「高橋さーん、高橋色人さーん、三番のお部屋へどうぞー」


 看護師に呼ばれ、待合室の椅子から腰を上げる。
 休日診療もやっているけれど、わざわざ有休を使って平日に来るのはそのほうが空いていて主治医と話がしやすいからだ。
 今日だって待合室には自分ともう一人、若い男の子しかいなかった。
 金髪に、ちょっと二度見するくらいのピアスと黒いジャージ。
 高校生くらいだろうか、気の毒にと思いながら部屋に入る。
 よくよく考えれば自分は中学生のときからここに通っているので似たようなものかもしれなかった。


「こんにちは、高橋さん。今月は調子はどうですか」

「いつも通りです。ただ最近は薬が切れると輪郭もわからないですね。書類見てるとちょっと困ります」

「高橋さんの場合はそうかもねえ、どうします、弱いけど一日に複数回飲めるやつのほうがいいですか?」

「どう違うんですか?」


 主治医は瀬戸口という。
 歳は四十代半ばくらいだがもう十年以上の付き合いなので高橋の頭の中の瀬戸口は初めて会った日からあまり変わっていない。
 もう十年も、毎月、ここに来ているんだと否が応でも思わされた。


「治るんですか」

「事例はいまだにないですねえ、まあでもうまく付き合っていけば……」

「治らないなら、もう疲れたんです。考えるのも、生きてるのも」

「気持ちは痛いほどわかるんですけどね、まあそういわずに」


 瀬戸口医師と初めて会った時、まだ三十代だったにも関わらず彼はすでに医師会ではそれなりの立場と発言力を持っていたと後で知った。
 真摯な人だと思う。だからここで、自分の主治医をしてくれているんだろうとも思う。
 この大きな総合病院の中で、つまはじきにされたような西棟の八階で、たった三室しか診断室のないこの科で、二人しか担当医がいないこの科で、あと何人似たような症状の人を抱えているんだろう。
 入院となったら、ここでは足りないからと違う病院へ移される。
 そんな話ももうだいぶ前に聞いた。そこの患者たちからもいまだに相談を持ち掛けられるらしいというのも聞いた。
 医者冥利に尽きるね、なんて笑っていたけれど自分にはそれすらも恐ろしかった。
 彼が若いうちから発言力があったのはここが特殊な科で、日本には数名しか専門医がいなくて、患者のほぼすべてが不治であるからだった。

 奇病科。

 まるでおとぎ話の、どちらかというと呪いのような症状を持つ人間が通う場所。
 それがこの甲堂記念病院だった。







 自分がいつからその奇病に罹患したのかは覚えていない。
 ただぼんやりと今とは違ったなという幼い記憶があるから生まれつきじゃないことだけは確かだった。
 赤い色が好きだった。
 自分が幼いころも、今も、戦隊ヒーローのリーダーはいつだって熱血漢で、優しくて、少しだけおっちょこちょいなくせにどのカラーよりも格好良かった。
 自分もレッドになりたかった。女の子たちの赤いランドセルが少しだけ羨ましかった。
 赤い服が多かった。自分もヒーローになりたかった。
 きっとどんな子供でも一度は思い描くだろうその理想がいつからか自分の首を絞め始めた。
 見えないのだ。
 いや正確には見えなくなったのだ。
 多分小学六年くらいになったころ。
 学校のテストで教師が使う赤ペンの色が認識できないことがまれにあった。
 先生、俺だけどうしてマルがついてないの? と質問をしたら教師は驚いたようにここに点数も書いてあるとプリントの右上を指さした。
 色人には何も見えなかった。先生のいたずら心かと思ったのだ、最初はそれでもよかった。
 いつからか赤だけが、およそ赤に分類される鮮やかなその色だけが自分にはどうしても見えなかった。
 通りすがりの女の子の背中に背負われたランドセルはその姿もなく、すりガラスのような輪郭だけがそこにあって、きらきらとオシャレをしている夜の町の女性ドレスも同じく見えないものだから空中から突如として手足が生えているようで悲鳴をあげたこともある。
 神社の鳥居が、赤富士の絵画が、リンゴジュースのパッケージが、赤いものが認識できなくなっていた。
 最初は眼科へ行った。次は脳外科へ。神経科へ。心療内科へ。
 異常はなさそうですが、と申し訳なさそうに言う医師たちの姿をまだはっきりと覚えている。
 自分は病気かどうかもわからないのかと、平然を装いながら不安に押しつぶされそうになった。
 母に背中を撫でられながら泣き出しそうな気持ちで帰ろうとしたとき心療内科の医師が言った。


 「総合病院に、紹介状を書きますから。ただし君は中を見ないように」


 大通り沿いの総合病院はここらでは一番大きな規模の病院で、私立大学の医学部とくっついていた。自分がここで世話になったのは三歳のときの水疱瘡以来だった。


 「高橋さん、高橋色人さん、八階の南棟のほうへどうぞ」


 三階から上は診察室ではなく入院病棟じゃなかったか、と思いながら足を運ぶ。母も不安そうな顔をしていたが、自分の肩をずっと抱いてくれていた。
 八階にひっそりとある待合室では、健常者にしか見えない何人かの若い男女が思い思いにソファに腰かけていた。
 今思えば、彼らも奇病科の患者なのだがその時の色人は面倒でたらいまわしにされたんじゃないかと勘繰ったものだ。


 「高橋くん、お母さん、僕が今後の担当医になります。瀬戸口です」

 「担当医? いや今日はこの子も私もただの問診のつもりで」

 「ここに来るってことは、もうそういうことなんです。症状は色がうまく見えない、ということで間違いないですね?」

 「はい、だから最初は色覚異常とか視力の問題かそういうのかと思って眼科に行ったんです」

 「異常はないと言われた。間違いないですか?」

 「はい、だから俺もうわけわかんなくて」


 真面目な顔で瀬戸口医師は細かく症状を書き込んでいく。
 自分が今まで言われてきた診断をひとつひとつ思い出して伝えれば、そのたびにうんうんと大きくうなずいてくれた。
 

「きみの症状はきちんと診断名がつくものです。それがいいってわけじゃもちろんないですけどね、安心していいですよ」

「息子は病気なんですか」

「おそらくですが摂色障害でしょうね」

「摂食障害?」

「食事じゃなくてね、拒食とかではなくて色を摂れないと書きます」


 メモパッドに走り書きされた摂色の二文字を見て色人は苦笑した。自分の名前と同じ字を使う診断名なんて皮肉だ。


「色が見えないんじゃない、赤だけが見えないんでしょう。色人くんは赤が好きなんじゃないですか?」

「俺、はい、赤いの好きです、昔から。戦隊ものが好きだったからきっとそのまま」


 筆箱も、タオルも、自転車も、思いつくものは無意識に全部赤だったな、陸上部に入ろうと思ったときもユニフォームが赤だったから格好いいと思ったんだと思い出した。
 中学に入ってから見えない頻度が高くなっていって、いつからか赤い色が視界に入ってくることがなくなっていた。


「色覚障害や単なる視力問題とは違って、摂色障害は特徴があります。診断される人が一番好きな色が見えないっていう症状がでるんです」

「待ってください、それなんなんですか、心理的なやつとかですか」

「いいえ、物理的な病気です」

「ここは、何科なんですか」


 半泣きになりながら母が言った。


「体内にも心にも具体的な異常はない、そんな患者さんのための場所です。一般的にここは、奇病科と呼ばれています」


 奇病という単語で母が泣き崩れた。
 自分はただ茫然とその姿を見つめていた。
 奇病科にくる患者の症状は様々だ。風邪や骨折のような特定の治療法は存在しないし、同じような症状の人間を探すほうが難しいとも言っていた。
 例えば、涙と血液が逆転している人や、触れたものを腐らせてしまう人、嘔吐をすると炎を吐くだとか、他人の感情を感知する度に眼孔から花を咲かす人もいれば、同じく花を咲かすけれどそのたびに記憶を失っていく人もいた。
 重症患者で隔離施設に入院している人の中には体が食用に変化していく、という症状の人もいるという。
 そう考えたら自分は見えないだけで、まだマシなんじゃないかと思えた。
 高校生になったときから一人で通院をしている。
 私生活に支障がないので親にはなんともないとしか伝えられないし、問診のたびに付き合わせるのは母親の精神衛生上よくないと思っていた。
 大学で自分の症状を知っていた奴はいない。
 それはサークルのやつらも学科の友人であっても同じだった。
 いったところでなにも変わらないし、ただ見えないだけなのに言われたって向こうだって戸惑うだけに違いないし、できることなんてなにもないのに。
 今だってそうだ。会社には伝えていない。


「じゃあ今回の薬はこっちにしておきますね、一日多くても五回までを目安にしてください。飲みすぎると良くないですから」

「いつもすみません。先生は、その後どうなんですか」

「僕もいつも通りです。この間なんか背中から生えちゃってちょっと大変でした」


 朗らかに笑って言うが、瀬戸口も奇病に罹患している一人だった。彼は体から何かしらの植物が生えるという症状を患っている。
 今回は楡、その前は蜜柑、その前は石楠花と言っていたか。場所に法則はないそうだ。
 自分がそうだから人を診れたほうがいいと思って、といつだか言っていたのを思い出した。
 花形、エースなんてもてはやされても結局病気から逃げているだけの自分はなんなんだと心臓が痛くなる。


「では来月は十五日ですね、時間はいつも通り?」

「ええ、お願いします」

「あまり思いつめないようにね」

「……そうですね」


 失礼します、と部屋を出る。入れ替わるように先ほどの男の子が呼ばれているのが聞こえた。


「尾端さーん、尾端涙さーん」


 彼はどういう症状を抱えているのだろう。
 すれ違いざまに相手もこちらを見て小さく頭を下げた。見かけほど悪い子ではなさそうだ。
 処方箋を貰い、薬を出してもらって車に戻る。早々に一錠飲み下すと幾分視界がマシになった。
 信号機が見えないのは実際危ない。青も黄色もついてなければ赤なのだとわかるので何とかなっているが薬が切れたときはあまり運転したくないのが本音だった。
 昨日拾った名刺入れを取り出す。見えもしなかったそれがいまはぼんやりと、すりガラスのような輪郭だけを浮かべていた。
 赤の名刺入れ。
 彼女は赤が好きなのだろうか。
 なんとなく力が入らずそのまま数分ぼんやりと過ごす。
 どうやって、彼女を探そうか。色人は週明けのことを考えながら目を閉じた。