「……え」
空いた口が塞がらなかった。日野は、特に表情を変えずに淡々と、ただ事実として、薄く光った液晶を見せつけてくる。
ずらりと並んだ言葉の数々。インターネット上に公開されている無機質な文章。
日々抱いていた不満を小説に変え、不特定多数に向けて投げ出していたのは、どこの誰だろう?
目を背けたかったけれど、携帯の明るさが最小限に抑えられていてもわかる。自分の書いた文章を見返すと、気持ちが抉られた。
「そうなんでしょ?」
もうやめてくれと引きつった顔で訴える私を無視して、日野はさらに問いかけてくる。
「うん」
否定したところで、意味はないだろう。日野が私の書いたウェブ小説をなぜ知っているのかは謎だが、どこかに原因や証拠があったということは間違いない。もう取り返しはつかない。
日野はやっぱり、と言って携帯をポケットにしまった。何が、やっぱり、なんだろう。
「どうして」
口をついて出た言葉はたったの四文字だった。隣の席の生徒に自分の小説の存在がバレているという恥を突きつけられた人間は、もはや驚きすぎて唖然とする他ないのかもしれない。
「ん?」
「どうして知ってるの」
真っ先に思い出されたのは、私の教室内での行動だった。昼休みを除いた休憩時間は教室に居るから、その少ない時間を使って、執筆を進めていた。どうせ誰も私に話しかけないため、執筆をしている携帯の画面を見られる心配は無用だった……はず。まさか、執筆に夢中になっている私にバレないように、こっそり上から覗いていたのだろうか?
「だって、めちゃくちゃ八幡さんなんだもん」
「は」
「いや、その、内容」
急に意味のわからないことを言い出した。隣の席に座っているだけで、一度もプライベートな会話はしていないはず。
私が何も返さないでいると、日野が口火を切った。
「目標コーナーの内容が完全に同じだったし、それに、目が悪いから前で授業受けてる人なんて八幡さんしかいないよ」
「あ」
そうだった。所詮無名ユーザーが書いた小説なんて、読みに来てくれる人がいてもせいぜい数人だろうし、まさか私を知る人が読みに来ることはないと思って、ああいう描写の仕方をした。
だが、いた、目の前に。根本的なミスだ。
「それ以外で知る方法があるの?」
日野は不思議そうな目で聞いてくる。むかつく。
小説を書いているところを教室で見られた訳ではないのが、不幸中の幸いだ。そんなことがあっては羞恥で死んでしまう。
「ないね、うん」
「でしょ」
ただ、緊急事態であることには変わりない。日野に自作の小説の存在を知られた以上、それが周囲にバラされては困る。
「日野さ、この後時間ある?」
このまま家に帰ると、日野の猫背を指摘する前のようなもやもやが、また訪れてしまう。それは避けたかった。
「あるけど」
「外でちょっと話さない?」
思いもよらない事件。同級生。隣の席。自作小説。
「いいよ」
「ありがとう」
私は話したこともなかった優等生に弱みを握られている。
*
「八幡さんの小説、好きだよ」
赤と紫だった。赤と紫が溶け合って、空を染めあげ、雲の狭間に筋を作っている。異世界に作られた線路みたいだ。
視線を右に向けて道を辿れば、正門が見える。駐輪場が横にあって、自転車通学の人たちはそこを使う。
正門を数十メートル真っ直ぐ進んだところに、木製のベンチがあり、今私たちはそこに座っている。目の前に敷いてあるタータンは、普段は体育で五十メートル走のタイムを測る際に使う。放課後は陸上部が練習をしているはずだが、今日は休みらしい。
「本気で言ってんの」
空を見上げながら私の小説を好きと零した日野に、私は正気を疑い、思わず聞いてしまう。
「本気」
正直、読者のことなんてどうでもよかった。私の小説を好んで読んでくれる人がいなくても、別によかった。
例えば、夏の暑さでいらいらしているときに脳裏を掠める不満だとか、蛇口から垂れる雫を眺めながら湯船に浸かっているときに胸を刺してくる寂しさ。そういうものを、小説に起こしてきた。
自己防衛なのかは分からない。けれど、友だちのいない私にとって、小説だけが身の置き所だった。だから、私の小説を好きと言える日野が、不思議だった。
「いつから読んでくれてたの?」
「わりと最近。八幡さんの小説、好きで、こっそり読んでた」
面と向かって言われると、なんだかくすぐったい。くすぐったいから、夕陽が眩しくてよかった。ほっぺたがちょっと暖かかった。
「どこが好きなの?」
「色々考えさせられるところかな」
「なるほど?」
「あ、別に彼らをばかって思ってるわけじゃないよ」
彼ら、とはつまり教室の後ろに座っている男子たちだろう。首席の日野からしたら、彼らのことなどどうでもいいのかもしれない。先生の授業を聞かずに後ろでおしゃべりをする人を嫌そうに見ているのは、実は一番の人ではなく、中の上の人だ。
「日野は、そんな気がする」
「共感、とかじゃないのかも。なんていうか……読んでると、友だちってなんなんだろって、漠然と考えたりする」
日野にも、そういう経験があるのだろうか。彼のことは、詳しく知らない。
「なんなんだろうね」
「僕には友だちはいないような、そんな気もしたんだ」
「え、日野に?」
普段の生活ではわからなかった。私が携帯とにらめっこをしていて知らないだけかもしれないけれど、日野はクラスのだいたいの人と仲良くやれている気がしていた。
「そう。例えば、昼休み。八幡さんは、毎日ここに来てるから分からないと思うけど」
「なんで知ってるの? こわ」
どういうことだ。ここは私だけの場所だったのに。私がこっそり、昼休みに抜け出して来ている場所なのに。日野が知っていたのは小説のことだけではなかったのか?
「こわがらないでよ。もしかして僕やばい人みたいになってるんじゃ……」
「なってる」
「えぇっ」
「日野って、私のストーカー?」
冗談半分のつもりで言ったのに、日野が、そんなわけないじゃん! と全力で否定してきたので少し面白かった。
「前、四時間目の終わりに早退して、そのときに見かけたんだ」
「うそ……誰にもバレてないと思ってた」
「僕以外にはバレてないんじゃないかな」
「良かった」
ほっとして、足をぶらぶらさせた。教室の椅子や外のベンチに座っているとき、足が着かないと、気持ちが悪い。でも、今は不思議とそんなにつらくはなかった。
「で、昼休みに何があるの?」
「あぁ、そうそう。昼休みさ、大体の男子は友だちと食べてるんだけどね」
「うん」
「僕、一人で食べてるの」
「それが嫌なの?」
私はここまで歩いてきて一人で食べてますよ。
「嫌っていうか……うーん」
言葉を探す日野を見る。丸メガネが下がっていた。いつもメガネがずれている。日野は、猫背だし痩せているしで覇気を感じない一方、シャツには皺一つなくて、几帳面なのかなと思った。
「うらやましい、かな。彼らには昼休みに一緒にご飯を食べる友だちがいる。僕にはそういう友だちはいない。本当の友情を感じないんだ」
私はかつて裏切られてから人を避けるように過ごしてきたから、あまりそういうことを思ったことはなかった。
「いいんじゃない」
夕空を眺めながら言うと、日野が眉毛をぴくりと動かしながらこちらを向いてきた。
「それで、いいんじゃない」
別に一緒にご飯を食べなくても、いいと思った。もちろん誰かと食べる方が良いのかもしれないけれど、そう、思った。
日野が目をまん丸にして私を見つめ続けるから、なによ、と言いそうになった。
「ありがとう」
目を合わせて言ってくれた。けど、その後すぐに逸らされた。項を掻く。猫背が強調される。角度が、考える人みたいだ。
「猫背」
「あっ」
指摘されて、ぴしっとした。ぐんと背が伸びる。
日野は、座っていても地面に足が着いていて、うらやましい。
「僕、痩せてるから猫背なのかな」
自分で痩せていることは自覚しているらしい。てっきりやばいダイエットでもしているのかと思っていた。
「ちゃんとご飯は食べてる?」
「食べてるよ」
「そっか」
なら、大して問題はないのだろう。
「そういえば、八幡さん知ってた? 野洲先生、昔はがりがりだったらしい」
「あの野州先生が?」
「そう。今度授業でそのこと話すって。歳取ったら太るから気をつけろよぉって言われた」
「野洲先生が、がりがり……衝撃だわ」
「ね」
歳って、恐ろしい。
若いときに信じていたこと──例えば、俺は太らない体質なんだ! みたいなことが、ほんの数年で、一瞬にして崩壊する。
誰も、未来なんて分からない。だから、今を信じるしかない。
でも、それが正しいと思う。先が見えたら結局は最悪の結末を迎えるというのは、ホラー小説の定番だし。「未来が見える能力と時間を止める能力、どっちがほしい?」みたいな質問が、私は好きじゃない。
「なんか、八幡さん相手だと、気軽に色んなこと話せるよ」
なぜだろう。考えてみたら、自分の中で出た答えは簡単なものだった。
「普段話さないからじゃない?」
「あぁー、話したことないから話題に困らないってことか」
「ちがう」
こういうところはよくわかっていないのか。首席のくせに。
「仮に私たちが既に友だちだったら、色々問題も生じるじゃない。ほら、話した内容をお互いの友だちに話されたりさ。秘密をバラされたり」
「たしかに?」
「でも、今はクラスの誰も、私たちがお互いを認識しあっていることを知らないから、私たちは誰かにお互いの秘密を言ったりしないはず。それで多感な高校生たちに変に勘違いされるのは嫌でしょ?」
「そうだね」
彼らは恋に敏感だ。他人の恋愛を聞いたり見たりして楽しむ意味が、私にはとんとわからない。個人の自由だから、やめろ、と否定はしないのだけど。
「八幡さんはなんでそんなに人を避けるの? 勘違いだったらごめん」
日野から出た予想外の発言に、肩が震えた。足先の指が、きゅっと丸まる。
「避けてるよ。人なんて信頼してないし」
表では褒めちぎってくるくせに裏で悪口を言う人がいる。目の前で人の失敗を笑ったり馬鹿にしたりするような、笑いのツボが根本的に論外みたいな種類もいる。
わからない。私にはわからない。私がずれているのだろうか。結局、正義の定義なんて存在しない。
ベンチにもたれながら日野を流し目で見たら、日野も背を預けながら空を見上げていた。それ以上、何も聞いてこなかった。
日が、暮れてきている。
「信頼してた人に裏切られるって、つらいね」
陽に照らされた靴下を見つめながら頷き、日野の言葉を頭の中で反芻する。
裏切り……?
私は忘れていた本題を思い出した。日野が私の小説を好きとか言うから、すっかり頭から抜けてしまっていた。
「そうそう、小説のことは誰にも言わないでね。というか、ここに来た本題それだし」
「まさか。言うわけないよ」
「助かる」
「え、僕言いそうに見えた……?」
「ううん。一応だよ。万が一言われたら私死んじゃうもん」
「そ、そんな」
顎で自転車置き場を指す。
「あそこに自転車とまってるでしょ? あそこの白い小さいの」
中学一年のときから六年間使っている自転車。籠が大きいところが好きだ。
「あれでどこかの海まで行ってやる」
「海?」
「今の季節だったら、海が綺麗でしょ。どうせなら綺麗なところで死にたくない?」
「死なせないから安心して」
「せんきゅー」
まあ、日野も私とそういう関係みたいに噂されるのは避けたいだろうし、自作小説の存在が知れ渡ることはなさそうだ。
「八幡さんって、自転車で来てたんだね」
「そうだよ」
「近いの?」
遠いのか、近いのか。意識したことがなかったから、ピンとこなかった。
「んー自転車で二十分くらいかな」
「バスは使わないの?」
田舎ではあるものの、この街は市バスが行き交っている。私の高校の前にもバス停があり、今朝もごった返していた。
「交通機関が嫌いなんだ。バスとか電車とか。方向音痴でさ」
自転車で六年間学校に通っていたせいで、交通機関を利用する機会はまるでなかった。市バスは、乗ったら乗ったで目的地の反対方向へ逆走する始末。
「意外かも」
「そう?」
「あんまりイメージなかった」
ゆったりとした風が吹いている。近くに植えてある向日葵が揺れた。
「実は、朝も早くに来てる」
「そうなの?」
「自転車漕いでるところをクラスの人に見られるの、好きじゃないんだよね」
見られるのに嫌悪感があった。それに、人がいると、スカートが舞い上がったときに抑えるのがめんどうくさい。スピードを出せないのがもどかしい。
「じゃあ、誰もいないような時間に来てるんだね」
「そんな感じ」
「朝は何してるの?」
「図書館で本読んでる」
「さすが小説家だなあ」
「はぁー?」
じっと睨むと、日野は何がおかしいのか、くすくすと笑った。変なの。
「暗くなってきたね」
空を見ながら日野が言う。
赤が消えた。僅かに残っていた赤を紫が覆った。
「そうね。そろそろ帰る?」
「帰ろっか」
腕時計をちらりと確認すると、鍵を返してから、かなりの時間が経っていた。駐輪場にはもうほとんど自転車が残っていない。
日野は駐輪場まで着いてきてくれて、そこからわかれた。バスらしい。
ヘルメットをかぶる。頭よりサイズが大きくてむずむずする。
携帯を取り出すと、小説の執筆画面が表示された。さっき書いていたはずの文章が、なぜかなくなっていた。急いで教室を出たから、恐らくそのときに保存し忘れたんだろう。
暑かったけど、いらいらはしなかった。頬を撫でる夏風が気持ちよかった。
空いた口が塞がらなかった。日野は、特に表情を変えずに淡々と、ただ事実として、薄く光った液晶を見せつけてくる。
ずらりと並んだ言葉の数々。インターネット上に公開されている無機質な文章。
日々抱いていた不満を小説に変え、不特定多数に向けて投げ出していたのは、どこの誰だろう?
目を背けたかったけれど、携帯の明るさが最小限に抑えられていてもわかる。自分の書いた文章を見返すと、気持ちが抉られた。
「そうなんでしょ?」
もうやめてくれと引きつった顔で訴える私を無視して、日野はさらに問いかけてくる。
「うん」
否定したところで、意味はないだろう。日野が私の書いたウェブ小説をなぜ知っているのかは謎だが、どこかに原因や証拠があったということは間違いない。もう取り返しはつかない。
日野はやっぱり、と言って携帯をポケットにしまった。何が、やっぱり、なんだろう。
「どうして」
口をついて出た言葉はたったの四文字だった。隣の席の生徒に自分の小説の存在がバレているという恥を突きつけられた人間は、もはや驚きすぎて唖然とする他ないのかもしれない。
「ん?」
「どうして知ってるの」
真っ先に思い出されたのは、私の教室内での行動だった。昼休みを除いた休憩時間は教室に居るから、その少ない時間を使って、執筆を進めていた。どうせ誰も私に話しかけないため、執筆をしている携帯の画面を見られる心配は無用だった……はず。まさか、執筆に夢中になっている私にバレないように、こっそり上から覗いていたのだろうか?
「だって、めちゃくちゃ八幡さんなんだもん」
「は」
「いや、その、内容」
急に意味のわからないことを言い出した。隣の席に座っているだけで、一度もプライベートな会話はしていないはず。
私が何も返さないでいると、日野が口火を切った。
「目標コーナーの内容が完全に同じだったし、それに、目が悪いから前で授業受けてる人なんて八幡さんしかいないよ」
「あ」
そうだった。所詮無名ユーザーが書いた小説なんて、読みに来てくれる人がいてもせいぜい数人だろうし、まさか私を知る人が読みに来ることはないと思って、ああいう描写の仕方をした。
だが、いた、目の前に。根本的なミスだ。
「それ以外で知る方法があるの?」
日野は不思議そうな目で聞いてくる。むかつく。
小説を書いているところを教室で見られた訳ではないのが、不幸中の幸いだ。そんなことがあっては羞恥で死んでしまう。
「ないね、うん」
「でしょ」
ただ、緊急事態であることには変わりない。日野に自作の小説の存在を知られた以上、それが周囲にバラされては困る。
「日野さ、この後時間ある?」
このまま家に帰ると、日野の猫背を指摘する前のようなもやもやが、また訪れてしまう。それは避けたかった。
「あるけど」
「外でちょっと話さない?」
思いもよらない事件。同級生。隣の席。自作小説。
「いいよ」
「ありがとう」
私は話したこともなかった優等生に弱みを握られている。
*
「八幡さんの小説、好きだよ」
赤と紫だった。赤と紫が溶け合って、空を染めあげ、雲の狭間に筋を作っている。異世界に作られた線路みたいだ。
視線を右に向けて道を辿れば、正門が見える。駐輪場が横にあって、自転車通学の人たちはそこを使う。
正門を数十メートル真っ直ぐ進んだところに、木製のベンチがあり、今私たちはそこに座っている。目の前に敷いてあるタータンは、普段は体育で五十メートル走のタイムを測る際に使う。放課後は陸上部が練習をしているはずだが、今日は休みらしい。
「本気で言ってんの」
空を見上げながら私の小説を好きと零した日野に、私は正気を疑い、思わず聞いてしまう。
「本気」
正直、読者のことなんてどうでもよかった。私の小説を好んで読んでくれる人がいなくても、別によかった。
例えば、夏の暑さでいらいらしているときに脳裏を掠める不満だとか、蛇口から垂れる雫を眺めながら湯船に浸かっているときに胸を刺してくる寂しさ。そういうものを、小説に起こしてきた。
自己防衛なのかは分からない。けれど、友だちのいない私にとって、小説だけが身の置き所だった。だから、私の小説を好きと言える日野が、不思議だった。
「いつから読んでくれてたの?」
「わりと最近。八幡さんの小説、好きで、こっそり読んでた」
面と向かって言われると、なんだかくすぐったい。くすぐったいから、夕陽が眩しくてよかった。ほっぺたがちょっと暖かかった。
「どこが好きなの?」
「色々考えさせられるところかな」
「なるほど?」
「あ、別に彼らをばかって思ってるわけじゃないよ」
彼ら、とはつまり教室の後ろに座っている男子たちだろう。首席の日野からしたら、彼らのことなどどうでもいいのかもしれない。先生の授業を聞かずに後ろでおしゃべりをする人を嫌そうに見ているのは、実は一番の人ではなく、中の上の人だ。
「日野は、そんな気がする」
「共感、とかじゃないのかも。なんていうか……読んでると、友だちってなんなんだろって、漠然と考えたりする」
日野にも、そういう経験があるのだろうか。彼のことは、詳しく知らない。
「なんなんだろうね」
「僕には友だちはいないような、そんな気もしたんだ」
「え、日野に?」
普段の生活ではわからなかった。私が携帯とにらめっこをしていて知らないだけかもしれないけれど、日野はクラスのだいたいの人と仲良くやれている気がしていた。
「そう。例えば、昼休み。八幡さんは、毎日ここに来てるから分からないと思うけど」
「なんで知ってるの? こわ」
どういうことだ。ここは私だけの場所だったのに。私がこっそり、昼休みに抜け出して来ている場所なのに。日野が知っていたのは小説のことだけではなかったのか?
「こわがらないでよ。もしかして僕やばい人みたいになってるんじゃ……」
「なってる」
「えぇっ」
「日野って、私のストーカー?」
冗談半分のつもりで言ったのに、日野が、そんなわけないじゃん! と全力で否定してきたので少し面白かった。
「前、四時間目の終わりに早退して、そのときに見かけたんだ」
「うそ……誰にもバレてないと思ってた」
「僕以外にはバレてないんじゃないかな」
「良かった」
ほっとして、足をぶらぶらさせた。教室の椅子や外のベンチに座っているとき、足が着かないと、気持ちが悪い。でも、今は不思議とそんなにつらくはなかった。
「で、昼休みに何があるの?」
「あぁ、そうそう。昼休みさ、大体の男子は友だちと食べてるんだけどね」
「うん」
「僕、一人で食べてるの」
「それが嫌なの?」
私はここまで歩いてきて一人で食べてますよ。
「嫌っていうか……うーん」
言葉を探す日野を見る。丸メガネが下がっていた。いつもメガネがずれている。日野は、猫背だし痩せているしで覇気を感じない一方、シャツには皺一つなくて、几帳面なのかなと思った。
「うらやましい、かな。彼らには昼休みに一緒にご飯を食べる友だちがいる。僕にはそういう友だちはいない。本当の友情を感じないんだ」
私はかつて裏切られてから人を避けるように過ごしてきたから、あまりそういうことを思ったことはなかった。
「いいんじゃない」
夕空を眺めながら言うと、日野が眉毛をぴくりと動かしながらこちらを向いてきた。
「それで、いいんじゃない」
別に一緒にご飯を食べなくても、いいと思った。もちろん誰かと食べる方が良いのかもしれないけれど、そう、思った。
日野が目をまん丸にして私を見つめ続けるから、なによ、と言いそうになった。
「ありがとう」
目を合わせて言ってくれた。けど、その後すぐに逸らされた。項を掻く。猫背が強調される。角度が、考える人みたいだ。
「猫背」
「あっ」
指摘されて、ぴしっとした。ぐんと背が伸びる。
日野は、座っていても地面に足が着いていて、うらやましい。
「僕、痩せてるから猫背なのかな」
自分で痩せていることは自覚しているらしい。てっきりやばいダイエットでもしているのかと思っていた。
「ちゃんとご飯は食べてる?」
「食べてるよ」
「そっか」
なら、大して問題はないのだろう。
「そういえば、八幡さん知ってた? 野洲先生、昔はがりがりだったらしい」
「あの野州先生が?」
「そう。今度授業でそのこと話すって。歳取ったら太るから気をつけろよぉって言われた」
「野洲先生が、がりがり……衝撃だわ」
「ね」
歳って、恐ろしい。
若いときに信じていたこと──例えば、俺は太らない体質なんだ! みたいなことが、ほんの数年で、一瞬にして崩壊する。
誰も、未来なんて分からない。だから、今を信じるしかない。
でも、それが正しいと思う。先が見えたら結局は最悪の結末を迎えるというのは、ホラー小説の定番だし。「未来が見える能力と時間を止める能力、どっちがほしい?」みたいな質問が、私は好きじゃない。
「なんか、八幡さん相手だと、気軽に色んなこと話せるよ」
なぜだろう。考えてみたら、自分の中で出た答えは簡単なものだった。
「普段話さないからじゃない?」
「あぁー、話したことないから話題に困らないってことか」
「ちがう」
こういうところはよくわかっていないのか。首席のくせに。
「仮に私たちが既に友だちだったら、色々問題も生じるじゃない。ほら、話した内容をお互いの友だちに話されたりさ。秘密をバラされたり」
「たしかに?」
「でも、今はクラスの誰も、私たちがお互いを認識しあっていることを知らないから、私たちは誰かにお互いの秘密を言ったりしないはず。それで多感な高校生たちに変に勘違いされるのは嫌でしょ?」
「そうだね」
彼らは恋に敏感だ。他人の恋愛を聞いたり見たりして楽しむ意味が、私にはとんとわからない。個人の自由だから、やめろ、と否定はしないのだけど。
「八幡さんはなんでそんなに人を避けるの? 勘違いだったらごめん」
日野から出た予想外の発言に、肩が震えた。足先の指が、きゅっと丸まる。
「避けてるよ。人なんて信頼してないし」
表では褒めちぎってくるくせに裏で悪口を言う人がいる。目の前で人の失敗を笑ったり馬鹿にしたりするような、笑いのツボが根本的に論外みたいな種類もいる。
わからない。私にはわからない。私がずれているのだろうか。結局、正義の定義なんて存在しない。
ベンチにもたれながら日野を流し目で見たら、日野も背を預けながら空を見上げていた。それ以上、何も聞いてこなかった。
日が、暮れてきている。
「信頼してた人に裏切られるって、つらいね」
陽に照らされた靴下を見つめながら頷き、日野の言葉を頭の中で反芻する。
裏切り……?
私は忘れていた本題を思い出した。日野が私の小説を好きとか言うから、すっかり頭から抜けてしまっていた。
「そうそう、小説のことは誰にも言わないでね。というか、ここに来た本題それだし」
「まさか。言うわけないよ」
「助かる」
「え、僕言いそうに見えた……?」
「ううん。一応だよ。万が一言われたら私死んじゃうもん」
「そ、そんな」
顎で自転車置き場を指す。
「あそこに自転車とまってるでしょ? あそこの白い小さいの」
中学一年のときから六年間使っている自転車。籠が大きいところが好きだ。
「あれでどこかの海まで行ってやる」
「海?」
「今の季節だったら、海が綺麗でしょ。どうせなら綺麗なところで死にたくない?」
「死なせないから安心して」
「せんきゅー」
まあ、日野も私とそういう関係みたいに噂されるのは避けたいだろうし、自作小説の存在が知れ渡ることはなさそうだ。
「八幡さんって、自転車で来てたんだね」
「そうだよ」
「近いの?」
遠いのか、近いのか。意識したことがなかったから、ピンとこなかった。
「んー自転車で二十分くらいかな」
「バスは使わないの?」
田舎ではあるものの、この街は市バスが行き交っている。私の高校の前にもバス停があり、今朝もごった返していた。
「交通機関が嫌いなんだ。バスとか電車とか。方向音痴でさ」
自転車で六年間学校に通っていたせいで、交通機関を利用する機会はまるでなかった。市バスは、乗ったら乗ったで目的地の反対方向へ逆走する始末。
「意外かも」
「そう?」
「あんまりイメージなかった」
ゆったりとした風が吹いている。近くに植えてある向日葵が揺れた。
「実は、朝も早くに来てる」
「そうなの?」
「自転車漕いでるところをクラスの人に見られるの、好きじゃないんだよね」
見られるのに嫌悪感があった。それに、人がいると、スカートが舞い上がったときに抑えるのがめんどうくさい。スピードを出せないのがもどかしい。
「じゃあ、誰もいないような時間に来てるんだね」
「そんな感じ」
「朝は何してるの?」
「図書館で本読んでる」
「さすが小説家だなあ」
「はぁー?」
じっと睨むと、日野は何がおかしいのか、くすくすと笑った。変なの。
「暗くなってきたね」
空を見ながら日野が言う。
赤が消えた。僅かに残っていた赤を紫が覆った。
「そうね。そろそろ帰る?」
「帰ろっか」
腕時計をちらりと確認すると、鍵を返してから、かなりの時間が経っていた。駐輪場にはもうほとんど自転車が残っていない。
日野は駐輪場まで着いてきてくれて、そこからわかれた。バスらしい。
ヘルメットをかぶる。頭よりサイズが大きくてむずむずする。
携帯を取り出すと、小説の執筆画面が表示された。さっき書いていたはずの文章が、なぜかなくなっていた。急いで教室を出たから、恐らくそのときに保存し忘れたんだろう。
暑かったけど、いらいらはしなかった。頬を撫でる夏風が気持ちよかった。