「涼嶋って秘書課の愛島さんと話したことある?」

「何回か仕事の話なら。なんだ、ついに恋の予感か?」

「うるせえな、違うよ」


 営業部の唯一の同期である涼嶋はどういうわけか妙に交友関係が広い。
 先日の彼女が秘書課だというのは分かったが、まじめな話秘書課と交流のある部署は知らない。
 あそこはなんとなく別空間だ。ああいう見た目じゃ涼嶋とは直接の交流はないかもしれないが自分みたいにタイプが違うけどつながってるやつが一人くらいはいるかもしれない。


「なんだよ、色人から女の子の話とかめずらしーじゃん」

「別に、名刺入れ拾ったから返そうと思って」

「やっぱ恋の」

「しつこいな、違うって」


 こいつに言うんじゃなかった、と色人はさっそく後悔した。
 からかわれるのなんて目に見えていたじゃないかとひとりごちる。
 総務課に届ければいいだけだ。そうしたほうが彼女だって見つけやすいだろう。
 そういうのだってきちんと考えたしわかっている。
 名前が入ってるってことは大切にしてるものだろうし、昨日それとなく女性社員に聞いたら去年の冬に出たプレゼント用想定のモデルだとも言っていた。
 誰か、それこそ恋人とかに貰ったものだったら大切にしている違いない。
 第三者で男である自分が持っているだけで不愉快な可能性も捨てきれなかったけれど、どうしても色人はもう一度満に会いたかった。
 自分の直感だけでは、会える理由として足りなさすぎるのはわかっていても。


「俺は直接話さないけど、俺の同期の友達なんだよな、愛島さん」

「なんだそれ」

「大学の同期の幼馴染なんだと。知らない? モデルの工藤愛理」


 世間はこうも狭いのかと妙に感心すらしてしまった。
 とはいえ役には立たなかったけれど。







「高橋さん、お疲れ様です。」

「お疲れ様です。はじめまして…じゃないですよね。どういえばいいのか」


 最終手段は社内メールだった。
 名刺入れを拾ったこと、昨日は休んでいたので今日になったこと、都合がいい時に返したいことを書いて送ればお礼にコーヒーでもと彼女側から打診があったので結果オーライ、なのだろうか。
 今日がノー残業デーで助かったと思いながら会社の近くのカフェで待ち合わせていた。
 店の前で立っている満を見かけて声をかけるとにこりと人当たりのいい笑顔であいさつをされる。
 先日のようなおとなしそうな格好だった。
 まるで落とし物にかこつけたナンパみたいだと気分は重くなったが、とはいえ聞きたいこともあったし、なんだかんだ都合がよかった。


「これ、すみません、すぐ返せばよかったんですが」

「いえ、なくしたと思ってて。ありがとうございます」


 ありがとう、と笑うと彼女はそれをバッグに大切そうにしまった。

 店に入りカフェラテを注文する。今日も変わらず寒いので同じ轍は踏むまいとホットにした。彼女もホットの、キャラメルラテを注文していた。
 仕事終わりらしき客がちらほらいる程度で昼間ほど混んではいない。
 壁際の空いている席へ向かう。彼女をソファ側に座らせるとふと壁の絵が目についた。
 厳密には、見えなかったからそちらを見たのだが。


「テイクでもよかったですね、なにかお礼をしなきゃと思って……話したこともないのに、すみません」

「そんな、こちらこそ。ああ、その、愛島さん、赤がお好きなんですか?」


 どう切り出そう、なにか世間話を。
 営業のときの自分の顔が思い出せず慌てて口からこぼれたのは自分が聞きたかったこと。あの日、彼女と目が合ったときに感じた違和感のようなもの。


「そうですね、一番いい色だなと思ってます」


 ああ、ほら、違和感の正体はこれだ。
 確信なんかは何一つないし、見てわかるものでもなかったけど、病院でいつも奇病科に足を踏み入れた時の眩暈とよく似ていた。
 彼女はきっと自分と同じだ。


「そうそう私、いつもキャラメルなんですよ。これが一番…」

「……愛島さん?」

「あ、いえ、なんでも、うん、キャラメルがね、おいしいなーってつい毎回……」


 言いよどんで、虚ろに笑った。
 メニュー表写真よりもキャラメルソースが多めにかけられたそれは満の手によくなじんでいて彼女が指定してきたから、よくここを利用するのもなんとなくそうなのだろうと感じる。


「高橋さんとお茶してるなんてほかの女性社員に怒られてしまいますね」


 よく笑う人だな、と思う。人見知りもしなければ黙り込むこともない。
 一方的に話しているわけでもなく、それでもただ笑おうとしているのだけは他人より少し違和感を感じずにいられない。
 作り笑いだとわかる。仕事用の顔だ。自分もそうだからわかってしまう。


「高橋だとよくいるので下の名前でいいですよ」

「営業部ではそうなんですか?」


 初対面の人間と一対一でお話しましょうなんて小学校以来じゃないか。人間関係というのは歳を重ねれば共通の知り合いを介して会話してみたり、グループからなんとなく個人的なやり取りに発展することが常だ。
 お友達になりましょうだとかひとめぼれしましたではないし、話題を振るのがこんなに難しいとは知らなかった。自分はコミュ障じゃないと思っていたのに、とまた内心頭を抱えた。


「聞きたいことがあるんですけど、ファンタジーってどう思います?」

「へ? ファンタジー? うーん、夢があってす…すごく面白いと思うけど」

「暗いファンタジーだったら?」

「苦手ですねえ、なんか悲しくなっちゃう話はみんな苦手」

「実際に、ファンタジーの住人がこの世にいたらどう思います?」


 脈絡のないこの質問が、半分くらい賭けみたいなものだった。ファンタジーの住人、それは必ずしもいい魔法使いや可愛らしい動物や不思議なできごとなんかじゃない。
 自分たちはその一員だという意識がある。
 これは自分一人にかかわらず奇病科患者なら誰しもが持っている一種のコンプレックスでもあると知っていた。
 自分はなんて醜いんだろう。
 綺麗なファンタジーなんて語れるわけがないじゃないか。
 自分は主人公と旅する魔法使いなんかじゃない。
 忌み嫌われる魔物のほうだ。
 撃ち落とされるべき災厄だ。
 こういったファンタジーに結びついたマイナス思考のことを童話症候群という。
 奇病患者に併発しやすい心理的なうつや失調を総称してそう呼ぶ。
 通常のうつ病や自律神経失調症なんかとはすこし勝手が違うそうだがそのあたりはまあどうでもいいとして。
 たとえば満も、童話症候群とまではいかなくたって自分と同じような経験があるとすればきっと


「高橋さんって」


 こくり、と喉が鳴る。


「童話症候群なんですか」


 その固めた笑顔を引っぺがしたぞ、と。こわばった顔をした彼女の目には、にやりと口角をあげた自分が写っていた。


「なんで、なんで童話症候群のこと知ってるんですか誰も知らないはずなのにっ……!」

「お、落ち着いて、すみません」

「だったら!」

「いう通り俺は初期の童話症候群なので」


 冷静なようで自分が一番高揚している。
 満が奇病患者だったことを内心、色人は喜んでいた。
 不謹慎だとわかっていても、同胞を病院の外で見つけるなんて確率は天文学的数字になるだろう。
 一周まわって色人は落ち着いていた。
 自分は世界から外された、失敗作で、人間に混ざっているだけのヒトモドキにすぎないのだ、と。色人の症状はそれだった。
 瀬戸口医師の言う数多の薬の中にはこの童話症候群の緩和剤も入っているが患者の意志でそれを服用し続けるのは難しいことでもある。
 簡単に言えば童話症候群患者は悲観主義者だからだ。
 そんな人間が前向きに、かつ自発的に服用を続けるのは難しい。
 これに関しては満も同じで薬を飲むのに前向きではない。


「ずっと瀬戸口先生にお世話になってるんですよ、あのー、総合病院の」

「…わたしも、瀬戸口先生に」

「じゃあ一緒ですね」

「いつ、気づいたんですか、私が奇病科に罹ってるって。私はなんにもわかんなかったのに」

「ぶつかったときは別に何とも。名刺入れが赤だったの気づいたときになんとなくそわそわして。確信したのは今日会ってからですけど」

「私なにかおかしいですか?」

「好きって単語使うの避けてるでしょ」


 ああ、ばれるんだ。満はそんな表情を浮かべていた。
 気にしなければわからないレベルなのだろうが色人にはそうでもなかったらしい。
 いつも自分は瀬戸口医師とのあの日の約束を念頭に置いているくせに、うっかり「好き」だと言いそうになるのだ。
 そろそろ言わない癖がついたっていいんじゃないのかとここ数年思ってはいるがどうもうまくいかない。
 深いため息をついてからコーヒーカップを傾けた。


「私、亡愛症候群なんです」

「聞いたことありますね。でも別に口に出したって問題ないやつじゃ?」

「普通は両想いなのに拗らせて忘れちゃうってパターンらしいですね。だから字が違くて」


 テーブルに常設された紙ナプキンを一枚抜き取って、ボールペンを走らせる右側に亡愛。左側に忘愛。


「多分、高橋さんの知ってるのは忘れるほうの忘愛症候群。私のは亡くすって書く亡愛症候群。文字通り、そのものが何なのかって認識すら亡くすんです」


 厄介ですよね、と彼女は笑った。
 笑いたくなる気持ちはわかる。
 悲観主義は度を越えると笑うしかなくなるものだ。自分と同じだなと色人は満を見つめた。


「治療法は?」

「ないです。あー、過去に似たような症例が一件あって『目の前で家族が死亡』ってやつが」

「笑えないですよ」

「私の家族には長生きしてもらわないとですから」


 キャラメルソースをコーヒーに溶かす。
 冷めてしまったのかうまく溶けない。お気に入りのそれを飲むことすらやめてしまうほど色人の指摘は彼女を動揺させたらしかった。
 自分のマグカップも温くなっていた。店の赤いロゴが入ったカップの真ん中あたりがぼんやりと歪んでいる。
 自分の見ているものも、生きている場所も、本当は他人と何かが違うんだと見えない赤を見かけるたびにそう思う。
 クリームがついた唇を満が舐める。目の前の女性の透明な唇は血色の良い薄ピンクに戻っていた。塗っていた口紅の部分は大方落ちてしまったのだろう。


「……高橋さんは? なんて病気?」

「俺は摂色障害」

「ご飯、食べられないんですか?」

「食事じゃなくて色って書くんです」


 満の亡愛の横に色人もペンを走らせる。
 初診の日、瀬戸口医師が書いてくれたのと同じように色が摂れない、と書かれたその二文字はそのまま自分を表しているようで自分で書いておきながら破り捨てたいと強く思った。


「色? 見えないって? モノトーンってこと?」

「俺のは、好きな色が見えないんですよ」


 医師の言葉をそっくりそのまま借りて赤が見えないと説明すれば満は不思議そうな顔で首を傾げた。


「見えない色なのに好きなんですか? 見える色を好きにならないんですか?」


 まあそうなればまたその色が見えなくなってしまうのだろうけど、とも付け加えた。
 それは自分も家族も一度は考えたことがある。
 例えば青なら見えるだとか、オレンジなら暖色系統だしだとか。
 自分はなぜこんなにも赤一色に固執しているんだろう。
 一番頭を悩ませた疑問でもある。罹った理由なんかはどうでもよかった。なってしまったものは仕方ないと割り切れてしまえたから。
 けれど固執する理由だけは考え続けた。こんなに赤が好きなのに。見たい色だとわかっているのに。ほかの色を好きになればいいだけなのに、なぜ。
 気が付いてしまえば簡単だった。


 「どうしても赤が見たいってずっと思ってるんです。見えない分、見たいと思って余計に執着して結局そんなんじゃほかの色になんて関心は移らない。だから俺が諦めでもしない限り俺は赤い色なんて一生見えないままなんです」


 治すのは諦めようとしてるくせに。赤という色だけは諦められない。
 子供の時に好きだったもの。いま諦められない理由もなんとなくそこにあるように思う。
 わがままな諦め方なのはわかっているけどそれでも治せるなんて思ってない。
 満とちがって完治の前例もないから考えるだけ無駄だとも思う。
 あるいは童話症候群のせいにしてしまってもいい。そのあたりはなんでもよかった。


「少し話せればいいと思ってたんです、ありがとう付き合ってくれて」

「いえ、誘ったの私ですし。……あの、差し支えなければ、連絡先をいただけませんか。自分以外の患者さんと話したことなんか、ないんです」


 似ているな、と思った。 
 なにもかも悲観気味なところが自分に。

 平然としているようで無機質なくせにどこか陰鬱としたあの待合室に。
 自分たちはバケモノで、世の理から外されているのに人間のふりをしながら生きていて、それでも死にたいと思える度胸すら持ち合わせていなくて。
 自分は大っぴらに好きだと言える代わりに、執着し続ける限り赤い色は一生見えない。
 満は執着なんてしていないのに好きだという単語がずっと使えないまま。
 不毛だなと思う。いっそ彼女か自分だけがどちらの症状も罹患していたら今頃片方は幸せで、片方はなにもかもを諦められていたはずだ。
 中途半端な自分たちは二十歳になったってどことなく不完全で生きている実感を持つのが難しい。
 もちろんこれは罹患者あるあるだから自分たちに限った話じゃないけれど。


「デートの誘いならいつでも。駅まで送ります」

「そんな言い方してるから色男だと思われるんですよ」


 チャットアプリの新しい友達、という欄に「愛島満」と表示される。
 何気ないいつものその画面の中で友達という単語だけが妙にくすぐったくて、お気に入りのボタンを押していた。