それに材料が何かは分からないけれど、少なくともこの石はプラスチックなんかじゃない。仮に補充するとしても結構な値段になるはずだ。
哲さんは笑いながら、さきちゃんの妄言を否定した。
「まあ、持って帰られちゃ困るが、こうして取り上げた石は終局時に相手の陣地を埋めるものになる。
それまでは碁笥の蓋の上に置いて大事にとっておくもんだ。
……とまあ、いろいろ説明したが、大人でもなかなか1回じゃ理解し切れないもんだ。
まずは9路盤で石取りゲームをしよう。陣地の広さじゃなくて、取った石の多さで勝ちが決まるルールだ。
もし途中で分からないことがあったら俺が教えてやるから、まずはさきちゃんとかさねちゃんで対局してごらん」
その言葉を受けて千鶴子さんが小さな碁盤を持ってきてくれた。これが9路盤というやつだろう。
それを19路の碁盤の上に置いてもらって、私とさきちゃんは向かい合うように座り直した。
それから私たちはその小さな碁盤で何度もゲームを繰り返した。
初めは分からないことばかりだったけど、哲さんが丁寧に教えてくれるおかげで、なんとかゲームは成立しているようだった。
勝敗はと言えば、勝ったり負けたりでどっちが強いのかはよく分からなかった。
だけど、私は勝ち負けよりもさきちゃんと一緒に遊べるのが何より嬉しかった。
それから次の日も、また次の日も、私たちは哲さんの碁会所に通い詰めた。
気が付けば囲碁というゲームのことについて学ぶ時間が日課のようになっていた。
学校のない日には一日中ずっと遊んでいることさえあったが、哲さんも千鶴子さんも、他のお客さんたちも温かく見守ってくれた。
さきちゃんなんか学校の授業中にも囲碁の本をこっそり読んでて、先生に叱られるくらい熱中していた。
しかし、それはとても穏やかでとても幸せな時間だった。ずっとずっとこんな風に過ごしていられたらいいのになと思った。
だけど、私は、――いや私たちは少しずつ異変に起きていることに気が付いた。
それは最初の一ヶ月で石取りゲームを卒業して本格的に囲碁を始めた頃から感じ始めた違和感だ。
私はたまたま調子が悪くて連敗しただけだと、自分に言い聞かせていた。
しかし、そんな"偶然"はいつまでも続いて、やがて"必然"になっていった。
そんな日々が2年も続いて小学4年生になった頃、違和感は隠しようがなくなった。
いつの間にか私はまるでさきちゃんに歯が立たなくなっていたのだ。そう、もはや認めざるを得ないだろう。
――早川さきは天才だった。哲さんが言うには彼女の実力はすでにアマチュアの高段者クラスになっているらしい。
一方で私も有段者クラスにはなっているらしいけど、なかなかその実感は持てない。
だって、さきちゃんは私よりもずっと強くなっているんだから。その差はもはや歴然だった。
だけど、私はだんだんとさきちゃんに勝てなくなっていった初めの頃には、置き石、――つまりハンデなしの勝負にこだわっていた。
同じタイミングで囲碁を覚えたさきちゃんにハンデをもらうだなんて私のプライドが許さなかった。
でも、ある日私はふと気が付いた。
私が落ちものパズルで勝ち続けて「ハンデをあげようか」と提案したとき、彼女は嫌な顔なんてひとつもしなかったってことに。
むしろ彼女は「かさちゃんは強いからなあ」って笑いながらそれを受け入れてくれた。
今にして思えば内心は嫌な気持ちだったのかもしれない。誰だって負けるのは悔しいし、情けをかけられたらもっと悔しい。
しかし、もしそうだとしても、それを表に出さない程度に彼女は大人だったのだ。
それに比べたら私は意地っ張りな子供だった。そのくせさきちゃんのほうが精神が幼いってどこかで見下していた。
そんな最低な気持ちが心の中にあると気付いたとき、私は吹っ切れた。変なプライドは捨てることにしたのだ。
それから私は彼女と打つときは置き石をもらうことにした。今じゃ私のほうが格下なのだから当然のことだった。
……いや、それは私だけのことじゃない。
碁会所の他のお客さんたちも、みんなさきちゃんには敵わなくなっていた。……唯一、哲さんを除いては。
そして今、さきちゃんは真剣な顔をして哲さんと碁を打っている。
いや、真剣な顔というのは私の想像だ。私は別のお客さんと碁を打っている最中で、彼女には背を向けているので、その表情を窺い知ることはできない。
だけど、彼女はいつだって真剣に碁を打っているから、きっと今もそんな様子だろうと思ったのだ。
「ふーむ、ここはどうしたもんかねえ……」
ときどき聞こえてくるぼやき声は哲さんのものでさきちゃんはずっと無言だった。
その代わり、哲さんが石を打つとすぐに別の大きな石音が聞こえてくる。さきちゃんが打つ石音は実に威勢が良かった。
それに彼女はとても早打ちだ。それにつられて哲さんも早打ちになるものだから、私が一局打ち終えるまでに彼女たちは二、三局打ち終えることもざらにあった。
「かさちゃんは長考派だねえ」
「あ、すみません! 打つのが遅くて……」
私は対局相手のおじさんに促されて、慌てて次の一手をぱちりと着手した。
普段から私は考え込みがちなほうだけど、さきちゃんの様子が気になっていたせいもあって余計に長い間おじさんを待たせてしまっていたようだ。
しかし、おじさんは申し訳なさそうに笑いながら、
「悪い、悪い。急かしたわけじゃないんだ。
かさちゃんくらいの年頃の子は早打ちが多いからね。しっかり時間を使って考えられるなんて立派なもんだと思ったんだよ」と褒めてくれた。
でも、遅くて弱いよりは早くて強いほうがいいんじゃないだろうか。それに考えてると言ったって、私の場合はただ悩んで手が止まっているだけだ。
――そのとき背後から「負けました」と呟く声がした。どうやらさきちゃんが本日二局目の碁を投了したらしい。
それは互先(ハンデなしの勝負)ではなく置き石ありの勝負だった。もちろん置き石を貰っているのはさきちゃんのほうだ。
置き石の数は三子、つまりさきちゃんは初めから盤面にみっつの黒石を置いた状態からスタートしたのである。
通常互先では黒番のほうが先に打ち始めるけど、置き碁の場合は先に打ち始めるのは白番と決まっている。つまり今回の場合哲さんのほうだ。
そして一子の価値は、段級位の差に置き換えると1段階の差ということになる。
つまり初段の人が三段の人と対局するなら、二子を置くのが適正なハンデということだ。級位者と段位者の対局だと少しややこしいけど、1級の人は二段の人に二子を置かせてもらうことになる。
それにしても、さきちゃんはすでに高段者、――アマ五段くらいの力はあるということだから、そんな彼女に勝った哲さんはアマ八段くらいの力があることになる。
現在の規定では、アマチュアの段級位は八段が最高位なので哲さんはアマのトップクラスの実力者ということだ。
いや、もっと厳密に言えばほとんどプロと変わらないくらいかもしれない。私はようやく哲さんの凄さを実感するようになってきた。
哲さんは笑いながら、さきちゃんの妄言を否定した。
「まあ、持って帰られちゃ困るが、こうして取り上げた石は終局時に相手の陣地を埋めるものになる。
それまでは碁笥の蓋の上に置いて大事にとっておくもんだ。
……とまあ、いろいろ説明したが、大人でもなかなか1回じゃ理解し切れないもんだ。
まずは9路盤で石取りゲームをしよう。陣地の広さじゃなくて、取った石の多さで勝ちが決まるルールだ。
もし途中で分からないことがあったら俺が教えてやるから、まずはさきちゃんとかさねちゃんで対局してごらん」
その言葉を受けて千鶴子さんが小さな碁盤を持ってきてくれた。これが9路盤というやつだろう。
それを19路の碁盤の上に置いてもらって、私とさきちゃんは向かい合うように座り直した。
それから私たちはその小さな碁盤で何度もゲームを繰り返した。
初めは分からないことばかりだったけど、哲さんが丁寧に教えてくれるおかげで、なんとかゲームは成立しているようだった。
勝敗はと言えば、勝ったり負けたりでどっちが強いのかはよく分からなかった。
だけど、私は勝ち負けよりもさきちゃんと一緒に遊べるのが何より嬉しかった。
それから次の日も、また次の日も、私たちは哲さんの碁会所に通い詰めた。
気が付けば囲碁というゲームのことについて学ぶ時間が日課のようになっていた。
学校のない日には一日中ずっと遊んでいることさえあったが、哲さんも千鶴子さんも、他のお客さんたちも温かく見守ってくれた。
さきちゃんなんか学校の授業中にも囲碁の本をこっそり読んでて、先生に叱られるくらい熱中していた。
しかし、それはとても穏やかでとても幸せな時間だった。ずっとずっとこんな風に過ごしていられたらいいのになと思った。
だけど、私は、――いや私たちは少しずつ異変に起きていることに気が付いた。
それは最初の一ヶ月で石取りゲームを卒業して本格的に囲碁を始めた頃から感じ始めた違和感だ。
私はたまたま調子が悪くて連敗しただけだと、自分に言い聞かせていた。
しかし、そんな"偶然"はいつまでも続いて、やがて"必然"になっていった。
そんな日々が2年も続いて小学4年生になった頃、違和感は隠しようがなくなった。
いつの間にか私はまるでさきちゃんに歯が立たなくなっていたのだ。そう、もはや認めざるを得ないだろう。
――早川さきは天才だった。哲さんが言うには彼女の実力はすでにアマチュアの高段者クラスになっているらしい。
一方で私も有段者クラスにはなっているらしいけど、なかなかその実感は持てない。
だって、さきちゃんは私よりもずっと強くなっているんだから。その差はもはや歴然だった。
だけど、私はだんだんとさきちゃんに勝てなくなっていった初めの頃には、置き石、――つまりハンデなしの勝負にこだわっていた。
同じタイミングで囲碁を覚えたさきちゃんにハンデをもらうだなんて私のプライドが許さなかった。
でも、ある日私はふと気が付いた。
私が落ちものパズルで勝ち続けて「ハンデをあげようか」と提案したとき、彼女は嫌な顔なんてひとつもしなかったってことに。
むしろ彼女は「かさちゃんは強いからなあ」って笑いながらそれを受け入れてくれた。
今にして思えば内心は嫌な気持ちだったのかもしれない。誰だって負けるのは悔しいし、情けをかけられたらもっと悔しい。
しかし、もしそうだとしても、それを表に出さない程度に彼女は大人だったのだ。
それに比べたら私は意地っ張りな子供だった。そのくせさきちゃんのほうが精神が幼いってどこかで見下していた。
そんな最低な気持ちが心の中にあると気付いたとき、私は吹っ切れた。変なプライドは捨てることにしたのだ。
それから私は彼女と打つときは置き石をもらうことにした。今じゃ私のほうが格下なのだから当然のことだった。
……いや、それは私だけのことじゃない。
碁会所の他のお客さんたちも、みんなさきちゃんには敵わなくなっていた。……唯一、哲さんを除いては。
そして今、さきちゃんは真剣な顔をして哲さんと碁を打っている。
いや、真剣な顔というのは私の想像だ。私は別のお客さんと碁を打っている最中で、彼女には背を向けているので、その表情を窺い知ることはできない。
だけど、彼女はいつだって真剣に碁を打っているから、きっと今もそんな様子だろうと思ったのだ。
「ふーむ、ここはどうしたもんかねえ……」
ときどき聞こえてくるぼやき声は哲さんのものでさきちゃんはずっと無言だった。
その代わり、哲さんが石を打つとすぐに別の大きな石音が聞こえてくる。さきちゃんが打つ石音は実に威勢が良かった。
それに彼女はとても早打ちだ。それにつられて哲さんも早打ちになるものだから、私が一局打ち終えるまでに彼女たちは二、三局打ち終えることもざらにあった。
「かさちゃんは長考派だねえ」
「あ、すみません! 打つのが遅くて……」
私は対局相手のおじさんに促されて、慌てて次の一手をぱちりと着手した。
普段から私は考え込みがちなほうだけど、さきちゃんの様子が気になっていたせいもあって余計に長い間おじさんを待たせてしまっていたようだ。
しかし、おじさんは申し訳なさそうに笑いながら、
「悪い、悪い。急かしたわけじゃないんだ。
かさちゃんくらいの年頃の子は早打ちが多いからね。しっかり時間を使って考えられるなんて立派なもんだと思ったんだよ」と褒めてくれた。
でも、遅くて弱いよりは早くて強いほうがいいんじゃないだろうか。それに考えてると言ったって、私の場合はただ悩んで手が止まっているだけだ。
――そのとき背後から「負けました」と呟く声がした。どうやらさきちゃんが本日二局目の碁を投了したらしい。
それは互先(ハンデなしの勝負)ではなく置き石ありの勝負だった。もちろん置き石を貰っているのはさきちゃんのほうだ。
置き石の数は三子、つまりさきちゃんは初めから盤面にみっつの黒石を置いた状態からスタートしたのである。
通常互先では黒番のほうが先に打ち始めるけど、置き碁の場合は先に打ち始めるのは白番と決まっている。つまり今回の場合哲さんのほうだ。
そして一子の価値は、段級位の差に置き換えると1段階の差ということになる。
つまり初段の人が三段の人と対局するなら、二子を置くのが適正なハンデということだ。級位者と段位者の対局だと少しややこしいけど、1級の人は二段の人に二子を置かせてもらうことになる。
それにしても、さきちゃんはすでに高段者、――アマ五段くらいの力はあるということだから、そんな彼女に勝った哲さんはアマ八段くらいの力があることになる。
現在の規定では、アマチュアの段級位は八段が最高位なので哲さんはアマのトップクラスの実力者ということだ。
いや、もっと厳密に言えばほとんどプロと変わらないくらいかもしれない。私はようやく哲さんの凄さを実感するようになってきた。