【耳かきジョニーの事件メモ】耳とブロンズベリーの夜

「頼むよ。夜も寝られない」と懇願され客先に出向くと天井にびっしり耳朶《みみたぶ》が生えていた。
「夕方までにやってくれ。金は幾らでも出す」
依頼人は涙目で頭を下げた。

「わかった」

耳掃除職人のジョニー黒柳は聴診器の駆除を副業にしている。シュッとした細マッチョな身体をパリッとしたワイシャツとチノパンでつつみボサ髪と視点は常に明後日を向いている。薄ら笑みを絶やさず、誤った好感を与えている。
それが救いだ。キモ善人と遠巻きに評する者もいる。

客の男は土浦厳と言った。BMI高め。壁のある街から来た男と称しているが素性は誰も知らない。
仮名らしい事は向かいのピアノ屋から聞いた。
黒柳にとっては来歴より金払いが問題だった。
黒柳は暇なピアノ職人の噂話に生返事をしながら天井に昇った。
すると耳朶がピクピクと震えて何かアピールしていた。

黒柳はジョセフソン綿棒にジャム醤油を浸して掃除にとりかかったが耳朶はそれをはたき返した。
「お前、何か言いたいことがあるのか?」
子犬サイズの耳朶は「みょーん」、と産毛を逆立てた。
「事情はわかった」

黒柳は綿棒を片付けた。そして梯子を下り「今日は仕事にならない」と職人に嘘をついた。
夕方に土浦が血相を変えて文句を言いに来た。
「耳朶を一掃してくれる約束じゃないか!」
黒柳は「この話はなかったことにしてくれ」と金を返した。
「どういうことだってばよ」
なおもつっかかる土浦。
黒柳は話を促す。
「…ピアノ屋に言ったじゃないか。耳朶をなくさないためを頼んだ」

土浦は耳を疑う。「何をわけがわからない言い訳をしているんだ。料金の倍を払う。お願いだ。俺の寝室から耳朶を一掃してくれ。俺は眠いんだ」

そりゃそうだ。耳朶に好かれた者は産毛の子守歌で非業の衰弱死を遂げる。
もともとは壁のない街で造られたとも黒の迷宮から飛来したともいわれる。同じ昔話を繰り返す老婆や未亡人の聞き役に徹する機能があるという。
いずれにせよ男だけの街には無用の長物だ。
だから土浦が気味悪がっている。なぜ自宅を耳朶の巣にされたのか。

「悪いが耳朶から事情を聞いちまったんだ。お前はピアノ屋と結託して
終わりのないピアニカ演奏をさせるつもりだろ? 俺は騙されないぞ」
「そんなことはない。俺はただ、自分の耳のピアスホールを塞ぎたいだけだ」
「そうか、じゃあ明日もう一度来る」
黒柳はそれだけ言うと帰って行った。
翌日、黒柳は再び土浦の家を訪れた。
「どうしたんだ?」
「いや、昨日の話だが、耳の穴を塞ぐだけなら何もピアノ屋の手を借りる必要はないんじゃないかと思ってね」
「なんだって!?」
「つまりさ、穴が空いている耳に、別のものを詰めればいいんだよ」
黒柳は鞄から大きな白い紙袋を取り出した。中には黒い物体が入っていた。それはボールのような台所虫《ジワム》の死骸だった。
「これなんかいいんじゃねえかな。ちょっと手触りが違うけど……」
黒柳が色つやのよい個体を取り出した。

「何言ってるかわかんねぇよ! こんなもん入れるくらいなら自分でやるわ!!」
土浦は絶叫する。
黒柳はジワム入りの紙袋を仕舞った。
「そうか。だが料金はいただくぜ」
土浦は「は?」と耳を疑う。耳朶の駆除をするまで払えないと耳を貸さない。
そこで耳に胼胝ができるほど黒柳は道理を説いた。
「ちぇっ。耳に痛い話だ。2倍だったな」
「耳をそろえて払ってもらおう。出張費は込みにしといてやる。まいどあり」
黒柳は領収証と明細票を渡した。

それから一ヶ月後、黒柳はピアノ屋の主人と一緒に土浦の家に呼ばれた。
二人は部屋に入るなり仰天した。
ピアノは調律され、鍵盤蓋も閉じられていた。
土浦のピアス穴はすっかり塞がっていた。
しかし部屋の中はまるで地獄絵図だった。床には大量の耳垢が落ちていた。それらは乾燥し、小山のように積み重なっていた。
足の踏み場もない。
「これはひどい」
黒柳は呟いた。壁に人型のシミがついている。耳をそばだてている様だ。

「だろう? こいつらのせいで毎日掃除してもきりがない。もう疲れちまってなぁ」
ピアノ屋は頭を掻いて溜息をつく。
「それで、こいつは一体なんなんだ?」
黒柳は山のような耳垢を指差す。
「わからん。気がついたら増えてるんだ」
「なるほど、よくわかった」
黒柳はピアノの下に潜り込み、耳掻きで耳垢をかき出した。
そして床下収納庫を見つけると耳掻きの先端を差し込んだ。
「おい、まさか……!」

「そのまさかだよ」黒柳は床下の耳垢にジャム醤油を流し込む。
耳垢はみるみる溶けて液体になり、収納庫を満たした。
「よし、これで大丈夫だ。あとは水洗いすれば綺麗になるぜ」
黒柳は立ち上がり、二人に背を向けた。
「あんたらは運がいい。耳朶の虜にされたら死ぬところだった」
黒柳は料金を請求した。従業員一人分の月給に相当する額だ。それでも命を買うよりは安い。ピアノ屋が金貨で立て替え払いした。
「まいどあり」
「こちらこそありがとう。あんたのおかげで助かったよ」
「また何かあったらよろしく頼むよ」
土浦とピアノ屋の声を聞きながら、黒柳は悠々と去って行く。
耳朶がすっかり消えちまったところを見ると、ピアノ屋のパワープレイが奏功したのだろう。愛の巣は二人に乗っ取られたのだ。
「耳朶が結ぶ赤糸か。俺にも耳寄りな話はないかな」
黒柳は独り言ちる。
それにしても腑に落ちない点がたくさんある。そもそも土浦はなぜ耳にピアスの穴をあけようとしたのか。それに耳朶は婦女子の聞き役だ。土浦はピアノ職人と(誰がどう見ても)ゲイの関係にある。筋が通らない。
考えているうちに夜になった。
聴診器退治の仕事に出かける時間だ。どうもピアノ屋を通じて評判が広まったらしく黒柳のもとに依頼が舞い込んでいた。黒柳は仕事道具の詰まった鞄を提げて街に出た。
* * *
仕事を終え、自宅に帰る途中のことだった。
黒柳は急に喉が渇いて自販機を探し始めた。そしてふと思い立って、いつもと反対方向の電車に乗り継いだ。
黒柳の耳は特別製なので他の人と同じように自販機を探すことは滅多にしない。
硬貨を財布から摘み上げて投入口に投げ入れるなど考えられないからだ。だが今日に限って黒柳の耳は別のものを求めていた。
耳が求める音とは即ち耳障りだ。人の耳は雑音を好まないが、逆に言えば耳障りなものこそ真実だと思っている。

例えば音楽や歌声、あるいは楽器の演奏や演説は、人が生業とするに値しない雑音だ。そんなものに金を出してまで聴き入るのは時間の無駄であるばかりか人生の浪費でしかないと考えている。
だから黒柳の耳は普通の人とは違う。目的の駅で降りる。そこはいわゆる壁のある街の郊外だった。
駅前に人気はなかったがすぐに見つけることが出来た。自販機コーナーがあったので缶コーヒーを買い求めベンチに腰を下ろしてプルタブを外した時、耳がピンと立った。
耳の奥が痺れるような感じだった。黒柳の鼓膜は特殊な形状をしていて、壁一枚で隔てられた場所から放たれた声も聞こえるようになっている。そしてこの壁の向こう側は「壁のない街」と呼ばれている街だった。黒柳は壁に耳を当てた。するとかすかにだが会話の内容が聞こえてきた。壁の薄いアパートからだろうか。「壁のない街」の住民は大抵壁のない部屋に住んでいる。

この世界では壁がないので防音の心配はない。その代わり壁の厚い家を建てる事は出来ない。そして壁のない街の人々はみな壁のない家に暮らすことを良しとしているようだった。
壁のない家がもたらす恩恵には二種類あった。
ひとつめが隣人の囁き声、そして二つ目が耳が拾ったあの音の正体だ。
壁のない街に住む人々が耳栓を常用する理由はここにあった。

彼らは壁のない街の住人同士、顔も合わせずに内緒話を楽しんでいるのだ。「壁のない街」は秘密主義に満ちている。

しかし壁のある世界の人間にはそれがわからない。
「壁」を媒介しないと言葉を交わす事さえままならないというのに、壁のない人間は自分たちだけ意思の疎通が出来ているという妄想に浸っているのだ。

黒柳の耳には壁の中の会話の断片が飛び込んできた。
「今度の選挙、誰に入れるか決めた?」
「俺は山田さんだな」
「あ、そう。私は××さんね」
(壁がないのだから投票用紙に書かれた名前に耳を寄せる必要もないのに。馬鹿らしい……)」
黒柳はそう思ったが、同時にこう思う。
もし自分にとって都合の良い人間が当選したら、自分は耳で聞き分けようとするのではないか?
黒柳は首を横に振って雑念を振り払った。
くだらん想像をしている暇があるなら、耳で壁のない住人たちを観察する事にしよう。凡人の聴覚では知りえない秘密を聞いてしまったのだ。高く売れる。
彼は耳が拾った情報を元に黒柳は推理を組み立てることにした。
「さあ、今夜は忙しくなるぞ……」

黒柳は耳で聞いて得た情報を整理して、自分の推理とすり合わせることにした。
まず候補者の名前。それから性別、年代、経歴などをメモしておき後々分析する事にする。そして最後に壁越しに聞いた、壁のない部屋の中で響く、心地良いとは決していえない「音」を脳裏に浮かべながら手帳にペンを走らせる。
耳栓の用意だけはしておいた。耳栓なしではこの音がいつまでも頭に残って仕事に支障をきたしそうだと思った。
数日後。再び黒柳は「壁のない街」を訪れた。黒柳は先日耳に入ってきた音を何度も頭のなかで繰り返し再生しながら、壁のない部屋を訪ね、壁のない住人に話を聞くことを繰り返した。そして黒柳はある仮説に行き着いた。黒柳の耳には壁を通してでも、他人の心を読み取る能力が宿っているということだ。その証拠が、この壁の内側にいる男だ。
深淵を盗み聞きする者は深淵に盗聴される。
黒柳の存在はすぐ察知された。そこで仕方なく彼らと紳士協定を結んだ。

「ねえ、最近どうしたの?」

壁の向こう側から女が尋ねた。黒柳が「どうもしないよ」と答える。しかし黒柳の心には「早くこの場から立ち去りたい」という考えしか存在していなかった。
それを知る術もないくせに「どうして?」と質問を続ける女性の声を聞いて黒柳の背中から冷や汗が流れ出た。
黒柳は「じゃあ、そういう事で」と早口でまくし立てるように言うと、その場から逃げ出した。

女性はしばらく沈黙した後、「何なのよ……」と毒づいた。
黒柳の鼓膜は女性の舌打ちを確かに捉えた。それはまるで直接耳に息を吹きかけられたかのように、黒柳は鳥肌を立て震え上がった。

これが何を意味するのか、黒柳はまだ気付いていなかった。

さらに一週間後の夜、黒柳は再び壁のない部屋に居座っていた。耳を壁に寄せて目を閉じる。
黒柳の意識は深い瞑想状態に入っていた。
「黒柳さーん、黒柳先生」。壁のない部屋の主と思われる男性と若い女性の声が響いてくる。その声で我に返る。
「えっ!?」
黒柳が驚く。いつの間にか寝ていたようだ。
黒柳の耳には男女二人の話し声が入ってくるが、何を言っているのか理解できなかった。
壁の無い街の言葉と壁のある街の言語が入り混じって聞こえた。壁がなくても、言葉は伝わるのだ。
しかし黒柳は壁がないおかげで耳栓の世話にならなかった。
耳栓をつけてしまうと耳が塞がれてしまい肝心の話を聞くことが出来なくなる。
耳栓をつけた状態で会話が出来るようになるまでには時間がかかるし、慣れるまでに相当な労力を要した。
「ああ、失礼」
黒柳が目を擦り起き上がる。

壁がないおかげで、こうして睡眠を取る事が出来るようになったのだから文句は言えないが、それでも不便なのは確かだ。
「どう?何か分かった?」
黒柳が聞く。
「いい加減教えてくださいよぉ」
若い女性が不満げに呟いた。
「もう、うるさいなぁ……わかったよ。教えるから」
男性は溜息混じりに答えた。黒柳は自分の予想通りだった事を知った。「じゃ、お願い」
男性が「はい、はい」と面倒くさそうに返事をする。
黒柳が息を飲む。心臓が高鳴る。鼓動の速度が上がっていくのを感じた。そして彼は語り始めた。
「壁の中にいるのにどうやって声を届かせるかだって?」
男は鼻で笑った。
「そんな簡単なことがどうして分からないんだ」
黒柳が黙った。「俺たちはね、壁に話しかけているんだよ」
「どういう事だい」
黒柳が尋ねる。
「あんたには見えないだろうけどね、この部屋にも窓くらいある。もちろん壁なんて無いけどね。その向こうには『外』が広がっている。壁が邪魔しない分、『外』はずっと遠くにある」
黒柳は男の言葉を疑うことなく受け入れて聞いていた。壁の存在しない世界が存在するということ。
そして壁のある世界で暮らしている人間たちは壁の存在を忘れ去ってしまうことがあるという事。
黒柳の耳にもそんな話は伝わってきた。しかし実際に目にするまで信じられなかった。だから黒柳の目は真実を求めていた。この世界の秘密を知りたいと、壁のない街の人間の言葉を信じようと決めた。
「壁の向こう側、つまりこの壁の向こう側にね」
男が壁の向こう側の風景を指差す。そこには空があった。
「空が」黒柳は言った。
「壁の外にはね」男は続ける。
「雲が流れているんだ」壁の外側では雨が降っていて風が強くて雷がなっているのだという。壁がある街に住む人間の常識を揺るがせるには充分だった。
「そしてあの雷の音だ。俺にはこの壁には防音機能なんか備わっちゃいないって聞こえるのさ。あの音が耳を伝って鼓膜を振るわせる。そして壁に反射して増幅され、この部屋を包む」
そうか、そういうことなのか…… !
黒柳の身体に衝撃が走った。
壁の内側に居る人間に壁の存在を思い出させる為に必要なのは壁を振動させる事だ、という事が分かったからだ。そしてそれを成しているのは、あの雷の響きに違いないのだ。
「じゃあ、あの雷は……」黒柳の思考回路に電撃が走り抜けた。
「壁の中にある街に向かって、鳴り続けているという事なんだね」
「ま、そんなとこだ」と壁のない街の住人である彼が答えた。黒柳が壁の内側の世界に戻って来た時、彼の鼓膜は激しい雷の音に満たされていた。鼓膜を震わせ脳天に突き抜けるその音色は壁の中の人間に現実感を取り戻させてくれた。壁の中の住人たちの表情に活きが戻ってきた。黒柳は自分が導き出した仮説が正しいのかどうかを確かめるべく、再び壁に耳を押し当てるのだった。
「わかったぞ! 土浦の部屋に耳朶が生えた理由が!ピアノ屋と土浦の関係が!土浦が耳にピアス穴をあけようとした理由が!すべてはここから始まった」

彼は壁の内部に居座りながら、耳を研ぎ澄ませているのだった。

そして彼は遂に確信を得た。「やっぱりそうだったのか」彼は嬉しそうに独りごちた。壁の内部に住む人間が発する音を耳にすることで、自分の推理を裏付ける証拠を手に入れることが出来た。

これで謎はすべて解けた、あとはその証明だけだ。彼は「よし」と言って、鞄を漁った。壁の内に存在する物質ならどんな物であろうとも壁の中に取り込む事ができる特殊なペンを取りだし、紙と筆記用具を取り出し、書き始める。そして耳を澄ませたままペンを滑らせるのだった。壁のある部屋の中からは耳栓をしている黒柳には何も聞こえないはずだ。だからといって黒柳の行為を止める者は居ないだろう。

彼は「壁の内側で耳を澄ませる者」なのかもしれないのだから……

黒柳が「仕事」を終え帰宅しようとした時に事件は起こった。黒柳の住むマンションの玄関ロビーに若い女の姿が見えた。黒柳は一瞬、見間違えではないかと思ったがすぐに駆け寄り声をかけた。「どうしたんです? こんな時間に」

「あのぅ、黒柳先生ですよねぇ」

黒柳が「そうですけど……」と答えると、彼女はホッとしたような顔をしたように見えたのだが、黒柳は彼女の顔を見て、背筋に悪寒が走るのを覚えた。何故だかわからないが、彼女に恐怖を感じているようであった。「よかったぁ」

彼女は笑顔を見せた。だがそれが作り物であることは明白であった。「黒柳せんせ、私の部屋まで案内してください」

彼女が甘えた声で黒柳の腕を引っ張る。「なっ、何を言うんです!」

突然の出来事に黒柳は狼籍した。黒柳が彼女から腕を振り払う。
「あらぁ、冷たいですね」と不満げに漏らすが、それでも諦めきれないようで黒柳にしがみついた。
「離してください」
「どうしてですかぁ?」
「とにかく、駄目なものは駄目だ。俺は帰るんだ」
黒柳は必死の形相だ。
「私、何もしませんからぁ」彼女は猫撫で声で言ったが、黒柳は聞く耳を持たないといった感じだ。すると、彼女の表情が豹変した。黒柳は本能的に危機を察知した。

逃げなければ、この女は危険だ、と頭の中で警鐘が鳴った。

しかし遅かった。気が付くと目の前から彼女の姿が消えていた。辺りを見回しても何処にも見当たらない。まるで煙が消えるように消えてしまったのだ。

幻覚だろうか? それとも…… 嫌なことばかり思い浮かぶ。

いや待てよ。

黒柳の脳裏に浮かんだのは、あの男の顔。
土浦の部屋に現れた謎の男…… あの男が今ここに居れば…… 黒柳は壁に張り付いた。
目を閉じて耳を壁に密着させた。
目を閉じた事で視覚以外の感覚神経に刺激を与え壁の気配を読み取ろうというのだ。

黒柳の額から冷や汗が流れた。
黒柳の身体に鳥肌が立った。壁に手を這わせた。
黒柳の全身が震えていた。心臓の鼓動は速まり、その鼓動は黒柳に苦痛を与えるほどだった。

しかし彼は壁を放そうとしなかった。

そしてついに、壁を探り当てる事に成功した。

黒柳はゆっくりと目を開いた。そこにはあの日見たのと同じ、あの男が立っていた。やはり間違いはなかった。彼は実在していたのだった。

男は黒柳と目が合うと、口元に笑みを浮かべた。黒柳は驚きのあまり目を剥いた。彼は何食わぬ様子でこう言うのだ。

お前が聞きたがっていた壁の向こう側で起こった事件を話しに来た、と……。

黒柳が男を連れて部屋に帰ると、壁の穴からは耳が生えてきていた。

壁の外の街から流れ込んできた耳のようだ。
黒柳の耳にその声が届いた。耳は囁くように語りかけてくる。耳が黒柳に話しかけてきたのだった。
耳の発している言葉は、壁のない街の人間の言語ではなかったが、何を言っているのか理解出来た。壁の内側に住む人間が壁の存在を認識する事によって生まれる新たな能力なのだという事を黒柳は知った。

耳が語ったところによると……壁の向こう側では激しい嵐が巻き起こっているらしい。それは凄まじいものだったという。その勢いたるや、壁を震わせるほどであったというのだ。その音は当然のように黒柳たちの居る街にも響いてきて、壁の無い部屋を包んだという。
そして壁のない街の人々にとって壁とはあって当たり前のものだったので、彼らはそれに気付かなかった。

しかし、そこに在る筈の壁が無いとわかるとその衝撃的な事実に気付いたのだという。

黒柳が耳から得た情報をそのまま話そうとすると男が遮った。耳は壁に穴を穿つほどのエネルギーを持っているが同時に繊細でもあるので扱いに困るそうだ。

だから今はこの耳についての説明は後にしたい、と言った。男は壁に手を当てると壁の中に沈んでいった。

黒柳は慌てて壁に耳を押し当てた。そこにはいつもと違う音があった。何かが振動するような、音が響く音が聴こえるような気がした。この壁の奥には街が、壁の無い世界が広がっている。黒柳は感動を覚えた。この壁こそが壁の存在証明となるのだ。

そしてこの音が耳を伝って黒柳に届けばいい。そうすれば壁のある街の人間たちは、自分達が住む街の異常事態を知ることになる。耳を通して黒柳の声が届けられればそれで解決だ。

耳がある部屋で壁の存在を思い出す事ができた。黒柳は安堵感に包まれた。だが、耳はまだ語り続けた。

壁が振動して壁の存在を認識しているのなら、耳の存在を忘れて壁に話しかけ続ける人間は耳が振動する音を聞けていないということになる。

そうなってしまうと、耳の存在を忘れられて耳を無くしてしまうのではないか? という疑問が生まれた。

その心配はあった。現にある部屋に生えているはずの耳に呼びかけても返答は無かったのだという…… そこで、あの男が現れたのだと、耳はある部屋に潜む何者かの視線を感じて恐怖に怯えていたというのだった……。


「土浦は今日も出勤して来なかった」
彼の上司と名乗る男が訪ねてきた。黒柳は俺も消息が知りたい、と返した。

「土浦はどこへ消えた? どうもひっかかる。それにあの耳垢。あれは耳朶が出したものだ。防衛本能で耳を塞ごうとした…ということはよほどうるさかったんだろう。耳朶が聞きたくない音とは何だ? やはりピアノの騒音か。となると、あの壁にシミを残した男はまた現れる。あいつがピアノを弾いたんだ。このままだとピアノ屋の命が危ない」

「俺も同じ事を考えていた。あの男の狙いは土浦とピアノ屋を殺すことなのかもな。壁のない街の住人であるピアノ屋は壁を震わせ壁のある街に警告を発する事が出来るのだからな」黒柳が答える。

「じゃあ、やっぱりあの壁は……」
「そう、あのピアノ屋の部屋にだけ出現したのではない。この街に存在する全ての家に出現しているのだろう」

ピアノ屋は、黒柳が土浦を問い詰めた時に言おうとしていた事は、これだったんだな、と思った。そして、これは大変な事になったと、黒柳が呟いた。

数日後、土浦とピアノ屋は耳栓をして街に出た。
二人の耳にはあの時、黒柳が持参したジワムが詰まっていた。
その知らせは黒柳の地獄耳に入った。

夜も更けるころ、黒柳はピアノが置いてある店に戻っていた。

「あんたの店も街も大変なことになってる」

店主はすぐに来たが「あのピアノがあったから来たんだよ。耳朶を出したくなかったら力を貸してくれ」と言って、ピアノを弾かせてくれと言ってきたのだった。黒柳は「耳」と言う言葉で壁のことを思い出したが、すぐに耳の事を思い出した。

しかし彼は「駄目だ」と答えた。耳の事を話すと「壁」という単語が出てきそうになるからだった。

「おい、ジョニー。どういうつもりなんだ。まさかお前、耳朶の…」
店主は耳を疑いながら接客を始めた。ピアノ屋常連の朝は早い。
ピアノ生演奏に合わせて町民がエクササイズする風習のせいでやたら忙しい。

黒柳は「ああ、耳朶は無くすべきだろ」と言うが客も客で「金、幾らだ。幾ら貰ったんだ」と言い出した。
黒柳は「雇われて嫌がらせに来たんじゃねぇ! 町が襲われるんだぞ!
ああもう、わかった。ピアノじゃなくてギターで演奏しろ」と言った。
ピアノ屋のピアニストはどうやらあのピアノの事を知らないらしい。
「ああ。もう体操が始まっちまうだろうが!」
店主は慌てふためいた。ピアノ屋の近隣住民が勢ぞろいする。
その間、ピアニストは、「ダンスミュージックをギターで? 曲芸しろってかよ」と言うので黒柳は、「誰かを呼んで演奏すればよかったのに」と言った。
しばらくしてやってきた店主は、「ピアノで良い。ピアノなら誰も労力を使わない」と言う。
演奏は出来ないのかと黒柳は聞いたが「ギターも弾けないし、ピアノの音色を聴こう」と言うので耳朶をかき回した。

「ねーえー、陽が高くなっちゃうじゃない~」
タイツ姿の女性陣が額に汗をにじませる。
店長が舌打ちしてつり銭箱に手を突っこんだ。
そしてピアニストの手に幾らか握らせた。
「おい、やめろ。死にたいのか?」
黒柳の制止もきかず、演奏を始める。
するとブーイングが巻き起こる。
「なんだ、あのピアノ。金払いも良いと言ったばかりだろうに」
ピアニストはお払い箱になった。
店主はあらためて「ピアノの弾き手を探しているんだが」と群衆に言ったが黒柳はそれとは別に
「ピアノ以外が弾けて、金を払うに値するピアニストは?」と聞いた。

するとさっきのピアニストは「もっと価値のあるものを弾かせてくれれば、金を支払う価値が出るね」と言う。
「この野郎。わざと下手弾いたのか。金欲しさに」
黒柳が殴りかかると店長が仲裁した。
「ピアノの演奏を聞かせてくれ、耳朶は消えてしまうように」と売り言葉に乗って叫んでいると「なんて事言うんだ。どいつもこいつも」と言ってピアノ職人が店を飛び出した。
「そうか! そういうことか! ゲスどもが揃いも揃って!芸術より金かよ」
黒柳は怒り心頭だった。ピアノ屋は土浦の天井に耳朶を養殖していたのだ。
もちろん内緒で。薄々感づいてはいたが確証が乏しかった。
「だから黒柳先生を巻き込んだんですね」
壁の中から女の声がした。
「ああ、そうさ。このやっかいな政治《まつりごと》にな!」
黒柳は店に舞い戻った、ピアノ屋はまだエクササイズを催そうと粘っていた。
そりゃそうだ。野次馬が集まっている。またとない宣伝の機会だ。
黒柳は店主をじっと見た。
ピアノ屋はピアノの前に座って耳朶の除去をやっていたのだ。
黒柳は「どういう事だ?」と声をかけると男は黙って「ピアノの弾き手を探しているんだ。金は払わないといけないかな?」と言った。
黒柳はピアノを弾きながら聞いた。
「テロを起こしたいんならな。シミの男を煽れとセンセイに言われただろう」
するとピアノ男は「お前は山田さんの何なんだ?」という。
「それはこっちの台詞だ。あんたが公設秘書だって壁の街で聞いちまった」
「なん…だと?」
「対立候補の鳩尾《はとしも》議員を嵌めるためだ。壁の外で虐殺が起きれば外患になる。軍靴が鳴り響いて反戦派の山田が潤う。ピアニストのギャラは文書通信費から出る。シミの男が黙っちゃいないだろ」
「そんなことをしたらセンセイの政治生命が終わってしまう。あほか!」
「鳩尾のせいにすればいい。リベラル多数決党の黒いうわさが本当になる」
「……」
黒柳はポロンとピアノをつま弾いた。
「ピアニストは金をもらっていい。そのピアノの弾き手はピアノ職人だ。
金を払ってもいい」
そうすることで政治資金の流れは断ち切られ陰謀が未遂に終わる。
黒柳はまた「ピアノの弾き手はピアノ職人だ。
金を払ってもいいと言うのはピアニストで金を払っていないピアノ職人だ。
金は払わないといけない」と言った。

ピアノ店主は黙り、黒柳はピアノから離れた。
男はまたピアノを弾き始めた。
黒柳はただピアノ店主を眺めていた。

話が終わり店主が帰りながらピアノ職人に近づいた。

「あいつはろくにピアノが弾けない。調律は出来てもピアニストじゃない」
店長は聴衆が「ピアノ職人の演奏」を聞いてしまうと言う。
「だがピアノ愛は誰より謡えるよな?」
黒柳が詰め寄った。
ピアノの弾き手を誰に頼むのか聞くと店長はピアノ職人に金を払うと言う。

黒柳は名曲「誰ぞ弾く」を歌い始めた。

♪ピアノ男がピアノの弾き手を探しているのです。
金は払わないといけないね♪

黒柳はピアノ男を思い返した。

♪ピアノの奏でる音が、鍵盤の上に舞い、ピアノの奏でる音色が、響き、ピアノの音が、演奏したい気分を盛り立てている。
ピアノの音。ピアノの伴奏の音色。
ピアノの音色に合わせて、ピアノの演奏者は奏でたい気分を歌う。
ピアノの演奏者はピアノで演奏者を指揮する♪

鍵盤の物静かな響きがだんだんと高まり情熱を呼び出す。

店主がひざまづいて泣き出した

♪楽器で演奏者の音を演奏したい気分を歌う。
ピアノの演奏者はピアノで演奏したい気持ちを歌う。
ピアノの演奏者はピアノで演奏者に歌を歌う。
ピアノの演奏者はピアノで演奏者の気持ちを歌う。
ピアノの演奏者はピアノで演奏者に歌を歌う♪

弾き手はそのピアノの演奏者に、演奏者にはピアノの演奏者の気持ちを歌う

ピアノの演奏者が演奏する音を、ピアノの演奏者はただ聴いている。
ピアノの響きがピアノの演奏者を包んでいた。ピアノの演奏者の気持ちがピアノの演奏者にそのまま引き継がれたように。
ピアノの音色が演奏者の心を揺らし、ピアノの演奏者の気持ちを演奏者が包んでいた。ただの空気が揺れたような振動ではない、確かな温もりを持っていて、 それはまるで、人の手が作り出す音のように、 ピアノの音色が、奏者の心の鼓動に合わせるかのように、その手を包み込むように優しく 。それは人の鼓動にも似ていた 。その音の波に揺られ その音に耳を傾ける、ピアノの弾き手にピアノの音は届かない、それは、音として伝わる、その、鼓動を、鼓動の熱さを感じる事は出来ない、それは音でしかないからだ。その、振動を肌で感じる事は出来る、だから耳朶は怯えていたのだ。だから耳を穿った。壁を穿ったのだ。
それは、鼓動、そのものだからだ。
その振動を感じれば鼓膜に響く振動を感じ取れる。
その、鼓動は生きている 音ではなく、音でもない、そこにある、鼓動が、その音が、その鼓動を響かせる、そこにある音そのものが。音のない世界に存在する唯一の音は音楽だけ。
音楽はその音によって世界を包む。その音に包まれるのであれば音のない世界にも存在する音が生まれるかもしれない、そして、それは、耳のある世界にも生まれるかもしれない。それが音なのだから。

「土浦。君は何を恐れているんだ?何故そんなに怖がる必要がある?壁のある世界の人間は壁に穴を明けるのを嫌がるが、穴を開けずに耳を抜く方法があるのかい?俺は知らない。君は壁をぶち壊せ、壁のない世界へ行こう」
耳の穴に息を吹きかけられたかのような、ゾッとする感覚が襲う。

黒柳が男と女の耳を引っ張り出していたのを目にして慌てて逃げ出したが、男は耳栓をしていたのだ。男も黒柳の行為を耳で確認していたようだ。黒柳が「壁に穴を穿ったら」というと男は黙り込んでしまった。
そして男が「あのピアノを買わないと、あのピアノを聴かないと俺が死ぬ」と呟いた。
黒柳はそれを耳にしてピアノを買い与えた。
「ところで、君が持っているそのジャム醤油の瓶についてだが…」

男は意味深なことを言った。「ん? 何だ。俺の商売道具がどうした?」

黒柳は気になってかばんを開け絶句した。「あっ…」

「そのジャム醤油の原材料はブロンズベリーだね?」男が追及した。

「あ…ああ。だが、これがどうした?まさか、お前、耳無しだったのか」

黒柳は恐る恐る訊ねると男は耳を覆っていた耳栓を外して答えた。

「ああ、そうだよ。だがね、俺はあのピアノに耳を奪われ、耳を失いつつあるんだよ」

「なんだって?」

「あの耳の無い街の住人達は耳を抜かれると、自分の意志に反して演奏しなくてはならなくなる。

そして、あの街にピアノを運び入れた。あの耳はもうじき消える」

黒柳が「耳を失った耳無しの街でピアノを鳴らすなんて、耳は大丈夫なのか?」と心配すると、

「ピアノを鳴らさないと死んでしまう」と泣き出し、そのあと、「でもピアノの音色は聴こえなくなった。ピアノを売らない限り耳は治らないだろう。だから早く耳抜きの店を探さなければ」と涙目になりながら訴えてきた。「耳を抜かないでくれ、あの音が聞こえないのは死んでいるのと同じ事だ」と懇願してきたのだ。

黒柳は、「だが俺にだって生活はある。聴診器や耳朶を退治しなければ秘密を守れない人達がいる。俺は彼らを助けて、日銭を稼いでいる。それにピアノの調律師に頼まれた仕事もこなさなくてはならないんだ」と言うと男は黒柳の襟元を掴み「助けてくれ。頼む」と頼み込み「この瓶は預からせて貰おう」と言う。「ああ」と返事をするが「これは君の商売の大切な商品だろう」と言う。「だが、今はそれよりも、この耳を、この音を取り戻さなければならないんだ。わかるだろ」と泣きつくが、耳を戻す手段など持ち合わせてはいないので諦めるよう告げた。

耳抜きをすれば、その瞬間耳は戻るらしいが「耳抜き」の方法は、黒柳の店で聞いた「壁に穴を開ける方法」のみだ。それをすれば、あの、音がない世界に行ってしまう、それだけは、それでは黒柳の秘密を守ることはできなくなる、黒柳の店に来る客を救えなくなってしまう、と、男が嘆いていた時「おーい」とピアノ屋が声をかけた。

「今さら何の用だ?」

黒柳がむっとする。

「そうむくれるな。いいものをあげよう」

ピアノ屋はジャムがたっぷり詰まった瓶を差し出した。

「これはソウルベリーじゃないか?! こんなパチモンがブロンズベリーの代替えになるものか!」

黒柳が瓶を叩き落とそうとした。すると男が泣きついた。「待ってくれ。ソウルベリーは熟せば立派に役立つんだ」

「そんなバカな話があるか」

黒柳は一蹴した。「お前が無知なだけだ。ソウルベリーは雷に打たれるとブロンズベリーになる」

土浦が反論した。

「な…んだと?」

黒柳が愕然とする。
「雷を呼ぶためにはピアノソロが必要だ。共鳴させるんだ。その音色を壁の向こうに送る。さぁ、ピアノを弾いてくれないか」

土浦に促されて黒柳はピアノの前に座った。黒柳の頭の中には耳のない世界での演奏の事が思い浮かぶ。壁のない街の人間たちはみな黒柳が弾く曲を演奏していたのだ。

黒柳は自分の意思で弾いているつもりはなかった。しかし弾き終わるたびに「素晴らしかった」と言われ拍手されたのだ。その音色で、そのリズムで、感動を分かち合うことが出来たのだ。

黒柳は震える手で弾き始めた。その指先はいつもの黒柳ではない、黒柳が、弾けば弾くほどその音色に、黒柳の心は満たされていった。そして黒柳は演奏を終えると我に帰った。「おい、俺は一体何を弾いたんだ?」と訊ねた。

「君が弾いたのは、ピアノソロだよ。君が弾いている間、壁のない世界は君の演奏を聴いている。

君の演奏が、壁のない世界にいる人々の心を掴んで離さなかった。だからみんな涙を流していた。

君はピアノを弾きながら、自分がどんな表情をしているのか解らなかったはずだ。

その顔は、とても美しいものだったよ。

そして、君は壁のない世界の人々から、壁の内側に居る人々への伝言を託されていた。

壁の外側に、君たちと同じように、耳を持たない人間が居て、その人たちも壁の内側の音に救われている、とね。

だから、壁の内側に、壁の外の人の声を届けることが出来る。

壁の外に居る人々が、壁の中の人々に、感謝の言葉を伝える事が出来る。

ありがとう、と。