ただ僕が望むのは、彼女の彼氏になりたいということだ。
「やっば、遅刻する! 猫氏ごめん、ご飯ここ置いとくね!」
猫に『猫氏』と名前を付けるあたりが好きだなぁと思ってしまうドタバタな朝。
「了解。気をつけて行って来てよ」
「行ってきまーす!」
玄関を出てガチャガチャと鍵を閉めた彼女の足音が遠のいていく。会社勤めをしている彼女は時間の予測が苦手なのか、ほぼ毎朝忙しなく動いている。最初は「うるさいな」と思っていたが、慣れればなんてことない、いつもの風景と化した。むしろこうじゃないと落ち着かないくらいだ。
彼女が出ていくと途端に部屋は静まり返る。僕はエサをチラ見して大きく伸びをした。
カーテンを開けた窓から、暖かい光が差し込んできた。春の匂いがする。
僕は猫窓にスッと身体を入れ込むと、そのまま外へ出た。
***
僕が彼女と出会ったのは、冬の海だった。
その日は風が吹いていてとっても寒くて、僕はブルブルと身体を震わせながら浜辺に座っていた。どうやってその場所に行ったのかは全く覚えていないけれど、とにかく寒くて寂しくて心細かった。
「やだ、なにしてるの? そんなとこにいたら寒いよ! とりあえずカイロどうぞ」
そうやって駆け寄ってきてくれたのが彼女だった。
彼女は「家に連れて帰ってあげたいけど、お母さんに怒られるから……」と申し訳なさそうに僕に言ったけど、僕は彼女が隣にいてくれるだけで心がポカポカして温かかった。
彼女はたくさん話をしてくれた。通っている学校ではこんなことが流行ってる、とか、こんなことして遊んでる、とか、こんなこと勉強してる、とか、学校の話ばかりだったけれど楽しそうに話してくれる姿に、僕は自然と笑顔になっていた。
そのあと僕は施設に預けられた。
捨てられた子や、家庭の事情でお世話ができなくなった子がたくさん預けられていて寂しくはならなかったけれど、彼女にもう一度会いたいという想いは日に日に募っていった。
大きくなったら絶対に彼女に会いに行くんだ。
僕はそれだけを目標に毎日を過ごしていた。
彼女は毎朝電車に乗って仕事に行く。『事務員』という立場にあると以前言っていた。偉いわけではなく、むしろ最下層で雑務や雑用を押し付けられる会社の駒だと嘆いてもいた。そんなに嫌なら辞めればいいのに、と思ったけどそういう訳にはいかないらしい。
色々と大変そうだな、頑張れ、と労うことしかできなくて、僕はとっても歯がゆい。
「バウバウ!」
道を歩いていると大きな犬に吠えられた。門の向こう側にいる犬は僕にどうしたって触れない。怖くないのでいつも無視している。
朝の散歩はわりと気持ちがいい。チュンチュン鳴くスズメや風を待つ花々、卵焼きの匂い、洗濯物の匂い……聴覚と嗅覚が喜ぶ世界で、僕はとても好きだ。
「サエキさん、おはようございます。今日は暑いですね」
「あら、キタダさん。おはよう。ね、ようやく夏が終わったと思ったのにぶり返してきたみたい」
「ですよね~。いなくなった蝉が生き返りそうです~」
僕のすぐ近くを歩く女性二人がそんな会話をしながら駅方面へ歩いていった。そうか、もう夏が終わったのか。季節の移ろいというものは、なんて儚いものなんだろう。
***
彼女と再会したのは、初めて出会った冬から五年くらい経った春だった。施設を抜け出した僕は見慣れない街の中を当てもなく歩いていた。
人が多すぎて目眩がした。でももしかしたらこの中に彼女がいるかもしれない、と必死になって目を凝らした。
一度会っただけの彼女に執着しているなんて笑われるだろう。それでも、僕は彼女のことがずうっと頭から離れなくて、恋しくて、悲しくて、寂しかった。また彼女の隣に座って温かい空間に包まれたい。そして今度は僕が彼女に温もりを分けるんだ。
人はこれを『恋』と呼ぶらしい。だから僕は、彼女の彼氏になりたいのだ。
交差点の横断歩道に差し掛かった。人が多かったのに、なぜか急に視界が開けた。そうするとすれ違う人たちの顔が一人一人確認できる。
前から、ウェーブがかった栗色の髪を緩く巻いた女性が歩いてきた。パステル調の黄色いカーディガンを羽織り、手にはお財布を持っている。
桜の木なんてないのに、彼女の上には桜の花びらがひらひらと舞っていた。一度会っただけの人を、五年経っても分かるのかなんて怪しまれるかもしれないけれど、僕は嗅覚が優れているので分からないわけがなかった。
もちろん彼女は僕に気がつかない。真っ直ぐ前だけを見て横断歩道を渡っている。僕のすぐ横を、彼女が通る。
「あのっ!」
勇気を振り絞って僕は彼女に声を掛けた。振り向いてくれるわけないと思っていた。僕の声なんて小さくて聞こえるはずないと思っていた。
「はい?」
彼女は立ち止まって僕を振り返った。ふわりと香ったシャンプーが僕の心を乱れさせる。
奇跡だとしか言いようがなかった。
まさか振り返ってもらえるなんて思わなくて、呼び止めたくせにその後のセリフは考えていなかった。だから「あの、えっと、その……あの、僕……」としどろもどろになっていると、彼女は急に目を見開いた。
「あれ、もしかして、あの時の……?」
「そうです、五年前、あなたに助けられた……」
「やっぱりそうだ! ウソ、夢みたい! こんなところで再会するなんて!」
パッと明るくなった彼女に、僕も自然と笑顔になった。歩行者の信号が点滅を始めたので慌てて渡りきる。
「わぁ、ホントにすごい。え、五年? もうそんなに経った? 大きくなって……っておばさんみたいだね」
彼女は明るくて温かくて、太陽みたいな人だった。
この笑顔を僕が守りたい。
強く、そう願った。
彼女を見守るのが僕の使命なので、仕事が終わるのを外で待つ。時々「やほー」とか「今日は暑いねぇ」などと話し掛けられる。適当に返事をしながら一日を過ごすのが僕のルーティンだ。クワッと欠伸をすると、ホコリかゴミか分からないものが目の前でふわふわと踊った。
彼女の仕事時間は朝八時から夕方五時までらしい。たまに残業をして遅くなる日もある。僕はいつも職場から彼女が出てくるのを待って、出てきたら先回りして家に帰る。そして玄関で「おかえりなさい」と待つのだ。
職場を出た彼女の顔は割といつも暗いのだが、家に帰ってくると「猫氏~」と言って顔をとろけさせる。その瞬間が僕はすごく好きで、思わず彼女を抱き締めたくなる。
そんなことは到底叶わないけれど。
あーあ。生まれ変われるのならやっぱり人間がいいな。どうしてこんな姿になっちゃったんだろう。まぁ快適でいいんだけど。自由気ままだし。このままで大丈夫かな、という不安はあるけれど。
夕方になるのはとても早い。彼女の会社から続々と人が出てきた。定時上がりが多い会社だと前に彼女が言っていた。「ホワイト企業に勤められてよかった」とも言っていたが、僕には何のことだかさっぱり分からない。
彼女が出てきた。いつも同期の女の人と出てきて「また明日」と言って会社前で別れるのだが、今日は並んで駅方面に歩き出した。
あ、飲んで帰るんだ、と僕は察した。
時々二人はこうして、活気溢れる駅前通りを歩いて美味しそうな香りのするお店に入っていく。どうやらたくさんお喋りをするらしい。
こうなると僕もついて行かざるを得ない。
「八十郎でいいよね」
「うん。私ここの焼き鳥大好きなんだ~。安いし美味しいし最高だよね!」
女性二人は楽しそうに歩いて八十郎という居酒屋に入っていった。僕もスルリと身を滑らす。
「らっしゃいあせぇー! 二名様カウンターへどうぞ~!」
「どうぞ~!」
ハチマキを巻いた威勢のいい店員さんたちが二人をカウンターに案内する。誰も僕には気づいていないようだ。
店内は二人だけでなくたくさんの人で賑わっていた。陽気に喋る男の人、顔を真っ赤にした大きな男の人、笑い声が大きな女の人……みんな楽しそうで薄暗い店内も明るく感じる。
彼女と同期の子は「とりあえずビールで」と飲み物を注文した。
「どうよ最近。向坂、何かいい話ないの?」
向坂、とは彼女の名字である。彼女は同期に苦笑いを返した。
「ないよ、全然、全く、ビックリするくらい何もない」
「なにそれー。超絶つまんない」
「そういう田辺はどうなのさ。彼氏とはうまくいってんの?」
「ったり前でしょー。うちらが終わったら他のカップル即全滅よ」
「……どういう意味?」
他愛のない話が、二人の間には割って入れないようなスピードで展開されていく。僕はボーッと二人の様子を眺めていた。彼女が楽しそうなら僕も楽しいのでずっと眺めていたいような気もする。
「そういえば常務と香織先輩、デキてるっぽいよ」
「え、うそ、マジで? ヤバ、なに情報?」
「情報屋、田辺記者情報」
「信憑性ないよ」
会社に仲睦まじい同期がいることはとてもいいことだ。彼女が明るく生きているのも同期のおかげと言っても過言ではない気がする。ありがとう、田辺さん。
安心しきっていたところに、彼女の表情が急に暗くなった。
「でも私、やっぱり自分は幸せになるべきじゃないと思ってる。あの子を差し置いて自分が幸せになるのは……無理かな」
「え、あんたまだそんなこと言ってんの? 何年経ったよ? 五年? 六年? えーと、名前なんだっけ? トサカ? トクラ?」
「……戸田一誠君だよ」
「そうそう、その戸田君もあんたを守れて良かったって思ってるって。お墓参りとかよく行くんでしょ? 私はもう充分恩を返してると思うけどなぁ」
そう言って同期の子は店員さんが持ってきてくれたビールを呷った。一方で彼女は握りこぶしを作って膝の上に置いている。同期の子の言葉に、グッと力を入れたのが見えた。
「足りないよ、全然。私の身代わりになってくれた恩なんて、返しきれるもんじゃないよ」
「まぁ、そうかもしれないけど……」
「戻りたいよ、あの日に。戻って、やり直したい。もう二度と同じ失敗は繰り返さないから」
「向坂……」
下唇まで噛みだした彼女の背中を、同期の子が優しくさする。彼女の言葉に、僕は泣きそうになった。そんな風に思わせてしまっているのは紛れもなく僕で、僕もあの日に戻れるなら戻ってもう一度やり直したい。どうして過去に戻れないのだろう。
「…………っ」
とうとう彼女は泣き出してしまった。
僕は思わず声を上げた。
「そうだよ、同期の子の言う通りだ。もう充分だよ。もう充分、僕は返してもらってるよ!」
こういう時に抱きしめて僕の鼓動で彼女の気持ちを落ち着かせたいのだけれど、彼女に触ろうとしても空を切るだけ。そして僕の声なんて微塵も届かない。
幽霊の僕にできることなんて、何もないのだ。
僕たちは再会してから時々会うようになった。僕が高校二年生、彼女が社会人一年目。
僕が暮らす養護施設から彼女の住む町までは、電車で二十分ほどの距離だった。会いに行こうと思えば充分に会いに行ける距離。でも高校生で養護施設育ちの僕に財力なんてあるはずもなく、付き合ってもいないのに僕が会いたいからと言って毎日会いに行くことも許されるはずがない。だから月に一度か二度ほど会うだけだった。
「うちにね、黒猫がいてね。『猫氏』って」名前なんだけど」
「猫に『猫氏』? 『タマ氏』じゃなくて?」
「うん。保護猫なんだけど、ずっと名前を決められなくて……仮で『猫氏』って呼んでたんだけど、結局それに落ち着いちゃったの」
「へぇ。でも、なんかいいね」
駅前のカフェで向かい合っておしゃべりをするこの時間が、僕にとっては何よりも大切な時間だった。気のせいかもしれないけど、僕と会う時は少しだけオシャレをしてきてくれるのも嬉しくて、日に日に好きだなぁという想いは募っていった。
告白をしたら頷いてくれるだろうか。年下なんて範疇外かな。彼女にとっての僕ってどんな存在なんだろう? 友だち? 弟?
再会してから半年が経ったある日のことだった。その日は一ヶ月ぶりに彼女に会えるとあって、足取りが軽かった。でも心臓はバクバクしていた。
この日、僕は彼女に告白しようとしていた。好きだという気持ちが溢れて抑えられなくなっていて、伝えることによって名前のない関係から少しでも進展させたかったのだ。
でも拒否されたら全てが終わる。月に一、二度会ってカフェで話をするだけの関係でさえもなくなってしまう。そんな恐怖を抱えながらも男の僕は彼女に告白することを心に決めた。
期待と不安で歩調が速くなったり遅くなったりまちまちになる。でも結局は早く会いたいという想いが勝って、早歩きになった。
横断歩道の信号に引っかかった。ここを渡った先のカフェが、彼女との待ち合わせ場所だ。天候は晴天、告白日和。
早く信号が変わらないかな、と足踏みをしていると、僕の視界に見紛うはずのない女性の姿が映った。
彼女だ。カフェに向かって歩いている。秋らしいシックなカラーワンピに黒いボウタイを巻いたフェミニンなコーデ。ストレートなシルエットに思わず見惚れてしまった。
——完全にデートの装いだよね? ただの高校生男子とお茶をするだけなのにそんなオシャレ、普通はしないよね?
都合のいい方に考えるとすごく嬉しくなって、僕は横断歩道の向こう側にいる彼女に大きく手を振っていた。
「おーい! 向坂さーん! おーい!」
彼女が振り向いたと同時に横断歩道の信号が青になった。
「戸田君!」
気づいた彼女が手を振り返してくれる。僕が横断歩道を渡り始めると彼女も反対側から来てくれた。
このまま距離がなくなるほど近づいたら、思わず抱きしめてしまいそうだ。でも、それもいいな。華奢な身体を抱きしめて耳元で「好き」って囁いたら、大人っぽいかな。ドキッとさせられるかな。
そんなことを考えながらゼロ距離になるまであと一メートルを切った時だった。
「危ないっ!」
突然、彼女の声ではない女性の声がした。それと同時に僕たちを照らしていたはずの太陽光が届かなくなった。不思議に思っている暇なんてなかった。
大きなトラックが、僕たちのすぐ横まで来ていた。
「ちづるっ!」
抱きしめようとした自分の手で、彼女の肩を強く押した。今思えばそんなに強く押さなくてもよかったと後悔しているけど、その時の僕はどんな力を使ってでも彼女をトラックから遠ざけないと、と反射的に手が出ていた。
トラックが僕に当たった感覚は全くなかった。痛いとか苦しいとか、負の感情もなかった。当たらなくなっていた太陽の光が、僕の目を突き刺して思わず目を瞑っていた。
身体が浮遊感を覚えた時、彼女がどんな顔で僕を見ていたのかは分からない。見ていたのか見ていなかったのかすら分からない。けど、ひとつだけ確かだったことがある。
「一誠君っ!」
彼女の声は、しっかりと僕に届いていた。彼女のことに関しては、見間違えることもなければ聞き間違えることもない。
——僕たちは両想いだったのだ。
彼女の彼氏になったら、したいことはたくさんあった。
映画館デートに水族館デート、動物園デートにちょっと遠くへ旅行もしたかった。
誰の目にも見えない幽霊になって彼女に付きまとっているなんて、未練がましいと思われるかもしれないけれど、どちらかというと僕は守護霊であるので、付きまとわないと意味がない。
「猫氏、ただいま」
浮かない顔をした彼女が居酒屋から帰ってきた。玄関で出迎えた猫氏は「ニャーオ」と小さく鳴いて踵を返す。僕は彼女の前に立って「おかえり、ちづる」と出迎えた。
「…………」
もちろん返事はない。彼女は冷蔵庫を開けてペットボトルの水を呷った。
「猫氏ー、聞いてー。常務と香織先輩、デキてるらしい。明日からどんな顔して香織先輩と接すればいいんだろう……」
彼女はキッチンから猫氏に向かって愚痴をこぼす。猫氏は聞いているのか聞いていないのか、伸びをしながらクワッと欠伸をした。
ローテーブルには『ご出席・ご欠席』と書かれた華やかな手紙と、『10/8七回忌』と書かれたノートの切れ端が置いてある。
「気まずいよねぇ……って、ちょっと、猫氏、聞いてる?」
猫氏は顔を洗い始めた。彼女の話に全く耳を傾けていないようだ。でも『人間も大変だなぁ』くらいは思っているかもしれない。幽霊である僕でも猫氏とは会話ができないので真相は闇の中だ。
彼女はテレビも点けずにローテーブルの前に座った。体育座りで顔を両ひざにうずめる。僕もその隣に座って、彼女の体温を感じた。
どうして僕は彼女の体温を感じられるのに、彼女には僕の体温を分けられないのだろう。触れようと手を伸ばしてみても、彼女には触れられない。その事実は僕の胸を痛いくらいに締めつけた。
すると猫氏がゆっくりと彼女の横にやってきて、前足を横腹にかけて立ち上がった。どうやら顔を覗き込もうとしているらしい。しばらく彼女は無言だったが、突然フッと鼻で笑うような音を出した。
「ちょ、猫氏、くすぐったい……!」
横腹は弱点らしい。なるほど、覚えておこう。
彼女は猫氏を抱き上げた。
「気にしてくれてるの? ありがと。ちょっと元気出た」
「ニャーオ」
「んふふー。猫氏猫氏ぃぃ」
お腹に顔を近づけて匂いを嗅ぐ彼女。猫氏は抵抗せず、されるがままだった。
猫氏に嫉妬するなんて僕もまだまだだけど、生者と死者の壁はどうやったって超えられない。でも人間と動物の壁もどうやったって超えられないので、お相子だと思っている。
「あー、癒される~」
彼女がとろけるような顔を見せるのなら、それでいいかなと思う。そんな彼女のそばにそっと寄り添えることができるのなら、それでいい。
「猫氏、大好き」
「ニャーオ」
「……猫氏ズルい。ちづるは僕のなんだけど」
「猫氏猫氏ぃぃぃ」
彼女の猫氏に対する愛が深すぎるところを見せつけられると、やっぱり彼女の彼氏になりたい、と思う僕だった。
END.