7.趣のある女性
「あれ? 兼好さん? お久しぶり!」
兄上と街を歩いていると、若いお姉さんに声を掛けられた。
「おお、そなたは……!」
どうやらお姉さんが子供の頃、兄上が面倒を見てあげていた近所の子らしい。とても親しげに話しかけてくる。
「やだー、兼好さんに子供ができたのかと思っちゃったー。弟さんなのね!」
「はっはっは。お前の早とちりは相変わらずだな」
兄上はとても楽しそうだ。
「え? あの高師直と懇意なの? ずいぶん兼好さんてば立派になっちゃったんだね」
高師直さんは、確か足利尊氏さんていう人の家臣で偉い人だ。
お姉さんはすっと表情を改めた。
「こんな口をきいてはいけませんでしたね。でも、変わらずお付き合いしていただけると嬉しいですわ」
兄上はおろおろした。
「何を今さら他人行儀に」
するとお姉さんはにこりと笑って「嬉しい! じゃあ、また会いましょうね!」と立ち去った。
お姉さんの姿が見えなくなってから兄上は感心したように僕に言った。
「親しい人がふとした時にかしこまるのは、好感が持てるものであるな」
僕はふむふむと兄上の話に聞き入った。そのうち、ある屋敷の前を通った。
「お久しぶりでございます」
丁度中から出てきた今度は別のお姉さんが兄上に気付いて会釈した。
「おお、そなたは……」
このお姉さんは以前兄上に歌を習っていたらしい。
「その節は本当にお世話になりまして……」
兄上とお姉さんは和やかに話を続けている。お姉さんが僕のほうに目を向けた。
「こちらは、お子さんですか?」
「いや、弟だ」
「えっ! やだ! あたしのバカ! ごめんなさいっ」
お姉さんは慌てたように顔を真っ赤にした。そして目を丸くしている兄上に気付いて、ごほんと咳払いをした。
「申し訳ありません。馴れ馴れしい口をきいてしまい……」
「はっはっは。いいのだよ」
お姉さんは約束があるとのことで、僕たちに会釈をして立ち去った。
兄上は感心したように僕に言った。
「それほど親しいわけではない人が、ふとした時に打ち解けた言葉を使うのもなかなかいいもんだな。……ふふ、兼友、お前にはまだ早いかな」
兄上と別れて仁和寺の門を入ると、友達の盛恵が掃き掃除をしていた。僕はさっき兄上に教えられたとっておきの話を盛恵に話した。盛恵は顔色を変えずに呟いた。
「お前の兄上、ちょろいな」
8.先人の尊い教え
みんなでお堂でお経を唱えていた時のことだ。隣の宗心がうっつらうっつらと船をこぎだした。
「こら! 寝ながら読経するとはなんたることだ!」
師匠が宗心の頭を叩いた。宗心はがばりと顔を上げた。
「申し訳ありません! お経を唱えるのをやめて寝ます!」
「馬鹿者!」
僕が兄上にそのことを告げると、兄上は眉を寄せた。
「うむ。その昔法然上人という方がおってな。その方に『念仏の最中に眠くなるのはどうしたらいいですか?』とある人が聞いたのだそうだ」
「どうしたら良いのですか?」
僕は尋ねた。なぜなら僕も眠くなることが多くて困っていたからだ。兄上はうむと頷いた。
「法然上人は答えたそうだ。『寝ていない時に念仏しなさい』と。尊い! 実に尊い! 潔く寝た宗心は立派であるな!」
翌日のお経の時間、僕は兄上の教えに従った。
師匠から晩飯抜きを言い渡された。
9.若者の言葉の乱れ
「わあ、美味しそうですね、兄上! 僕、おせんべいはいくつでも食べれますよ!」
僕は兄上がお寺に差し入れてくれたおせんべいにすかさず手を伸ばした。
「喝!」
「いてえっ!」
おせんべいを求めて伸ばした僕の手は、兄上にしたたか叩かれた。僕が瞬時に一番大きいと思われるおせんべいを見つけて、それに手を伸ばしたから、阻止したかったに違いない。
兄上は僕を諭すような目で見つめた。
「食べれる?」
はっと僕は気づいた。
「食べられる、です!」
兄上はら抜き言葉警察だ。兄上のもとを離れてお寺に来てからは気を抜いてしまっていた。
兄上はふーっとため息をついた。
「嘆かわしい! 実に嘆かわしい! 昔は『車をもたげよ(持ち上げよ)』と言っていたものを最近の若者は『もてあげよ』と言う。嘆かわしいにもほどがある! 他にも色々あるぞ。例えばだな……」
僕は早くおせんべいが食べたくてそれどころではなかった。が、口を挟むと余計に講義が長くなってしまうのが兄上。だから僕はこの苦しみに耐えた。
「また、『主殿寮人数立て(とのもりょうにんじゅたて)(主殿寮の官人たちよ、座を立って会場を明るくせよ)』」と言うべきところを『たちあかししろくせよ(松明を明るくせよ)』と言う。誠に嘆かわしい!」
「どうしてダメなのですか?」
僕は言ってから「しまった!」と思った。おせんべいまでの距離がさらに遠のいた。
しかし。
「ーーと、ある古老がおっしゃっていた!」
兄上の講義は何故か続かなかった。天は僕に味方した。
「そうなんですね!」
そうして、僕と兄上はおいしくおせんべいを食べれた。
10.真乗院の尊い僧侶
「あ、盛親僧都だ」
僕と宗心がおつかいで道を歩いていると、宗心が呟いた。どうやら道の向こうからやってきている人が盛親僧都らしい。
「あれが、盛親僧都……!」
そうだ、兄上がよく語っていた。
「真乗院の盛親僧都というのはな、仁和寺界隈ではとてつもなく尊い僧侶だぞ」と。
「宗心はあのお方のことをよく知ってるの?」
僕はわくわくしながら尋ねた。宗心はにやりとした。
「ちょっとはな」
僕は興奮した。
「わあ、あの方の尊いお話、教えて教えて!」
「仕方ねえなあ。じゃあ、ひとつだけだぞ」
「うん!」
ケチ、と思ったが僕はそれは言わないほうがいいと判断した。僕はちょっぴり大人になっていた。
宗心はひそひそと僕の耳に口を近づけた。
「盛親僧都がな、ある法師を見てあだ名をつけたんだ。『しろうるり』と」
「しろうるり……」
しろうるりってなんだろう。初めて聞いた。尊い人しか知らないなんかすごいなんかなのだろう。僕はごくりと息を飲んで宗心に尋ねた。
「しろうるりって、何?」
すると宗心は悲しそうに首を左右に振った。
「俺も知らない」
「そんな……!」
もしかして門外不出のなんかすごいなんかなのかもしれない。
宗心は「だけどな」と声をひそめた。
「盛親僧都に『しろうるり』って何ですか? って聞いちゃった人がいるんだとよ」
「ええっ!」
そんな、罰当たりな。そんなことを聞くことが許されるのだろうか。
ひとごとながら、僕はその人のことが心配になった。
宗心は続けた。
「そしたらな、盛親僧都はこう答えたそうだ」
僕は心臓がドキドキしてきた。どうしよう。もしかして、その聞いた人に何か天罰が……!
「ーー『この法師の顔に似ている何かに違いない、知らんけど』と!」
「ーーすっげー!!!」
僕は、よくわからなかったけど盛親僧都を心の師匠と仰ぐことにした。
11.真乗院の尊い僧侶 その2
「ほう、そうかそうか。盛親僧都に会ったのか。実はわしも親しくさせてもらっているのだ。彼は仁和寺界隈ではかなりの尊い人であるぞ」
兄上が仁和寺にまた遊びに来たので、僕は昨日のことを話した。
「兄上とお親しいのですね! 兄上はどんなところが尊いと思われたのですか?」
「そうだな。彼はまず、芋頭を非常に好む」
いもがしら?
僕はごくりと息を飲んだ。
「いもがしら、とはなんでしょ……いえ! やっぱりいいです!」
またもや、門外不出のなんかすごいなんかかもしれない。そう思ったのだが「里芋のことだ」と言われ、僕はがっかりした。
は! 僕は今なんてことを。
僕は動揺した。盛親僧都に勝手な期待をかけ、勝手にがっかりするなんて。
僕が気を引き締めていると、兄上は続けた。
「そして、芋頭を非常によく食べる。大きな鉢に高々と盛って、くちゃくちゃ食べながら講義をするのが彼だ」
僕は「それ、お行儀悪くね?」と思ったが、兄上の次の言葉を待った。
「そして、病気にかかった時は療養だと言って自室に閉じこもり、選びに選んだ最高級芋頭を思う存分食べていた」
僕は「お腹壊すんじゃね?」と思ったが、さらに次の言葉を待った。
「そうして、ありとあらゆるすべての病気を治したのである!」
「ーーすごい!」
やはりすごい。僕の師匠だけある。
兄上は満足そうに頷いた。
「うむ。ある時、わしが病で寝込んだことがあった。彼は見舞いに来てくれてな」
優しい! 素敵!
「その手には、たくさんの芋頭が入ったカゴを持っていた」
あ。もしかして。
僕は期待に胸を膨らませた。
「彼は言った。『早く元気になるのだぞ』。そう言って、わしの看病をしながら、芋頭をたらふく食っていた。そして、持参した芋頭を食べ終わると『では!』と言って帰って行ったのだ! なんとも芋頭を愛する男であることよ!」
僕は、独りよがりな期待を勝手に人にかけることはいけないことだと学んだ。
12.真乗院の尊い僧侶 その3
「彼はな、かつてはとても貧しかったんだ……」
兄上は続けた。盛親僧都の話だ。尊い僧侶にもそんな時代があったのかと、僕はしんみりした。
「だが、ある時彼の師匠が亡くなってな。遺産を彼に遺してくれたんだ。ざっと、銭三百貫(三千万円くらい)」
僕はほっとした。きっとその師匠も盛親僧都の将来を心配していたのだろう。
「彼はそのお金を少しずつ芋頭の購入にあてた」
また芋頭だ。僕は警戒した。
「そして、たらふく芋頭を食っては、またお金をおろし芋頭を買って、またたらふく食い、を繰り返し、ついに三百貫全てを芋頭に費やしたのである……!」
僕はもう驚かなかった。僕も大人になったものだ。
兄上は続けた。
「それを見た人々は口々にこう言ったそうだ。『貧しいのに、三百貫全てを芋頭に費やしてしまうなんて……誠にありがたい! これほどまで仏の道を追求できるとは!』と!!」
「えっ!」
僕は驚いた。
13.吉丸くんのお祝い会
「おう! 兼友も来いよ!」
ある夜更け。仁和寺のある部屋の前を通りかかったとき、僕は宗心に呼び止められた。部屋の中は何やら楽しそうにざわざわとしている。
「何? 何?」
僕はわくわくして尋ねた。
「吉丸が、今度剃髪して法師になるんだよ。そのお祝い会やってんだ」
「あ、吉丸くんのお祝い会かー!」
僕は中に入っていった。吉丸くんは僕より二つ年下の十歳だった。
部屋の中央では吉丸くんがうつらうつらしていた。もう眠いのだろう。よくこの騒ぎの中寝られるなと僕は思ったが、寝る子は育つから良いことだ。きっと大物に育つに違いない。
「次、宗心行きまーす! 奥義、鼎踊り!」
どうやら皆お酒が入っているらしい。宗心がそばにあった三本足のデカイ器を手に取ると、周りの皆が「おーっ!!」と歓声を上げた。ちなみに、お酒は二十歳になってからじゃなくても飲める世の中だが、僕はまだ飲んだことがない。
「ふっし!」
宗心は鼎を頭にかぶった。いや、かぶろうとした。どうやら鼻がつかえて入らないらしい。
「宗心、もう少し大きい器じゃないと無理なん……」
「宗心の~! ちょっといいとこ見てみたい! それ、一気! 一気! 一気! 一気!」
僕の提案は、皆の歓声にかき消された。宗心は「秘技! 鼻潰し!」と叫んですっぽりと鼎を頭にかぶった。
「おおー!!!」
宗心が鼎をかぶって「伝家の宝刀! タコ踊り!」と手をふらふらさせて踊り始めると、皆の盛り上がりは最高潮に達した。僕は「これが大人になることか」とちょっと引いた。
「はい、次の方ー」
肝心の吉丸くんはもう完全によだれをたらしながら眠っていたが、出し物はまだ続くらしい。宗心は踊り終わって鼎を脱ごうとした。
「あれ?」
宗心が鼎を一生懸命上に持ち上げているが、鼎は全く抜けない。
「もうタコ踊りは終わってんだよ、宗心」
盛恵が鼎の三本足のひとつを掴んでぐっと引き寄せた。
「ぐえええええ!!!!」
宗心の叫び声が聞こえた。
ーー抜けない。
皆の赤い顔は一気に青覚めた。
「ど、どうしよう」
僕はおろおろした。皆もおろおろしている。盛恵も顎に手をあてて難しい顔をしていた。
僕は目を瞑って頭をフル回転させた。そして思い付いた。
「そうだ! 鼎を割っちゃえばいいんだ!」
「おおー!!!」
皆の歓声が上がった。「なるほど」と盛恵は立ち上がって部屋の外へと駆けていく。しばらくして戻ってくると、その肩には巨大な丸太棒を担いでいた。それはどこか鐘をつく丸太棒に似ていた。
「盛恵、それ、どこから」
「細かいことは気にしなくていいんだ」
いや、気になるが、と思ったが今はそれどころではない。
「そーれっ!」
盛恵は宗心の頭の鼎目掛けて丸太棒をぶんまわした。
ぐわわわわわああぁぁん……
とても厳かな音が響いた。これが煩悩を忘れさせてくれる鐘の音か。ーーしかし。
「こ、ろ、す、き、か!!!」
中から宗心の悲痛な叫び声が響いた。
鼎は全くヒビすら入らなかったのである!
僕はさらにおろおろした。
「そ、そうだ! もうこうなったらお医者さんに行こうよ!」
盛恵は「それが一番だな」と呟いた。
とりあえず頭の上に着物をかぶせた。このまんま外を出歩いてしまうと「三つの角を持った化け物だ!」と大騒ぎになるか、もしくは「仁和寺の宗心がまたコスプレしてんのか。仁和寺の外でのコスプレは禁止だぞ」と怒られてしまうからだ。
そしてお医者さんに診せた。お医者さんは手首の脈を取り、足をさすり、お腹と胸の調子を見てから悲しそうに首を振った。
「こんな病状は書物でも師からの教えでも知らない」
僕たちは仁和寺に帰った。お金はちゃんと取られた。
「あああ、私のかわいい宗心!!」
「大丈夫か、宗心!」
宗心のお母さんやお父さんがやってきてさらに大騒ぎになった。
どうしよう。
僕はまた目を瞑る。そして考える。
こんな時、兄上なら……。
「ーー初心にかえれ」
僕の耳に兄上の声が聞こえた気がした。僕は立ち上がった。
「皆さん、引っ張って鼎を抜きましょう」
盛恵は深く頷き「兼友の言うとおりだ」と立ち上がった。
「い、や、ま、て! も、げ、る! み、み、と、は、な! も、げ、る、か、ら!」
鼎の中から叫びが聞こえる。盛恵は首を横に振った。
「宗心。この世に命より尊いものはないんだ。耳と鼻がなくても生きていけるよ」
「ま、て! い、い、こ、と、いった、つ、も、り、か!」
「せーのっ!」
皆が鼎を引っ張った瞬間。
「ひっ、さーっつ! のっぺら、ぼー!!」
すぽーんと、鼎は抜けた。
鼎の抜けた宗心は手をついてぜえぜえと肩で息をついた。かすり傷だがちょっと血が滲んでいて、見ているだけで痛かった。
「俺……耳動かせるんだった……」
「なんだ宗心、水くさいな。そういうことは早く言えよ」
盛恵の言葉にキッと宗心は顔を上げた。
「鼻は動かせねえんだよ!」
確かに鼻血を吹いていた。僕はおろおろした。とても痛そうだ。どうしようかと盛恵を見上げた。すると盛恵は難しい顔をした。
「そうか、じゃあ今日からは鼻も動かせるように特訓しないといけないな」
「そうね! 私のかわいい宗心。特訓に必要な物があったら何でも言ってね!」
「金に糸目はつけんぞ!」
ご両親のその言葉に、宗心は今度こそばったりと床に倒れた。
僕が「酒は飲んでも飲まれるな」と心に誓っていると、奥では吉丸くんが大の字でイビキをかきながら爆睡していた。既に大物に育っていた。
14.恐怖! 猫又の怪異!
「おい、怖い話してやろうか」
ある夜、宗心が僕に話しかけてきた。
「いいよ、いらないよ」
僕は遠慮した。昨日の「宗心鼎踊り事件」で怖い思いをしたばかりだ。
「まあまあそう言うなって」
昨日鼻血を吹いていたばかりだというのに復活するのが早い。宗心は僕の肩に手を乗せた。
「猫又って知ってるか?」
僕は少しほっとした。その話なら既に知っている。
「うん、知ってるよ。山奥にいる、人を食べちゃう化け物だよね」
すると宗心はちっちっちっと指を左右に振った。
「山じゃなくてもな、普通の猫が年をとって猫又になっちゃうことがあるんだよ」
「ま、まさか」
仁和寺にはかわいい猫ちゃんがたまに入ってくることがある。あの猫ちゃんたちが化け物になるなんて考えられない。
「まさかと思うだろ? そいつもそう思ってたんだよ」
「そいつって?」
「連歌法師だよ」
僕はごくりと喉を鳴らした。
「ある夜、そいつが連歌会の帰りに川のほとりを歩いてたんだ。手には連歌会の景品をたくさんかかえてな」
夜、川のほとり。僕は想像をたくましくして震えてしまった。こういうとき、想像力豊かだと困る。
「そしたらな、急に猫又が飛び付いてきて、足にかぶりつこうとしたんだ!」
「うわああ!」
僕は耳をふさいだ。
「連歌法師は大慌てで川に飛び込んだ! 猫又だ! 助けてくれ! って叫びながら!」
暗い川の上から猫又が鋭い目で見つめているのだろうか。それとも川の中にまで猫又が……。
「そしたらな、ご近所さんたちがたくさん、どうしたどうしたって松明持って出てきてくれたんだよ」
「ああ、じゃあ猫又は退治できたんだね!」
しかし宗心は首を横に振った。
「退治は……できなかったんだ」
僕は絶望した。
人々が束になって戦ってもかなわないほど強いのか、猫又は……!
「だってな、千切れんばかりだったんだよ」
「ちぎれる……」
僕の脳内には、ズタズタに引き裂かれた法師が。
「わん! わん! わふぅ、ってな、尻尾を千切れんばかりにブンブン振ってな、ご主人様が帰ってきたのを喜んでくれてたんだよ。……いやあ、犬ってかわいいよな!」
「うん!」
僕の脳内はかわいいワンちゃん一色になった。
15.山里の趣のある庵
「わあ、僕こんなとこ初めて来ました」
神無月の頃。栗栖野という所を過ぎたあたりにある山里に僕は兄上と来ていた。
紅葉がとてもきれいだ。苔むした細い道が遥かかなたまで続いている。
「うむ。たまには山里の風景というものも趣深いであろう」
兄上はご機嫌で歩いている。そして、ふと立ち止まった。
「おお。なんと……」
兄上の視線の方向を辿ると、そこには物寂しげな庵があった。懸樋には落ち葉が降り積もっている。
兄上は僕に向かって「しーっ」と人差し指を立てた。そして耳を澄ませた。
「懸樋から落ちる雫の音以外、音が全くしないな」
兄上は感動しているようだった。
「空き家でしょうか」
僕が尋ねると兄上は庵の前のあたりを指差した。
「いや。あそこの棚を見なさい。折った菊や紅葉などがおしゃれに飾ってあるだろう」
「なるほど」
兄上はしきりにうんうんと感心していた。
「人間というものは、このようにしても暮らしていけるものなのだなあ。実に尊いことであるなあ」
僕はちょっと寂しくてやだなと思ったけれど、兄上はこういう質素倹約系の暮らしに憧れがあることを知っていたのでおとなしく頷いた。
「兼友、お前もこの庵の主のような生活を目指すと良いぞ」
僕は頷いた。というか、そろそろ僕はお腹がすいてきていた。ぐるるるるぅと鳴くお腹をさすって遠くを見た時だ。
「あ。兄上。美味しそうなミカンがたくさん!」
その庵のお庭には、でっかいミカンの木があって、枝もたわわに生っている。
「落ちてないかな、落ちてないかなっ」
こんなにたくさん生っているのだ。この庵の人だけでは確実に食べきれないだろう。落ちていたらひとつふたつもらってもいいだろう。兄上も苦笑しながら僕を止めることはしなかった。
そして僕がミカンの木に向かって駆け出した、その時だ。
「おらぁ! こんのくそガキゃあ!!!」
庵の中から突然中年の女の人が現れた。手に持ったホウキを振り回している。
「うちのミカンに手ぇ出すたあ、千年早ええんだよ!」
「うおうっ!」
おばちゃんのホウキが僕の目の前の地面に炸裂した。僕は急いで兄上の元に駆け戻り、その背中に隠れた。おばちゃんは兄上をうさんくさそうに見上げた。
「ああん? お前、どこ寺だよ? うちのミカンが一個いくらで売れるか知ってのことか?」
兄上はおろおろした。
「いや、わしは別に落ちている実などあれば弟にいただこうかと。盗もうとかそんなわけでは」
「これ見りゃわかんだろ!」
おばちゃんが腕を伸ばした先にあるミカンの木は、確かに周りを厳重に柵で囲われていた。明らかに「盗るんじゃねえぞ」と主張していた。
「落ちたミカンも『大特価! 訳アリ品』で売れんだよ!」
「も、申し訳ない!」
兄上はへこへこ謝った。僕も一緒にへこへこ謝った。すると、おばちゃんもだんだん落ち着いてきた。
「ふん。ここらの寺のもんじゃないみたいだからな。縄張り荒らしってわけじゃないんだろうよ。今日のとこは許してやるよ」
「あ、ありがとうございます!」
そして僕たちは趣のある苔むす細道をひた走った。そしてやっと庵が見えなくなるところまできた。
僕は反省した。人のものを勝手に食べるのは泥棒と同じだ。兄上を見上げると僕を見る兄上と目があった。
「わしとしたことが。今日は反省した」
「はい!」
僕もうんうんと頷いた。兄上は叫んだ。
「ミカンの木がなければ! あの木がなければ憧れの暮らしだったのに! あの木さえなければ!」
「はい! ……はい?」