キッカケはほんの些細なことだった。
みおは病気のせいで、学校に行く機会は滅多にない故に年相応の友達はほとんどない。苦痛な治療を耐え、苦手な薬を飲んでも病気が悪化する一方。
それでも、いつか治るという大人の甘言を無邪気に信じて、入退院の日々を繰り返していた。
そうやって繰り返していくうちに、退院が減り、入院の方が増えた。ほとんどの生活が病院詰めになったとしても、学友に忘れられたとしても、みおは絶やさず笑顔を浮かべていたのは、大好きな両親にはそうしていて欲しいからだ。
そんな生活が続く中、みおの体力がある程度まで回復して、院内で自由に動き回れるようになった。
彼女が院内をぶらぶらしたら、自販機にある炭酸飲料を発見して、それを欲しがりそうに眺めていた。医者からは食事制限こそはされてないが、身長的に押せなかったのだ。周囲に人がほとんどいなく、力を借りたくてもできず、途方に暮れた。
そんな時にふと現れたのは、姫だった。
当時、そこの自販機は院内で唯一だったため、缶コーヒーが大好きな彼女にとっては致命的。けれど、彼女はそのことに全く気にすることはなく、ただ淡々とあそこに足を運んでいた。
雅代が傍にいなかったのは、当時の彼女は屋敷のことで多忙だったからである。
「……これ、欲しい?」
淡々と聞いてくる姫のことを怖がりながらも、こくりと頷くみお。
医療関係者や家族以外の人とあまり関わりがなかった彼女にとって、姫の存在が異世界からやってきた者と同等だ。
だから、初めて接触してきた患者である姫のことをちょっと警戒した。
「……はい」
生気のない目で二つの飲み物を買い、炭酸飲料をみおに手渡す。みおがたどたどしく礼を言ったが、気にしないとばかりに姫は離れる。
瘦せ細った背中を見送ると、ふとみおの胸がきゅっと締め付けられるのを感じて。なんとなく、そこに片手を寄せた。
彼女を見ていると、なんだか切なくなる。
今まで味わったことのない感覚に、みおは戸惑い気味になりつつも、姫の姿が見えなくなるまで見送った。
それから数日後。偶然目の前を通り過ぎた姫を見掛けて、慌てて身を潜めた。
もし視界に入れられたら、またあの不思議な感情が戻る、という至ってシンプルな理由で。しかし、なんでと自問すると、やはり答えが出てこない。
――もしかして、お姉ちゃんのことをもっと知ったら分かるかな。
淡い期待と共に、みおは壁からひょっこりと顔を出す。白い長髪を揺らしながら歩く姫の後ろ姿に、「よし」と自身を奮い立たせて後を追うことにした。
しかし、いくら時間が経っても、みおはただ尾行するだけで、話しかけることすらなかった。後方からずっと「じ~~」という子供の声がしたから、とっくに姫にバレていた。
だけど姫が振り返ると、視線の先にある可愛らしい三角帽子が物陰の後ろに逃げられてしまうから、仕方なく気付かぬフリをすることにした。
暫く膠着状態が続いていくうちに、姫は急に歩みを止まらせた。それに驚かされたみおは、咄嗟に壁の後ろに身を隠す。彼女は心中で姫が歩き始めると願うも、姫は立ち止まるまま。
沈黙が続く中、みおは姫の様子をチェックするように、少しだけ顔を出す。依然として立ち尽くす姫の背中からすぐに顔を背けて隠れると、
――もしかして、みおを待っている?
という可能性が頭によぎり、横目でもう一度確認する。視界の中に姫を捉えて、一度深呼吸。よし、と自分を鼓舞して物陰から出た。
「お、お姉ちゃん!」
緊張のあまり、声が少し上擦ってしまった。だけど、姫はとくに反応を示さず、ただ背中を見せているだけ。
「みお、お、お姉ちゃんの友達にな、りたいでしゅ!」
「……物好きね」
その台詞と共に振り返ってくる無表情に、みおは小首を捻った。
「うん? ものすきって?」
「……変な人ってことよ」
「うん?? つまり、それはいいことなの? 悪いことなの?」
「……まあ、いいことなんじゃない」
「へへへ、そっかぁ~」
それが嘘だと知らずに、みおは顔を綻ばせた。
だけど、嘘を吐いた張本人は相も変わらず無表情のままだから、みおはすっかりそれを信じ込んでいた。
再び歩き出す姫の横で、みおに右手を握られるも無反応。
――もしかして、手を繋ぐの嫌だったのかな。
そんな不安がみおの心中をかすめた次の瞬間、繋いだ手に僅かばかりの力が込められた。その優しさに触れた彼女は、無表情の顔を仰いでは顔を綻ばせる。
――もっとお姉ちゃんを笑顔にしたい!
誓いの代わりに、みおもぎゅっと握り返し、そのまま姫と一緒に談話室に行った。
初めて訪れる場所に目を輝かせて室内を見回すみおの横をすり抜けて、窓辺にある椅子に腰を下ろす姫。
「よいしょ、よいしょ」
みおは自力でスツールを持ち上げ、姫の対面に置いて腰掛けると、待ちきれないとばかりに、一方的に積もる話を聞かせた。例え相手から相槌が返ってこなくても、みおは楽しげに喋り続けた。
それはまるで、二人の短い友情が一分一秒でも長く続く、と祈りを込めるように。
みおが一通り話し終えると、幼い顔には似合わぬ翳りが浮かんだ。
「なんかね。目を離したら消えるんじゃないか……そんな気がしたの。お姉ちゃんからは」
「……そうか」
そうとだけを呟いて、亮も僅かばかり顔を曇らせたが、すぐに笑顔に戻した。
『エンターテイナーたる者、常に笑顔でいなければならない』、と昔の教訓を思い返して。
二人はすっかり我が物顔で入室すると、
「私が来たゾ! ヒンメェェェエエエエ~♪」
「へへへ、一緒に遊ぼ~、お姉ちゃぁ~ん! あれ?」
無人の談話室に迎えられ、もう一度確認するように室内を見回したみおは首を傾げる。
いつもなら、姫は定位置に座っていて、その傍らに雅代が控えているはずなのに、それがどこにも見当たらない。飲み物を買う時以外は滅多に7階から離れることはなかった二人が、今日に限って不在。
もしかして、姫に何があったのか。
そんな想像を亮は頭を振って追い払い、代わりに笑顔を浮かべる。
「とりあえず、二人を待つカ!」
「うん!」
暇を潰すために二人は世間話に興じていると、あっという間に20分が経過した。しかし、談話室は依然として亮とみおの二人のまま。
最初、みおも楽しく話しているが、段々と心にここにあらずといった感じで、話に集中していなかった。初めはドアのチラ見していたが、今ではすっかりドアの方を向けていて、明らかに二人のことを心配している様子だ。
このまま待っても埒が明かない。
そう悟った亮は自分たちだけで二人を探そうと提案したら、それがあっさりと可決されて、みおと一緒に出て行った。
一方、その頃。高山中央病院の中庭にて。
姫と一人の英国紳士と同じベンチで座っている。せっかく僅かな生気が戻った碧眼が、鈍く光っている。それに一瞥した紳士は、ただ残念がるように黒いトップハットのツバを掴み、視線を前に戻す。
病人服を纏う男の子が、両親と手を繋いで楽しげな笑い声で行き過ぎる。退院が決まったのだろうか。微笑ましく親子連れの背を見送った紳士は、双眸から微笑を消すと、今度は哀愁を宿して俯く。
「Are you really okay to just live on like this? Would you reconsider just one more time?
(君は本当にこのまま生きていくつもりなのかい? もう一度、考え直してくれても……)」
「.....Such efforts would only end in vain. After all, it's my fate to carry on this pain forever.
(……そんなことをしても徒労に終わるだけ。だって、この痛みを背負っていくのが私の運命なんだから)」
本場の英国人の前でも臆さず、ネイティブな英語を返す姫。その堂々とした姿勢は、彼女が幼少期から受けていた英才教育の賜物と言えるだろう。
姫の返事を聞いた紳士は、参ったとばかりにベンチの背もたれに寄りかかり、小さく肩をすくめる。
「Well, some destinies can be changed.
(変えられる運命だって、きっとありますよ)」
「......Well, if you're willing to sacrifice your precious time for this useless girl. I might as well reconsider your idea. Besides......
(まあ、もし貴方がこんな私のために貴重な時間を浪費したいってどうしてもと言うのなら、考え直してもいいわ。それに……)」
涼風が通り抜けて、力のない沈黙ばかりが残る。
「......The world will still keep on turning even without me. Isn't it so?
(……私がいなくても世界は回り続ける。そうでしょう?)」
紳士は押し黙り、立ち上がる。
残す別れの言葉もなく、ただその場から去っていく。
そこで丁度亮とみおをすれ違い、挨拶代わりに微笑みかけて通り過ぎる。みおは咄嗟に車椅子の後ろに隠れたが、
「どうもーッス! お疲れ様でぇース!」
淀んだ空気をぶち壊すように、紳士の背に向かって叫ぶ亮。しかし紳士の方はそのまま建物に入っていったので、彼は前に視線を戻すと、みおが「お姉ちゃーん」と姫に抱きついた。
けれど、そんなみおのハグにも無反応な姫。なんだか彼女の様子がおかしいと感じつつも、亮は近付いて様子見をすることにした。
「ねえ、さっきの人はだぁ~れ?」
「……別に」
不愛想だと見受けられるような、酷く単調な声色。亮が姫の顔を覗き込もうとして前に回ると、彼女がいきなり立ち上がって思わず後退る。
その際、亮は見てしまった。あの濁った碧の双眸を。
これ以上見られたくないとばかりに、姫は二人から顔を背けて離れていく。
「お姉ちゃん……」
みおの細い呟きは姫の後ろ姿に届くはずもなく、秋の気配が混じった風に攫われた。悲壮感を漂わせている、どこか物寂しげな背中に掛ける言葉を見つからず、ただ見送ることしかできなかった。
一体、何があったんだ姫。
その疑問だけが、亮を支配する。
それからとくに会話が弾んだこともなく、三人は7階に戻った。
一見姫が無表情のようだが、どこか思い詰めている様子のようにも見受けられる。重苦しい空気が続く中、姫は談話室のドアを開けると、テレビの音が聞こえてハッと顔を上げる。
「やっと戻ってきたのか、一姫」
「もう、待ちくたびれたのよぉ~。一体、どこでほっつき歩いてたのぉ~」
テレビの音がそこで途切れて、二人の女性が同時にソファから身を起こした。片方は長身でスレンダーな体型の女性で、もう片方の女性の身長は百五十未満だ。
だけど、姫よりも身長が低いその女性からは、言い難い威圧感を感じる。それに飲み込まれたかのように、亮は固唾を呑み込み、みおは車椅子の陰に隠れた。
「……何をしに来たの」
彼はちらっと姫の方を見やる。冷淡な碧瞳には静かな怒気が孕んでいる気がした。心なしか、部屋の明るさが一段失われたように思える。
「いやねぇ、そんなの決まってるじゃない。かわいいかわいい妹の見舞いに来てあげたのよん♪ 嬉しいでしょ?」
低身長の女性の言葉に、スレンダーな女性が「うん、そうそう~」と共感した。二人が人受けする笑顔なのに対して、姫の表情は更に険しくなる一方だ。
高台にそびえ立つ、お城のような邸宅――華小路邸。
正門を潜り抜けても、本館の玄関までの距離はなんと2kmもあり、車での移動は必要不可欠。
合計すれば、四千坪以上にも及ぶ広い敷地に複数の庭園が広がり。その中でも一番の目玉だと言われている大噴水は夜になってもライトアップされ、暗くなってもその美しさを眺めることができる。
使用人用の別棟まで用意されており、随時約100人がそこで生活し、日々の業務に勤しむ。無論、その中には錦雅代も含まれている。
華小路家の使用人になる方法は、二つ。
人伝か、精鋭中のプロでも突破するのが極めて困難と言われている、厳しい選抜試験をクリアするか、この二択のみ。
そして、錦雅代は後者の方だ。まさか、たかがのメイドオタクが合格できるとは彼女自身でさえ想定外だったが、だからこそ、今彼女が就いたこの職に常に誇りを持っている。
彼女が華小路家のメイドになってから、雑務をこなすだけの日々が続いた。その中に、必ずと言ってもいいほど、決まってある絵の手入れをさせられていた。
――別に一日サボっても、埃が増えるわけでもありませんのに。
雅代は内心で愚痴りつつも、絵にばたばたと羽根はたきをかける。
華小路邸のダイニングの真ん中に飾っていた大きな一枚絵。
バックには一部の使用人も描かれたそれの中心に座っているのは、華小路家四代目当主、華小路一三氏その人である。
そして、一三氏に抱えられているのが、幼き日の一姫だ。そんな一姫の愛らしい微笑に、ウットリする雅代。何を隠そう、この瞬間こそが、彼女の日々の激務終わりに密かに楽しむ時でもある。
そんなある日、雅代はいつものように、絵の中にある一姫の微笑みを眺めると、ふとある疑問が彼女の脳裏をかすめた。
――色んな絵画が飾っていたのに、どうして当主様はこの一枚にだけ、ご執心なんでしょうか。毎日お手入れをしなくても良いと思いますが、お金持ちのやることは分かったようじゃありませんね。
当時、選抜試験を合格したのは、ただ雅代一人だけ。その実力を買われて、彼女はこの絵の手入れをする、と直々当主様に命じられた。
この命を受けた当初は、雅代自身も疑問に思ったが、一姫《かずき》の微笑みを目にして以来、むしろ感謝するようになった。
「まあ、それはつまり、守るべき資産の中に一姫お嬢様の可愛らしさも含まれている、ということですね。さすがご当主様です。ご英断すぎます」
そう結論を出してはフフフ、と埃をはたいて落とす彼女。
後に、彼女がこの絵の重要性を知ることになるのは、更に一ヶ月後――華小路家のメイドを務めてから三ヶ月目に突入した頃のことだった。
仕事をしていればするほど、一三氏の一姫への贔屓はいかに顕著なのかが明らかになってくる。
食事の際に必ず彼女と同席したり、四人の姉を差し置いて、二人だけで外出したり、旅行までしたりした。おまけに、彼女たちにお嬢様学校に行かせておいて、一姫だけが屋敷の中で英才教育を受けさせる。
自分の息子を平然と屋敷を追い出すような冷徹な人間が、孫の可愛らしさに虜になり、溺愛していた。そのせいで、一姫は他の姉たちに毛嫌いされていたが、当の本人がその理由を知らなかった。
とは言っても、彼女が姉たちと一緒にいる機会は滅多になかったため、当時の彼女も気に留めもしなかったが。
同じ屋根の下で住んでいるのに、どうして一緒にいる機会が少ないかと聞かれると、使用人たちもその一役を買っていたからである。
『もし一姫が他の姉たちと話しかけるようであれば、さり気なく彼女を引き離す』という命を仰せつかっていた。無論、下したのは、他でもない祖父の一三氏である。
一三氏は外部の人間にも、身内にも厳しい人間だ。
そんな彼がここまで一姫に入れ込んでいたのは、きっと彼女を華小路家次期当主として見据えているからに違いない。
この見解は、ある使用人がこれまでの一三氏の言動を分析して出したものであり、それが驚くべき速さで使用人たちの間に広まった。雅代自身もその考えが妥当だと認め、必然的にそうなるであろうと思った。
だけど、それがうっかりと姉の一人の耳に入ってしまった。それからだった。彼女たちが一姫を無視するようになったのは。
そんなある日、雅代は一姫が一生懸命に他のお嬢様に話しかけても無視されたところを目撃した。幼いながらも、一姫は自分がイジメられていることに薄々勘付いていたとしても理由までは分からなかった。
それもそのはず。なぜなら、彼女は自分だけが特別扱いされていたことを知らなかったからだ。
どうしよう、と思い悩む一姫を見て、窓拭きをしつつも様子を見守る雅代。当時の雅代はまだ一介の清掃担当メイドに過ぎず、お嬢様たちと何らかの関わりを持つことに禁止されていた。
唯一の例外は、一三氏の命を実行する時のみ。それに、現場にいるのは一姫と雅代の二人しかいない。
――これは憧れの一姫お嬢様とお近づきになれるまたのないチャンスだ、みすみす見逃すわけにはいかない。
逸る気持ちを抑えつつ、雅代は彼女との接近を試みるもすぐに引き返したのは、ある人の姿が見えたからだ。
「ここにいたんだね、一姫。さあ、午後の授業が始まるから、部屋に戻ってなさい」
「……ねえ、お爺様。どうして、次期当主になるのが私なの……?」
「こ、これ、おじいじ言ったんだろう? その、部屋の外で無暗にその話題を持ち出すのは……」
「ねえ、どうして……」
可愛がっていた孫娘に上目遣いされて、彼はようやく観念したように深く重い息を吐き出す。
「……そうだ。この華小路家の未来を背負える者が一姫しかいないんだ。残念なことにな」
それを聞いた雅代は驚きすぎて、危うく雑巾を落とすところだった。まさかあの話は本当だったとは、一ミリも思ってもみなかったのだろう。
「さあ、おじいじと一緒に部屋に戻りましょう」
「……うん」
半ば強引に一姫を部屋に連れ戻す一三氏が去るのを確認して、雅代はホッと一息。不覚にも二人の会話を聞いてしまった彼女の心中には後味の悪い思いだけが残った。
それから雅代は一姫との接触を図るために、あちこちに回って情報収集を行い、それを基に彼女の一日のタイムスケジュールを作成した。
しかし、彼女の時間のほとんどは授業、一三氏との食事や外出などに充てられていることが判明。どれだけ知恵を絞り出しても、どうしても『偶然に身を委ねるしかない』という結論に辿り着いてしまう。
しかしそんなある日、その偶然が早くも雅代の元に訪れた。何やら思い悩んでいる様子で廊下を歩いている一姫を発見して、生唾をゴクリ。
もしこれが上手く行けば、憧れのお嬢様付きメイドになれるかもしれない。そんな打算で一姫に接近する雅代。
「どうかなさいましたか、一姫お嬢様。何やら思い詰められている様子でしたので……。ワタシでよろしければ、お話をお聴き致しますが」
「……うん。あ、でもここでは他の人にも聞かれちゃうから、ちょっと移動しましょう」
雅代が二つ返事で了承して、滅多に使われていない部屋で話すことになった。
彼女と話してみると、意外なことに彼女はしっかりとした芯を持っていることが発覚。落ち着きのある口調の上に、自分の価値観もしっかり持っていらっしゃる。とても9歳の子との対話とは思えないほどだ。
――なるほど、当主様がここまで可愛がっていたのにも頷ける。
眼前の人物こそが華小路次期当主として相応しい器であることを、雅代を納得させるのには十分だった。相談内容はやはり、他のお嬢様方と関連のことがほとんど。
むしろ、事情の大まかを知っている人間にとって、聞くだけで心苦しくなるものばかりだ。
『バカにされようが無視されようが関係ない。家族だから仲良くしたい』
そんな思いが雅代にひしひしと伝わっていた。しかし、長年に渡って蓄積されてきた恨みつらみを一夜にして解決できるほど容易ではない。
一三氏がほとんどの華小路本家の息女を分家に嫁がせてから以上、まだ屋敷にいるのは四女の麗夏嬢と三女の菫嬢のみ。
二人とも揃って一姫の年齢とは相当離れており、最も近い麗夏嬢とは10年の年齢差がある。どうしてもジェネレーションギャップは生じてしまうだろう。
おまけに、一姫の両親に当たる人物はもう屋敷には住んでいない。つまり、彼女の親族に当たる人物は、この状況を作り出した張本人、一三氏一人のみ。
他のお嬢様方とのわだかまりを解消する前に色んな問題が立ちはだかっているが、まずは一つずつ解決していこう、で話し合いが一旦終了。
これからは定期的に作戦会議を開こう、と雅代が提案したが、それよりももっといいアイデアがある、と一姫が勝ち誇った顔で言う。
「……貴女、私の専属メイドになる気はない? 確か、メイドって色んな種類があるでしょ?」
それを聞いた雅代はポカーンとした。まさか、こうもとんとん拍子に行くとは思ってもみなかったといった様子だ。
ただ彼女の相談を一度乗っただけでこんなあっさりと行くものとは、まさか罠なのか。一瞬身構えたものの、すぐに納得して緊張を解した。
――それだけ、彼女が独りだということか。
ずっと一三氏の庇護の下で育てられ、使用人たちの誘導で訳もなく姉たちを遠ざけられ、そんな姉たちから一方的にイジメられ、無視されてきた一姫。
四六時中にずっと大人たちに囲まれている環境の中で、果たして彼女は心置きなく心情を吐露できる相手がいるでしょうか。
どれだけ屋敷が大きくても、どれだけの使用人に囲まれても、相談できる相手が一人もいないようでは、最早無意味だ。見れば、彼女は拒絶を恐れて、小さな手が震えている。それに、本人から持ち掛けてきたのなら、むしろ本望と言えよう。
ならば、雅代のすることはただ一つのみ。
彼女は片足を斜め後ろの内側に引き、もう片方の足の膝を軽く曲げ、背筋は伸ばしたまま両手でスカートの裾を軽く持ち上げて、ゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「かしこまりました。本日より、一姫お嬢様にお仕えさせていただきます、錦雅代と申します。ご命令とあらば、すぐに駆けつけて参ります。以後、お見知りおきを」
「……うーん。なんか物足りないんだよねー」
はあ、と思わず間抜けた声で返す雅代。彼女的にはあれが誓いの言葉のつもりなんだけど、どうやら新しい主人が納得できなかったらしい。すると、一姫は何かを思いついたように、パッと笑顔を咲かせた。
「そうだ。ねえ雅代、ちょっと屈んで屈んで」
言われた通りに、雅代は目が合わせるように屈めると、一姫が小指を差し出してきた。
「――私と指切りして。ずっと一緒にいるよの約束をするの!」
実に子供らしい約束に雅代は思わず笑みを漏らし、自分の小指を絡ませた。
「これから先、どんなことが起きようと必ずお嬢様の傍にいます」
「えへへ、これからもよろしくね、雅代」
新しい主の眩しい笑顔につられて、雅代も「はい」と返した。
一姫は相談相手ができ、雅代は念願のお嬢様付きメイドになった。これから一緒に問題を解決していこう、と張り切ったその次の日、ある一報が華小路邸を震撼させた。
華小路家四代目当主・一三氏が急逝したという訃報が。
一触即発の空気が張り詰めている中、談話室に急ぐヒールの音がやってくる。
「お嬢様、ここに――っげ、やはりこちらにいらっしゃいましたか」
「あら、久しぶりの再会なのに、その挨拶は如何なものかしら? ねぇ、雅代?」
「……お久しぶりです、麗夏お嬢様」
雅代が姫の前に移動し、黒いスーツを着ている百五十未満の女性に頭を下げると、彼女は満足したかのようにニッコリ。そんな彼女が暗い纏いに不釣り合いな桃色の髪を払うと、今度はもう一人の女性が声を上げる。
「あらぁ~。わたしを忘れてちゃ~困るわぁ~」
「菫お嬢様もお久しぶりです」
肩までかかるふわふわした髪のする長身の女性にも一礼する雅代。こちらも挨拶されて満足気に「うふふ」とニッコリ。
華小路本家のご息女は姫を含めて、合わせて5人。三女の神里菫嬢はまだ温厚な方なので多少なりとも融通が利く方だ。
雅代がそう思っていたのに、その菫嬢がこうして一番厄介で狡猾な友禅寺麗夏嬢と共に出現したから推測すると、二つの分家が裏で姫の失脚を企んでいると考えた方が妥当だ。
これなら、元々死ぬほど仲が悪かった分家が協力し合えるようになったことについても頷ける。
一刻も早く状況を把握して分家の陰謀を阻止しないと。考え込む雅代を見て、麗夏嬢はますます笑みを深くした。
「いやぁねぇ、雅代ったら、そんな怖い顔をしないでちょうだい」
「ワタシ、生まれつきこの顔でございまして。もしお気に障るようでしたら、申し訳ございません」
「うんうん。その謝罪でさっきの『っげ』を許しちゃおうかなぁ~♪」
「……寛大なお心、感謝いたします」
内なる焦燥に気付かれまいと努めて冷静な声色で腰を曲げる雅代。
その際、姫の異変に横目で確認したが、麗夏嬢の嬉々とした「そうだ」を耳にしてすぐに顔を上げた。
「いいことを思い付いた! ねえ、雅代、ウチで働いてみる気はない? 今のあなたは暫くお給料もらってないと聞いてるけど? ウチなら、華小路家の現役時代よりも出せちゃうんだけど、どう?」
この期に及んでまだヘッドハントしようとするとは、相変わらず懲りない人だ。そう思った雅代は、また彼女に平身低頭する。
「せっかくのお心遣いに感謝しておりますが、遠慮させていただきます。ワタシは――」
だけど、麗夏嬢がわざと雅代の言葉を遮って、こう続けた。
「四六時中ずっとあの子の世話をしてさぁ、一体何が楽しいの? 生きているようで死んでいるみたいな人間の世話を、ずっとしても無意味だとは思わない?」
「うん、そうそう~」
「そ・れ・に、次期当主はあたしになるんだから、転職先をどこにするのか、今の内によく考えておいた方がお得だぞ~♪」
「そんなバカな……! 先代当主様のご遺言を無視するおつもりですか!」
先代当主――一三氏の遺言により、姫は成人と同時に華小路家次期当主となることが決まっている。
五姉妹の末娘であるのにも関わらずだ。それを無視するどころか覆ることすら許されていないはず。それなのに、麗夏嬢の勝ち誇った笑顔を見ると、焦燥感が増すばかり。
やっと焦りを露わにした雅代の表情に満足したように、彼女はふふふと妖艶な笑みを浮かべるまま言葉を継ぐ。
「そんな人聞きの悪いことを言わないで、雅代。あたしはただ、あなたと同じく、華小路家の未来を心配しているの。先代当主様がご逝去されてからもう既に10年が経ったのよ?
お爺様の一番のお姫様がいつまでも城に戻りたがらない以上、あたしが代理になってあげると名乗りに出たわけよ。分かった?」
クッ、と思わず下唇を噛む雅代。それとは対照的に、姫は俯くまま。感情を喪失したその表情こそが、次期当主の座に対する執着心の欠如の表れだと言えるだろう。
失意した姫を見て嗜虐心がくすぐられた麗夏嬢は一歩、また一歩近づく。
「それに、これ以上当主の席を空けておくわけにもいかないもの。8年間を経っても回復の兆しが見られない以上、仕方なく代わってやる。ただそれだけの話よ。
雅代も苦労したよねぇ。復帰するつもりのない人間のために長い間、空席を守っていたのだから。でも、あたしが来たからにはもう大丈夫よん♪」
最後の方で甘ったるい感じの声になっていて、あまりの不快さに吐き気がする。三十路になる手前の女性として、自分より年上の同性の猫撫で声を聞くと、どうしても生理的嫌悪感が湧き上がるもの。
目前まで接近してきた麗夏嬢から少しでも遠ざけようと、一歩後ろへと下がろうとしたところで、雅代は彼女の目を見て背中が粟立っていくのを感じた。
鋭い冷刃に逆撫でされそうな、深く冷徹に輝いている碧瞳の前に雅代は言葉を失う。まるでとどめを刺すように、麗夏嬢は笑みを深めながら告げた。
「いくら祈ってもね、雅代、奇跡が降ってこないのよ。特に、回復するつもりもない人の元には、ね」
いつの間にか、雅代を介して姫を責め立てる空気になっていた。
雅代が姫の代わりに応戦した時から、姫はとっくに白旗を上げていた。それなのに、二人の姉はなりふり構わず、執拗に嫌がらせを続ける。
その結果、姫は自分の感情を押し殺して、殻に戻ろうとしている。見れば、みおは車椅子の後ろで更に身を小さくして、震えていた。
――このままではダメだ。
そう思った一人の少年の声が、暗鬱な空気を鋭く切り裂く。
「――同士討ちは、いつの時代でもよろしくナァーイ!」
自ら名乗り出るように、雅代の前まで移動する亮。
突然の声に誰もが目を白黒させている中、一番早く立ち直ったのは麗夏嬢である。笑顔が少し崩れたではあるものの、一瞬の隙を見せないように表情を保ちながら返した。
「あらやだ。同士討ちだなんてとんでもない。これは我が家特有のコミュニケーションよ。そうよね、菫お姉様?」
「うん、そうそう~」
「だから――空気の読めない外野は引っ込んでろ♪」
少々言葉遣いが荒くなったものの、彼女は悪びれることもなく、平然とした顔で貫く。だけど、こちらも気圧されず、“いつも”のように対応する。
「なんと! この未来のビッグスターを外野扱いにするとは、嗚呼、なんて嘆かわしい! だけど、だからこそ燃えル! さあ、共に主役の座を奪い合おうじゃないカ!」
彼のミュージカル役者を彷彿させる喋り方に、相手は困惑を隠せずにはいられなかった。『なんだこいつ頭おかしいじゃないの?』的な目で見られても、その手の攻撃は彼には無効だ。
周囲の白い目と比べたら、これくらい、彼にとっては大したものではない。麗夏嬢は彼に向き直り、負けじと笑みを浮かべる。
「あらぁ、もしかして聞こえなかったかしらぁ? これは華小路家に関することよ。庶民が富豪の土壇場に上がるんじゃねえぞ、と言っているのよ? それとも、それすら分からない程のおバカさんっていうことかしら、坊や?」
「いえいえ、私のことを幾ら罵っていただいても構いませんが――」
亮は自虐的に笑い、目を伏せる。
だけど次に頭を上げた時には、その童顔から笑顔が消えていた。
「――姫がこうして貴女方の前に立っているのは、彼女が闘病してきた尊い証。勝手に亡き者にするのは、その努力を蔑ろにするのと意味すること。取り消せ、彼女への侮辱を」
いつもの明るい声色とは真逆の、酷く沈んだ声。
彼の赤瞳にはとっくに笑みが消えていて、静かに怒りの炎を燃やしている。普段笑顔の彼がここまで怒りを露わにしたのは初めてで、その変化に相手の二人は勿論、雅代と姫までもが吃驚。
そこで、みおが壁の後ろから身を出した。
恐怖のあまり、目を閉じて手足が震えあがっているけど、それでも彼女は懸命に言葉を絞り出す。
「そ、そうだ! お姉ちゃんを悪く言うの、めーだ!」
みおの声でハッとなった雅代は、彼女の後を続くように畳み掛ける。
「ここは華小路邸ではございません。ここは高山中央病院の中であり、そしてお嬢様はここで療養中の患者の一人に過ぎません。ですので、屋敷のピーチクパーチクをこのような公共の場に持ち込まないでいただきたい。どうか、お引き取りを」
華小路家とは全く関係のない赤の他人が姫を庇う。そのこと自体が非常に驚くべきことはずなのに、麗夏嬢はただ値踏みするような目付きで、二人を眺め回すだけ。
重い沈黙を経て、彼女が「ふーん」と鼻を鳴らした。
「お友達が増えてよかったね、一姫。行きましょう、菫お姉様」
二人が7階から離れたのを確認して、重荷を下ろしたようなため息が雅代の口から漏れた。
それとほぼ同時に、みおは姫に抱きつく。まるで「大丈夫だよ」と慰めるように、姫が優しく小さな頭を撫でると、
「……怖がらせちゃったね。ごめんね」
みおは「ううん」と彼女のお腹に顔を埋める。そのまま泣くかと思いきや、みおは少し手を緩めて見上げてきた。
「みおは平気だよ。だって、お姉ちゃんの方こそ、みおよりもずっと怖い思いをしてたもん。だから、これは慰めのぎゅー」
更に腕に力が込められるのを感じながらも、みおの発言に驚く姫。これまでに幾度もみおの鋭さにドキッとさせられ、その都度感心させられてきた。
何が思うところがあってか、姫はふと撫でる手を止めて顔を上げる。すると、清々した顔付きの亮が視界の中に入ってきた。
「いやぁー。皆さん、よくやりましたね! 初めての共闘にしては上々だ! これからも引き続き鬼退治を続きましょうぞ! フハァーハハハ!」
「失礼な人ですね。ああでも一応、お嬢様でございますよ?」
雅代は「それよりも」と前置きして、姫に向き直る。
「申し訳ございません、お嬢様。ワタクシめの不注意であの者どもの侵入を許してしまいました。どうか、お赦しを」
「……いいよ。雅代のせいではないし。それに、勝手に転がり込んできたの、お姉様たちの方だしね」
それを聞いて、雅代はホッと胸を撫で下ろした。
先程の二人の様子から見るに、雅代の不在を狙って嫌がらせを仕掛けてきたと考えられる。確かに、彼女が一時傍を離れたのが遠因になったとしても、責められるいわれはない。
「て、そっちの方がよっぽど失礼ではないカ! それに、雅代さんの『ピーチクパーチク』、中々冴えてますよ。よっ、未来のお笑い芸人!」
「失敬な。ワタシは、いつだって真面目でございます。あれは、単に本心が漏れただけでございます」
「おっとと、本心でしたか。それなら……尚更、コンビを組もうぜ! 私たち『リョウ&マサヨ』なら、お笑い業界で天下一を取るのも夢ではないゾ!」
雅代は戯言に呆れたと言わんばかりの吐息を落とし、たちまち反論する。いつもの光景だ。
「どうやら下郎の耳は耳クソ――失礼、耳垢で詰まっているのようですね。今度、妹さんに会ったらそのように提案させていただきます」
「そこは『どうかワタシに亮様のお耳掃除させてください!』って流れじゃあありませんか」
「あら、触りたい人に触ってもらえればいいだけの話ではございませんこと?」
「おふ、厳しィイイイ!」
なんだかんだ言って、二人の言い合いも定番になりつつある。おかげで、どんよりとした空気がいつの間にか晴天のように一点の曇りがなくなった。
二人を眺めているうちに姫が、自分はいつの間にかこの空気に助けられていたのだ、と気付かされた。
死はいつ自分の元に訪れるのかは分からない。7階の死神だって例外ではない。
――だったら、生きているのうちにちゃんと伝えなきゃ。
その思いに突き動かされたかのように、細い唇が震えながらも開けられた。
「……みんな」
姫の呼びかけに、三人は同時に彼女の方を振り向く。
しかし、いざ伝えようとした途端、思いのほか恥ずかしさが彼女の胸中に押し寄せてきて、暫く「えっと、その、あの」と口ごもってしまった。
「……あ、ありがとね」
三人は予想外のお礼に驚いた表情を浮かべつつも、すぐに満面の笑みで返した。
二人の来訪者を撃退して暫く経った、そんなある日。姫とみおに会いに行く前に、亮はある人の元へと訪れた。
赤瞳が捉えたのは、痩身長躯の五十代半ばの女性。化粧の跡はなく、白髪混じりの黒のショートがより一層清々しく見える。しなやかな深褐色の双眸が一瞬亮を認識したものの、すぐに視界から外れた。亮はすかさず、彼女の前に回り込む。
「ちょっとお時間をいただいてもよろしいでしょうか、マドモアゼル」
「よくもまあ、恥ずかしげもなくそんな言葉を口にできますね。お嬢さんの年齢をとうに超えたこのババアに」
「だって、私にとって、全女性はマドモアゼルですからネ! キラーン☆」
自虐も通じない相手の前に彼女は重い息を落とし、話を催促すると、
「それで? 用事はなんですか?」
「ああ、そう警戒しないでください。もし貴女がこの話に乗ったら、いいものが見れますよ」
「ふむ。それは、アタシにとっての“いいもの”になりますか?」
「うーん。それを判断するのが貴女次第ですよ、マドモアゼル」
思いのほか彼の話に興味津々な自分がいることに気付いた。
彼女は暫く言葉をためらい、信用できる男かどうか値踏みすると、どうぞとばかりに笑顔を維持する亮。
彼女がこの病院に働いてから早二十年が経ったが、辺境が故に娯楽も少ない。無論、彼が起こした数々の問題は、彼女の耳にも入っていた。
しかし、こうして件の問題児と対話を重ねてみたところ、噂ほどの頭おかしな患者ではないことが判った。むしろ、敢えてピエロを演じているような、そんな気もした。
――実に面白い男だ。
彼女自身でも知らないうちに、口角が少し上がっていた。
「いいでしょう。聞くだけ聞きます」
亮が中年女性と掛け合ってから二日後、談話室にゲーム機が実装された。
最新機種の据え置きのゲーム機の前で亮とみおが大はしゃぎしている隣に、7階唯一の患者である姫は何が起きたのか全く分からず、キョトンとした。実際、彼女はゲームおろか、ゲーム機を見るすら今回が初めてで。嬉しさより戸惑いの方が勝ったのだろう。
三人の手にコントローラーが行き渡って、みおのチョイスでレーシングゲームを遊ぶことに。
そして、試合開始てから約二分が経った頃、談話室内は様々な声が飛び交っていた。
「うおおおお。うおおおお」とエンジン音の真似をしながら、ゲーム内の車が曲がる方向に身体を傾くみお。その隣で姫は操作に不慣れながらも順調に進んでいる、が。姫の右隣、亮だけが目をかっぴらいていて画面を凝視。
「うおおおお、行け! 進め、進むんだ、カミカゼ号! お前はここで怖気づくような車ではないはずだ!」
いくら彼がゲーム内の車にエールを送り続けても、スタート地点から一歩も動いていないようでは最早試合にすらならない。「……お先」と共に、彼の車体を追い越す姫のを見て、亮はビックリして大袈裟にのけ反った。
「っな?! そんなバカな! 一体、どうなってるんだ……! ッ、そうか! 分かったぞ! 二人は私のコントローラーに何かを仕掛けたということか! なんて卑怯なッ!
しかぁーしッ! この試練を乗り越えてこそ、一流のエンターテーナーになるしょ――」
「……コントローラーを傾くばかりでボタンを押していないからなのでは」
「あ、ほんとだああぁぁ! お前は神か! 否、姫ダッ! 行くぞッ、我が相棒、カミカゼ号ぉぉ!
前方ヨーシ! 後方ヨーシ! 右も左もヨォーシ! 発車ッ!!」
姫はふふふ、と小さく笑い出し、ゲームに戻った。
そんな三人の様子をドア付近から眺める中年女性が一人。雅代が彼女に近付いて「お久しぶりです、看護師長さん」と挨拶する。
「滅多にこちらに来ない貴女が姿を現しただなんて、一体、どういう風の吹き回しですか?」
「やれやれ、その減らず口は相変わらずですね、華小路家のメイド長さん。これでもあの子の担当ですからね。時々様子を見に来ないと」
「時々、ね……」
看護師長の顔を見ながら、嫌味たっぷりの挑発口調で呟いた。
実際、当初の頃、彼女は『姫の担当看護師』という役柄を利用して、今の地位につこうとした。だけど、その目論見は当の姫に見破られてから、罪悪感で病室に訪れる頻度も少なくなったが。そのことに雅代は今でも根に持っていることを、無論彼女は知っていた。
知っていた上で、ここに戻ってきたのだ。少年との約束を果たすために。
看護師長はもう一度三人に目を向けて、安堵の笑みが深まった。
「『実にいいものを見せてもらいました』、とそう彼に伝えてくれませんか?」
「かしこまりました」
雅代に見送られる中、彼女は音を立てずにドアを開け、去り際にもう一度振り返る。
深褐色の瞳孔に映る姫の顔には、かつての面影はほとんど見られなかった。
三人がプレイした途中でみおの担当看護師が迎えに来た。ご両親がお見舞いに来たとのことゲームは一旦中止。姫はちょっと休憩したいと席から立ち上がったそばから、亮は別のゲームを起動した。
「お、何これ。めちゃくちゃ面白そうじゃないカ! 姫、次はこれをやりましょう!」
彼が提案したのは、いわゆるサバイバルホラーゲームというやつだ。
ゾンビが蔓延る屋敷の中に閉じ込められた主人公は、生き残るためにゾンビから逃げ回りつつ、世界の秘密を追求するといったミステリー要素を含んだ典型的なホラーゲーム。
しかし、姫は物心ついた頃からこのような娯楽品に触れる機会がほとんどなかったため、彼が面白いと言った理由に共感できず、首を傾げるのみ。
難易度を選択する画面でこれがソロー用のゲームだと知り、亮に操作を任せて、自分は隣で見ることとなった。姫はチラッと雅代の方を見ると、
「…………」
特にこれといった仕草を見せなかったので、視線を画面へ。彼女は何か新しいことをやり始める際には必ず雅代から許可を取っていた。だから、そんな彼女がオーケーを出した以上、姫は大丈夫だろうと判断した。
それが裏目に出たと分かったのは、ゲームが開始してから約三分が経った頃。
「いやあああああああああああ!! こっち来んなあああああ!!!」
「……」
「……ヨシ、今のうち…! やった、取れた! うぉおんぎゃあああああああ!! 待ち伏せえええええ!!! 聞いてないぞおおおおお!!!!」
「……」
「うわっ、あれをどうやって……。ええい、食らえ! 必殺、至近距離狙撃!(※初期武器の拳銃なので必殺技がありません。そもそも設計上に必殺技なんて存在しません)
ぅぎゃああああ、バレたああああああああ!!!」
「……」
まだ序盤でしかないのに、すっかりクライマックスを迎えたかのような、室内には手汗が握るようなドキドキと緊張感が漂っている。いや、最高潮に達していると言っても過言ではないだろう。
絶叫しまくる亮と、その隣で終始無言の姫。
彼女は時折ビクッとしたりはしたけど、表情は依然として『無』のままだ。傍から見れば、彼女が珍プレーのオンパレードに内心で呆れているだろうと容易く推測できる。それ程までに、碧瞳は完全に死んでいるのだ。
その一例を挙げるとすれば、以下のようになる。
パニックの余りにうっかり初期武器を捨てしまったり、ゾンビ―を撃ったりせずマジマジと観察した結果、逆に襲われて食べられてしまったり。安全地帯であるセーフルームから雑魚敵を散々煽ったのに、いざボスの敵地に乗り込むとヒイヒイ喚いたり。
切り抜き動画にしたら、大人気の配信者にも劣らないほど、どれも笑いを取れるシーンばかりだ。それなのに、隣の姫から笑い声が一切聞こえない。しかし彼は気を留めず、次々と披露していく。
そう、彼自身もまた自分がプロデュースした茶番劇に酔い痴れているのだ。
――それにしても、この組み合わせも段々見慣れてきましたね。
雅代はそう思いつつも、二人の様子を見守る。密かに姫の新鮮な反応を見たくて亮のゲームチョイスに黙認したとは言え、目当ての光景を見ることができず、心中ではかなりガッカリしている様子。
それから二時間後、木村さんはいつものように彼を迎えに来た。二人は彼らを見送り、談話室に戻る。姫がゲームを終了させた後、雅代は背中越しに質問を投げかけた。
「もうお部屋に戻られます?」
しかし、その問いに答えが返ってくることはなかった。ふと姫を見やると、いつの間にか前に立たれていて内心でドキッとした。
「……ちょっと胸を借りてもいい?」
「Cのパイパイでもよろしければ、いくらでも差し上げます」
だけど、変態じみた発言に姫は返事をせず、そのまま華奢な腰に腕を回して、雅代の胸に顔を埋める。
「どど、どうかなさいましたか、お嬢様」
そう尋ねる雅代の声は冷静そのものではあるが、内心ではカオス状態。
――これは一体どういうことでございましょう。お嬢様からのハグ。いや、お嬢様がそうしてくるはずが。でも嗚呼、お嬢様からのハグ。ハグはハグしていて実にハグハグしているでございますね。お美事!
久しぶりに最愛の主人に甘えられて、雅代は内心で大興奮したが、すぐにブレーキを掛けた。
彼女の中で『メイドとしてのやるべきこと』と『長年涸渇していた萌えタンクの補充』を天秤に掛けたが、今更そんなことをしても何の意味を持つはずもなかった。
何故なら姫に抱き締められた時点で既に昔のオタク感覚が呼び覚まされて、圧倒的に私欲の方に傾いたからだ。
この至福の一時を一秒でも長く堪能しよう。雅代がそう思った矢先に、その後にやってくる啜り泣きにハッとなり、少しばかりの冷静を取り戻した。
「……こここここ、怖かったよぉ雅代ぉぉ」
けれど、僅かな冷静も姫の甘えた泣き声の前では霞んでしまう。
「……雅代、あれは本当に創作ものなの。どうして人間はこんな怖いものを作れたの。奴らが一斉に襲い掛かってくるだなんて聞いてないよぉ。まさか、本当に実在したりとかないよね。グロいし気味が悪いし、もう見るだけでゾクゾクするし……。ううぅ、ゾンビ怖いよぉ……」
その声は、雅代の心にクリティカルヒット。姫の泣く姿に萌えている中で、彼女は先程の姫の様子を思い返して、ようやく理解した。
どうやら姫は取り乱している人が身近にいると冷静になるタイプで。おまけに、グロ描写が多く、ホラーに耐性が皆無の彼女にとっては致命的だ。
先程の彼女は恐怖のあまりに硬直しただけで、感じないわけではなかった。それが分かっただけで更に愛着が湧いたのはいいものの、この状況をどう受け止めたらいいのか、依然として不明瞭のまま。
抱き返すのがメイドとして最適解なんだろうけど、雅代は内心で「ありがとうございます、神様」と連発するだけで、他に何かをする余力はもう残っていなかったらしい。
「……ぐずっ、本当に怖かったよぉ」
「グハッ」
姫の涕泣は本物になってきたと同時に、雅代の心のHPが0になりそうだった。萌えすぎたあまりに、大好きな姫に尊死される寸前になった。
自分自身を暴走させまいとして、雅代は一切姫の身体に触れず、夢のようなシチュエーションを満喫しつつ、主人が落ち着くのを待つだけだった。
翌日、雅代からはホラゲー禁止令を下され、亮は不平不満を垂れながらも渋々と従った。しかし、ストーリーの続きが気になる姫にとって、それはある意味致命的である。