やめてしまいたかった。
やめることも怖かった。
誰もいない世界にしか生きていけなくて
それでも誰かを諦めきれなくて。
こんな最高のバッドエンドさえ
愛してしまうことを許してほしい。
「由那なら僕を、食べてもいいよ」
北御門 巴 〈人食性症候群〉
後天的に身体組織が食用に変化する
美原 由那 〈食性遺伝〉
母体が大量摂取した食材に体組織が乗っ取られた状態で出生する
―――由那なら僕を、食べてもいいよ。
僕たちの世界であるこの病室は無菌室と同じだ。防音室でもいい。
窓はある。決して開かない嵌め殺しのものが。水道もある。あちこちパテと何重もの網を重ねて。隙間という隙間を埋めてエアコンにも水道と同じように網をかぶせて、その網の設置面にもパテ、網の中には粘着テープ。
僕たちの世界は「外」から厳重に守られている。文字通りそれは命を脅かすものだ。けど、その存在は誘拐犯でも、凄腕の殺し屋でも、隕石のような超常現象でもない。
虫や、鳥。ネズミ。そういう小さな生き物たちだ。
「ぁいたっ」
「由那!? どうしたの!」
「静電気! ぱちってなった」
「びっくりした……よかった、なんともなくて」
由那の体は果物と同じものでできている。中国に桃娘という乳離れしたら桃しか食べない少女の話があるけれどまさにそれだ。
けど由那の両親が狂気的な人ってわけじゃない。逆に愛情深くて優しい素敵な人たちだ。
由那の奇病は「食性遺伝」と言って、妊娠中の母体が多く摂取したものに体組織を乗っ取られる病気だった。
由那の母親は妊娠中、つわりが酷く固形物をほとんど受け付けなかったという。水だけでは限界があるし、点滴を打っていても絶食では胃によろしくない。岩塩を舐めるとか生卵を飲むとか試行錯誤してある日いくつかの果物なら問題なく食べれることが分かったという。
変わったものじゃない。イチゴ、リンゴ、ナシ、ブドウ、ミカン、メロンのようなどこにでも手に入るもので、どういう体調ならどれが食べられるとかある程度ルールがあったようだ。とはいえあくまでも調子がいい日に食べられるってだけで、風邪をひいたときにプリンならいける……とかと変わらないようだけど。
少しでいい、食べられるものを食べられるときに。妊婦は糖尿病になりやすいのもあるというけど医師と相談しながら適切に、そしてしっかりと果物だけは食べれたそうで。
結果、生まれてきた子の肉体は人間のそれじゃなかった。
食性遺伝は奇病群の中では珍しくないものだ。だから研究もたくさんされていて、体の状態くらいはわかっている。由那の場合、脳はミカンの果肉と変わらず、血液はメロンの果汁と変わらず、肉はイチゴと違わず、爪も髪も垢もすべてが果物でできているのに、血小板のようなものも胃液のようなものも髄液のようなものも作用していて、彼女たちはきちんと「人間」なのだ。
なんでそれで生きていられるのかはよくわからないそうだけど、この病棟にいる人間はみんなそんなものだから一生かかったってわからないかもしれない。僕たちはみんなファンタジーの住人だから。
由那はまだいいかもしれない。過去の食性遺伝の患者は塩とか乳製品とか小麦なんていうのもあったらしいと聞いている。眼球は岩塩、肉はチーズ、脳は小麦の生地、と言われるといよいよ人間か怪しい気になってくる。
それは特に当人たちがそうらしく、皮膚を切ってしまえば当たり前に、同じように、叫びたくなるほど痛いのに、そこからあふれ出る液体は赤くない。
塩水であり、牛乳であり、バッター液であり、果汁なのだ。
そうして童話症候群になった人間はすべからく死を選ぶ。この密室で、首を吊り、腹を裂く。あくまで「人間の姿」で死ぬために。
僕たちは肉をえぐれば見た目は生肉だけど、焼かなくても食べられるようにできている。食感がどうであれ食べられるには違いない。
だからこの部屋の外に出ると、僕たちは瞬く間に小動物に襲われる。当たり前だ。エサが歩いているのだから。
「いたい、なんて言うからかじられたのかと思った」
「由那、この部屋で巴と、みんなと、先生たち以外の生き物みたことないよ」
「僕もない。いや、うーん、見なくていいものだけど」
「ねえ、巴は外でいろいろ見たことがあるんでしょ? いつもみたいに、由那に教えてよ。由那、猫が好きだな! まあるくてふわふわで。本物はあったかいんでしょ?」
「うん、そう。由那も、髪がふわふわであったかいからね、それと同じだよ」
僕と違って由那は生まれてすぐこの病院に連れてこられた。だから16歳なのに、彼女はこの部屋以外の世界を知らない。
彼女は左手の小指がない。ここに移送されるときに、鳩に襲われたからだと由那の母親が言っていた。彼女はそれをとても重い罪だと思っているようだった。当の由那は、生きてるだけでうれしー! お母さんだーいすき! なんて無邪気に笑っているけれど。
病院内を自走する外出用ロボットのカメラを通して院内と施設の敷地内の視覚情報は持っているけどそれだけだ。
野鳥も野良猫も虫も、画面越しに見ることはあってもそれを肉眼で見ることはない。これから先も彼女はここから出られない。なのに、そう、知らないから生きていられるといつも言っている。自分にはここしかないから、ここでなら生きていけると。
だから僕に対してひどく心を痛めている。僕の奇病は後天的なもので由那と病状が似ているが状況が違う。「知っていること」が辛いんじゃないか、と彼女は僕のために泣いてくれた。透明なそれは熟れた匂いを放っていた。涙も、甘いんだろう。
「今日は図鑑を見ようか、ほら新しいのが出たんだって」
「あ、由那この生き物知ってる! いるか、でしょ?」
「そう、よく覚えてたね」
「えへへ」
この感情は、何なのだろうと自分に問うている。
同じ化け物同士、共感か。
年下の女の子への淡い恋なのか。
それとも、はき違えた、食欲、なのかを。
だから僕が由那を殺してしまうようなことがないように、心にいつもとどめている。口に出すことはないけれど、だって由那がいつも同じことを言うから。
僕が君を食べてしまわないように、そう思うのに、由那はにこにこ笑っている。ぼくの気持ちを知りもしないで。
ねえ由那。
おいしそうだね、って言われて不愉快じゃなかったのは由那だけなんだよ。だって僕たちはお互いに「おいしそう」だからね。
だからね、由那なら僕を、食べてもいいよ。
おんなじ部屋に男の子が入院してきたのは由那の12歳の誕生日の次の日だった。
由那は、っていうかここの患者のみんなは入院患者ってなっているけど食事に制限なんかはない。ここは病院といいつつ人間を生かしておくための施設だから、希望を出せば食べたいものが食べられるし、可愛いお洋服を着たっていい。お母さんに頼んだら可愛い雑誌やお化粧品も買ってきてくれるものもある。
勉強だって、外部の先生とガラス越しにやっている。友達は患者のみんなが友達。狭いコミュニティではいじめが起きやすい、っていうけど(魚も水槽に入れるとそうなんだって)ここでは全員が「化け物」だから、世界から取り残された存在だから、そんなつまらないことしない。
だって誰かをどうこう思う暇がない。みんなみんな、早く死にたくて仕方ない。
亜斗くんやたまちゃん、ダリアに大地くんは退院できる可能性があるタイプだ。まあそれも「他よりは多少そう」ってだけだけど。だから将来の夢、とか聞かれることがあるみたい。外の人間って無神経だよね、って言っていた。
由那や巴、まどねぇやあややん……っていうか最初に言った4人以外は退院できる可能性がない。万が一、億が一、兆が一、みたいな、しかも「確率」じゃなく「可能性」レベル。可能性100%がやっと確率1%って感じ。由那たちはその可能性すらないから将来とか大人になったらとかそんな話できない。
未来なんかないこの世界が由那のすべてだ。由那はみんなと違って生まれたときからここにいるから。
美原由那。それが由那の名前。本当だったら小学校とか中学校とか、部活とか、習い事とか、いろんなところで自己紹介したんだと思う。初めまして、美原由那です。由那って呼んでくれたら嬉しいな。そんな言う予定もない自己紹介を、鏡相手に何回も練習していた矢先、巴は来た。
北御門巴。由那より3つ年上の男の子だ。巴は背が高くて、優しくて、雑誌で見た芸能人の男の子みたいに顔がかっこよかった。
緊張しながら、人生で初めての自己紹介をした。初めまして、美原由那です。由那って呼んでくれたら嬉しいな。
あんなに練習したのにちょっと噛んじゃって、初めてだったのにってすこしだけ落ち込んだけど、巴は笑って「僕は北御門巴。僕も巴って呼んでね」なんて慣れた感じで自己紹介してくれた。
巴は中学3年生だったらしい。受験っていう、高校に入れるかどうかの大きなテストを控えていたのにそれがぱあになったって言っていた。
由那は生まれつき奇病患者だから未来のことなんて考えたこともない。ぼんやり生きて、今を過ごしているだけ。まだ死にたいのピークじゃないから生きてるだけ。でも巴は? 巴は将来とか大人になったらとか、そういうのを考えてたのにぜんぶぜんぶ台無しになったの? 病気のせいで? そのころの病棟にはまだみんながみんなはいなかったし、もっと年齢層も高かったから「大人になったら」って話はあんまりしたことがなくて、だから年がちかい巴の「閉じた未来」の話は由那にはすごく衝撃的だった。
だって可哀そうじゃない。由那と違って外のこといろいろ知っているの。これから先それは出来ませんって言われたら絶対絶対辛いじゃん。
巴の症状は「人食性症候群」っていって体が食べられるもの変化していくらしい。由那の体と一緒。前は違ったのに、巴の体はどんどん由那と同じになっていく。それって、すごく、酷いことだと思った。
原因はわからない。どの病気も同じ。だから余計に神様みたいな、運命みたいな実態の無いものを呪わしく思った。どうして由那ひとりで満足してくれないの、どうして巴の未来を閉じちゃったの、どうして巴にそんなことしたの。許せない、許せないよ。巴は大人になって、由那のいない世界で、もっと楽しく生きていくはずだったのに。
泣きながらそんな話をしたら巴は泣いていた。「僕のために泣いてくれるんだね」って巴は言った。当たり前じゃん、だって由那、自分のために泣けないんだもん。
由那が悲しいのはいつも人のこと。お母さん、ごめんね。お父さんもごめんね。由那のせいで悲しいんだよね、かわいそう、ごめんね。そればっかりが由那の「悲しい」のすべて。
入院しなきゃいけないレベルの奇病が生まれつきなのは由那と同じ症状の人だけで、でも由那が5歳の時にしょーごお兄さんは19歳で死んじゃった。別の部屋だったけど、首を吊ったらしい。
しょーごお兄さんの体は砂糖で出来ていた、らしい。あんまり覚えていないのは由那がまだ小さかったから。それでもしょーごお兄さんが教えてくれた『マザー・グース』はまだ覚えてる。俺は男だけど砂糖で出来てるんだよ、って。それがどんなにひどい自虐だったのか当時の由那にはわからなかったけど。
巴や英にいみたいに、後天的に発症して人生の分岐で道を閉ざされた人がいることが許せない。由那だけでいいじゃん、由那が世界中の「悲しい」を全部泣くよ。由那の体は涙じゃなくて、果物だもん。涙が枯れたり、しないもん。
「あのね由那、僕のために泣いてくれてありがとう。でも僕は由那が、僕のために笑ってくれたほうが嬉しいんだよ」
「そうなの?」
「誰かを想う気持ちを持ってる由那は名前の通り美しいよ。だからね、僕を想うなら、僕のために笑ってほしい。そしたら、僕たちはこの部屋で、二人で生きていられるから」
ああ、なら、巴がそういうんだったらそうしようって思ったの。
巴の外の知識を由那に教えてもらおう、そうして二人で苦しもうって。由那は巴のことを半分も理解してあげられないけど、そうやってこの部屋で、二人で生きていていいなら由那にできることはそれしかないから。
そうして生きてきたこの4年間は、由那の人生で一番幸せで一番苦しい。だって外には巴を知ってる人がたくさんいる。この世界で由那を知ってるのは由那の家族とこの病院の人だけ。由那ってなに? 由那はこの世界にいらないんじゃ?
ねえ巴、嫌だよ。耐えられないよ。だって巴が好きだった子とか、巴を好きだった子がいるんでしょ。ずるいよ。由那は好きも嫌いもきちんとわからない、人間未満の生き物なのに。けどそうして巴のために不幸になることが由那はこの上なく幸せだから、今日も巴と並んで図鑑を見て、動画を見て、お話をしようって思うの。はちゃめちゃにしんどいよ。由那、13歳ではじめて死にたいなって思ったもん。
でもね、まだ死ねないんだあ。
だってこんなおいしそうなにおいした巴おいてったら、だれもが巴を食べたいって思いそうでしょ。だからね、由那決めたんだ。
死ぬときは巴に食べたもらおうって。
そしたら巴の体は由那の体で、由那の体も巴になれるって。
ねえ巴、冗談じゃないよ。そうでもしないと、由那、だれかに愛してるって言えない気がするんだ。
「ねえ巴」
―――巴なら、由那の全部を食べてもいいよ。
「おーい、由那、巴、遊びにきたぞー」
「あ、きょーくんとルナっちだ」
消毒室を2つか3つ通ると関係者は病室への行き来が可能なため、患者同士の交流は一般的な病院よりも活発なのがこの第3病棟だ。
とくに今いる患者はここ数年で一番平均年齢が若く、高校生くらいの若者が多いため全員が友人と言っても過言ではないようだった。
今日、1時間後に誰かが死ぬかもしれないこの場所であっても、彼らにとってはそれが日常だから。
「へへへー見てこれ、これ私たちから由那ちゃんにプレゼント!」
「やたら厳重だね、これ。袋何枚重ねてんの?」
「だって俺が触るとそもそもルナがあぶねーし? 二人は俺に触れるけど袋は後で捨てるならルナに持ってもらうしかねーじゃん? で、ルナに持たせて凍ったら壊れるじゃん? っていう厳重装備なわけ」
東院享佑は体液が猛毒である汗毒体質だが、どういうわけか由那や巴の病状には毒性を発揮しない。同行している黒崎ルナは触ったものを凍らせる冷凍指病だが毒は効くため、うっかり何かのはずみでお互いに触らないようにした結果、多少凍っても問題ない程度の梱包でルナが荷物を持っている、ということらしかった。
享佑は毎日特性の手袋をつけているし、特殊なマスクもつけている。ゴム手袋とか不織布だと溶けるんだよな、と笑っているその感情で、素直な笑顔なわけはないとこの病棟の誰もが知っている。
「NEKOBOっていう猫ちゃんロボットなの、本物みたいに鳴いたりするよ」
「にゃおう」
「わっ、すごい! お腹も動いてて息してるみたい!」
「どうしたのこれ」
「あーやが通販で見つけたから買ったんだと、俺はルナの付き添い」
「あーやと円ちゃんは?」
「検査の日なんだよ、外部のな」
享佑の言葉に巴は顔を曇らせる。あーや……日野原あやりはルナの同室、西院円は享佑の同室の患者だ。やはり同年代の。
外部、というのは要は研究者たちが自分たちの肉体を掻っ捌きたくてしょうがない……という好奇心をにじませながら、問診したり皮膚片や唾液や髪を採取するあれのことだ。
一応患者の任意協力での検査ではあるが、任意といいつつ月1度はほとんど義務のようなものになっている。入院費の補助のために仕方なく……というのが正しい。
患者を被検体として見るな、というのを奇病科の医師たちは力強く主張してくれるが外部の「研究者」たちはどこ吹く風だ。人間の心程度はあるのだろうが、ここにいるのは人間とは呼びにくいかもしれない。
「その後体調どう?」
「なんとも。相変わらず食品だよ、二人して」
「まあみんなそうだよな、俺さー最近思うんだけど、奇病の研究したいなら甲種危険物取扱免許くらいあったほうが良いような気がしてきたとこ」
「なら食品衛生責任者とか調理師免許なんかもあったほうがいいね」
「調理師? ああ、巴たちの葬式の話ね」
「そ」
ブラックジョークのようなそれはここでは日常茶飯事で、それはお互いへの嫌味やいじめなんかではなく純然たる事実を軸にした些末な雑談だった。
こういう話をするたびに人間ではなくなっていくような気がして童話症候群はその影を濃くするが、患者同士のコミュニケーションとしては比較的適切な題材だと言えた。第三病棟の担当医師である一貝がそんなふうに言って学会で非難轟々であったのも記憶に新しい。
「巴の火葬かあ、いいにおいしそうだな」
「やっぱ肉が焼けるにおいなのかな? 味は違うかもしれないけど」
「由那は焼こうが煮ようが果物だと思うよぉ、って前に言ってたけどな」
「ああ、由那はそうかもね」
「だろー、俺はどうかな、火葬して煙が有害物質だったらどうしよう」
「……最近は、死にたいと思う?」
猫のおもちゃにはしゃぐ少女ふたりを薄目がちに見つめながら巴は享佑に尋ねる。
軽度の童話症候群でも希死念慮はついて回るが、ここにいる患者は全員がその症状を重篤と判断されている。奇病も、童話症候群も。
泣いた赤鬼、という絵本がある。奇病科の患者はみんな「鬼の気持ちがわかる」という。赤鬼も青鬼も。自分たちは人間ではなくなっている、と誰よりも本人たちがそう思っているからだ。
人間じゃないなら、自分は、何者なのだろう。
「死にたいね、毎日死にたいね。けど巴とか円には生きててほしいなって思ってるから勝手だよな」
「お互い様だろ。僕だって、自分は死にたいのに由那たちには生きてほしいって思う」
童話症候群は医学分類でいえば鬱病に近しいが、鬱とは根本的な症状が異なる。死にたいが、世界のすべてがどうでもいいわけではなくて、当たり前にだれかに生きていてほしい。救いを求めているようなことを言うくせに、自分の救いのすべてをあきらめていて関心がない。
未来の話をされるのは無神経だと思う。
けれどそんな話されたところでどうとも思わない。
自分たちを知りたがる人間たちには、関心もない。
そんな世界で彼らは等しく童話の「悪役」とか「化け物」に成り果てる。だってそういう物語の主人公は総じて人間だからだ。自分たちとは違う、見目麗しい、五体満足の、もしかしたら少しだけ特殊な力はあるかもしれないけれど、それは世界を救う希望のような明るい、優しい、聖なる力であって、自分たちとは対極にあるもの。
「僕はね享佑、由那なら僕を食べてもいいと思ってる」
「ああうん、そんな感じする。俺らも味見したーい」
「だめ、だから、由那のことも、食べないで」
「……ああ、わかってる。なあ巴」
「なに?」
「俺は死んだら天国があったらいいなって思ってる派なんだけどさ、まああるとしてな。死んで“普通”になったらさ、その時もまた友達になろうぜ」
この病棟は、呪いであり、絆だと患者全員が思っている。
この世界で自分と、自分以外の化け物を住まわせる白い箱。自分たちを材料として見ている異質な世界の果て。ここには抑圧があって、自由があって、自分たちはそうしてつながりを維持して生きていられる。
だって、どうしたって、化け物だって、一人はさみしい。
とても、さみしいのだ。
「そうだね、ここに来なきゃ友達になるタイプじゃなかったね」
「うん、だから、俺はまた巴と由那と、円もあーやもルナも英さんも碧も紫陽も牡丹も亜斗も環も絢も涙さんも大地もダリアも、夜鳴先生も一貝先生も、みんなそうやってまた会ったねって話がしたい」
「うん。……大丈夫だよ享佑。僕も、そう思う。心から」
巴のあれは絶対に嘘じゃない、俺の命をかけてもいい。
東院享佑は後に、捜査に来た警察関係者の前で、自分の首に刃物を当てながらそう証言したという。
「由那知ってるんだ、法律だと女の子は16歳、男の子は18歳で結婚できるんだよね」
「そうだよ、よく知ってるね」
「えへへっ、亜斗くんが教えてくれたっ! 亜斗くんいっぱい本読んでるからぜーったい由那より頭いいと思うんだ」
だから、たまちゃんとか涙にぃには謝っても足りないね、と由那は巴に笑って見せた。それを見て巴は同意を示すように頷きながらゆっくりと手元のそれの包装をほどいていく。
2本用意されたそれは、持ち手にピンクと青のリボンが結んであった。由那と巴の色である。誰が決めたとかそういうのはどうでもよくて、性別とかもこの際どうでもよくて、それはただその2本を1対だと示すだけのそういうものだった。
「これ、あーやでしょ」
「うん、猫ちゃんの説明書の中に一緒に入ってた。ルナっちも、きょーくんも、きっと知ってたよ」
昼間のことを思い出す。なんでルナたちが由那にプレゼントを持ってきたか。それは今日が由那の16歳の誕生日だったからだ。
「お母さん、本当は明日来る予定だったの。けど、もういいんだ。そりゃ、由那はさ、いくらでも泣いてあげられるけど、お母さんにはもう涙の残量がないんだもん」
由那の両親が泣かなくなったのはいつだったかと巴は逡巡する。そんなに回数を見たわけではないけど、それでもあの2人はこの病棟に足を運ぶ部外者としては泣かない人らである印象だ。
他の家族はまだ、患者に希望を抱いてそれに縋っている。
本人たちがとっくに捨てている、煌びやかな幻想に。
「……由那。愛してるよ。由那が好きだよ」
「由那も巴がだーいすき、だから、一緒に」
死のうね。
参加者の誰もいない深夜の病室の2人だけの結婚式で、これからの輝かしい未来を誓う口調で、由那はそう言って巴に抱き着いて軽くキスをした。
病棟の、他のメンバーが融通してくれた“2本”。
非力な由那でも持ちやすいよう、持ち手がシリコンのグリップになっていて、月明かりに反射して銀色に光っている。
2人同時にそれを振り上げて、相手の心臓のあたりに突き立てて、切り裂いた。
「……ともえ、いただきます。ゆな、をどうぞ、めしあがれ」
「いただき、ます。ゆなも、残さず、たべてね」
左手薬指におもちゃの指輪をはめて、最初に噛み千切ったのは、相手の心臓だった。
「あーあ。由那も巴も死んじゃった」
なんてことなさそうなトーンで英がそういえば、部屋にいた全員が「ねー」と気のない返事をした。
「やっぱりさあ、やっぱりさあ、ほんとは由那ちゃん自分で指輪選びたかったかなあ」
「……あやりがそこまで考えてくれたかもしれないって、由那も巴もわかってるだろ」
「やめてよ、るいにぃ! そんなん言われたら、なんかちょっと嬉しいじゃん」
医師たちや関係者から見て、この第3病棟の患者の死は珍しくないけれど推奨されたものではないことは確かだ。医療機関は人が死ぬ場所ではあるけれど、ここの目的は現状維持と恢復であって終末医療のそれではない。
けれど患者たちの考えることはおおむね同じで、それは外部の人間には理解できないものだと信じているし、事実そうだった。
この場所で、死にたくない人間はいない。
重篤な童話症候群というのは、そんなに甘く可愛いものじゃない。
あやりがNEKOBOを見つけてきた、ルナが指輪を紛れ込ませておこうといった。英と涙が包丁を手配した。享佑が付き添ってそれを届けに来た。
画面越しに誰もが心の底から、本気で、由那に「誕生日おめでとう」と言った。生まれてきてくれたことも、出会ったことも嬉しいと思っていた。
だから喜んでほしくて、亜斗が「男女は16と18で結婚できるから由那と巴はOKだよ」と教えた。
2人のためにダリアと大地が婚姻届けっぽいイラストを描いた。
牡丹と紫陽は泣いていた。「またね」とだけ言った。
碧と絢は何度も何度も感謝と祝いと愛の言葉を重ねていた。
環だけが、黙って笑っていた。
その患者たちの水面下で行われたやりとりと、目の前の祝祭の空気感に担当医である一貝は眩暈がするといってため息をついた。それでも彼らを非難しないのは一貝だけは、この病棟の内部の狂った箇所を知っていて、それでいて黙って見逃せるからに他ならない。
美原、北御門の両夫妻は泣いていたが、それも久々にみた涙だったけど、どちらかと言えば喜んでいるようだった。関係者の身内ならそうなることも珍しくはない。真偽に価値はないのでこの話はここで終わりである。
「それはそれとして、アタシ、ふたりには生きててほしかった」
「それはまあ、そうだね」
食性の病状が発症している人体の研究はほかの奇病より進んでいるけれどそれでもまだわからないことのほうが多い。痛覚はあるはずだし、組織がつくりが多少違っても、快楽や苦痛を感じる機能、生命維持をしている機能の動きには全く差異がないはずというのが最新の見解である。
にもかかわらず、あの二人の目と、脳と、臓器は空っぽだった。ただひとつ、「胃」以外は。
「はーあ、あの2人らしいよねえ。相手をぜーんぶ食べちゃうなんてさ」
「お互い食べて、一つになって、骨のカゴに胃だけ入れて天国までもっていくんだね」
美原由那と北御門巴の身体は「食べられる」。そんなことはわかっているがどうやって食べるのかは正直よくわかっていない。生きている人間を調理するわけにはいかない。
加えて彼らは修復する無限食糧にはなりえない。食べたら当たり前に質量が減るのだ。
それを、そうしたら食べきれるのか。お互いがお互いをほとんど残すことなく間食していた。
彼らが口にしたのはあくまで人の形をしただけの至高の美味だったに違いない。
「ねー一貝せんせ、あの部屋どうすんの?」
「片づけますよ。遺品は、ご家族が引き取るそうですがきみたちも欲しいものがあればお譲りすると言ってました」
病棟でいかにほかの患者に世話になっているか、を喋りたおしていた由那を思い出した。
全員で目を合わせて、代表してあやりが「NEKOBOは、病棟にいてほしいかな」と言った。
2人消えた、第3病棟。
もうすぐ、冬が来る。