人は、二種類に分かれる。
 一人でも生きていける人と、そうではない人。
 私は、その後者の方だ。
 だから、クラス内で権力を握っている人にくっついていなければいけない。
 私のような人に、「自分」を堂々と出せる権利はない。
 そうでないと、「自分」が消されちゃうから。
 権力者の機嫌をとって、愛想のいい笑顔をずっと顔に貼り付けていればそれでいい。
 クラスで、孤立しないため。
 いじめの対象にならないため。
 それが私たち、カースト中部の一部の生徒たちの生き方だった。

「結夏、宿題やってきた?」
 朝、下駄箱で靴を履き替えていると、後ろから声をかけられた。
「うん、やってきたよ」
「よかった〜!ね、私昨日ドラマ見ててする暇なかったの〜!お願い、写させて〜!」
 彼女は手を顔の前で組み、必死という感じで言ってきた。
 考えるよりも先に、言葉が出た。
「うん、もちろん!」
 私の返事を聞いた彼女は甘い声で言った。
「ありがと〜!助かる!」
 そう言って、抱きついてきた。
 彼女は甘ったるい「女子」の香りがした。
 私は彼女の明るい声を聞くたびに、私の好感度が上がるような錯覚に陥る。
「行こう、美由ちゃん」
 私は彼女の手をそっと引いて歩き出した。
 七森美由。
 学年一の美少女。
 そしてクラスの女王。
〝彼女には逆らってはいけない〟
 それが、私たちカースト中部の暗黙のルールだった。
 美由ちゃんは教室にたどり着くと、いつもの行動をした。
 黒板に、大きく文字を書いた。
〝渡辺遥〟
 今、いじめのターゲットーーーー美由ちゃんたちのおもちゃの名前を。
 そして、そのまま続けた。
〝渡辺遥はクラスでブスな人選手権で一位になりました〟
 私は3日前のことを思い出す。
 クラスで、〝ブスな人選手権〟があった。
 私は美由ちゃんに合わせて渡辺遥に投票した。
 ほんとを言えば、渡辺遥はさほどブスではない。むしろ可愛いくらいだ。
 いじめのせいでみすぼらしい見た目になってしまっているけど、ぱっちりな二重、整った鼻と口。正直言って美由ちゃんよりかわい……
 いいや、なんでもない。
 私は美由ちゃんの席に近づいた。
 ちょうど席に着いた美由ちゃんが、ドアの方に視線を向ける。
「りんりん、まだかなぁ…」
 と唇を尖らせる。
 さっきまで黒板に物騒なことを書いていた顔と打って変わって甘ったるい顔で。
 でも、みんななにも言わない。
「あ、りんりーん!おっはよ〜!」
 教室に入ってきたのは花由凛花。クラスで二番目の権力者。
「りんりん、遅いよ〜」
「ごめんごめん〜昨日ドラマ観てて夜更かししちゃったの〜!あー、肌に悪いけど、やめられなかったわ!」
「あ!りんりんもドラマ観た?最新話!」
「観た観た〜やばかったよね〜まさかレオがカノンに告るなんて〜!」
「ね!アヤが好きかと思ったのに!」
「やっば!」
 二人が今流行りの恋愛ドラマの話で盛り上がってる間に私は鞄から荷物を引き出しに移した。
「あ、柚月来たっ!」
 美由ちゃんが言った。
 ドアが開き、ツインテールの女子が入ってくる。
 彼女は花夜柚月。
 私と同じ、カースト中部。
 …だと思うけど、本人は自覚してないみたいで、美由ちゃんや凛花ちゃんと普通に話してる。
 でも、美由ちゃんたちは柚月をカースト中部として扱っているらしい。
 カースト上位が中部の私たちを区別する呼び方。
 呼び捨て。あだ名なし。
 だからわかる。
「おはよ、美由、凛花」
 柚月は二人にそう言った。
 二人は、呼び捨てで呼ばれたことに眉を顰めてる。
 愛想笑いを浮かべたまま。
 それが逆に、圧を感じてしまう。
「ねぇ美由さ、インスタにすんごい盛れてる写真アップしてたじゃん?あの時のアイシャドウなに使ってたの?」
 柚月が美由ちゃんに聞いた。
「ああ、あれはね…」
 美由ちゃんは喋り出した。
 多分だけど、美由ちゃんたちは柚月をよく思っていない。
 変わり者な柚月は、実は美由ちゃんに続く学年で二番目の美少女って言われてる。
 変わり者の割には美容に詳しく、学校の校則を守り化粧を全くしてないのにとても整った容姿と顔をしている。
 まあ、柚月が美由ちゃんたちに嫌われた方が、私としては都合がいい。
 柚月が嫌われれば、私が悪く思われる可能性が減る。
 私の隣で柚月が美由ちゃんと接していれば、私がよく見える。
 だから、柚月は私にとっての『飛び道具』でしかない。
 私と柚月の関係は友達とかじゃなくて、『赤の他人』もしくは『ライバル』と言った関係だ。
「ね、結夏。結夏はインスタやってないの?」
 突然、美由ちゃんが話しかけてきた。
「えー?私なんて全然可愛くないからやっても意味ないよー?」
 私は美由ちゃんの顔色を窺いながら言った。
「え?インスタやってないなんてマジありえないんですけどー?」
 美由ちゃんはドン引き、といった感じで言った。
 …どうしよう、変なやつだって思われちゃう!
「あははは。そーだよね。時代遅れだよね、恥ずかし〜!私も始めようかな、インスタ」
 私はその場しのぎのために愛想笑いを浮かべた。
「ね、始めなよ!結夏初心者だから、私フォローしてあげる!」
 それは遠回しに、「どうせフォロワーが増えない」といっているんだ、と感じた。
「え?もしかして嫌?」
 わたしの気持ちが顔に出ていたのだろうか。美由ちゃんはじりじりと顔を近づけてきた。
「ねぇ、嫌なの?もしかして、私がしてあげるって言ってるのに、嫌なの?」
 そこには、誰も逆らえないような圧があって、その顔は愛想笑いを外し忘れたかのように綺麗な笑顔のまま目が吊り上がり、残酷な瞳が私を睨んでいた。
 それは、有無を言わせぬ力があり、一発でその場にいた全員を凍りつかせられるほどの威力があると思った。
 …そう思ったのに。
「そういうの、やめたほうがいいよ」
 柔らかく、だけど凍てつくような冷たい声で言ったのは、他でもない柚月だった。
「は?柚月関係なくない?」
 美由ちゃんが圧を感じる目つきで柚月を睨む。
「前から思ってたんだけど、そんな感じで無理にに押し付けるみたいなことするの、やめた方がいいよ、嫌われるから」
「は?結夏がやってみたいって言ったから教えてやったんじゃん?」
 美由ちゃんがちらりと私を見た。
「なんかさ、『私がしてあげるって言ってるのに〜』とか、その時さ、結夏困ってたよ?」
 …余計なことを言わないで…っ!
 私は心の中で叫んだ。
 背中を嫌な汗が流れる。
「あとさ、いつもそんな感じでクラスの女王様陣取ってるの、ウザいから。みんなもそう思ってるよ」
 柚月はそう言って教室を出て行った。
 私は「ちょっとトイレ」と美由ちゃんに声をかけて教室を出た。








 私はトイレに行った後、なんだか教室に帰りたくなくて、自販機に寄った。
 その時、自販機の前にツインテールの女子がいるのが見えた。
 …柚月だ。
 私はすっと踵を返して引き返そうとした。
 …なのに。
「あ、結夏じゃん。なんか買う?ごめん待たせて」
 柚月は自販機の前を私に譲った。
「……」
 私は気まずくてなにも言わずに自販機の前に立った。
 私の指が、宙を彷徨う。
 …勢い任せで自販機来ちゃったけど、なにも買うものがない。
 私は家から飲み物を持参している。それに…
「ふぅ…何買おう?
 …私は今、ダイエット中なのだ。
 美由ちゃんに、言われたから。
 自分で言うのもなんだが、私はそれほど太っていない。
 元々、太りやすい体質ではないし、めっちゃ食べるわけでもない。
 まあ、ド・標準ってところ…だと思っていた。
 でも。
『結夏ってさあ、ぽっちゃりしてるよね、全体的に』
 つい一週間前ほど、美由ちゃんが笑いながら言ってきた。
『え?』
『あ、もしかして気づいてなかった?結夏は自分が可愛いと思ってて草!体重何キロ?』
 私は渋々体重を伝えた。
 すると、ケラケラ笑い出した。
『へぇ!それってデブじゃん!こぶたさんって呼ぼうかな!』
 美由ちゃんは言って、辺りを見回した。
 みんなは、『それはあんまりじゃないか』という顔をしていた。
『もうっ、冗談だってばっ!あ、恥ずかしいならダイエットしたら?じゃあ、1ヶ月で3キロ痩せないとこぶたさんね!1キロでも太ったらおおぶたさんね!』
 今度は、みんな面白そうにこっちを見ている。
 とまあ、クラスでバカにされたくないという理由でダイエットしてるわけだ。
 家から持参したお茶は、ネットでダイエットに効くお茶を見つけてそれを飲んでいる。
 …大好きなミルクティーも、しばらく飲んでいない。
 その時、目の前に並ぶジュースや甘い飲み物が酷く素敵に見えてきた。
 ああ、飲みたい…!
 私はそんな心の声を無視してお水のボタンを押そうとした、その時。
「あれ、結夏って、甘いやつ好きじゃなかったっけ?」
 ぴたりと、手が止まる。
「あ、違った?」
 どくり、心臓が鳴る。
「この前さ、ミルクティー買ってたじゃん。お水でいいの?」
 私はごくりと唾を飲み込んだ。
「お金ない?私、出そうか?」
「いや、だい、じょ…うぶ…」
 私はとうとうクラクラし始めた。
 実は今日、朝から何も食べていない。
 最近、お菓子を食べすぎちゃって、だから私は朝ごはんを我慢した。
「あ…結夏、もしかして…」
 柚月は何かを察した。
 美由ちゃんにダイエットしたら、と言われた時、確か柚月はいなかった。
 ああ、バレちゃった。
 だが、柚月はそれを口には出さなかった。その代わり、私を押し除けて自販機の前に立ち、ミルクティーのボタンを押してお金を入れた。
 がしゃん、音がして、ペットボトルのミルクティーが落ちてきた。
「はい、これ」
 柚月は私にペットボトルを差し出した。
「だ、ダメだよっ、だめ…」
 私は言いかけたが、その直後に柚月が差し出したペットボトルを受け取っていた。
 蓋を開ける。
 ダメだとわかっているのに、手は言うことを聞いてくれない。
 そのまま口に持って行き、私はミルクティーを口に入れた。
 途端、私の身体があったかくなった気がした。
 私ははっと我に帰った。
 でも、後悔はしなかった。
 朝からなにも食べていないので、今少しミルクティーを飲んだだけで少し体が楽になった。
 私は時計を見て、ホームルームが始まる時間だったので、教室へ走った。





 私は結局3キロ痩せることができ、1キロも太らなかった。
 そしていじめは回避することができ、私は今も美由ちゃんたちのグループに所属している。
 美由ちゃんは最近渡辺遥が転校したことに面白くないと思っているのだろう。毎日つまらなそうにしている。
 でも、相変わらず柚月が美由ちゃんに立場を感じない接し方をしているので、美由ちゃんは柚月にイライラしているみたいだ。
 まあ、それ以外は〝平穏〟が続いている。
 …と、思っていた。今までは。
 それは、ある日突然起こった。
 朝、私が美由ちゃんと話していると、教室のドアがガラリと開いた。
「あ、柚月おはよ!」
 柚月は美由ちゃんの机につかつかと歩み寄って来た。
 美由ちゃんの言葉に返事もせずに。
「あのさ、大事な話があるんだけど」
 美由ちゃんは怪訝そうに言った。
「なによ?大事な話って」
 柚月は大きく息を吸って言った。

「私、このグループ卒業するわ」
 
 美由ちゃんが、意味がわからないと言うような顔をする。
「だから、もう美由たちといるのやめるって言ってんの」
 柚月は少しイライラしたように言った。
 美由ちゃんは急に笑い出した。
「は?なにそれ。私に逆らうっていうの?ははは。笑える!」
 その目は、笑っていなかった。
「柚月!それがどういう意味か、わかってる?」
「なに?意味聞いてくるとか、きしょいんだけど」
 柚月は淡々と続ける。
「前から思ってたんだけど、美由ってわがままだよ?しかも、自分が女王様みたいに思ってるでしょ。偉そうでウザいんだけど。美少女とか言われてるけど、性格ブスは嫌われるよ」
 柚月はそう言って、私の方をちらりと見た。
「結夏も、最近困ってたし」
 私は、全身に鳥肌が立つのを感じた。
「…っ私、困ってなんてっ…」
「へー?結夏もそう思ってたんだ?」
「違う!私は、困ってないよ…全然」
 私は必死になって言った。
 …本当に、『全然』だろうか。
 喉の奥に、言葉が引っかかってなかなか出てこない。
 私は、嫌だったの…?
 確かに、美由ちゃんのおかげで平穏は保てていた。
 だけど、見えない圧力で私は息苦しくなっていたのかもしれない。
 …でも、そんなこと、言えないよ…!
「ま、結夏は言えるような立場じゃないけどね!どうせ、結夏なんて自己中なサイテー女なんでしょ?隠してるだけで。バレてるよ」
 …私は全身から怒りが込み上がってくるのを感じた。
 私が自己中?サイテー女?
 ふざけてる。私はいつだって美由ちゃんの機嫌を取ろうと頑張ってきた。
 それが、無駄だったっていうの?
「……さい」
「は?」
 私は大聞き息を吐いた。
「うるさい!私は…私はいつもあんたの機嫌とってるんだよ!あんたが女王様気取りしてるからみんな困ってる!私だけじゃない。あんたがいじめてた遥さんも、不登校になった鈴音さんも!自分がどんだけ迷惑な存在か少し考えて!」
 私は、勢いでそう叫んでしまった。
「ほら、やっぱりね。まあ、このグループからは外さない。あんたが外れると、都合が悪い」
 美由ちゃんは言った。
 そう、私は美由ちゃんの弱みを握っているのだ。
 それは、美由ちゃんが何人もの人と交際してる浮気サイテー女ってこと。
 私が知っているところ…5人と付き合ってるみたいだ。
 私が映画を見に行った時、隣に座っていた美由ちゃんと背の高いバスケ部の男子が暗闇の中で抱き合っていた。
 その時は気づかれなかったけど、その後も何回か美由ちゃんの浮気現場を見た。そのうち、美由ちゃんに気づかれて口止めされた。
 グループからは外さない。でも、私はさっき、美由ちゃんに逆らってしまった。
 私は真っ青に他なった。
 …いじめ、られる…


 







『鈴音結夏は裏切者』
 次の日の朝、学級掲示板にその張り紙が貼ってあるのを見た私は、確かな喪失感と絶望感、そして、何よりも恐怖を感じた。
 私はその張り紙を恐る恐る剥がし、黒板に目を向けた。
『渡辺遥をいじめたのは花夜柚月!みんなで柚月をいじめよう!あいつ、浮気してるサイテー女なのにイキってて草!』
 私だけではなく、柚月もいじめの標的になってしまったのだ。
 元はと言えば、柚月が余計なことを言うから私までいじめの標的になってしまったのだ。
 許せない。
 私はギュッと唇をかみしめて、逃げるようにトイレに向かった。

 私がトイレから帰ってくると、たくさんの罵詈雑言が飛んできた。
「バカ」「ブス」「お前のせいでクラスの雰囲気が壊れた」「生きる価値ない」「身の程わきまえろ」「なんでお前なんかがクラスの女王と一緒にいるんだろ」「きえろ目障りだ」「ウザい」「死ね」。
 たくさんの罵詈雑言が飛び交う中、私は席について鞄の中身を机に移そうとした。
 …だけど、私の鞄の中には、ビリビリに破られた教科書と、濡れた筆箱(トイレの水だろう)と、消し跡が残る宿題があった。
 …全部、予想してたことだ。
 私はその日、そんな使えそうもない物たちを使い、周囲に笑われ、先生に「なんでこんな酷いことをするんですか」と私を叱りつけた。ボロボロの教科書を見て、勉強が嫌になって破ったと思ったのだろう。
 いじめの可能性なんて、1ミリも考えずに。
 先生は、自分が悪者になりたくないがため、いじめという可能性を見て見て見ぬふりするあまり、いじめに気が付かなくなったのだろう。
 私は帰り道をとぼとぼ自転車を引きながら歩いていた。
 はあ、本当に疲れた。
「あ、結夏じゃん!やっほ〜!」
 隣から、明るい声が聞こえてきた。
 …私が、今一番恨んでいる人。
「柚月…っ」
「どうした?そんな暗い顔して」
 柚月は私の顔を覗き込んできた。
「…柚月こそ、なんでそんな平気そうな顔してるの?」
「え?なんでって…結夏、ちょっと待って。顔色、悪いよ。なんかあった?」
 そう言って、私の肩を抱く。
「しっかりして。あ、そうだ!近くにエンゼルスマイルあるから寄ってこうか。なんか食べる?」
 柚月は有名ハンバーガーチェーン店の名前を口にした。
「…なんで、私にそんなに構うの」
「え?」
 柚月から、素っ頓狂な声が漏れた。
「なんで柚月は、私に構うの?」
 私は語気を強めて言った。
 柚月は少し考えて、優しく、でもキッパリと言った。

「だって結夏は、友達だから。」

 …友、達…
 私は、その言葉の意味を考えた。
 私はこれまで、柚月のことを「友達」なんて考えたことがあっただろうか。
 でも今、柚月は私のことを力強く「友達」と言い切った。
 それは、嘘偽りもない純粋な友情だった。
 …でも。
 それじゃまるで、柚月が私のことを嘲笑っているみたいだ。
 私をキッパリと「友達」と言った柚月と、柚月のことを「飛び道具」として利用した私と。
 なんて汚い心、愚かな人だと嘲笑っているのだろう。
 私は、柚月の手の中で、踊らされている…?
 もしかして、いじめに巻き込んだのも、私をバカにしたかったから?
 許せない!
「…私は、あんたなんかの友達じゃない」
「え?」
「あんたなんかね、私にとってはただの「飛び道具」なのよ!一度も友達なんて思ったことない!もう私に構わないで!」
 私は一気に捲し立てると、思いっきりペダルを漕いで自転車を走らせた。
 









 私はモヤモヤした気持ちのままベットを転がっていた。
 なんとなく学校に行きたくなかった私は、お母さんに「お腹が痛い」と嘘をついて学校を休むことにした。
 柚月のことが頭をよぎる。
 私は柚月との関係を振り切ったけど、柚月は〝学年で2番目の美少女〟という立場である。その立場で私へのいじめを強力化することができるかもしれない。
 ズキン、頭が痛む。
 明日のことを考えると気が重い。
 私はむず痒くなって気分転換に散歩に行くことにした。
 自転車で。誰もいない、海沿いの坂道を下りに。
 私は自転車を走らせながら、胸いっぱいに潮の匂いを吸い込んだ。
 私はふと思い、自転車を止める。
 …誰かと海に来たことが、ここ最近あっただろうか。
 懐かしい海。
 ここにはいい思い出と嫌な思い出があった。
 
 私は昔、引っ込み思案な性格だった。
 誰とも話さず、常に相手と一定の距離を保っていた。
 そんな私に、ユキちゃんは声をかけてくれた。
 ユキちゃんは、黄色のワンピースがとっても似合う、おさげの女の子だった。
 でもユキちゃんは、私にユキちゃんがユキちゃんであることしか教えてくれなかった。
 ユキ、という名前も本名かは分からない。
 名字も、年齢も、住所も、通っている小学校も、両親の名前も。
 そんな不思議なユキちゃんと出会ったのが、この海だった。
 私たちは放課後になるとここに集まり、砂浜でお城を作り、貝殻を集めてアクセサリーを作り、たまに海を泳いだ。
 そんな、大親友と呼べる中だった。
 それが、私のここの海での、いい思い出。

 嫌な思い出は、ユキちゃんと私の関係に終止符を打つ出来事だった。
 その日、私は学校の友達にこんな噂を聞いた。
ーーーー『ユキっていう女の子、危ない子らしいよーーーー』
 私は聞いた。
『なに?どんな子?』
『なんかね、黄色いワンピース着てて、二つ結びなんだって。その子ね、ほら、この間の空き巣事件があったじゃない?その時に犯人を捕まえたのが、ユキなんだって。ユキが、警察署まで犯人を引きずって行ったんだって。危ないよね〜』
 私はどきりとした。
 ユキちゃんが…?嘘。きっとただの噂だよね…?
 けど、私はお母さんに言われた一言に、奈落の底に突き落とされた気持ちになった。
『ゆいちゃん、ユキちゃんって知ってる?』
『うん、知ってるけど…』
『その子と、遊んだことがある?』
 嫌な予感がした。
『うん、いっぱい遊んでる…よ?』
 私はお母さんの眉をキュッと寄せた怖い顔を見て、声が小さくなった。
『ほんと?その子、危ない子なんだって。もう、その子と遊ぶのはやめた方がいいわよ』
『え…でも、ユキちゃんはそんな子じゃ…』
 私が言うと、お母さんは大きなため息をついて言った。
『ダメよ。いい?お母さんはいつもね、ゆいちゃんのためを思って言ってるのよ。だから、そんなふうにお母さんやお父さんに口答えするような真似はしないで。わかったなら、素直にもうユキちゃんとは遊ばない…って、ちょっとゆいちゃん⁈』
 私はお母さんの声に背を向けて家を飛び出した。
 私がいつもの砂浜に行くと、ユキちゃんは一人で砂浜に視線を落としていた。
『なにしてんの?』
『あ!ゆいちゃん来た!見てみて!ゆいちゃんと私の絵を描いたの!』
 ユキちゃんはそう言って砂浜を指差した。
 そこには、おさげの女の子と、ボブヘアの女の子が笑顔で手を繋いでいる絵が描かれていた。
『ず〜っと友達!大好きだよ、ゆいちゃん!』
 こんな文字を添えて。
 私は嬉しくてたまらなくなった。
 ユキちゃんが、私のために描いてくれた…
 私はユキちゃんの手を握ろうとした。
 けど。
ーーーー『その子と遊ぶのはやめた方がいいわよ』ーーーー
 お母さんの声が蘇った。
 …そんなはずない。ユキちゃんが、危ない子なわけない。
 でも、こんなに優しい笑顔の裏に、悪い子の顔があるとしたら…
 考えたらゾッとした。
 もしかしたら、裏切られているのかもしれない。
 そうだとしたら、今すぐ縁を切らなくてはいけない。
『…らない』
 私はつぶやいた。
 ユキちゃんはなにも言わずに首を傾げた。
『いらないよ、こんなの!もう私、ユキちゃんと友達やめる!』
 私は走って家に帰った。
 私の頬には、冷たい雫が伝っていた。
 これが、嫌な思い出。

 …気づけば、砂浜にいた。
 さらさらとした砂の感触が、あの頃の思い出を蘇らせた。
 ユキちゃんとは、あれから一度も会っていない。
 後で聞けば、ユキちゃんは引っ越して行ったそうだ。
 だから、ユキちゃんがどうしてるかなんて、私には知る由もないのだ。
 ザザーン、ザザーン。
 私にはユキちゃんの匂いがした…気がした。
 まあ、気のせいだよね。
 …私、馬鹿だなあ。どんなにユキちゃんに言ってしまったことに後悔したって、罪悪感に苛まれたって、ユキちゃんはもう、戻ってこないのに。
 自嘲気味な笑みが溢れた。
 思えば昨日、柚月にもそんなことを言った。
 私はなんで愚かな人間なんだろう。同じ過ちを何回も起こしてしまう。
 自分の利益だけを考えて行動していた。
 こんな卑怯者じゃ、ユキちゃんがここに現れたって、嘲笑われるだけだろう。
 でもやっぱり、後ろを振り向けばユキちゃんの笑顔がありそうで。
 慌てて謝ったら、「なんだっけ?覚えてないから大丈夫!」とカラッと笑ってくれそうで。
「ユキちゃん…」
 私は情けない声をこぼした。
 その時だった。

「ゆいちゃん」

 …私を呼ぶ、元気な声。
「…ユキちゃん?」
 私は驚いて振り返った。
「そうだよ、結夏。」
 今度は、優しく微笑んで。
 私は呆然とした。
「柚月…?」
 私は目の前の人物をユキちゃんに重ねた。
 昔のおさげはツインテールになり、パッチリ二重はそのまま。当たり前だけど身長はと伸び、スタイルがいい。
 ユキちゃんと、柚月。
 柚月が、ユキちゃん。
 私の止めようのない混じりいった感情が、一粒の涙がこぼれた。
 伝えたい言葉は数えきれないほどあるのに、口から漏れたのは一言だけだった。
「どうして…」
 ユキちゃん…柚月は大きくうなづいた。











 

 柚月は話し始めた。
「うちの家庭ね、前から複雑だったの」
 柚月は静かに言った。
「なんで?」
「私の元の父…野々田和彦は、サイテーな男だった」
 …なんでそんなことが、淡々と言えるんだろう。
「趣味のギャンブルのせいでうちは借金まみれ。おまけにいい年して浮気もしてた」
「ひどい父親だね」
「ほんとだよ。それに、私とお母さんには愛情なんてなかった。お母さんはお父さんに愛想が尽きて、離婚届を置いて出て行った。お父さんは私を置いて新しい彼女の元へ逃げた。今は私、叔母さんのとこに住んでるの」
 私はお母さんに出て行かれた私とお父さんを想像して胸が痛んだ。
「お母さんが出てって、悲しくなかったの?」
「別に。あの人もあの人で、借金があるって言うのに私の生活費はガン無視してホストにお金を注ぎ込んでた。だから私は食べるものがなくて生活できなくなった」
「お父さんは?なんにもしてくれなかったの?」
「あの男、お母さんがいなくなっては生きていけなかった。だからお父さんも、家を出て行ったのよ。その時あの男、なんで言ったと思う?」
「なんて言ったの?」
「『お父さんはお前と縁を切る。出来が悪い娘には用がない』って言い捨てたの」
 私は思わず言った。
「サイテー!自分の娘に対してなに言ってんの!」
「ね!そう思うでしょ?だから私、私のことを嫌っていうぐらい溺愛してくる親戚の叔母さん…まだ二十代なんだけどね。その人のとこで住んでる」
 私は柚月にそんな過去があったなんてもちろん知らなかった。
 そもそも、知れるほどの関係ではなかった。
 私はふと気になっていたことを尋ねた。
「そういえば、〝ユキ〟って名前は本名だったの?」
「うん、本名だったよ、昔は」
「…昔は?」
「そう。私は叔母さんの名字、〝花夜〟と、私の昔の名前〝野々田友季〟の〝ユ〟と〝キ〟の間に〝ズ〟をつけた〝柚月〟って名前を叔母さんが付けてくれた。だから今は、花夜柚月」
 私は二つの名前を重ねてみた。
 ユキ、ユヅキ。
 ほんとだ。名前が似てる。
 私はギュッと胸が締め付けられた。
 こんな過去があること、もっと早く知っていたら…
 …あんなひどいこと、言わなかったのに。
 私は卑怯にも過去を話してくれなかった柚月を少しだけ恨んでしまった。
 …その時だった。

「友季、元父親に向かってその口はなんだ」

 冷たい、1ミリの愛も感じない声が聞こえた。
 醜い、しわがれた男の声だった。
「和彦……っ」
 柚月は低く、唸るような声で言った。
 野々田和彦。
 柚月の、元父親。
 私は背後に立つ男を見つめた。
 年は、四十代ぐらいだろうか。パリッとしたスーツ姿の男は、いかにもサラリーマンという感じだった。
「はあ、友季。お前はいつまで経ってもだらしない服装だ。そんな格好して恥ずかしくないのか」
「あんたになにがわかるの?もう親でもないサイテージジイが。キモいんだけど」
 柚月が棘のある声で言い返した。
「ふん、相変わらず出来の悪い娘だ。そんな娘を育てた覚えはない」
「私、あんたに育てられたなんて思ってないから。1ミリも」
「そうか。じゃあ、お前は誰に育てられたんだ?」
「誰にも育てられてない。音葉叔母さんのとこに行くまで、自分でやりくりしてきた」
「ふん、そんなわけがない。友季のような出来の悪い娘は一人で生きていけるわけがない」
 和彦さんはそう鼻で笑った。
「あんたが思ってるより私は強いから。それに、〝友季〟って名前はもう私の名前じゃないの。今は〝柚月〟なの。あんたなんかが付けた名前が汚らわしくて仕方なかったから」
 私はだんだん、柚月を応援したくなった。
 柚月はああ言いながら、足が少し震えている。
 柚月は最悪な家庭の中で強く生き抜いてきたんだ。
 和彦さんにも呆れてきた。自分から縁を切ると言っておきながら、今更『父親の権力』を見せつけている。
 それに、柚月は『出来の悪い娘』なんかじゃない!出来が悪いのは和彦さんの方だ!
 私は声にならない声で叫んだ。
「そうか、まあいい。お前に会いにきたのはわざわざ話すためじゃあない」
「なによ?さっさと言いなさいよ、あんたなんかと話してるだけで虫唾が走るんだから」
「実はだな…彼女と別れたんだ」
 和彦さんは深刻そうに告げた。
「だからなに?まあ別れるでしょうね。あんたクズだから」
「クズとはなんだ。まあいい、聞いてくれ」
 さっきまで柚月を散々侮辱してたくせに。なんて図々しい男なんだ。
「それでだな、新しい彼女を作ったんだ。その女…七海というんだが、そいつが子供が欲しいと言い出したんだ。でも、赤ん坊は嫌だと」
 和彦さんの今の彼女…七海さんは相当わがままな人みたいだ。
「ふーん、それが、私になんの関係があんの?」
 柚月は迷惑そうに言った。

「お前を、もう一度俺の子供…いや、〝養子〟になってもらう」

 私は息を呑んだ。
「は?なに言ってんの?」
「もう一度言う。お前を俺の養子にする」
 柚月は馬鹿にしたように笑って言った。
「なるわけないじゃん。あんたみたいなクズの養子になんて。馬鹿なの?」
「いいだろう。もしもお前が断るなら、俺がお前の秘密をバラしてやる」
「なによ、秘密って」
 和彦は堪えきれないと言った感じで意地悪く笑い出した。
「それは…お前が自分の母親…良子を殺そうとしたことだよ!」
 …え?
 私は意味がわからなくてポカンとしていた。
 一方、柚月は顔を真っ青にしている。
「わっ、私、そんなこと…」
「いいのか?それでも」
 和彦は勝ち誇ったような笑みをこぼした。

 …その瞬間、私の中で虫唾が走った。
 気持ち悪い。
 目の前にいる大人が、ひどく卑怯で醜く思えた。
 私は言葉にならない気持ちの悪さを声にして叫んだ。
「…気持ち悪いっ!」
「「え?」」
 和彦さんと柚月の声が重なる。
「気持ち悪いよっ!いい歳した大人が汚い手を使うのが!どうせそんなのでっち上げた嘘なんでしょっ⁈あんたなんか気持ち悪い大人が柚月に構わないで!消えて!」
 私は大きく息を吐き出した。
 そして、柚月の手を取ると走り出した。