カウンターからは千鶴子さんが呆れたようにこちらを見つめていた。
しばらくして落ち着いた頃、哲さんは「よくやったな、さきちゃん」と褒め言葉を口にしながらもこう続けた。
「けどよ、手の内を知り尽くした相手と打っているばかりじゃ、井の中の蛙ってもんだぜ。
さきちゃんやかさちゃんほどの実力があるなら、こんなちんけな碁会所だけじゃなく、もっと広い世界を見るべきだ」
「……私も、ですか?」
意外だった。そりゃ私も少しは強くなっていると思うけれど、今は哲さんやさきちゃんとは二子の置き碁で戦っている。
とてもじゃないけど、その差が埋まるようなビジョンは見えないし、ましてやこの碁会所以外の場所で通用するほどの力があるとは思えなかった。
「いやいや、そんな風に思ってしまうことこそ、広い世界を知らない証拠さ。
はっきり言おう。俺から見れば、さきちゃんもかさちゃんも同じくらいの天才だ。
自分では気付いてないかもしれないが、かさちゃんだってもうそんじょそこらのアマチュアには負けねえよ。
アマチュアの段位で言えば六、七段ってところか。たった4年でここまで強くなったのは紛れもない才能だ」
「……………………」
さすがに贔屓目が過ぎるのではないだろうか。
そうは思っても、この碁会所では今の私より強いお客さんはさきちゃん以外他にいないのだから、哲さんの言葉を信じるほかないだろう。
それに何より哲さんはお世辞で人を褒めるようなタイプじゃない。だからこそ、きっとその褒め言葉は真実なのだろう。
「――と同時にだ。ふたりとも真の強者と巡り会っちゃいねえ。
俺にはもうふたりに教えられることはほとんど残ってねえんだ。これ以上、ここで打っていても更なる成長は望めないだろう。
そこでだ。こんな大会があるんだが、ふたりとも参加してみねえか?」
そう言って哲さんは棚からチラシを取り出して私たちに見せてくれた。そこには「少年少女囲碁大会」と書かれていた。
「大会、ですか……?」と私は訊ねた。
「おっと、ただの大会じゃねえぞ。全国大会だ。
各都道府県から予選で勝ち抜いた小中学生たちがしのぎを削るのさ。
ふたりが参加するなら小学生の部だな。そこで優勝すりゃあ小学生名人の栄誉が手に入るのさ」
「んー、でも私はかさちゃんや碁会所のみんなと打ってるだけで幸せだから。
名人なんて別に興味ないかなあ……」
……それは私だってその通りだ。ここでみんなと、さきちゃんと哲さんと碁を打てれば他に何も要らない。
だけど、私は自分の力を試したい。ふたりに追い付くために勉強してきた結果がどこまで通用するのか知りたい。
「私はその大会に参加しようと思います。
私も優勝なんて興味ないし、そもそもそんな力はないと思うけど、私は大海を知りたいです!」
「そうか! よく言った、かさちゃん!」
哲さんは力強く私の背中を押してくれた。少し痛かったけど、その分だけ勇気をもらえた。
さきちゃんはじっと私の瞳を覗き込んでくる。……一緒に来てくれないだろうか。
私は黙ったままさきちゃんの瞳を見つめ返す。相手に甘えるような願いを口にできるほど、私は正直者じゃない。
だけど、私の想いが通じたかのように、さきちゃんは口を開いてくれた。
「大会だけに?」
「………………はい?」
「大会!! だけに!!!??」
「聞こえなかったわけじゃないから」
そして大海、……もとい大会の東京都予選の日がやってきた。
日本棋院という会場につくと、入り口には「少年少女囲碁大会」という看板が掲げてあり、そこを抜けるとすぐに受付があった。
……受付と言っても、申し込みは事前に済ませてあるし、名前を告げて名札や対局の組み合わせ表を受け取るだけだ。
そして階段を上り2階に到着すると、選手の子供や付き添いの大人たちが大勢集まっていた。
初めて来る場所だから迷わないか心配だったけど、それは全くの杞憂だったようだ。
「わあ、ここにいる子たち、みんな参加者なのかな?」
「どうかな。兄弟の付き添いとかもあると思うけど。
そういうさきちゃんだって別に付き添いだけでもよかったのに」
「つれないなあ。せっかく来たんだから私だって参加したいよ」
結局、さきちゃんも一緒に来てくれて、この大会に参加することになった。
なんだかんだ言って彼女もノリノリで楽しそうにしている。緊張とかしないのかな。
ちなみにもちろん、それぞれのお母さんも保護者としてついてきている。
お母さんが応援してくれてるのはありがたい。お父さんは大会に出るって言ったら、ちょっと渋い顔をしていたけれど。
……学校の成績が下がってるのを気にしているらしい。でも今は勉強よりも囲碁に打ち込みたいな。
そんなお母さんを横目で見ると、さきちゃんのお母さんと楽しそうに談笑していた。
対局開始まで、まだ時間はある。暇を持て余した私は視線を落として手に持った組み合わせ表を確認する。
小学生の部東京都予選では4人の代表者が本戦に進出できるらしい。
参加者がいくつかのリーグに分かれ、その結果により代表者が決まる。
なおリーグ戦全勝者が5人以上いた場合は、勝ち抜けの変則トーナメントで4人に絞られるようだ。
他にもいろいろ細かいルールが書いてあるけれど、いずれにせよ本戦に進むにはたった一敗でも命取りになりかねないということだ。
……さきちゃんとは少なくともリーグ戦では当たらない。上手くいけばふたりとも本戦出場の可能性もある。
さきちゃんにはとても勝てる気がしないというのもあるけれど、そんな夢を見られるというのが一番ありがたかった。
時間になると、審判長だというおじさんが現れて挨拶をした。緊張し過ぎて正直なところ何を話していたかはよく覚えていない。
気が付けば開始の合図があり、それぞれ指定された席に座って対局を始めることとなった。
対局の前に何か一言交わそうかとも思ったけど、さきちゃんの席は遠く離れていた。
でも近くにいたら気になっちゃうから、こっちのほうがいいかな。
私は名札に書かれた番号と机の上に置かれた紙に書かれた番号を見比べながら、指定の席に座る。
正面に座っている私の対局相手はちょっとスポーツ少年みたいな気が強そうな男の子だった。
学年は私と同じ6年生か、あるいは5年生だろう。名札にも組み合わせ表にも学年までは書かれていなかったから正確には分からない。
さきちゃん以外の同世代の子と打つのはこれが初めてだ。大丈夫かな、勝てるかな……。
――――――――。
ちっ、初戦の相手は女かよ。かさねって名前の時点でそうだとは思ったけどよ。
別に女だからって舐めてるわけじゃない。むしろその逆だ。
女でも強い奴は強いし、もしかしたら負けるかもしれない。油断したら駄目だ。
小学1年生の頃から囲碁を始めて2年前、つまり4年生の頃には都代表にもなったし、自分が強いという自信はある。
だからこそ、そんな俺がいきなり初戦で女に負けたらめちゃくちゃかっこ悪いじゃねえか。
もちろん負けていい対局なんてひとつもない。けど、ここは絶対に負けたくないな。
しばらくして落ち着いた頃、哲さんは「よくやったな、さきちゃん」と褒め言葉を口にしながらもこう続けた。
「けどよ、手の内を知り尽くした相手と打っているばかりじゃ、井の中の蛙ってもんだぜ。
さきちゃんやかさちゃんほどの実力があるなら、こんなちんけな碁会所だけじゃなく、もっと広い世界を見るべきだ」
「……私も、ですか?」
意外だった。そりゃ私も少しは強くなっていると思うけれど、今は哲さんやさきちゃんとは二子の置き碁で戦っている。
とてもじゃないけど、その差が埋まるようなビジョンは見えないし、ましてやこの碁会所以外の場所で通用するほどの力があるとは思えなかった。
「いやいや、そんな風に思ってしまうことこそ、広い世界を知らない証拠さ。
はっきり言おう。俺から見れば、さきちゃんもかさちゃんも同じくらいの天才だ。
自分では気付いてないかもしれないが、かさちゃんだってもうそんじょそこらのアマチュアには負けねえよ。
アマチュアの段位で言えば六、七段ってところか。たった4年でここまで強くなったのは紛れもない才能だ」
「……………………」
さすがに贔屓目が過ぎるのではないだろうか。
そうは思っても、この碁会所では今の私より強いお客さんはさきちゃん以外他にいないのだから、哲さんの言葉を信じるほかないだろう。
それに何より哲さんはお世辞で人を褒めるようなタイプじゃない。だからこそ、きっとその褒め言葉は真実なのだろう。
「――と同時にだ。ふたりとも真の強者と巡り会っちゃいねえ。
俺にはもうふたりに教えられることはほとんど残ってねえんだ。これ以上、ここで打っていても更なる成長は望めないだろう。
そこでだ。こんな大会があるんだが、ふたりとも参加してみねえか?」
そう言って哲さんは棚からチラシを取り出して私たちに見せてくれた。そこには「少年少女囲碁大会」と書かれていた。
「大会、ですか……?」と私は訊ねた。
「おっと、ただの大会じゃねえぞ。全国大会だ。
各都道府県から予選で勝ち抜いた小中学生たちがしのぎを削るのさ。
ふたりが参加するなら小学生の部だな。そこで優勝すりゃあ小学生名人の栄誉が手に入るのさ」
「んー、でも私はかさちゃんや碁会所のみんなと打ってるだけで幸せだから。
名人なんて別に興味ないかなあ……」
……それは私だってその通りだ。ここでみんなと、さきちゃんと哲さんと碁を打てれば他に何も要らない。
だけど、私は自分の力を試したい。ふたりに追い付くために勉強してきた結果がどこまで通用するのか知りたい。
「私はその大会に参加しようと思います。
私も優勝なんて興味ないし、そもそもそんな力はないと思うけど、私は大海を知りたいです!」
「そうか! よく言った、かさちゃん!」
哲さんは力強く私の背中を押してくれた。少し痛かったけど、その分だけ勇気をもらえた。
さきちゃんはじっと私の瞳を覗き込んでくる。……一緒に来てくれないだろうか。
私は黙ったままさきちゃんの瞳を見つめ返す。相手に甘えるような願いを口にできるほど、私は正直者じゃない。
だけど、私の想いが通じたかのように、さきちゃんは口を開いてくれた。
「大会だけに?」
「………………はい?」
「大会!! だけに!!!??」
「聞こえなかったわけじゃないから」
そして大海、……もとい大会の東京都予選の日がやってきた。
日本棋院という会場につくと、入り口には「少年少女囲碁大会」という看板が掲げてあり、そこを抜けるとすぐに受付があった。
……受付と言っても、申し込みは事前に済ませてあるし、名前を告げて名札や対局の組み合わせ表を受け取るだけだ。
そして階段を上り2階に到着すると、選手の子供や付き添いの大人たちが大勢集まっていた。
初めて来る場所だから迷わないか心配だったけど、それは全くの杞憂だったようだ。
「わあ、ここにいる子たち、みんな参加者なのかな?」
「どうかな。兄弟の付き添いとかもあると思うけど。
そういうさきちゃんだって別に付き添いだけでもよかったのに」
「つれないなあ。せっかく来たんだから私だって参加したいよ」
結局、さきちゃんも一緒に来てくれて、この大会に参加することになった。
なんだかんだ言って彼女もノリノリで楽しそうにしている。緊張とかしないのかな。
ちなみにもちろん、それぞれのお母さんも保護者としてついてきている。
お母さんが応援してくれてるのはありがたい。お父さんは大会に出るって言ったら、ちょっと渋い顔をしていたけれど。
……学校の成績が下がってるのを気にしているらしい。でも今は勉強よりも囲碁に打ち込みたいな。
そんなお母さんを横目で見ると、さきちゃんのお母さんと楽しそうに談笑していた。
対局開始まで、まだ時間はある。暇を持て余した私は視線を落として手に持った組み合わせ表を確認する。
小学生の部東京都予選では4人の代表者が本戦に進出できるらしい。
参加者がいくつかのリーグに分かれ、その結果により代表者が決まる。
なおリーグ戦全勝者が5人以上いた場合は、勝ち抜けの変則トーナメントで4人に絞られるようだ。
他にもいろいろ細かいルールが書いてあるけれど、いずれにせよ本戦に進むにはたった一敗でも命取りになりかねないということだ。
……さきちゃんとは少なくともリーグ戦では当たらない。上手くいけばふたりとも本戦出場の可能性もある。
さきちゃんにはとても勝てる気がしないというのもあるけれど、そんな夢を見られるというのが一番ありがたかった。
時間になると、審判長だというおじさんが現れて挨拶をした。緊張し過ぎて正直なところ何を話していたかはよく覚えていない。
気が付けば開始の合図があり、それぞれ指定された席に座って対局を始めることとなった。
対局の前に何か一言交わそうかとも思ったけど、さきちゃんの席は遠く離れていた。
でも近くにいたら気になっちゃうから、こっちのほうがいいかな。
私は名札に書かれた番号と机の上に置かれた紙に書かれた番号を見比べながら、指定の席に座る。
正面に座っている私の対局相手はちょっとスポーツ少年みたいな気が強そうな男の子だった。
学年は私と同じ6年生か、あるいは5年生だろう。名札にも組み合わせ表にも学年までは書かれていなかったから正確には分からない。
さきちゃん以外の同世代の子と打つのはこれが初めてだ。大丈夫かな、勝てるかな……。
――――――――。
ちっ、初戦の相手は女かよ。かさねって名前の時点でそうだとは思ったけどよ。
別に女だからって舐めてるわけじゃない。むしろその逆だ。
女でも強い奴は強いし、もしかしたら負けるかもしれない。油断したら駄目だ。
小学1年生の頃から囲碁を始めて2年前、つまり4年生の頃には都代表にもなったし、自分が強いという自信はある。
だからこそ、そんな俺がいきなり初戦で女に負けたらめちゃくちゃかっこ悪いじゃねえか。
もちろん負けていい対局なんてひとつもない。けど、ここは絶対に負けたくないな。