煌めく星を追いかけて

 見た目は子供、頭脳は大人なんだから、かさちゃんってばまったくもう」
 さきちゃんはそれを何故だか悪いことのように言った。
 ……今度赤い蝶ネクタイでもつけてこようか。もしかしたら推理力が上がるかもしれない。


 ああ、そうだ。細かいことと言えば、
「あの掛け軸にも、梶原哲って名前が書いてありますけど、あれって哲さんが書いたんですか?」
 私は「竜神」と書かれた掛け軸を指差しながら訊ねた。
 すると哲さんは照れ臭そうに大きな手で頭を搔きながら答えた。
「まあな。下手の横好きってやつだが、ちょいと書道も齧っててな。
 だが、あれは珍しく上手いこと書けたんだよ。この碁会所を開く少し前にな。
 ついでに、そのまま店の名前にしたらどうだって千鶴子が言うもんだから記念に飾ってあんのさ。
 ああ、千鶴子ってのはうちのかみさんだよ。この店は夫婦で営んでんだ。なあ、千鶴子?」
「うふふ、私はちょっと手伝ってるだけですよ。
 囲碁も教えてもらったけれど、私にはさっぱりで」
 カウンターの向こうから千鶴子さんはそう応えた。
 なんとなく微笑ましいそのやり取りを見て、仲のいい夫婦なんだなと思った。

「俺の教え方が悪かったわけじゃねえと思うが、まあ人には向き不向きってもんがあるからな。
 さて、さきちゃんとかさねちゃんはどうかねえ」
 そう言いながら哲さんは盤の上のふたつの入れ物に手を伸ばし、それぞれ蓋を開けて手元に置いた。
 その中にはそれぞれ黒石と白石が詰められていた。哲さんはまずこれらの道具について説明してくれた。
 この盤のことは正確には碁盤と言い、入れ物は碁笥と言うらしい。
 そして碁笥に詰められた黒石と白石。これだけあれば囲碁は打てるのだという。

「囲碁ってのは、それぞれ対局者がこの黒石と白石を交互に打っていくんだが、升目の中じゃなくて交点に打っていくんだ。
 縦の線と横の線が交わってる点があるのが分かるかい?
 こいつが交点で端っこや角っこも含めて縦横19×19の碁盤、つまり19路盤ってんだ。
 さて、合計いくつの点があるか計算できるか?」
「か、かけ算はまだ習ってないです……」
「でも20×20が400だから、大体360くらいですか?」
「お、かさねちゃんは賢いねえ。正解は361だ。
 ただ慣れないうちはもっと小さい碁盤で練習したほうがいいな。
 9路盤から13路盤、それから19路盤って具合にステップアップしていくんだ。
 とは言え、今はルールを教えるためだから19路盤を使うぜ。千鶴子、あとで9路盤を出してやりな」
「はいはい」
 千鶴子さんはカウンターから私たちの様子を見守ってくれている。
 彼女もこんな風に、哲さんに囲碁を教えてもらったんだろうか。何かを懐かしむような優しげな笑みを浮かべていた。


「それでそれでっ!? どうやったら勝ちになるの?」
 さきちゃんは目を輝かせながら哲さんの説明を促した。
 正直なところ、どうしてそこまで囲碁に興味を持っているのか、私には分からない。
 何か感じ入ったことがあるのか、あるいは単に好奇心旺盛なだけなのだろうか。
「碁ってのは要は陣地取りよ。最後に相手より広い陣地を持ってたほうが勝ち。
 あともうひとつ大事なルールがあって、完全に周りを囲んだ石は取れるんだ。
 他にも細かいルールはあるが、これだけ覚えてりゃ誰でも打てる。
 将棋みたいに駒の動きを覚えたり、麻雀みたいに役や点数計算を覚えたりする必要もない。
 単純明快だが、無限の可能性があり奥深い。その深淵には未だ誰もたどり着いちゃいねえのさ」
「無限の可能性……」
 さきちゃんの口からは感嘆のため息が漏れていた。……なるほど、きっと彼女は可能性という言葉が好きなのだ。
 私は改めて碁盤を眺めてみたが、確かに将棋盤よりもはるかに広い空間がそこにはあった。
 先程の話だとこの盤上には361個の交点がある。つまりそれは初手だけでも361通りの手があるということだ。
 それが何十手、何百手と続いていけば、何通りの可能性があるのかはもはや計算不可能だ。
 尤ももちろんその中には絶対に選択されない明らかな悪手もあるのだろうけれど、それでもこの盤上には宇宙のような広がりがあることに変わりはないだろう。


「さて、次は『石を取る』ってのがどういうことか、もう少し詳しく説明しねえとな。
 じゃあ、まずは真ん中の星に黒石を置いてみるか」
「星? 盤の上に星があるの? 宇宙みたい!」
「ははは、いいたとえだな。さきちゃん、盤の上をよく見てごらん。
 黒い点が9つあるだろう? それが星だ。
 真ん中の星は天元とも言うが、まあそれは覚えてなくてもいい。
 これらの星は目印以外の意味があるわけじゃないからな」
 哲さんはそう言いながら、真ん中の星に黒石を置いた。……いや、打つと表現するべきなのだろうか。
 その手首のしなりは如何にも年季が入っていて荘厳な雰囲気を感じるほどだった。
 そして、真ん中に置かれた黒石からは四方八方を睨みつけているかのような威圧感を感じた。

「さあ、この黒石を取るにはどうすればいいと思う?
 白石をいくつ使ってもいいから、上手く囲んで取ってごらん。
 そうだな、まずはさきちゃんのほうから挑戦してみるか」
 そう言われたさきちゃんは少し考えるような仕草をしてから、丸く囲むようにして白石を置いていってから黒石を取り上げた。
 つまり盤上には8つの石を置いたことになる。文字通り八方塞がりといったところだろうか。
 哲さんは感心したように頷きながらも、どこか不満げな表情で今度は私に挑戦してみるように言った。

「えっと、これでいいんですよね?」
 私は哲さんの説明を思い出しながらさきちゃんの横から手を伸ばし、真ん中にぽつんと置き直された黒石の上下左右に白石を置いていった。
 交点とは縦の線と横の線が交わっている点のことで、斜めには線はない。つまり繋がっていない。
 だからこうやって四方に囲むだけで、この黒石は完全に囲まれたことになるはずだ。
「うん、かさねちゃんのほうが正解だ。
 さきちゃんも間違いではないんだが、斜めに置かれた石は余分になっちまってる。
 この真ん中の星と隣り合ってる交点は上下左右だけだから、このように四方を囲むだけでこの黒石は取れたことになるのさ」
「ほえー」
 さきちゃんは大口を開けて呆然とした様子だ。はたしてちゃんと理解しているのか、ちょっと不安だ。
 そういう私もまだ完璧に理解できたとは言えない気がする。
 今回はひとつの石を囲っただけだったけど、もしこれがふたつ、みっつと増えていったらどうなるんだろう。
 それを考えればルールそのものは単純でも、他に覚えなくちゃいけないことがまだまだあるようだ。
 さきちゃんはしばしの沈黙のあと、はたと膝を打って黒石を取り上げながら訊ねた。

「じゃあさ、じゃあさ! 取った石は持って帰っていいの!?」
「いいわけないでしょ」
 ……哲さんが説明する前に思わずツッコミを入れてしまった。
 さきちゃんの言う通り、お客さんがみんな取った石をおうちに持って帰っていったら、そのうちこのお店からは碁石がなくなってしまうだろう。
 それに材料が何かは分からないけれど、少なくともこの石はプラスチックなんかじゃない。仮に補充するとしても結構な値段になるはずだ。
 哲さんは笑いながら、さきちゃんの妄言を否定した。
「まあ、持って帰られちゃ困るが、こうして取り上げた石は終局時に相手の陣地を埋めるものになる。
 それまでは碁笥の蓋の上に置いて大事にとっておくもんだ。
 ……とまあ、いろいろ説明したが、大人でもなかなか1回じゃ理解し切れないもんだ。
 まずは9路盤で石取りゲームをしよう。陣地の広さじゃなくて、取った石の多さで勝ちが決まるルールだ。
 もし途中で分からないことがあったら俺が教えてやるから、まずはさきちゃんとかさねちゃんで対局してごらん」

 その言葉を受けて千鶴子さんが小さな碁盤を持ってきてくれた。これが9路盤というやつだろう。
 それを19路の碁盤の上に置いてもらって、私とさきちゃんは向かい合うように座り直した。
 それから私たちはその小さな碁盤で何度もゲームを繰り返した。
 初めは分からないことばかりだったけど、哲さんが丁寧に教えてくれるおかげで、なんとかゲームは成立しているようだった。
 勝敗はと言えば、勝ったり負けたりでどっちが強いのかはよく分からなかった。
 だけど、私は勝ち負けよりもさきちゃんと一緒に遊べるのが何より嬉しかった。



 それから次の日も、また次の日も、私たちは哲さんの碁会所に通い詰めた。
 気が付けば囲碁というゲームのことについて学ぶ時間が日課のようになっていた。
 学校のない日には一日中ずっと遊んでいることさえあったが、哲さんも千鶴子さんも、他のお客さんたちも温かく見守ってくれた。
 さきちゃんなんか学校の授業中にも囲碁の本をこっそり読んでて、先生に叱られるくらい熱中していた。
 しかし、それはとても穏やかでとても幸せな時間だった。ずっとずっとこんな風に過ごしていられたらいいのになと思った。

 だけど、私は、――いや私たちは少しずつ異変に起きていることに気が付いた。
 それは最初の一ヶ月で石取りゲームを卒業して本格的に囲碁を始めた頃から感じ始めた違和感だ。
 私はたまたま調子が悪くて連敗しただけだと、自分に言い聞かせていた。
 しかし、そんな"偶然"はいつまでも続いて、やがて"必然"になっていった。
 そんな日々が2年も続いて小学4年生になった頃、違和感は隠しようがなくなった。
 いつの間にか私はまるでさきちゃんに歯が立たなくなっていたのだ。そう、もはや認めざるを得ないだろう。


 ――早川さきは天才だった。哲さんが言うには彼女の実力はすでにアマチュアの高段者クラスになっているらしい。
 一方で私も有段者クラスにはなっているらしいけど、なかなかその実感は持てない。
 だって、さきちゃんは私よりもずっと強くなっているんだから。その差はもはや歴然だった。
 だけど、私はだんだんとさきちゃんに勝てなくなっていった初めの頃には、置き石、――つまりハンデなしの勝負にこだわっていた。
 同じタイミングで囲碁を覚えたさきちゃんにハンデをもらうだなんて私のプライドが許さなかった。


 でも、ある日私はふと気が付いた。
 私が落ちものパズルで勝ち続けて「ハンデをあげようか」と提案したとき、彼女は嫌な顔なんてひとつもしなかったってことに。
 むしろ彼女は「かさちゃんは強いからなあ」って笑いながらそれを受け入れてくれた。
 今にして思えば内心は嫌な気持ちだったのかもしれない。誰だって負けるのは悔しいし、情けをかけられたらもっと悔しい。
 しかし、もしそうだとしても、それを表に出さない程度に彼女は大人だったのだ。
 それに比べたら私は意地っ張りな子供だった。そのくせさきちゃんのほうが精神が幼いってどこかで見下していた。
 そんな最低な気持ちが心の中にあると気付いたとき、私は吹っ切れた。変なプライドは捨てることにしたのだ。
 それから私は彼女と打つときは置き石をもらうことにした。今じゃ私のほうが格下なのだから当然のことだった。

 ……いや、それは私だけのことじゃない。
 碁会所の他のお客さんたちも、みんなさきちゃんには敵わなくなっていた。……唯一、哲さんを除いては。


 そして今、さきちゃんは真剣な顔をして哲さんと碁を打っている。
 いや、真剣な顔というのは私の想像だ。私は別のお客さんと碁を打っている最中で、彼女には背を向けているので、その表情を窺い知ることはできない。
 だけど、彼女はいつだって真剣に碁を打っているから、きっと今もそんな様子だろうと思ったのだ。
「ふーむ、ここはどうしたもんかねえ……」
 ときどき聞こえてくるぼやき声は哲さんのものでさきちゃんはずっと無言だった。
 その代わり、哲さんが石を打つとすぐに別の大きな石音が聞こえてくる。さきちゃんが打つ石音は実に威勢が良かった。
 それに彼女はとても早打ちだ。それにつられて哲さんも早打ちになるものだから、私が一局打ち終えるまでに彼女たちは二、三局打ち終えることもざらにあった。


「かさちゃんは長考派だねえ」
「あ、すみません! 打つのが遅くて……」
 私は対局相手のおじさんに促されて、慌てて次の一手をぱちりと着手した。
 普段から私は考え込みがちなほうだけど、さきちゃんの様子が気になっていたせいもあって余計に長い間おじさんを待たせてしまっていたようだ。
 しかし、おじさんは申し訳なさそうに笑いながら、
「悪い、悪い。急かしたわけじゃないんだ。
 かさちゃんくらいの年頃の子は早打ちが多いからね。しっかり時間を使って考えられるなんて立派なもんだと思ったんだよ」と褒めてくれた。
 でも、遅くて弱いよりは早くて強いほうがいいんじゃないだろうか。それに考えてると言ったって、私の場合はただ悩んで手が止まっているだけだ。
 ――そのとき背後から「負けました」と呟く声がした。どうやらさきちゃんが本日二局目の碁を投了したらしい。

 それは互先(ハンデなしの勝負)ではなく置き石ありの勝負だった。もちろん置き石を貰っているのはさきちゃんのほうだ。
 置き石の数は三子、つまりさきちゃんは初めから盤面にみっつの黒石を置いた状態からスタートしたのである。
 通常互先では黒番のほうが先に打ち始めるけど、置き碁の場合は先に打ち始めるのは白番と決まっている。つまり今回の場合哲さんのほうだ。
 そして一子の価値は、段級位の差に置き換えると1段階の差ということになる。
 つまり初段の人が三段の人と対局するなら、二子を置くのが適正なハンデということだ。級位者と段位者の対局だと少しややこしいけど、1級の人は二段の人に二子を置かせてもらうことになる。


 それにしても、さきちゃんはすでに高段者、――アマ五段くらいの力はあるということだから、そんな彼女に勝った哲さんはアマ八段くらいの力があることになる。
 現在の規定では、アマチュアの段級位は八段が最高位なので哲さんはアマのトップクラスの実力者ということだ。
 いや、もっと厳密に言えばほとんどプロと変わらないくらいかもしれない。私はようやく哲さんの凄さを実感するようになってきた。
 だけど、さきちゃんは全然納得いかないらしく、頭を掻きながら大声で叫んでいた。

「あーもう悔しいー!! どうして三子も置かせてもらってるのに勝てないの!?
 悪い手なんか全然打ってないつもりなのに、毎回いつの間にか形勢が悪くなってる! なんで!?」
「がっはっは、そりゃあ俺がさきちゃんよりもずっと強いからよ。そう簡単に負けてたまるかい」
 そんな様子に別のおじいさんが反応して、さきちゃんをフォローした。
「いやいや、さきちゃんのほうが勝つことだってあるだろう?
 てっちゃん相手に三子で勝ち負けの碁を打ってるってだけでも大したもんさ。
 俺たちじゃ、ほとんど誰も三子でてっちゃんには勝てないよ」
「それでも悔しいもんは悔しいの! 哲さん、もう一局お願いします!!」
 さきちゃんと哲さんは盤上の石をささっと片付けると、また初めから三子の碁を打ち始めた。
 打ち終えた碁を最初から並べ直して検討したほうが強くなる人もいるけど、さきちゃんの場合、そうやって対局を積み重ねたほうが強くなれるようだった。
 きっと彼女は頭の中で先程の碁の悪かった点を考えながら、次はああしよう、こうしようと工夫を凝らして打っているのだろう。
 哲さんもそれが分かっているので、さきちゃんが満足するまで付き合っているのだ。


 30分後。結局、今日は三局とも哲さんの勝ちだったらしい。……私も勝てなかった。一局しか打ってないけど。
 時刻はもう17時半前だった。碁会所は20時までやっているけれど、小学生の私たちにとってはもうタイムリミットだ。
 私はさきちゃんの腕を引っ張って「そろそろ帰ろうか」と誘った。
「あともう一局だけ! 一手10秒の早碁なら――」
 そんなことを言いながら、さきちゃんは奥の壁側の棚から対局時計を持ってきて弄り始めた。
 これはデジタル式の時計だから、持ち時間制だけじゃなくて一手10秒といった設定もできる。
 さきちゃんは元々早碁だから、あまり対局時計を使うこともないのだけど、こうやって駄々をこねるときだけ持ち出してくるのだ。
「こら、門限18時でしょ? いくら早碁でも打ってる暇ないって」
「そんなことないよ! 20分くらいで打ってダッシュで帰れば間に合うって!」
「おいおい、もし慌てて転んで怪我でもされちゃ親御さんに申し訳が立たねえよ。
 それにこの前も時間ギリギリで心配した親御さんが迎えに来ただろ?
 うちは基本的に年末年始以外は毎日やってるんだ。また明日リベンジしに来ればいいじゃねえか」
「むぅうううぅうう……」
 さきちゃんは唸っているけど、どうやら一応諦めてくれたらしい。
「まあ、そうは言っても、俺は県代表になったこともあるんだぜ。まだまだふたりには負けねえよ」
 その光景を見て千鶴子さんはカウンターから私たちのランドセルを持ってきてくれた。


「あらやだ。そんなの数十年も前の話でしょ。
 それに県代表って言っても田舎の茨城県よ。東京とは参加者の層の厚さが違うんだから」
「県代表は県代表だろうがい。俺ぁ嘘も誤魔化しもしてねぇぞ」
 ……ちなみに私の知る限りで補足すると、哲さんは前職では茨城県で個人タクシーの運転手さんをしていたらしい。
 哲さんはずっと仕事一筋の独身で、千鶴子さんは旦那さんを若くして亡くした未亡人だったそうだ。
 そんなふたりはお互いまだ30代だった頃に出会った。ある日、千鶴子さんはその亡くなった旦那さんの何回忌だかの法要のために哲さんのタクシーに乗り込んだのだ。
 そして、その用件を聞いた哲さんは運転しながら、千鶴子さんを不憫に思って話をしているうちに情が湧いてきて、その日以降も相談相手として連絡を取り合うようになったらしい。

 ……というのは正直なところ半分嘘だと思う。照れ臭そうに昔を懐かしむ哲さんの様子を見るに、おそらくは一目惚れしてナンパしたと言うほうが正確なのだろう。
 それから千鶴子さんとの交際を始めた哲さんはいいところを見せたかったのか、今まであまり参加したことのない囲碁大会に参加して見事県代表の座を勝ち取った、……という話はこれまでも何度か聞かされてきた。
 なんとも若々しい青春物語みたいなエピソードだ。
 そして哲さんは数十年経ってタクシーの運転手さんを引退したあと、東京都に引っ越してこの碁会所『竜神』を開いたのだという。


 閑話休題。
 私たちはランドセルを背負って、ガラス張りの扉の前まで進んで哲さんと千鶴子さんに向かってお辞儀をした。
「それじゃ、失礼します!」
「失礼しまーす! 哲さん、明日は勝つからねー!」
 さきちゃんはお辞儀のあとに、ぶんぶんと手を振って元気いっぱいだった。
 それに対して哲さんも大きな手を振って見送ってくれた。
「おう、またな!」
 通り抜けた扉の向こうから、そんな朗らかな声が聞こえた。
 新鮮な空気の味を感じながら振り返ったとき、哲さんがポロシャツの胸ポケットからタバコとライターを取り出していたのが、何故か印象的だった。



 ――それからさらに2年後。小学6年生の春、ついにさきちゃんは哲さんに互先で勝利した。
 その碁はさきちゃん好みの乱戦でお互いの大石が生きるか死ぬかの争いになっていた。
 そのとき私はたまたま他に対局相手がいなくて、初めから観戦していたけれど、どちらが優勢なのかは最後の数手になるまで分からなかった。
 ぱちり。さきちゃんの打つ石音が張り詰めた空気を震わせた。どうやらその手が決め手だったらしい。
 さきちゃんが哲さんの大石を殺し、同時にさきちゃんの大石は生きが確定したのだ。
 死ぬとか殺すとか、物騒な囲碁用語もその激しい戦いを見れば、決して誇張表現ではないと思った。
 碁笥の上に置かれた哲さんの大きな手がぷるぷると震え出した。やがて哲さんはぽつりと呟くように言った。

「まいった。俺の負けだ」
「………………え?」
 何が起きたか分からないといった様子で、さきちゃんはぽかんと口を開けていた。
 哲さんもそれから俯いて何も言わなくなってしまったから、代わりに私がさきちゃんに勝敗を告げた。
「さきちゃん、勝ったんだよ。あなたが、哲さんに、互先で!」
「ほ、本当に……? 夢じゃないよね……? 信じられない……!
 やったぁああああああぁぁああああ!!」
「うひゃあ!?」
 さきちゃんは大喜びで立ち上がり、その勢いのまま私に抱きついてきた。
 ……こういうときって抱きつくのは私のほうじゃないのかな。でも、ぎゅっと抱き締められて悪い気はしなかった。


「がーはっはっは!! まいった、まいった!!」
 哲さんは豪快に笑いながら、膨らみのあるお腹を叩いていた。
 さきちゃんの棋力が哲さんに追い付いたのが余程嬉しかったんだろう。
 そのまま立ち上がると私ごとさきちゃんを抱き抱えて、ぐるぐると振り回し始めた。
「うわあっ! なになに!? 目が回る~!!」
「ひぃやぁああああぁああ!!」
 私たちはふらふらになるまで振り回され、哲さんの気が済む頃にはすっかり目を回してしまっていた。
 それでも床に降ろすときはゆっくりと優しくしてくれた。
「ほれほれ、そのくらいで勘弁してやりなさいな」
 カウンターからは千鶴子さんが呆れたようにこちらを見つめていた。
 しばらくして落ち着いた頃、哲さんは「よくやったな、さきちゃん」と褒め言葉を口にしながらもこう続けた。

「けどよ、手の内を知り尽くした相手と打っているばかりじゃ、井の中の蛙ってもんだぜ。
 さきちゃんやかさちゃんほどの実力があるなら、こんなちんけな碁会所だけじゃなく、もっと広い世界を見るべきだ」
「……私も、ですか?」
 意外だった。そりゃ私も少しは強くなっていると思うけれど、今は哲さんやさきちゃんとは二子の置き碁で戦っている。
 とてもじゃないけど、その差が埋まるようなビジョンは見えないし、ましてやこの碁会所以外の場所で通用するほどの力があるとは思えなかった。
「いやいや、そんな風に思ってしまうことこそ、広い世界を知らない証拠さ。
 はっきり言おう。俺から見れば、さきちゃんもかさちゃんも同じくらいの天才だ。
 自分では気付いてないかもしれないが、かさちゃんだってもうそんじょそこらのアマチュアには負けねえよ。
 アマチュアの段位で言えば六、七段ってところか。たった4年でここまで強くなったのは紛れもない才能だ」
「……………………」
 さすがに贔屓目が過ぎるのではないだろうか。
 そうは思っても、この碁会所では今の私より強いお客さんはさきちゃん以外他にいないのだから、哲さんの言葉を信じるほかないだろう。
 それに何より哲さんはお世辞で人を褒めるようなタイプじゃない。だからこそ、きっとその褒め言葉は真実なのだろう。


「――と同時にだ。ふたりとも真の強者(つわもの)と巡り会っちゃいねえ。
 俺にはもうふたりに教えられることはほとんど残ってねえんだ。これ以上、ここで打っていても更なる成長は望めないだろう。
 そこでだ。こんな大会があるんだが、ふたりとも参加してみねえか?」
 そう言って哲さんは棚からチラシを取り出して私たちに見せてくれた。そこには「少年少女囲碁大会」と書かれていた。
「大会、ですか……?」と私は訊ねた。
「おっと、ただの大会じゃねえぞ。全国大会だ。
 各都道府県から予選で勝ち抜いた小中学生たちがしのぎを削るのさ。
 ふたりが参加するなら小学生の部だな。そこで優勝すりゃあ小学生名人の栄誉が手に入るのさ」
「んー、でも私はかさちゃんや碁会所のみんなと打ってるだけで幸せだから。
 名人なんて別に興味ないかなあ……」
 ……それは私だってその通りだ。ここでみんなと、さきちゃんと哲さんと碁を打てれば他に何も要らない。
 だけど、私は自分の力を試したい。ふたりに追い付くために勉強してきた結果がどこまで通用するのか知りたい。

「私はその大会に参加しようと思います。
 私も優勝なんて興味ないし、そもそもそんな力はないと思うけど、私は大海を知りたいです!」
「そうか! よく言った、かさちゃん!」
 哲さんは力強く私の背中を押してくれた。少し痛かったけど、その分だけ勇気をもらえた。
 さきちゃんはじっと私の瞳を覗き込んでくる。……一緒に来てくれないだろうか。
 私は黙ったままさきちゃんの瞳を見つめ返す。相手に甘えるような願いを口にできるほど、私は正直者じゃない。
 だけど、私の想いが通じたかのように、さきちゃんは口を開いてくれた。


「大会だけに?」
「………………はい?」
「大会!! だけに!!!??」
「聞こえなかったわけじゃないから」



 そして大海、……もとい大会の東京都予選の日がやってきた。
 日本棋院という会場につくと、入り口には「少年少女囲碁大会」という看板が掲げてあり、そこを抜けるとすぐに受付があった。
 ……受付と言っても、申し込みは事前に済ませてあるし、名前を告げて名札や対局の組み合わせ表を受け取るだけだ。
 そして階段を上り2階に到着すると、選手の子供や付き添いの大人たちが大勢集まっていた。
 初めて来る場所だから迷わないか心配だったけど、それは全くの杞憂だったようだ。

「わあ、ここにいる子たち、みんな参加者なのかな?」
「どうかな。兄弟の付き添いとかもあると思うけど。
 そういうさきちゃんだって別に付き添いだけでもよかったのに」
「つれないなあ。せっかく来たんだから私だって参加したいよ」
 結局、さきちゃんも一緒に来てくれて、この大会に参加することになった。
 なんだかんだ言って彼女もノリノリで楽しそうにしている。緊張とかしないのかな。
 ちなみにもちろん、それぞれのお母さんも保護者としてついてきている。
 お母さんが応援してくれてるのはありがたい。お父さんは大会に出るって言ったら、ちょっと渋い顔をしていたけれど。
 ……学校の成績が下がってるのを気にしているらしい。でも今は勉強よりも囲碁に打ち込みたいな。

 そんなお母さんを横目で見ると、さきちゃんのお母さんと楽しそうに談笑していた。
 対局開始まで、まだ時間はある。暇を持て余した私は視線を落として手に持った組み合わせ表を確認する。
 小学生の部東京都予選では4人の代表者が本戦に進出できるらしい。
 参加者がいくつかのリーグに分かれ、その結果により代表者が決まる。
 なおリーグ戦全勝者が5人以上いた場合は、勝ち抜けの変則トーナメントで4人に絞られるようだ。
 他にもいろいろ細かいルールが書いてあるけれど、いずれにせよ本戦に進むにはたった一敗でも命取りになりかねないということだ。
 ……さきちゃんとは少なくともリーグ戦では当たらない。上手くいけばふたりとも本戦出場の可能性もある。
 さきちゃんにはとても勝てる気がしないというのもあるけれど、そんな夢を見られるというのが一番ありがたかった。


 時間になると、審判長だというおじさんが現れて挨拶をした。緊張し過ぎて正直なところ何を話していたかはよく覚えていない。
 気が付けば開始の合図があり、それぞれ指定された席に座って対局を始めることとなった。
 対局の前に何か一言交わそうかとも思ったけど、さきちゃんの席は遠く離れていた。
 でも近くにいたら気になっちゃうから、こっちのほうがいいかな。
 私は名札に書かれた番号と机の上に置かれた紙に書かれた番号を見比べながら、指定の席に座る。
 正面に座っている私の対局相手はちょっとスポーツ少年みたいな気が強そうな男の子だった。
 学年は私と同じ6年生か、あるいは5年生だろう。名札にも組み合わせ表にも学年までは書かれていなかったから正確には分からない。
 さきちゃん以外の同世代の子と打つのはこれが初めてだ。大丈夫かな、勝てるかな……。


 ――――――――。
 ちっ、初戦の相手は女かよ。かさねって名前の時点でそうだとは思ったけどよ。
 別に女だからって舐めてるわけじゃない。むしろその逆だ。
 女でも強い奴は強いし、もしかしたら負けるかもしれない。油断したら駄目だ。
 小学1年生の頃から囲碁を始めて2年前、つまり4年生の頃には都代表にもなったし、自分が強いという自信はある。
 だからこそ、そんな俺がいきなり初戦で女に負けたらめちゃくちゃかっこ悪いじゃねえか。
 もちろん負けていい対局なんてひとつもない。けど、ここは絶対に負けたくないな。
「よろしくお願いします……」
「よろしくお願いします」
 お互い挨拶をすると手元に移動させた碁笥の中から、それぞれ石を握る。
 そして相手に見えないようにしたまま握った手を盤の上に置く。
 白石を握るほうはたくさん握り、黒石を握るほうは1個か2個握って、白石の数が奇数か偶数かを当てる。
 たとえばもし白石が11個で黒石が1個なら、奇数であることを当てたことになり、そのまま黒番として打ち始めることになる。
 逆に奇数か偶数かを外した場合は碁笥を交換して白番として打つことになる。それがニギリと呼ばれるルールだ。

 俺は黒番のほうが勝率がいい。できれば黒を持ちたい。
 女がたどたどしい手つきで白石を2個ずつ動かして数えていく。目線の動きもおどおどしてるように見える。
 ……なんだ? 置き碁ばかり打ってて互先に慣れてないのか? それとも久しぶりなのか?
 なんにしても女の様子はどうにも自信なさげだった。
 大した実力もないのに友達に誘われて仕方なく参加することになった、……そんなところだろうか。
「……8、……10、……12。……これで13個。奇数です」
 わざわざ口に出す必要はないのに、女はそう宣言した。こっちも奇数、つまり俺のほうが黒番になることが決まった。
 よし、運がいい。黒番ならいい感じで打てそうだ。
 それにこんな不安そうにしてる女なら簡単に勝てるかもしれない。初戦で圧勝して一気に弾みをつけてやる!


「――どうだった、かさちゃん?」
 対局のあと碁石と碁笥を片付け終わると、いつの間にかさきちゃんがうしろから覗き込んでいた。
 男の子は片付け終わったあと、下唇を噛んだまますぐにどこかへ行ってしまった。だから私は遠慮なく結果と感想を伝えた。
「勝ったよ。でも正直相手がそんなに強くなかったかな。
 もしかしたら囲碁を始めてそんなに日が経ってないのかも」
「ふーん、それならラッキーだね。相手が大したことなくて」
 そう言いながら笑う彼女の結果は、聞くまでもないだろう。彼女ならどんな相手でもきっと負けない。
 さきちゃんの棋力ならきっとあっさりと本戦出場を決めてしまうのだろう。
 それを間近に見られるだけでも私がこの大会に参加した意味はあったのかもしれない……。



「――それで結局、ふたりとも都代表になって、本戦トーナメントの準決勝で争うことになるとはな。
 それにこの大会でまた成長したんじゃねえか? 予選のときのままなら本戦ではいい成績は残せなかっただろう。
 いやはや、すべて俺の見込んだ通りだが、ふたりともたいしたもんだ」
 予選から約2ヶ月半後の本戦を終えた翌日、ふたりで碁会所に行って哲さんにその結果を報告した。
 本戦は2日がかりで行われ、そこでもまたリーグ戦があり、その突破者がトーナメントに進出するという形式だった。
 私は本戦トーナメントの準決勝でさきちゃんと当たって負けちゃったけど、その後の3位決定戦ではどうにか勝つことができた。
 でも、さきちゃんも決勝の相手には敗れた。その相手は以前『院生』と呼ばれるプロ棋士の養成所に通っていたらしい。
 負けたとは言え、そんな相手とほとんど互角の勝負をしていたのだから、やっぱりさきちゃんはすごかった。
 そういう私も思ってた以上にいい成績を残すことができたけど、あまりにとんとん拍子過ぎて結局自分の力のほどはよく分からなかった。

「でも、できれば優勝したかったなー。惜しかったんだけどな。
 あそこでキリじゃなくてノビを選択してれば……」
「さきちゃんはすぐ乱戦にしようとするから。
 もう少しじっくりと打てば勝てたと思うな」
「そいつはどうかね。それぞれ棋風にあった打ち方をするのが一番よ。
 無理に自分に合わない打ち方をしても勝てるようになるとは限らねえな」
 囲碁の打ち方は人それぞれってことか。確かにそれは一理あるかもしれない。
 それに普段と違う相手と戦うのも本当に勉強になった。
 こちらの星打ちにカカリじゃなくて、いきなり三々に入ってくる子がいたのも驚いた。
 あとでスマホで調べてみたら、最近流行しているAI流の打ち方で、中国のトップ棋士も採用して話題になったんだとか。


「写真を飾るのはこのあたりでいいかしら」
 その声がするほうに目を向けると、千鶴子さんが何かの写真をフォトフレームに入れて奥の壁側の棚に飾ろうとしているところだった。
 ……って、あれは私とさきちゃんが表彰されたときの写真!?
 あんまり目立つところに置かれるのは恥ずかしいな……。せめてカウンターの裏側の棚にしてくれないだろうか。
 緊張してるせいもあって写真写りもあまりよくないし。でも哲さんも千鶴子さんも嬉しそうだし、我慢するしかないか。ぐぬぬ……。



 それからまた数ヶ月のときが過ぎて新年を迎えることになった。
 年末年始の間は哲さんの碁会所もお休みだったから、さきちゃんとはお互いの家に行って碁を打った。
 ちなみに大会の会場だった日本棋院という囲碁の施設でもお客さん同士での対局ができるらしいけど、やっぱり年末年始はお休みだったので行くことはなかった。
 いや、もし営業してたとしても、さきちゃんとふたりで打つだけならお互いの家でいいだろう。
 どちらの家にも折り畳みの安い碁盤しかないけど、それで十分だった。
 そして今日から正月明けで哲さんの碁会所もまた営業を始めているはずだ。
 学校帰り、久しぶりの碁会所でウキウキなのか、さきちゃんはスキップしながらいつもの雑居ビルへと向かっていた。

「さきちゃん、危ないよ。
 昨日雪が降ったばかりだし気を付けないと転んじゃうよ」
「平気だよ。私、運動神経いいもん。
 かさちゃんと違ってね」
「む。なんでそんな意地悪言うの! 心配してあげてるのに」
「あはは、本当のことだもーん」
 そんなじゃれ合いもいつものことだ。
 来年度からは中学生になるけど、多分同じ中学に通うことになるし、このままずっとこんな関係が続けばいいな。
 私はさきちゃんの悪ふざけに付き合って、やや早歩きで追いかけて捕まえようとする。
 もちろん彼女はそう簡単には捕まらない。私だって本気で捕まえようとしているわけではないけれど。
 そんな追いかけっこをしているうちに雑居ビルの前までたどり着いた。
 しかし、コンクリートの階段を上って、ガラス張りの扉の前に立ったとき、私たちは異変に気が付いた。


「長期休暇……?」
 先にそう呟いたのはさきちゃんのほうだった。
 ガラス張りの扉に手書きの張り紙がしてあって、そこにはしばらく碁会所をお休みするというお知らせが書いてあったのだ。
 しかも、どれくらいのお休みになるのかは分からないらしい。
 理由も諸事情のためとあるだけで具体的なことは何も分からなかった。
「年末にも、そんなこと言ってなかったのに」
 さきちゃんは私への問いかけなのか独り言なのか分からない声色でそう言った。
 それは残念そうというよりも、突然のことで不思議に思っているような感じだった。
 私たちは去年の最後の営業日まで哲さんの碁会所に通っていたけど、そのときは正月明けには営業を再開するような口振りだった。
 何か急な用事でもできたんだろうか。あるいは、それとも――。

「さきちゃん、ここ見て」
「え、なあに?」
 私は張り紙の下のほうを指差す。
 そこには「急ぎの御用がある方はこちらまで」という文章とともに、連絡先の電話番号が書かれていた。
 多分ここに電話をかければ哲さん、あるいは千鶴子さんが出るのだろう。
「一度この電話番号にかけてみない? 私たち他に連絡先なんて知らないし」
 正確には碁会所の電話番号は調べれば分かるかもしれないけど、今ここに誰もいないのだからかけても仕方がない。
 哲さんと千鶴子さんの家はここからそう遠くない場所にあるらしいけれど、その場所も知らない。
 とにかく書かれてある通り、この電話番号にかけるのが手っ取り早いと思ったのだ。

「いいよ。それじゃ私が――」
 私はそう言って、スマホを取り出そうとするさきちゃんを制止した。
「大丈夫。私がかけるよ。
 電話は苦手だけど、知らない人が出るわけじゃないだろうし」
 もちろんさきちゃんに任せてもいいのだけど、なんとなく不安な気持ちがあって私自身で確かめたかった。
 電話越しでも声の調子で分かることもあるかもしれないし、自分でかけたほうがいいだろう。
 私はスカートのポケットからスマホを取り出して、その張り紙に書かれた電話番号を入力していく。
 そして通話ボタンを押すと呼び出し音が鳴って、やがて繋がった。


『はい、もしもし。梶原です』
 その声は聞き覚えのある女性のものだった。
「あ、もしもし! 千鶴子さんですか?
 雨宮かさねです。碁会所の前まで来たら張り紙がしてあって――」
『ああ、かさちゃん! さきちゃんも近くにいるのかしら?
 ごめんなさいね、連絡先さえ分かればあなたたちにも連絡したんだけれど……』
「あ、ええっと、それは構わないんですけど。
 それより何かあったんですか?」
 急に休みになったことを責めたいわけじゃない。私は慌てて本題に入る。
 そしたら千鶴子さんはなんでもないことのように応えてくれた。

『いえいえ、別に大したことじゃないのよ?
 ただ私たちももう年だから。たまにはのんびりする時間も欲しくなって。
 それで急なことだけど、お休みすることになったのよ。
 再開する日が決まったらすぐに連絡するわね。連絡先は今かけてくれた電話番号でいいのでしょう?』
「あ、はい。すみません、お願いします……」
 それからさきちゃんに電話を代わって、しばらく様子を見ていたけど、すぐにその通話は切れたらしい。
 なんだか腑に落ちないところもあるけれど、千鶴子さんには特におかしな様子はなかった。
 だから私はその言葉を信じて碁会所の再開を待つことにするのだった。
 それまではさきちゃんと打ったり、本を読んで勉強する時間を増やしたりしよう。



 そして春の訪れを感じる季節になったとき、千鶴子さんから碁会所再開の連絡があった。
 長くても1ヶ月くらいだろうと思っていたので、3月になるまでお休みが続いたのには驚いた。
 もしかしたらもう営業再開することはないんじゃないかという漠然とした不安も感じかけていたくらいだ。
 でも哲さんは帰ってきた。千鶴子さんから連絡をもらったのは土曜日のことで、私はさきちゃんの家に向かう途中だった。
 その連絡を受けた私は駆け足でさきちゃんの家へと向かい、予定を変更して急いでふたりで碁会所へ行くことにした。
 ……そこには確かに哲さんがいた。そして挨拶をしながら店へと入る私たちに明るく返事を返してくれた。

 だけど、その姿は――。


「あれ、ちょっと痩せました?」
 さきちゃんは遠慮もなしにそんなことを訊いた。
 私も気になっていたことだ。前に会ったときよりも少しだけ頬がこけたように見える。
 ……痩せたというよりはやつれたといったほうが正確なんじゃないだろうか。どことなく顔色もよくない。
「お、分かるかい? 年甲斐もなくダイエットにハマっちまってよ。
 休みの間はずっと筋トレしてたんだよ、筋トレ。
 碁会所を開けるのも忘れるくらいにな! がっはっは!!」
 その笑い方はいつも通りの哲さんのように思える。
 だけど、私はその姿を見てもやっぱり漠然とした不安がかき消せないままだった。
 カウンターにいる千鶴子さんの表情も暗く沈んでるように見えるのは気のせいだろうか。

「いいじゃないですか、いくつになっても運動は大事だもん!
 うちのお父さんなんてお酒が好きなうえに運動不足で――」
「あの、哲さん! 私と打ってくれませんか!?」
 さきちゃんの言葉を遮って、私はそう申し入れた。
 哲さんもさきちゃんもきょとんとした顔をしている。いきなりどうしたんだと言わんばかりだ。
 だけど、哲さんはすぐに笑顔を浮かべて快諾してくれた。
「おう、構わんぜ。
 かさちゃんが俺と会わない間にどれだけ強くなったか試させてもらおうじゃねえか」
「はい。私は強くなりました。
 その力を今ここで試させてください!」
「ははは! そちらが試す側かい?
 いいねえ、その意気だぜ、かさちゃん」


 そうして始まった碁は哲さんとは初めての互先だった。
 置き石はなしにしても、せめて定先のほうがいいんじゃないかと言われたけれど、私はそれを固辞した。
 囲碁は盤上では黒番のほうが有利な分、互先のとき白番は6目半(中国ルールでは7目半)の陣地を初めからもらうことになる。
 そのルールをコミというが、コミなしで打つのが定先だ。これは段級位で言うと、1段階差の相手と打つときに適正なハンデとなる。
 置き碁も定先も固辞したということはつまり、対等な条件で一局打つということだ。
 ……別にそれで勝つ自信があるわけじゃない。
 だけど、ハンデをもらって打つのでは、私の力を十分に試したとは言えない気がしたのだ。
 ニギリの結果、私が白番になった。もちろん哲さん相手に白で打つのは、これが初めてのことだ。

 その一局は序盤は比較的穏やかな流れだった。お互い喧嘩もせず、着実に地を増やしていく。
 三隅は哲さんに取られたが、その分私は辺で地を稼いでいるから互角の形勢だ。
 途中厳しい打ち込みもあったが、軽やかにかわして互いに安定した形となった。
 それはまるで社交ダンスのよう。互いの息を合わせてステップを踏んでいく。
 しかし、中盤に差し掛かると哲さんの動きは激しくなり、私もそれに応えるように攻め立てていった。
 こうなるとこれはもうダンスなんかじゃない。ボクシングの殴り合いだ。激しい応酬が続く。
 とにかく攻めて攻めて攻めまくる。先に息切れしたほうが負けだ。
 そして勝負は終盤に差し掛かる。激しい荒らし合いの中で、一瞬の隙をついて私は勢いよく石音を立てた。
 ――哲さんの顔色が明らかに変わった。その一手こそがこの碁の勝敗を分ける急所だったのだ。

 そのまま終局し、整地をした結果、コミを入れて私の、――白の1目半勝ちだった。


 私自身も哲さんも、隣で観戦していたさきちゃんも静まり返ったまま動けなかった。
 言葉にならないというのはこのことか。息をするのも忘れてしまうほどに私は呆然としていた。
 この結果を、私は一体どう考えるべきなのだろうか。偶然? 哲さんが手加減をしてくれた?
 そのどちらでもないことは他ならぬ哲さんの様子が物語っていた。
 興奮で強張った顔で指先から全身まで震えている。そして言葉を絞り出すように口から吐き出した。
「ようやってくれたな……、俺の完敗だ……」
 それに私は苦笑いで返すつもりだった。たった1回勝ったくらいじゃ哲さんを上回ったことにはならないのだから大袈裟だと。
 だけど、それが許される雰囲気ではないことに、私はすぐに気付かされたのだ。

「本当に、……ひっく。ようやってくれたなあ……。
 さきちゃんが、かさちゃんが、ふたりがここまで強くなってくれるなんてよ。
 ううっ、こんな日が来るなんて思っちゃいなかった……。
 お前たちの才能を信じなかったわけじゃない……。
 だけど、俺がこの目でふたりの成長を見届けることができるなんてよぉ……。
 これで……、これでもう……、思い残すことなんてねえわなあ……」
「哲、さん……?」
 哲さんは大粒の涙を流していた。大人の男性がお葬式以外で涙をこぼすところを私は初めて見た。
 どうしてそこまで……。その問いかけが喉まで出かかって息苦しくなった。
 おそらく私はもう、あるいはずっと前からその答えにたどり着いている。だけど、気が付かない振りをしているのだ。
 まるでそれを見て見ぬ振りをすれば、なかったことになるかのように。

 しかし、時はそんな甘えを許さなかった。
 さらにその約2ヶ月後、私たちが中学校生活に慣れかけた頃、容赦なく真相を突き付けられた。


 ――哲さんが肝臓癌により、この世を去ったのだ。



「あの人と結婚したとき、お互いもう30代後半だったから。私たち夫婦には子供がいないのよ。
 だから、さきちゃんとかさちゃんの成長がまるで我が子のように楽しみだった。私もあの人もね……。
 だからこそ、あの人はあなたたちに心配をかけたくなくて、癌のことは黙っていてくれって私にお願いしてきたのよ」
 また突然碁会所のお休みがしばらくあって不思議に思っていたところ、千鶴子さんからそんな電話があった。
 その日はゴールデンウィークで学校もお休みだったから、自分の家にいた私はすぐにさきちゃんに連絡をした。
 そして話し合った結果、私とさきちゃんと千鶴子さんの3人で直接会って話をしようということになった。
 千鶴子さんも電話越しにそれを了承してくれて、私たちは近くの喫茶店に集まったのだ。

「……それじゃあ、正月明けにはもう……?」
 私の問いかけに千鶴子さんは静かに首を縦に振った。去年の末、大晦日を向かえようかという夜に哲さんは突然お腹に激しい痛みを感じて病院に緊急搬送されたのだという。
 検査をした結果、肝臓からの出血が確認され止血のための手術をし一命は取り留めたものの、その後の精密検査により肝臓癌の末期に至っていることが判明した。
 肝臓は「沈黙の臓器」と呼ばれ、癌になっても初期にはほとんど自覚症状が出ない、……という話を何かの本で読んだような気がする。
 気付いたときにはもう手遅れだったのだろう。それから約2ヶ月間はそのまま入院し治療を続けることになったそうだ。
 碁会所をお休みしていたのは、そういうわけだったのか……。


「でもね、あの人が悪いんですよ。自業自得だわ。
 もう何年も前からお酒もタバコもすぐにやめるようにお医者さんに言われていたのにやめられなくって」
「……? 哲さん、タバコ吸ってたんですか?」
 千鶴子さんは突き放すような言い方をしたけれど、それはきっと自分の心を守るためにあえてそうしているのだと思った。
 人生の伴侶を再び喪い、つらい思いをしているに違いない。心中察するに余りある。
 気になるのは哲さんがタバコを吸っていたというところだ。
 確かに最初に会ったとき、灰皿にタバコの吸い殻が山ほどあったのは覚えている。
 だけど、それ以来哲さんがタバコを吸っている姿はほとんど見たことがない。だから私はてっきり禁煙しているのだと思っていたのだけど……。

「あなたたちの前で吸うのをやめていただけよ。
 小さい子供にタバコの煙を吸わせるわけにはいかないってね。
 いつもあなたたちが帰るとすぐにぷかぷか吸い始めていたわよ」
「そう、なんだ……」
 さきちゃんはぼそりとそう呟き、物思いに耽っている様子だった。
 私も胸の奥がきゅっと締め付けられる感覚を覚えた。それだけ哲さんは私たちのことを大切に思っていたのだ。
 改めて哲さんの心境を慮ってみると、何故私たちの成長にあれほど喜んでいたのかも分かる気がする。………………。


「でも考えてみたら、その分タバコを吸う本数は減っていたから、あなたたちのおかげで寿命が延びたのね。
 ……本当のことを言えば、入院を続けていればもっと長生きできたのでしょうけれど。
 お医者さんに持ってあと数ヶ月の余命だと申告されて、もう回復の見込みがないと分かると自宅療養をする道を選んだの。
 最期まであの碁会所であなたたちの成長を見守りたかったから……」
 それはつまり私たちのおかげで伸びた寿命の分、私たちの成長を見届けることができたということで……。
 もしその時間がなければ、私は哲さんに互先で勝つことはできなかったかもしれない。


「あの、すみません。こんなときに訊くことじゃないかもしれませんけど――」
 一瞬、躊躇った。悲しみの底にいる千鶴子さんに今この場で決断を迫るような質問をしていいのだろうかと。
 だけど、この機会を逃したら次にいつ千鶴子さんに会えるのか分からない。ここで訊くしかないと思った。
「あの碁会所はどうなっちゃうんですか? 哲さんがいなくなったらあそこは……」
 碁会所の営業を続けることは難しいだろう。でも、せめて哲さんが大事にしてきたあの場所は何かの形で残せないものだろうか。
 私はすがるような想いで千鶴子さんに問いかけた。
「それが悩んでいるところなのよ。私は囲碁はさっぱり分からないものですから。
 あの人は『碁盤の貸し出せる喫茶店ってことにでもすりゃいいじゃねえか』って笑ってましたけど。
 それにしたってすぐに営業開始できるものじゃありませんし。手続きとか発注とかいろいろあるのよ」
「そう、ですよね……」
 困ったような表情を浮かべながらそう言った千鶴子さんに、私はそれ以上何も言えなくなってしまった。

「どんな形であれ、あの場所が残るなら私たちはまた遊びに行きますよ! ね、かさちゃん!」
「……うん、そうだね」
 さきちゃんの明るさのおかげで、その場はそれ以上暗い雰囲気にはならなかった。
「ありがとう、ふたりとも……」
 千鶴子さんがそう柔らかく微笑むと、そのあとは碁会所での思い出話に花を咲かせることとなった。


 それからお店を出るとき、お会計は千鶴子さんがすべて払ってくれることになった。
 私たちも自分が飲んだコーヒーの分くらいは払えるけれど、そのご厚意に甘えさせてもらうことにした。
 さきちゃんはお店を出ると大きく伸びをした。身体が凝ってそうしたというより、そうやって気持ちを切り替えているのだろう。
「それじゃ、千鶴子さん。今日はごちそうさまでした!」
「ご、ごちそうさまでした……」
「いえいえ、いいのよ。
 ふたりに話を聞いてもらえて、私も心が軽くなったわ。
 また何か進展があれば連絡するからね」
 そんな風にやり取りしたあと、さきちゃんは千鶴子さんを家まで送っていこうとしたけれど、千鶴子さんはここで大丈夫だからとそれを断った。
 そうなると、千鶴子さんの家は私たちの家とは反対方向らしいから、ここでお別れだ。
 私とさきちゃんは千鶴子さんに別れの挨拶とお辞儀をして歩き出した。しかし、その背後から引き止めるような声をかけられた。

「さきちゃん、かさちゃん」
「「はい」」
 振り返ると、そこには深々とこちらに頭を下げた千鶴子さんの姿があった。
「あの人に、幸せな最期を与えてくれてありがとうございました……」
 そのまま千鶴子さんは顔を上げることはなかった。――何も、かける言葉は見つからなかった。
 私たちは曖昧に笑うと、もう一度会釈をして今度こそ帰路についた。


 帰り道、さきちゃんはずっと黙っていた。並んで歩いているときに彼女がこれだけ長い間沈黙を続けるのは珍しいことだ。
 かく言う私も何を話していいのかまったく分からなかった。だけど、それでいいのかもしれない。
 言葉を交わすだけが想いを通じ合わせる方法というわけではないのだから。
 私もこのまましばらく沈黙の時間に身を委ねることにしよう……。きっと今の私たちにはそれが必要なのだ――。


「かさちゃん!!」
「え、あ、はい!? なになに、どうしたの、さきちゃん!?」
「……いや、かさちゃんこそ。そんな驚く?」
「ご、ごめん、考え事してて……。それで何?」

 ……前言撤回。やっぱりさきちゃんに沈黙は似合わない。
 私が問い返すと、さきちゃんは曲がり角を指差しながら言った。
「ちょっと寄り道していかない?
 久しぶりに公園でブランコにでも乗って遊ぼうよ」
 空はもうすっかり青黒く染まっている。
 中学生になって少し門限は伸びたけれど、早く帰らないとお母さんに心配されてしまう。
 それに……、この年になってブランコで遊ぶだなんてちょっぴり恥ずかしい。
 私たちもう中学生だよ? そんな言葉が口をついて出そうになったけれど、これは「ふたりきりでゆっくり話がしたい」ということだと直感した。
 それなら答えは決まっている。お母さんには「少し遅くなる」とメッセージを送っておけばいい。
「分かった。向こうの公園だね」
 私はそう了承すると、さきちゃんの手を取って夜の帳に包まれた道を再び歩き出した。


 見慣れたはずの公園も、こうして夜に訪れるとどこか別世界の景色のように感じられた。
 街灯の明かりがぼんやりと遊具たちを照らし出している。
 私たちはその中のひとつのブランコにそれぞれ腰かけると、ゆっくりと揺れ始めた。
 静寂の闇夜に金属の軋む音が響き渡る。一定のリズムで繰り返されるその音と、時折吹き抜ける夜風がなんだか心地よかった。
 ただ、こんな姿を見知らぬ通行人に見られたら非行少女だと思われてしまうかもしれない。今のうちに言い訳を考えておこうかな。

 さきちゃんは、中学校でできた友達の話とか学校の勉強が大変だとか他愛ない話をしてくれた。
 ……かと思ったら、体育の話になってテンションが上がったのか突然立ちこぎを始めて加速すると、なんとそのまま前に向かって飛んだ。
「よーし、着地成功!」
「うわっ!? 何してんの、危ないでしょ!」
「えー、平気だって、これくらい」
 そう言ってさきちゃんはそのまま平均台に上がって夜空に向かって手を伸ばし始めた。
 まったくもって危なっかしいったらありゃしない。私は思わず立ち上がり、彼女の元へと駆け寄った。


「今度は何? 転ぶからやめたほうがいいよ」
「うーん、ちょっと待って。あともうちょっとだから」
 もうちょっと? 何が?
 さきちゃんは必死に背伸びをしながら、何かを掴み取ろうとしているが、彼女の頭上には何も見当たらない。
 変わった子だとは思っていたけれど、ここまで突拍子もない行動をとるのは初めてのことだった。
 それでも何か真剣な眼差しをしているので止める気にはなれず、私は彼女が転んだときに支えられるような場所で見守ることにした。

「何をしようとしているの?」
「お星様!」
「はい?」
「だーかーらー、私は星を掴もうとしてるの!
 ……うわっとっと!!」
 その直後、さきちゃんの身体が大きく傾いた。
 彼女はなんとか平均台に踏み留まろうとしたようだけれど、結局はバランスを崩してしまい、私の方へ倒れこんできた。
 慌てて彼女を抱き留めたが、その勢いのまま地面に尻餅をついてしまった。

「ごめーん、かさちゃん……」
「ほら! だから言ったでしょうが!?」
「でもさー、私小学生の頃に比べたら大きくなったと思わない?」
「……はあ? そりゃ当たり前でしょ。
 さっきから何言ってんのよ、あんた」
 訳も分からず呆れていると、さきちゃんは何事もなかったかのようにブランコに座り直し、おいでおいでと私に向かって手を振った。
 私は溜息をつきながらも、彼女に促されるまま隣に座り再び揺れ始めることにした。

「なんで分かんないかなー。
 だから大きくなったから、星に手が届くかもしれないって話だよ」
「馬鹿ね、星に手が届くわけないじゃない」
「うーん、届きそうな気がするけどなあ」
「あのねえ――」
 ……いや、これは何かのたとえ話なんだろうか。
 その真意を掴み切れずに困っていると、さきちゃんは今まで見たことないような大人びた表情で口を開いた。


「私ね、プロになろうと思うの」
「プロ? なんのプロ?」
「あはは、囲碁のプロに決まってんじゃん」
 私たちまだ中学生だよ? そんな言葉が口をついて出そうになったけれど、これは決して茶化していい話ではないと直感した。
 それ故に私はただ黙って彼女の話の続きを待つことにした。
「……私も私なりにさ、いろいろ考えたんだよ。哲さんがいなくなって、これから先どうするべきなのかなって。
 中学で囲碁部を立ち上げたりするのもいいかもしれないけど、目標もなく碁を続けても哲さんは喜ばないんじゃないかなって。
 きっと誰よりも上を目指して強くなることこそが哲さんへの何よりの供養になるんだと思う」
「だからっていきなりプロなんて……」
「いきなりじゃないよ。初めは院生。
 前に話したでしょ? 少年少女囲碁大会の決勝で戦った子が昔、院生っていうプロの養成所に通う生徒だったって。
 実は今でもときどきその子とやり取りしてて、話を聞いてるうちに強い子たちに囲まれて頑張るのも面白そうだなって思ったの。
 でも哲さんの碁会所で過ごす時間も大切だったから、どうしようかなって悩んでたんだ。
 ……だからいきなりじゃないよ。ふたつの意味でね」
「……そんなこと考えてたんだ」

 急に、彼女が遠い存在になったように感じた。さっきまで公園の遊具で危なっかしい真似をしていた子と同一人物だとは思えない。
 私は将来のことなんて、まだ考えなくていいと思っていた。もちろん囲碁の世界では中学生でプロになる子もざらにいるとは知っている。
 だけど、そんなのは私には全然関係ないことだと、まるで別世界のことのように捉えていたのだ。
 でも、さきちゃんにとってその世界はほんの少し手を伸ばせば届きそうなほど、近くにあるものだったらしい。
 そんなの、私にはとても考えられない。私にとってそれはあまりにも――。


 次の瞬間、雲間からお月様が顔を覗かせた。

「私の夢はそれだけじゃないよ」
 ……あれ、おかしいな。
「私はかさちゃんとずっと一緒に過ごしていたい。
 かさちゃんとずっと一緒に碁を打っていたい。
 かさちゃんとずっと一緒に笑っていたい」
 なんだか変だな……。不思議な光景だ……。
「かさちゃん、お願い!
 私と一緒に院生になろう。かさちゃんにも私と同じ道を歩んで欲しいんだ。
 大丈夫、私たちならどこにだって行けるよ!」
 月明かりってこんなにも眩しかったっけ……?

 差し伸べられた手を取る勇気は、私にはない。だからこれは勇気なんかじゃない。
 私の手はカタカタと震えていた。とてつもなく恐ろしい。
 この手を取ればきっともう後戻りなんてできない。
 それどころか進んだ先には地獄が待ち受けているかもしれないのだ。
 それでも私は迷うことなんてなかった。他に選ぶ道など、どこにもないのだから。

「うん、行こう。どこまでも一緒に……」
 私がその手を取ると、さきちゃんは満面の笑みを浮かべてくれた。
「ありがとう、かさちゃん! それでこそ私の親友!」
 そして私たちは手を取り合ったまま立ち上がり夜空を見上げて、もう片方の手を高く掲げた。
 まるで哲さんが煌めく星になって、私たちを見守っているとでもいうかのように。
 冷たい風が火照った身体をひんやりと冷ましてくれた。今夜は冷え込むらしい。


「へっけちゅ!」
「……風邪引く前に帰ろうか」



 院生試験。それは毎年3ヶ月ごとに行われる院生になるための試験らしい。
 私たちが募集の締め切りに間に合ったのは、7月期の試験だった。
 履歴書みたいな志願書を提出し書類審査を通れば、1万円を超える受験料を払ってようやく受けることができる。
 つまり十分な棋力や適性がないと見なされれば門前払いを受ける可能性だってある。この時点ですでに狭き門なのだ。

 ……とは言え、少年少女囲碁大会で3位以内に入った私たちはそこはクリアしていたようで、すぐに試験の日時の連絡があった。
 さきちゃんにも確認すると私は彼女の試験のすぐあとに受けることになっていた。
 場所は日本棋院。ここを訪れるのは去年8月の少年少女囲碁大会本戦以来だ。
 私はお母さんと一緒に受付に向かい、前の子、つまりさきちゃんの試験が終わるまでしばらく待つように指示されたが、すぐにエレベーターの扉が開いてさきちゃんとそのお母さんが歩いてきた。
「さきちゃん!」
「あ、かさちゃん! このあと試験だよね?」
「うん……、さきちゃんはどうだった?」
「へへん、当然合格!」
 さきちゃんはにぃっと笑ってVサインを見せつけてくる。それを見て私は自分のことのように胸を撫で下ろした。
 そして彼女は「かさちゃんも絶対受かるよ!」と応援の言葉を口にするとともに、私にハイタッチを求めてきた。
 私はそれに力強く応える。さきちゃんの純朴な後押しが何よりも心強かった。


 受付の人によれば試験は少なくとも1時間くらいはかかるらしい。それまでお母さんは外の喫茶店で待っててくれることになった。
 緊張しながら私は受付の人とともにエレベーターに乗り込む。その扉の隙間から大きく手を振るさきちゃんの笑顔が見えた。
 私がそれに気付いて手を振り返そうとする前に無情にも扉は閉まり、エレベーターは上の階を目指して動き出した。
 さきちゃんの姿が見えなくなると急に不安が押し寄せてきて、胸が苦しくなった。
 もしも私だけがこの院生試験に落ちたら、少なくとも土日はほとんどさきちゃんと会うことはできなくなるだろう。院生研修があるからだ。
 それだけじゃない。そのままさきちゃんは私の手が届かないくらい遠くへ行ってしまうかもしれない。そんな気がする。
「ふぅー……」
 深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。不安な気持ちに押し潰されるな、私。
 少年少女囲碁大会では3位だった。哲さんにも互先で勝つことができた。
 それがもしたまたまだったとしても、今度もまたその奇跡を起こせばいいだけのことだ。
 さきちゃんだって、絶対受かると言ってくれた。だから、きっと大丈夫だ。


「それでは、こちらの部屋へどうぞ。
 すでに院生師範の先生がお待ちになっています」
 エレベーターから降りると、受付の人は私を試験の部屋まで連れて行き、そう言った。どうやら案内はここまでらしい。
「ありがとうございます」
 お礼を言ってその部屋に入ると、眼鏡をかけた細身の男性が椅子に腰かけていた。
 おそらく40代くらいで少々陰のある印象を受けるけれど、いわゆるイケメンの部類に入ると思う。
 なんというか、あれだ。少女漫画で女子生徒と禁断の恋に落ちる先生みたいな感じだ。
 ……いや、そういう漫画を読んだことがあるわけじゃないけど。イメージね、イメージ。

「こんにちは。雨宮かさねくんだね? どうぞそちらの席におかけなさい」
「あ、すみません……。失礼します」
 ノックも挨拶もなしに部屋に入ったのは失敗だったかもしれない。
 扉を開けてすぐ目の前に先生がいるとは思ってなかったのだ。こういう悪印象も試験に影響するんだろうか。
 私は促されるまま椅子に腰かける。先生とは正面に向き合う形となり、間には碁盤と碁笥の置かれた机があった。
 試験の部屋が洋室なのは少々意外だ。和室で正座をしながらするものかと思っていた。
 椅子もパイプ椅子や安物の椅子ではなく、お父さんの書斎にあるようなしっかりした硬い椅子でなんとなく落ち着かない。
 でも少年少女囲碁大会のときも3位決定戦まで含めてホールで対局したっけ。
 尤も決勝戦は和室の部屋で行われたようだけど、どう使い分けてるのかな。
 ――っと、いけないいけない。"細かいこと"を気にし過ぎるのは私の悪い癖だ。


「僕は院生師範の大林学(おおばやしまなぶ)だ。
 一応プロ棋士としては七段で打たせてもらっている。よろしく頼むよ」
「は、はい! よろしくお願いします……」
 大林と名乗った先生は私が提出したものとみられる志願書を片手に柔和な表情を浮かべた。
「そんなに緊張しなくていいよ。
 君は去年の少年少女囲碁大会で3位だったんだろう? それなら実力は十分だ」
「あ、はい……。でも、準決勝ではさきちゃん相手に散々な結果で……。
 3位決定戦もなんとか勝てたって感じなので、結果にふさわしい実力があるかは――」
「はは、君は随分謙虚なんだね。それとも本当に自信がないのかな。
 前者ならいいが後者なら、もっと堂々とするべきだ。
 でなければ、君に負けた相手にも失礼だし、これから先厳しい世界で勝ち抜いていくことはできないだろうからね」