彼女は毎朝電車に乗って仕事に行く。『事務員』という立場にあると以前言っていた。偉いわけではなく、むしろ最下層で雑務や雑用を押し付けられる会社の駒だと嘆いてもいた。そんなに嫌なら辞めればいいのに、と思ったけどそういう訳にはいかないらしい。
色々と大変そうだな、頑張れ、と労うことしかできなくて、僕はとっても歯がゆい。
「バウバウ!」
道を歩いていると大きな犬に吠えられた。門の向こう側にいる犬は僕にどうしたって触れない。怖くないのでいつも無視している。
朝の散歩はわりと気持ちがいい。チュンチュン鳴くスズメや風を待つ花々、卵焼きの匂い、洗濯物の匂い……聴覚と嗅覚が喜ぶ世界で、僕はとても好きだ。
「サエキさん、おはようございます。今日は暑いですね」
「あら、キタダさん。おはよう。ね、ようやく夏が終わったと思ったのにぶり返してきたみたい」
「ですよね~。いなくなった蝉が生き返りそうです~」
僕のすぐ近くを歩く女性二人がそんな会話をしながら駅方面へ歩いていった。そうか、もう夏が終わったのか。季節の移ろいというものは、なんて儚いものなんだろう。
***
彼女と再会したのは、初めて出会った冬から五年くらい経った春だった。施設を抜け出した僕は見慣れない街の中を当てもなく歩いていた。
人が多すぎて目眩がした。でももしかしたらこの中に彼女がいるかもしれない、と必死になって目を凝らした。
一度会っただけの彼女に執着しているなんて笑われるだろう。それでも、僕は彼女のことがずうっと頭から離れなくて、恋しくて、悲しくて、寂しかった。また彼女の隣に座って温かい空間に包まれたい。そして今度は僕が彼女に温もりを分けるんだ。
人はこれを『恋』と呼ぶらしい。だから僕は、彼女の彼氏になりたいのだ。
交差点の横断歩道に差し掛かった。人が多かったのに、なぜか急に視界が開けた。そうするとすれ違う人たちの顔が一人一人確認できる。
前から、ウェーブがかった栗色の髪を緩く巻いた女性が歩いてきた。パステル調の黄色いカーディガンを羽織り、手にはお財布を持っている。
桜の木なんてないのに、彼女の上には桜の花びらがひらひらと舞っていた。一度会っただけの人を、五年経っても分かるのかなんて怪しまれるかもしれないけれど、僕は嗅覚が優れているので分からないわけがなかった。
もちろん彼女は僕に気がつかない。真っ直ぐ前だけを見て横断歩道を渡っている。僕のすぐ横を、彼女が通る。
「あのっ!」
勇気を振り絞って僕は彼女に声を掛けた。振り向いてくれるわけないと思っていた。僕の声なんて小さくて聞こえるはずないと思っていた。
「はい?」
彼女は立ち止まって僕を振り返った。ふわりと香ったシャンプーが僕の心を乱れさせる。
奇跡だとしか言いようがなかった。
まさか振り返ってもらえるなんて思わなくて、呼び止めたくせにその後のセリフは考えていなかった。だから「あの、えっと、その……あの、僕……」としどろもどろになっていると、彼女は急に目を見開いた。
「あれ、もしかして、あの時の……?」
「そうです、五年前、あなたに助けられた……」
「やっぱりそうだ! ウソ、夢みたい! こんなところで再会するなんて!」
パッと明るくなった彼女に、僕も自然と笑顔になった。歩行者の信号が点滅を始めたので慌てて渡りきる。
「わぁ、ホントにすごい。え、五年? もうそんなに経った? 大きくなって……っておばさんみたいだね」
彼女は明るくて温かくて、太陽みたいな人だった。
この笑顔を僕が守りたい。
強く、そう願った。
色々と大変そうだな、頑張れ、と労うことしかできなくて、僕はとっても歯がゆい。
「バウバウ!」
道を歩いていると大きな犬に吠えられた。門の向こう側にいる犬は僕にどうしたって触れない。怖くないのでいつも無視している。
朝の散歩はわりと気持ちがいい。チュンチュン鳴くスズメや風を待つ花々、卵焼きの匂い、洗濯物の匂い……聴覚と嗅覚が喜ぶ世界で、僕はとても好きだ。
「サエキさん、おはようございます。今日は暑いですね」
「あら、キタダさん。おはよう。ね、ようやく夏が終わったと思ったのにぶり返してきたみたい」
「ですよね~。いなくなった蝉が生き返りそうです~」
僕のすぐ近くを歩く女性二人がそんな会話をしながら駅方面へ歩いていった。そうか、もう夏が終わったのか。季節の移ろいというものは、なんて儚いものなんだろう。
***
彼女と再会したのは、初めて出会った冬から五年くらい経った春だった。施設を抜け出した僕は見慣れない街の中を当てもなく歩いていた。
人が多すぎて目眩がした。でももしかしたらこの中に彼女がいるかもしれない、と必死になって目を凝らした。
一度会っただけの彼女に執着しているなんて笑われるだろう。それでも、僕は彼女のことがずうっと頭から離れなくて、恋しくて、悲しくて、寂しかった。また彼女の隣に座って温かい空間に包まれたい。そして今度は僕が彼女に温もりを分けるんだ。
人はこれを『恋』と呼ぶらしい。だから僕は、彼女の彼氏になりたいのだ。
交差点の横断歩道に差し掛かった。人が多かったのに、なぜか急に視界が開けた。そうするとすれ違う人たちの顔が一人一人確認できる。
前から、ウェーブがかった栗色の髪を緩く巻いた女性が歩いてきた。パステル調の黄色いカーディガンを羽織り、手にはお財布を持っている。
桜の木なんてないのに、彼女の上には桜の花びらがひらひらと舞っていた。一度会っただけの人を、五年経っても分かるのかなんて怪しまれるかもしれないけれど、僕は嗅覚が優れているので分からないわけがなかった。
もちろん彼女は僕に気がつかない。真っ直ぐ前だけを見て横断歩道を渡っている。僕のすぐ横を、彼女が通る。
「あのっ!」
勇気を振り絞って僕は彼女に声を掛けた。振り向いてくれるわけないと思っていた。僕の声なんて小さくて聞こえるはずないと思っていた。
「はい?」
彼女は立ち止まって僕を振り返った。ふわりと香ったシャンプーが僕の心を乱れさせる。
奇跡だとしか言いようがなかった。
まさか振り返ってもらえるなんて思わなくて、呼び止めたくせにその後のセリフは考えていなかった。だから「あの、えっと、その……あの、僕……」としどろもどろになっていると、彼女は急に目を見開いた。
「あれ、もしかして、あの時の……?」
「そうです、五年前、あなたに助けられた……」
「やっぱりそうだ! ウソ、夢みたい! こんなところで再会するなんて!」
パッと明るくなった彼女に、僕も自然と笑顔になった。歩行者の信号が点滅を始めたので慌てて渡りきる。
「わぁ、ホントにすごい。え、五年? もうそんなに経った? 大きくなって……っておばさんみたいだね」
彼女は明るくて温かくて、太陽みたいな人だった。
この笑顔を僕が守りたい。
強く、そう願った。