北国の卒業式に、桜の花は咲かない

 そうなのだ。本州最北県にある私たちのまちは、とても冬が長い。だから、どんなに春の訪れが早い年でも、三月上旬――卒業式シーズンに桜が咲くことなんてまずありえない。なんならまだ、桜吹雪のかわりに本物の吹雪が吹き荒れているだろう。
 例え何かの間違いで初恋の子と再会できたとしても、卒業式の日にこの場所で桜を見るなんて、九十九パーセント不可能だ。
 だけど、幽霊くんは真剣な顔を崩さない。
「わかってる、難しいことだって。でも、約束なんだよ。これ果たすまでは、天国に行けねぇし」
 きゅっ、と唇を結ぶ幽霊くん。何かお願いごとをする前みたいな目で、私のことを見てくる。
「なぁ。名前、なんって言うんだ」
「……奈良岡やよい」
 なんだか嫌な予感がするけど、私が逃げるより先に彼は言ってしまった。
「なぁ、やよい。出会えたのも、何かの縁だ。一緒に、卒業式の日にあの子と桜見る方法、一緒に考えてくれねぇ?」
「あー……」
 どうしよう。なんて言って、断ろう。
 だって、絶対無理!初恋がどう、卒業式の桜がどうという以前に、幽霊が成仏する方法を幽霊と一緒に考えるなんて、無理過ぎる!
 こっちが必死に拒否する方法を考えているというのに、幽霊くんは勝手に話を進めている。
「まあ、こんな芝生の上で話するのもなんだし、舟でも乗りながら話さねぇ?あっちに、和舟が出てるっきゃ。あれ、ずっと乗ってみたかったんだけど、一人だと寂しくて――」
「やめて!幽霊と和舟に乗るなんて絶対イヤ!」
 三途の川じゃないんだからさ。
「だいたいあの舟、他のお客さんたちと一緒に乗るやつだよ。あんたの姿は私以外には見えてないし、声も聞こえてないんでしょ。あの舟であんたと会話したら私、一人で喋ってるヤバいやつだと思われちゃうよ」
「そっかぁ。それもそうだなぁ」
 幽霊くんは、「うーん」と考えたあと、ぽんと手を打った。
「んじゃあ、手漕ぎボートはどう?あれは、二人きりで乗れるべ」
「あぁ……」
 そう言えば、大人数で乗る和舟の他に、手漕ぎのボートもあったね。本当は断りたくて断りたくてしょうがないけど、目の前にいるのは幽霊なのだ。今は穏やかに見えるけど、逆上して呪われる、みたいなことがあったらたまらない。拒否しきれないよ……。
「……わかった。いいよ」
「マジで?よっしゃ」
 無邪気にガッツポーズを決める幽霊くん。この瞬間、あたしの「一人でゆっくり桜を堪能する」という計画は、音をたてて崩れ落ちた。
「したら、早速一緒に行こう!」
「待って、その前にさ。君は、名前、何って言うの」
 本人に向かって「幽霊くん」って呼ぶわけにはいかないし。彼は、ちょっと考えてから言った。
「あんまり、生きてた頃の記憶ねぇんだよなぁ。自分の名前も覚えてねぇんだけど……まあ、とりあえず『フネ』って、呼んでくれ」
「フネ?」
 うなずく幽霊くん。いいのか、それで。なんか、どちらかと言うと女性的な響きの名前じゃない?
「なに?生きてたときの名前が、そんな感じだった気がするの?」
 聞いてみると、幽霊くん――フネは目をキラキラさせて笑った。
「ううん。船が、好きだから」
「すげぇ!ボートだ、ボート!」
 手漕ぎボートの上ではしゃぐフネ。フネは(フネのくせに)ボートを漕げないから、私が一人で漕ぐ形になる。当たり前だけど、料金も私が払った。もう、今月のお小遣いほぼなくなったんですけど。
 フネは、ぐいんと身を乗り出して遠くを指さした。
「あっちの水の上に、花びらいっぱい落ちてら。あっちのほう行こう」
「あー、はいはい!わかりました!」
 やけくそみたいな返事をして、私はフネが指さしたほうに向かって漕ぎ始める。
 透明な水面に桜の花びらが敷きつめられる光景には、毎年新鮮にうっとりさせられる。だけど、今はその美しさを楽しんでいる心の余裕がない。
 もうボートに乗り始めて十分はたっているのに、フネは一向に本題に入る気配がない。
 大体、どうすんのよ。幽霊の状態で初恋の人に再会するのも、卒業式の日にあの桜のハートの場所で花が咲いているのを見るのも、どっちか片方だけでも限りなく不可能に等しいのに、何をどう解決しようとしてるんだろう。
「なぁ、やよい、もっと早く漕げねぇの?」
「これでも全力なの!すみませんね、体力なくて」
 思わず大声で言うと、フネは少ししゅんとした。が、すぐに立ち直って聞いて来た。
「やよいは、今日学校行かなくていいの?」
「いいのいいの。サボってんの」
 同じ学校のカップルとか、会ったら気まずいし。それを言ったら、フネはけげんそうな表情になった。
「カップルと会うのが気まずいなら、やよいも彼氏と一緒に来ればいいべや」
「彼氏なんか、いませーん」
 いたら、学校サボってまで一人で公園に来ようだなんて思わないから。
「んだば、友達と一緒に来ればいいのに」
「……う」
 思わず、言葉も、ボートを漕ぐ手も止める。
 きっとこいつは生きてるとき、クラスに話せる子がいないとか、友達の作り方がわからないとか、そういうことで悩んだ経験、一回もないんだろうな。
「そんなこといいから、本題に移ろうよ。フネが成仏する方法、考えよう」
 こくっ、とうなずくフネ。
 さぁ、「考えよう」とは言ってみたものの、一体どうするべきか全く思いつかないんだけど。
「まずは、あれだ。三月上旬に、弘前公園で桜を見る方法」
 これは、正直頑張ればどうにかなるんじゃないかと思う。なぜって、弘前公園の桜が咲く時期は、年を重ねるごとにどんどん早くなっているからだ。
 もとは、弘前の桜はゴールデンウィークのあたりで満開を迎えていたものらしい。だけど、最近は早いと四月中旬に満開を迎えてしまい、ゴールデンウィークの頃には葉桜になることもしばしば。今も、さくらまつりの前なのにほぼ満開と言っていい状態だ。
 気候の変化を十年とか百年とか辛抱強く待ち続けていたら、三月上旬の桜を見られる日がいつか来るんじゃないか。
「まあ、一番手っ取り早いのは、百年くらい待つことかな」
 あんたは幽霊だから、それくらい待てるでしょう。でも、フネは眉間にしわを寄せた。
「でも、百年後ってば、俺の初恋の人、死んじゃってんじゃないの?俺、生きてるあの子に会いてぇんだけど」
「あぁ……」
 そっか。百年後となれば、フネは大丈夫でも、相手が死んじゃってる可能性が高いんだ。
「んー、じゃあ、暖かい地域から桜をとってきて弘前公園に持ち込んで、桜のハートの下で見る!」
「新幹線の中で、枯れるって。というか、桜、勝手にとればダメだべ」
 うぁー!それはそうだけど、そんなに簡単に却下しないでよ。こっちは必死で考えてやってんのに!
「まずさ、その初恋の人ってのが誰なのか教えてもらっていい?」
 桜だなんだって言えばややこしいけど、初恋の人と無事再会を果たせたら、案外それだけで満足して成仏できるかもしれなくない?だけど、フネは首をちょっと傾げて言った。
「ん?分かんねぇ」
「ちょっと待てい!」
 危うく、ボートから落ちるところだった。一体、何を言ってるんだこの人……いや、このお化け。
「なに。今も、好きなんだべ。『分かんねぇ』って、どういうこと?」
 強めのトーンで聞くと、フネはケロッとして答えた。
「だって、覚えてねぇんだもん、顔も名前も年齢も。ただ、その子と『卒業式の日一緒に桜を見る』って約束したことはちゃんと覚えてんだ。それに、『大好き』って気持ちはずっと消えなくて」
 どういう感覚なんだろう。誰かも分からない人のことが、今も好きって、なんだ……?
「年齢もわかんないって……あれ?」
 そう言えば。私は、恐る恐る聞く。
「フネは、生きてたら何歳なの?」
 高校生の姿の幽霊ってことは、亡くなったときに高校生だったってことなんじゃないだろうか。だとすれば、確実に生きている場合の実年齢は私よりも上ということになる。バリバリため口聞いちゃってたけど、大丈夫なんだろうか。
 この質問にも、フネは首を傾げる。
「それも、わかんねぇ。ただ、今は、この姿でいるのが一番しっくりくる気がするからさ」
「あ、そんな簡単に、好きな姿になれるの?」
「うん。ただ、元の顔のつくりとか体型は変えられねぇ。年齢くらいなら自由自在に操作できる」
 へぇ……そんなもんなんだ。なんだか、羨ましい。
 年齢を操作できるなら、私は幼稚園くらいまで戻りたい。あのくらいの年齢のときが、友達もいて一番楽しかった気がするし。
 その後は、他愛もない話をしてしまった。今年は外国からのお客さんが随分多いねとか、お化け屋敷とはまた違う小屋から悲鳴が聞こえてきたんだけどあの小屋はなんなんだべね、とか。なぜかついさっき知り合ったとは思えないくらい話が弾んで、あっという間に時間が過ぎた。
「あれ、そろそろ、戻らないとダメな時間じゃねぇ?」
 フネに言われ、スマホで時間を確認してハッとする。そろそろボート、返さなきゃいけない時間じゃん!
「まずい!もう、戻らなきゃ」
 急いでボートを漕いで、ボート置き場に着く。無事、辿り着けて良かった。
「あー、楽しかった!」
 うーんと気持ちよさそうに伸びをするフネは、もうこの世にいない人には見えなかった。
「結局、なんにも話進展してませんけど、大丈夫?」
 聞くと、フネは大きく頷いた。
「なんも、楽しかったからいいんだ」
 言った後で、フネはちょっと寂しそうな顔になって言った。
「急に話しかけて、ごめんな。でも、本当に楽しかった。ありがとう」
 嬉しそうな笑顔でフネが言ったとたん、フネの輪郭がぼやけ始めた。その体が、徐々に透けていく。
「え?」
 ちょっと待ってよ、何?一つも解決してないのに、まさか、成仏するの?
「え、フネ、ちょっと待っ……」
 私が言い終わるより先に、その姿が春の景色の中にすうっと消えて行く。
 あたしは、しばらくはその場に立ち尽くし、ほとんど独り言みたいに言った。
「……変な夢だったなあ」
 次の日学校に行くと、廊下ですれ違った担任の先生に聞かれた。
「奈良岡さん、昨日はどうしたの?」
「あー……ちょっと、体調不良で」
 実際、体調不良だったのかもしれない。あんな、変な幻覚を見るなんて。
「休むときはちゃんと、保護者の方を通じて連絡ちょうだいね」
「……はーい」
 深く聞くつもりはないらしく、さっさと職員室の方に行ってしまう先生。私はあくびを噛み殺し、重い足取りで教室に向かう。
 私が教室に入っても、誰も反応を示さない。息を殺すようにして席に着くと、私は黙々とリュックの中身を机に入れ始める。一時間目は数学だから、数学の道具だけ出しておかないとな。
「それで体育のときにさー……」
「んだの?二人、付き合ってたんだ!」
「今さら!?やば!」
 一人ぼっちの私の周りで、きらきらした声が飛び交う。みんな、楽しそうだ。
 みんなは、楽しそうだな――。
 そんなつもりはなかったのに、小さくため息を吐いてしまった。別に、これまでの人生で一人も友達ができたことがないわけじゃない。だけど、人見知りをこじらせた私は、小中の知り合いがほとんどいないこの高校で独りぼっちになってしまった。
 考えてみれば一年生のとき、人に話しかけるタイミングがわからずに、誰にも「お昼一緒に食べてもいい?」って言えなかったことが発端かもしれない。最初の一歩を間違えると、そのあとの全部が崩れるものだと知った。そりゃ、英語の授業のペアワークとか、事務的なこととか、必要最低限の会話ならする。でも、休み時間の雑談になった途端、私は急に広い宇宙に一人放り出されたみたいに、みんなの輪から外れてしまう。
 今、教室の後ろのほうで一緒にスマホの画面をのぞき込んでいる古川(こがわ)さんと三上(みかみ)さんは、一年生のとき一瞬委員会活動が一緒だったことがあるし、いくらかは話しかけやすい。でも、今さら完成された二人の世界に入りこんでいこうとしたって、迷惑なだけだと思う。
 今私が悩むべきなのは受験とか進路のことであって、「友達が作れない」なんて小学生じみた悩みからは卒業しなきゃいけないのはわかってる。だけど、みんなが当たり前に通過してきた青春というゲートを自分だけくぐれなかったから、私はこんなところで立ち尽くしてる。
 修学旅行の自主研、あまりものみたいに他のグループに入れてもらうんじゃなくて、自分が本当に仲のいい子たちと一緒になりたかったな。放課後友達とカラオケ、なんて贅沢は言わないから、せめて誰かと学食で騒いでみたかったな。
 そして一回でいいから、大好きな弘前公園の桜を、仲のいい友達と一緒に楽しんでみたかったな。
 きっと私は一年後、この虚しさだけ抱いて学び舎を出ていく。
 急に、頭の中に昨日桜のハートの下で見た、幽霊の男の子の顔が浮かんだ。
 いや、「見て」はないと思う。多分、「友達がほしいな」って思いをこじらせた私の心が創り出した幻想だろう。そんなこと、分かってる。
 分かってるのに、考えてしまう。
 あいつは、生きてるときどんな子だったのかな。あのまんまの天真爛漫な性格だったとしたら、きっとたくさん友達がいたに違いない。
 そして、ああいう子がクラスにいたら、私は、独りぼっちじゃなかったのかもしれない。
 そう思ったとき、急に胸に寂しさやら虚しさやらが舞い落ちてきて、急に目頭が熱くなった。
 わけの分からないヤツだった。急に目の前に現れて、「俺が成仏する方法を一緒に考えろ」だのなんだのって言って、人にボートを漕がせてさ。
 でも、多分私、ちょっと楽しかった。初めて会った誰かと友達みたいに話せたことが、嬉しかったんだよな――。
 鼻の奥がつんとして、机に伏せた。
 どうせ、私が今ここで涙を流したって、誰も気に留めない。
 期待なんか、してない。
 また、会えるなんて思ってない。というか、本当に「フネ」が存在したとすら、思ってない。
 だけど、放課後私の足は、勝手に弘前公園のあの場所に向かってしまった。
 あの、桜のハートの場所に。
 今日は午後だから、制服姿の高校生もたくさんいる。一人でいるのが気まずくて、背中を丸めながら歩いた。こんな俯いて歩くくらいなら、来なきゃよかったのに。それでも、どうしてもこのまま家に帰る気にはなれなかった。
 たくさんの人が集まっている桜のハートを、少し遠くから見つめる。桜の花々は昨日以上にボリュームを増して、辺り一面が春の息吹に満ち溢れていた。自嘲的な笑みが零れる。
 バカみたいだ。こんな生命力がいっぱいのところに、幽霊なんか現れるわけないのに――。
「やよい?」
 急に自分の名前が耳に入って、ハッとして顔をあげた。
 目の前にある彼の顔を見て、思わず息をのむ。
「やよい、また来てくれたのかぁ」
 嬉しそうな笑顔で言う制服姿の彼の体は、ほんのり透けていた。
「フネ!」
 思わず大きな声を出した。みんなが一瞬驚いたような気がしてこっちを見たから、慌てて手で口を塞ぐ。まずいまずい。またもや、誰もいない空間に向かって叫ぶヤバい女子高生になっちゃった。
 フネは、私の心が創り出した幻想。ついさっきまでそんな風に思っていたくせに、いざフネを目の前にすると、不思議なくらい彼が存在している現実をスッと受け入れてしまう。私は、ひそひそ話みたいに小さな声で言った。
「フネ、成仏したんじゃなかったの?」
「成仏なんて、できてねぇよ。だって、なんも未練、消えてねぇもん」
「だって昨日、すぅって消えたっきゃ」
「なんか、桜のハートの場所から長時間離れると、完全に透明になっちゃうんだよな。でも、姿が見えなくなっただけで、消えたわけではねぇから」
 じゃあ、成仏さえしなければ、またいつでもここで会えるってこと? 
 聞こうと喉を開いた瞬間、急に鼻の奥がつんとした。ヤバい、このまま喋ったら、泣く。私が黙り込んでいると、フネのほうから聞いてきた。
「やよい、俺に会いたかったの?」
「……んん」
 素直になれなくて、うん、とも、ううん、ともつかない声を出す。
「はは。まあ、あっちの山でも見ながら、ゆっくり喋ろう」
 フネが指さしたほうを向くと、まだほんのり雪化粧をした津軽富士が、水色に輝いていた。
 桜のハートの周りは、たくさん人がいてゆっくり話が出来る雰囲気じゃない。そうだね。のんびり、山を眺めながら話す方がいいね。
 私たちは、山がよく見える位置に二人並んだ。フネは、きらきらした目で山頂を見ながら言う。
「天国みたいにきれいだなぁ。俺、成仏したら次の人生まであそこで過ごしてぇ」
「でも、寒そうじゃない?」
 言ってから、ああ、フネは寒さとか感じないのか、と思った。
「てか、何か思い出した?初恋の人に関すること」
「うーうん。なんも」
 フネは、苦笑いして言った。
「自分のことも、初恋の人のことも、なーんも思い出せねぇ。桜問題も解決しねぇし。でも、やよいと喋るの楽しくて、どうでも良くなってきた」
 くくく、と本当に楽しそうに笑うフネ。でも、そのあとで少し不安そうに聞いた。
「でも、やよいは他の友達との遊びの約束とかもあるべ?俺のところに来て、平気?」
「……大丈夫だよ、別に」
 私は、もう開き直ることにした。幽霊相手に見栄を張る必要はないし。
「私、一人も友達いないからさ」
 フネの目が、くるっと丸くなった。
「高校に入ってから、友達っていう友達が一人もできてないの。人見知りだし、コミュ症だし。きっと卒業までどうせこのままだよ」
「でも……卒業までって、あと何か月もあるべ。それまでに、友達作ればいいべな」
「そんな簡単に行かないよ……もう遅いんだよ。ダメなんだよ」
 私が友達ほしくても、私と友達になりたい子なんてどうせ一人もいないんだし、無理。
「なんも、うまくいかない、私の人生」
 進路のことだって何一つ考えれてないし、もう、私、ダメなんだよ。
 苦笑いでフネの顔を見ると、思いのほか真剣な表情をしていた。安い同情でも哀れみでもない、ただまっすぐな顔でフネは言った。
「やよいは、なんもダメじゃないよ。そんな簡単に自分の人生を見限るなよ。もう遅い、なんてことねぇよ」
「……あるよ」
 唇を尖らせると、フネはちょっと笑って、優しい声で言った。
「ねぇって。だって、俺と違って、やよいの姿はみんなに見えてるんだから」
 どきっ、とする。
 フネはもしかして、私以外の子にも話しかけたことがあるのかな。だけど、自分の姿が誰にも見えなくて、無視されて、寂しかったりしたのかな――。
「あれ?」
 フネが急に振り返って遠くの道を見たので、自然と一緒に振り返った。フネは、呑気に言った。
「あの人たち、やよいと同じ制服着てねぇ?」
「ちょ、ちょ、ちょっと待って」
 私は、慌ててフネの後ろに回り込んで隠れようとする。まあ、フネの姿は私以外に見えてないから無駄な抵抗なんだけど。
「なに、なぁしたの、やよい」
 呑気に言うフネ。私は、小声で言う。
「……向こうに、クラスメイトがいる」
「え?友達?」
「全然、友達でねぇって。友達いないんだって。ただのクラスメイトだよ」
 視線の先にいたのは、古川さんと三上さんだ。一年生のとき、同じ委員会だった例の二人。二人並んでチーズハットグを持ち、歩いている。
 フネは、急に目を輝かせて、私の背中を押した。いや、実際は触れられてないから、背中を押す仕草をしただけだけど。
「行って、話しかけろって。友達になる、チャンスだべ」
「へっ?いや、ありえないでしょ!」
 二人にとって私は、「クラスメイトB」いや、「D」くらいの存在だと思う。仲良し同士で歩いているところに、突然昔少し喋ったことがあるだけのモブキャラみたいなクラスメイトが突撃して来たら、怖いでしょ。
 だけど、フネはのんびりとした調子で言い続ける。
「なにやぁ。せっかく桜咲いてるし、美味しい出店もあるし、なんぼでも話題もあるし、案外大丈夫だって」
「で、でも……」
 無理だよ、そんな。どうしたらいいか分からず泣き出しそうになる私に、フネはくしゃっと笑ってみせた。
「もしうまくいかなかったら俺が慰めるから、なんも心配しないで行って来いって」
 心が、とくっ、と跳ねる。その笑顔は、あまりにも眩しかった。
「やよい、頑張れ」
 ほら行け、ともう一度背中を押され、突き動かされるように一歩踏み出した。もう既に遠ざかっていく古川さんたちを、小走りで追いかける。
 どうしよう。完全に快速見切り発車ライナーなんだけど、最初はなんって言ったらいいの?なんて声かけるのが正解?
 分からないまま、距離だけがどんどん縮まっていく。
 どうしよう、どうしよう、どうしよう――。
 頭の中が真っ白になりかけたそのとき、突然、かかとが地面に転がっていた石の上で滑った。
「うわぁ!」
 瞬間、世界が反転する。気づいたときには、思いっきり地面にダイブしていた。
 ウソ。コケた――。
 どこからか、あはは、と笑い声が聞こえる。恥ずかしさで、顔と耳の後ろが熱い。
 何やってんだよ、私――。
 半泣きで顔を上げたとき、目の前で、スカートが揺れた。
「え、奈良岡ちゃんだよね。大丈夫?」
 もっと顔をあげて、思わず「あっ」と声を出す。古川さんと三上さんが、心配そうに私を見ていた。
「うわ、え、えっと、大丈夫!ぜんっぜん、大丈夫!」
 私はスカートについた土や桜の花びらを慌てて落とし、どうにか笑顔を見せた。幸い、どこかが擦りむけて血が出たり、打撲のあとがついたりはしてない。
 ただ、顔が真っ赤っかだよ……。
 立てる?と古川さんに手を差し伸べられたので、ありがたくその手を握って立ち上がる。おろおろしている私に、三上さんが優しい声で聞いた。
「奈良岡ちゃんも、弘前城見に来てたの?」
「え?あ、いや……城っていうより、桜を」
 桜、っていうより霊を。言いかけて、慌てて喉の奥に引っ込める。かわりに、私は二人が持っているチーズハットグを見ながら言った。
「なんか……それ、美味しそうだね」
 「あ、これ?」と、古川さんが出店のほうを指さした。
「これ、向こうに売ってるよ?」
「あ、そ、そうなんだ」
 ありがと、と言いかけると、古川さんが明るい笑顔で言った。
「私たち、ちょうどもう一回出店のほうに戻ろうとしてたところなんだ。案内しようか?」
「え……いいの?」
 恐る恐る聞くと、二人は「いいのいいの!」と微笑んでくれた。ちらっと真横を見ると、いつのまにかついてきていたフネが、嬉しそうにグッと親指を立てていた。
 なんか……慰めてもらわなくても、大丈夫そうみたいだよ。
 出店のほうに向かって三人(+一幽霊)で歩きながら、私は聞いた。
「二人は、普通に、桜見に来てたの……かな?」
 聞くと、三上さんが首を横に振った。
「ううん。あたしたちが見に来たのは、弘前城」
「え?……城?」
「ま、聖地巡礼ってやつかな」
 なんだか早口になって説明し始める二人。圧倒されたけど、要約するとこういうことだった。
 全国のお城を擬人化したアニメ「城★男子」に、孤高の津軽弁イケメン「弘前城」ってのが出てくる。アニメのオープニング映像に桜の季節の弘前城が映るから、改めてちゃんと実物を見てみたかった。
「奈良岡ちゃんもさ、見てみなよ。絶対ハマるし、日本史の勉強にもなると思うよ」
 身を乗り出して言う古川さん。思わず笑顔がぎこちなくなるけど、二人はまったく気にしている風はない。
「ほんとに、こんな身近に『弘前城』がいるなんて恵まれすぎですよねあたしたち」
 三上さんが言うと、古川さんはべっ甲メガネの奥の目をきらっと光らせた。
「まあ、推しは『島原城』なんだけどね。本気で考え始めてるよ、長崎の大学への進学」
「へ、へぇ……」
 想像以上に独特な楽しみ方をしていた二人だけど、せっかく進めてもらったんだし、家に帰ったらちょっと調べてみるか、「城★男子」。
「孤高の津軽弁イケメンって、俺のことだべか」
 横でなんかほざいてる霊がいるけど、スルーだ、スルー。
 その後、私は二人が持っているのと同じチーズハットグを買い、二人も追加でお団子を買って、私たちは三人でベンチに座った。そしてまた、美味しいものを食べながら、他愛もない話をする。思いのほか盛り上がって、楽しかった。話してみて、初めて気が合うことが分かった。
 最後、私は勢いのままに言ってみた。
「……明日とかさ、お昼一緒にお弁当食べていい?」
 返事を待つ間も与えず、古川さんが食い気味に言う。
「え、全然いいよー!」
「でもマジで、オタクトークしかしてないけどそれでもよければ」
「あ、ありがとう……!」
 よかったぁ……!
 横を見ると、桜のハートから離れたせいで少し輪郭が薄くなり始めているフネが、胸の前でパチパチと嬉しそうに手をたたいていた。私は古川さんたちにバレないよう、グッと親指を立てて見せる。
「ってな感じで、もう毎日大盛り上がりだよ!」
 テンションマックスで話す私を見る、フネの瞳は温かい。
 フネと出会った日から、二週間、一か月と時間が経った。桜はほとんど散って、若い緑色が公園に広がる時期。桜が散ると桜のハートの下に集まる人も減り、私たちはこの場所でのんびり話せるようになった。今だって、一時間くらい話している。
 ちなみに、今日は学校をサボってはいない。トュデイ、イズ、土曜日。
「んでも、まさか俺も、やよいがあそこまであの子たちと仲良くなるとは思わねがったよ」
「いや、私も予想外だよ。……ってか、『城★男子』にあそこまでハマってまったのが予想外……」
 古川ちゃんたちに布教され、私はまんまと「城★男子」にハマってしまった。受験生だってのにマンガを揃え始めちゃうし、隙あらばSNSに流れているファンアートを見ちゃうし、本当にけしからんよね。でも、楽しすぎ。
 今さらクラスメイトに話しかけるなんて絶対無理なんて思っていたけど、思い切って一歩を踏み出してみれば、世界は私が思っていたよりずっと優しかった。フネに背中を押してもらったこと、心から感謝してる。
 だけど、お礼を渡すこともなにかおごることもできないから、せめてフネのお陰で得られた幸せをちゃんと全部報告したい。なんだかんだ私は、二日に一回くらいのペースでここに来ている。本当はそろそろ受験勉強を本格的に始めるべき時期なんだろうけど……もうちょっと、初めてのアオハルをゆっくり堪能させてほしい。
「私も、『島原城』推しになっちゃってさぁ。受験終わったら、三人で長崎に旅行に行こうかって喋ってんだ。まあ、三上ちゃんは普通に『弘前城』推しらしいけどね」
「んだか。良かったなぁ」
 フネは、自分のことのように嬉しそうに笑う。きゅっと目を細めた顔が、なんか可愛い。
 最近は、私たちの会話の中に「成仏」とか「卒業」とかいうワードは、出てこない。多分、お互いに別れを意味する言葉を無意識に避けてるのかもしれない。
 本当は、ちゃんと成仏するのがフネにとって幸せな道なんだと思う。成仏しないってことはいつまでもこの世に留まっているってことで、生まれ変わって次の人生を歩み始めることが出来ないってことだ。フネは次の人生を歩みたかった。だから、自分の姿が見える私に、「一緒に成仏する方法を考えてくれ」ってすがったんだろう。私には、その気持ちに精いっぱい応えて、フネが大好きな人と桜を見るのを見届ける義務があるのかもしれない。
 でも――辛すぎる、そんなの。
 フネは、恩人だ。ひとりぼっちの私に、笑顔で声をかけてくれた。ときには優しく、ときには頼もしい言葉で励ましてくれた。そして、諦めかけていた青春をつかみ取るチャンスをくれた。つい一か月前に出会ったとは思えないほど、隣にいて安らぐ存在。二度と会えなくなるなんて、そんなの耐えられない。
 真横にいるフネの横顔は本当に綺麗で、見ていると心がきゅうっとする。
 ねえ、どこにも行かないでよ。
「好きだな」
「え?」
 フネが、首を傾げた。私だって、なんの前触れもなく口から出たセリフにびっくりしている。
 フネのこと、好きだ、私。一人の男の子として、心の底から好きだ。
 フネに片思いされてる子が、フネをこの世に引き留めている誰かのことが、羨ましくてたまらない。
 ずっとこのまま何も考えずに、頭を空っぽにして一緒にいようよ。
「好きって、なにが?」
「いや。『島原城』が」
 誤魔化して前を向くと、フネはふふんと笑って私の顔を覗き込んできた。
「ちなみにだけど、やよいの初恋の人は、どんな人なの?」
「えー?私の初恋?」
 初恋って、一般的にはどのくらいの年齢にするものなんだろう。小三くらい、とか?だけど、小三の記憶を辿っても、誰の顔も浮かんでこない。
 今目の前にいる、フネのことしか見えないよ。
「うーん……忘れちゃったなぁ」
「そうかぁ。初恋の思い出なんて、脆いもんだなぁ」
 どこか寂しそうに言うフネ。
「でも、フネだって初恋の人が誰か、覚えてないんでしょ?」
「まあなー」
 二人で顔を見合わせて、にっこりする。いつまでも二人の時間が続かないことは分かってるけど、束の間の幸せに心を浸して笑っていたい。
 ハートを形作る緑の葉が、ゆらゆら揺らいでいた。
 時は流れ、夏休みを迎えた。
 まだ、フネとの交流は続いていた。外にいるだけで汗ばむ季節になっても、フネと一緒にいるのは楽しかった。
 ただ一つ気がかりなのは、フネが時折出会った頃にはしなかったような悲しそうで、優しい顔をすることだ。特に、別れ際。
 あまりにもわかりやすく泣きそうな表情だから、私の気のせいではないと断言できる。でも、「どうしたの?」って聞く勇気が出ないままいよいよ夏まで来てしまった。
 悩みの種はフネのことだけじゃない、自分のこともだ。いよいよ、進路のことがはっきりしていない自分に、焦りを覚え始める時期。もう、AO選抜で受験する子は、出願に向けて本格的に動き始めている。
 なんとなく人文学系のところに行きたいとは思うけど、志望校はまだちゃんと決まっていない。ぼちぼち三者面談もあるし、何も考えていないのが露呈したらさすがに怒られそうだ。本当に、憂鬱。
 そんなときでも、フネの顔を見れば嫌なことを忘れることができた。桜のハートの下は唯一のやすらぎの場だ。
 今日も、フネはいつも通り透けて、でも確かにそこにいた。私が手を振ると、思い切り振り返してくれる。
「あーあ、三者面談憂鬱だなぁ」
 思わず、本音を漏らす。なんでや、と笑うフネの隣に腰掛けて、私は正直に話した。まだ、志望校がちゃんと固まっていないこと。そもそも、勉強にすらまだちゃんと身が入っていないこと。こんなの親や先生に言ったら頭ごなしに怒られるだけだし、真剣に勉強している古川ちゃんたちに愚痴っても呆れられると思う。だから、フネにしか言えない。フネならいつも、「んだかぁ」ってのんびりした調子で受け止めてくれるし。それが、すごく落ち着くんだよね。
 だけど、フネは意外なくらい驚いた声を出した。
「え?進路のこと、そんなになんも考えてねえの?」
「あ……まあ、うん」
 戸惑った。ほんわかとした笑顔で「まあ、どうにかなるべ」と言ってもらえるものだとばかり、思っていた。
 でも、フネの口調はちょっとずつ厳しいものになっていく。
「大事な、未来のことだべ。やよい、将来はなにになりてぇの?」
「そんなの、まだ分かんないよ。行きたい大学すら、決まってないって言ったべ」
「……いや。まずいべ、さすがに。そろそろ、真剣に考えねぇば」
 ドキッとする。進路のこと真剣に考えろなんて、周りの大人からしつこいくらい何度も言われていることだ。
 でもまさか、フネに言われるとは思わなかった。予想外に痛いところを突かれた刺激が、だんだん、怒りに変わった。
「うるさいなぁ。こっちだって、色々悩んでるんだよ」
 思いのほか、尖った声が出た。私は、そんなお説教みたいなのが聞きたくて、ここに来たわけじゃない。
 フネは、怒って言い返したりはしなかった。そのかわり、少しだけ俯き加減になった。
「……俺のせいだ」
 その声が、少しだけ揺れていた。
「え?」
 なに?俺のせいって、どういうこと?
「分かってた。本当は、桜が散った頃から思ってた。やよいは俺なんかと一緒にいるべきじゃないって」
「なんで、そんなこと言うの?」
 思わず、尖った声を出した。
 だって私、楽しくて幸せだったんだよずっと。フネだって、そうじゃないの?
 だけど、フネは下を見たまま言った。
「だってやよいには未来があるから。だから、もういない俺なんかと一緒にいるより、同じ未来に向かう友達を大事にして、自分の未来を考えることに時間を費やすほうがいいんだ……分かってたんだ、本当は」
 フネは、唇を噛んだ。
「でも、夢みたいに楽しいから。やよいと喋ってる時間が楽しすぎて、『もう、俺のとこに来ないほうがいい』って、言い出せなかった……ずっと」
 フネの声は、少し涙声みたいにくぐもっていた。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
 そんなこと言わないでよ。私だって、幸せなのに。
 フネは、悲しそうな瞳に渡しを映して言う。
「もう、会うのやめにしようか」
「え……?」
 なんで。嫌だよ。叫びたいのに、喉がつっかえたように、言葉が出てこない。
 フネは、一人で勝手に声を震わせている。
「今までごめん。もう、やよいは、やよいの未来のことだけ考えて。俺のことは、忘れて」
「お願い。落ち着いて、ちょっと待ってよ。まだ、何にも考えれてないじゃん。フネが成仏する方法だってーー」
 そこまで言って、黙る。普段はあんなに成仏の話は避けているくせに、もう会えなくなるかもしれないと思った瞬間切り札みたいにその話をする自分が、愚かに思えた。
 だけど、切り札にもフネは動じない。
「大丈夫。成仏の方法は、もう、自分でちゃんと考えるから」
 フネがそう言った瞬間、強い風が吹いて砂が舞った。突然のことに目を閉じ、もう一度目を開けたら、もう彼はそこにいなかった。
「フネ!」
 誰もいない桜のハートに向かって、私はその名を叫ぶ。そして、思いっきり頭を下げた。
「ごめん。感情的になって、怒って、ごめんね。顔、見せてよ」
 あたりは、しんとしていた。犬の散歩をしているおじいさんだけが、遠くに見えた。
 フネは、姿を現さない。
「フネ、私、ちゃんと考えるよ進路のこと。これからもっと、自分の将来と真剣に向き合うって約束する。だから、お願い。声聞かせて」
 再び風が、木の枝を揺らした。でも、それ以外、何も起きない。
 ――やっぱりこれは、長い、夢だったのだろうか。