近所にかき氷屋さんが出来たらしい。今朝、漫画を片手にソファで寝転んでいたら、母が教えてくれた。
 家でごろごろしてないでたまには外に出るのもいいんじゃない、と母はため息混じりに言った。
 要するに、かき氷を食べに行け、ということだ。漫画を置いて起き上がり、居間を出た。廊下に漂う生暖かい熱気が、容赦無く私の肌にへばりついた。
 階段をあがり、自室のクローゼットをあける。こんなに暑いのだから、ショートパンツでも履ければ涼しくて良いのだろう。しかし、生憎そのような持ち合わせはなく、一番近くにあったレースのスカートを手に取った。汗をかくと気持ち悪そうだけど、近場だから気にしないことにした。
 パジャマを脱ぎ、よく分からない英語がアーチ上に描かれたTシャツを着て、暑さ対策のキャップを被った。髪もメイクもめんどうくさくてやってられない。
 下に降りると、母が待ってましたと言わんばかりの顔でリビングに立っていた。そして千円札をくれた。お釣りは後で返してね、ということらしい。優しい。
 もらったお金を財布に忍ばせて、水筒を用意して、がま口のカバンを肩にかけた。少しの外出でもお茶がないと落ち着かない。
 玄関には、仲が良さそうに白サンダルと白スニーカーが顔を揃えていた。バランスを考えると、なんとなくスニーカーの方が合う気がしたけれど、私はそこで靴下を履いていないことに気づいた。履きに行くのが手間なのと、少しでも涼しい方が良いという安直な理由で、サンダルに足を伸ばした。行ってらっしゃい、という母のよく通った声が背中にかかった。行ってきますを言うために振り向いた。この一連の流れが、私は好きだった。
 満を持して外に出た。久しぶりな気がした。
 夏を誇張するようなアブラゼミの鳴き声。少し湿ったアスファルト。果てしなく拡がる青。身体が芯から灼かれていくようなむわっとした風の香り。私はどこか懐かしさを感じるこの季節が、嫌いではなかった。
 家から真っ直ぐに五分ほど歩くと、すぐにかき氷屋さんに着いた。あまり汗はかかなかった。
 メニュー表を見ると、イチゴ、メロン、レモン、グレープ、ピーチ、ブルーハワイなど、様々な種類のかき氷が並んでいた。
 私はなんとなくでブルーハワイを注文した。毎回どんな味か忘れてしまうけれど、行く度に味が変わっているような、そんなブルーハワイに私は惹かれていた。
「あちらにベンチがございますので、よろしければご利用くださいね」
 若いお姉さんが、店の左側を指して言った。肌は綺麗に焼かれていた。健康と美の象徴のような色黒の肌が、少し羨ましかった。
 かき氷を持ちながら、ベンチに移動した。屋根があって、日向よりは涼しそうだ。
 ベンチには青年が腰掛けていた。その青年を見て、危うく私はかき氷を落としそうになった。
「日野じゃん」
 声をかけられた日野は、顔を上げた。でも、一瞬目を丸くしただけで、以前の私のような反応はしなかった。なんか悔しい。
「八幡さん」
 日野のかき氷はレモンだった。何の悪も混じらない優しい黄色は、日野によく似合っていた。
「隣座るね?」
「いいよ」
 他に人はいないようだった。青と黄色だけが、屋根の下に佇んでいた。クラスメイトに会うならベースメイクくらいしてくれば良かったと後悔した。
「レモンにしたんだ」
 私はブルーハワイのかき氷を口に運びながら言った。
「うん。レモンの酸っぱさが好きなんだよね」
「かき氷のレモンって酸っぱくなくない?」
「まあまあかな」
 かき氷を食べていると、ここだけが夏から開放された場所のように感じた。喉がきんと冷えて、気持ちよかった。
「酸っぱいのが好きなの、知らなかった」
 酸っぱいのが好きというのは、あまり遭遇したことがないタイプだったから、私は日野の食の好みに興味を持った。
「梅干しの酸っぱさは駄目なんだけど、レモンの酸っぱさは好きかな」
「へぇー。私は梅干しの方が好き」
「八幡さんらしいね」
「だからなんなのそれ」
 半分呆れながら笑った。前も、私のことを緑っぽいとか言っていたけど、訳が分からない。訳は分からないけど、私は日野のそういう発言がわりと気に入っている。さあ、と日野は他人事のように流した。
「あらっ、お二人は知り合い? デートですか?」
 さっきのお姉さんが、中から出てきて私たちを見つけるなり、そう口にした。
 知り合い、と言うには私たちの関係は深くなりすぎていたけれど、間違ってはいなかった。ただ、断じてデートではなかった。待ち合わせもしていない。
「違います」
 日野はかき氷に口を塞がれていたので、私が否定した。
「そうなんですか。とんだ勘違いを……失礼しました」
「いえいえ、大丈夫です」
 私は努めて冷静に応えた。私たちはカップルでもなければ恋人でもない。しかし、男女が並んでかき氷を食べていたら、そのように勘違いされても仕方ないのだろう。日野はあまり気にしていないようだった。
「このあと、ご予定はあるんですか?」
 日野と顔を合わせる。数秒間の沈黙があった。予定などなかった。
「もし時間がありましたら、海へ行かれてはどうですか。電車ですぐに着きますよ」
 海。それは私が最初に日野と話したときに、小説を見られたら行く先として伝えた場所だった。ここで海へ行けば、まさかの伏線回収だ。私たちが黙っていると、お姉さんは続けた。
「海は、見るだけでも心が落ち着きます。心なしか、暑さも和らぐような気がします」
 いい夏を、と言い残してお姉さんは店の中へ戻った。ついでに空になったカップを預かってくれた。言葉遣いが綺麗なお姉さんだった。
「どうする?」
 お姉さんがしてくれた提案は、多少の交通費こそかかるものの、私にはとても魅力的に映った。だから、こうして日野に訊ねた。
「海?」
「そう」
「海って、なかなか行かないし、この機会に行ってみるのもありかも」
 きっかけを持たずに行くからこそ意味があるみたいな、エモーショナルな思考や行動力は、私にはない。その考え自体は好きではあるが。
「八幡さん、死なないでね?」
「死なないよ」
「ほんとに?」
「ほんと」
 世界が嘘で満ち溢れていても、ここで嘘をつく意味はない。
「じゃあ、行こうか。見るだけになると思うけど」
「うん」
 私たちは、水着を用意していなくても海に行けるくらいには、大人の年齢だ。
 スカートを履いてこなければ良かった。デニムのようにたくし上げることが出来ないから。

 *

 日野と駅に来るのは二回目だった。授業をさぼってゲーセンに行った日が懐かしい。今は制服じゃなくて私服だから、補導される心配はない。
 なぜなのか分からないが、私たちはなんの約束もせずに偶然落ち合って、そこから一緒に出掛けることが多い気がする。事実、日野と携帯を使って話したいとは思わないし、私はこの平和な関係が心地よかった。
 水筒が入っているせいで、バッグは少し重たかった。でも、電車を使ってまで海に行くならそれなりの時間はかかるため、結局水分は必要だ。普段の癖が功を奏した。
 交通系ICカードなんか持ってきているはずもなく、私たちは切符を買いに列に並んだ。
「お金、大丈夫?」
 日野が心配して聞いてきた。そういえば、母からお金は借りていたけど、自分のお金はどれくらいあるか見ていなかった。財布を開けると、切符を買うくらいのお金は入っていた。
「大丈夫そう」
「よかった」
 お姉さんは電車ですぐと言っていた。方向音痴な私は電車なんて久しぶりで、何分かかるかも分からない。
「ねえ日野、何分くらいかかるの?」
 日野に聞くしかなかった。
「んー三十分くらいじゃない?」
「おー、まあまあかかるね」
「田舎だから」
「たしかに」
 そこで日野は何かに気づいたのか、あっ、と零した。
「八幡さんって方向音痴って言ってたっけな」
「あ、うん」
 自転車一筋でやらせてもらってますので。
「だからわかんないんだね」
「むかつく」
 私たちは笑い合った。むかつくけど、日野がいたら安心できるのも事実だった。
「普段は一人で乗れるの?」
「乗れない」
「そっか」
「交通機関を利用するときは、慣れた人と一緒の方が良い。日野が一緒で助かるよ」
 久しぶりに日野は照れていた。

 *

 電車の中は、かなり混んでいた。乗ってからしばらくは立ったままだった。
 途中で大きな駅に止まったから、そこで一気に人が降りた。座席が空き始めたけど、同時に、すぐに埋まり始めた。
 日野が、座りな、と言って私を座らせてくれた。日野は私の前で吊り革を握って立ったままだった。
 それから私たちは特に何かを話すこともなかった。私はぼーっと日野の淡いデニムを見つめ続け、日野は体幹がないのか大きく揺られ続けていた。
 案外すぐに、電車は海を迎えた。
 改札を抜けるとそこはまさしく青だった。
 太陽の光が綺麗に海を照らしていて、きらきらと輝いているのがわかった。
「行こっか」
 日野が言った。
「行こう」
 私たちは海を目指して歩き始めた。遠のいていく電車の音が、どこか涼しかった。
 砂浜には、遠目で見ても疎らに人がいた。家族連れやカップル、男子だけの友人グループなどだ。大抵の人間が水着を着ている中、水着も着替えもない私たちは少々場違いに感じた。
 歩道を少し歩いて、砂浜に着いた。少し厚底のサンダルだから、砂はあまり入ってこなかった。やっぱりスニーカーよりサンダルの方が海っぽいな、と思った。
「日野、どうする?」
 特に何も思いつかなかったので、海を眺めながら私は聞いた。やっぱり海は綺麗だった。
「とりあえずここに座ろう。それか、もっと海の近くがいい?」
「ううん、大丈夫」
 目の前には階段があった。そこに腰を下ろした。
 ここの階段は駅から少し離れているからか、人は近くにいなかった。
 私はついて行くだけだったが、日野がわざわざここを目指して歩いてきてくれたのかもしれなかった。人混みが苦手なんて、教えていなかったのに。
「八幡さんはここ、来たことある?」
「幼稚園くらいのときに家族と来たかも。わかんないけど」
 正直覚えていない。母がそんなことを言っていた気がするから、こう答えた。
「随分と前だね」
「うん。日野は?」
「たまに来るよ」
 わざわざ海に何をしに来るのだろう。首席の日野には余暇なんてないはず。でも、ゲーセンにも週一で行くくらいだからやっぱり普通の男子高校生なんだろうなあ、と謎の親近感を覚えた。
「ここに来て何してるの?」
 学校のベンチに座っているときに吹く風より、少し生温い風が吹いていた。鼻の奥がくすぐったい。
「何もしてない。気づいたら着いてる」
「どういうこと?」
「バスと電車で学校まで行ってるんだ。だから、帰りも電車に乗る」
 初耳だった。どおりで歩き方に迷いがない訳だ。
「学校からの帰り道、ふと家に帰りたくなくなるときがあってさ。そしたら海に着いてる」
 電車に揺られていたらここに着いていて、だから寄り道感覚で降りるということだろうか。
「ちょっと、わかるかも」
「何が?」
「帰り道、家に帰りたくないっていうの」
 私も何度かそういうことがあった。自転車だからさすがに海までは行けないし、寄り道もしない。けれど、家族と喧嘩をしたとか、宿題をしたくないとか、そういう理由らしい理由も持っていないのに、なぜか家の扉が重く感じることがあった。
「海は自由だよ」
 日野は、遠くで穏やかに行ったり来たりを繰り返している漣を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「自由?」
「そう。好きな方向に揺れて、好きな時に落ち着いて、たまに怒る。そんな海を、見たくなるんだ」
 たしかに、そこには何の軋轢も諍いも存在しない。最も遠く離れた地平線は、深い藍に染まっていた。
「八幡さん、初めて話したとき、死ぬなら海に行くって言ってたじゃん?」
「言った」
 自作小説の存在が周囲に知られたら、私は死ぬと言った。それくらい避けなければならない問題ということだ。
「今、理解出来たよ」
 私は何も返さない。日焼け止めを塗っていないから肌が痛かったけど、そんなことは構わないと思った。
「僕は今まで気がつかなかったよ。海は全てを飲み込んでくれるんだね」
 全てから解放されたくなった人間は、それでも希望を求めてしまうのかもしれない。優しくて寛容で自由な海は、そんな人間さえも飲み飲んでくれる。日野の言いたいことが、何となくだけどわかった気がした。
「そうね。人は誰しも、何かに溺れているのかもね」
 溺れたいんだ。何かに溺れないと生きていけないのが人間なんだ。それはきっと小さなことでも大きなことでも良くて、縋りつけるものであれば、何だっていい。
 そして何もなくなったら最後は海で溺れたくなる。けど、今を生きる私たちには、まだ海は必要ない。
 だから、二人で海を離れた。
 コンクリートの階段から立ち上がると、スカートが薄くベージュに染まっていた。不思議と嫌悪感は抱かなかった。サンダルに入り込んだ砂も、スカートに張り付いた砂も、全部忘れたくない。
 スカートを履いてきて、良かった。