、夏目はずずずと形を崩さないように包帯を引っこ抜いた。
「もう楽にしていい」
とれたてほやほやの足型を手にブルーシートへ腰をおろすと、足が入っていた部分を念入りにチェックし始めた。
脱ぎたてのタイツを観察されているようで居心地が悪い。
「ねえ、ここってトイレとかないの?」
とはいえ腰に巻かれたシャツの中のほうが気になっていた。
一刻も早く確認したいマリが夏目の背中に問いかけると、振り向くことなくスタジオの右端を指差した。
マッドサイエンティスト工房と対になっているあのドアだ。
四つん這いになって移動する道すがらスカートを拾い、やっとの思いで扉をあける。
「ぎゃっ」
「あははーいうと思ったー」
マリの叫びを聞いた槙島が腹を抱えて嬉しそうに笑った。
そこはよくあるユニットバスだった。
トイレと、鏡の設置された洗面台、部屋の隅にはシャワーカーテンつきのバスタブ。
生徒の更衣室兼シャワーとして使われていたのだろう。
レールにはハンガーや古びたドレスがひっさげられている。
それはいいのだが。
「何この張り紙……こわっ」
壁一面に付箋や雑誌の切り抜きが張られていた。
フロアの壁の比ではない量。
そのうえ鏡には真っ赤な文字で『Keep your face up up up! to this message!』という謎の英文が書かれていた。
きーぷ……なんだって?
「すごいでしょー。昔世界を目指していたカップルがいてさあ。あ、カップルっていうのはダンスのペアのことなんだけど、女の子のほうが向上心ありすぎて魔改造しちゃったんだよねえ」
これ全部、ダンスの注意書き……?
今までこれといって熱中したものがないマリにとっては異世界すぎた。
だが背に腹はかえられない。
仕方なく中に入ってドアを閉め、ものすごい威圧感を覚えながらも淡々とシャツの中をチェックした。
……よし、そんなに蒸れてない。
ラップを綺麗さっぱり取り払ってスカートを穿きスタジオに戻ると、夏目が背中を丸めて何やら作業をしていた。
這いよって肩口から覗き込む。
型の余計な部分をハサミで切り落としつつ入り口にパテを塗っていた。
なんだがケーキ職人みたいだ。
「ねえ、それは何をやってるの?」
「入り口滑らかにしてる」
夏目の骨張った手からは想像できないほど器用な手つきで、生クリームを盛りつけるようにへらでパテを重ねていく。
すっかり型が整うと、今度はバケツに入っていたコンクリートを流し込み始めた。
「なんだ、わたしを海に沈めるためのコンクリートじゃなかったのか」
人魚がコンクリート詰めにされて海底に沈んでいるところを想像して一人で笑っていると「はあ?」と仏頂面を向けられたので笑いが引っ込んだ。
恥ずかしい妄想を聞かれてばつが悪くなる。
小さい頃に姉から人魚姫云々の話を聞かされて以来、ときどき変な妄想をする癖がついてしまった。
「これコンクリートじゃなくてギプス泥。これを入れて固めて、陽性モデルにする」
「陽性……何?」
「この外枠にギプス泥を入れて固めたやつ。お前の足の形を写し取った模型のこと」
「ふーん。夏目さん案外物知り」
「お前……俺のことなんだと思ってるわけ?」
何って……なんだろう。
もう踊りは辞めたらしいからダンサーではないし。
女の足を作ることが趣味の変人にしか思えない……と考えて、根本的なことに気づいた。
「そもそも夏目さんって義肢装具士の免許持ってるの?」
義足を作る人は義肢装具士と呼ばれ、専門学校や大学で必要過程を学んだあと国家試験に受からないといけないはずだ。
「いや、無免許だけど」
「無免許!」
そういうのありなのか。
ついうろんげな視線を向けると「研究のために作ってるだけだから。卒業制作みたいなもん」と悪びれもせずに。
「つまりモグリの義肢装具士?」
「おーおー、かっこいいじゃねぇか」
「どこが」
某モグリの天才外科医ならいざ知らず、モグリの義肢装具士ってかっこいいのか?
「ねーえ、お話中悪いけど」
三本目のアイスを食べ終えた槙島が遠くから口を挟み、
「その義足とやらはあとどれくらいでできるわけ?」
「ギプス泥が固まるのに二日はかかるから……まあ三日もあれば」
「なら間に合うかあ」
「たぶん」
間に合う? 何が?
当事者であるマリを差し置いて進んでいく会話に嫌な予感がした。
そういえばバイトとして持ちかけられたのに未だ終了期限を明示されていない(もちろん金銭面での条件提示もない)。
「ちょっと待って、間に合うって何が?」
棘のある言い方で割り込めば槙島がびっくりした顔をして、
「えっ、まさか話してないの? 俺さっきエントリーして来ちゃったよ?」
「エントリー?」
思わず声が裏返って喉を痛めた。
エントリーって日本語にすると……参加申し込み?
何の?――顔を引きつらせたマリをよそに、足型を床に叩きつけて空気を抜いていた夏目が顔をあげ、
「納涼祭」
「え?」
まるで天気の話でもするかのようにさらりと言った。
「そこで俺と踊ってもらう」
納涼祭というのは地元の名士であるなんとかというおじさんが個人的に開催している非公式のダンス競技会で、海岸に設置された展望デッキを貸し切って開催されるらしい。
当日はお土産屋や食堂もイベント仕様に変わるらしく、夕涼みをしつつ義足の性能も検査してしまおうという一石二鳥なプログラムなのだと、言葉足らずな夏目にかわって槙島が説明してくれた。
「無理無理無理! そんな人前でやるなんて聞いてない!」
腹ばいでバランスボールに寝そべりながらマリが絶叫すると、夏目は耳の穴に指を突っ込んで「うるせえ」とありがたいお言葉。
「まあまあマリちゃん。そんなに気負いしないで」
マリの背中に手を添えて転落を予防しつつ、槙島がきゃらきゃらと笑って言うことには。
「競技会と言ってもほとんど素人の集まりだよ。屋台や食堂を貸し切ったビュッフェが目当てで、たらふく食べたあとに腹ごなしで踊るかあー程度の人が集まってるんだから」
はい、来ました。
踊れる人の理論。
〝ほとんど素人〟と〝本当に素人〟の間には超えられない壁があることを知らないのか。
「だからって無理でしょ! 百歩譲って〝素人〟なだけならまだしもこっちは義足なんだよ?」
「俺が作るんだぞ無理なわけあるか」
一方の夏目はずれたことを飄々と。
何その自信。というかそういう問題ではない。
「主催しているおじさんの趣味が社交ダンスで、自分が踊りたいから開催したっていうほんとに遊びの競技会だからさ。大丈夫だいじょーぶ」
こいつら……。
自分たちは(たぶん)小さい頃からやっているのでなんてことはないのだろうけれど、一般的な人間は社交ダンスなんて見たこともないのであって、それをいきなり人前でやって見せろだなんて無茶ぶりもいいところだと理解して欲しい。
「ちなみに、いつ?」
「八月十六」
今日は七月十日土曜日。
義足ができるのに三日かかるから十三日に完成したとして、そこから練習できるのはひー、ふー、みー……。
「あと一ヶ月と二日しかないじゃん!」
「おー」
と無責任な返事。
ここで急に槙島がはっとした顔になり、
「というかマリちゃん学校は? 高校生ってまだ夏休みじゃないよね?」
慌てたように指折り数え、
「学校があるとすると練習できるのは実質……」
と計算し始める槙島。
「お前まだ夏休みじゃなかったのか」
と寝ぼけたことを言う夏目。
「あー……えっとですね」
入学当初はちゃんと毎日通っていたんだ、と槙島へ向けて心の中で言い訳をする。
しかし中学まで続けた保健室登校が完全に板についてしまい、五月を過ぎたあたりから休みがちになっていた。
「まあ、いろいろと」
うまい言い方が思いつかずものすごくざっくりとごまかした。
しかし夏目は特に気にした風もなく、むしろ「学校行ってないなら都合がいいな」とこちらが面食らうほどすんなり受け入れ、そのうえ。
「なら義足ができるまでの三日間は体幹強化で」
と宿題までだしてくれたのだった。
93、94、95……。
両手でバーを掴んで半円のバランスボールに片足で乗り、重りがわりの義足を前後にぶんぶんと振りながら目の前の壁いっぱいに貼られたメモを眺める。
『身体は一枚板』『肩・腰・足は全部一緒に動かして』『腰から上が遅れない』『←俺の足だけ走って逃げました』『求む・お兄ちゃんの足』『←ばか言ってないで練習しろ』『ケイが怒った怖い』『ケイちゃんはもっと笑顔になったほうがいいと思いまーす』『←同意』『←激しく同意』『お前らうるさい』『うるさいって言ったほうがうるさいんだばーか』『ユウスケは基本急ぎすぎ。足下もっと静かに、ボールの位置ちゃんとそろえろ、ライズ甘い、ロアーは休けいじゃないんだもっと上体引きあげろあれじゃまるでしこ――紙が足りない口で言う』『ごめんなさいもう許して』
他にもいろいろと書いてあるが、よく見るとちゃんとした注意書きは半分くらいで、残りの半分はよくわからない落書きだ。
壁の一番高いところには拙い文字で、
『みんなで世界にいけますように』
暇つぶしがてら流し読みをしていたが、すぐに興味を失って視線をはずした。
字が幼いので小学生くらいのメモだと思うが一人だけかわいげのない子どもがいる。
(98、99、100……っと)
指定された回数をやり終えてバランスボールから飛び降りた。
つけていた義足をはずし(これは足にあっていない試作品だ。重さに慣れるためにつけているのでこれで歩こうものなら激怒される。傷ができるとかなんとかで)立てかけていた松葉杖を引っつかむと時計を見あげた。
しかし時刻は四時二十七分で止まっていたので腹時計でだいたい昼頃だなと当たりをつける。
「夏目さーん、お昼一緒に食べなーい?」
ドアの閉まっているマッドサイエンティスト工房に声をかけるも返事がない。
来たときに一度工房の中から「練習してろ」という声を聞いたので生きているのは確かなのだが。
仕方ないなあと松葉杖で近くまで行き、
「夏目さんったら、聞いてるの?」
杖先でごんごんと叩いてみると「う」という短い呻き声が聞こえた。
入っていいという合図だと勝手に解釈してドアをあける。
「ぎゃっ」
工房の明かりはついておらず、パソコンのディスプレイが机に突っ伏した夏目の顔を蒼白く照らしていた。
夏目はフェルトペンを握りしめ、紙はもちろん机や壁、そして試作品の足に至るまで数式などが書き連ねてある。
何かの呪詛かダイイングメッセージにしか見えない。
「どうしちゃったのこれ」
手探りで電気をつけ、夏目が胸に抱きかかえていたメモ用紙がわりの義足を奪い取ると「足関節がうまく動かない」とよくわからないことをもごもごと。
詳しく訊いたところでわからないことは明白だったので無視して机周辺を片づけていく。
「お昼ご飯食べようよ。来るときにパン買ってきたんだよ。夏目さんのぶんも」
「無理」
いらないじゃなくて無理ってなんだ。
夏目が「くあ」とあくびをしながら明かりを疎むように目を細める。
義足の型取りから三日目。
ここ数日スタジオに通い詰めてわかったことは、夏目の生命力はミジンコ程度しかないということだ。
会ったばかりのときはマリを被験者として誘うためにそれなりに動いていたが(それでもやっぱり死人みたいだった)、あれはかなりのレアケースだったようで、基本的にはこうして腐乱死体みたいにへたばっていることのほうが多い。
予想通り食事という概念もないようで、時折り固形のラムネを口に入れては「グルコースさえあれば脳は動く」とのたまう始末。
この猛暑を乗り越えられるのかすらマリには疑問だ。
「今日何日」
「え? 十三日だけど」
「そうか」
再び「くあ」とあくびをした夏目がおもむろに立ちあがり、工房の隅に置いてあったものを持ちあげると不機嫌そうに吐き捨てた。
「でかけるぞ、月島」
車椅子禁止令がでているので慣れない松葉杖でひょこひょことついていくが、背の高い後ろ姿は一度もこちらを振り返らない。
むかっときてスピードをあげて隣に並ぶと、本当に目が開いているのかと疑わしくなるほど糸目になっている。
容赦なく照りつける太陽光は夏目の色素の薄い目とすこぶる相性が悪いようだ。
紙袋を手首にひっさげふらふらと歩いている。
「ねえ夏目さん。もう疲れちゃったんだけど」
「体力」
たった一言でばっさりと切り捨てられ口がへの字にひん曲がる。
わかってるよそんなことは。
甘えてみたらどうなるのかなってちょっとだけ気になっただけじゃんか。
けち。
構ってくれと言うつもりはないけれど、もう少しコミュニケーションを取ってくれても罰はあたらないだろうに。
この三日間、会話もなく退屈なトレーニングをさせられていた恨みがぐんぐん募る。
しかし隣を歩く夏目は日なたぼっこ中の猫のように伸びやかなあくびをかましており、それが余計に腹立たしかった。
「ねえ、どこ行くの」
「行けばわかる」
王様態度で言い放つと、やはりこちらを振り向きもしないで空中で何かを計算するような仕草。
マリのことなんてアウトオブ眼中。
夏目の頭は今も工房に取り残されたままだ。
ふつふつと怒りが湧きあがり一発殴ってやろうかと思ったが、両手は松葉杖で塞がっている。
いや、ちがう。
怒っているのは、たぶんそんなことではなくて。
ダンスを教えてくれるんだと、思っていたから。
あれから毎日、つまらない筋トレばかり。
しかも夏目はそれを一切見ることがない。
何をしているんだか知らないがずっと工房に引きこもっている。
〝俺は嘘にしない〟
あの日、夢を見てしまった自分が馬鹿らしくなった。
きっと本心では夏目もダンスなんて無理だと思っていて、だから筋トレで時間稼ぎをしているんだ。
〝研究はしました〟という名目を作るためだけに納涼祭にでて、ぎこちなく右往左往してはい終了。
あの台詞は足を売るための単なるセールストークだったのに、愚かなマリはまんまと騙された。
宗一郎は無理だと言っていたのだから、そっちを信じておけばよかったのに。
「……もう歩けない」
途端に全てがどうでもよくなって、電柱に背中を預けるとずるずる滑ってしゃがみ込んだ。
灼熱のアスファルトがじゅっとマリの地肌を焼いたがそれすらもどうでもよくて。
白かった肌がだんだんと赤く火照っていくさまを黙って見おろす。
「だから体力つけろつってんだろ。我が儘言わずに歩け」
「無理。もうほんと無理。夏目さん一人で行きなよ」
「来いって言ったら来るんだよ」
「やだ」
「立て」
夏目がマリの腕を掴み立ちあがらせようとするが、後ろに体重を預けて必死に抵抗する。
こんがらがった頭が夏の熱気でさらにオーバーヒートして、もう何がなんだかわからない。
「やだったらっ」
自分史上一番大きな声で吐き捨てると、気づけば目頭がアスファルトよりも熱くなっている。
透明な液体がぱらぱらと落ちて、灰白色の地面に染みを作った。
勝手に一人で期待して、盛りあがって、こんなくだらないことで泣くなんて馬鹿みたいだ。
もうさっさと夏目がどこかに消えてくれないかなと、地面の染みを睨みながら神に祈るような気持ちだった。
頭上からため息が降ってきたのはそんなときで、びくんと身体が跳ねあがる。
ああ、完全に見限られた。
「……お前、あの曲好きなの?」
「え?」
唐突に話題が変わったので面食らって言葉に詰まる。
しばらく無言でいると夏目がいらいらした口調で「うちに来た日、流れてただろ」とつけ足した。
「あ」
ようやくどの曲のことを指しているのか思い至り、少し考えてから「嫌いじゃない」と曖昧に答える。
考えたこともなかったが、つられるくらいの愛着はあるので。
「そうか」
これで夏目はいなくなる。
ほっとしながらも、何故だか心臓の深いところがずぅんと重くなったときだった。
「あの曲は」
言いながら夏目がマリの両脇に手を差し込んで、まるで猫を持ちあげるみたいにみょーんと抱きあげた。
「ちょっ……」
「口うるさい女が王様と踊るときの曲で」
夏目と向かい合うような格好で左足の甲の上に立たされる。
地面に落ちている松葉杖を拾いあげ右腕にひっさげると、夏目の肩を掴むように指示をして、
「なにするのっ」
「基本の足型」
「べー……?」
「俺が動くから覚えて」
瞬間、夏目はマリを左足に乗せたまま動きだした。
マリの体重なんて一切無視して、背中から羽根が生えたようにふわりと動く。
途中で回転しながら、跳ねながら、道を突き進む。
「な、にこれっ……夏目、さんっ」
「足型構成はフォワード・ロック、ナチュラル・スピン・ターン、プログレッシブ・シャッセ挟んでフォワード・ロック、ナチュラル・ターンの繰り返し」
「そんなこと言われてもわからないっ」
「ダンス、踊りたかったんだろ」
何、それ。
夏目の言葉にどきりとした。
マリの気持ちが見透かされている。
「だ、だからって足の上に乗せてぶん回すのは違うでしょっ」
跳ねる鼓動をごまかすように憎まれ口を叩くが、夏目は一切表情を変えずに眠そうな目で進行方向を見ている。
脇道から現れた女性がぎょっとした顔で踊り続けるマリたちを見ていた。
恥ずかしさで顔から火がでそう……だったけれど。
「あは、あはは、すごいねえ夏目さん。羽根が生えてるみたいだよ、空飛んじゃいそうだよ」
「馬鹿言ってないで覚えろよ」
変人も変人。
不機嫌そうに目を細めて機敏に動く夏目の姿は、端から見れば相当に異様だろう。
それでも、道行く人全員が足を止めて見ていた。
おそらくマリも、夏目の上に乗っていなければあの群衆の一角で足を止めていたことだろう。
それくらい、夏目の踊っている姿は美しかったのだ。
この異様な景色が王宮のダンスホールに見えてしまうくらい。
思わず見とれてしまう、身に纏う圧倒的な世界観。
(もしかして、夏目さんってものすごいダンサーだったんじゃ)
とくとくと跳ねる心臓のリズムに心地よさを覚えていたとき、耳元から下手をすれば聞き漏らしてしまいそうなほどの小さい歌声が聞こえてきて拍動と重なった。
喉のあたりで少しごろつく、耳心地のいい重低音が意識の深いところを揺らして木霊する。
「On the clear understanding, That this kind of thing can happen. Shall we dance? Shall we dance? shall we dance?……」
「お前ら馬鹿なのか?」
夏目が目的地だと言ったのは木造平屋の一軒家だった。
引き戸をあけて中に入るなりへばって床に座り込んだ夏目を見て、奥から現れた五十代ほどの男性が開口一番吐き捨てた。
実を言うと目的地はマリが座り込んだ場所から二十メートルほどしか離れておらず、夏目のスタジオの端から端までくらいの距離しかなかったのだが。
マリを抱えてステップを踏んだ夏目は半死体というよりもほぼ死体となっていた。
「うるせえよ。ステップ小さくすればいけると思ったんだよ」
「お前ダンス辞めてもう五年だろ」
「四年」
「変わんねぇよ。なのに無茶やるからそうなるんだ」
〝お前ら〟とひとくくりにされたのは気に食わなかったが、マリも夏目は馬鹿だと思う(楽しんでいたことは棚にあげる)。
食事もまともに取っていない夏目があんな運動をしてただで済むわけがないのだ。
「で、ここどこなの?」
板張りの床に寝そべって濡れタオルを目元に載せている夏目のそばに丸椅子を置き、右足をぷらぷらさせながら訊いてみるが当然のように返答はない。
かわりに苦言を呈した人物の声が背中側からかかる。
「ここは岩井義肢装具製作所で俺が社長の岩井だ」
岩井と名乗った男性はがたいのいい、どちらかというと大工の親方という体格で、夏目より背は低いものの存在感は圧倒的に勝っていた。
ボケットがこれでもかとついているカーキー色のつなぎからは夏目同様石膏の匂いがした(それでも夏目ほど汚れてはいない)。
「そんでこいつが俺の弟子」
夏目の肩を壊す勢いで叩きながら岩井が言うと、濡れタオルの向こうから呻き声が漏れた。
「弟子になった覚えはねえ」
死に体のわりには突っ込みが早い。
岩井が笑顔のまま夏目の胸をぐりぐりと押すと、飛び起きて「痛てえよ、やめろ」と振り払った。
あの夏目がいいように操られている。
新鮮だ。
「お前は相変わらずだな。さっさと大学辞めて専門行け。あそこじゃ義肢装具士になれんぞ」
「別に。なる気ないんで」
「かわいげねぇな。十七でここに飛び込んできたときのほうがよっぽどいい子ちゃんだったぞ」
「いつの話してんだよ。道具、借りるからな」
濡れタオルを首にかけて夏目が立ちあがった。
不機嫌そうに「月島、こっち」と呼ぶので松葉杖でついていくと大きな作業台の上に持ってきた荷物を置いている。
三日前にマリの足から採取した陽性モデルだ。
「お前そこ」とマリのことも荷物扱いして夏目が丸椅子を指差した。
「夏目さんって大学でなんの勉強してるの?」
いらっとしつつも腰掛けながら訊ねる。
モグリの義肢装具士だと思っていたら、そもそも義肢装具士になれない大学に通っていたなんて。
そのくせ義肢装具士の弟子となると身元がまったくわからない。
「バイオメカトロニクス」
端的に答えて、夏目は陽性モデルの周りに貼りついている包帯剥がしに専念してしまった。
案の定というかなんというか、解説してくれる気はないらしい。
暇を持て余して岩井を探すと、向こうは向こうで似たような作業を行っている。
暇なのはどうやらマリだけのようだ。
仕方なく夏目の作業を見ていることにした。
足型から取りだしたばかりの陽性モデルは表面がでこぼこしているのでやすりを使って磨いていく(ラップにつけておいた印はちゃんと移っていた)。
……という作業も見飽きてしまい意味もなく視線を彷徨わせたところで、作業台の隅に押しやられていた元足型に気づいた。
真ん中に切り込みを入れて引っぺがされた石膏包帯は元の形に戻りたいのか切り口目指して丸まっている。
「足型の抜け殻、気になる?」
「は?」
抜け殻って何だ。
また突拍子もないことを言いだしたと呆れるマリの横を夏目の左腕が抜けていった。
石膏包帯の残骸を軽く持ちあげ、
「蝉の抜け殻みたいだろ」
何を言っているんだこの男は。
前々から思っていたが、感性が独特を通り越して変人の域だ。
(でも、言われてみれば……)
マリが足型の残骸に興味を移したときには夏目はすでに作業に戻っている。
なによ、自分から振ったくせに。
またしても暇になってしまったので、ちょっとだけ想像してみた。
背中にあいた真一文字の切り口から白くてぶよぶよの身体を押しだし、夜明けとともに大人になっていく。
外の世界に触れた身体は徐々にくすんで固くなっていき、かわりに透明の美しい翅と遠くまでよく響く声を手に入れる。
そして七日間の断末魔を終えると綺麗さっぱり死んでしまうのだ。
蝉が命を代金にして翅と声を手に入れたのだと思うと、海の魔女は手広く商売をやっているなあと感心する。
「よし、こんなもんか。次こっち」
もくもくと浮かびあがっていた妄想が夏目の声で遮断された。
足先から顔をあげるとマリを置いて別の作業台へ移動している。
机伝いにぴょんぴょん跳ねてそちらに向かうと、夏目は先ほど整えた足型を膝が上になるように設置していた。
そばにあった機械から透明の板を取りだして足型を覆うようにかぶせていく。
「それ何?」
「熱した樹脂。柔らかい」
とこれまた端的に答えて型に貼りつける。
熱が冷めるのを待って膝関節を装着するための土台を取りつけると、夏目が工房の一角を凝視したのでつられてマリもそちらを向いた。
金属の足が立てかけてあった。
「あれって」
夏目と初めて踊ったときの足だった。
ソケット部分は取り外され、膝から下だけになっている。
「祐介に運んでおいてもらった」
と言いながら手に取って土台と結合させていく。
「できた」
樹脂から陽性モデルを取り外すと、掠れた声で夏目が言った。
その瞳には、あのラムネ瓶のプリズムのような光がわずかに灯っている。
できたんだ、マリだけの足が。
途端にむず痒くなって夏目とよく似た仏頂面になってしまったが、それでもまっすぐに義足を見つめた。
「どれ、合わせて見ろ」
いつの間にかやってきていた岩井がソケットをさわって確認しながら夏目に促す。
工房に置いてあったライナーを借りてあの日のように支度する。
義足を装着すると手が引かれた。
「おい、平行棒使えって」
もっともな岩井の叱責を無視して両手を引いただけで立たされる。
しかし夏目作成の義足は前回と同様、驚くほどふわりとマリを支えた。
「違和感ある?」
「わかんないよそんなの。初めてなんだから」
しいて言えばすべてが違和感でしかない。
自分が二本足で立っているなんて。
この返答は夏目も予想外だったようで、ぽかんと口をあけたまま数秒考えたあと、膝の前にかがみ込んで短い足に触れていった。
「ここ、骨あるけどあたるか?」
「いや、なんも感じない」
「こっちは筋肉が張ってたけど窮屈な感じは?」
「言われたらちょっと狭い気もする」
「三十分後にまた訊く。それでも窮屈感が残っていたら修正する」
「あ、うん……」
いきなりまともになられてもそれはそれでどう対処していいかわからない。
仏頂面を維持したまま、淡々と訊いてくる夏目の質問に答えた。
「お嬢ちゃん、義足初めてなのか。傷は結構古そうだったが……」
真新しい人工膝をいじっている夏目の向こうから声がかかった。
視線をあげれば岩井が人のよさそうな笑みを浮かべて立っている。
きっと夏目なら「いつ切ったんだ」などとデリカシーのない聞き方をするが、岩井はちゃんと濁してくるあたり、足の切断がナイーブな話題だと理解しているようだ(そうでなければ義肢装具の会社なんてやっていけないだろう)。
「十年前です。五歳のとき」
「えっ、それから今までずっと義足なしで?」
「ええ、まあ」
責めこそしなかったが明らかに驚いた様子の岩井を尻目に、夏目はといえば「親寛大じゃねえか」と言っただけだった(これはおそらく、スマートフォンを割ったときに槙島がした質問への感想だろう)。
そこではたと気づいた。
いつ足を切断したのか、夏目は一度も訊かなかったことに。
実験に協力してくれればなんでもよかっただけなんだろうけれど……その無関心さが心地よかった。
足を切ったことで、世界の特別になんかなりたくなかったから。
「このあとちょっと歩くけど、歩き方覚えてる?」
「たぶん。リハビリでは足があると想定して左足も動かしてたし」
二足歩行を思いだしながら、両脇に設置した手すりで身体を支えつつ歩いてみる。
夏目が時折り歩行を止めて、膝の位置やバランスを確認。
調整して歩き、調整して歩き……。
足がどんどんと馴染んでいく。
松葉杖で歩くときのような視界の上下もなく、ある一定の高さで固定された世界はかなり広がって見えた。
踊っているときは夏目しか見えなかったのに、平行棒を一人で歩くと目の前が開けすぎていて急に不安になった。
しかし視線を下げれば、マリの進行方向でしゃがみ込んで、じっと膝を見つめている夏目がいる。
灰色の視線は背筋をむず痒くしたけれど、同時に鼓動も早くした。
心臓のリズムに合わせて足を動かす。
1、2、3、1、2、3。
ワルツのステップのようにカウントが爆ぜる。
七月十三日。
こうしてマリの初めての義足が完成した。
記念に足型の抜け殻をもらった。
さわると石膏が手について白くなるので、制服が汚れないように紙袋へしまう。
松葉杖で両手が塞がっているので手首に袋を引っかけたのだが、杖先が地面につくたびに大きく揺れてしまって擦れて壊れるのではないかとひやひやした。
あまりにも袋の中ばかり覗き込んでいたので、横から伸びてきた手が袋をかっさらっい「こんなの何に使うんだよ」と呆れた声をあげながら持ってくれた。
「デコるんです、JKですから」
「あっそ」
乙女心の機微に無頓着な夏目をからかってやろうと偏見を持ってイメージした女子高生像をさらに強調して言ってみたのだが、なまじ本気にしていそうな答えが返ってきて仕掛けたこちらが絶句した。
いくら女子高生と無縁な夏目でも、これが嘘だってことくらいわかるよね?
真意を探ろうと顔を覗き込んでみたがいつも通りのポーカーフェイスがあるだけだ。
(ま、いっか)
夏目が女子高生という生き物を変な方向に理解したとして、今はそんなのどうでもよくなっていた。
夏目が肩に担いでいる義足を見あげ、青灰色の夕闇を反射するボディににやにやする。
角からでてきた老婆が神輿のように担がれた足を見て「ぎゃっ」と悲鳴をあげたがそれすらもなんとなく誇らしくて。
足が二本あったら老婆の周りをスキップしていたかもしれない。
せっかく完成した義足だが、今日は夏目が大学に持っていってプログラムの微調整をするんだとか。
残念な気もしたが、マリはダンスを踊るとき以外義足をつけるつもりはなかったので別段困らない。
どうせ元通りに動かないのなら、片足での生き方を模索するほうが潔い気がして好きなのだ。
だから――義足は、夏目の腕の中でしか使わない。
あの中でだけは、両足があった頃よりも自由に動けるから。
夏目と別れ車椅子で帰宅する道すがら、この前までテナント募集をしていた店舗が新規オープンしていた。
ショーウィンドウにはカラフルな靴がディスプレイされている。
(靴屋になったんだ、ここ)
今までだったら自分に無縁な店がまた増えたと不機嫌になるところだったが、今日のマリは少しだけ上機嫌だ。
コンバースのスニーカーにニューバランス、夏にはどう考えても不向きなぼてっとしたフォルムのブーツ、あっクロスストラップのサンダルはラムネ色で結構好きかも。
そこでふと、エナメル地のハイヒールが意識の端でちらついた。
あんなピンヒールは……置いていないな。
ダンス用の靴は専門店にしかないのかもしれない。
ちりりん、とドアベルの音がした。
店の中から前方不注意のまま男性が一人飛びだしてきて、ショーウィンドウ前に車椅子で陣取っていたマリとぶつかった。
マリの膝の上に身投げするような格好になった男性が「うわ、すみません」と慌てた様子で手をついて上体を持ちあげた。
マリはと言えば男性が手をついた場所を凝視していた。
本来であれば女子高生のありがたい左太股があるはずの位置。
しかし男性が触れているのは近代工学の髄を集めた衝撃吸収クッションだ。
(ばれたっ……)
足がないくせに靴屋を眺めていたことが急に恥ずかしくなった。
逃げたい気持ちだったが男性が膝のあたりでまごついているのでそれも叶わない。
混乱する頭で何か言い訳をしなければと必死に思考を巡らせていたとき、
「あれ、マリちゃん? こんなところで会うなんて奇遇だね」
聞き覚えのある声がして膝から顔をあげる。
至近距離にあった顔は見知った顔だった。
「タカヒロさん?」
柔和な笑みを見せた男性はマリがいつも通っている美容室のスタイリストだった。
車椅子でも嫌な顔一つせず、他の客と同じように扱ってくれる。
足がないことを知っている人でよかったと思う反面、美容師特有のきらきらしたオーラに居心地の悪さを覚える。
「あの、近い」
「おっと、ごめんごめん」
ぱっと離れたタカヒロがマリの前にしゃがみ込んだ。
「マリちゃんも買い物?」
胸に抱きしめていた紙袋を見ながらタカヒロが訊いた。
まさか中に入っているのが足型の抜け殻だとは思うまい。
説明するのも恥ずかしかったので「そんなところです」と合わせると、タカヒロが「僕もだよ」と応じて手に持っていたビニール袋を掲げた。
「仕事用のスニーカーを買いに来たんだ。マリちゃんはサンダルかな。この色好きでしょ?」
ショーウィンドウに飾られていたラムネ色のサンダルを指差したのでびっくりして息が止まった。
なんでばれたのか。
美容師はこういう機微に聡くて苦手だ。
「違いますよ。靴は安いスニーカーでいいんです。どうせ半分捨てるんだから」
かわいげない言い方をしたが相手は客商売百戦錬磨の美容師だ。
笑顔を崩さずビニール袋の中に手を突っ込んで、
「そうだ、そんなマリちゃんにいいものあげるよ。手だして」
促されるまま差しだすとマリの手のひらに何かが落ちた。
カラフルな靴紐だった。
「おまけでもらったんだけど僕は使わないからさ。これなら二本あっても別の靴に使えるし、何よりその白いスニーカーがかわいくなる」
タカヒロが指差した先にはマリの無機質なスニーカーがある。
ここ最近は松葉杖使用の厳命を王様より拝していたのでスニーカーを使っていた。
「ね?」
「でも悪い」
と言うマリの手を外側から握り込んでタカヒロが靴紐を握らせた。
「お礼はまた美容室で指名してくれればいいからさ。靴紐に負けないくらいかわいくするよ」
「……じゃあ、いただきます」
ここで断るのも失礼な気がした。
靴紐を受け取るとタカヒロが満面の笑みを向けてきて、もう許容量オーバーだった。
赤くなった顔をごまかすようにお礼を述べると最大速度で逃げ帰る。
帰宅後、ベッドから見える位置に足型の抜け殻と靴紐を飾った。
学習机のランドセル置き場だ。
中学に入ってからは大理石っぽい見た目のローテーブルを買ってもらったのでしばらく使っていなかった。
小学校で時が止まったままの学習机には『卒業おめでとう』と書いてある学級新聞と『三年生のみんなへ』と題された保健だよりが張られたままだ。
ここ何年も視界に入らなかった保健だよりを見ながら、ああそうか、と急に腑に落ちた。
夏目はどこかあの保健医と似ているのだ。
マリを特別扱いしないどころか、ちゃんと邪険に扱ってくれる緩さ加減が。
自然体でいてもいいのだと思える、あの縛りのないスタジオは心地いい。
あの空間では誰もが自由で、誰もがちょっとおかしくて、だから誰も何も気にしないのだ。
今日はちょっとだけいい日だった気がする、と布団に身体を投げだしてごろごろと転がりながら、時折り視界に入る抜け殻たちを眺めた。
ふと思いついて寝返りを打ち、枕元に置いてある本棚からノートとシャープペンシル、分厚くて一生使う予定のなかった英和辞書とCDを一枚引っ張りだす。
CDは映画の名曲サウンドトラック。
中から歌詞カードを取りだして数ページめくると英語で書かれたページがでてきた。
シャルウィダンスのあの曲だ。
昔お婆ちゃんに買ってもらったCDだったが不親切にも日本語訳が書いておらず、意味が理解できなかったので本棚の肥やしになっていた。
慣れない英和辞書をぱらぱらとめくり、冒頭から翻訳を試みる。
インターネットで検索すれば一発で出るのだろうが、夏目がすんなりと英語で歌ったのが気に食わなかったので。
「ええっと……わたしたち、は、自己紹介を、した、ばかり。あなたのことを、知らない……ちがう、よく、知らない、だ。……だけど、音楽、始まった、ら……かな? ……何かが、引き寄せた、あなたのそばに……」
そのうちにだんだんと瞼が重くなっていき、一つ深い呼吸を満足げに吐いたときには、ほどよい気だるさの中で眠りについていた。