ビジネスバッグの奥底に忍ばせた最後のロリポップは、かつて私が魔法少女であった事を示す唯一の証拠だった。
ガタン、と音をたてて埼京線の車両が揺れる。
満員の車内。座席を確保するどころか、吊り革すら掴めなかった私は、両腕で強くバッグを抱き締めながら、腰を落として少しだけ膝を屈めた。
こうしていれば、棒立ちのままでいる時よりもいくらかは踏ん張りやすい。
太ももとふくらはぎに意識を集中させて、前後左右から否応なしに襲いかかってくる衝撃に備えた。私は、同年代の女性と比べてもあまり背は高くない。視界の先は、すし詰めになった乗客達の丸まった背中と、どこか沈んだ印象の肩口で埋め尽くされている。
誰が悪い訳でもない。
けれど、誰しもがどうしようもない不快感と苛立ちを抱いた空間だった。独特なすえた匂いが鼻をつく。私は意識的に口から呼吸をする様に努めた。
息苦しい。
ずっとそう感じていた。
この満員電車の中だけじゃない。
何気ない日々、沢山の人が当たり前に過ごしているこの環境が、私には息苦しくて堪らなかった。
抱きかかえたバックの底にそっと手のひらを重ね合わせてみる。何度も撫でた場所。そこには、小さな紙袋に包んで忍ばせた、私の宝物が入っている。
最後のロリポップ。
夢色のロリポップ。
輝く、魔法のロリポップ。
私は目を閉じて、頭の中にイメージしてみる。
満員電車の真ん中。私はバッグから取り出したロリポップを片手に持ち、それを頭上に高く掲げ、声高に魔法の言葉を叫ぶ。
突如、暖かな光が車内に溢れる。渦を巻きながら現れた大量の空色の羽にこの身体は柔らかく包まれ、窮屈なスーツから、ふんわりと軽い魔法のコスチューム姿へと変身する。
電車の天井を吊り広告ごとぶち抜いて、そのまま夜空へと急上昇。風に靡くリボンと緩やかに広がるスカートを身に纏い、煌めく星の海を泳ぐのだ。
「くるみ、一緒に行くポプ!」
自由に空を翔ける私の傍には、パートナーのポプリンがいる。
クマとネコを足して二で割ったような姿をした、魔法の妖精パプリン。その姿は、大人の目にはうつらない。つぶらな瞳のポプリンは、ぬいぐるみみたいにモコモコした短い腕を一生懸命に振りながら、私の耳元へと何かを語りかける。
「まもなく、大宮、大宮。お出口は左側です。新幹線、京浜東北線、宇都宮線、高崎線、東武野田線とニューシャトルはお乗り換えです……」
ハッと目を覚ました。
乗り降りが多い大宮駅を目前にして、辺りでは乗客たちがそわそわと動き始めている。タイミングを逃して降り過ごすと面倒な事になる。
空想の世界から我に帰った私は、星の海ではなく、スーツを着た乗客達をかき分けて乗降口へと向かった。
「お、降ります。すみません、すみません」
うるさくない程には細やかで、けれど確かに聴こえる程の音量で私は声を発する。半歩にも満たない数センチ、確かに足をずらしてくれた誰かに感謝を抱き、どこからともなく聴こえてくる舌打ちを気にしないようにしてそそくさと電車を降りる。プシュー、と音を立てて扉が閉まる頃には改札へ向かうエスカレーターの前にも長い行列が出来ている。誰もがシームレスに、次の行程へと移行していた。まるで息継ぎする間すらも惜しむようだった。
いったいどうして、そんなに当たり前な顔で日々を過ごしていられるのだろう。
私には難しい。とても普通でいられない。
ぐったりとその場に沈み込んでいきそうな身体を引きずるようにして、私は行列の最後列に身を連ねた。
「くるみ、君の力が必要なんだポプ!」
当時小学生だった私の目の前に、ポプリンは突如としてその姿を表した。
「邪悪なイービル達から、この世界を救う力が君にはあるんだポプ!」
下校中、だったと思う。
マスコットのようなポプリンの姿はとても可愛かったし、素質がある、なんて言われて気を良くした私は、不思議な妖精の誘いに二つ返事でオーケーして魔法少女になる事を選んだ。
変身に使うのはポプリン達の世界の女神が作ったという色鮮やかなロリポップだった。
空色、恋色、勇気色。
宝石のように彩り輝く沢山のロリポップを、変身する度に一本ずつ消費して、私は「魔法少女みるくりん」になった。
ポプリン達の世界を脅かした邪悪な存在。イービルは私達の住む街にもその毒牙を伸ばしていた。彼らは日常の裏に潜み、人の心の闇に取り憑く。私は学校生活を続けながら魔法少女としての役目を果たし、発生したイービルを撃退した。イービルは取り憑く相手を選ばない。時には私の家族や、親友であるサオリン、学校の友達も被害に巻き込まれた。その度に私は傷付き、悲しみつつも、負けずにロリポップを掲げた。どんな時も、ポプリンが傍にいたから、私は頑張れた。そんな戦いの日々は、およそ一年間ほどに及んだ。
「もう……お別れなんだポプ」
私とポプリンの奮闘の甲斐もあってイービル達はこの地を去った。しかし、それは同時にポプリンとの別れを意味していた。
「きっとまた会えるポプ! くるみが、僕の事を忘れないでいてくれる限り……きっと」
光の粒となって消えていったポプリン。その足元に残されていたのが、今でも私が大切に持ち続けている夢色のロリポップだった。
あれから十数年が経つ。
小学生だった私も大人になり、社会に出て働くようになった。
大人になれば、何でも自分で決められるようになるし、やりたい事だってたくさん叶えられる。子供の頃はそう信じてやまなかった。
いつだろう。
いつ頃、気づいてしまったのだろう。
社会に出て、人間関係や行動範囲が広がるにつれて、私は自らの可能性の限界を思い知らされた。
必死に勉強して入った東京の大学。アパートでの一人暮らし、生活の為にアルバイトをせざるを得なかった私の成績は、都内の大きな邸宅から通っている内部進学生達にあっという間に抜かされていった。
卒業論文の作業と並行して始めた就職活動。要領の良い同期生達は既にインターンを終えたりしていて、サークル活動のエピソードなんかも乏しい私は思うような成果を得ることができなかった。
なんとか内定を得られた会社は長時間労働も当たり前という環境で、日々上司からの叱責を受ける中で私は自分の体力と精神力がみるみると削られていくのを感じていた。
辛い時、悲しい時、私はいつもバッグの底に忍ばせていた最後のロリポップに触れた。
そしてポプリンの事を思い出すのだ。魔法の力で空を飛び、風のように駆け、誰かの為に戦うことが出来たあの日々の記憶と共に。
けれど、現実は私をいつまでも思い出の世界に浸らせてはくれない。
「おい、聞いているのか!」
「は、はい! すみません……」
「何がすみませんなんだ、言ってみろ!」
「え、えっと……あの……」
オフィス。上司からのいつもの叱責。
標的になるのはいつも私だ。周りの同僚達は、わかりやすく目を逸らしたり、作業に没頭する様子を見せている。下手に口を出して、上司の怒りが飛んできたら困るのは彼らだ。だからみんな、見て見ぬふりをする。
ここではみんな、自分一人を守るだけで精一杯だ。誰かを守ろうだなんて、そんな事の為に身を呈する人なんていない。
ましてや、当たり前にやるべき仕事すら普通にこなせていない私の事なんて、誰も庇わない。
「ほら、言えないだろ。お前のすいません、は口先だけなんだよ。この間だっておんなじ間違いをしていただろう。いい加減、反省している振りをするのはやめろ!」
違います、違うんです、本当に申し訳なく思っているんです、要領が悪くてみんなと同じ仕事ができない事、人と話している時に目を合わせられない事、簡潔に返事ができない事、全部私が悪いって分かっているんです。
「すみません、すみません、すみま……」
ふ、と視界の端が紫色に染まった。くぅーっと頭の中が絞られているように感じて、気付けば私は平衡感覚を失っていた。
ぐらり、と揺れる世界。目の前では上司が呆気に取られたような表情をしていた。視界が暗くなる。私はゆっくりと倒れながら口の中で小さく「すみません」と呟いていた。
サオリンと久々に顔を合わせたのは、地元にある喫茶店だった。
「でもさ、良かったんじゃない? 仕事、しんどいって言ってたじゃん」
「うん……まあね」
「結果オーライ、結果オーライ。気に病むことないよ。少しはゆっくりできるんでしょう? どれくらいこっちにいる予定なの?」
「うーん……期間は未定、かなぁ」
「最っ高じゃん。今までの分、遊び尽くそうよ。あたし、付き合うからさ」
そう言って、サオリンはニッコリと笑った。唇に引かれた真っ赤なグロス以外は、子供の頃に見た表情と全く同じだった。
休職する事になって数週間。実家に帰ってきた私は、特に何をやるでもなく、通り過ぎて行く日々をただのんびりと過ごしていた。
母の家事を手伝ったり、ぼんやりとテレビを眺めたり、といった感じだ。何かやらなければ、という焦りと気持ちだけはあるのだが、どうにもエネルギーが湧いてこなかった。
だから、こうして気安くお茶に誘ってくれるサオリンにはすごく感謝していた。
「子供の頃みたいにさ、お弁当持ってピクニックとか行こうよ。あの三角山の展望台とか、昔よく登ったよね」
「あ、懐かしい。春の遠足でしょ?」
「そうそう! 今登れるかなー。正直、体力の方が心配だわ」
「……すごくわかる」
そのシンプルな形状から私たちが子供の頃に「三角山」と呼んでいた低山は、学校からの遠足にちょうど良い距離の場所にあった。
だから、何度も足を運んだ記憶がある。
私が「みるくりん」だった、あの頃も。
「……ねぇ、サオリン」
「うん?」
「昔さ。三角山にある望遠鏡の高台からサオリンが落ちそうになった事、あったよね」
「えー、私が?」
「……うん」
サオリンは額に手を当て、あの出来事を思い出そうとしていた。
私はハッキリと覚えている。どこからか現れたイービルの手にかかり、サオリンの意識が乗っ取られてしまった時の事だ。私は「みるくりん」に変身し、サオリンに取り憑いたイービルを撃退した。確かにその筈だった。
「そんな事あったっけ。思い出せないなぁ」
やっぱり。
「……そっか。もしかしたら、別の子の事だったかも。ごめんね、なんか最近昔の記憶があんまりはっきりしなくって」
「ぜーんぜん、気にしないで。私もしょっちゅうもの忘れしてるから」
快活に笑うサオリンに対し、私は曖昧な笑みを浮かべた。落胆している気持ちを上手に隠せていただろうか。正直、自信は無い。
サオリンもダメだった。
誰も「みるくりん」を覚えていない。
地元に帰ってきて、しばらくしてから気付いた違和感だった。
私が変身して救った人や守った物、それに関する記憶が、みんなの頭の中からすっぽりと抜け落ちているのだ。
サオリンのように出来事そのものを忘れてしまっていたり、あるいは他の何かの記憶で上書きされていたり。人々の思い出の中に「みるくりん」は存在していなかった。
私は狼狽した。
ポプリンと共に過ごしたあの日々は、私の宝物だった。かけがえのない思い出なのだ。笑い合った事も、喧嘩した事も、確かに覚えている。
なのに、どうして。
子供の頃、いつも一緒にいたサオリンですら「みるくりん」を覚えていなかった。私はもう、自分自身の記憶を疑い始めていた。
あの頃の私は、本当は魔法少女でも何でもなかったのではないか、と。魔法のロリポップも、ポプリンも存在せず、ただ夢見がちな少女が空想の世界に浸っていただけなのではないだろうか、と。
膝の上に置いていたポーチに触れる。
その中には、最後のロリポップがしまってある。魔法少女ではなくなった私が、ギンガムチェックの紙袋に入れて固く封をしてからもう十数年。あれから私は、今の歳になるまで一度も袋の封を開けていない。袋が色褪せても、ボロボロになってしまっても、中に入ったロリポップを入れ替える事はしなかった。
ただの一度もだ。
きっと私は、無意識に避けていた。
紙袋の中を覗いてはいけない事を、心の奥底で分かっていたのだ。
私はロリポップを長い間お守りとして持ち歩いていた。カバン越しにそっと触れるだけで、あの楽しかった日々に戻れるような気がした。
思い出にして、縋り付いて。けど、それを袋から取り出してウットリと眺めるような事はなかった。
だってそこには、本当は、夢色のロリポップなんて入っていなかったかもしれないのだ。全てが私の作り出した妄想に過ぎなかったのなら、その封を解くという事は、必死に守ってきた大切な夢を、厳しい現実に晒すことに他ならない。
「ちょっと。くるみ、大丈夫?」
気がつくと、サオリンが心配そうな様子で俯く私の表情を覗き込んでいた。
ダメだ。心配をかけてはいけない。
私は精一杯に微笑む。
「あ、全然、大丈夫だよ。ちょっと、ぼーっとしてただけだから」
言いようのない不安を抱えながら、膝の上のポーチをギュッと握りしめた。
その日はよく晴れた。
私はサオリンに誘われ、手作りのサンドイッチを詰め込んだバスケットを片手に、三角山の展望台を目指して歩いていた。
「けっこう上の方まで車で登ってこれるんだね。子供の頃の遠足って、一番下の登山口から展望台までずっと歩かされてた気がするんだけど」
先頭を歩くサオリンが、麓の方を見下ろしながら腰に手を当てている。私も後ろからそっと覗き込む。確かに高い。こんな距離を歩いていたのか、と思うと少しびっくりしてしまう。
「確かにそうだったねぇ。遠足は体力づくりが目的だからじゃない?」
「そっか。最近の小学生も同じなのかな。ねぇ、アリサ。どうなの?」
サオリンは自然な様子で、傍らを歩くアリサちゃんに話しかけた。紫色の小さなリュックを背負い、俯いて歩くアリサちゃんは、無言のまま首を小さく横に振った。
「へぇ、無いんだ! ま、その方がいいよ。下から登ると、結構きついと思うよー。ねぇ、くるみ」
「うん、そうだね」
会話を続ける私たちを特に気にする様子もなく、アリサちゃんはその小さな歩幅で、一歩ずつ坂道を踏みしめていた。
サオリンの姪っ子なのだという。
ピクニックに同行させたい、というのはサオリンからの申し出だった。
「最近、小学校も休みがちみたいでね……。ちょーっと太陽の下に連れ出してやろうかなって思ってさぁ」
私は二つ返事で頷いた。サオリンは子供のころから、内にこもりがちな誰かの手を引っ張りだしてくれる子だった。私自身、サオリンのそういった気質に助けられてきた記憶がある。ただ一緒に山を登るだけで、私がなにか少しでも力になれるのなら、それはとても嬉しいことだった。
「もうすぐ頂上だよ。あぁ、くるみの作った特製サンドイッチ、はやく食べたい」
「ね。もうお腹ぺこぺこだよ。アリサちゃんはお腹大丈夫? お菓子もあるよ」
アリサちゃんは首を小さく横に振った。
口数の少ない女の子だった。けれど、山道を登る足取りはしっかりとしている。俯いてばかりの彼女の視線の先に、真っ白い小さな花びらが綻んでいることに気が付いたのは、つい先ほどの事だ。きっとそれがこの子の感じ方なのだろう、と私は思った。感情の表し方や物事の感じ方はひとそれぞれだ。けれどそのほんの少しのズレが、思いもよらない捉えられ方をしてしまう場合がある。それは私自身が社会で生活する中で経験したことだ。アリサちゃんはどんな気持ちで、今日ここに来てくれたのだろうか。彼女の小さな背中を追いかけていると、胸が締め付けらるようだった。足を進めながら、私はリュックのポケットをさする。そこには紙袋に封をした最後のロリポップがしまわれている。これを持ち歩く事はまだやめられそうにない。たとえ全て空想に過ぎなかったとしても、私にはまだ必要不可欠なお守りだった。
「ほら、こっち!」
前を歩くサオリンが駆け足になる。展望台が見えたのだろうか。この登り坂を抜ければ、ばっと景色が開けて青空の下に出るはずだ。降り注ぐ太陽の下、三人でサンドイッチを頬張りながらのんびりと景色を眺める。そんなイメージが頭に浮かんだ。
その時だった。
「キャッ」
小さな悲鳴が聞こえた。
視界からサオリンの背中が消えた。
その目端で素早く動く、黒い影。
私は反射的に地面を蹴っていた。幼い頃の記憶と経験が、全力で警鐘を鳴らしていた。
突如、辺りが暗くなる。空には太陽ではなく暗雲が立ち込めていた。おかしい。こんな天気では無かったはず。
悪寒が背筋を走った。その薄ら寒い感覚には覚えがあった。
「……イービル!?」
眼前に広がっていく、黒雲のような靄。
無形の悪意が、うぞうぞと地を這いながらその気配を強めていた。
「アリサちゃん、こっちに!」
私は山道に立ち尽くしていたアリサちゃんの身体を抱き寄せる。
小さな身体は硬直して震えていた。その黒い瞳が、真っ直ぐに前方を見つめている。
アリサちゃんの視線の先には、十字に吊られた体勢でゆっくりと宙に浮き上がっていくサオリンの姿があった。
あの時と一緒。遠足に出かけた私の目の前で、サオリンがイービルに連れて行かれそうになった時と。
「サオリンッ!」
大声で叫ぶ。サオリンに反応はない。気を失っているのか。それとも、既に。
不吉な予感が脳裏をよぎる。血の気が引く冷たさが背筋を伝う。だめだ。取り戻さなきゃ。でもどうやって?
答えはたった一つだった。
ここにポプリンはいない。私はもう魔法少女じゃない。けれど、ただここで震えている訳にはいかない。
イービルを止めなくては。
サオリンを守らなければ。
私は、リュックのポケットに手を伸ばした。
そこにしまわれていた、ぼろぼろの紙袋に触れる。胸の鼓動が激しい。自分の荒い呼吸が嫌にうるさく聞こえる。もしこの中に何も入っていなかったら、思い出の全てが虚な幻でしか無いと思い知らされてしまったら、きっと私はもう正気ではいられないだろう。
怖い。大切な思い出が”すべて嘘だった”と証明されてしまうのは何よりも恐ろしい。
紙袋を持つ指が震える。
躊躇している間にも、サオリンの身体は渦を巻く暗闇の中へと呑み込まれていく。
ダメだ。このままじゃ……。
その時、ギュッと何かが私の手を握った。
アリサちゃんだった。
潤んだ瞳が真っ直ぐに私を見つめている。
戸惑いと恐怖の感情を抱きながら、それでも彼女は確かに私を守ろうとしていた。
震える私を、勇気づけようとしていた。
(そうだ……)
私は自らの拳にギュッと力を込めた。
(怖いのは、私だけじゃない)
しっかりと紙袋をつまみ、封をあける。
(それでも、守りたいものがあるから……)
ビリ、と音を立てた紙袋に私は指を差し込んだ。爪の先に、触れる感覚。
(私は、信じるんだ!)
最後のロリポップ。夢色のロリポップ。
その柄を右手でしっかりと掴み、紙袋から溢れ出した夢色の光芒の中で、私は最後の変身を果たした。
「ん……あ、あれ。私、寝ちゃってた?」
三角山の展望台。草むらに敷いたレジャーシートの上。
瞼を開いたサオリンは、ゆっくりと身体を起こした。
「うん。きっと疲れてたんじゃないかな。なんか飲む? 麦茶あるよ」
「ああ、ありがとう……」
サオリンはまだ意識がはっきりとしていない様子のまま、私の差し出したコップを受け取った。きっとイービルに囚われてしまった事も覚えてはいないだろう。
でも、きっとその方がいい。
イービルがいなくなった事で、この場に立ち込めていた暗雲は去り、辺りは陽に満ちている。絶好のピクニック日和だ。
「アリサちゃんもどうぞ」
シートの上にちょん、と座るアリサちゃんに麦茶の入ったコップを手渡す。彼女は無言のまま、それを受け取った。つぶらな瞳は、私ではなく、何もない空間へとぼーっと向けられていた。
得体のしれない存在、イービルを目にした彼女は、泣くでもなく、取り乱すでもなく、ずっと私の側についていてくれた。
こちらが考えている以上に肝が据わった子なのだ。学校を休みがちだ、と聞いていたけれど、きっとこの子は大丈夫だろう。
私はなんとなくそう思った。
麦茶を喉に流し込み、空を仰ぐ。遮蔽物のない山頂の展望台には心地よい風が吹き抜けていた。目を閉じ、肌で感じる。
心地いい。
凝り固まっていた何かが、ゆっくりと解れていくような気分だった。
最後のロリポップはもうこの手にない。
長い間、私を心を支え続けていたお守りは、最後の輝きを放ち、光の粒となって消えた。
けれど、これでいい。
これでよかったのだ。
むしろ、最後のロリポップを大切に持ち続けてきたのはこのためだったのだと、私は不思議と納得ができていた。
展望台からの景色を楽しみながら、私たちはバスケットの中身を広げた。サンドイッチに卵焼き、色とりどりのおかず。お腹が空いていたのか、アリサちゃんはキラキラと目を輝かせて、次々にお弁当を食べてくれた。私とサオリンは、そんなアリサちゃんの姿を目にして、自然に微笑みあっていた。
私たちは他愛もないおしゃべりに花を咲かせた。時間はあっという間に過ぎ、気が付けばバスケットも空になっていた。
「それじゃあそろそろ帰ろっか」
腕の時計を確認し、サオリンが立ち上がる。
広げた食器やレジャーシートを片付けていると、誰かが私の服の裾を引っ張った。
振り返るとそこにはアリサちゃんがいた。
「どうしたの?」
アリサちゃんは少し俯きながら、呟くように小さな声を発した。
「……ありがとう、だって」
「……え?」
初めてアリサちゃんが話しかけてくれた事に小さな感動を覚えながら、私はもう一度聴きなおした。
「忘れないでいてくれてありがとう、だって。伝えてほしいって、言われたから」
「えっと……誰にかな?」
アリサちゃんの指は、何もない空間に向けられていた。そこには何もない。大人の私には何も見えない。
「くるみちゃんが忘れないでいてくれたから、またここに来れたんだ、って。守る事ができたんだって、あの子が言うから」
アリサちゃんの真っ直ぐな瞳が私を見つめている。
私と、その傍にいる「あの子」の事を。
私には、もう見えない。
声も聴こえない。
けれど、ポプリンは確かにそこにいた。
私の頬を、熱い涙が伝っていった。