北国の卒業式に、桜の花は咲かない

「ってな感じで、もう毎日大盛り上がりだよ!」
 テンションマックスで話す私を見る、フネの瞳は温かい。
 フネと出会った日から、二週間、一か月と時間が経った。桜はほとんど散って、若い緑色が公園に広がる時期。桜が散ると桜のハートの下に集まる人も減り、私たちはこの場所でのんびり話せるようになった。今だって、一時間くらい話している。
 ちなみに、今日は学校をサボってはいない。トュデイ、イズ、土曜日。
「んでも、まさか俺も、やよいがあそこまであの子たちと仲良くなるとは思わねがったよ」
「いや、私も予想外だよ。……ってか、『城★男子』にあそこまでハマってまったのが予想外……」
 古川ちゃんたちに布教され、私はまんまと「城★男子」にハマってしまった。受験生だってのにマンガを揃え始めちゃうし、隙あらばSNSに流れているファンアートを見ちゃうし、本当にけしからんよね。でも、楽しすぎ。
 今さらクラスメイトに話しかけるなんて絶対無理なんて思っていたけど、思い切って一歩を踏み出してみれば、世界は私が思っていたよりずっと優しかった。フネに背中を押してもらったこと、心から感謝してる。
 だけど、お礼を渡すこともなにかおごることもできないから、せめてフネのお陰で得られた幸せをちゃんと全部報告したい。なんだかんだ私は、二日に一回くらいのペースでここに来ている。本当はそろそろ受験勉強を本格的に始めるべき時期なんだろうけど……もうちょっと、初めてのアオハルをゆっくり堪能させてほしい。
「私も、『島原城』推しになっちゃってさぁ。受験終わったら、三人で長崎に旅行に行こうかって喋ってんだ。まあ、三上ちゃんは普通に『弘前城』推しらしいけどね」
「んだか。良かったなぁ」
 フネは、自分のことのように嬉しそうに笑う。きゅっと目を細めた顔が、なんか可愛い。
 最近は、私たちの会話の中に「成仏」とか「卒業」とかいうワードは、出てこない。多分、お互いに別れを意味する言葉を無意識に避けてるのかもしれない。
 本当は、ちゃんと成仏するのがフネにとって幸せな道なんだと思う。成仏しないってことはいつまでもこの世に留まっているってことで、生まれ変わって次の人生を歩み始めることが出来ないってことだ。フネは次の人生を歩みたかった。だから、自分の姿が見える私に、「一緒に成仏する方法を考えてくれ」ってすがったんだろう。私には、その気持ちに精いっぱい応えて、フネが大好きな人と桜を見るのを見届ける義務があるのかもしれない。
 でも――辛すぎる、そんなの。
 フネは、恩人だ。ひとりぼっちの私に、笑顔で声をかけてくれた。ときには優しく、ときには頼もしい言葉で励ましてくれた。そして、諦めかけていた青春をつかみ取るチャンスをくれた。つい一か月前に出会ったとは思えないほど、隣にいて安らぐ存在。二度と会えなくなるなんて、そんなの耐えられない。
 真横にいるフネの横顔は本当に綺麗で、見ていると心がきゅうっとする。
 ねえ、どこにも行かないでよ。
「好きだな」
「え?」
 フネが、首を傾げた。私だって、なんの前触れもなく口から出たセリフにびっくりしている。
 フネのこと、好きだ、私。一人の男の子として、心の底から好きだ。
 フネに片思いされてる子が、フネをこの世に引き留めている誰かのことが、羨ましくてたまらない。
 ずっとこのまま何も考えずに、頭を空っぽにして一緒にいようよ。
「好きって、なにが?」
「いや。『島原城』が」
 誤魔化して前を向くと、フネはふふんと笑って私の顔を覗き込んできた。
「ちなみにだけど、やよいの初恋の人は、どんな人なの?」
「えー?私の初恋?」
 初恋って、一般的にはどのくらいの年齢にするものなんだろう。小三くらい、とか?だけど、小三の記憶を辿っても、誰の顔も浮かんでこない。
 今目の前にいる、フネのことしか見えないよ。
「うーん……忘れちゃったなぁ」
「そうかぁ。初恋の思い出なんて、脆いもんだなぁ」
 どこか寂しそうに言うフネ。
「でも、フネだって初恋の人が誰か、覚えてないんでしょ?」
「まあなー」
 二人で顔を見合わせて、にっこりする。いつまでも二人の時間が続かないことは分かってるけど、束の間の幸せに心を浸して笑っていたい。
 ハートを形作る緑の葉が、ゆらゆら揺らいでいた。
 時は流れ、夏休みを迎えた。
 まだ、フネとの交流は続いていた。外にいるだけで汗ばむ季節になっても、フネと一緒にいるのは楽しかった。
 ただ一つ気がかりなのは、フネが時折出会った頃にはしなかったような悲しそうで、優しい顔をすることだ。特に、別れ際。
 あまりにもわかりやすく泣きそうな表情だから、私の気のせいではないと断言できる。でも、「どうしたの?」って聞く勇気が出ないままいよいよ夏まで来てしまった。
 悩みの種はフネのことだけじゃない、自分のこともだ。いよいよ、進路のことがはっきりしていない自分に、焦りを覚え始める時期。もう、AO選抜で受験する子は、出願に向けて本格的に動き始めている。
 なんとなく人文学系のところに行きたいとは思うけど、志望校はまだちゃんと決まっていない。ぼちぼち三者面談もあるし、何も考えていないのが露呈したらさすがに怒られそうだ。本当に、憂鬱。
 そんなときでも、フネの顔を見れば嫌なことを忘れることができた。桜のハートの下は唯一のやすらぎの場だ。
 今日も、フネはいつも通り透けて、でも確かにそこにいた。私が手を振ると、思い切り振り返してくれる。
「あーあ、三者面談憂鬱だなぁ」
 思わず、本音を漏らす。なんでや、と笑うフネの隣に腰掛けて、私は正直に話した。まだ、志望校がちゃんと固まっていないこと。そもそも、勉強にすらまだちゃんと身が入っていないこと。こんなの親や先生に言ったら頭ごなしに怒られるだけだし、真剣に勉強している古川ちゃんたちに愚痴っても呆れられると思う。だから、フネにしか言えない。フネならいつも、「んだかぁ」ってのんびりした調子で受け止めてくれるし。それが、すごく落ち着くんだよね。
 だけど、フネは意外なくらい驚いた声を出した。
「え?進路のこと、そんなになんも考えてねえの?」
「あ……まあ、うん」
 戸惑った。ほんわかとした笑顔で「まあ、どうにかなるべ」と言ってもらえるものだとばかり、思っていた。
 でも、フネの口調はちょっとずつ厳しいものになっていく。
「大事な、未来のことだべ。やよい、将来はなにになりてぇの?」
「そんなの、まだ分かんないよ。行きたい大学すら、決まってないって言ったべ」
「……いや。まずいべ、さすがに。そろそろ、真剣に考えねぇば」
 ドキッとする。進路のこと真剣に考えろなんて、周りの大人からしつこいくらい何度も言われていることだ。
 でもまさか、フネに言われるとは思わなかった。予想外に痛いところを突かれた刺激が、だんだん、怒りに変わった。
「うるさいなぁ。こっちだって、色々悩んでるんだよ」
 思いのほか、尖った声が出た。私は、そんなお説教みたいなのが聞きたくて、ここに来たわけじゃない。
 フネは、怒って言い返したりはしなかった。そのかわり、少しだけ俯き加減になった。
「……俺のせいだ」
 その声が、少しだけ揺れていた。
「え?」
 なに?俺のせいって、どういうこと?
「分かってた。本当は、桜が散った頃から思ってた。やよいは俺なんかと一緒にいるべきじゃないって」
「なんで、そんなこと言うの?」
 思わず、尖った声を出した。
 だって私、楽しくて幸せだったんだよずっと。フネだって、そうじゃないの?
 だけど、フネは下を見たまま言った。
「だってやよいには未来があるから。だから、もういない俺なんかと一緒にいるより、同じ未来に向かう友達を大事にして、自分の未来を考えることに時間を費やすほうがいいんだ……分かってたんだ、本当は」
 フネは、唇を噛んだ。
「でも、夢みたいに楽しいから。やよいと喋ってる時間が楽しすぎて、『もう、俺のとこに来ないほうがいい』って、言い出せなかった……ずっと」
 フネの声は、少し涙声みたいにくぐもっていた。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
 そんなこと言わないでよ。私だって、幸せなのに。
 フネは、悲しそうな瞳に渡しを映して言う。
「もう、会うのやめにしようか」
「え……?」
 なんで。嫌だよ。叫びたいのに、喉がつっかえたように、言葉が出てこない。
 フネは、一人で勝手に声を震わせている。
「今までごめん。もう、やよいは、やよいの未来のことだけ考えて。俺のことは、忘れて」
「お願い。落ち着いて、ちょっと待ってよ。まだ、何にも考えれてないじゃん。フネが成仏する方法だってーー」
 そこまで言って、黙る。普段はあんなに成仏の話は避けているくせに、もう会えなくなるかもしれないと思った瞬間切り札みたいにその話をする自分が、愚かに思えた。
 だけど、切り札にもフネは動じない。
「大丈夫。成仏の方法は、もう、自分でちゃんと考えるから」
 フネがそう言った瞬間、強い風が吹いて砂が舞った。突然のことに目を閉じ、もう一度目を開けたら、もう彼はそこにいなかった。
「フネ!」
 誰もいない桜のハートに向かって、私はその名を叫ぶ。そして、思いっきり頭を下げた。
「ごめん。感情的になって、怒って、ごめんね。顔、見せてよ」
 あたりは、しんとしていた。犬の散歩をしているおじいさんだけが、遠くに見えた。
 フネは、姿を現さない。
「フネ、私、ちゃんと考えるよ進路のこと。これからもっと、自分の将来と真剣に向き合うって約束する。だから、お願い。声聞かせて」
 再び風が、木の枝を揺らした。でも、それ以外、何も起きない。
 ――やっぱりこれは、長い、夢だったのだろうか。
 十月下旬になると、弘前公園の葉は赤や黄色に染まり始めた。
 あの夏の日以来、フネには会っていない。
 フネが消えてから数日はさりげなく弘前公園を歩き、桜のハートの前を通って、フネが現れないか伺っていた。でも、いつになってもその姿は見えず、濃い緑色だった葉が少しずつ色褪せていくのを見届けるだけだった。
 幽霊に会うために毎日のように公園に通うなんて、他の人には受験勉強で頭が変になった子に見えるだろう。ふとそんな風に思うと、フネへの思いも葉の色と共に少しずつ色褪せてーー褪せたことにして、再会しようとは考えなくなった。
 やっぱり、フネの存在は、幻だったのかもしれない。でも、それでもいい。あの幻のおかげで私は友達もできたし、いくらか真剣に進路のことを考えるようになったんだから。
 何度かの進路面談を経て、私は地元の私立大学を一般受験で受けることにした。なんだかんだ、地元にいたいし。
 古川ちゃんはというと、本気で長崎の大学を受けるらしい。三上ちゃんは、仙台に行きたいって言ってたな。
 せっかく友達ができたのに、大学に入ったらまた新たな人間関係を築かなきゃいけない。そのことに、ちょっとうんざりしてしまう。でも今は大学に入ってからの心配より、大学に入れるかの心配をしなきゃいけないんだよね。生きていると、本当に、悩みが尽きない。
 今日の空は珍しくご機嫌斜めで、針のような雨が次々と地面に突き刺さっては弾けている。いつもは図書館に行って勉強するんだけど、外に出るのがおっくうなくらいの土砂降り。かと言って自分の部屋で勉強しようにも、散らかりすぎていて勉強のスペースがない。ただの、教材置き場みたいになってる。
「部屋、片づけるか……」
 悩んだ末に私は、重い腰を上げて部屋の片づけを始めることにした。
 しかし、いざ部屋の片づけを始めてしまうと、無くしたと思っていた本や懐かしい写真など、いろんなものが出てきてついつい一つ一つに見入ってしまう。
 だめじゃん。この調子じゃ、いつになっても勉強、始められないよ。
 自分自身に喝を入れるといくらか片づけのペースはあがったけれど、幼稚園の卒園アルバムが出てきたときは思わず手にとって開いてしまった。これはさすがに、懐かしすぎる。
 幼稚園の頃は、確か仲が良い友達、ちゃんといたんだよな。もう、一人一人の顔と名前は浮かんでこないけど、楽しかった記憶だけ心に刻まれている。卒園式は、泣いたなぁ。
 ぱら、ぱらとページをめくっていたら、中ほどから写真が一枚ひらりと出てきた。
 幼稚園の制服を着た男の子と女の子が、弘前公園と思しき場所で手をつないで映っている。
 この女の子は、多分私だ。でも、この男の子は誰だっけ。さらさらの黒髪に、小柄な体。天使みたいに可愛くて、こんな幼稚園児が目の前に現れたら、勝手に頭を撫でちゃうなと思った。
 本当に、誰だっけーー。
 こんなこと考えている場合じゃないんだけど、このままじゃ気になりすぎて勉強に身に入らないし。
 記憶の層をかき分けて一生懸命答えにたどり着こうとしていたそのとき、玄関のほうで物音がした。多分、仕事から帰って来たお母さんだ。階段を降りて見に行ったら、案の上だった。
「ねぇ、お母さん」
 私は帰ってきたばかりのお母さんに駆け寄り、例の写真を見せてみた。
「この写真の男の子、誰かわかる?」
 写真を見たお母さんは、一瞬表情を固くした。その口から、独り言みたいな声が漏れる。
「オウタくん……」
 オウタくん?聞き返すと、お母さんはこくりと頷いた。
船水(ふなみず)オウタくん。『桜』に『太』いって書いて、『桜太(おうた)』くん。私の、高校時代の親友の息子さん」
「へぇ……あっ!」
 ちょっと、待って。思い出したんだけど!
 そうだ、桜太。なんで忘れてたんだろう。幼稚園のとき、大の仲良しだった男の子じゃないか。幼稚園で遊ぶだけじゃなく、それぞれの家でも遊んでたし、お互いの家族と一緒に遊園地に行ったこともあるじゃん。だけど、小学校は別々だったんだよね。お母さん同士が友達だったことも、ちょっとずつ思い出してきた。
「懐かしー!部屋の片づけしてたらついつい幼稚園の卒園アルバムに手が伸びちゃって、これ、見つけたんだよね」
 桜太って、まだ弘前にいるのかな?そのまま聞いてみると、お母さんの表情が急に曇っ
た。
「え……なに?」
 お母さんは、少し迷ってから言った。
「桜太くん、病気で亡くなったのよ」
 ぴたっ、と時が止まった。
 ザーッという雨の音が、テレビの砂嵐みたいに聞こえる。
 死んだ?
 ウソでしょ。
「え……いつ?」
 ほとんど、独り言みたいな声で聞いた。お母さんは、小さな声で「小学五年生のとき」と言う。
 ありえない。だって、私と同い年なんだから、生きてたってまだ高校三年生でしょ。
「なんで……黙ってたの?」
 やっとのことで言うと、お母さんは心の底から申し訳なさそうな声を出した。
「ごめんね。本当はやよいにも話すべきかと思ったんだけど、ショックを受けると思って。裕子ーー桜太くんのお母さんと相談して、やよいには、ちゃんと受け止められる年になってから伝えようと思ってたんだけど。でも、タイミングを逃し続けてしまってね」
 頭の中で、ぐるぐると何かが回ってる。なんだか、目の前がぼやぼやしてきた。
 まさか、だけど。でも、そう思って改めて写真を見るとーー。
「ちょっとやよい、大丈夫?」
 お母さんの不安げな声に、少しだけ目が覚めた気がした。
 今、私がすべきことはなんだ。頭の中の霧を必死に吹き飛ばそうとしながら、考える。
 答えが出たとき、私は、しっかりお母さんの目を見て言った。
「桜太の、親に会える?」
 翌週末。私はお母さんと一緒に、桜太くんのお母さんーー裕子(ゆうこ)さんに会いに行くことになった。お母さんが裕子さんに連絡をとってみたところ、ぜひぜひやよいちゃんと一緒に遊びに来て、と言われたそうだ。
 バスに乗り込むと、一応聞いておいた。
「桜太ママは、お母さんの高校の同級生なんだよね?」
「そうだよ。だから、何にも緊張しなくていいからね。あんたが小さいときなんか、よく遊びに行ってたんだから」
 私は、曖昧に笑った。どうしても緊張してしまうけど、別に裕子さんに会うことにドキドキしているわけではない。
 私はおそらく、桜太の遺影と対面することになるだろう。それが目的ではあるんだけど、怖かった。
 心のどこかで、一生目的地に着かなくていいと思っていたバスは、あっという間に私たちを運んで降ろした。バス停から三分ほど歩くと、すぐに桜太の家が現れる。
 インターホンを鳴らすと、裕子さんがすぐに出てきた。お母さんと私を見ると、ぱぁっと明るい顔になり、甲高い声を出す。
「ちょっと、久しぶりー!」
「しばらくぶりだもんねえ。元気してら?」
 お母さん同士の、想像以上にハイテンションの挨拶に若干戸惑う。ひとしきり再会を喜び合うと、裕子さんは嬉しそうに目を細めて笑った。
「あれ、やよいちゃんも大きくなったねぇ。これだば、一瞬誰だかわかんないわ」
「あはは……」
 そりゃ、もう、女子高生だからね。
 私は裕子さんのことはほとんど覚えていないのだが、彼女は私のことをよく覚えてくれているらしい。まあ、高校時代の親友の娘で、息子と仲が良かったんだから、覚えててくれて当たり前なのかもしれない。
 私たちを玄関に通して早々、裕子さんは言った。
「やよいちゃんが来てくれて、桜太も喜んでるべなぁ。あいさつしてくれる?」
 もちろん首を縦に振ったけど、心臓は暴れていた。
 案内された仏間。遺影の中の笑顔を見て、私は言葉を失った。
「っ……」
 ああ――やっぱり、そうだ。
「やよい、お線香あげよう」      
 お母さんに言われ、現実味がないまま線香に火をつけて、手を合わせた。
 線香を上げ終わった私とお母さんが振り向くと、桜太のお母さんは懐かしそうに言った。
「桜太、やよいちゃんのことが大好きだったからねぇ。いつもべたべたくっついて、ちょっと、鬱陶しかったべ」
「い、いや、そんな」
 慌てて首を振るけど、裕子さんの目は私よりももっと遠くを見て、潤んでいた。
 裕子さんに教えてもらって、初めて知った。私と別の小学校に進学した桜太は、一年生の夏前にはもう病気が見つかって、ほとんど小学校に通えていなかった。一時は回復したものの、再び病魔に襲われたときには、もう助からない状態だった。
 お母さんも裕子さんも涙ぐんでいたけど、私は内心、少しだけ二人のことを責めていた。いくら私が幼かったからって、黙ってるなんてひどい。どうして会わせてくれなかったんだ、って。
 だけど裕子さんの言葉に、責める気持ちはすぐに打ち砕かれた。
「本当は、やよいちゃんに会わせてあげたらよかったのかもしれないけど……ごめんね。桜太はやよいちゃんのことが大好きだったから、やよいちゃんには、元気な桜太だけ覚えててほしかったんだ。あの子も、やよいちゃんに元気な姿を見せたくて、頑張ってたし」
 裕子さんの頬に、大粒の涙が伝う。お母さんも、大きく鼻をすすった。
 亡くなったの、小学五年生でしょ。小五の私は幼稚園の頃のことなんて思い返すこともなく、ただ日々を必死に過ごしていたと思う。それなのに桜太はずっと、幼稚園の頃の友達だった私に会いたがってたの?
 震える声で、聞いた。
「桜太……そんなにずっと私のこと思ってたんですか?」
 裕子さんは、あはは、と泣きながら笑った。
「『勝手に喋るな』って怒られそうだけど、多分、やよいちゃんに片思いしてたんでねえかな。幼稚園の卒園式のときにやよいちゃんからもらった手紙も、最後までずっと大事にしてたし」
「え……?」
 ちょっと待ってて、というと、裕子さんは奥の部屋に消えたいった。
 彼女が渡してきたのは、桜色の小さな封筒だった。
「これ、桜太が亡くなったあとに見つけたものなんだけどね」
 これが、私が桜太に書いた手紙ーー?
 中の手紙を、少し震える手で開く。ひらがなを覚えたての頼りない字が、精いっぱい並んでいた。

「おうたへ
 あそんでくれてありがとう
 はなればなれになっても
 しようがっこうの
 そつぎようしきは
 いっしよにさくらみようね
 やよいより」

「……」
 唇を噛む私に、裕子さんは言った。
「……桜太、喋ってたの。小学校の卒業式の日までは、生きたいって」
 そして、一緒に桜を見るっていうやよいちゃんとの約束を果たしたいって。
 涙声でそこまで言って、桜太くんのお母さんは「あっ」と声を出した。
「そう言えば、その封筒の中、絵も入ってるんだ。見てみて」
 言われて、もう一度封筒の中に手を入れる。紙を取り出し、描かれていたものを見て、息を飲んだ。
 真ん中に大きく描かれているのは、桜の木。その下に、私と彼の笑顔がある。
 そして、桜の木の真ん中には、大きなハートマーク。
 深く、息を吐く。これを描いたのは、紛れもなく、私なんだ。
「私も、好きだったんだと思います……彼のことが」
 言葉にしたら、ボロボロと涙がこぼれた。今目の前にいるお母さんとも、裕子さんとも違う涙。
 記憶の奥底で眠っていた桜太との思い出が、水と一緒に溢れてくる。
 ごめん。ごめんね、桜太ーー。
 桜太は、優しい子だった。 
 でも、それを知っていたのは私だけだったかもしれない。桜太はのんびり屋でちょっととろくて、よく先生に怒られていた。だから、みんなの間でもなんとなく問題児として認識されていた。
 一方で、私は誰が見ても「いい子」だった気がする。おとなしいし、先生の言うことも聞くし、使いたいおもちゃも、遊具を使う順番も、すぐ友達に譲るから。
 本当は、「嫌だな」とか、「それ使いたかったな」と思うことはたくさんあったけど、ケンカになるのが怖いから、「貸して」と言われると黙ってなんでも譲った。
 だから、しょっちゅう、乱暴な子に使っているおもちゃや絵本をとられた。
 やよいは、絶対言い返さないしやり返さないって、多分みんなそう思ってた。
 ある日、同じ組の中で大人気だったアザラシのぬいぐるみを、やっと一番乗りで手にした日があった。嬉しくて嬉しくて笑顔が溢れる。もふもふとぬいぐるみを触りながら、この子にご飯をあげようと思って、おままごとの道具が入っている箱に向かったとき。
 突然、ものすごい力でぬいぐるみを奪われた。
 びっくりして振り返ると、同じ組の中で一番気の強い女の子が(確か、ナツミちゃんだったかな)さっきまで私の手の中にあったぬいぐるみを抱えて、こちらをにらんでいた。
「これ、なぁちゃんが使おうと思ってたの!」
 なんで、あんたにこれを使う権利があると思った?
 彼女の顔は、そう言っているように見えた。泣きたくなった。だって、私だってそれをずっと使いたくて、だけどみんなも使いたいと思って、ずっと待って、待って、ようやく手にできたんだよ。だけど、気が弱い私は、言い返すことも、ぬいぐるみを取り返すことも出来なかった。
 涙をこらえて立ち尽くしていたそのとき、後ろからのんびりした声が聞こえた。
「今それさぁ、やよいちゃんが使ってたじゃん。返してあげなよ」
 振り替った先にいたのは、困り顔の桜太だった。
 私は、びっくりして桜太を見る。ナツミちゃんは、「なによ」って感じの顔で桜太と私を交互ににらんだ。
「だって今これ、なぁちゃんが使おうと思ってたのにやよいちゃんが持ってたんだよ」
「ナツミちゃん、いつもそれ使ってるでしょ。やよいちゃんだって、使いたいよね。やよいちゃんに返さないなら、先生に言うよ」
 先生に言うよ、という言葉のパワーは絶大で、ナツミちゃんは私にぬいぐるみを押しつけるようにして渡すと、べそをかいて離れていった。桜太くんがひどいんだよ、とナツミちゃんは友達に大きな声で訴えていたけど、桜太は気にもとめずにっこりした。
「やよいちゃん、いいんだよ、それ使って。あ、一緒に遊ぼっか」
 待ってて、と言うと、桜太は別のぬいぐるみを持ってきた。そして、桜太が持っているぬいぐるみがお父さんで、私が持っているぬいぐるみはお母さんということにして、一緒におままごとを楽しんだのだった。
 それが、私たちの出会いだったかはわからない。
 でも、一つ言えるのはーーそういう優しさの積み重ねがあって、私は桜太のことを好きになった。
 多分、初恋だった。
 恋が何かもまだ分からない年だったけど、顔を見ただけで嬉しさが込み上げたり、一緒にいられるだけで心がぽかぽかしたり、このままずっと一緒にいたいな、って思うのが恋だとしたら、間違いなく「好き」だった。桜太だってきっと、同じ気持ちだった。
 だから私たちはしょっちゅう「だいすき」とか「けっこんしようね」とか、覚えたてのひらがなで一生懸命手紙を書いて、お互いの気持ちを確かめていたんだよね。
 お母さん同士の仲がいいのが明らかになったのと、私と桜太が仲良くなったのとどちらが先かは残念ながら記憶にないけど、とにかくしょっちゅうお互いの家で遊んだ。確か裕子さんがお菓子作り好きで、桜太の家はいつも甘い匂いがしたんだよなぁ。
 だから、別々の小学校に行くとわかったときの私たちは、何度も涙を流したと思う。幼稚園児にも、別れの意味くらいわかる。大好きなのに、もう、ずっと一緒にはいられないんだ。
 だからせめて離れ離れになるまでの日々を大事にしようと、卒園するまでの一ヶ月くらいは、本当に毎日一緒にいたと思う。
 そして、卒園式を数日後に控えた吹雪の日。私か、桜太か、どちらかの家で遊んでいるときに、たまたまテレビである教育番組が入った。それは、十分くらいの小さな音楽番組で、アニメーションと共に月替わりで色々な曲が流れる、というものだった。
 その日流れていたのは、曲名もメロディーも思い出せないけど、多分卒業ソングであったことは確かだと思う。
 唯一鮮明に覚えているのは、大きな桜の木の下で手をつなぐ、男の子と女の子の絵。外はこんなに吹雪いているのに、あんな暖かそうな春色の中でソツギョウしようとする二人が、うらやましかった。
 今外がこんな天気なら、卒園式の日もきっとたくさん雪が降って、桜は見られないと思う。
 でも私もいつかは、「卒業式」という大事な行事で、大好きな桜太とあんな風に桜が見れたらなぁ。きっと、私はそう思った。
 だから、手紙を書いたんだと思う。六年間違うときを過ごしても、小学校生活最後の日ーー一番大事なときに一番大切な桜太ともう一度会って、一緒に同じ桜を見たいな、って。
 北国の桜は、三月の頭には咲かない。そんなこと知らず、純粋な思いだけつづった。
 そして、桜の木の下に私と桜太を描いて、その真ん中にハートを描いた。もちろんそのときは弘前公園の「桜のハート」の存在なんて知らなかった。ただ、「好きだよ」という気持ちをハートで表しただけだと思う。だけど偶然にも、あの絵にそっくりな場所が弘前公園にあったのだ。
 その手紙をまさか桜太がずっと大切にして、最期のときまで持っていたなんて、知る由もなかった。
 そして、私が描いたあの絵にそっくりな場所を見つけて、ずっと天国にも行けないままそこにとどまり続けていたなんて、夢にも思わない。
 裕子さんの家を出た後、私はお母さんに「用事を思い出した」と告げて一人走った。
 走って、走って、たどり着いたのはあの桜のハートの下。今はすっかり、紅葉のハートだ。
 私は、見えない彼に向かって話しかけた。
「フネ――いや、桜太」
 風が紅く色づいた葉を揺らすだけで、何も返事はない。それでも、私は語りかけ続ける。
「顔、見せてくれなくてもいい。でも、まだそこにいるなら聞いて。私、全部、思い出したの。幼稚園の卒園アルバムに、桜太と私のツーショットが挟まってて」
 最初は、誰かわからなかった。でも、お母さんにこれは船水桜太くんだって言われて、もう亡くなっていることを知って、まさかって思った。
 だから、確かめに行かなきゃと思った。
「私、お母さんと一緒に桜太のお母さんに会いに行ったんだ。それで、仏間で桜太の遺影を見たらーー」
 あのときの感情を、なんと言い表したらいい。
「遺影の中の桜太は、やっぱり、フネだった」
 もちろん高校生の姿をしたフネより顔は幼いけれど、どう見ても、桜太はフネだった。
 同じ、優しい笑顔がそこにあった。
「手紙もね、見せてもらったんだ。私が、桜太に書いた手紙を」
 そして、後悔した。あんな手紙を書いたことを。
「私、子どもだったからさ……なんにも知らなかったんだ。弘前の桜は、三月上旬には咲かないってこと。知らないで、手紙を書いたの」
 それなのに、桜太はずっとその約束を大事に守ろうとしてくれてたんだね。
 自分の名前も、私の名前も何も覚えていないのに、私が書いた手紙と絵のことだけは、ずっとずっと覚えててくれたんだよね。
 私は、叶うはずもない願いで、あなたをこの世に縛り付けていたんだ。
「でも、もういいの。私は、たったひと時だけでも、またあなたに会えてよかった。もう成仏して、新しい人生を生きて」
 溢れる涙を、止めることができない。
 それでも、ちゃんと言葉にする。
「私のことは忘れて、生まれ変わって、新しい素敵な恋をして」
 唇を噛む。桜太に、この声が届いているか、分からない。
 でもきっと、私がいくら訴えても、桜太は私と卒業式に桜を見ない限り成仏できないんだろう。ずっとここに、とどまり続けるんだろう。だけど、ここが北国のまちである限り、それは絶対に無理だから。
 だから、せめて精いっぱい祈る。あなたが、次の人生を歩めるように。
 そして、あなたが新しい大切な人とこの桜を見られるように。
 強い風が、枝を揺らした。
 私も、一生懸命自分の道を歩むよ。
 桜太がくれたいくつもの言の葉を、心に刻んでーー。
 ーーあれから、季節は過ぎた。

 長く厳しい冬を越え、弘前に春の気配が訪れた新しい四月。
 私は、入学式の日にできた友達の亜美ちゃんと一緒にキャンパスを歩いている。大学の授業ってのは一コマが長いかわりに、一時間目と二時間目が終わったらすぐお昼休みなのがいいところ。
「昼休み明け一発目の講義、英語だっけ」
「うん。なんで大学入ってまで英語やんなきゃなんないんだろう」
 英語が苦手らしい亜美ちゃんは唇を尖らせた。可愛い。
 関東出身だという亜美ちゃんの話し方はきれいで、一瞬自分のイントネーションを無理やり直そうかと思ったけど、「やよいちゃんの話し方、好きだよ」って言われたから、そのままでいることにした。
 亜美ちゃんは、きれいに巻いた髪を人差し指でいじりながら言った。
「今日お昼作る気力なくて持ってきてないんだよねー。購買寄っていい?」
「あ、実は私もお昼ないー!学食行かない?」
「いーね!」
 二人肩を並べて学食に向かいながら、不思議だなと思う。高校のときは事務的な話以外で誰かに話しかけるのがあんなにうまくできなかったのに、入学式の日に思い切って話しかけた子とこんなに仲良くなって、毎日のように一緒にいられて。
 でもそれはきっと、去年放課後の弘前公園で古川ちゃんたちと喋ってみて、人の優しさを知ったおかげだろう。
 ちなみにだけど、無事志望校に合格して弘前を出た古川ちゃんと三上ちゃんとも、未だに連絡をとっている。春休みは、無事長崎旅行も行けたし、本当に楽しかった。二人が帰省したら、また「城★男子」について心置きなく語ろう。てか、亜美ちゃんにも布教しちゃう?
 たくらんでいる私の横で、亜美ちゃんは窓の外を見ていた。
「もうちょっとで、桜咲くかな」
 ーーそうだ。もう少しで、弘前のまちに桜の花が開く。
「あー、んだね。そろそろ、さくらまつりの準備が始まる頃かも」
「弘前の桜、すごいんでしょ。めっちゃ楽しみにしてんだよね」
「さくらまつり、一緒に行こっか」
「マジ?よっしゃ!」
 大げさにガッツポーズを決める亜美ちゃん。なんでもない風にふるまうけど、弘前公園の桜の話になると、どうしても思い出してしまう。
 大学の入学式でさえ桜が咲いていないくらいだから、高校の卒業式にはもちろん桜なんて咲いていなかった。
 それでも私は卒業の日、少しだけあの日々に思いを馳せた。
 春から夏にかけての、ほんのひと時の恋だった。それでも私は幸せだった。
 そして、あのときの幸せは、今の幸せにも繋がってる。
 私がぼーっとしていると、亜美ちゃんは唐突に言った。
「なぁんかさ。大学生になったら自然に彼氏できると思ったんだけど、全然そういうのないね」
 そう言う亜美ちゃんの視線の先にはラブラブのカップルがいて、苦笑する。でも、亜美ちゃん顔かわいいし、そのうちできるんじゃないかな?
「そういや、やよいちゃんは、彼氏いるの?」
「ううん。いないよ」
「好きな人も、いない?」
「うん……いないかな」
 まだ、あの子以外の誰かを好きになる日が来るとは思えない。でも大学生になったわけだし、いずれは恋愛も経験してみたい。
 だから――そろそろ、一区切りつけに行きたいな。私のためにも、あなたのためにも。
 光に溢れた廊下を歩きながら、私は決心を固めた。
 あの日(、、、)からちょうど一年たった今日、弘前公園の桜は満開になった。
 私は、一ヶ月半ぶりに高校の制服に袖を通す。ちょっと前まで毎日これを着て高校に行っていたのに、もう、コスプレになっちゃうんだね。苦笑いしながらも、着慣れたブレザーの感触にホッとした。
 そしてーー高校の卒業式でもらった筒を手に、弘前公園に向かう。走ったり、慌てたりせず、ゆっくり歩く。
 そして、桜のハートの下に来た。
 もし、ちゃんと成仏できているならそれでいい。でも、未練を残したあなたは、きっとまだここにいる。
 大学進学という目標を叶えた今なら、きっと会って、お別れができる気がするんだ。
 桜のハートをしばらく見つめ、少し目線を落とした瞬間、視界に学ラン姿の少年が入った。ちゃんと、全身透けてる。
 彼は、嬉しそうに私を見つめ、口を開いた。
「やよい」
 名前を呼ばれた心に、暖かな風が吹く。私は、桜太の目を見て言った。
「出会った日から、今日で一年だよ。覚えてる?」
 出会った日、って言い方も少し変だけどね。正確には、「再会した日」だ。
「忘れるわけねぇって」
 桜太はにっこりして言った。
「やよい、無事に大学受かったんだな」
「知ってるの?」
「ううん。大学に無事受かった、顔してるから」
「なにそれ。どんな顔?」
 私が笑うと、桜太も笑った。そして、私が手に持っている卒業証書入れの筒に気づき、首を傾げる。
「んで、なんだ、それ」
「ああ、これ。作ってきたの」
 私は、筒を開け、中から大きな紙を取り出す。広げて見せると、桜太は目を丸くした。
「やよい……それ」
 瞬きを繰り返す桜太。
「逆転の発想ってやつだよ。卒業式の日に桜が咲かないなら、桜が咲いてるときに卒業式をやればいいじゃん、って」
「それ、自分で作ったのか?」
「そうだよ。桜太の、この世界からの卒業証書」
 桜のつぼみが開き始めた頃から、私は一人で一生懸命これを作った。桜太用の、卒業証書。何度も私の背中を押してくれた桜太がこの世を卒業して、次の人生の入学式に向かえるように、心を込めて作ったんだ。
 桜太は、卒業証書を見ながらほうほう、とうなずく。
「なるほどなぁ。でも、俺、受け取れねえや。透けてるから」
「いいの。受け取ってる、ポーズだけしてよ。やるよ、卒業証書授与式」
 私が言うと、桜太は柔らかく笑いながら私と距離を縮めた。
 私は、書いた文字を読み上げる。
「卒業証書、船水桜太殿」
 桜太は、穏やかな笑みを浮かべたまま、まっすぐに私を見つめている。
「あなたの、この世界からの卒業を証する」
 私は卒業証書から目線を上げて、桜太を見た。
「あなたは、いつも優しかった。いつも私を助けてくれた。私も、あなたのことが好きだった」
 桜太の顔が、切なげに歪む。
「私も、初恋だった」
 ぶわっと強い風が吹いてハートが揺れ、門出を祝うように、桜の花びらが舞い落ちる。
 霊感のない私にもあなたの姿が見えたのは、それだけ、あなたのことが好きだったからだ。
「次の人生でも、その優しい笑顔で、たくさんの人に愛されてください」
 おめでとう、と言って証書を渡そうとしたそのとき、急に桜太が私とグッと距離を縮めた。その温もりを全身に感じて、思った。
 多分今、私、抱きしめられてるんだろうな。
「……本当は、気づいてた」
 桜太の声は、掠れていた。
「去年、桜が散った頃から、本当は思い出してた。自分の本当の名前も、俺の初恋の人はやよいだったってことも」
「そうだったの?」
「うん。でも、黙ってた。俺の初恋の人はやよいだった、なんて言ったら、やよいを混乱させて、もう会いに来てくれなくなると思ったから」
 私を包む桜太の熱が、もっと強くなった。
「そんなの、嫌だった。ずっと、会いに来てほしかった。成仏なんかできなくても、やよいと一緒にいられるならそれでいいと思った」
 どうしようもないくらい、切なさが込み上げる。私も、同じ気持ちだったよ。
「だけど、それじゃあダメだって気づいた。やよいには、未来があるから。大事な時間を、俺と一緒にいるよりも、自分の未来のために使ってほしかったから」
「ありがとう。心から、大事に思ってくれてたんだよね」
 私がそう言った瞬間、桜太の輪郭がぼやけた。桜のハートの場所から離れて透明になるときと、どこか違う。
「ああ――そろそろ、ほんとに、卒業だ」
 桜太は、自分の体を見て寂しそうに言う。分かっていたはずなのに、慌ててしまう。
 もう、成仏しちゃうの?
「ちょ、ちょっと待って。一つ、聞きたいことがある」
「ん?」
「あのさ……今まで、どこにいたの?」
 桜太は、優しい声で言った。
「今までもずっとここにいたよ。でも、やよいの前に現れたら、受験勉強頑張ってるやよいの気が散るんでねえか、って思って。だから、やよいが大学に入るまでは姿を透明にしておこうって思った」
「じゃあ、いることはいたんだ」
「うん。だからさ、秋頃に会いに来てくれたときも、やよいの言葉、全部聞こえてたよ。本当に、嬉しかった」
「……届いてたんだ」
 嬉しい。嬉しくて、涙が止まらない。
 泣きながら見上げる桜太の顔はどんどん透明になり、もう少しで本当に消えてしまうのがわかった。
「生まれ変わったら、また、やよいに会いに来るから」
「いいんだよ、そんな。もっと素敵な人、見つけなよ」
「なしてよ。俺は、やよいがいい」
「……ありがとう」
 溢れる涙を止めることはできないけど、それでも、精いっぱい口角を上げた。
 卒業式くらい、笑顔でいたいから。
「じゃあ、またな」
「うん。じゃあね」
 桜太の姿が春に溶ける最後の瞬間まで、目に焼きつけた。
 桜のハートの奥に見える空は、出会った日と同じように、水色に澄み渡っていた。

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