甲堂記念病院第3病棟

例えば自分が、人でなければ

例えば自分が、執着しなければ

例えば自分が、誰も愛していなければ

こんな結末は迎えなかった。


「赤がお好きなんですか?」



 高橋 色人 〈摂色障害〉 
 特定の色が認識できない

 愛島 満 〈亡愛症候群〉
 特定の条件下で好意を伴う記憶を喪失する
「高橋さん、二階様からお電話です」

「ああ、ありがとうございます。繋いでください。……お電話代わりました、高橋です」


 今日の予定はどうだったかと手帳を開く。
 外回り、挨拶、会食、プレゼン。
 毎時間なにかをしているようなきっちり詰まったスケジュール帳にぽっかりと白が口を開けている。
 毎月、どこか一日だけは、必ず。


「すみません、明日は休みを頂戴しておりまして……ええ、はい……すみません、病院へ行くものですから……ああ、いやただの定期健診ですよ、ですので……はい、はい……では明日後で、はい……はい。よろしくお願いいたします」


 大きな音を立てないよう受話器を置く。
 もう一月経ったのかとまた手帳に目線を落としてため息をつく。
 面倒だ。面倒だけれども、通わなくてはならない。


「高橋さんっていつもスケジュールぎっちぎちっっすよねー」

「好きでこんなんじゃない、クライアントに指名されてるだけだ。なんせ人気者だからな」

「俺も言いてえなあ、それ」


 後輩と軽口を叩いて氷の溶けかけたアイスコーヒーを流し込む。
 十月なのに少し寒い。ホットにすればよかったとジャケットを羽織りなおした。
 今日は時間があるからゆっくり昼食が採れそうだと財布を持って咳を立つ。
 花形、なんて言われているらしい第一営業部だけれども、毎日ひっきりなしに電話と慌ただしくしている音ばかり聞こえてくる。
 一応社則では、昼休憩は十三時から十四時らしいが、営業部の人間がその時間に昼を採っているいるところを入社してから見たことはない。
 外回り中のほうが、コンビニ飯であっても時間通り食事ができているかもしれない。


「高橋さんこれからランチですか? ご一緒しても……」

「すみません、今日はラーメンか牛丼で済まそうと思ってて。また今度」

「そうですかー、残念」


 眉根をひそめる彼女は隣の経理課のアイドルだが、残念ながら好みではない。
 たとえそうであっても、親しくなるような行為は避けるだろうけれど。


「昼行ってきます」


 ホワイトボードに外出の札をひっかけてエレベーターホールへ向かう。見慣れた長い廊下の向こうから人が歩いてくるように見えた。


「おつかれさ……うわっ」


 ドンッ、という強い衝撃を肩に感じる。相手は女性。
 自分より痛かったに違いないと慌てて頭を下げると大丈夫ですと笑ってそのまま歩いて行ってしまった。
 この階で見かける顔ではないなと思ったのと、綺麗目な恰好だったのでおそらく秘書課の人だろうとあたりをつける。
 大きな会社だ。他部署の人間の顔なんて全部は覚えていない。
 歩き出そうとしてつま先に違和感を感じる。
 手探りで触れるとサイズ的に名刺入れやカードケースの類のようだった。
 さっきの彼女が落としたのだろうかと恐る恐る開けてみる。
 見慣れた自分と同じデザインの名刺。やっぱり秘書課の人かとため息をついた。
 あまり頻繁に会える課の人じゃない。総務に預けようかとも思ったが数秒躊躇ってからポケットに仕舞った。
 追いかけても見つけられる気がしない。それより今は食いっぱぐれないほうが重要だ。
 名刺の名前を頭の中で繰り返す。

 秘書課、愛島満。

 ただ妙に引っかかる名前だとそのときは思っただけだった。
「高橋さーん、高橋色人さーん、三番のお部屋へどうぞー」


 看護師に呼ばれ、待合室の椅子から腰を上げる。
 休日診療もやっているけれど、わざわざ有休を使って平日に来るのはそのほうが空いていて主治医と話がしやすいからだ。
 今日だって待合室には自分ともう一人、若い男の子しかいなかった。
 金髪に、ちょっと二度見するくらいのピアスと黒いジャージ。
 高校生くらいだろうか、気の毒にと思いながら部屋に入る。
 よくよく考えれば自分は中学生のときからここに通っているので似たようなものかもしれなかった。


「こんにちは、高橋さん。今月は調子はどうですか」

「いつも通りです。ただ最近は薬が切れると輪郭もわからないですね。書類見てるとちょっと困ります」

「高橋さんの場合はそうかもねえ、どうします、弱いけど一日に複数回飲めるやつのほうがいいですか?」

「どう違うんですか?」


 主治医は瀬戸口という。
 歳は四十代半ばくらいだがもう十年以上の付き合いなので高橋の頭の中の瀬戸口は初めて会った日からあまり変わっていない。
 もう十年も、毎月、ここに来ているんだと否が応でも思わされた。


「治るんですか」

「事例はいまだにないですねえ、まあでもうまく付き合っていけば……」

「治らないなら、もう疲れたんです。考えるのも、生きてるのも」

「気持ちは痛いほどわかるんですけどね、まあそういわずに」


 瀬戸口医師と初めて会った時、まだ三十代だったにも関わらず彼はすでに医師会ではそれなりの立場と発言力を持っていたと後で知った。
 真摯な人だと思う。だからここで、自分の主治医をしてくれているんだろうとも思う。
 この大きな総合病院の中で、つまはじきにされたような西棟の八階で、たった三室しか診断室のないこの科で、二人しか担当医がいないこの科で、あと何人似たような症状の人を抱えているんだろう。
 入院となったら、ここでは足りないからと違う病院へ移される。
 そんな話ももうだいぶ前に聞いた。そこの患者たちからもいまだに相談を持ち掛けられるらしいというのも聞いた。
 医者冥利に尽きるね、なんて笑っていたけれど自分にはそれすらも恐ろしかった。
 彼が若いうちから発言力があったのはここが特殊な科で、日本には数名しか専門医がいなくて、患者のほぼすべてが不治であるからだった。

 奇病科。

 まるでおとぎ話の、どちらかというと呪いのような症状を持つ人間が通う場所。
 それがこの甲堂記念病院だった。







 自分がいつからその奇病に罹患したのかは覚えていない。
 ただぼんやりと今とは違ったなという幼い記憶があるから生まれつきじゃないことだけは確かだった。
 赤い色が好きだった。
 自分が幼いころも、今も、戦隊ヒーローのリーダーはいつだって熱血漢で、優しくて、少しだけおっちょこちょいなくせにどのカラーよりも格好良かった。
 自分もレッドになりたかった。女の子たちの赤いランドセルが少しだけ羨ましかった。
 赤い服が多かった。自分もヒーローになりたかった。
 きっとどんな子供でも一度は思い描くだろうその理想がいつからか自分の首を絞め始めた。
 見えないのだ。
 いや正確には見えなくなったのだ。
 多分小学六年くらいになったころ。
 学校のテストで教師が使う赤ペンの色が認識できないことがまれにあった。
 先生、俺だけどうしてマルがついてないの? と質問をしたら教師は驚いたようにここに点数も書いてあるとプリントの右上を指さした。
 色人には何も見えなかった。先生のいたずら心かと思ったのだ、最初はそれでもよかった。
 いつからか赤だけが、およそ赤に分類される鮮やかなその色だけが自分にはどうしても見えなかった。
 通りすがりの女の子の背中に背負われたランドセルはその姿もなく、すりガラスのような輪郭だけがそこにあって、きらきらとオシャレをしている夜の町の女性ドレスも同じく見えないものだから空中から突如として手足が生えているようで悲鳴をあげたこともある。
 神社の鳥居が、赤富士の絵画が、リンゴジュースのパッケージが、赤いものが認識できなくなっていた。
 最初は眼科へ行った。次は脳外科へ。神経科へ。心療内科へ。
 異常はなさそうですが、と申し訳なさそうに言う医師たちの姿をまだはっきりと覚えている。
 自分は病気かどうかもわからないのかと、平然を装いながら不安に押しつぶされそうになった。
 母に背中を撫でられながら泣き出しそうな気持ちで帰ろうとしたとき心療内科の医師が言った。


 「総合病院に、紹介状を書きますから。ただし君は中を見ないように」


 大通り沿いの総合病院はここらでは一番大きな規模の病院で、私立大学の医学部とくっついていた。自分がここで世話になったのは三歳のときの水疱瘡以来だった。


 「高橋さん、高橋色人さん、八階の南棟のほうへどうぞ」


 三階から上は診察室ではなく入院病棟じゃなかったか、と思いながら足を運ぶ。母も不安そうな顔をしていたが、自分の肩をずっと抱いてくれていた。
 八階にひっそりとある待合室では、健常者にしか見えない何人かの若い男女が思い思いにソファに腰かけていた。
 今思えば、彼らも奇病科の患者なのだがその時の色人は面倒でたらいまわしにされたんじゃないかと勘繰ったものだ。


 「高橋くん、お母さん、僕が今後の担当医になります。瀬戸口です」

 「担当医? いや今日はこの子も私もただの問診のつもりで」

 「ここに来るってことは、もうそういうことなんです。症状は色がうまく見えない、ということで間違いないですね?」

 「はい、だから最初は色覚異常とか視力の問題かそういうのかと思って眼科に行ったんです」

 「異常はないと言われた。間違いないですか?」

 「はい、だから俺もうわけわかんなくて」


 真面目な顔で瀬戸口医師は細かく症状を書き込んでいく。
 自分が今まで言われてきた診断をひとつひとつ思い出して伝えれば、そのたびにうんうんと大きくうなずいてくれた。
 

「きみの症状はきちんと診断名がつくものです。それがいいってわけじゃもちろんないですけどね、安心していいですよ」

「息子は病気なんですか」

「おそらくですが摂色障害でしょうね」

「摂食障害?」

「食事じゃなくてね、拒食とかではなくて色を摂れないと書きます」


 メモパッドに走り書きされた摂色の二文字を見て色人は苦笑した。自分の名前と同じ字を使う診断名なんて皮肉だ。


「色が見えないんじゃない、赤だけが見えないんでしょう。色人くんは赤が好きなんじゃないですか?」

「俺、はい、赤いの好きです、昔から。戦隊ものが好きだったからきっとそのまま」


 筆箱も、タオルも、自転車も、思いつくものは無意識に全部赤だったな、陸上部に入ろうと思ったときもユニフォームが赤だったから格好いいと思ったんだと思い出した。
 中学に入ってから見えない頻度が高くなっていって、いつからか赤い色が視界に入ってくることがなくなっていた。


「色覚障害や単なる視力問題とは違って、摂色障害は特徴があります。診断される人が一番好きな色が見えないっていう症状がでるんです」

「待ってください、それなんなんですか、心理的なやつとかですか」

「いいえ、物理的な病気です」

「ここは、何科なんですか」


 半泣きになりながら母が言った。


「体内にも心にも具体的な異常はない、そんな患者さんのための場所です。一般的にここは、奇病科と呼ばれています」


 奇病という単語で母が泣き崩れた。
 自分はただ茫然とその姿を見つめていた。
 奇病科にくる患者の症状は様々だ。風邪や骨折のような特定の治療法は存在しないし、同じような症状の人間を探すほうが難しいとも言っていた。
 例えば、涙と血液が逆転している人や、触れたものを腐らせてしまう人、嘔吐をすると炎を吐くだとか、他人の感情を感知する度に眼孔から花を咲かす人もいれば、同じく花を咲かすけれどそのたびに記憶を失っていく人もいた。
 重症患者で隔離施設に入院している人の中には体が食用に変化していく、という症状の人もいるという。
 そう考えたら自分は見えないだけで、まだマシなんじゃないかと思えた。
 高校生になったときから一人で通院をしている。
 私生活に支障がないので親にはなんともないとしか伝えられないし、問診のたびに付き合わせるのは母親の精神衛生上よくないと思っていた。
 大学で自分の症状を知っていた奴はいない。
 それはサークルのやつらも学科の友人であっても同じだった。
 いったところでなにも変わらないし、ただ見えないだけなのに言われたって向こうだって戸惑うだけに違いないし、できることなんてなにもないのに。
 今だってそうだ。会社には伝えていない。


「じゃあ今回の薬はこっちにしておきますね、一日多くても五回までを目安にしてください。飲みすぎると良くないですから」

「いつもすみません。先生は、その後どうなんですか」

「僕もいつも通りです。この間なんか背中から生えちゃってちょっと大変でした」


 朗らかに笑って言うが、瀬戸口も奇病に罹患している一人だった。彼は体から何かしらの植物が生えるという症状を患っている。
 今回は楡、その前は蜜柑、その前は石楠花と言っていたか。場所に法則はないそうだ。
 自分がそうだから人を診れたほうがいいと思って、といつだか言っていたのを思い出した。
 花形、エースなんてもてはやされても結局病気から逃げているだけの自分はなんなんだと心臓が痛くなる。


「では来月は十五日ですね、時間はいつも通り?」

「ええ、お願いします」

「あまり思いつめないようにね」

「……そうですね」


 失礼します、と部屋を出る。入れ替わるように先ほどの男の子が呼ばれているのが聞こえた。


「尾端さーん、尾端涙さーん」


 彼はどういう症状を抱えているのだろう。
 すれ違いざまに相手もこちらを見て小さく頭を下げた。見かけほど悪い子ではなさそうだ。
 処方箋を貰い、薬を出してもらって車に戻る。早々に一錠飲み下すと幾分視界がマシになった。
 信号機が見えないのは実際危ない。青も黄色もついてなければ赤なのだとわかるので何とかなっているが薬が切れたときはあまり運転したくないのが本音だった。
 昨日拾った名刺入れを取り出す。見えもしなかったそれがいまはぼんやりと、すりガラスのような輪郭だけを浮かべていた。
 赤の名刺入れ。
 彼女は赤が好きなのだろうか。
 なんとなく力が入らずそのまま数分ぼんやりと過ごす。
 どうやって、彼女を探そうか。色人は週明けのことを考えながら目を閉じた。
「(うわああ、愛理に怒られる…っ)」


 普段からばたばたするタイプではないものの、その日だけ彼女は急いでいた。
 友人との待ち合わせ時間に遅れそうだったからだ。
 仕事が押して、とはいえやはり人を平気で待たせるのは性に合わないからと彼女は腕時計を何度も何度も見た。
 針は容赦なく、同じ速度で進んでいく。せっかく午後休をとったのにあと五分でそれも過ぎそうだった。
 考え事をしていたのできちんと前を見ていなかった。
 途端に視界が暗くなり、ほんの一瞬のことだった。
 気が付けば自分と、目の前の青年は同じようなポーズでそれぞれの後方によろけている。ついていた。
 花形と名高い、第一営業部のエースの高橋。話したことはないけれど名前くらいは知っていた。


「い、ったー……」


 はっとする。そうだ、ぶつかってしまったのだからこちらに非があるに違いない。
 彼は怪我をしたりしなかっただろうか。


「す、すいません、すいません、前見てなくて」

「いやこっちも考え事してて、大丈夫ですか」


 よかった、怒ってなさそうだ。ぱっと見だけど大きな怪我もしてなさそうだった。
 慌てて散らばった小物を拾い集める。
 こうしてる間にも時間は進むし、顔を見せたら愛理は「おっそーい」と笑うのだろう。


「大丈夫です、すみません」


 もう一度だけ相手の顔を見て、その後ろの時計を見て、慌てて姿勢を整えた。
 待ち合わせは有楽町にある喫茶店だ。少し急がないと。
 青年もかるく会釈をしてくれたので安心して彼女はその場を後にした。


「おっそーい」


 予想通り。自分の脳内で思い描いた顔で友人は笑った。


「ごめんね愛理、お待たせしました」

「満が遅刻するなんて珍しいなーと思ったけど、そういや繁忙期なんだっけ?」

「うん、忙しいのは私じゃなくて営業部と偉いおじさんたち」

「しんどいねー、あ、なんか買ってきたら?」

「そうする」


 愛島満。それが彼女の名前だった。


「愛理のやつなに?」

「アイスのカフェモカのホイップ多め」


 対して彼女は満の友人で工藤愛理という。
 黒髪で、よく言えば楚々とした満に対して愛理は茶髪でネイルをし、付けまつげにハイブランドのバッグととにかく正反対だ。
 後ろをとおりがかったサラリーマンが組み合わせに不思議そうな顔をしていたがこれはもういつものことだった。


「なににしたの?」

「キャラメル、いつもの。キャラメルソース多めで」


 柔らかく笑った友人を見て愛理も笑った。
 中学からの付き合いで、見た目はこれだけ違って、交友関係も変わったがお互いの根の深いところにある付き合いやすさは今も健在なのだ。


「昨日、病院行ってたんでしょ?どうだった」

「いつもと同じだよ、薬飲んで経過を見ましょうってさ」

「ふーん、まあ、満が治ったらいいなって、ずっと思ってるよあたしは」

「ありがとう、愛理のこと今後も大切にします」

「そうして」


 愛理も満も付き合いが長いのもあってお互いのことをよくわかっていたし、基本的によっぽどでなければ隠し事もしなかった。
 しないというか相談するのにすぐ話してしまう、といったほうが正しかったし、心配をかけまいという隠し事はなんとなくお互いすぐばれた。


「あ、そうそう見てこれ」

「ナイトアクアリウム? ふーん、あ、品川のやつか」

「うん、めっちゃ綺麗じゃない? 満こういうの好きかなーって思ったからさぁ行こうよ」

「うん! 行きたい! こういうのほんとす……」

「うわ待ってごめん」

「ううん、こういの興味ある! ありがとう愛理!」


 言いよどんだ理由も、愛理は知っている。







「忘愛症候群?」

「ええ、お嬢さんのは特に、極めて珍しい症状です」


 最初は小さな違和感だった。
 幼い満は感情表現が豊かな子供で好き嫌いも多かった。
 兄や弟とも激しく喧嘩をするお転婆でそれは小学生になっても変わらなかった。
 ある日、父親が珍しく早く帰ってきた。子供たちにケーキを買って。
 兄はチョコレートが、弟はシュークリームが、そして満は真っ白なショートケーキが好きだと知っていた父親はわかりやすくその三つをきちんと選んできた。


「ほら、お前たちが好きな奴だぞ」

「わっ、やった、俺チョコ!」

「ねえちゃんショートケーキだろ」

「わたし…わたしってショートケーキ選んでたっけ?」

「何言ってんの、好きだろこれ。はい」

「…ありがとう、翔太。お父さんも、買ってきてくれてありがとう」


 翔太に遠慮したのかな、お姉さんになったのかもしれないなあ。
 それにくらべて樹は長男なのにまだまだ子供だな。その日、子供たちが寝付いてから夫婦でそんな話をした。
 最初はその程度の歪だったのだ。


「あら、見て満。野良猫なんて珍しいわね」

「猫? あれ猫っていうの?」

「なに、お母さんのことからかってるの?」

「ちがうよ、わたしあんな生き物初めて見た」

「…何言ってるの、あなた猫好きでしょう?」

「すき…?」


 満の好きなもの。
 猫。ショートケーキ。この間選んできたぴかぴかの自転車。お母さんの卵焼き。部活の友達。国語の授業。牛乳。絵をかくこと。家族。赤い色。
 少しずつ、だが確かに彼女はなにかのはずみでそれを忘れていった。


「だれ、あなたたち誰! わたしなんでこんなところにいるの!」


 錯乱状態に陥ったのは彼女が小学六年生の時だ。
 なんでそうなったのか、きっかけはいまだにはっきりしないが、彼女がそのとき、家族を忘れてしまったのだけは確かだった。
 父の知人に奇病の研究家がいた。それを思い出してあわてて連絡をとると、あれよあれよと彼女は総合病院の奇病科に連れていかれたのだ。


「初めまして、担当医の瀬戸口です」

「先生、うちの子はどうなってしまうんですか」

「落ち着いてください、先ずは少し話してみましょうか。こんにちは」

「こんに、ちは」

「お名前は、愛島満さんで間違いないですか?」

「はい」


 満を刺激しないように、瀬戸口医師は満に質問を続けた。
 はいかいいえでしか答えなかった満も少しずつ答えるようになった。
 その間約三十分。短いはずのたかだか三十分はずっと緊迫し続けていた。


「この二人は満さんのお父さんとお母さんです、わかりますか?」

「わかり、ます、わたしさっき、ふたりにひどいことして」

「思い出せたならよかった、まだ早い段階だったからよかったですね、満さん、あなたがいろんなことが分からなくなってしまうのは体が助けてほしいよーって信号を出してるからなんです」

「しんごう…」


 亡愛症候群は、愛してるものを忘れていく奇病だという。
 これは奇病にしては珍しく罹患者の多い症状で、その多くは対人で発生する症状だ。
 「愛している人を忘れていく病気」というのがこの奇病の基本症状だが満の症状は珍しいうえに特定の条件下でのみ発生した。
 好きの対象が人間に限らないこと。
 彼女が「好き」「愛している」などの感情を伴わせて直接的な単語を口にすること。
 要するに、ケーキを見て「私、このケーキ好き」といったことを口にした瞬間、彼女はそれが自分の好物だったという認識を失くすのだ。


「事実関係の記憶や直前までの会話までを忘れることは、薬も出しますから今後はないでしょう。満さん、これはとても難しい治療です。あなたに治す気がないと手伝えません」

「わ、わたしがんばる、先生わたしはどうしたらいいんですか?」

「好き、とか。愛してる、とか、そういう単語は完治するまで一切口に出してはいけません」


 大人にだってかなり難しい注文だ。好きという単語は感情表現をするにあたって頻出する言葉でもある。
 目の前の少女の顔を見つめながら誰より心を痛めていたのは間違いなく瀬戸口医師だったことだろう。
 思いつく限りの直接的な好意を表現する単語をすべて禁止にした。
 一覧表まで、両親と話しながらつくりあげた。
 なんの罰ゲームだろうと、呆然とする兄弟はうまく理解はできなかったが察することはしたのだろう。
 いつもの喧嘩の雰囲気は影を潜め、ただ妹の、姉の手を握って両側から優しく寄り添っていた。
 満からもう、家族に向かって、あの笑顔で好きだと口にされる日はこないのだ。小学生の彼女にはあまりに酷で難しすぎる注文だった。







「あれ、名刺ケースがない」


 バッグのポケット、ジャケットの内側、化粧ポーチまでを開いてみるも、愛用している赤い名刺入れは入っていなかった。
 あれは誕生日に愛理に貰ったもので名前が彫ってある。
 大切に使っていたつもりだったがどこかに落としたのかと満はため息をついた。
 心当たりはあるといえばある。
 明日総務課か、いれば本人を尋ねればいいかとため息をついた。幸い自分の名刺しか入っていない。


「どしたん」

「名刺入れ落としたみたい」

「落とした?」

「今日、会社で人とぶつかって、たぶんその時に」

「おおお、恋の予感は?」

「ありませんよーだ」


 エレベーターホールでぶつかった青年を思い出す。
 話したことはないけれど一応知っている。綺麗な顔をしていたような、そうでもないような。 
 どうにも自分には印象が薄い。営業らしくすっきりと髪を整えていて、ずいぶん細身だったなあと考える。
 そりゃ何も考えず体当たりすればよろけるよなあ、と改めて悪いことをしたなと罪悪感にかられた。


「どんなのとぶつかったの? おっさん?」

「花形部署のエースだよ」

「それだけで女慣れしてそう」

「なにそれ、悪口じゃん」


 言いえて妙だなと思ったことは秘密にしておこう。
 たしかに見かけるたびに違う女性と話している、といえばそれはある。
 とはいえあれはどちらかといえば女性のほうから声をかけに行っているんだろうからナンパでもしてるのかという場面にはさすがに出くわしたことがない。
 上司もみんな褒めているから営業成績以外にもいろんなものが良いのだろう。


「まあ、見つかんなかったらまたプレゼントするよ。あれでしょ、あの赤いやつ」

「ありがとう、でもあれ気に入ってたからさあ、悔しいなあ」


 気にいるだとか興味があるだとかは「明確な好意」とは分類されないらしく満が良く使う単語でもあった。


「今日はこれからどうする?」

「このまま銀座とかでいいんじゃない? 服見に行って歩きながら考えよ」

「オッケー」


 満は自分が奇病にかかってから、自分でできる限り友達を遠ざけた。
 冷たい態度をとったり避けるようにしてみたり、先生は知ったうえでなにも言えなかっただろう。
 悪いことをしたかもしれない。いじめにはならなかったけれど、人付き合いは下手になったし、いまだにあまりうまく他人とは話せない。
 仕事だからと慇懃な態度をとっているから秘書課ではうまくやれているけれど、個人的な付き合いなんてあまりない。
 昔はあんなに感情表現が豊かだったのに、とアルバムの中の自分にだって何度も問いかけた。
 親だって兄弟だってこんな根暗っぽい成長するなんて思いもよらなかっただろう。
 一人は孤独だった。
 それ以上に忘れることが怖かった。
 なにかのはずみで、好きだと口にしたらどうしよう。
 なにかに流されて好意を示してしまったらどうしよう。
 忘れていく。自分が大切にしたいはずのものが、全部、乾いた砂のように指の隙間から落ちていくような感覚がした。
 口が乾いてうまく笑えない。恐怖に支配された状態で、友達との会話を恐れるくらいならひとりぼっちのがマシだろう。
 それが彼女の選択だったはずだったのに。


「満が言えない分はあたしがぜーんぶ好きっていうから今日もがんがん冬服選んでこ」

「まだ秋口だよ?」

「そろそろ冬物になるって!」


 愛理がどういうきっかけで自分が罹患してることを知ったのかは正直覚えていない。
 親に聞いても覚えていないから、本当に単なる偶然だったのかもしれない。
 けれど今こうして自分の代わりに彼女の口からストレートに好きだという単語を吐き出してもらえるだけで満は十分に幸せだった。
 理解者の有無。
 彼女と色人の違いはそこにある。
「涼嶋って秘書課の愛島さんと話したことある?」

「何回か仕事の話なら。なんだ、ついに恋の予感か?」

「うるせえな、違うよ」


 営業部の唯一の同期である涼嶋はどういうわけか妙に交友関係が広い。
 先日の彼女が秘書課だというのは分かったが、まじめな話秘書課と交流のある部署は知らない。
 あそこはなんとなく別空間だ。ああいう見た目じゃ涼嶋とは直接の交流はないかもしれないが自分みたいにタイプが違うけどつながってるやつが一人くらいはいるかもしれない。


「なんだよ、色人から女の子の話とかめずらしーじゃん」

「別に、名刺入れ拾ったから返そうと思って」

「やっぱ恋の」

「しつこいな、違うって」


 こいつに言うんじゃなかった、と色人はさっそく後悔した。
 からかわれるのなんて目に見えていたじゃないかとひとりごちる。
 総務課に届ければいいだけだ。そうしたほうが彼女だって見つけやすいだろう。
 そういうのだってきちんと考えたしわかっている。
 名前が入ってるってことは大切にしてるものだろうし、昨日それとなく女性社員に聞いたら去年の冬に出たプレゼント用想定のモデルだとも言っていた。
 誰か、それこそ恋人とかに貰ったものだったら大切にしている違いない。
 第三者で男である自分が持っているだけで不愉快な可能性も捨てきれなかったけれど、どうしても色人はもう一度満に会いたかった。
 自分の直感だけでは、会える理由として足りなさすぎるのはわかっていても。


「俺は直接話さないけど、俺の同期の友達なんだよな、愛島さん」

「なんだそれ」

「大学の同期の幼馴染なんだと。知らない? モデルの工藤愛理」


 世間はこうも狭いのかと妙に感心すらしてしまった。
 とはいえ役には立たなかったけれど。







「高橋さん、お疲れ様です。」

「お疲れ様です。はじめまして…じゃないですよね。どういえばいいのか」


 最終手段は社内メールだった。
 名刺入れを拾ったこと、昨日は休んでいたので今日になったこと、都合がいい時に返したいことを書いて送ればお礼にコーヒーでもと彼女側から打診があったので結果オーライ、なのだろうか。
 今日がノー残業デーで助かったと思いながら会社の近くのカフェで待ち合わせていた。
 店の前で立っている満を見かけて声をかけるとにこりと人当たりのいい笑顔であいさつをされる。
 先日のようなおとなしそうな格好だった。
 まるで落とし物にかこつけたナンパみたいだと気分は重くなったが、とはいえ聞きたいこともあったし、なんだかんだ都合がよかった。


「これ、すみません、すぐ返せばよかったんですが」

「いえ、なくしたと思ってて。ありがとうございます」


 ありがとう、と笑うと彼女はそれをバッグに大切そうにしまった。

 店に入りカフェラテを注文する。今日も変わらず寒いので同じ轍は踏むまいとホットにした。彼女もホットの、キャラメルラテを注文していた。
 仕事終わりらしき客がちらほらいる程度で昼間ほど混んではいない。
 壁際の空いている席へ向かう。彼女をソファ側に座らせるとふと壁の絵が目についた。
 厳密には、見えなかったからそちらを見たのだが。


「テイクでもよかったですね、なにかお礼をしなきゃと思って……話したこともないのに、すみません」

「そんな、こちらこそ。ああ、その、愛島さん、赤がお好きなんですか?」


 どう切り出そう、なにか世間話を。
 営業のときの自分の顔が思い出せず慌てて口からこぼれたのは自分が聞きたかったこと。あの日、彼女と目が合ったときに感じた違和感のようなもの。


「そうですね、一番いい色だなと思ってます」


 ああ、ほら、違和感の正体はこれだ。
 確信なんかは何一つないし、見てわかるものでもなかったけど、病院でいつも奇病科に足を踏み入れた時の眩暈とよく似ていた。
 彼女はきっと自分と同じだ。


「そうそう私、いつもキャラメルなんですよ。これが一番…」

「……愛島さん?」

「あ、いえ、なんでも、うん、キャラメルがね、おいしいなーってつい毎回……」


 言いよどんで、虚ろに笑った。
 メニュー表写真よりもキャラメルソースが多めにかけられたそれは満の手によくなじんでいて彼女が指定してきたから、よくここを利用するのもなんとなくそうなのだろうと感じる。


「高橋さんとお茶してるなんてほかの女性社員に怒られてしまいますね」


 よく笑う人だな、と思う。人見知りもしなければ黙り込むこともない。
 一方的に話しているわけでもなく、それでもただ笑おうとしているのだけは他人より少し違和感を感じずにいられない。
 作り笑いだとわかる。仕事用の顔だ。自分もそうだからわかってしまう。


「高橋だとよくいるので下の名前でいいですよ」

「営業部ではそうなんですか?」


 初対面の人間と一対一でお話しましょうなんて小学校以来じゃないか。人間関係というのは歳を重ねれば共通の知り合いを介して会話してみたり、グループからなんとなく個人的なやり取りに発展することが常だ。
 お友達になりましょうだとかひとめぼれしましたではないし、話題を振るのがこんなに難しいとは知らなかった。自分はコミュ障じゃないと思っていたのに、とまた内心頭を抱えた。


「聞きたいことがあるんですけど、ファンタジーってどう思います?」

「へ? ファンタジー? うーん、夢があってす…すごく面白いと思うけど」

「暗いファンタジーだったら?」

「苦手ですねえ、なんか悲しくなっちゃう話はみんな苦手」

「実際に、ファンタジーの住人がこの世にいたらどう思います?」


 脈絡のないこの質問が、半分くらい賭けみたいなものだった。ファンタジーの住人、それは必ずしもいい魔法使いや可愛らしい動物や不思議なできごとなんかじゃない。
 自分たちはその一員だという意識がある。
 これは自分一人にかかわらず奇病科患者なら誰しもが持っている一種のコンプレックスでもあると知っていた。
 自分はなんて醜いんだろう。
 綺麗なファンタジーなんて語れるわけがないじゃないか。
 自分は主人公と旅する魔法使いなんかじゃない。
 忌み嫌われる魔物のほうだ。
 撃ち落とされるべき災厄だ。
 こういったファンタジーに結びついたマイナス思考のことを童話症候群という。
 奇病患者に併発しやすい心理的なうつや失調を総称してそう呼ぶ。
 通常のうつ病や自律神経失調症なんかとはすこし勝手が違うそうだがそのあたりはまあどうでもいいとして。
 たとえば満も、童話症候群とまではいかなくたって自分と同じような経験があるとすればきっと


「高橋さんって」


 こくり、と喉が鳴る。


「童話症候群なんですか」


 その固めた笑顔を引っぺがしたぞ、と。こわばった顔をした彼女の目には、にやりと口角をあげた自分が写っていた。


「なんで、なんで童話症候群のこと知ってるんですか誰も知らないはずなのにっ……!」

「お、落ち着いて、すみません」

「だったら!」

「いう通り俺は初期の童話症候群なので」


 冷静なようで自分が一番高揚している。
 満が奇病患者だったことを内心、色人は喜んでいた。
 不謹慎だとわかっていても、同胞を病院の外で見つけるなんて確率は天文学的数字になるだろう。
 一周まわって色人は落ち着いていた。
 自分は世界から外された、失敗作で、人間に混ざっているだけのヒトモドキにすぎないのだ、と。色人の症状はそれだった。
 瀬戸口医師の言う数多の薬の中にはこの童話症候群の緩和剤も入っているが患者の意志でそれを服用し続けるのは難しいことでもある。
 簡単に言えば童話症候群患者は悲観主義者だからだ。
 そんな人間が前向きに、かつ自発的に服用を続けるのは難しい。
 これに関しては満も同じで薬を飲むのに前向きではない。


「ずっと瀬戸口先生にお世話になってるんですよ、あのー、総合病院の」

「…わたしも、瀬戸口先生に」

「じゃあ一緒ですね」

「いつ、気づいたんですか、私が奇病科に罹ってるって。私はなんにもわかんなかったのに」

「ぶつかったときは別に何とも。名刺入れが赤だったの気づいたときになんとなくそわそわして。確信したのは今日会ってからですけど」

「私なにかおかしいですか?」

「好きって単語使うの避けてるでしょ」


 ああ、ばれるんだ。満はそんな表情を浮かべていた。
 気にしなければわからないレベルなのだろうが色人にはそうでもなかったらしい。
 いつも自分は瀬戸口医師とのあの日の約束を念頭に置いているくせに、うっかり「好き」だと言いそうになるのだ。
 そろそろ言わない癖がついたっていいんじゃないのかとここ数年思ってはいるがどうもうまくいかない。
 深いため息をついてからコーヒーカップを傾けた。


「私、亡愛症候群なんです」

「聞いたことありますね。でも別に口に出したって問題ないやつじゃ?」

「普通は両想いなのに拗らせて忘れちゃうってパターンらしいですね。だから字が違くて」


 テーブルに常設された紙ナプキンを一枚抜き取って、ボールペンを走らせる右側に亡愛。左側に忘愛。


「多分、高橋さんの知ってるのは忘れるほうの忘愛症候群。私のは亡くすって書く亡愛症候群。文字通り、そのものが何なのかって認識すら亡くすんです」


 厄介ですよね、と彼女は笑った。
 笑いたくなる気持ちはわかる。
 悲観主義は度を越えると笑うしかなくなるものだ。自分と同じだなと色人は満を見つめた。


「治療法は?」

「ないです。あー、過去に似たような症例が一件あって『目の前で家族が死亡』ってやつが」

「笑えないですよ」

「私の家族には長生きしてもらわないとですから」


 キャラメルソースをコーヒーに溶かす。
 冷めてしまったのかうまく溶けない。お気に入りのそれを飲むことすらやめてしまうほど色人の指摘は彼女を動揺させたらしかった。
 自分のマグカップも温くなっていた。店の赤いロゴが入ったカップの真ん中あたりがぼんやりと歪んでいる。
 自分の見ているものも、生きている場所も、本当は他人と何かが違うんだと見えない赤を見かけるたびにそう思う。
 クリームがついた唇を満が舐める。目の前の女性の透明な唇は血色の良い薄ピンクに戻っていた。塗っていた口紅の部分は大方落ちてしまったのだろう。


「……高橋さんは? なんて病気?」

「俺は摂色障害」

「ご飯、食べられないんですか?」

「食事じゃなくて色って書くんです」


 満の亡愛の横に色人もペンを走らせる。
 初診の日、瀬戸口医師が書いてくれたのと同じように色が摂れない、と書かれたその二文字はそのまま自分を表しているようで自分で書いておきながら破り捨てたいと強く思った。


「色? 見えないって? モノトーンってこと?」

「俺のは、好きな色が見えないんですよ」


 医師の言葉をそっくりそのまま借りて赤が見えないと説明すれば満は不思議そうな顔で首を傾げた。


「見えない色なのに好きなんですか? 見える色を好きにならないんですか?」


 まあそうなればまたその色が見えなくなってしまうのだろうけど、とも付け加えた。
 それは自分も家族も一度は考えたことがある。
 例えば青なら見えるだとか、オレンジなら暖色系統だしだとか。
 自分はなぜこんなにも赤一色に固執しているんだろう。
 一番頭を悩ませた疑問でもある。罹った理由なんかはどうでもよかった。なってしまったものは仕方ないと割り切れてしまえたから。
 けれど固執する理由だけは考え続けた。こんなに赤が好きなのに。見たい色だとわかっているのに。ほかの色を好きになればいいだけなのに、なぜ。
 気が付いてしまえば簡単だった。


 「どうしても赤が見たいってずっと思ってるんです。見えない分、見たいと思って余計に執着して結局そんなんじゃほかの色になんて関心は移らない。だから俺が諦めでもしない限り俺は赤い色なんて一生見えないままなんです」


 治すのは諦めようとしてるくせに。赤という色だけは諦められない。
 子供の時に好きだったもの。いま諦められない理由もなんとなくそこにあるように思う。
 わがままな諦め方なのはわかっているけどそれでも治せるなんて思ってない。
 満とちがって完治の前例もないから考えるだけ無駄だとも思う。
 あるいは童話症候群のせいにしてしまってもいい。そのあたりはなんでもよかった。


「少し話せればいいと思ってたんです、ありがとう付き合ってくれて」

「いえ、誘ったの私ですし。……あの、差し支えなければ、連絡先をいただけませんか。自分以外の患者さんと話したことなんか、ないんです」


 似ているな、と思った。 
 なにもかも悲観気味なところが自分に。

 平然としているようで無機質なくせにどこか陰鬱としたあの待合室に。
 自分たちはバケモノで、世の理から外されているのに人間のふりをしながら生きていて、それでも死にたいと思える度胸すら持ち合わせていなくて。
 自分は大っぴらに好きだと言える代わりに、執着し続ける限り赤い色は一生見えない。
 満は執着なんてしていないのに好きだという単語がずっと使えないまま。
 不毛だなと思う。いっそ彼女か自分だけがどちらの症状も罹患していたら今頃片方は幸せで、片方はなにもかもを諦められていたはずだ。
 中途半端な自分たちは二十歳になったってどことなく不完全で生きている実感を持つのが難しい。
 もちろんこれは罹患者あるあるだから自分たちに限った話じゃないけれど。


「デートの誘いならいつでも。駅まで送ります」

「そんな言い方してるから色男だと思われるんですよ」


 チャットアプリの新しい友達、という欄に「愛島満」と表示される。
 何気ないいつものその画面の中で友達という単語だけが妙にくすぐったくて、お気に入りのボタンを押していた。
「んで? その後は?」

「ないよそんなの」

「お友達ですってか、いっそ不健全だわ!」

「お前ね、別にいいだろ成人男女に純粋な友情があっても」


 あれから満とは特に何もない。顔を見たら挨拶はするし、エントランスで顔は合わせるし、おたがい何となく連絡は取るけれど特に恋愛方面への発展はしていない。
 というかそもそもお互いそういう目的で顔を合わせてるわけじゃないのだ。


「じゃあなんで連絡先なんて交換したんだよ」

「なんで知ってんだよ」

「工藤が言ってた」


 満にしてみれば隠すことでもないのか。
 そしてこいつはあの工藤愛理といまだに連絡をとる仲なのか。ただの同期ってのは嘘なんじゃないのか、むしろそっちのほうが気になった。
 純粋な友情とはいったけど、どちらかというと単なるお友達ではなく患者仲間だ。
 愛理は満の症状について知っているらしいし、奇病そのものについてはそういうものがあるんだなという理解くらいはあるんだろう。多分。
 発展したいとか、そういう感情はいまのところ一切ない。
 こちらだけの意見でなく、向こうにだって好みが存在するし、なにより満はあの様子だったら恋人を作ることそのものを敬遠しているんじゃないかと思う。
 自分と違って、彼女の病気は他人に大きくかかわる病気なのだから。


「だったらさあ」、涼嶋が口を開いた。


「なんで愛島さんのこと見かけるたびそんなに幸せそうな顔してんの?」


 俺はこいつのこういうところが本当に嫌いだ。


「そんな顔してない」

「してるって。だから恋じゃねーのって聞いてんじゃん、大人とは思えないわ」

「本当になにもないんだ」


 自覚はない。恋なんて長いことしていない。最後に好きだったのだって、中学生のときに同級生をなんとなくかわいいなと思っていたとかその程度だ。
 大学生になってからだって、そんなに縁もないし積極的でもない。
 女性がそばにいることは多いから経験豊富なんだろうと酒の席でネタにされることもある。が、生憎そういう面白い話題は持っていない。
 彼女が欲しいかと聞かれれば、まあ居たらいたで、とそのくらいでだからといってそんな軽率に満を好きになったとかそういうことではないはずで。
 ないと思いたいだけかもしれないが、とりあえず今の自分のなかでは「なし」だ。


「色人さ」

「なんだよ、だから満さんとは」

「お前隠し事向いてないよ」


 ひやっとする。ああそうだ、こういうやつだった。いつもは軽いノリでいるからつい忘れがちだけど本来こういうやつだった。
 奇病について、隠してるつもりはない。ただ言う必要がないと思っているだけだ。
 それでも日常生活でなにひとつとして支障がないのかときかれるとそれがそうでもなかったりする。赤い看板が、と指定されて一瞬首をひねってしまったり、赤い服を着ている奴を見てギョッとしてしまったり。
 大きく態度に出しているつもりはなかったけれど涼嶋なら気づいてたっておかしくない。


「愛島さんには隠し事してないっぽいし、だから楽なんじゃん?」


 でもアタシ、色人の本妻の座は譲らないわよ、なんて裏声で言い出すものだから大きく噴き出した。
 本当にこいつは、頭悪すぎるだろう。でもだから友達になったんだった。何も聞かないから。


「こんなごつい本妻いらない」

「まあ! なんてこと言うのよ! もうばかばか!」

「気持ちわりい」


 自分が治る、なんて一度だって思えなかった。もう一生このままだろうって信じて疑わなかったし、それでいいやって投げやりだった。
 童話症候群の薬に意味なんかないって封も切らないで、まして飲むことなんてするはずもなく。
 いつまでそうしてればいいんだ。俺はずっとヒトモドキで、失敗作だと思って生きていかなきゃならないのか。涼嶋に何も言えないまま、満とずるずる傷を舐めあえばいいって?
 そんなのはごめんだ。


「悪い、たった今用ができた。午後の予定は全部キャンセルする」

「いまぁ?」

「そう、今」

「ふーん、愛島さんとこ行くんだろ」

「残念、満さんじゃない」


 もうやめよう。諦めることをやめてやる。ため息をつくのはもう疲れたんだ。







「驚きましたよ、まあ前向きになってくれたならよかった」


 訪れたのは奇病科、瀬戸口医師のところだった。午後は休診だったはずだ、と慌てて電車に飛び乗れば、受付で帰り支度をしているナースたちを運よく捕まえた。
 今日は終わりで、というナースを制止して診察室に案内してくれた瀬戸口医師はどことなく泣きそうに見えた。


「なにかいいことでもあったんですか?」

「愛島満が同じ会社でした」

「ああ、たしかに、言われてみればそうですね」


 ほかの科に比べて、奇病科の患者は数が少ない。
 その分重篤であることも多いけれど、瀬戸口医師は自分の患者のことをしっかり把握しているらしい。
 少ないとは言っても百人以上は確実にいるのだから、この人の誠実さはやっぱり本物なのだろう。


「それで、なんで奇病科に?」

「諦めることをやめようって思ったんです」

「なぜ?」

「満さんが諦めてたから」


 自分とおなじように、彼女だって治るわけがないって諦めていた。
 言葉に出さなくたってわかる、自分たちは同じ失敗作だから。人並みにすらなれない、人知を超えた理解されえない症状を抱えてどうして自分がと心の底で叫び続けている。
 いつだって、諦めているようで、諦めきれなくて、その不毛さに疲れてしまって、どうしようもない焦燥感を燻ぶらせているのだ。ぶつける場所なんてどこにも存在しない。


「自分以外の患者なんて話すことないですから、それこそ第三病棟にでも行かない限り」

「そうですねえ、そういうサロンみたいなものを企画したことはありましたが院長から却下されたことがありました」


 プライバシーとかの問題があってね、と言われてそれもそうかと妙に納得した。
 とはいえ、関りがないことで「自分はこの世界で独りぼっちだ」「自分だけが人間になれなかった生き物だ」という思考が生まれやすいのも本当だ。童話症候群の根底には強い「孤独」が居座っている。


「食性遺伝だとか、汗毒体質だとかパッチワーク病だって俺はその症状を知っていてもその患者は知らない。だからその人がなにと戦ってきたのかなんてずっと知らなかった」


 これからもないはずだった。同じように理解されないはずだった。一人なのだと感じていた。
 これから先に、希望なんて見いだせないって本気で信じていたはずなのに。
 患者がいたって、その人の症状を知っていたって、なんの慰めにもならなかったのはいつだってそれが治らないもので結局自分とは違うと思っていたからだ。
 けど今はそうじゃない。


「酷なことをいいますけど、前向きになってくれたのは嬉しい。でも治療法がないという事実は変わりません」

「本当に? 何一つとしてないんですか」

「亡愛症候群に関して言えば、あれは本来、忘れる愛と書きますから完治例がないことはないんです。愛島さんからなにか聞きましたか?」

「家族が死んだ前例ってやつなら」

「まさに。厳密には大切な人が目の前で死ぬであって家族に限定はしませんが」


 大切な人、と聞いて眩暈がする。じゃあ、だったら、俺だったらあるいは、彼女を救えるかもしれない、と思う。
 時間はかかるだろうし、もしうまくいっても彼女が死にたくなるほど悲しい思いをするのもわかる。
 だけどもし奇病が完治したら、それで口にだしても忘れないでいられるなら、新しい未来を彼女が積み重ねてくれるなら、それを彼女が許してくれるなら、いつかそれを過去の話にして幸せになってくれるかもしれない未来があるなら。
 そうじゃないと言い聞かせてきたけれどもう認めよう。俺は彼女が好きだ。
 だったら、彼女のためになら何回だって死んでやる。


「ペットとかではだめみたいなんです、医者としていいたくないけど人間に限定されてるんですよねえ……まったく困った……おっととと、失礼」


 瀬戸口医師の症状は体のどこかに植物が急に生えるもの。
 花に関連する病は結構多く、基本的にそのどれもがなにか代償を支払う。
 例えば、寿命、たとえば記憶、例えば誰かの心を感知してしまう、とかそういうものを。
 瀬戸口医師の症状は予知性花咲症と言って、不特定多数のいつかの未来に関連する花が咲くのだという。
 例えば、桜が生えてくると穏やかな気持ちになるらしく、花見に行ったときにビビッときてそれが一致する、といったような。
 予知夢や既視感に近いものだけどそのどれもに必ず花が咲くという病だ。話だけ聞いていれば美しいのでうらやましいと思ったこともある。


「最近よく顔に出るんですよね、前は肩が多かったんですが。……さて、これは初めて見ましたねえ」


 顔から花を払うと、その手にあったのは鮮やかな紫の花だった。


「……いい花じゃ、なさそうです」


 仕事柄、嫌なものを見ていることもあるだろう。奇病患者の最期は、人の姿でないことも多いと聞く。


「お二人の未来ではないことを祈っています」


 そう言って笑う瀬戸口から色人は目をそらせなかった。







 営業らしさ、とでもいえばいいのか目標を決めてしまえばあとは早い。
 どうやって距離を詰めよう、どうしたら好きになってもらえるだろう。
 デートはどこへ誘えばいい、彼女は何が好きなんだろう。
 もうなにもできないだろうという虚無感に苛まれて生きていた。
 たった一色見えないことが、その自分の視界が何もかもを否定しているような気さえして。 
 もう治らないのであれば、でも彼女のために何かできるのであれば、自分のことなんかどうでもよかった。


「満さん、この日は空いてますか。前にこの写真家好きだって言ってたでしょ」

「え、覚えててくれたんですか? わあ、嬉しい」



 人に好かれるのは難しくない。共通の話題、耳障りのいい話し方、笑顔、はっきり話すこと。先輩社員に言われてきたことを思い出す。
 自分たちには童話症候群という、奇病というだれも立ち入れない共通の話題がある。
 それを認めている自分たちの空間に誰も入ってくることなんかできるわけがない。


「高橋さん、最近なんか……」

「ん?」

「……い、いえ、なんでも。私最近、秘書課で冷やかされるんですよ、誰かさんのせいで」

「それは大変ですね。俺としては願ったりかなったりですけど」

「またそんな言い方! だめですよ、もっとこう、真摯じゃないと!」


 まだだ。まだ駄目だ。
 せめて、名前で呼んでもらうまでは。
 欲が出てきたんじじゃないか、と頭を振って雑念を振り払う。
 動機が不純とは言え好きなものは好きだ。好かれたいし、求められたい。
 もしそうなったらやりたいこともたくさんあって、そんな未来が許されるならきっと彼女と真面目に付き合って、プロポーズをしたりしたかもしれない。
 その先もずっと隣にいることを望んでしまう。
 彼女がいれば、たとえ一色くらい見えなくたってそれを塗りつぶすように世界の彩度は高くなっていくのに、その色さえも彼女はいつかなにかのはずみで一つずつ忘れていってしまう。


「お前、最近なんかおかしくない?」

「そうか? やる気に満ち溢れてるぞ」

「そ・れ・が! しれーっとしたタイプだと思ってたのになんかあったんか」

「やりたいことができた」

「仕事? 愛島さん?」

「自分のことだよ」


 もう少し、もう少しだけ。毎日それを繰り返して、彼女に声をかけ続けて、それを不愉快に思われなければあとはただ好きだと伝え続ければいい。
 近い未来に満を傷つけて悲しませるために彼女を幸せにしようなんて本末転倒もいいところだと思う。
 同じくらい、彼女と一緒に生きていきたいし、それができないくらいなら早く死にたいという二律背反の中を生きている。
 色めき立つ世界のすべてが彼女によって塗られている。
 そのすべてを愛おしいと思って視界に焼き付けるには自分たちは不完全で時間が足りない。
 誰かを愛するって、すごいことだ。
 なのに、満の口に鉄格子でもかぶさっているような気がして、同じくらい何もかもが憎い。
 俺が彼女を救わなきゃ。
 自分で決めた、身勝手な使命を満は許してくれるんだろうか、と明日のデートの待ち合わせ時間を打ち込んで送信した。







「すごく綺麗でしたね」

「そうですね、俺はあれがよかったな、雪とキツネのやつ。満さんなんのポストカード買ったんです?」

「富士山のやつです。ただその、赤富士なので……」

「ああ、うん。見えなかった」


 笑ってそういえば満は気まずげな表情を少しだけやわらげた。
 色人の気分を害したのではないかと思ったのかもしれない。
 色人の目では、この世には見えないものがあまりに多い。マックの看板、ラーメン屋の提灯、プラダのワンピースに、小学生の背中のそれも。神社の鳥居や、信号も、けがをした自分の左手だって満足に見えなかった。
 三原色の基本色である赤が見えないというのは実はけっこう致命的だ。それでも慣れですごしていればなんとなく、それっぽい答えは口にできるようになる。
 ただそんな風にごまかさなくても、満相手ならなにも問題はない。
 それだけで救われたような気がするくらいには。


「少し休憩しましょうか、近くのカフェにでも……」

「あ、あのっ! どうして、私のためにここまでしてくれるんですか」


 数歩後ろで立ち止まった彼女を振り向く。
 ショルダーバッグの肩紐をぎゅうっと握りしめて、先刻やわらいだはずの表情はひどく悲痛な色をしていた。


「私、勘違いします、自惚れます。私をわかってくれる人が、私に好意的なんだって。けど私はそれを返す手段がひとつ足りないんです。みんなができることを私だけができないでいる。なにも言えないから私から言わなくていいって甘えているんです。そんな、わけは……ないってわかってるのに」


 駅から少し離れているとはいえ都内はどこも人が多い。
 まばらに通りすがっていく人たちはこちらに見向きもせず、ポケットに手を突っ込んでいたり、手元に意識を集中させて前も見ない。
 誰も自分たちのことなんて見ていない。気づかれない。それはずっと孤独なのだと思っていた。
 外から見てわかる病気じゃない。誰かに伝染るものでもない。
 だれからも理解されないまま、この世界の終わりまで歩いていかねばならないのかとその歩みを止めそうになったことなど一回二回ではない。お互いに。
 

「どうして、どうしてこんな気持ちにさせるんですか。こんなに言葉にしたいのに、そうした瞬間、私は色人さんを忘れてしまうんです。今ここで叫んでも、数秒後に私たちは他人になってしまう。そんなの、そんなのって」

「満さん」


 泣き出した彼女を、さすがに周囲が何事かと少しだけ目線を投げてくる。
 誰もこちらをみないという当たり前のことさえも孤独だと感じていたのに、彼女がいればそれでいいと思うし、同じくらいこちらを見るなと思う。
 自分のために満が泣いている。それだけでよかった。


「俺だってひとつ足りてない。好きだ好きだと言いながら、俺はそれが見えないままでいる。満さんと同じものが好きなのに、それを共有できないでいる。それはダメなことなんですか?」

「だめじゃないです! そんなわけないです! 私が、私の気持ちに、寄り添ってくれるじゃないですか」

「そのつもりです。だから別に満さんができないことをそんなに責めないでください。あと勘違いじゃないし大いに自惚れてほしいので俺が言います。俺は満さんが好きです。大好きです。満さんが言えない一回を、俺が千回でも二千回でも代わりに言います。俺があなたの声になる。満さんがそれを許してくれるなら」


 溶けたアイシャドウが涙に混ざってきらきらと光る。赤ではないそれを綺麗だと思った。
 彼女の顔に、赤い部分はない。自分と会う日のリップはピンクに変えたと教えてくれた。
 たとえ世界中から色が消えても、彼女の涙が見えるほうが、もっともっと有益だと思う。


「私も、私が口に出せない分、私は色人さんの目になります。それがどういう赤なのか、どう違うのか、何が美しいのかを色人さんに伝えられるように。私が見て、ずっとずっと覚えています。いつかまた見たときに、色人さんが見えたときに、あの日と同じなんですって伝えられるように」


 生きてきて、見えないことに感謝する日が来るなんて思わなかった。
 飾り気のない彼女の手を取って、「愛しています」と口にすれば「私もです」と、やっと満は笑った。
「んで、いつ結婚すんの?」

「気が早い」

「早くねーよ! もう二年付き合っただろ、もういいよ、適齢期だよ俺たち」


 二年間部署移動もなく平和にやってこれたのは色人と涼嶋の業績だけが特に抜きんでてよかったからで、あれから特に仕事は代わり映えしていない。
 満と付き合い始めたとうっかり、本当にうっかり強い酒を飲み、つい酔って、酒の席で大声を出してしまった……というのは冗談として、さすがに秘書課に彼女がいるといえば横恋慕しようという女性は営業や経理にはいないらしかった。


「毎週ノー残業デーはほぼ確でデートしてるもんな。マメだよなあ」

「涼嶋はどうなんだ、工藤愛理と。いやもう涼嶋愛理になったんだったな」

「それまだ言う?」

「先月の話だろ、いまイジらないでいつイジるんだよ」


 仕事は特に変化はないが、私生活にはある程度波があった。
 色人と満が付き合い始めてしばらくしてから涼嶋と愛理も付き合い始めたのだと報告されたときはさすがに因果関係に首を傾げた。
 なんでも色人が話していたことが愛理には筒抜けだったらしいと聞いた時には少しばかりの殺意も芽生えた。
 だからなのかいつの間にか涼嶋も奇病のことを知っていた。満は涼嶋と愛理が連絡をとってることは知らなかったそうだが。
 それでいてさらにサクッと結婚してしまったのだからなにがあるかわからないものだ。


「今日はどこ行くとか決めてんの? そういや愛島さん今日有給とってるから外で待ち合わせすんのか」

「ああ、昼間はお前の嫁さんと会ってたからな。なんか新宿に新しく店ができたとかでそこに行きたいって」


 定時の鐘がなる。さっさと荷物をまとめてパソコンを落として涼嶋と並んでオフィスをあとにする。


「今度二人もうちで飯でも食おうぜ」

「ああ、じゃあ邪魔しようかな。繁忙期が終わればだけど」

「ほんとにそれなんだよな」


 山手線ホームへの階段を上っていく涼嶋に軽く手を振り、色人は中央線へと足早に進む。
 発射間際の高尾行きへ乗り込んで流れる夜景に目線を投げた。
 結局、もう少し、を重ね続けて二年も経ってしまったし今更彼女を置いていくほうが無理だなとさえ思う始末。
 二人とも病状は悪化も改善もせず、いまだに月に一度は瀬戸口と顔を合わせている。
 問題は山積みだし、無いといえば無い。あの日の宣言通り、色人は満の声であるし、満も色人の目であるからだ。
 人ごみを縫って東口改札から地上に出る。ライオン広場にまだ彼女はいない。
 アルタ前の横断歩道の向こう側にそれっぽい人物を見かけて歩道側に歩いていたら視界の右端が大きく曇った。

 刹那。
 キイイッ、ガンッ、ガシャンッ、バリンッ

 たくさんの大きな悲鳴と金属音、ゴムの焦げるにおいがしてあたりが騒然とする。ああ、交通事故だと冷静にしている自分が上から見下ろしているようだった。
 慌てて人ごみをかき分けて前に出る。彼女に似た人影を探す。
 いない、いない、いない。杞憂ならそれでいい、似ただけの他人ならそれでいい。
 呻きながら破片の合間に倒れこむ人や手を貸す人たちの顔を一つずつ確認していく。


「おい! 車の下に女の人がいるぞ!」


 そんなことは、ないはずだと手を貸す数人に交じって自分も車体を押しのける。
 輪郭のぼんやりした車体、つまり赤い車なのだろう。
 同じように、視界のアスファルトの大部分もおなじようにぼんやりとモザイクがかかっている。
 その真ん中で、青いワンピースの女性が倒れこんでいた。
 嘘だ、嘘だ、嘘だ。そんなわけない。
 スーツに血が付くのも構わず、膝をついて彼女を見る。顔の半分が、うまく見えない。


「満、満! 聞こえるか、満!」


 手を取るとまだかすかに温かった。
 頭を打ったのだろうか、かすかなうめき声が聞こえ、それをかき消すようなサイレンが遠くに聞こえる。


「しき、」

「救急車が来るからな、しゃべらなくていい、きっと助かるからだから」

「しきと、さん」

「満、大丈夫だ、大丈夫……」

「わたし、あなたを、あいしています」


 音が消える。どうして今、そんなことを言うんだ。助かるのに、まだこれからがあるのに、いまここで忘れられてしまったら


「満、満? 満!」

「通してください! 関係者の方ですか?」


 真っ白な車体と、救護服を着た隊員たちにやんわりと制止される。
 いつのまにか視界が酷くクリアになってきて、世界の半分が濁っていたんじゃないかと思うほどだった自分の目線の先には横たわった彼女と、その手をとって首を振る救急隊員の姿があった。


「あなたはケガしてませんか、聞こえますか? どこかケガをしていますか?」

「俺は、どこも……満が、彼女が……」


 息を飲む音が聞こえる。
 十数年ぶりに世界の姿を見た。


「あ、あ……あああぁ……ああああああああっ」





 フィルターの外れた世界は残酷なまでに美しく、世界で一番好きな人を彩る色はそれはそれは綺麗な赤色をしていた。
やめてしまいたかった。

やめることも怖かった。

誰もいない世界にしか生きていけなくて

それでも誰かを諦めきれなくて。

こんな最高のバッドエンドさえ

愛してしまうことを許してほしい。


「由那なら僕を、食べてもいいよ」




 北御門 巴 〈人食性症候群〉
 後天的に身体組織が食用に変化する

 美原 由那 〈食性遺伝〉
 母体が大量摂取した食材に体組織が乗っ取られた状態で出生する