それから五日後。
姫が「偶に本を読んでもいいじゃない?」という提案の元で、一同は図書室にやってきた。普段は数独をやるために図書室に訪れていたため、『図書室は本を読むためにある場所』という常識を亮はすっかり忘れていたようだ。
彼が本選びに悩んでいる際に、みおは一冊を抱えてとことこと姫の元へ。
「お姉ちゃん、これを読んで読んでぇ~」
姫が渡された本に目を落とすと、碧眼に微笑を浮かばせた。どんな本なのか気になって、亮は姫の肩越しに覗いては「お、いいね」と漏らす。
二人の表情から、青い海と広がる夏の空が描かれた表紙が、二人の心にほんのりと懐かしさを呼び起こしたと見受けられる。
「是非とも、姫の美声で読んでいただきたい!」
「……はいはい」
姫が苦笑交じりに言う。さり気なく亮も聞くことになったが、彼女は無粋なツッコミをせず、絵本の読み聞かせを始めた。
一通り読み終えた頃、みおは頭を上げてこう尋ねる。
「ねえねえ、海ってどんな感じなのぉ~?」
どうやって説明しようと悩んでいる姫の代わりに、亮はパッと両腕を広げた。
「水がいっっっぱいあるところで、一言では表せないような素敵な場所デスヨ!」
「……それだと、ほぼ説明になってないのでは」
「ええ~! じゃあ、海はすっごく大きいところなのぉ~?」
「イエス☆」
「すごぉぉぉい!」
目を輝かせるみおとは対照的に、まさかあんな抽象的な説明だけで伝わったと露程思わず、姫は苦笑い。けれど、次にその口から零れ出たのは、小さなため息だった。
「みおも海、行きたいなぁ~」
ポツリと落とされたささやかな願いを叶えてあげたい。姫はちらっと亮の方を見ると、丁度目が合った。
きっと彼も同じことを考えている。
そう確信した彼女はみおにバレないように、彼と小さく頷き合った。
その日、二人はみおと別れてから行動に移した。
運転とその他諸々は雅代に任せることになったとしても、肝心の外出許可が下りなければ何の意味も成さない。そのために、姫は看護師長室に足を運んだ。
「……失礼します。あの、外出届が欲しい……ですけど」
予想外の来訪に、看護師長はビックリ。
この7年間、姫からこちらに出向いたことは一切なかった。その上に、自分の人生を投げ出したと思っていた患者がいきなり外出届が欲しいと言ってきたもんだ。
驚かないわけがない。彼女の成長を見ることができて嬉しい一方、自分が彼女の成長過程に傍にいられなかったことに悲しみすら覚えた。
一般の患者なら医師の許可が必要だが、残念ながら現在の彼女には医師が付いていない。そのため、その許可は担当看護師である看護師長に一任されることになった。
だから彼女は、本人さえ申請すれば許可を出すつもりでいた。あっさりと外出届をもらえて少し拍子抜けた姫の様子を見て、安堵の笑みが零れた。
だけど悟られないように、すぐにいつもの仏頂面に戻る。記入された外出届をざっと目を通して、看護師長はこくり。
「はい、これで終わりです。もう戻っても結構ですよ」
彼女の素っ気ない態度に姫は微妙な緊張感を抱きつつも礼を言い、部屋を後にする。謎の安堵感に包まれる中、ドアノブに手を伸ばし扉を閉める。
それが完全に閉まろうとした時、
「気を付けて行ってらっしゃい」
「……え」
聞いたこともないような優しい声音に反応するもドアの存在が返事の妨げになってしまい。完全にタイミングを逃した姫はそのまま談話室に戻っていった。
同時にその頃、スタッフステーションで外出届を記入している亮の傍らに、木村さんが事情を聞き出すことになった。
「そっか。みおちゃんのため、か……」
一通り事情を聞いた後、彼女はどこか感慨深げに呟き、目を細める。
当初の頃、亮がスタッフステーションを通る度に必ず冗談を交えて挨拶するため、多くの看護師に嫌われていた。
しかし、最近になってそれが緩和されたのは、実は彼が案外いい人だということに気付いた看護師が多数いるからだ。その中には木村さんが含まれているのは、言わずもがなのこと。
最初は亮のことをただの頭おかしな患者だと思っていたが、彼と共に過ごして、徐々に彼の人となりをある程度知ることができた。
そして今回、彼が実際に他人のために行動している姿を目の当たりにすると、彼に対する印象がより一層好転したことにも納得がいく。
そう。亮の人柄を知っていたからこそ、今こうして目前でウキウキしながら記入する彼の姿を見ると、言いづらいこともある。
「だけど、みおちゃん担当の先生が、許可しないかもしれないよ?」
「ええー。そんなの、聞いてみないと分からないものじゃあありませんカ!」
「そりゃまあ、そうだけど……」
木村さんが歯切れ悪く答えてから、二人の間には短い沈黙が訪れた。
「……もし、外出できるのは鶴喜クンと姫さんだけだとしたら?」
「その時はその時さ」
はい、と共に外出届が手渡され、目を落とす。
彼女自身も気付かぬうちに表情が沈んでいた。しかし、マイナス思考の螺旋に陥るよりも前に彼の「でも」が聞こえて、すぐに頭の片隅に追いやった。
「ハッ、そうか! ひ、姫と二人きりでででで、デートゥができるのカ! ぐっふっふっふ、やはり綾乃さんはやらしいぅ~発想の天才ですなぁ~」
「うん。とりあえず鶴喜クンの中で、アタシがどんな印象なのかがよぉーく分かったよっ」
「はいたたた、はいたたたたたっ。いひなりだなんで、わはっでまふねぇ」
木村さんが亮の頬をつねると、笑いが起こって慌てて手を引っ込めた。だけど、その笑いは冷やかすものではなく、和やかなものだと知るには数分間かかる。
そして、彼女自身もまた、この小さくて温かな輪に助けられていたのだと気付くには、更なる時間が必要だった。
「……そうね。早く彼女を連れてってあげないとね」
そう言った時の木村さんの表情は、紛れもなく笑顔だ。だけど、その微笑にはほんのりと切なさそうな影がさしているように見えなくもなかった。
その後、亮は彼女にみおの担当者に関する情報を教えてもらい、みおの代わりに掛け合った。だけど木村さんの予想とは裏腹に、翌日になってみおの許可が意外にもあっさりと下りた。
そして、いよいよ待ちに待った日がやってきた。普段の淡白な病人服から脱却し、三人は私服姿で海に到着。
無論、普通の車椅子だと砂浜の上で漕げないから、彼が暴れ出すよりも先に雅代が彼を確保し、現場で砂浜用車椅子を借りて乗り換える。
しかし一人の力だけでは彼を抑えるには到底叶わず、姫とみおも彼女を手伝った。乗り換えることに成功して、一緒に閑散とした浜辺を歩く。
「すごぉーい。海なのに静かだね、お姉ちゃん」
「……もう秋だからね」
「冬になったらどうなるの?」
「……更に人が来ないんじゃない? それこそ、夏でもない限りは」
「へえー、そうなんだぁ~」
みおは姫と繋いだ手を軽く振り回しつつ、感心する。
実際に海に来たことがあるのなら、このような質問をしないはず。だとすれば、今回はみおにとって初めての海になるだろう。けれど、こんな人気のない海がみおの初めてになるのは少し不憫だと、姫は感じた。
――もし季節が夏で、服も私服ではなく水着だったら、もうちょっと雰囲気あるのに。
姫は静かに揺れる波間に目を向けて、小さく息をついた。
『万が一があったらすぐに病院に戻る』という条件で外出した以上、できればこれ以上のリスクを冒したくない。だから、このような形に落ち着いたけれど、やはりどこか物足りなさを感じてしまう。
しんみりとなった姫の背中に気付いたや否や、亮は一際明るい声で静けさを破る。
「ヨシ! 追いかけっこをしようか、みおちゃん!」
「下郎貴様、ただワタシにリベンジしたいだけなのでは」
「ピンポンピンポ~ン! だーいせいかぁーい! さすが雅代さん、今日も冴えてますなぁ~。いてッ」
雅代にぺちっと頭を叩かれ、反動で前のめりになった亮。少し大袈裟っぽく演出するように、彼は後頭部を押さえつつ座り直す。
亮が言った『リベンジ』というのは、彼を確保した際に『姫とみお』という彼にとって効き目があり過ぎる防衛ラインを雅代が張ったとのこと。
当時、彼を逃すまいと二人は両腕を伸ばした。そして、見事に術中に嵌った亮は「参りましタ!」と降参したおかげで、あっさりと彼を捕獲ならぬ、確保できたというわけだ。その腹いせに雅代に復讐したくなるのにも頷ける。
「全く、このワタシを辱めたいという魂胆が丸見えでございますね。全力で断っていただきます」
「ええ~、マイターお姉ちゃんも一緒に遊ぼうよぉ~」
「僭越ながら、全力でお相手させていただきます、みお様」
雅代から手のひら返しをされて気持ちを切り替えるように、亮はコホンと咳払い一つ。
「では、これより第一回――『姫の尻を頂く選手権』、スタートゥ!」
「……ちょ、ちょっと! どうしていきなり――」
何故か謎の選手権が開催され、しかも自分の身体の部位が賭けられたことに焦り出す姫。しかし、その言葉は某メイドには効果抜群で、聞いた瞬間に彼女の両目がいつになく鋭くなった。
「なにッ?! お嬢様のお美御尻は誰にも渡さん! とぅ!」
「って、雅代さああぁぁーん! お忘れ物しましたよぉぉぉ! 私を忘れましたよおおぉぉぉぉー!」
見事なスタートを切って自分を置いてけぼりにした雅代の背中に手を伸ばしても、空虚を掴むだけ。姫は雅代の姿を見て笑いながらも走り出すみおの小さな背を見送り、立ち尽くす。
例え場所が違っても、この四人と居れば落ち込む暇なんてない。間近で散々見てきたのに、ついつい昔の癖に戻ってしまう。
思い悩むのもバカバカしくなって、姫は唇だけで失笑して彼の隣を追い越す。
「……自分のものは自分で守らないといけないから、お先ね」
「そんなッ!? 姫にまで見捨てられ?! ハッ、もしやこれはいわゆるあの有名な放置プレー的なアレか?! 即ち、これはごほぉぉービッ! うひょぉー、ありがとうございます、神様ぁ~!」
その場で変なことを連発する亮を尻目に、姫は今度こそ声に出して笑った。いつの間にか彼女の心を占めている暗いものが晴れ、自分が“生きている”ことにより強く実感できる。
潮の匂いで胸がいっぱいになり、心地良い風に頬を撫でられる中で、彼女は内心で「ありがとう」と言う。
勝負は結局雅代の勝ちで終わったが、姫が嫌がるから話自体が無効になった。けれど、一方的に無効させられても勝者本人があまりに気にしていないのは、今まで散々美味しい思いをしてきたからだろう。
さざ波の音に傾けながら、白い浜辺を歩く一行。
せっかく海に来たのに、みおは歩きながら波が押し寄せて引いていく様子を眺めるだけで、一切近寄ろうとしない。そこで姫は彼女の背中を一押しすることに。
「……ここで見てないで、もうちょっと近くまで行ってみない?」
「え、入っていいのっ?」
上目遣いでそう尋ねてくるみおの声が弾んだ。
もし彼女に犬の尻尾が付いていたら、今頃ぱたぱたさせているだろう。姫がその様子を想像してみると、思わず笑いが込み上げてきた。
「……足くらいまでなら、いいんじゃない? あ、でも今は秋だから、冷たいのかどうかは分かんないけどね」
手を繋いだ二人は波打ち際へと近付いていく。そして海の手前で立ち止まると、姫がみおの足元に屈み込んだ。
「……はい、みおちゃん靴脱いで。入る前にこうやって裾をまくっておかないと濡れちゃうからね」
「お嬢様、反対側はワタシが」、と雅代も屈みこんでみおの裾を捲くる。
「へへへ、ありがとぉ~、お姉ちゃん! マイターお姉ちゃん!」
「うふふ、マイスターお姉ちゃんでございますよ、みお様」
みおのズボンの裾が捲くられ、膝から下が露わになった。姫は自らロングスカートをたくし上げて、彼女と同じ状態にする。
成長途中であるはずのみおと、成熟した大人であるはずの姫。年齢差があるはずの二人なのに、脚の細さはあまり変わらないように見えて。それが少しばかり雅代の心を締め付けた。
「よし、では私も……」、と亮までズボンの裾を捲くろうとした時に、
「ダメ。下郎、ハウス」
「ワン!」
雅代に止められたが、それにもノリノリで応えた。
あまりの可笑しさにみおは思わず吹き出し、姫に至っては困ったように笑う。そこで、みおは何か思い付いたかのような顔をし、「そうだ!」と姫を見上げる。
「ねえねえ、お姉ちゃん、『せーの』で一緒に入ろぉ~」
意外な提案にドキッとしつつも「う、うん」と受け入れる姫。
受け入れたとは言え、慣れないものをやろうとしたら自ずと表情が強張ってしまうもの。主人がカチコチになっている一方で、雅代は横でカメラを構えてスタンバイ。
車椅子の手押しハンドルから離れたとは言え、亮が勝手に離れられないと理解したからこその行動だろう。
すっかり置いてけぼりにされたことに怒り心頭の彼が、その場でてんやわんや騒いでいるが、彼をそっちのけでパーフェクトショットを撮ることに夢中だ。
姫がゴクリと固唾を呑み込んで、眼下で寄せては返す白い波を凝視。長い間を置いて、彼女はきつく結んだ唇をゆっくりと開けて――。
「……い、いくよ」
「うん!」
「……せ、せーの」
「えいっ!」
まるで明確な国境のラインを踏み越えるかのように、大きなアクションで漣の中へと足を踏み入れる二人。
白い足首が同時に水の中へと入った瞬間、みおが小さく跳ねる。
「つめたぁーい!」
「……そうね」
はしゃぐみおとは対照的な落ち着いた口調で返す姫。
しかし、その無邪気な表情が、何かしらの疑問を抱えるものに転じた。彼女は自らの足元をじっと見つめる。
「……どしたの?」
「本当にしょっぱいのかなぁ~と思って」
「……ああ、海が? この前も言ってたよね」
「うん。お兄ちゃんそう言ってるから」
そんなみおに、姫は笑いかける。
「……気になるなら、試しに舐めてみれば?」
「えっ、これ、飲めるのぉ~?」
「……まあ、本当はダメだけど。でも、ちょっとだけなら。こんな感じで、ね」
お手本を見せるように、姫は人差し指を海面に浸すと、濡れた先端を舐めてみせた。やってごらんと言わんばかりに彼女は視線で促すと、みおも海水で指を濡らした。そして、それを恐る恐る舌先へと運び――。
「あはは、しょっっっぱぁぁーい!」
海がしょっぱいであることを知り、みおは大はしゃぎ。その後、彼女は海水の冷たさを味わいつつも、笑顔で足を上げ下げする。
「見て見てお姉ちゃん! 足に砂がくっついてるぅ~!」
「……濡れてるからね」
「ははは、砂でベタベタだぁぁ~!」
些細なことでも全力で楽しむみおの姿は、姫の心中にある石が取り除かれた。最初は海らしい経験をさせてあげられなかったらどうしようと悩んだけど、その燦々とした笑顔が見れてホッとした。
それから彼女たちは水の掛け合いするわけでもなく、ただ冷たい浅瀬を歩くだけ。服を着ているも原因の一つなのだが、その前に彼女たちはまだ『患者』の身だ。
もし幼稚な水遊びで風邪でも引いたりしたら、この先外出したくても許可が下りるわけがない。そんな未来を防ぐために今回の遊びは控えめにしよう、と移動中に皆と話し合って決めたのだ。
しかし、途中まではみおも満足しているのに、思うところがあってか、彼女は亮の方に振り返って空いた手を差し伸べる。
「お兄ちゃんも手、繋ご?」
不意討ちを喰らって、思わず小さく口を開ける亮。
まるで、本日の主役であるみおに気遣われたことに意外とでも言いたげだ。
――こりゃあ、ピエロの名折れだ。
彼は内心でそう思いつつも、みおの誘いに向けてサムズアップと共に笑顔を送った。
「勿論、喜んでッ!」
「下郎、みお様に無粋な真似をしたら、分かっていますよね?」
「今日の雅代さん、いつになく怖いなぁ……。だけど、それもご褒美ダッ」
「もう~。お兄ちゃん、早くしてよぉ~」
はいはい、と小さな左手を掴む亮。握られて嬉しくなったみおは、両の手を軽く振り回してこう言い出す。
「えへへ、これで全員と一緒に繋がったねぇ~!」
姫と亮は顔を見合わせては小さく笑い出して「そうだね」と賛同する。
確かに、三人は手を繋がっているが、亮の車椅子を押している雅代までカウントされた。
そう、彼の車椅子を経由して雅代とも手を繋ぐことができたのだ。それをワンテンポ遅れて気付いたは雅代は、ほっこりと微笑む。
「……」
病院から程遠いと思っていた海の匂い。
小さな手の温もりを確かめるように、手にほんの僅かばかりの力を込める姫。すると、みおの方からもぎゅっと握り返されて、自然と微笑が漏れた。
緩い潮風にほんの少しだけ髪を揺らしながら、勝手に鼻腔に滑り込んだ潮の匂いで心が洗われる中、ふと姫はこう思った。
――いつまでもこの穏やかな時間が続きますように。
ランチは海辺でのピクニックになったが、豪勢な五段弁当とは真逆の質素な病人食になっている。無論、これらを準備したのは雅代であるため、きちんとした理由がある。
今回の日帰り旅行の参加者はほぼ全員が患者であるため、いきなり豪勢な食事をありつけては調子を崩してしまわないかという懸念があったとのこと。
これを見て、開口一番に不平不満を垂れる亮ではあったが、
「これ以上文句を言い続ける人には、お食事が没収されますよ」
「いただきまぁーす!」
雅代に脅された途端、彼がくるっと手のひら返しをして喜んで嚥下してくれたので、一件落着。昼食ピクニックが一段落ついたところで、姫がみおにまだ他にやりたいことがあるかと聞くと、
「うーんとね。みおはねぇ、また皆と手を繋いで歩きたい!」
満面の笑みで返された幼い顔を曇らせないように、全員一致でその希望に応えることになった。
先程と同様、亮と姫がそれぞれ、みおの左手と右手を繋いで、四人と一緒に浅瀬を歩く。ただし、靴の中まで汚すわけにはいかないから、みおと姫は裸足のまま。
三人がみおの小さな歩幅に合わせるようにして、歩き続けていた時。彼女は急に口数が減り、幼い顔には似合わない小さな息を吐き出す。
「……みおちゃん、眠いの?」
「ううん。まだ疲れてないよ」
「……無理しなくてもいいんだからね」
その碧眼には、微かな憂いが揺れていた。提案者の一人として、単純みおの体調を心配していることが他の二人にも伝わった。
「……疲れたらちゃんと言って。雅代がおんぶしてくれるから」
「マイターお姉ちゃんが?」、と期待の眼差しと共に雅代に振り返るみお。
ずっと入院していたせいで、両親に甘えられる機会が極端に少ないからこそ、こういった触れ合いへの憧れは人一倍強いだろう。ころりと変わった彼女の反応を見て、雅代は微笑みかける。
「ええ、今申し込めば『本日限定メイドにおんぶしてもらう無料券』がついてきますよ」
「え、めっちゃお得じゃないカ! 私も欲しいッ! 滑り込みで申し込みまぁース!」
「数量限定でかつ女性のみでお渡ししていますので。申し訳ございませんが、下郎にはご遠慮願いたい」
「そ、それって、他の男なら渡してたってコト?! くうー、羨ましいイィィィ!」
「マイターお姉ちゃん、おんぶしてぇ〜」
みおは亮の大袈裟な芝居を無視して、自ら二人から手を離して、雅代に向かって両手を伸ばす。
いいですよ、と彼女がその小さな身体に背中を向けながら屈み込む。みおが乗ったのを確認して、ゆっくりと立ち上がる。
「わーい、お姉ちゃんとお兄ちゃんよりも高くなったぁ〜!」
「……まさかみおちゃんを見上げる日が来るとはね」
「ハハハ、偉く高くなったねえー、みおちゃん」
二人は雅代の肩口辺りに視線を向けながら笑うと、みおも笑い返した。年相応の表情を見て、内心で安堵の息をつく姫。
「感想がジジイ臭いでございますよ、下郎」
「そりゃあスンマセンねぇ」
「ではお嬢様、申し訳ございませんが下郎のことをお任せしてもよろしいでしょうか」
「……ええ、分かったわ」
姫がそう答え、ハンドルを握ると、亮がフッフッフという変な笑いをする。
「ようやく私たちだけの二人きりのお時間デスネ、姫。どうです。これから一緒にホスピタル・ディナーと洒落込もうじゃあないか」
「……それ、訳すと病院食になるんだけど」
「ハハハ、バレましたか」
「……英語なら私の耳は誤魔化されないよ。ほら、行きましょ」
「いざ、しゅっぱぁぁーつッ!」
亮の明るい声とは対照的に、ゆっくり車椅子を押し始める姫。茜色に染まる砂浜を歩き続けていると、徐々にみおの声は減っていって、やがて完全に消えてしまう。
「ひょっとしてみおちゃん、寝ちゃいました? 雅代さん」
「そう聞かれましても、分かるはずがないじゃありませんか」
「ちょっぴりの間だけ、振り向いてくださいよ。そしたら、分かりますんで」
「全く仕方がありませんね」
嫌々と言いつつも、しっかりと亮の言葉を聞き入れて二人の方に振り返る。すると、彼女の肩口で静かに寝息を立てているみおのあどけない寝顔があった。
「……あ、ぐっすりと寝てる。かわいい」
みおの寝顔に近寄って、覗き込んで優しく微笑む姫。その安らかな様子にホッとしたことを他の二人にまで伝わった。
「ハハハ、それだけ疲れたんでしょう。連れてきてよかったですね」
「……ええ、本当に。やっと来れたもんね~」
姫は手を伸ばし、みおの頭を一撫でした。まるで実の姉のような、慈愛深い眼差しで。それだけ、彼女にとってみおが大切の存在なんだろう。
「……帰る前に一度洗い場に行って付着した砂を洗い流さないとね」
「お屋敷の車ですから、汚れたままでもワタクシめが責任を以て洗いますのに」
「……私がそんなことしない人間だって、知ってるでしょ? 雅代」
「フフフ、そうでございましたね」と返事する雅代。姫の顔こそ見ていないが、温かみのある声を聞いて心底から安堵した。
もう塞ぎ込んでいた頃とは違って、前向きな響きを帯びた声色だった。
「……じゃあ、帰ろっか」
姫が確認するように二人の顔を見比べると、普段相容れない二人が珍しく同意見。姫が車椅子のハンドルを握るのを横目で目視して、ゆっくりと歩き出す雅代。ワンテンポ遅れて、姫も歩みを再開させた。
みおの背を見守りながら車椅子を押している最中に、ふと亮が「また四人で一緒に来たいですね」と言い出す。
「……今度は、夏がいいね」
「ハハハ、いいですね。姫の水着姿を拝むことができたら、是が非でも行かないと」
「……あはは、何それ」
その言葉を聞いて、亮も内心でホッとした。
姫の心はもう談話室に縛られていなく、少しずつ未来に向かって進んでくれたこと。
翌日。亮がいつものように待ち合わせ場所でみおを待っていると、木村さんが息を切らしながら向かい側からやってきた。
「どうしたんですか、綾乃さん。そんな息を切らして。ハッ、もしかしてこれから何かいかがわしいコトをしようとしてるんじゃ――」
「今はそれどころじゃないのッ!」
木村さんの剣幕ですっかり遊び心が削がれたが、彼がこんな真面目な顔をする彼女を見るのが初めてだ。もしかして何かがあったのでは。そんな嫌な予感が胸中に膨らんでいく中、彼女に車椅子を押されていった。
彼が連れられてきた場所は、西棟にある病室の前。目的地の前でボーっと立ち尽くしている姫が視界に入って、心がざわつく。ふと、彼はそこに入院する部屋番号と患者の名前が書かれたプレートを見やる。
『409号室 芹澤みお』――三人と同じく、個室だ。まさかと思い、彼はゆっくりとドアを開ける。
「あ、れ……?」
間抜けた声と共に、室内を見回す。人のいた形跡が綺麗さっぱり片付けられた、酷く寂しい部屋。次の患者を迎えるための、ピンと張られたまっさらなシーツが余計に目立つ。
「こ、れは……一体……」
「これは担当看護師に聞いた話だけど。今朝方、みおちゃんの容態が急変してて、それでそのまま……」
木村さんが状況説明するも最後の方で喉が詰まってしまい、嗚咽が漏れた。だけど、無人の部屋が全てを物語ったから、これ以上の説明は余計だと言えよう。けれど、そんな木村さんの代わりに、姫は惨い現実を突き詰める。
「……死んじゃった」
「え……?」
「……死んじゃったの」
二度目に紡がれたその「死」という響きは、一度目よりも随分と軽く感じた。あまりにも唐突で噛み砕くことができなかった彼は、「そ、そんな……」と呟き、力なく背もたれに倒れ込む。長い沈黙を経て、亮の肘掛けを叩く音が破く。
「なんでだよ……。昨日はあんなに元気だったじゃないか……! あんなに……はしゃいでたじゃないかッ!」
悔し涙を流し、理不尽な憤りを晴らすように叫んでも、内なる黒いものが消えるわけがない。
思えば、今まで何度かヒントがあった。しかし、彼は姫のことばかり気に捉われていて、無意識にみおのことを無視していた。
どうしてみおのことをもっと知ろうとしなかったとか、彼女が寝込んだ時にどうしてお見舞いに行かなかったとか。そんな悔恨ばかりが心中に渦巻く。一番親しい友人の最期の立ち会いにすら間に合わず、最後に「クソ」と車椅子の肘掛けに拳を叩いた。
しかし、いくら言葉を吐いても虚しさは拭えず。それどころか、みおの死を口にしただけで、認めたくもない現実がより現実味を帯びてきて余計に惨めな気持ちになる。亮は後悔に歪んだ顔で、再び肘掛けを叩きつける。それが二度、三度、四度も続き、やがて歯軋り音だけが残る。
そんな亮とは対照的に、先程とは何らと変わらず、ただ立ち尽くしている姫。俯くその姿は彼女なりに友人の死を悔やんでいると解釈しても良いが、生憎白い髪の毛の間から覗き込んだ表情は『無』そのまま。他人の死に慣れ過ぎていた故に、いつしかそれに何とも思わなくなったのだ。例えそれが親友の死であるとしても。
感傷的な空気が流れる中、ふと姫の口からこんな言葉が零れた。
「……仕方ないよね」
酷くあっさりとした台詞を聞いて、亮は耳をピクリとさせて「仕方、ない?」と言う。鼻声で紡がれた言と共に姫に振り向くのは、激昂の顔であった。
「みお、みおが死んだんだぞ! 人の死をそう簡単に片付けられるなッ!」
「……簡単に片付けるも何も、どうしようもないことは諦めるしかないんだし」
「ふざけんな!」
亮の怒号が鼓膜に突き刺さり、廊下中に響き渡る。
「ほぼ毎日のように一緒に遊んでた友達が死んだんだぞ! 悲しいと思わないのか! 悔しいと思わないのか!
なんで、なんでさあ……親友の死をそう簡単に受け入れるのかよ! どうして……みおが『生きている』ことにそう簡単に諦められるんだよッ!!」
「そこまでです、お二人共」
彼の八つ当たりを止めるために、二人の間に割って入る雅代。それぞれの顔を交互に一瞥をして言葉を続ける。
「もしみお様が今のお二人の姿を見たら、きっと悲しむでしょう。それに、ここは病院でございますよ」
雅代は気丈に振る舞っているように見えるが、彼女もまた鼻声で。よく見ると、頬に慌てて涙を拭いた形跡が残り、目尻にはまだ雫が浮かんでいる。まるで、『悲しいと感じたのは別に亮だけではない』、『時と場所を弁えるように』と強く訴えているように見えた。それを受けて、亮はクッと奥歯を噛み締める。
「木村さん、彼のことをお願いします」
急に話題に名前が上げられて、木村さんは慌てて手で涙を拭きつつも首肯する。
「わ、分かりました。ほら、鶴喜クン、部屋に戻るよ」
「……クソッ」
担当看護師に強制的に現場を離された亮は、苦し紛れにそんなことを吐き捨て、最後に掌底で肘掛けを叩きつける。二人が去った後、廊下には重苦しい暗雲が立ち込めたかのような空気が漂う。まるで冷たい雨に打たれているかのように、姫はただ俯いて黙り込むだけだった。
華小路家四代目当主・華小路一三氏の遺言で一姫を後継者に指名したことが発表されたのは、一三氏が逝去された翌日のことだった。
姉たちに比べても年の離れた一姫が相続権を持つことに、当然反発は強かった。表向きでは従って見せても、内心納得していない者も少なかったのである。
こうした状況がより顕著になったのは、一三氏の1周忌が催された時だった。
「ほぉら、一姫ちゃん! 新しいぬいぐるみだよ、これでぬいぐるみ王国には更に住人が増えちゃうね、ははは」
「もう、今時ぬいぐるみなんて古いよ。何せ今はスマホの時代なんだから。ほら、一姫ちゃん。これはまだ発売されていない、あの有名なメーカーの最新機種よ」
「ええー、女の子ならスマホなんかよりも当然ドレスよね? 見て、ここの金の刺繡綺麗でしょ? これ、本物の金よ」
「私は一姫ちゃんのために専用のお庭を造ったんだよ? ほら見て、この見渡す限りの薔薇畑を!」
「……」
集まってきた分家たちが、ご機嫌を取ろうと次々に度の過ぎたプレゼントを披露していく。しかし彼らは一姫の薄い反応を前にしても、それを止めることはなかった。他の使用人たちは来客の給仕に奔走しながら、その様子を窺っていた。
華小路家ではこういう時、使用人によってどの分家のお世話をするのかが、明確に決められている。彼らの間には選抜試験をクリアした『精鋭組』と、他の分家の口利きで華小路家をお仕えするようになった『推薦組』に分けられていた。
この二つのグループは表向きでは仲間意識を保っているかのように見せかけていたが、裏では互いをいがみ合うような関係だ。イジメといった深刻な問題はなかったものの、精鋭組は“楽して土足でプロの現場に踏み込んだ素人の集まり”と軽蔑し、推薦組は精鋭組のことを“自意識過剰な集まり”と見下す。
そして、この日は“偶然”にも精鋭組の使用人たちが“研修旅行”で華小路邸を出払っていた。
この異常事態を察知して急いで帰還した、ただ一人を除いて。
「ご無事でしたか、お嬢様」
「……雅代」
「遅くなり誠に申し訳ございません、お嬢様。貴女様の雅代がただいまより、帰還しました」
わざと分家たちの間を割って幼き主人に接近し、綺麗なお辞儀をする。無遠慮な舌打ちに雅代は耳をピクリとさせて、振り返って彼らを見据えた。
「自称お嬢様付きメイドのお出ましか。おい貴様、研修旅行はどうした?」
当時の雅代はただ一姫とお嬢様付きメイドになるという口約束を交わしただけで、まだ正式な手続きを踏んでなどいなかった。しかしその直後、華小路家はすぐに大混乱に陥っただけあって、手続きをするタイミングを見逃した。
それでも、彼女は『一姫のお嬢様付き《レディース》メイド』として名乗り続けて、幼い主人のために行動した。
この時から既に分家たちの間では『お飾りに魅入られた憐れなメイド』として定着したが、本人は気にも留めなかった。
「ハッ、せっかくのご厚意で恐縮ではございますが、すっぽかしてきました」
「たかが使用人の分際で勝手な真似は許さんぞ! 何様のつもりだ。一体、いくら金を積んでやったと思ったんだ! 我々の――」
「もう止めてやれ。まだお飾りの前だぞ」
一人の分家に止められ、ハッとする男。人前でも一姫のことをそう言い慣れすぎた結果、本人の前でも口を滑らせた。が、一姫も一姫で言われ慣れ過ぎた故に、ただ足下を見つめるだけ。
主人の代わりに、雅代が睨みを利かせると、分家の男もハッとなり。言い訳しようにも取り付く島すら与えられないまま、全員まとめて雅代に追い出されることになった。
「このクソメイド、覚えとけよ!」
「はいはい、二度とこの屋敷に踏み入れないよう、願うばかりでございます」
重厚な正面玄関のドアを閉めて、そこに背中を預けて一息入れる雅代。
本来であれば、使用人がこのようなことをしても決して許されないはずだが、彼女は使用人であっても、本家に仕える精鋭組の使用人である。そのため、例え分家の連中でも彼女の言い分には逆らえない。
けれど100人ものの使用人の内、推薦組が7割、精鋭組が僅か3割。
そしてその精鋭組の中でも果敢に分家の連中に立ち向かうのは、残念ながらたった雅代一人のみ。だから、彼女は一年間ずっと一人で一姫を守っているわけだが、さすがに限界があると感じた。
――一刻も早くこちら側の人間を確保しなければ、お嬢様おろか、ひいては本家の存続も危ない。
扉から背中を離したと同時に、雅代がそう決心をついた。
それから雅代は人員確保のために奔走していた。
しかし、精鋭組の使用人は自分の職に並ならぬプライドを持っている故に頭も固く、当初雅代も難航していた。だけど彼女は挫けることもなく、猛アタックしていく内に、一人、また一人の仲間を手に入れ、ちょっとずつ陣営が拡大していった。
その間に申請を済ませて正式に一姫のお嬢様付きメイドになったら、今度は華小路家のために奔走。
先代当主・一三氏の秘書と二人三脚で、華小路財閥の内部事情の処理や分家との牽制するようになった。
本来であれば、一使用人の出る幕ではないが、主がなき今、誰かが引き受かなきゃいけないことだ。
そのため、一姫の身の回りの世話は他人に任せる頻度も多くなり、夜遅くまで外出することも頻繁になり、主人のお顔を見れなかった日すらあった。
けれど、いずれも『次期当主である一姫の座を守る』に繋がるから仕方がない。今は耐え忍ぶ時だ。
雅代はそう自分に言い聞かせて、肌身離さず持ち歩いていた一姫の写真を見ることで自身を保つようになった。
朝は一姫の世話をし、昼は華小路家のために奔走し、夜は経済やビジネスの勉強に励む。
そんな生活が続くうちに、あっという間に二年が経ち、一姫もようやくお嬢様学校に入学する頃。丁度、雅代もメイド長にまで出世した。
その日は、一日中雨が降っていた。
一姫の送迎を他の者に任せて、自分は新しく入ってきた使用人たちの研修の監修役を務めることになった。忙しなく業務をこなすうちに、いつの間にか夕食時を過ぎていた。だけど時間が過ぎても、一姫はまだ部屋から下りていない。
本来であれば、一姫を呼ぶのは雅代の役目ではあるが。彼女は時間通りになったら自主的に下りてくるタイプで、遅刻するのは考えられない。
――もしかしたらお嬢様に何かあったのかもしれない。
漠然とした不安を抱えて、雅代は一姫の寝室に訪れた。三度もドアを叩くも返事がない。それどころか、物音すら何一つもない。
この時点で既に嫌な予感しかしないが、メイドのトップに立つたる者、決して油断してはならない。彼女は心中で諫めると、努めて冷静な口調で告げた。
「失礼します」
身体の中で渦巻いている胸騒ぎが大きくなったと同時に、ドアノブを握る。
自身を落ち着かせるために深呼吸してから、ゆっくりとドアを開けると、そこに広がる光景に驚愕し、思わず息を呑んだ。
「――――ッ」
絨毯の上に気絶して倒れている一姫の身体には、薔薇の花が赤黒く咲いている。
見たこともない模様が彼女の身体を蝕んでいるような光景に理解が追い付かないまま、気絶した主人の元へと駆け寄った。
「お嬢様! 一姫お嬢様! 誰か――」
彼女の身に一体何かあったのか。そんな質問に支配されたまま、必死に救援を求める雅代。
もし、もっと早く気付いていれば。もし、もっとお嬢様のことを気にかけていれば。もし、傍にいれば――。
そんな後悔ばかりが雅代の心中に渦巻く中、華小路家が私有したプライベートヘリコプターの到着を今か今かと待ちわびた。
先代当主・一三氏が逝去され、当主の座が空席のまま、次期当主になるはずの一姫が正体不明の病気に侵され、気絶した。
立て続けに二つの事件に見舞われた華小路家は、再び混乱状態に陥った。
ある分家の繋がりで有名な大学病院に搬送され、綿密な検査を受けても、いずれも『原因不明』という結果が返ってきた。皮膚の上に赤黒く浮かび上がる薔薇の模様にちなんで『薔薇紋病』と命名。
念のため、まだ発見されたことがない病気という線で調査を進めるという話に落ち着いたのだが。一年後が経っても依然として『原因不明』と返ってきて、観察経過のために別の病院に転院することになった。
後から雅代が独自の調査で調べた結果、大学病院と繋がっていた分家というのは、分家の中で最も勢力がある、友禅寺家だ。そして『原因不明』の裏には、恐ろしい事実が判明された。
マスコミに察知されないように、大学病院の協力を得て薔薇紋病の究明のために極秘裏に組織された研究チーム。その研究はある人物に大金を支払われ、止められていたことが発覚。そして調査の結果、ある人物の名が浮上した。
友禅寺麗夏。
先代当主・一三氏が生前の頃、彼女の罠に嵌められた際に、『人の心がない悪魔だ』と評価したことが一度だけ。それ以来、彼女は当時一番勢力が弱い分家に嫁がせられることになったが、当時の彼女が妙に大人しかったのが印象的だった。
使用人の間では、一三氏が麗夏嬢を恐れているあまりに、彼女を分家に追い出した、という噂が流れていたのは、あながち間違っていないようだ。
そんな麗夏嬢の魔の手から離れるように、そしてこれ以上一姫を闘争に巻き込まれないように、雅代は敢えて都心から離れた病院を選ぶことにした。
辺境で尚且つ自然に囲まれて、静かに療養できる病院。
そんな理想的な転院先というのは、高山中央病院である。
薔薇紋病病の存在は、まだ世間に明かされていない。
そのために、一姫の病室は当時まだ誰も利用されていない北棟の7階の奥に位置した。これ以上一姫の心労を増やさないためにも、雅代が自分以外の華小路家の関係者を名乗る者との面会を謝絶にした。
一姫が転院した初日、雅代が彼女の病室に訪れた時。そこで彼女は、一姫の変化に直面した。
「……今度は私をここに監禁するんだ」
そう口にした一姫の双眼は、かつての光が失われていた。
小さい頃から姉たちに無視され、やっと一緒に問題を解決してくれる仲間を手に入れたと思ったら、今度は祖父を亡くし。
彼の者を亡くして間もなく、各々の自己利益のために、競うように派手な贈り物をする分家連中は無神経さに晒され。その対応に専属メイドが追われていたせいで、最初に交わした約束も果たせなかった。
家のことが嫌になってきた頃にやっと念願の学校に通えると思ったら、今度は薔薇紋病という訳の分からない病気に侵され。必ず治療法を見つけ出してみせる、という淡い希望を提示した研究チームにバクられ。そして、今回の転院。
大人の身勝手な事情に振り回され、自分のことに関する決定権が何一つも与えられず。彼女の人生の大半は、ただ監禁場所を転々とした生活を送っただけに過ぎない。
そして、そんな状況を作り出した原因の一つは、他でもない雅代だ。
ずっと良かれと思ってしてきたことが、逆に一姫の心を蝕む毒となってしまった。
自分はいつの間にか仕えるべき主人を履き違えていた、と今更ながら罪悪感が生まれてきた。
――約束を交わした相手は一姫お嬢様のはずなのに、いつの間にか華小路家に仕えていたようだ。
どこでズレたのか。どうしてあの時は華小路家を守ることを優先したのか。お嬢様だけを考えていればよかった。そうしたら、彼女はこうはならなかったのだろうか。
けれど、その思いも全て、何の意味も持たない虚しい後悔となった。
「 一日も早いご回復をお祈りしております。では、また明日」
別れの言葉ですら虚しく室内に響くだけ。
雅代が頭を上げた時、今度はそちらから声を掛けられた。
「……忙しいなら、もう来なくてもいいよ」
雅代の方を見ずに発言する一姫。しかし、雅代は彼女の鈍く光る碧の双眸を見ながら、もう一度心の中で誓った。
――今度こそ、こちらから約束を果たす番でございます。
それから雅代はどれだけ忙しくても、必ず時間を作って一姫の見舞いに行っていた。けれど、一姫の顔が晴れることは一度もなかった。