夏休みに入った。蝉の鳴き声が一層大きくなって、雨がちらつくことも増えた。
 ゲーセンで遊んで以来、日野と話すことはなかった。嘘みたいに、なかった。あの後野洲先生にこっぴどく叱られたのは良い思い出だ。
 教室では相変わらず隣にいたのだけれど、目を合わせることもしなかった。私たちは、授業中は真剣に先生の話を聞くような人間だ。中学二年の自分はとっくに消失している。
 連絡先も知らなかったから、裏でも話さなかった。私たちはふんわりとした関係を保っていたし、案外そんなものなのかもしれない。
 今朝は、普段の登校時刻より少し遅めに起きて、学校に来た。夏休みだけど、お盆ではないから学校は開いている。無性に来たくなったのだ。久しぶりに自転車を漕いだ。
 目の前を、陸上部が使い古して剥がれたタータンが横断している。
 流れてくるのは、あの日と一緒の風。朝だから夕焼けは見れないけど、懐かしい風が私を撫でていた。
 小説を書こうと思った。何でもいいから、物語を書こうと思った。
 たしか、このベンチに座って小説を書いたことは一度もなかった。でも、書くならここかなって感じがした。駐輪場には自転車が一台だけ、寂しく佇んでいる。
 誰もいない。私しかいない。いつも上の階の空いた窓から聞こえてくる喧騒も、今は聞こえない。
 手が走る。森の泉の前であぐらをかきながらあくびをしているような、そんな感覚。安らかな気持ちになって、落ち着く。現代人は便利を手に入れた代わりに色んなモノに囲まれるようになってしまって、だからこういう安らぎを忘れてしまったんだろうなと、ふと考えた。
 そういう平和の海にどっぷりと浸かっていた私は、当然人の足音なんかに気づけるはずもなかった。
「久しぶり、八幡さん」
「うぇ! え、ちょ!」
 なんなんだ。何で彼は気づけばいつも私の区域に侵入しているんだ?
「あはは、びっくりさせてごめん」
「あはは、じゃないよ」
 私は慌てて携帯をポケットにしまう。
「まさか八幡さんがいるなんてね」
「絶対知ってたでしょ」
「いや、ほんとに知らないって。ストーカー扱いはもう勘弁だよ」
 なんでこんな絶妙なタイミングで被るのだろう。でも、私は小説を書いているところを見られたくなかっただけで、日野が来たことに関しては別に嫌な気はしなかった。
「今日はまだ夏休みだよ? わかってる? 首席くん」
「八幡さんもね」
 日野は疑うような目を私に向けながら、隣に腰かけた。
「私は来たかったから来ただけ」
「へぇー」
「なによ」
「いや、何してたのかなーって」
 びくっ、と肩が震える。たしかに、何もないのに夏休みに学校を訪れるような生徒は珍しい。
「別に何もしてないよ」
「ほんとに?」
 初めて話したときの、あのおどおど感はどこに行ったんだろう。日野ってこんなに鋭かっただろうか。私が黙っていると、日野がにやっと笑った。
「書いてたの、見えちゃった」
「は」
 おい。まじか。海に行くか。
「ごめん。でも内容までは見えてない」
「ならギリセーフ」
 人生で最も危ない瞬間だった。小説の内容をクラスメイトに──それも面識のない人ならまだしも、日野に見られるなら、人生終了だ。
「新作公開待ってるよ、八幡先生」
「たまにいじってくるね」
「いじってる訳じゃないよ! 本当に好きだし尊敬してるし」
 ありがたいけど、恥ずかしいからそこまでの返答は求めていなかった。あーわかったわかった、と返すと、日野はなぜか満足そうだった。それにしても初対面の頃よりかなり会話か弾むようになったな、と感じた。
「随分と私と話すことに慣れたみたいね」
「え?」
「最初の緊張ぶりは何だったのかしら」
 んー、と日野は悩んでいる。未だ変わらない猫背を見て、安心した。ずれたメガネをくいっと直すまでがワンセットだ。
「八幡さんが教室で話してるのを見たことがなかったから、どう話そう、って戸惑ってたのかも」
「それもそうか」
 たしかに、孤独貫いてます! みたいな格好してる私が、警戒されないはずもなかった。
「八幡さんの私服って、新鮮だね」
「制服を見慣れてるからかな」
「多分そう」
 日野は、なんかもう予想どおりみたいな感じで、無地の黒Tシャツにジーパンを合わせているだけだった。誰も居ないであろう学校に来る際にオシャレをするほうがおかしいのかもしれないけれど。
「それ、いいね」
 そう言って日野が指したのはカバンだった。小さく見えて結構な量が入るところが好きだ。
「ありがと」
「がま口なんて持ってたんだ」
「イメージと違う?」
「いや、意外と一致してるかも」
 緑色をしたがま口のカバン。緑が好きなのと、縁がゴールドになっているのを気に入って買った。誕プレをくれるような友だちは私にはいない。かと言って家族が買ってくれた訳でもなく、自腹。誰かに貰ったと見せかけて自腹。
「どういうところが?」
 答えにくそうな質問をしてみる。仕返し。
 案の定、日野はすぐに答えず、んーと悩み始めた。
「なんか、八幡さんって、緑っぽい」
「なにそれ」
「わかんない。でも似合ってると思う」
 人間に対して緑っぽいってほんとにどういうことなんだ。もしかして私って芋虫か何か? 野菜全般が好きなのは事実ではあるが。意味不明な日野の褒め言葉に私はありがとうと返すしかなかった。
「日野は、なんで学校に来たの?」
 そういえば聞いてなかったことを思い出して、日野を覗いてみる。あんまり意識してなかったけれど、奇跡みたいな再会だ。
「学校っていうより、ここに来たかったんだ」
 ぽかんと首を傾げた私に構わず、日野は深呼吸をして、空気が綺麗だなあ、と呟いた。
「なんで?」
 猫背を強調させながら、日野は考え始めた。言われてみれば、たしかにここの空気は綺麗かもしれなかった。
「考えを整理したかったんだと思う」
 私は日野の言葉を待った。余計な相槌はいらないと思った。
「八幡さんと話してから、色んなことを考えるようになって、寝る前の夜なんかは頭がぐるぐるしてることもあった」
「何を考えてたの?」
「例えば、八幡さんの昔の話を聞いて、すごく嘘っていうものについて考えさせられたよ」
 空が青い。風が柔らかい。ベンチの下で、どういう訳か色がお揃いの黒スニーカーが並んでいる。
「聞かせてほしいな」
 日野の足は地に着いている。私の足は地に着いていない。日野のスニーカーは綺麗に手入れされている。私のスニーカーは薄汚れている。
「世の中嘘だらけだなって、感じたよ。一つ挙げるなら、恋人は友だちの延長っていうのも、きっと嘘だ」
 私が黙ったまま視線を預けていると、日野はそのまま話を続けた。
「最近は出会い系やマッチングアプリみたいなものが若者の間で流行っているでしょ?」
「たしかに、大学生とか若い社会人のイメージだね」
「そう。彼らはもはや友だちなんて関係をすっ飛ばそうとしている人も多いような気がしたんだ」
 システム的には、そうなんだろう。確実に下心から始まる出会いだし、恋人になることを目標に接するのだから。しかし、友だちという関係を挟むことも有り得るのではないか?
「友だちからでもお願いします、とかよく言うけどね」
「それも嘘だよ」
「そうなの?」
「結局その先に求めるのは恋人関係だからね。友だちという軽いワードを入れることで安心させてるんじゃないかな」
 友だちと恋人の間にあるのは一本の線ではないのかもしれない。日野は、多分そう捉えている。
「友だちと恋人は延長線にある訳ではなくて、むしろ相反するものだと考えてるってことね」
「まあ、そんな感じかな」
 でも、嘘だらけの世の中なんて嫌だ。平和な関係があっても良いじゃないか。経験者のくせに私はそう思ってしまった。
「私の話を聞いて、この世界を汚いものだと思っちゃった?」
 日野を悪い方向に導いてしまった気がして、つい確認してしまう。
「ううん」
「あ、良かった」
 否定をしてくれて安心した。もう私たちは肯定し合うだけの関係じゃない。
「欺瞞に満ちた世の中でも、たった一つの真実を確かめ合える仲を築ければ、それはすごく幸せなことなんじゃないかと、そう思えたよ」
 たった一つの真実。つまりそれは愛だろうか。いや、友情だろうか。
「じゃあ、私たちの関係って、なんなんだろうね」
 日野はそこで初めて黙りこくってしまって、何も答えなかった。
「まあ、名前なんて、つけなくてもいいよね」
 後ろに咲いている向日葵をちらりと見て、夏を感じた。