1.清少納言

「ムキーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!」

 発情した猿でさえ出さないような、奇声とも悲鳴ともつかぬ叫び声が、宮中に響き渡った。

 「何事です? 諾子(なぎこ) 」
まだ耳鳴りの止まぬまま、そう問うたのは、藤原定子。時の一条天皇のお后様で、諾子というのは、かの有名な清少納言の本名である。

 「ちょっと聴いてくださいな、定子様~」
天皇の后と、あくまで宮仕えである清少納言であったが、大変仲が良く、互いに名前で呼び合うほどの関係であった。

 「これをお読みになって」
そう言って、 諾子は一枚の紙を定子に差し出した。そこには、一首の和歌と定子の名が記されていた。それだけであれば、何の問題もなかったのだが、何やら脇に文字が並んでいる。
 「をかし」だの、「あはれ」だの、中には、どうやら和歌の批評のようなものも混じっている。

2.ひとりごつ

「おや、これは何だえ?」
 定子が尋ねると、 諾子は「ご存知ないのですか?」と返しつつも、説明を始めた。

 一条天皇ご自身も、漢詩や漢文を好まれる教養人として有名であったが、ある時、宮中で回し読みされていた和歌をご覧になり、しばし黙考されたかと思うと、「この和歌に思うところを自由に書き足したら面白いんじゃね?」と、まるで「夏だし花火でもやっとくべ」くらいの気軽さと気紛れで申されたのだった。
 本人にとっては気紛れでも、天皇のお言葉とあっては無下にも出来ぬと、その日から宮中に出回る和歌や漢詩に、思い思いのコメントが付くようになったのだという。

 元になる歌や詩、短文などは「ひとりごつ」と呼ばれるようになり、大いに宮中で流行ったのであった。ちなみに「ひとりごつ」とは、現代語にすると「つぶやく」くらいの意である。
 折しも、かな文字文化が定着し、宮中の女性たちは身分に関係なく、自由に思うところを「ひとりごち」た。
 コメントは匿名であったため、各々勝手気ままに書き散らかしたわけだが、褒めるものもあれば、貶すものもあるというのは、今も昔も変わりはしないのであった。

3.あぢきなし

 諾子は一通り説明を終えると、未だ興奮冷めやらずといった感じで、定子に詰め寄った。
 「定子様、ここです、ここ!」
指さされた箇所には、次のように記されていた。

”したり顔にいみじうはべりけるも もののあはれもなく げにあぢきなし”

 「知識をひけらかしているだけで、趣もなく、本当につまらないわ」くらいの意味である。
 定子のサロン内はもちろん、宮中では誰もが一目置く才女である諾子(清少納言)に対し、悪意すら感じるコメント。
 諾子も読み流せば良いものを、正直ドヤ顔で詠った自覚のある和歌であったから、それを見透かされた気がしたこともあり、激昂したのであった。
 (ここまでこの私を愚弄するとは…絶対赦さないんだから!)
 桔梗の咲きほこる庭先で、諾子は闘志を掻き立てるように、再び咆哮を上げるのだった。

4.紫式部

「シクシクシクシク・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 掛け算をすると天文学的数字になるくらい、シクシクすすり泣いているのは、藤原香子(ふじわらのかおるこ)。後の紫式部である。
 この頃はまだ、女孺(にょじゅ)という雑務をこなす下級官女であった。
 同僚が「どうしたの?」と尋ねると、涙と鼻水でグシャグシャになった顔を拭おうともせず、一枚の紙をつい、と差し出した。一目見るなり、宮中で流行りの「ひとりごつ」であることは明らかであったが、コメント欄にこれでもかとデカデカとした文字で、こんな事が書かれてあった。

”すずろにおよすけたるに ひんなきのいでたり”

 現代語にすると、「なんだか地味で暗い上に 品のなさが出ていて草」のようなことだ。
 幼い頃から文才を認められ、父親から「男に生まれていれば」と惜しまれるほどの才女であった香子にとって、このコメントは、屈辱以外の何物でもなかった。
 たしかに目立つことは好まなかったが、それは今一つ自分の能力に自信が持てなかったからであって、地味である自覚はあったものの、暗いだの、よもや品がないなどと言われるとは、思ってもみなかったのだ。
 そして、名は伏せてはあるものの、これまで嫌というほど目にした筆跡から、このエグいコメントを寄せたのが、清少納言であることを、香子は見抜いていた。
(本当に嫌味な女だこと。私とて、このまま黙っているものですか)
 垂れ流した洟をズルズルとすすりながら、香子は心に誓うのであった。

5.炎上合戦

 毎日のように、男女を問わず、誰かしらの和歌や漢詩、最近では随筆やら評論めいたものまでが、宮中を飛び回った。
 その中でも、「あはれ」や「おかし」の好評価が圧倒的に集中していたのが、諾子(清少納言)と香子(紫式部)の手によるものであった。
 だが、そこには、必ずお互いに批判し合うコメントが加えられており、その内容も日増しにエスカレートしていく始末だった。

 「この鼻持ちならない言いぐさ。何様のつもりだろう」と香子が書けば、「それおまゆうだし。てか、単なる嫉妬じゃん」と諾子。
 「誰かに同情されたいわけ? ワンチャンもないわ」と諾子が書けば、「こんな女を妻に迎える殿方なんているわけがない。所詮無理ゲーっしょ」と香子。
 またある時には、「パリピー並みの軽薄さ。恥ってもんがないのかしら」と香子。諾子は諾子で「陰キャもここまでくると同情もんだわ」と返す。
 それを受けた香子は、「マジうざいんですけど。頼むから消えてほしいわ」と書き足し、「いや、それオマエの方だし!」と諾子が更に煽る。
 このようなやりとりが、三日にあげず繰り返され、ボクシングで言うところのノーガードの乱打戦の様子を呈していた。

 宮中では、いつの間にかこの二人のやりとりを、傍観者気取りで楽しむ者さえ出てくる始末で、気が付けば、『炎上ひとりごつ』という、一大ムーブンメントにまでなっていたのである。

6.藤原重家

 そんなある時、宮中でちょっとした事件が起こった。美男子として女性たちに持て囃されていた藤原重家が、ある女孺と関係を持ち、その女孺に子供が出来た。ところが、あろうことか重家は、あっさりとその女孺を捨ててしまったのである。
 その噂は瞬く間に宮中を駆け巡り、捨てられた女孺はショックのあまり寝込んだ上に、流産してしまう。

 モテモテだった重家だったが、これには、女性達も嫌悪感を露わにして、重家に抗議のひとりごつを次々に送りつけたのだった。
 中でも弁の立つ諾子と香子が、重家に繰り返し送りつけた抗議文は凄まじかった。
 敵の敵は見方、マイマイがプラという法則に従い、この時ばかりは二人の論調が見事なまでに合致した上に、語彙力もハンパないものだから、考えつく限りの罵詈雑言を書き連ねては、重家に送りつけた。

 歴史上、重家は早々にして出家するのだが、二人による集中砲火が原因だったかは定かではない。

7.別れ

 重家が宮中を去り、諾子と香子の「炎上ひとりごつ」が再開されるかと思いきや、事態は思わぬ展開を迎える。
 諾子が仕えていた定子が、出産後に崩御。それを期に、諾子(清少納言)も宮中から姿を消したのであった。

 あれだけいがみ合っていた相手であるにも関わらず、いざいなくなってみると、そこはかとない寂しさを感じずにはいられない香子であった。
 最初こそ、売り言葉に買い言葉で始まった、炎上合戦であったが、よくよく考えてみれば、他の女性たちの「ひとりごつ」には、特別な感想を抱いたことがなかったことに気が付いた。
 たしかに清少納言は、性格も記すものも、正反対のタイプであったが、同時に自分にはない才覚の持ち主であったことを、認めざるを得なかった。そして、彼女のいない宮中生活は実に退屈極まるものであったのだ。
 清少納言とやりあった文の数々に目を通してみれば、なぜかその一文字一文字は躍動感に溢れていることに、一抹の寂しさを禁じ得なかった。

8.エピローグ

 ほどなくして、香子は、一条天皇の后でもあった藤原彰子に仕えることになり、「紫式部」と呼ばれることとなる。

 かの有名な「紫式部日記」には、清少納言について触れた、有名な一文がある。

「艶になりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ、をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづからさるまじくあだなるさまにもなるにはべるべし。そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよくはべらむ」
(感性を売りにしちゃって、普通ならゾっとするようなことですら、やれ素敵だの感動だのと騒ぐから、中身がすっからかん。その中身がなくなってしまった人の成れの果てが良いわけないっしょ)

 もしかしたら、あの活き活きとした炎上の日々を懐かしみ、ともすれば微笑みを浮かべながら、書き記したものなのかもしれない。



                             ー完ー