八月の最後の月曜日だった。「デス」有の掛け声を聞いてから数時間後の午後一時頃、ふいにインターホンが心臓の近くにあるみたいに鳴った。美加はすり足で玄関に向かい、覗き穴から外を窺った。背広姿の男が二人立っていた。美加は(いつものように)居留守を使った。
インターホンががもう一度鳴る。美加は扉の内側で息を潜めた。数秒後、再び覗き穴から外を窺うと、男たちの姿はなかった。
 二階建てのアパートには、各階に三戸分の玄関扉が並んでいる。外階段を上がって一番奥が美加の家だ。何かのセールスなら他へも行くだろうと思い美加は耳をそばだてた。すると隣の玄関の方で、M警察署の者ですが、と言っているのが辛うじて聞こえた。
 警察?
 背筋に緊張が走った。となりの住民は一人暮らしの若い会社員だ。今日はたまたま休みなのか家にいたようで、慌ただしく玄関に駆けつけ、突然の来訪者に応対している。しばらく玄関先でのやり取りが続いたが、お互いくぐもった声同士で、会話の中身まではわからない。それでも美加は、すぐにそれが先日の事件の聞き込みであることに気づいた。捜査が行き詰まり、聞き取りの範囲がここまで広がって来ているのだ。
 隣の扉が閉まり、再び沈黙が戻る。おそらく刑事たちは外階段に一番近い住戸の方へ移動しているのだろう、と美加は思った。すると予想に反してこちらのインターホンが鳴った。美加は驚いて尻もちをつき、軽く靴箱に頭を打った。居留守なんてとっくにばれていた。何しろ相手は刑事なのだ。美加は這って台所まで行き、一度深呼吸してから、壁のインターホンに向かって「ハイ」と答えた。

 五十前後の小柄なベテラン風の刑事と、スマートな若い刑事。二人の男は、テレビドラマでよく見かけるとおりの組み合わせだった。美加は、すでに了解済みの用件を告げられると、どうぞと言って二人を中へ招き入れた。実のところ彼女は、彼らが聞き込みの刑事と分かるや否や、緊張すら差し置いて、聞きたいのはこっちの方だという思いを湧き上がらせていた。
小柄な刑事の方が、いやあ突然お邪魔してスミマセン、すぐ失礼しますからと恐縮しながら食卓テーブルの席についた。若い刑事もさっと室内を見回した後、無言で隣に腰を下ろした。
「お母さんは、外出中かな?」
 慣れない手つきでお茶を用意している美加に、小柄な刑事が訊ねた。
「あ、はい。仕事に行ってます」
 美加は答えた。母以外の人と普通に会話ができている自分が少し意外にも思えた。
「君は、えーと、高校……」
「二年です」
「今日、学校は?」
「……今は、休学中です」
 お茶を出しながら正直に答える。
「それはまた、病気か何かで?」
 二人の刑事が揃って表情を曇らせた。
「……ああ、そうですね。……いわゆる心の病ってやつです」
 美加は自嘲気味な笑みをほんの少し浮かべ、席についた。小柄な刑事は何か言いかけようとしたが呑み込み、何度か頷いた。そして事件について切り出した。
「二カ月半ほど前、この近くのマンションで殺人事件があったのは知ってるよね?」
「女子大生の……」
「そうそう。その事件のことで今調べているんだけれど、最近この辺りで、不審な人を見かけたり、何か気になったことはなかったかな?」
頭の中で、月曜日の作業員の掛け声がリフレインする。美加は自分が調べた記事の件数のことや、膨れ上がった妄想を全部吐き出してしまいたかった。けれどもぎりぎりのところで何かがブレーキをかけた。木曜日の「デス」無の掛け声だ。美加にはどうしても、この声の主が悪意をもった人物に思えなかったのだ。
「ずっと部屋にこもっているので、私は特に何も…」
 美加は何か悟られやしまいかと緊張しながら質問に答えた。
 刑事が軽く頷く。鼻から期待などしていないのかもしれない。
「お母さんは何か言ってなかった?」
「いいえ」
「お父さんは?」
「お父さんは……。いません」
「えーと、それは…」
刑事が言葉を選ぶ。
「亡くなりました。私の生まれる前に」
「……いや、そうでしたか、これは失礼」
 刑事は少し慌てたように言った。先ほどから黙ってメモを取っていた若い方の刑事が、再び室内を見回す。写真の類が何も無いのに気づいたのか、怪訝そうな顔をしている。
「ところで、事件のあった頃、あなたはもう学校へは行っていなかったの?」
 刑事が質問を続けた。
「はい。……勉強は、家で……」
美加は言い訳気味に答える。
「お母さん、昼間はいつも仕事に?」
「近くのクリーニング屋さんで働いています」
「帰って来るのは…」
「八時過ぎです」
「お休みは?」
「水曜日……だけです」
「それじゃ、事件のあった日曜日もお母さんは仕事に出ていて、あなたは一人でこの家にいたわけだ」
「……そうですけど」
「どこへも出かけなかった?」
「はい……」
 なぜそんなことを訊くのだろう。……まさか私を疑ってる?私があの女子大生を刺したとでもいうの?ばかみたい!ありえないでしょう、中二の女の子が!美加は心の声で抗議した。だが何年か前に、人を殺してみたかったという理由で女子中学生が同級生に毒物を飲ませた事件があったことを思い出し、ありえなくもないのだと考え直した。しかも自分は、心が病んだ不登校の少女という扱いだ。常識では理解できない犯行に及ぶ可能性もあると刑事が考えても不思議じゃない。
 美加は最悪のケースを想像した。──このまま容疑者が見つからなければ、アリバイのない自分が犯人に仕立てられてしまうかもしれない──。さらにはこうも勘ぐった。自分がこの状況に追い込まれているのも、あの作業員のどこかに潜む死神の仕業ではないか、と。
「あのう…」
 美加は言いかけ、すんでのところで口をつぐんだ。
「何か?」
 刑事がすばやく反応した。
「いえ、何でもないです」
 美加は食卓テーブルに視線を落とした。二人の刑事はじっとこちらを見ている。死んでもいいやと考えていたくらいなのだから、この世界に未練なんてない。けれども殺人者のレッテルを貼られるのだけは御免だった。第一、母親に申し訳なさすぎる。美加は再び、作業員の情報を伝えなければと思い直し、何度も言葉を絞り出そうと試みた。しかしその試みはことごとく失敗に終わった。
 長い沈黙の後、小柄な刑事は「いや、ご協力ありがとうございました」と言って席を立った。若い刑事もすぐに続き、玄関を出る際に初めて口を開いた。
「何か思い出したり気になることがあったら、どんな些細なことでも結構ですので、署の方にご連絡ください」
そう言い残し、階段を下りていった。
 刑事たちはその後、一階の住民にも聞き込みに回り、一時間ほどでアパートを出た。美加はカーテンのわずかな隙間からずっと外を窺っていたので、二人の姿を見届けることができた。ふいに若い刑事の方が振り向きこちらを見たので、慌てて顔を引っ込めたが、気づかれたに違いなかった。余計に怪しい印象を与えてしまったのではないかと思い、美加は止めどない不安を募らせた。