「ちゃんとした式っぽいの、好きじゃないんだよね。」

 そう言った友人、早紀(さき)の声は昼過ぎの少し騒つくファミレスの中でも、真っ直ぐに私の耳へと届いた。そんな彼女の左手の薬指には、キラリと眩しい宝石が輝いている。二ヶ月後、早紀は結婚するのだ。

「あー、分かる。入学式とか卒業式とか私も苦手だったな。堅っ苦しくてさ。」

「そうそう。なんか緊張しちゃって、居心地悪いしね。」

「まぁ、大人になると学生の時みたいに式典とかに参加する機会も無いから余計にね。」

「ね。気後れしちゃう。」

 早紀とは幼少の頃からの付き合いで、小、中、高と同じ地元の学校で育ったとても親しい友人だ。昔から同級生の子達よりも何処か大人びていて憧れの的だった彼女が、こうして着々と幸せに向かって歩んでいる姿を見るとなんだか感慨深い。

 学生の頃は毎日のように学校で会って話を共有していたのに、今では年に数回会って近況報告をするくらいで再会の時間はあっという間に過ぎ去っていく。会わない間に好きな食べ物も変わるし、熱中していた趣味もガラリと変わる。大人になれば学生の頃よりも世界は広がって、色んな出逢いや影響を受けて自分の中の思考でさえ驚く程に変わっていくものだ。

 今回、早紀が選択した『結婚』も彼女の変化を示す一つだろう。それこそ、2、3年前は結婚願望なんて全く感じさせなかった早紀が、こんなにも早く結婚するなんて思いもしなかった。人間、変化していく生き物だ。長い月日が経てば、嫌でも変わってしまうこともあるだろう。

 けれど、私はそれにどうしようもない寂しさを感じていた。

「…学生か、懐かしいね。」

 先程話した『学生』という言葉に、早紀はあの頃を思い出したのか懐かしそうに瞳を細めて笑う。

「そういえば昔、理那(りな)とバンド組んでた時もあったよね!」

「うん。高校の時にね。」

「突然、理那にバンド組もうよ!って誘われてさ。結構強引に!」

「でも、その時早紀もノリ良かったじゃん。」

「まぁ、そーだけど!」

 早紀の話に、今でも色褪せない学生時代の光景が鮮明に頭の中で蘇る。昔から歌うことが好きだった私は、高校生になってから親しい友人を集めてずっと憧れていたバンド活動を始めたのだ。たくさんバイトして貯めたお金でギターを買って、見様見真似で曲を作り歌詞を書いたりした。長い時間をかけて、初めて一つの曲作った時の感動は今でも忘れない。

 初めて作った曲は、画面の向こう側にいる一流のアーティストたちと全くの素人である自分の能力の違いを、改めて思い知らされる悔しいものになった。けれど、それ以上に自分自身で曲を作り上げる事が楽しくて仕方なかったのだ。

 何かを作り出す苦しみや楽しさを知って、今まで以上にバンド活動に真剣に取り組んだ。毎日のようにギターを背負って学校に通い、昼休みや放課後に音楽室を借りて仲間とひたすらに練習した。そして、家に帰るとすぐにギターを片手に街に出て、一人で路上ライブをしたりする日々。

 そんな毎日を送っていれば、必然と画面の向こう側にいるアーティストたちに強烈な憧れを抱いた。いつかは自分も、そちら側に行きたいと思うようになった。たくさんの観客の前で歌って、歌って、歌って。歌いながら生きていけたら、それ以上の事はないと…
 
 明確になった夢を精一杯に追いかけて、仲間と共に作り上げた曲を演奏する事は、私のこれまで生きていた人生の中で一番輝いていた瞬間だと強く断言出来る。けれど、充実した日々はあっという間に過ぎ去って、学生を卒業して大人になった。夢を追いかけていられる時間も突き付けられた現実と共に終わりが来て、気付けば周りの視線を気にして、誰かに誘導された訳でも無いのに人生のテンプレート的な生活を送っている。よく居る夢の無い大人が、今の25歳の私だ。

「吹奏楽部でドラムやった事があるから私がドラムやって、理那はバイトで買ったギターとボーカル。あと、美南がベースだったよね。」

「…美南。」

 その名前をポツリと呟けば、早紀は私を気遣うように少し眉を寄せた。

「成人式も来てなかったから、高校卒業して以来会ってないけどさ。今頃、どうしてるのかな?」

「…本当、疎遠になっちゃった。」

 美南は、早紀と私ともう一人のバンドメンバーだった。私達3人はあの頃毎日のように演奏して、いつだって一緒に過ごしていた。しかし、段々と私と美南はバンド活動に対しての意見が合わなくなり、真剣にやるからこそお互いに衝突が絶えなくなった。結局、高校卒業間近になってバンドは解散。美南とは一応仲直りしたものの、バンドを解散して以来なんだか話しかけづらくて、ギクシャクした関係のまま卒業してしまった。

 別々の人生を歩みだせば自分の事で手一杯になり、やがてその事を気にかける余裕も無くなった。けれど月日が経ち、徐々に生活に慣れた頃になってから不意に美南の事が頭を過る。どちらが悪い訳でもないし、何度も話し合ってからバンドを解散した決断に後悔している訳でもない。ただ、仲間と共に我武者羅に夢を追いかけていた日々に無性に戻りたくなる。人生で一番輝いていた眩しい過去の光に目が眩んで、私はあの頃から一歩も前に進めていないような気がしてならないのだ。

 圧倒的な光を放つ夢を無くして、繰り返される現実を送る日々は出口のない暗闇と同じで何処に向かえば良いのか、自分がちゃんと前に進めているのかも分からない。いつまでも続いていく暗くて酷く退屈な日々は、私にとって絶望でしかなかった。高校を卒業して、もう7年が経つ。目指すべき光があった学生の頃の私は、こんな未来を望んでなんか居なかっただろう。

「あの頃、本当楽しかったよね!」

 無意識にだろうか、左手の薬指に光る幸せの形に触れながら早紀は言った。そんな早紀に同意をするように、「…うん、本当にね。」と曖昧に笑いながら頷く。

 早紀も言うように、まさしくあの頃が私の人生で一番楽しかったと言える。とっくの昔に過ぎ去ったはずの思い出が、私の中で歳を重ねる程に輝きを増していくのだ。今の情けない大人の私の姿から目を逸らすように、私はあの頃の光にずっと囚われている。

 学生の頃の自分からは考えられない程に、捻くれた思考を持つようになった自分に我ながら溜め息が出る。そんな私を目の前に座る早紀は、眉を下げて見つめながら微笑んでいた。何も言わなくても全て分かっていると言わんばかりの視線は、何処か慈悲深さを感じて理由もなく泣きたくなる。早紀も、私も知らない間に変わっていく。瞳の奥に寂しさが募ってどうしようもなくなった私は、溢れ出そうな感情を誤魔化すように手元のカフェラテに口を付けた。




 数時間後、ファミレスで早紀と別れてから、すっかりと暗くなった街を一人歩く。結婚前の早紀とは色々と話したい事が多くて、気付けば随分と長いことファミレスに居座ってしまったようだ。二ヶ月後の結婚式で再び会おうと、急ぎ足で別れをして今に至る。

 凍てつく冬の容赦無い寒さに、無意識に肩に力が入った。夜風に触れた頬は冷たく、耳が痛くなる。かじかんだ手をコートのポケットの中へと突っ込み、寒さに対抗するようにマフラーに首を埋めて歩けば、夜の街を彩るネオンが乾いた目に染みた。

 最寄りの駅前を通り過ぎれば、この駅のシンボルでもある一本の桜の木が佇んでいる。幹が太く存在感のある桜は、春になれば新生活で忙しなく行き交う人々の上をひらひらと優雅に美しい花弁を散らすのだが、真冬の現在は全ての葉が落ち淋しげな枝先だけが揺れている。冬はまだまだ終わりそうにない。

 そんなことを考えながら駅前を通り過ぎた時、突然大きな音が鳴り始めた。その音に驚いて周囲を見渡せば、ちょうど桜の木の後ろ側にちらほらと人々が視線を向けていた。気になって視線の集まる中心を覗き込んでみると、一人の男がスタンドマイクの前に立ちギターを掻き鳴らし始めた。路上ライブのようだ。

「〜♪」

 ジャカジャンッとギターを掻き鳴らす音が、アンプから周囲へと響き渡る。歌い出した男の声は、とても良く耳に馴染んで想像以上に聴きやすかった。男のオリジナルソングなのだろうか全く聞いた事の無い曲だったが、自然と音を拾って身体が左右に揺れる。通り過ぎていく人々の足を止めようとサビに向けて次第に強くなる声量に、目の前の男の姿が学生の頃の自分と重なった。

 必死に夢を追いかけていた頃、何か目に見える形の結果が欲しくて早く有名になりたくて、季節を問わずに寒さの厳しい中でも平気で歌っていた。かじかんで動きづらい指でギターを掻き鳴らしながら、一人でも多くの人に届くように自分の声を響かせていた。あの頃、何も怖いものなど無かった。

 こんなにも昔を振り返ってしまうのは、きっと先程ファミレスで会っていた早紀の事があるからだろう。もうあの頃の私も、早紀も美南も居ない事は分かっている。二度と来ない季節を待ちわびているつもりもない。それなのに過去は忘れようと現実を見れば見るほど、何故か色褪せないあの頃が強烈な光と共に蘇ってしまうのだ。

「〜♪……、」

 気付けば、男の歌が終わりを迎えていた。ギターを弾いていた手を止めて、スタンドマイクから一歩後ろへ下がった男と不意に目が合う。それを少し気まずく思いながらも、小さく拍手をする。男の歌を聴きながら立ち竦んでいた私は、慌ててバッグの中から財布を取り出して、気持ちばかりのお金をコンクリートの上に置かれたギターケースの中に入れた。

 「歌、凄く良かったです。頑張ってください。」と声を掛ければ、男は満遍の笑みを浮かべて「ありがとうございます!これからも頑張ります!」と深く頭を下げた。

 歌っていた時の穏やかな低音の声よりも、溌剌と話す声は少し幼さを感じる。不意にギターケースの横に設置された看板に視線を落とすと、『高校生です!』と簡単な男のプロフィールが書かれていて、なんだか本当に過去の自分と共通するようだった。

「学生さん…?」

「はい!高3っす!」

「へぇー、歌声が大人っぽかったから驚いた。」

「本当っすか!?自作した曲なんですけど、そう思ってもらえて嬉しいです!」

 高校生でありながらも路上ライブをする男は、自分の事を『ハル』と名乗った。ハルは過去の私と同じように歌で有名になりたくて、少しでも自分の曲を聴いてほしいと思い、この路上ライブをやり始めたらしい。

「SNSで歌を載せたり、この路上ライブの宣伝もしています!基本的に土曜日と日曜日はこの場所で歌う予定なので、良かったらまた聴きに来てください!」

 ハルはそう言いながら自身のSNSの情報をしっかりと私に伝えると、その場を後にする私を笑顔で見送ってくれた。健気に夢を叶えるための活動をするハルの姿に、より一層懐かしさを感じて脳裏に過去の自分がちらつく。あの頃の私も、ハルのように生き生きと夢に向かって励んでいたのだろうか。先程聴いたハルの歌を、小さく口ずさみながらも家路を急いだ。






 早紀とファミレスで話して、ハルの路上ライブを聴いた日から数日が経った。あれから、時間に余裕があった時に何度かハルの路上ライブを聴きに行ったりしていた。

 夜の街に響くハルの歌を聞いていると、随分と長い間動かなかった感情が徐々に生気を帯びていくのを感じた。路上ライブをしているハルを、少しだけ昔の自分に重ねているのもあるが、それだけでは無く強烈に込み上げて来るものがあるのだ。まるで、暗い日々の中に差し込まれた一筋の光のように。

 けれど、いつまでも過去に浸っている暇は無く、忙しなく流れていく日々が私を襲う。もう数年もの間、その繰り返される毎日を無感情でやり過ごしている。自分に向いているのか向いていないのか分からない、何の手応えも無い仕事を淡々とこなして、家に帰ると死んだように眠りにつく毎日は薄暗くて嫌気が差す。もう何年も、心の中で溜め込まれていく何かが酷く重苦しい。

 今日も今日とて、疲れ切った身体を引き摺るように帰路に着きながら、手元のスマホをチェックする。夜道で開いた画面の容赦無い光が、酷使した眼球に刺さった。慣れた手付きでSNSの情報を頭に仕入れていれば、不意にハルのSNSが路上ライブの宣伝をしていた。どうやら明日、土曜日の夜にあの時のように路上ライブを行うらしい。

 ハルの宣伝を目にした途端、重かったはずの足取りが少しだけ軽くなる。ただの延命処置のように仕事をこなしている毎日は、退屈で味気無くとても正気では居られなくなりそうだ。たいして熱中出来る趣味も無く、昔に比べて随分と感性が鈍くなってしまった今の私にとって、ハルの路上ライブはようやく見つけた心の拠り所のようだった。

 明日を楽しみだと思うのは、いつぶりだろう。

 小さなアパートの部屋に帰って来ると、すぐさまルーティン通りに家事をこなして一つ息を吐く。手持ち無沙汰に先程のハルのSNSを眺めていれば、弾き語りの動画が新しく上がっていた。迷いのない指先での動画の再生ボタンを押せば、小さな画面から曲が流れ始める。

「〜♪」

 心地良いギターの音色に、ジィンと余韻を持たせながら胸の深いところに広がる歌声。繊細な感情が籠もった歌詞は、言葉の使い方がとても豊かで芸術的センスを感じた。ハルの歌を聴けば聴くほどに、乾いた心が満たされていくような感覚になる。

 ハルの歌は渇いてひび割れた大地に降り注ぐ、温かい雨のような存在だ。心地良く地面を打った雨は、次第に地中深くまで染み渡る。そして、潤いを得た大地はやがて新たな芽を生やす。

 こんな音楽に触れたら、居ても立っても居られない。ここ数年、音楽を意識的に避けたりしていたけれど、色々な気持ちが重なってもう我慢の限界だった。

 私は衝動のまま立ち上がり、滅多に開けない押し入れを開けて中を物色する。物が溢れる一番奥。ひっそりと壁に立て掛けられたギターケースを、慎重に取り出した。この部屋に引っ越してきた時から触ってもいないギターケースは、薄っすらと埃を被っていて慌ててそれを払う。

 もう弾くこともない癖に、引っ越し先にまでわざわざ持って来てしまったのは、実家に置いておいて知らない間に誰がこのギターを処理してしまったらどうしようと要らぬ心配をした為だった。どうせ弾かないのだから売りにでも出して、弾きたいと思っている人に買われた方がきっとこのギターだって嬉しいだろう。しかし、一緒に夢を追いかけたこのギターだけはなかなか手放す事が出来なくて、長いこと押し入れの番人となっていた。

 ギターケースを開けると、まるでタイムカプセルのように必死に忘れようとしていた記憶を思い出す。このギターだけは唯一、私の夢の始まりと終わりを知っているのだ。

 学生の頃は早紀と美南とバンド活動に励んだり、路上ライブなどで個人でも歌っていた。高校卒業後は、就職活動を願う両親の反対を押し切ってアルバイトをしながらも必死に夢を追いかけた。このギターを背負って幾つもの音楽関係のコンテスト会場に足を運んでは、機械じみた落選の結果を受け止める日々。新たな曲を作って歌って、今度こそは!を何度繰り返しただろう。自分よりも、優れた才能を持つ人がたくさん居る事を知った。いつも選ばれない悔しさに、自信を失って押しつぶされそうになった。楽しかったはずの音楽は、いつからか苦しくなって私は己の夢に敗北したのだ。

 長い時間が経って、その時の痛みも少しは癒えたはずなのに、私はまだ前に進めないのか。思い出だからこその美しい輝きに執着して、現実を受け入れる事が今だに出来ないのだろうか。大人になっても、大人になれない。

 青春時代を共に過ごして来た早紀が、知らない間にどんどん大人になっていく。同じ時間軸で生きているはずなのに、私は夢に敗北したあの時から一歩も進めずにいて、大人になっていく早紀との見えない距離が徐々に開いていった。覚悟を決めて未来へと進んでいく彼女が眩しくて、寂しかった。

 そして、気付いてしまった。私には縋るものが、あの頃に見ていた光しか無いのだと。

 そっとギターに手を伸ばせば、触れた指先が冷たい。長い間触れていないのに、私の指はギターを忘れていなかった。あの頃を辿るようにジャランと弦を弾けば、狭い部屋の中で想像以上に音が響き渡る。「あっ、」と思った瞬間には、隣の部屋からドンッと壁を叩かれた。それにビクッと肩が上がり、冷や汗をかく。もう夜中近いのに静かなアパートでこんな音を出しては、流石にうるさくて迷惑だっただろうと深く反省した。

 なんだか夢から醒めような気分になって、抱えたギターを静かにギターケースに仕舞う。それを元に置いてあった押し入れに戻そうと立ち上がると、不意にギターケースのポケットが目に入った。きっちりと閉じられたチャックが、なんとなく気になって開けてみれば中から数枚の楽譜が出て来た。

「こんなとこに閉まってたっけ…?」

 記憶からすっかりと忘れ去られていた楽譜は、学生時代のバンドを解散する前に密かに作り始めた卒業ソングだった。その頃はまだ美南とも深く衝突していなくて、高校を卒業しても三人でバンド活動を続けていけると当たり前に思っていた。

 数年ぶりに目にした歌の存在を懐かしく思いながら、ペラペラと楽譜を眺める。しかし、楽譜は書きかけのもので途中からは長い空白が続いていた。きっと、この曲を完成させることもないまま、私達のバンド活動が終わりを迎えたからだろう。楽譜の空白部分を指でなぞりながら、その未完成な楽譜をなんとなく今の自分のようだと思った。

 あの頃から止まったまま、何処に進めば良いかも分からない。明確な道筋を思い描けず、それでも真っ当に生きていく友人に置いていかれたくはなくて。どうやって生きていけば良いのか分からない。

 重苦しい溜め息を吐き、その楽譜から目を逸らすようにギターケースのポケットに仕舞う。押し入れの中にギターケースを戻してから、もう寝てしまおうと部屋の電気を消せば、室内は暗闇に包まれた。もう随分と見慣れた暗闇の中では、光を失ってもベッドまでの道筋は簡単に辿り着く事が出来る。ベッドに横たわって目を閉じれば、瞼の裏側に棲み着いた光が毎晩のように私を惑わせるのだ。

 


 翌日、ハルの路上ライブを見ようと夜の街に出た。数日前と比べて少しずつ日中の寒さははやわらいだものの、夜風は相変わらず冷たいままだった。首元のセーターを少し引き上げながら、桜の木が佇む駅前を目指して夜道を歩いた。

 路上ライブの会場である駅前に着けば、慣れたようにスタンドマイクを準備するハルが居た。ハルは私には気が付くと、「こんばんは!また来てくれたんですね!」と真っ先に声を掛けてくれた。最初にハルの歌を聴いた時から何回か曲を聴きに来ているせいか、私はもうすっかりこの路上ライブの常連客だ。

「今日も頑張って。」

「はい!今日は新曲を作ってきたので、楽しみにしててください!」

 そう言うとハルは、心底楽しそうに路上ライブの準備を整えていく。暫くして準備を終えたハルの周りには、ここ数日でハルの歌に惹かれた観客たちが私以外にもちらほらと集まり出していた。そんな観客たちを見渡すと、ハルは堪らないというな気持ちを抑えるように眉を下げてクシャッと笑う。

「〜♪」

 夜空の下をギターの音色が響き渡って、本日もハルの路上ライブが始まった。この数日で、耳に慣れ親しんだハルの声が落ち着く。ゆらゆらと音を拾うように揺れた身体に、何度も背中を押されるメッセージのような歌詞。高校生のハルが歌う曲は、青いエネルギーに溢れていて酷く私の心を打つのだ。

 何曲目かの演奏をした後に、ハルは先程言っていた新曲を歌い始めた。初めて聴く曲は、穏やかに演奏時間が流れるようなバラードだった。大人になりゆく少年の心情をポツリ、ポツリと吐露していくようにハルは声を溢す。未来への葛藤と不安と、そして止められない情熱を織り交ぜながら歌は進んでいく。何人もの観客の中心で歌を紡ぐハルは、決して輝きを失わない恒星のように思えた。

 ハルの歌に深く聴き入っていれば、不意に集まっていた観客の一人が時間を気にしたように私の隣を通り過ぎていく。緩く夜風が吹いて、茶髪の長い髪を靡かせていく女の横顔が露わになった。目を伏せた女の白い顔を街灯のおぼろげな光が照らす。その一瞬の出来事に、何処か既視感を覚えた。

 ハッとして一つの答えに辿り着いた瞬間には、女の背中は夜の人混みの中に紛れていく。華奢な背中の歩き方に、夜風に乱れた髪をかき上げる仕草。そのどれもにとても見覚えがある気がして、私は慌ててその消えていく背中を追いかけた。

「あっ、あの!」

 なんとか追い付いた背中に声を掛ければ、女はゆっくりと此方を振り向いた。街のネオンが散らばる中で、私に視線を向けた彼女は驚いたように目を見開く。

「理那っ…?」

「…久しぶりだね、美南。」

 高校卒業以来、一度も会うことがなかった美南がそこに居た。思い出の中の彼女よりも、すっかりと垢抜けて大人びた目の前の美南は、整えられた細い眉を寄せて呆然と私を見つめている。

 あの頃よりも大人びたとは言え、思ったよりも変わっていない風貌の彼女は、先程すれ違いざまに顔を見ただけでも直ぐに彼女が美南だと気が付く事ができた。美南とはバンド活動の中で何度か衝突する事はあったものの、決して彼女の事が苦手な訳では無い。あの頃も今も、美南のことは早紀と同じように特別な友人の一人だと私は思っている。

「こんな場所で会うなんて、驚いた。」

 まさかの再会にポツリと呟けば、「それは、こっちの台詞だよ。本当にさ。」と美南は吹き出すように笑った。目尻を下げて笑う姿は思い出の中の美南と全く変わっていなくて、あぁ、やっぱり美南だと改めて懐かしい気持ちが蘇る。

「高校卒業以来会ってないから、理那と会うのは7年振りくらい?」

「そうだね。…美南は元気にしてた?」

「うん。まぁ、ぼちぼち。そっちは?」

「私もそれなりに。」

 数年間会っていないのに気負うこと無く自然と会話が出来るのは、美南と過ごした時間がそれほどに濃いものだからだろう。学生の時にバンドを解散してから、ぎこちなくなってしまった私と美南の間には良い意味で長い時間が流れていた。情熱的にバンド活動をやっていた頃に比べて、お互いに丸くなったのかもしれない。

 久しぶりの再会に嬉しくなって、美南との会話が弾んていく。数分にも満たないような時間なのに、酷く心が満たされた気がした。少しの間だけ話をしていると、唐突に腕時計に視線を落とした美南が「やばっ、もうこんな時間!」と焦ったように声を上げる。

「何か急ぎの用でもあるの?」

「あー…、親に娘預けてるんだ。」

「えっ、」

 美南から告げれた言葉に心底驚き、思わず目を見開いた。あの美南に、娘…?早紀が結婚すると言った時以上に大きな衝撃が私を貫く。確かに私達は25歳で、それなりに良い大人だ。子供が居ても、何もおかしい事はない。至って普通だ。そう頭では分かっているのに、何故か美南が遠くへ行ってしまったような気持ちになる。

「…子供、居たんだ。」

「うん。もう今年で、4歳になるんだ。まぁ、今はよく居るシングルマザーってやつなんだけどさ。」

 あっけらかんとそう話す美南に、私が知らない数年間の重みを感じた。私が足を止めていた間に、きっと美南はとてもたくさんの出来事を乗り越えて来たのだろう。

「お互い積もる話もあるだろうし、近々また会おうよ。」

 そう言いながら手早く私と連絡先を交換すると、美南は慌ただしくその場を後にした。「また連絡する!」と少し離れた所から、振り返って手を振る美南に「うん!また。」と私も軽く手を上げて応える。

 去り行く美南の背中を再び眺めながら、そっと息を吐く。祈るように見上げた夜空には、果てしない暗闇が広がっていて一つの星も見えなかった。







 少し前に早紀と語り合ったファミレスで、最近再会したばかりの美南と向かい合うように座る。夕飯時のファミレスは混み合っていて、あちら此方から雑談する声が飛び交っていた。目の前では、オムライスをスプーンで一口頬張った美南が幸せそうな笑みを浮かべている。

 偶然、美南に再会した夜から日を改めて、美南は宣言した通りに連絡を寄越してくれた。そして連絡を取り合った私達は、今日再び会うことを約束したのだ。夕飯を共にしながらも、美南と会えていなかったこれまでの事を色々と話し合った。

 どうやら現在、美南は実家にいる両親に支えてもらいつつも、仕事をしながら女手一つで娘を育てているようだ。話を聞くに、色々と波乱万丈さを感じさせるものがあったが、美南いわく今は娘の成長を見るのが一番の幸せらしい。娘の事を話す美南は心底愛情に溢れていて、もうすっかりと母親の顔をしていた。

「なんか、変な感じだな。」

「何が?」

「またこうやって、理那とご飯食べてるなんて。あの頃に戻ったみたい。」

 その言葉に思わず顔を上げれば、美南はカチャッと持っていたスプーンを皿の上に置いた。昔と変わらずに私を見つめる瞳は、逸らしたくなるくらいの真っ直ぐさを持っている。

「高校の時にバンド解散したこと。後悔してないけど、ずっと気にしてた。」

「…そう、だったんだ。」

 唐突に、昔一緒にやっていたバンドの事に触れられて言葉に詰まった。バンド活動中に私と美南との意見が合わなかったり、時には衝突する事が多くて結局解散したバンド。それ以来、ぎこちなくなってしまった過去の私達に触れるのは、少し気まずいものがある。

「今だから言うけど私さ、理那の事がずっと羨ましかったんだよね。」

「えっ?」

 サラッと言われた美南の言葉が、とても信じられずに目を丸くする。

「私も理那に誘われて、バンドやろうって思うくらいには音楽好きでさ。でも、本気でやるにつれて自分の才能の限界とか分かってきて…」

 美南が言う『限界』という言葉には、私にも嫌という程に覚えがある。私が夢を終えたのも、自分の限界を知ってしまったからだ。自分よりも優れた才能を持つ人達を超えられないと、足が竦んで立ち止まってしまった瞬間から広がっていく闇。

「バイト代を殆ど音楽の為に注ぎ込んだり、毎日何時間もギターと歌の練習したり、作曲や作詞もして、一人で路上ライブまでしちゃう理那に私との本気の差を感じた。私も音楽好きだけど、理那ほどに好きだからって理由で我武者羅に突っ走れなかった。」

 仕方がないように笑いながら、何処か遠くを見ているように話す美南に私は動揺を隠せない。

「多分、画面の向こう側に行けるのは理那みたいな奴だって、私には敵わないって思った。そんな理那にいつか置いていかれるのが悔しくて、どんどん遠くに行っちゃうのが寂しくて。理那の足引っ張ったりする前に、バンド辞めたいって思った。」

「…そんなっ!」

「バンド解散してちょっと気まずいまま、高校も卒業してさ。理那と会う機会も無くなって、私にも色々な事があってどんどん理那に会うのが怖くなった。だけどあの頃みたいにまた、こうしてご飯食べたり話したり出来たら嬉しくて。…なんか今まで考えていた事、どうでも良くなっちゃった。」

 言い終わると、美南は照れ臭さを隠すように私から視線を逸らした。

「な、何それ。私だって…!」

 今まで美南が、そんな事を思っていたなんて知らなかった。私が美南や早紀へと向けるどうしようもない寂しさを、過去の美南も同様に私に向けていたのだ。学生の頃、私達は散々一緒に遊んだりふざけたり、真剣にバンド活動して同じ夢を見ていた。その日々は今でも私の中で消えない、圧倒的な光を放っている。

 けれど夢に挫折して、美南が話してくれたようなあの頃の私はもう居なくて。輝きを失い情けなくなった今の自分を見られるのが、怖かったのは私の方だ。色々な経験をして知りたくなかった感情も味わって、別々の人生を歩み大人になった。あの頃と違って嫌でも変わってしまった事、変わらずには居られなかった事、気付かない間に変わってしまったものもお互いにたくさんあるだろう。

 それでも、絶対に変わらない確かなものがあるのだ。

「私もずっと気にしてたよ!ずっと美南に会いたかったし、またあの頃に戻りたいって今でも思ってるよ!」

 こんなに感情的になって、誰かに言葉を放つのはいつぶりだろうか。目指していた光を失くして、何年も無感情に日々を繰り返していた私はこの瞬間、ずっと探していたものがほんの少しだけ見えたような気がした。

 私の言葉を聞いた美南は目を見開くと、眉を下げて「…そっか。」と酷く安心したような声で呟いた。あぁ、もう歳だろうか。そんな美南の反応に、早紀と会った時と同じように自然と熱いものが込み上げて来て嫌になる。なんだか悔しくなって、眉間にキツく皺を寄せてそっぽを向けば、美南はそんな私の仕草を全てお見通しと言わんばかりにブハッと吹き出し笑った。





 食事と久しぶりの会話を終えて、美南とファミレスから出ると夜空には幾つかの星が瞬いていた。澄んだ空気が広がる街を、二人であの頃のように肩を並べて歩く。ファミレスで散々話したというのにまだまだ全然話し足りない私達は、冬の残り香を含む風の中で白い息を吐きながら笑い合った。

 そんな美南と二人、最寄りの駅前までやって来ると、駅のシンボルである桜の木の前には人集りが出来ていた。その中心で、今夜も軽快にギターを掻き鳴らすハルの姿に思わず「あっ、」と声を溢す。

 私の反応に気付くと、美南もギターを掻き鳴らすハルを見ながら「あー、あの子、今日も路上ライブやってるんだ。」と感心したように言った。それに対して私は、美南と偶然再会した日の夜に、美南がハルの路上ライブを聴いていた事を思い出した。

「美南も前、この路上ライブ聴いてたよね?」

「うん。なんか、あの子の歌聴いてると、学生の頃に無性に戻りたくなっちゃってさ。」

 そう言った美南に「それ、凄く分かる。」と私は強く頷いた。ハルの歌を聴くとどうしても戻れないあの頃を思い出して、痛いくらいに切ない気持ちになる。そして、心の奥底に閉まっていた感情が今にも暴れ出しそうになるのだ。
 
「あの子、高校生なんでしょ?」

「うん。でも、もうすぐ卒業するらしいよ?」

「へぇー。」

 二人とも自然と足を止めて、歌っているハルを遠くから眺めた。今日もハルの穏やかな低い声が、心地良く耳に馴染む。不意に美南が「…卒業かぁ。」と、感慨深そうに呟いた。

「学生の頃は時が経てば、自動的に卒業させられて次のステージに行けるけど、大人になると自分で卒業を決めないと自分が進んでいるのか分からなくなっちゃうよね。」

 その言葉にハッとさせられたような気がして、思わず視線を美南へと向ける。真っ直ぐにギターを弾くハルを眺めている美南の横顔は、酷く大人びていて嫌でも時間の流れを感じた。

「…確かに。学生の頃は実感湧かないまま、『はい、卒業ですよ。』って大人に言われて流れ作業みたいに卒業してたからね。」

「え?私、もう卒業なの?って。戸惑いながら、気付けば大人になってたな。」

 そう笑いながら話す美南に、私も「本当にね。」と同意する。学生を卒業して、大人になって数年。美南が言う通りに、あの頃は自動的にやって来た『卒業』は大人になって当たり前に来なくなった。それはきっと、誰かが決めた『卒業』をする必要が無くなったからだろう。

 けれど、そんな誰かが決めた卒業でもあの頃の私は一歩大人に近付いた気がして、まだ知らない新しい場所へと飛び立って行けるようで未来に期待をしていた。しっかりと、前に進めている感覚を得られていたのだ。

 それは真剣に夢を追いかけていた学生の頃だからこそ、そう感じる事が出来たのかもしれない。夢を諦めて大人になったようなフリをして、何の可能性も感じない日々を送る今の私は、一体どうしたらその前に進めている感覚が得られるのだろうか。過去の眩しい光に焦がれながら、本当は未来への道標のような青くて新鮮な感覚をずっと求めているのかもしれない…

 目を覚めさせるような冷たい風が吹いて、勢い良く前髪が持ち上げられた。開けた視界の先に、スタンドマイクの前に立ってギターを掻き鳴らす誰かの姿が見える。

「でも、きっと今でもさ。自分でも気付かないままに、何から卒業してるんだろうね。」

 静かに自分自身に言い聞かせるように言った美南の言葉が、そっと胸に落ちる。

 私も、何かから卒業して来たのだろうか。

 不意に雲間から月が顔を出して、辺りが少しだけ明るくなる。徐々に雲は流されて、夜空を金色の光の輪が照らした。暗闇の中で輝くその柔らかな光は、ずっと心の奥底で渇望していたものに良く似ている。

 じんわりと宿った熱が、血液のように身体に広がって染みていく。なんとなく、自分の在り方が分かったような気がした。身体に宿ったその確かな熱を感じながら、暫く私達は無言でハルの路上ライブを聴いていた。

 どれくらい時間が経っただろうか。不意に私へと視線を向けた美南が、眉を寄せた複雑な表情で聞きづらそうに聞いた。

「…で、理那はどうよ?彼氏とは。」

 そう唐突に聞かれた言葉に、私はいきなり何だと言わんばかりにポカンと口を開ける。間抜けな表情を晒しながら「どうも何も、彼氏なんて居ないよ。」と首を傾げると、美南は驚いたように顔を引き攣らせた。

「…ちょっと待って。このネタ忘れちゃったの?」

「このネタって…?」

「アンタの彼氏って言ったら、ギターしか無いじゃない!」

 美南の言っている意味が良くわからずに眉をひそめたけれど、『ギター』の一言で全て思い出す。それは学生時代、バイト代をギターの為に全て費やしていた私の様子を恋人に貢ぐ女のようだと当時のクラスメイトに揶揄われた事がきっかけだった。それに対して、ムッとした私は勢いのままに「私の恋人はギター!音楽に生きるの!」と高らかに宣言してクラスメイトを黙らせたのだ。その出来事以来、バンドメンバーの中でも私の「恋人はギター」発言は決まり文句のように定着し、その言葉を使った言い回しが流行っていた。

 すっかりと忘れていた懐かしい過去を微笑ましく思いながらも、少し切ない気持ちで口を開く。

「…別れた。」

「まぁ、そんな気してたけど。理那の事だから、どうかなって思ってさ。」

 美南は私の言葉をさほど驚く事もなく、受け止めていた。学生の頃はそれこそ、「音楽に生きる」とか散々大きな事を言っていたし、それくらい夢中でギターを弾いて歌ってばかりいた。そんな私を知っているからこそ、美南は改めて聞いたのだろう。

「でも意外だな。理那の事だから意地でも天下取ると思ってた。」

「…昔は『歌で天下取る』とか言ってたかもね。」

「それは覚えてんのね。」

 本当に散々、大きな事を言っていた。本気で夢を追いかけながら、自分を信じて絶対に疑わなかった。不安を感じる暇も無いくらいに、未来へ向かって全力で突っ走っていたのだ。

「夢叶えるって、なかなか難しいよ。」

 そう言った私に、美南は何とも言えない視線を向けてから「そうね。」と目を伏せた。

 夢を追いかけて行く途中で何度も挫折を経験して、いつの間にかあの頃の私は居なくなっていた。

「難しいよ、本当に。…でもさ、」

 ぎゅっと目を閉じれば、もう瞼の裏に光は見えなかった。暗闇の中で一つ覚悟を決めて、目を開く。

「またギター(アイツ)とより戻そうかな。」

 散々遠回りして出て来た言葉に、自分の事ながらも呆れてしまう。けれど、どうしたって今でも夢を追いかけたい自分が居るのだ。

 挫折して一度諦めた夢だというのに、未練がましく夢を追いかけていた過去の自分をいつまでも忘れられなかった。路上ライブで歌うハルの姿が心底羨ましくて、ずっと歌いたくて堪らなかった。観客に囲まれて、ギターを掻き鳴らすあの場所に立ちたくて仕方なかったのだ。

 何年も音楽から離れてしまった私が25歳になって今更、また一から夢を追いかけるだなんて無謀な事だと思われるかもしれない。それでも、私にはこの夢を掲げなければ、また暗闇の中で一歩も進めずに過去の眩しい光に囚われてしまう。そして、いつまでも前に進む事なんて出来ないだろう。

 言葉にして心の奥底に閉まっていた想いを放つと、ずっと張っていた肩の力が抜けていくのを感じた。

「おお!理那らしくて、良いじゃん!」

 私の一世一代の告白に、美南はテンション高く溌剌とした声を上げた。予想外の反応に驚いて顔を上げると、美南は私を見つめながら目尻を下げて昔と変わらない笑顔を浮かべている。

「…本当に、そう思う?」

「思うし、昔どれだけアンタの練習に付き合ったと思ってんの?『音楽に生きる』って言葉、嘘だと思った事ないよ。それに確信した。今だって、凄く悔しそうな顔であの子の事見てる。」

 美南にそう指摘されて、思わず自分の顔に両手で触れる。いつから、そんな表情でハルの事を見ていたのだろう。確かに最初は過去の自分に重ねていた事もあるけれど、次第に真っ直ぐに夢を追いかけているハルが羨ましくて、才能を感じる歌声や技術に私も負けていられないと心の奥底で失ったはずの熱いものが蘇りそうになっていた。

「昔は一緒にバンド組んでたけど、今でも私は理那の一番のファンでもあるんだからさ。応援してる!」

「…美南、ありがとう!」

 今も昔も、美南の言葉に何度救われただろう。あの頃に築けた掛け替えのない友人が、今も私の隣に居てくれる事に酷く感謝した。また会うことが出来て、本当に良かったと思う。

「まぁ、近いうちにでも、またあの頃みたいにギター(彼氏)との(惚気)、聴かせてよね。」

「絶対、熱いの聴かせてあげる。」

「うわ、嫉妬しそう。」

 ケラケラと笑いながら約束を交わす私達を、柔らかな月光が照らす。まるで、本当にあの頃に戻ったみたいだ。まだ冷たい夜風が駅前を吹き抜けていく、その中心に佇む桜の木の枝先を揺らす。この冬を乗り切れば、やがてそこには春の訪れを待ちわびていた蕾がゆっくりと膨らんでいくだろう。




 再び夢を追いかける覚悟を決めてからの日々は、ここ数年繰り返していた味気無い日々が嘘のように一転した。ボーカル教室に通い始めたり、仕事終わりにカラオケで歌の練習に励んだり、休日はギターを片手にまたカラオケへと通ったりした。

 路上ライブをするハルとも音楽関係の話しを積極的にするようになり、彼のおすすめの音楽スタジオまで教えてもらった。偶に二人で音楽スタジオを借りて練習し、お互いの曲についてアドバイスを交わし合ったりもした。

 そして、ついにはギターケースのポケットの中で眠っていた未完成の卒業ソングの続きをまた書き始めたのだ。練習に作詞に作曲。仕事と家を往復するだけで流れていった日常が、どんどん豊かになっていく。あの頃の輝きを取り戻しような気持ちがして、毎日がとても濃くてエネルギーが漲っていた。長いこと暗闇で立ち止まっていた足は、軽やかな足取りで光が指す方向と進んでいく。

 気が付けば一つの季節を終えて、あっという間に早紀の結婚式を迎えた。

「早紀っ!」

 純白のウェディングドレスを纏った早紀に駆け寄れば、早紀は弾けるような笑顔で手を振ってくれた。

「理那、来てくれたんだね!」

「来るに決まってんじゃん。」

 早紀の言葉に対して、当たり前と言わんばかりに堂々と返せば、早紀は「ふふっ」と瞳を細めてまた笑った。温かな春の陽射しが式場の大きな窓ガラスから差し込んで、ウェディングドレス姿の早紀の上を眩しい光が降り注ぐ。その光景はとても美しくて、私の胸を切なく締め付けた。

「本当に綺麗だね、おめでとう!」

「ありがとう!」

 そう言った早紀は本当に幸せそうで、見ているこっちも幸せな気持ちになった。以前早紀に感じていたどうしようもない寂しさは、まだほんの少しだけ心の片隅にある。けれど、真っ直ぐに未来へ向かって歩んで行く友人に置いていかれないように、私もようやく動き出した足で少しずつ進んで行こう。変わっていくものもあれば、変わらないでいるものもある。その全てがその人を、そして自分を作る一部なのだと、いつか愛おしく思えたら良い。

 大きな窓ガラスの外は、晴れ舞台に相応しいくらいに青い晴天の空。その空を眩しそうに見上げた早紀に、心からの祝福を捧げた。





 早紀の結婚式からそのままの足で、最寄りの駅前に直行する。駅のロッカーに預けていたギターを背負って、駅前のシンボルである桜の木までやって来れば、今夜も路上ライブの準備をしているハルの姿を見つけた。

「あっ!理那さん、来たんですね?」

「うん、お待たせ。」

「いえ!今日、理那さんが路上ライブに参加するって言ってくれて、マジで楽しみにしてましたから。」

「私の方こそ、参加させてくれてありがとね!」

 今夜、私はハルの路上ライブに参加する形で、何年か振りに人前で歌を披露する予定だ。音楽から離れていた時間を取り戻すように、毎日のように歌やギターの練習を重ねて来たけれどやはり若干緊張していた。

 いずれはまた、路上ライブや音楽のコンテストに応募したり、小さなライブハウスでも歌いたいと思ってはいる。けれど、その一歩を踏み出すのに全くの不安が無いわけでない。ほんの少しだけ、はじめの一歩が怖いのは皆同じだろう。

 そんな事を思っていた矢先、ハルが自分の路上ライブに出ないかと私を誘ってくれたのだ。ハルいわく、長いことライブを頻繁に続けていけるといつもと同じような演目になってしまい、聴き手側も飽きてしまうのではないかと考えていたそうだ。そこで、また音楽をやり始めた私がライブ参加して一緒に歌ったら良い変化になるのではないかと閃いたらしい。私はそんなハルの提案を有り難く、二つ返事で引き受けた。そして、すぐに今夜の路上ライブが決定したのだ。

 とは言っても全ての演目を歌う訳ではなく、あくまでも私のリハビリも兼ねている為、二曲ほどハルとデュエット曲を歌い、最後にソロで一曲だけ歌わせてもらう予定だ。

 スタンドマイクやアンプを設置し終えたハルは、ギターケースからギターを取り出した私をまじまじと見ると「確か今日、友達の結婚式に行くって言ってましたもんね。そうゆう格好も良いっすね!」とニッコリと口角を上げながら言う。

 早紀の結婚式に参加した服装のまま来たので、現在の私の格好は落ち着いた色のワンピースを着て、品の良さげなアクセサリーを身に着けたフォーマルなものだった。

 時間にそんなに余裕が無い中、それでも今日路上ライブに参加する事に決めたのは、私の夢への新たな一歩をどうせなら友人の晴れ舞台の日と共にしたいと思ったからだ。今の気持ちを全て、歌にぶつけたかった。

「なんか、ちょうど後ろの桜の木と相まって、その格好だと卒業式みたいっすね。」

 ハルの発言に、背後で佇んでいる桜の木を見上げた。冬の間寂しげに揺れていた枝の先には、今は満開の薄紅色の花が咲いている。ひらひらと舞い落ちる花弁が、ギターを手にした私達の上に降り注ぐ。美しい花弁がそっと、撫でるように肩に触れる。ようやく待ちに待った春が、やって来たのだ。

「…卒業式か、良いねそれ。」

 いつか、美南が言っていた『卒業』の話を思い出す。あの頃と違って、もう私達は自分で卒業を決めて行くしかないのだ。

 暗闇の中で、いつまでも光り輝く過去に囚われていた少し前の私とはもう今日で決別する。あの頃の夢をこれからの私が、ちゃんと追いかけて行くからもう大丈夫だ。

「でも、ちゃんとした式っぽいの、好きじゃないんだよね。」

「…?」

「だから、今夜は盛り上がっていこう!」

「はい!全力で歌いましょう!」

 私の言葉に、ハルは拳を掲げて応えた。桜の木の前には、ハルの路上ライブを聴きに来た観客が集まり始めている。もうそろそろ、ライブの開始時間だ。

 深呼吸をすれば、春特有の匂いが体内に満たされた。顔を上げれば、今夜も一際金色の光を放つ月が綺麗に見える。

 輝かしい学生時代を、共に過ごした早紀と美南。バンドを解散して高校を卒業して、それぞれ別々の道を歩んで来たけど、今でも私達の記憶の中にあの頃の私達はちゃんと存在している。

 そして、これから先の私達もきっと、あの頃のように眩しい光の中に居ると今は強く信じていよう。

 予定していたライブの開始時間が来て、無言でハルと視線を合わせれば、ハルがテンポ良くギターを弾き始めた。それに合わせて私も、軽快に指先を動かす。大好きなギターの音色に心までも弾んで、あぁ、やっぱり私は音楽から離れる事なんて出来ないのだと改めて感じた。

 周囲に集まっていた観客にもっと私達の奏でる曲を届けたくて、必死にギターを掻き鳴らす。その勢いのまま、スタンドマイクを目の前に精一杯自分の声を響かせた。25歳、ようやく自分の意志で今までの私から卒業出来そうだ。